Home / 恋愛 / ラブパッション / Chapter 61 - Chapter 70

All Chapters of ラブパッション: Chapter 61 - Chapter 70

94 Chapters

第61話

その夜――。昼間あんなことがあったから、夜八時の約束はキャンセルされると思っていた。なのに彼からキャンセルの連絡はなく、オフィスを出た後、待ち合わせをした私たちは、ホテルに入り……。「っ、んっ……優、さ」彼の背後でドアが閉まる音を確認できないまま、壁に押しつけるようにしてキスをされた。唇を貪る獰猛なキスに応えきれず、私の呼吸はすぐに乱れてしまう。どこか急いた優さんのキスは乱暴なだけじゃなく、いつもの余裕が感じられない。やっぱり、私との関係が玲子さんに知られたことを、本当は気にして焦ってる……?「んっ、やっ……! 優さん、待ってっ」私は必死に首を捩じり、彼の唇から逃れようとした。その方向に先回りして唇を奪う彼に、いつも通り翻弄されそうになるけれど。「ご、まかさないで、教えてっ……!」優さんの胸についた両手が震えそうなほど、力を込めた。顎を引いて唇を離し、彼との隙間で俯く。私の額の辺りで、彼がゴクッと喉を鳴らすのが聞こえた。「優さん、玲子さんのこと……」昼間と同じ質問を、最後まで口にできずに言い淀んだ。ちゃんと聞こえたはずなのに、優さんは答えを逡巡するように無言のまま。「夏帆、ベッドに行こう。今夜は泊まれる」そんな誘いではぐらかし、私の腕を強引にぐいと引っ張った。「あ」力任せに振り回され、私の足は縺れてしまう。けれど優さんは、床のカーペットに躓く私を気にすることなく、部屋のど真ん中に置かれたダブルベッドに、まっすぐに突き進んでいく。「っ……優、さんっ!!」まるで、ダンスで無理やり回転させられたみたいに、私はベッドに仰向けに転がされた。一瞬にして、目に映るものが部屋の風景から天井に変わり、ネクタイを解きながら私を組み敷く優さんが、視界を占領する。天井の照明を背に浴びた彼が、昼間のまま固く厳しい表情なのに怯み、私は小さくこくっと喉を鳴らした。でも、答えてもらえないままなし崩しに抱かれてしまったら、もうこの先疑問をぶつける機会を逸してしまう、そんな気がする。「だ、ダメ! 待って……」ギリギリまで首を捻って、唇を寄せる優さんから逃げた。いつにない抵抗を見せて手足をバタつかせる私に、優さんが小さな舌打ちをした。そして――。「俺は、これまで一度も、玲子を抱いたことはない!」顔を掠めそうになった私の手を掴んで制しながら、吐き捨てるように言った。「……え?」私は昼間から、彼の言葉をすん
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第62話

優さんは一度私を抱いた後、肩で息をしながら、私の隣に横たわった。皺を刻んだ眉間に腕を翳して隠し、乱れた呼吸で胸を上下させる。いつもなら、行為の後は、肌を合わせてぎゅうっと抱きしめてくれる。二人で鼓動を重ねるように呼吸を鎮め、情事の余韻を私に刻みつけてから、サッと切り替えて帰り支度を始める。なのに今日は、私が一人で呼吸を整えている間に、静かな寝息が聞こえてきた。さっき、『今夜は、泊まれる』と言われたことを思い出す。その理由が、昼間玲子さんから急な出張を告げられたからだと思い当たり、私はきゅっと唇を噛んだ。彼の説明は言葉足らずで、私にははっきりとした輪郭が掴み切れない。優さんは、玲子さんを愛していないのに結婚したのかもしれないし、その後も二人の夫婦関係は冷え切ったままなのかもしれない。でも、優さんはいつも、玲子さんと暮らす家に帰っていく。玲子さんがほとんど家に帰ってこなくても、一緒の空間にいることが少なくても、優さんが『大事にする』のは奥様だから――。その証拠に、今夜も彼は結婚指輪を外さない。なにか、モヤモヤする胸に手を当てて、私はそっと上体を起こした。ベッドが軋まないようにゆっくり手を突いて、優さんの穏やかな寝顔を見下ろす。玲子さんじゃなく、私を抱くくせに。あんな風に、心ごと縋るように、抱きしめるくせに。「……だったら、どうして、離婚しないの」無意識に口から漏れた独り言。心の声を自分の耳で拾って、私の心臓がドクッと沸き立った。「……っ」突如胸に込み上げてきた、なんとも説明のできない激情に動揺した。悲鳴をあげそうになって、慌てて両手で口を塞ぐ。――わからない。全然わからない、優さんの心が。本当は、何度、知りたい……と、願ったことか。でも、それを私が望んではいけない。優さんは私に嫌いになってほしいと言っているのに、想いは臨界点を越えて、限界がわからないほど膨らみ続ける。いつまでも外してくれない結婚指輪は、私の恋心へのストッパー。身体は求めてくれるのに、心は一線を越えることを拒否される。「うっ……」無理やりのみ込もうとした悲鳴が、喉につっかえてひくっと震えた。それが刺激になって、抗いようのないなにかが胸に込み上げてくる。「っ……」私は弾かれたようにベッドから降りた。足音や気配を憚る余裕もなく、バタバタとバスルームに駆け込む。シャワーのコックを捻るのと同時に、必死に閉じてい
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第63話

