Semua Bab ラブパッション: Bab 71 - Bab 80

94 Bab

第71話

「それから、夏帆ちゃん。これあげておく」「え?」瀬名さんが、上着の胸ポケットから指先で摘まみ出したものを、私の胸元にスッと挿し込んでくる。「んっ……。え?」なにかがチクッとして、私はぼんやりと胸元を見下ろした。だけど、それがなにか確認する間もなく……。「お。いいところに、お迎えだ」そんな声が耳をくすぐると同時に、私を支えてくれていた瀬名さんの腕がフッと離れた。軽くトンと背中を押され、前につんのめる私を、「っ、椎葉さんっ!」前方から近付いてきた人が、腕を伸ばして支えてくれた。抱き止めてもらったことに気付き、私はハッと息をのむ。「あとはよろしく、優」瀬名さんの歌うような声が、頭の中に木霊した。「っ、えっ!?」一拍分の間の後、私はひっくり返った声をあげた。勢いよく振り仰ぐと、すごく渋い顔をした優さんが、じっとりした目で瀬名さんを睨んでいる。彼は、「ったく」と舌打ちをした。「玲子といいお前といい、部下をダシにして俺を呼び出すのはやめろ」優さんの忌々し気な呟きに驚き、私は慌てて瀬名さんを振り返った。彼は悪びれもせず、腕組みをしてふふんと不遜に笑っている。「一も二もなく、『どこだ!?』って返してきたの、そっちだろ」瀬名さんは揶揄するように目を細め、パチパチと瞬きをしてる私に、「じゃあね」と明るい声で言った。「ここからは、優に送ってもらって」「あっ……」私の返事は聞かずに、瀬名さんはひらひらと手を振って、クルッと背を向けてしまった。そのまま私たちを残して、大きな歩幅で弾むように駆けて行ってしまう。「瀬名さ……」反射的に呼び止めようと、身を乗り出した私を、「こら」優さんが腕に力を込めて阻んだ。グッと抱き寄せられる感覚にドキッとするけど、彼はまるで苦虫を噛み潰したような表情で、私を見下ろしていた。瀬名さんから『バトンタッチ』された優さんは、千鳥足の私を荷物みたいに小脇に抱え、夜の都会を闊歩した。彼の革靴がアスファルトを打つ、カツカツという音。私のペースよりだいぶ速い。「ゆ、優さ」速いペースに、足の回転が追いつかない。かろうじて爪先でアスファルトを蹴っているような感覚しかないのに、しっかりと前に進んでいるのは、もうほとんど彼に持ち上げられているせいだろう。私を抱えたまま、無言で涼しい顔をしている優さんを、通りを行き交う人たちが、興味津々の様子で振り返っていく。「ゆ……優、さんっ! 歩け
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第72話

私の両足はしっかりと地面を踏みしめた……つもりが、膝がガクンと折れて、無様にもアスファルトにペタンと座り込んでしまった。「ほら、見ろ」と、優さんがなぜだかドヤ顔で仁王立ちしている。今、この状況もまた、人目を引いているのを感じて、私は地面に両手をついて足に力を込めた。なんとか立ち上がったものの、一歩足を踏み出した途端、グラッと傾き、よろめいてしまう。「ったく。どの口で歩けるなんて強がるんだ」呆れたような溜め息の後……。「えっ……!? きゃっ!」優さんが背を屈め、私の膝から抱え上げた。私は彼の腕にお尻をのせて座るような格好で、ふわっと浮き上がってしまう。一気に目線が高くなる覚束なさで、慌てて優さんの首に両手を回してしがみついてしまった。私の耳元で、彼がフッと吐息交じりに笑う声が聞こえる。「ほら。人目が気になるなら、俺の肩に顔伏せてくれていいから」耳を掠める、やや乾いた唇。鼓膜を直接くすぐる、低い声。『終わりにしよう』と言われてから少し時間が経ったのに、甘くリアルな既視感に、私の胸はときめいてしまう。私のことなんか放っておけばいいのに。迎えに駆けつけてくれる、優しくて過保護な『上司』に、私は報われない恋をして、身を焦がし……。やっぱり私は、どうしてもこの人が好きで堪らない。「っ」胸がきゅんと疼き、締めつけられるのを感じた。優さんに言われた通り、その肩に顔を伏せ、首に回した腕に力を込めてしまう。「あの……また迷惑かけてすみません」優さんのサラッとした髪に頬をくすぐられながら、私は殊勝な気分になって謝った。それには、「ほんとにな」と溜め息が返ってくる。「なぜ、瀬名について行った?」 咎める声に、私はゴクリと唾を飲んだ。「それは、あの……」『解放』を望まない優さんに、私ができることはないのか。その答えを瀬名さんに求めたから、だなんて、言えるわけがない。言い淀む私にもう一つ溜め息を重ねると、彼が「って……」となにか呟いた。「悪い。さっきから気になってたんだけど」「え?」私のすぐ胸元から聞こえる声に、顎を引いて返す。それと同時に、優さんが、私のフリルのカットソーの胸元に指を引っかけ、クイッと下にずらした。「きゃ、きゃあっ!?」「バカ、変な声出すな。……これ、なんだ?」優さんは、やや焦りながら私を咎め、そこからなにかを摘まみ上げた。ほんの微かだけど、胸に掠めた彼の指にドキドキしてしま
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第73話

「『Invitation』……?」私は優さんから片腕を離し、訝し気に読み上げる彼の指から、カードを抜き取った。「招待状? なんの……」暗い上に、私の視界はユラユラしていて、細かい文字に焦点が合わず判読できない。けれど、私を抱え上げて歩きながらも、優さんはしっかり読み解いたようだ。「瀬名の会社が手がけた新プロジェクトの、プレス向けお披露目パーティーだ。今週末土曜日に、青山のコンベンションセンターで行われる」「パーティー?」やや素っ気ない声に、私は思わず聞き返す。優さんは、黙って何度か頷いた。「新婚セレブカップルがターゲットの、都心一等地の新築マンション。『Luxury Urban Life』がコンセプトで、玲子がインテリアデザインを担当した」彼の声は淡々としているけど、そこに玲子さんの名が出てくるから、私はビクッと身を震わせた。「……詳しい、ですね」淀みなく趣旨を説明してくれる彼を探って、ちょっとたどたどしく言い添える。優さんは目を伏せ、「ああ」と素っ気なく相槌を打った。「俺も、玲子の『夫』として、出席を要請されてるからな」「えっ……」「……こういう公式な場では、いつもそうだ。玲子は『妻』だし、頼まれても断る理由がない。時間に都合がつけば、出席している」優さんはどこに感情があるかわからないくらい、冷静に続けたけど、私は鼓動が嫌な加速度を帯びるのを覚え、必死にカードに目を凝らした。「瀬名がどういうつもりで君に渡したかわからないが、無視していい。なんなら当日、俺から伝えておくから」私は、彼には答えず、黙って逡巡した。一緒にお酒を飲んでいる間に、瀬名さんとかわした会話を思い返す。『あの二人は、『本来あるべき姿』にも程遠い。一度ありのままを見せてやらないとわからないかな』胸に過ったその言葉に、心臓がドクッと沸き立つのを感じた。優さんが、玲子さんの『夫』として出席するパーティー。もちろんそこで、彼女をエスコートするのは優さんだ。玲子さんは瀬名さんの会社の仕事に多く携わってきたそうだから、こういう公式の場は今までもあったんだろう。もちろん瀬名さんも、二人でパーティーに出席する姿を、目にしているはず……。ドッドッと打ち鳴る胸が苦しい。だけど、瀬名さんがなにを意図して、この招待状を私にくれたか察してしまうと、そこで私が彼らを目にしてなにを感じることになるのか、そればかりが気になってし
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第74話 あるべき姿へ