シャワーの水音が声を掻き消してくれたから、優さんの耳に届くことを心配せず、思いっきり泣くことができた。その反面、私の鼓膜には水音ばかりが響き、自分の声がいつの間にか嗄れていたことも、他の物音も、捉えることができなかった。身体に打ちつけるシャワーがピタリとやむ。私は、ぼんやりと顔を上げた。ぐっしょり濡れた髪からポタポタ落ちる雫の向こうに、スーツのスラックスを穿き、ワイシャツに袖を通しただけの優さんがいる。その姿を目にして初めて、眠ってるとばかり思っていた彼が、バスルームに入ってきていたことを知った。「あ……」彼は固く強張った顔をして、シャワーのコックから手を離し、裸で座り込んでいる私を見下ろす。無言のまま、頭からバスタオルをかけてくれた。私は無意識に胸元にタオルを掻き集め、身を縮めた。優さんが、スラックスが濡れるのも気にせず、私の前に片膝をついてしゃがみ込む。真正面からジッと目を合わせてくる。私は彼の瞳から逃げ、濡れたタイルの床に視線を彷徨わせた。「夏帆」彼が表情と同じくらい硬い声で私を呼んだ。大きな手が頬に触れるのを感じて、私は反射的にビクッと肩を震わせる。「……もう十年近く前の話だ。東京都内の、とある大学にね、本当に仲がいい恋人同士がいた」「え?」唐突に語り始めた優さんに戸惑い、私はおずおずと彼に視線を戻す。「あんまり仲がいいから、彼らの周りの友人たちは、二人がいずれは結婚するものと確信していた。卒業後、二人は別々の企業に就職した。男はごく普通の一般企業、女は小さなデザイン会社……お互い仕事に慣れるのも精いっぱいだったけど、そんな中でも二人は愛を育み続け、社会人四年目で、結婚することになった」彼は、まるでおとぎ話の読み聞かせでもするみたいに、淡々と、感情のこもらない口調で続ける。「その頃、インテリアデザイナーとして実績を積んできた彼女は、独立を考えて悩んでいた。彼の全面的なバックアップもあり、彼女は婚約と同時に独立を決意した。仕事もプライベートも、順風満帆。彼女の目の前に広がるのは、揺るぎない幸せへの一本道。本人も周りも、彼女の輝かしい未来を信じ、疑いもしなかった」優さんが、一度言葉を切る。彼の口調の変化に、なんだか暗雲のようなものが漂った気がして、私はこくっと喉を鳴らした。優さんが、私に向けていた目を伏せる。「ところが、彼女が仕事を退職して間もなく……彼はスキー
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第64話