梅雨の谷間の土曜日。薄曇りのどんよりした空に夕闇が漂い始めた頃、私は青山のコンベンションセンターを訪れた。お洒落で洗練された街の一等地に立つ、大きなビル。グランドエントランスの、立派な案内ボードに迎えられる。優さんから趣旨を聞いて想像していたけど、やはりなかなか大規模なパーティーのようだ。エントランスのあちらこちらにいる、招待客と思しき人たちは、男性も女性も正装。または、それに準じるフォーマルなスタイルだ。パーティーなんて初めてで、どんな格好をしたらいいかわからなかった。一応、友達の結婚式に出席する時より、ちょっとしっかり目を意識した。それでも、受付で招待状を提示してパーティー会場に入ってみて、場違いじゃないかと不安に駆られる。若きセレブカップルをターゲットにした、新築マンションプロジェクトの発表となれば、招待客もセレブ……つまり富裕層と呼ばれる人たちだ。私がこの場にそぐわず、浮いていると思うのも当然のこと。私は会場の隅っこに移動して、心細さに耐え、隠れるように身を縮めた。ほとんど縋る気分で、私をここに招待した張本人を、目を凝らして捜す。すると。「夏帆ちゃん。よかった。来てくれたか」「瀬名さん」ありがたいことに、彼の方から私を見つけてくれた。安堵のあまり、瀬名さんの顔を見上げた途端、頬の筋肉が緩んでしまう。それを、彼は見逃さない。「俺に会えて嬉しいって顔してる」相変わらず軽くからかってくるけど、私はこんな瀬名さんにも慣れた。「嬉しいですよ。お招きありがとうございます」余裕を装ってそう返すと、彼も「はは」と乾いた笑い声を漏らす。「夏帆ちゃん、いい感じに都会慣れしてきたね」「え?」「擦れてきた、っていうの?」決して褒められた気はしないけど、私は胸を広げて大きく息を吸った。「奈落の底を知れば、誰だってこうなります」「え?」華やかなパーティー会場に相応しくない、物騒な言葉を聞き拾い、瀬名さんがわずかに眉根を寄せて首を傾げた。それには、目を伏せて、「いえ」と言って誤魔化す。彼は、私を探ってなにか逡巡していたけれど、すぐに気を取り直したように背筋を伸ばした。「このパーティーの趣旨は、優から聞けた?」頭上から降ってくる質問に、私は黙って頷いて返す。「セレブの新婚カップル向けのマンションで、玲子さんがインテリアデザインをされたとか。……優さんは、玲子さんの旦那様として、出席するんで
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第75話

「でも……あんな二人なら、憧れちゃいますね」二人に見惚れる私に、瀬名さんが怪訝そうに眉間の皺を深めた。内情を知っている私と瀬名さんにとって、二人の『夫婦』の姿はまやかしだ。でも、こうも完璧に装われると、なにが嘘でなにが真実か、私の常識は百八十度覆されてしまう。「私たちから見たら茶番でも。二人の心が通じ合ったら、きっと、誰もが羨むカップルになれます」そんな言葉に、私は決意を込める。そのニュアンスを察したのか、瀬名さんがハッと息をのんだ。「夏帆ちゃん? 君はなにを……」彼が声を潜めて探りかけてきた時。「明彦。……あら、椎葉さん?」わりとすぐ近くで、玲子さんの声が聞こえた。反射的にその方向に顔を向けると、訝しげに首を傾げる玲子さんと、その隣で眉を曇らせる優さんが、こちらに近付いてくるのが見えた。彼の視線は、まっすぐ私に注がれる。『どうして来た?』と、咎めるような瞳から、私はそっと目を逸らした。「俺が誘った。この手のパーティーで女性連れてないと、いくら社員とはいえ寂しいからね」玲子さんに答える瀬名さんは、やっぱりおどけた口調だ。彼女は目を細めるだけで黙っている。でも、彼の玲子さんへの想いを聞いた後だと、そこに確かな皮肉とやるせなさが滲んでいるような気がした。なんだか胸がザクッと抉られるようで、キュッと唇を噛む。「どう? 優。お前と玲子に負けないくらい、俺と夏帆ちゃんもお似合いだろ?」瀬名さんは、優さんに視線を投げ、反応を確認しようとしていた。グイと肩を抱き寄せられ、思わず「きゃっ」と悲鳴をあげる。一度軽く睨んでから、瀬名さんと同じ方向に目線を流した。優さんはピクリと眉尻を上げただけで、なにも言わない。玲子さんは唇を引き結んだ後、ニッコリと麗しい笑みを浮かべた。「そうね。まあ、悪くないんじゃないかしら。椎葉さんが、気を悪くしなきゃいいけど」そううそぶく彼女の本心は、どこにあるかわからないけど。私は意を決して、グッと顎を上げた。「お二人の前では、世界中どんなカップルでも敵いません」「え?」微笑みながらそう言うと、ずっと黙っていた優さんが初めて口を開いた。「椎葉さん? 君、なにを……」玲子さんに腕を取られたまま、無意識といった感じで私の方に一歩踏み出す。玲子さんがそれに気付き、「優」と叱責するみたいに呼び止める。彼はハッとしたように、肩越しに彼女を見下ろした。誰から見ても完璧な『
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第76話