「携帯の電波も繋がらない。彼の提案は至極妥当だった。だから俺は、彼をその場に残し、コースに戻った。……ところが」一番近いリフト乗り場に着く前に、山頂から『ゴーッ』と地鳴りのような音が聞こえた。優さんがハッとして振り仰ぐと、そこは真っ白な雪煙が巻き起こっていて、山の頂を目視できなかったそうだ。急いで滑り降りたおかげで、優さんが雪崩に巻き込まれることはなく、無事だった。でも、その後レスキュー隊に救助された『彼』は、搬送先の病院で亡くなった。『彼』の死に立ち会い、玲子さんは泣き崩れた。そして、呆然と立ち尽くす優さんを罵り、激しく詰った。『優なら、支えて一緒に降りるくらい、できたでしょう!? どうして置いてきたりしたの。どうして見殺しにしたの……!』愛する人を失った絶望で取り乱し、自分に向かって絶叫する玲子さんの前で、優さんはなにも言えずにうなだれるだけだった。自分自身も、親友の死に直面して、深い悲しみのどん底にいた。玲子さんに言われるまでもなく、『どうして一緒に降りてこなかったんだ』と自分を責めていたそうだ。「彼の葬儀が終わっても、玲子は仕事どころか、普通の生活すらできず、廃人のように過ごしていた。誰かが支えていなければ、玲子は潰れてしまう。だから俺は、『彼』の代わりになると誓って、彼女にプロポーズした」『俺が一生守ってやるから』――。そうして半年後、玲子さんは優さんと、『予定通り』結婚した。最初から『愛』はない。自分のせいで亡くなった親友の代わり。優さんの心にあったのは、親友への『贖罪』と『義務』、そして玲子さんへの『責任』と『憐れみ』だけ――。私は、口を挟むこともできず、ただポロポロと涙を流していた。優さんは私から目を逸らし、長い睫毛を伏せて、その先を続ける。「もともと、玲子は強い女だ。俺がなにもしなくても、自力で『彼』の死から立ち直ってくれた。それ以降は、精力的に仕事して、次々と大きな案件を成功させた。だから俺は、仕事に打ち込む彼女を見守っているつもりでいた。家に帰ってこなくても、忙しいのはいいことだなんて、放置していた。やがて……」仕事を通じて知り合った瀬名さんと、玲子さんの関係が始まった。『妻』である玲子さんに目を向けていなかった優さんが、二人の関係に気付いたのは、二人が出会ってから半年以上経ってから。初めて知った時は、優さんも愕然としたそうだけど……。「同時に
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第65話

マンションに帰り着いた途端、言いようのない孤独に襲われた。東京での生活が始まって、もうすぐ二ヵ月になる。なのに、狭い部屋で一人きりで過ごす夜の寂しさは、いつまで経っても慣れない。溶け込んでしまいそうな温もりと熱を知ってしまった身体は、『終わり』を迎えた今もなお、彼を求めて震える。求めちゃいけない。寂しがっちゃいけない。私が優さんを想っていては、彼を一層苦しめるのだ。あんなに苦しそうに『辛い』と言われてしまっては、これ以上我儘に突き進むのは、私のエゴにしかならない。それなのに。目を閉じても、耳を塞いでも、呼吸を止めても。私の五感は、惑うことなくまっすぐにベクトルを定める。――優さん。自分でも制御不能な恋心は、いったいどこから来るのか。きゅんと疼く胸をぎゅっと手で押さえた時、私の脳裏に優さんの言葉が過った。『玲子との関係から、解放されようなんて思ってない』「解放……」その言葉を、私は無意識に独り言ちていた。優さん自身は諦めている『解放』。でも、それとはまったく別のニュアンスで、私に焚きつけた人がいる。そう、最初にその言葉を手向けた瀬名さんは、私に彼を溺れさせろと言った。あの人は、玲子さんの『恋人』だから、彼の言葉をまんま信用するのは危険かもしれない。でも、もしかしたら、そこに救いがあるかもしれない。破れかぶれになってもいい。この恋で、私にまだできることがあるのなら。
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第66話 切ない片想い

気になって、頭から離れないことを言った人。だけど、これまで二度会ったのはいつも偶然で、なんとかして会いたいと思っても、私は瀬名さんの連絡先を知らない。キョウちゃんか葉子なら、LINE交換くらいしてるかと思ったのに、意外にも『それは教えてくれなかったんだよねー』という返事だった。会って対していると軟派なくせに、意外と硬派な一面を覗かせる瀬名さんという人は、やっぱり私にはイマイチ掴みどころがない。万事休す……かと思ったけど、優さんも言っていた通り東京は狭い街で、三度目の偶然はわりとすぐに訪れてくれた。六月中旬。東京に、ほぼ平年並みの梅雨入りが宣言されたその日。昼を過ぎた頃から空は厚い雲に覆われ、夕刻には狭くグレー一色の街に、ザアッと雨が降り出した。デスクで長瀬さんが持ち帰った仕事を進めていた私は、雨音を聞いてぼんやりと頬杖をついた。今朝、少し寝坊して急いで出てきたせいで、傘を持ってくるのを忘れてしまった。目線を窓の外に動かし、雨脚を確認する。終業時間までもってくれたらいいな、と思っていたけど、残念ながら無理だった。少し残業したら、帰る頃には弱まってくれるかな……。でも結局雨がやむことはなく、私は諦めて残業を切り上げ、オフィスを飛び出した。降り始めから弱まらない雨脚。バシャバシャと水溜まりを踏みながらでは、駅まで一気に走れない。私は、何棟か先のビルの玄関ポーチに、雨宿りに駆け込んだ。上がった息を整えようと、大きく胸を広げて深呼吸した時。「あれ。夏帆ちゃん。久しぶりだね」まさにそのビルから、瀬名さんが出てきた。背後から声をかけられ、一瞬素でキョトンとした後、「あっ……!」私は上擦った声をあげ、思わずにじり寄ってしまった。彼の方は、私の反応が予想外だったのか、結構わかりやすく怯み、一歩後ずさった。でも、すぐに気を取り直したようにニッコリと笑いかけてくる。「夏帆ちゃん、ずぶ濡れだね。傘、持ってないの?」私は素直に頷いた。瀬名さんは、左腕に大きな黒い傘を引っかけている。「この季節に、ドジだなあ」「あ、あの」会って話がしたい、と思っていた人との遭遇に気が逸り、ほとんど無意識に彼の方に一歩踏み出した。瀬名さんは、私が『傘に入れてほしい』と勘違いしたようで。「駅までどうぞ?」やっぱりどこかチャラい仕草で傘を掲げ、小首を傾げる。私は唇を引き結び、首を横に振った。「いえ、違うんです。あの
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第67話

瀬名さんは私に自分の上着を肩から羽織らせてくれると、たった今出てきたばかりのビルに引き返した。ビルの低層階部分は商業施設になっていて、私は瀬名さんと、エレベーターで一気にレストランフロアに上がった。ちょっと小粋な感じのバーに入り、カウンター席に並んで座る。二人揃って、ファーストドリンクはビールをオーダーした。黒いシャツのバーテンさんが、カウンターの向こうからサーブしてくれる。なんとなく社会人のお約束な気がして、グラスをカチンとぶつけて乾杯をする。私が二口飲む間に、瀬名さんは豪快にグラスを傾け、一気に半分飲み干していた。「ふうっ」とても心地よさそうな息を吐き、その豪快さに見入っていた私を、斜めの角度からジッと見据えてくる。「な、なんですか」不躾なほどの視線が居心地悪くて、私は両手でグラスを持ったまま肩を縮こめた。瀬名さんは魅惑的に目を細め、フッと微笑む。「いや。やっぱり夏帆ちゃんって可愛いなあ、と思ってね」「は、はい?」「今夜は、俺にお持ち帰りされてみない?」ギョッとして、背を逃して彼との距離を開く。私の反応に、瀬名さんは、「ジョークジョーク」と歌うように返してきた。ジョークと言われても、とても笑い飛ばせない。私は頬を膨らませて、両手でグラスを口元に運んだ。さらにゴクゴクと二口飲み、肩を動かして「ふーっ」と息を吐く。「……で? 俺と話したいことって、玲子がオフィスまで探りに行ったことと関係ある?」どうやって話を切り出そうと思っていた私に、瀬名さんは随分とあっさり見透かした上で、軽い調子で訊ねてくる。不意を衝かれてドキッと胸を跳ね上げてから、私はそっと彼に視線を向けた。「あの……どうして、それ」瀬名さんは物知り顔で口角を上げ、フフッと笑う。「俺と玲子のことは、優から聞いて知ってるんじゃないの?」逆に質問で返されて、私はグッと言葉に詰まる。そんな私の前で、彼は残り半分のビールを飲み干した。そして、空のグラスをカウンターに置くと、そこをジッと見据える。「玲子、悪い女だよな。完全に見抜いてるくせに、わざわざ『妻』の顔して夏帆ちゃんを連れ出して。それをネタに優を脅して、反応探ろうなんてさ」それにはどう答えていいかわからず、私はグイとグラスを呷ってお酒に逃げた。隣から瀬名さんが、ひゅ~っと、冷やかすような口笛を吹く。「夏帆ちゃん、意外と酒強いね。次、ブランデーボトル入れない?」瀬
last updateLast Updated : 2025-06-30
Read more