会場にいたのはほんの短い時間なのに、その間に、都会はすっかり闇を深めていた。ただでさえ履き慣れていないピンヒール。アスファルトを上手く走れなくて、私はコンベンションセンターから十数メートル駆け出したところで足を止めた。バクバクと跳ね上がる胸に手を当て、お腹の底から太い溜め息を吐いてから、俯き加減でトボトボと歩き出す。広い交差点で赤信号に捕まり、人混みの一番後ろに並んだ。私の周りを囲む人々の喧騒が、意識から遠のいていくような気がする。信号が青に変わり、人々の群れが一斉に動き出しても、私の時間は留まったまま。その場に立ち尽くし、足を踏み出すことができずにいた。その時。「夏帆ちゃん!!」後ろから、瀬名さんの声が聞こえた。タッタッとリズミカルな足音が近付いてきて、私の真後ろで止まる。「あ~あ。……まったく、なんてことしてくれるんだよ」どこか芝居がかって大袈裟にボヤく声が、すぐ頭上から降ってくる。「夏帆ちゃんは俺と同士だから、二人をぶっ壊すの、協力してくれると思ったのに。まさか、あんなこと言ってくれちゃうとは。……はは。飼い犬に噛まれたって、こういう心境のこと言うんだろうな」瀬名さんは、こんな時でもどこか軽口で私を詰る。なにも返せず俯く私の隣に並び、「はあっ」と深い息を吐いた。「……でも」気を取り直したように言って、私の前に出て向き合う。「君の言うことも間違ってない。本来あるべき姿じゃないかもしれないけど……夫婦である優と玲子が歩み寄れたら、それが一番なのかもな……って」瀬名さんはなにか寂し気に、でも吹っ切るように言いながら、背を屈めて私を覗き込んだ。そして、驚いた様子で息をのんで言葉を切る。パチパチと瞬きをした後、背筋を伸ばしてもう一つ溜め息をつく。「……やらかしてくれたのは、夏帆ちゃんだろ。そんな、ポロポロ涙零して泣くなよ」彼はちょっと皮肉気に言って、スーツの上着から、ポケットチーフを引っ張り出した。それを、私の顔にわりと乱暴に押し当てる。「っ……」堪えきれない嗚咽が、ポケットチーフでくぐもった。それを聞き拾ったのか。「泣きたいのは、俺の方だよ」私の顔をゴシゴシ拭きながら、瀬名さんがポツリと呟く。耳をくすぐる彼の声が本当に切なげだから、私は涙を止められない。「ご、ごめ、なさ……」顔を擦る瀬名さんの手を握りしめ、声を詰まらせて謝った。わずかな間の後、「いいよ」短い言葉が返
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第77話

そうして迎えた、週明け月曜日の朝。日曜日の昼間、泣きつかれて眠り、目を覚ましてまた泣く……を繰り返して過ごしたせいで、夜はちゃんと眠れたのかわからない。窓の外で、空が白み始めると同時に起き出し、ぼんやりしたまま機械的に身支度をしてマンションを出た。まだ早朝といっていい時間のせいか、いつもの通勤路を行き交う人は少ない。普段は、じっとりと湿気を帯びた空気が肌に重く感じるけれど、この時間は幾分爽やかだ。足の踏み場が定まらないまま揺れに耐える電車も、今朝は驚くほど空いている。疲労が少なく余力を残して、電車を降りた。ただそれだけのことで、私の気持ちもほんの少し上向いた。地下の駅から地上に出て、両足を揃えてピタリと止まる。一度大きく深呼吸をしてから、オフィス街の大通りに踏み出した。頑張れ、私。うん、頑張ろう。そうやって自分を鼓舞して、なんとか気持ちを前向きに保つ。本社ビルに入ると、まだまばらなサラリーマンたちに紛れてセキュリティを抜ける。そしてエレベーターホールに辿り着き……。「あ……」先客の姿を目にして、私は思わず足を止めた。無意識の声を聞き拾ったのか、彼がこちらに顔を向ける。「夏帆……」私の名前を唇の先で呟く優さんと、宙の真ん中で視線がぶつかる。一瞬瞳が揺れそうになるのをゴクッと唾を飲んで誤魔化し、私は思い切って彼の方に歩を進めた。「おはようございます」ぎこちないとわかっているけど、なんとか笑顔で挨拶をする。彼の方も、「ああ」と微笑み返してくれた。いつもオフィスで見るのと変わらない優さんにホッとして、私は彼から少し間隔を空けて立ち止まった。一番奥のエレベーターのドアが開く。先に乗り込んだ優さんが、手でドアを押さえ、私が乗るのを待ってくれる。「ありがとうございます」軽く頭を下げてお礼を言うと、私は彼と逆側の隅に身を寄せた。私と優さん、二人を乗せて、エレベーターのドアが閉まる。「今日は、やけに早いな」上昇し始めた箱の中で、彼が目を伏せて声をかけてくれた。「はい。なんとなく……目が覚めたので」眠れなかった、とは言えず、当たり障りのない返事をする。彼は言葉のまま受け取ってくれたのか、黙って何度か頷いた。オフィスのある十五階に着くまでは、短い時間だ。このまま沈黙が続いても、不自然ではなかった。なのに。「……土曜日のこと」優さんの方から、ポツリと切り出してきた。その話題に触れられるの
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第78話