第68話

私はビールとは違って、チビチビと飲み進めた。そして、「瀬名さん。優さんに知られてるって、知ってるんですね」カウンターにグラスを置きながら、意を決して切り出した。彼が、横からちらりと目を向けてくるのを感じる。「なのにどうして、そんな平気な顔」「図太いって言いたい?」瀬名さんが、自分のグラスを揺らしながら、私をさらっと遮る。それには、「いえ」と肩を竦めた。彼が、唇をすぼめて「ふうっ」と息を吐く。「ま、なんと言ってくれてもいいよ。もちろん、互いにはっきり口に出して確認し合うような真似はしないけど……微力ながら、俺の存在は優を解放してやれてる、そう思ってる」「っ、え?」彼の返事は私には予想外で、聞き返した声がわずかに喉に引っかかった。瀬名さんはカウンターに両肘を立て、片手でグラスの縁を摘まみ持ちながら、私に向かって目を細めてふふっと笑う。「間男のくせになに言ってやがる、って思う?」「いえ……。あの、瀬名さんもご存じなんですか。二人の結婚のこと……」自虐的な問いかけに怯み、私はおずおずと訊ねた。それには、無言の頷きが何度か返ってくる。「俺と玲子の関係が始まったのも、彼女が優から得られないものを、俺に求めてきたからだからね」どこか皮肉気な呟きにドキッとして、私も彼の方に顔を向ける。玲子さんが、優さんからは得られないと思うもの。なんだろう?と疑問に思うまでもない。私の胸に、優さんから聞いた、離婚の申し出を断った時の彼女の言葉が過った。『あなたは、私を一生守ると約束したのよ。愛がなくても』――。「……瀬名さん」「俺の役目は、優の代わりに玲子を愛してやること。……誰かの代わりなんて不毛だけど、俺は玲子に惚れてるから、まあ仕方ないねえ」まっすぐ前を向き、やや顎を上げて斜に構えた感じでうそぶく。私はそんな瀬名さんの横顔に、きゅっと胸が締めつけられた。「不毛……ですよね」初めて三人が対峙するのを見たあの夜感じた、なにか歪な空気の正体が、そこに見え隠れする気がして、私は躊躇いがちに彼の言葉を繰り返した。瀬名さんは「でもねえ」と小さな溜め息をつく。「玲子の幸せの形。本来あるべき姿には、もうなにがあっても戻せない」「……え?」瀬名さんが意識的に低くした声にギクッとして、私は彼に視線を返した。彼が、わずかに口角を上げて皮肉気な笑みを浮かべる。「玲子が愛した、一生の幸せを約束した男は、この世にいない
last updateLast Updated : 2025-06-30
Read more

第69話

「優が玲子を愛してやれたら、まだ違っていたかもしれない。それが叶わないから、俺と優は、玲子にしてやれるそれぞれの役目を果たしてる。傍から見てどんなに歪だろうが、そうするしかないんだ」「……叶わない、でしょうか」「え?」思い切って言葉を挟んだ私に、瀬名さんが顔を向けて聞き返してくる。私は一度ブランデーのグラスを見つめ、両手で持ち上げて残りの液体をグッと呷った。「あ、おい」彼が止めようとしたけど、一瞬遅い。私は氷だけが残ったグラスをカウンターに置くと、肩を動かして深い息を吐いた。「瀬名さんは、玲子さんが好きなのに、自分が一生大事にしたいとは思わないんですか」私は自分でも口にするのを迷いながら問いかけ、カウンターに目を伏せた。視界の端に映った瀬名さんの指が、ピクッと震える。「え?」「不毛の一言で片付けて、これからも優さんと役目分担していくつもりですか」「………」瀬名さんは乾いた笑い声を漏らして、ブランデーを一気に飲み干した。そして、私と自分のグラスにボトルを傾け、注ぎ足してくれる。彼がやや乱暴にボトルをカウンターに置き、早速グラスを指で摘まみ上げる様を、私は横目で見遣り……。「瀬名さんの存在があるままじゃ、優さんは解放されません」「え?」ポツリと呟いた私に、彼が困惑した瞳を向けてきた。「瀬名さんが言ったように、私が優さんを溺れさせることができても……。優さんと玲子さん、夫婦二人に関わる人数が増えれば、もっともっと歪んでいきます」「……夏帆ちゃん?」訝しそうに眉根を寄せる瀬名さんには答えず、私は二杯目のブランデーのグラスに口をつけた。彼が、私からフッと目線を外して、カウンターの向こうを見据える。「俺に、玲子と別れろって言ってる?」言わんとしたことを鋭く見透かされ、私は返事に窮して口ごもった。顔から笑みを引っ込め、見たことがないくらい真剣な表情を浮かべる瀬名さんに、私はそっと横目を向ける。「夏帆ちゃんは、玲子の旦那は優だから、『元に戻すべき』って綺麗事で言ってるんだろうけど。言わせてもらうが、それはただのエゴだ」瀬名さんの瞳に確かな力が宿るのを見て、私は無意識にゴクッと喉を鳴らす。「だ、って」潤したつもりの喉に、反論の第一声がつっかえた。「優さんは、玲子さんにこれ以上なにかしてやれるのかって、苦しんでる。一からやり直そうとしても、瀬名さんがいるから踏み込めない。ただそれだけか
last updateLast Updated : 2025-06-30
Read more

第70話

「夏帆ちゃんは……」彼は自分のグラスをユラユラと揺らし、一度唇を結ぶ。「もっと心のまま、素直に突っ走ってくれると思ったんだけどなあ……」瀬名さんは鋭く目を細め、淡々とした口調で言い放った。「え?」「あの二人は、『本来あるべき姿』にも程遠い。一度ありのままを見せてやらないとわからないかな」その声の強さに、私の胸の鼓動は、確かにリズムを狂わせた。私の動揺を見透かしたのかもしれない。彼は私にちらりと横目を向けて、ふっと口角を上げ、いつもの調子で微笑んだ。そして。「夏帆ちゃん。はい、チーズ」「っ、へ?」いきなり顔の前にスマホがヌッと差し出され、同時に肩を抱き寄せられた。目を丸くしてる間に頬と頬がぶつかり、その瞬間、瀬名さんがシャッターをタップする。「はは。夏帆ちゃん。目、トロンとしちゃって。可愛いねえ~」驚いて瀬名さんに顔を向けると、彼は撮ったばかりの写真を私に見せてくれた。「な、なにしてるんですか」なんだかウキウキとスマホに指を滑らせる瀬名さんに、私はポカンとしてしまった。「別に、いいだろ? せっかく可愛い子とサシ飲みしてるんだから、記念の一枚」彼があまりにケロッとしているから、『やれやれ』という気持ちで肩を竦める。瀬名さんはスマホの操作を終えると、「さて、と」と言って私の方に向き直った。「夏帆ちゃん。そろそろ帰ろっか」「ん……え?」瀬名さんのスマホを見つめながら、ついぼんやりしていた。さっさと立ち上がる彼に、そっと目を上げる。「このまま俺がお持ち帰りしちゃっていいなら、遠慮なく」「帰ります。帰ります……」いつものチャラさを取り戻した瀬名さんに頬を膨らませて、私も椅子から腰を浮かした。床にしっかり両足を着いて、まっすぐ立ったつもりが、一瞬グラッと視界が揺れる。「おっと。一人で歩ける?」とっさに支えてくれた瀬名さんにはお礼を言って、私は意識して彼から離れた。それには彼も、「あれ」と苦笑いをする。「寄りかかるくらい、してくれていいのに」「い、いえ、大丈夫。大丈夫ですって」そんな会話を交わしながらお店を出て、地上に降りるエレベーターに乗り込む。壁に凭れてうっかり目を閉じたら、ふっと気付いた時、すぐ近くに車の騒音を感じた。「あ、あれ」このわずかな時間で、確かに意識を手放していた。いつの間にかビルの外に出て、私は雨が上がった大通りを、瀬名さんに支えられて歩いている。すぐ頭上から、ク
last updateLast Updated : 2025-06-30
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status