それから三週間ほどして、関東地方に梅雨明けが宣言された。七月下旬。低い空にギラッギラの太陽が昇り、燦々と……いや、殺人的な日差しが、連日地球を襲う。都会の道を覆い尽くすアスファルトは焼かれ、足元から陽炎が立ち上る。上からも下からも身体が熱せられて、朝でも昼でものぼせ上がるほどだ。まだ八月に入る前だというのに、初めて経験する東京の酷暑に、私は早くもげんなりしていた。ただでさえ、失恋の傷は癒えないまま。なのに、通勤だけで無駄に体力を消耗して、一週間が終わる金曜日の午後には、もうぐったり。それなのに、優さんはいつもしっかりスーツを身に着け、自身が成約を勝ち取った取引先との正式契約に向けて、連日精力的に外出している。いつもよりバイタリティに溢れて感じるのは、やっぱりプライベートが順調なせいだろうか――。すごいな、見習わなきゃな、と思っても、やっぱり私の胸はまだまだ疼く。優さんがオフィスに不在がちで、日中もあまり姿を見ないのが、いくらか救いだ。今日は早く仕事を切り上げ、週末はゆっくりしよう。そうやってなんとか自分を奮い立たせて、残り半日、気合を保とうとした。ところが、終業間際。「帰り際に悪い! 夏帆ちゃん、これだけ最後にお願い!」外出から戻ってきた長瀬さんから、急ぎの仕事を頼まれてしまい、二時間残業することになった。午後七時半。仕事を切り上げた長瀬さんと上がりが被り、並んでオフィスを出た。いつもよりちょっと遅い時間、エレベーターは私たち二人だけ。長瀬さんは壁に凭れ、腕時計で時間を確認している。まっすぐドアの方を向いている私に、ふと、「夏帆ちゃん」と声をかけてきた。「はい?」首を傾げて返事をすると、長瀬さんは私からわずかに目線を外し、ガシガシとやや乱暴に髪を掻き回す。「いや。残業のお礼に、メシ、ご馳走しようかな~って」「え?」私が聞き返した時、エレベーターが地上に着いた。両側にドアが開くのを視界の端で見て、反射的にボタンを押し、長瀬さんに先を譲る。彼は弾みをつけて壁から身体を起こすと、私の横を過ぎて外に出た。私もその後に続く。長瀬さんは、その場で私が降りるのを待っていて、やや目の下を赤らめて見下ろしてきた。「えっと……夏帆ちゃんには一度振られてるのに、性懲りもなくて悪いけど」「あ、あの。仕事しただけですから、お気遣いなく」お断りの常套句のような返事をして、ぎこちなく笑う。「あ、
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第79話

どうしようかと逡巡して、目線を彷徨わせた。と、その時。「長瀬。椎葉さん。お疲れ様」セキュリティゲートの方から、革靴が鳴る足音と名を呼ぶ声が近付いてきて、私も長瀬さんも反射的に振り返った。「……周防さん」姿を見止めたのは同時だけど、長瀬さんが先に声をかける。私はドキッと胸を跳ね上げ、すぐに目を逸らして黙って会釈をした。優さんが軽い足取りで駆け寄ってきて、私たちの前でピタリと足を止める。「周防さん、取引先訪問の後、直帰予定だったんじゃ?」長瀬さんがそう訊ねるのを、私は伏し目がちに聞いていた。優さんが、「ああ」と応じる。「ちょっと、用があって。上に行く手間が省けてよかった」「え?」長瀬さんが、虚を衝かれたように聞き返している。だけど、優さんはそれには答えず、「椎葉さん」私の手首をグイと引いた。「っ、えっ……!?」思いがけない彼の行動に驚き、引かれるがまま、一歩踏み出してしまう。「急に、すまない。話したいことがあるんだ」驚きと戸惑いで大きく見開いた目で見上げる私に、優さんは真剣な顔でそう言った。どこか呆気に取られた様子で瞬きをしていた長瀬さんが、それを聞いてハッと我に返る。「ちょっ、周防さん。待ってくださいよ」憤慨したように、私と優さんの間に割って入る。「夏帆ちゃんは、俺が先に誘ってて……」「椎葉さんから、返事は?」「う。それを確認しようとしてたのに、周防さんが……」淡々と訊ねられた長瀬さんは、不満げながら正直に答える。それを受けて、優さんが私にちらりと視線を向けた。「長瀬と行く気がないなら、一緒に来てほしい」まるで心を探るような一言に、私はゴクッと喉を鳴らした。躊躇いなどどこにもない、まっすぐに私を射貫く力強い瞳。彼の用がなにかわからないけど、そんな真剣な目で見つめられたら、断れない。「わ、かりました」第一声を喉に引っかからせながら、私は意を決して答えた。長瀬さんがギョッと目を剥き、「夏帆ちゃん!?」と肩越しに見下ろしてくる。「よかった。じゃ、こっちに」優さんがややホッとしたように表情を和らげ、再び私の手を引いた。私は長瀬さんを回り込むようにして、優さんの前に歩み出る。彼は私の手を離し、来たばかりの道を戻っていく。私がその後を追おうと、足を踏み出すと、「っ……周防さん!」長瀬さんが、大きな一歩で優さんに追いついた。ピンと背筋を伸ばした優さんの肩を、掴んで止める。「周防さん
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第80話

長瀬さんは優さんの肩から手を離し、私を振り返る。「わ、私。東京に来てすぐの頃、周防さんご夫妻と、週末、偶然ショッピングモールで会ったことがあるんです。周防さんの奥様とは、その時知り合って」不自然じゃない出会いって?と考え、とっさに思いついた弁解をする。だけど長瀬さんは、不審そうに眉尻をピクリと上げた。「週末にショッピングモール? 残念だけど夏帆ちゃん。それはちょっと信じられない。だって……周防さんは奥さんと不仲で、週末に一緒に出かけるなんて、考えられないというか」「だ、だからそれはただの噂で。奥様も仕事が忙しいから、すれ違いみたいに言われてるだけで、本当は……」「別れたよ。玲子と」必死に取り繕おうとした私を、いつもより低い優さんの声が、素っ気なく遮った。「……え?」長瀬さんも驚いたように目を瞠り、優さんをまじまじと見つめる。私は、優さんがなにを言ったか、瞬時に理解ができなかった。その意味が解けても、すんなりと頭に入ってこなくて、口を半開きにしたまま言葉を失う。絶句する私と長瀬さんを前にして、優さんはほんの少しも表情を変えない。ただ目を伏せ、ザッと前髪を掻き上げてから、ハッと浅い息を吐いた。「妻とは正式に離婚した。長瀬、君が俺と椎葉さんのなにを疑っていようが、もう、咎められる筋合いはない」「っ……って、なんだよ、それ……」長瀬さんは、突然のことに動揺を隠せない。その上、優さんがあまりに堂々としているから、どんどん混乱が強まっていく様子だ。それは、私も同じだったけれど……。「夏帆」落ち着き払った声ではっきりと名前を呼ばれ、私の胸がドキンと跳ねた。優さんがどういうつもりなのか全然わからなくて、彼に返す視線は怯えで揺れてしまう。だけど、優さんは私の視線を受けて、ふっと目力を和らげた。頬の辺りが優しく緩むのを見て、私の鼓動は静かに加速度を強めていく。「君に、ちゃんと話したいんだ。俺と一緒に来てくれ」優さんが、再び手を差し伸べてくる。そんな仕草に、私は抗いようもない。まるで、魔法にかけられたみたいに、自分の意思がどこにあるかわからないまま、彼に導かれてしまう。「ゆ、たか、さ……」無意識に呼びかけながら、彼に手を預けた。力強く、ぎゅっと握りしめてくれる。そこから伝わる、久しぶりの温もりに、私の心臓はドクンと大きく沸き立つ。「っ、夏帆ちゃ……」金縛りにあったように固まって、呆然とし
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