「千尋、よく考えなさい。このチャンスは滅多にないわ。ヴェルナ芸術学院があなたの作品を見て、名指しで入学して欲しんだよ。一度諦めたことがあったけど、もう二度と逃してほしくないのよ。しっかり考えてから返事をちょうだいね」薄暗いリビングのソファに座り、離婚届を指でそっとなぞりながら、相原千尋(あいはら ちひろ)の決意は固まった。「先生、もう決めました。おっしゃる通りです。このチャンスを無駄にはできません。ただ、少しだけ片付けなければならないことがあるので、一か月後にヴェルナへ行かせてください」「そうね、あなたがそう決めたのなら安心だわ」スマホの画面がゆっくりと消え、真っ暗になった部屋の中で千尋はぼんやりと虚空を見つめていた。その静寂を破ったのは、玄関の扉を開ける音だった。「千尋?なんで電気もつけずにいるんだ。暗い中でスマホを見ると目に悪いぞ。それにこんな時間まで起きてなくていい、先に寝てろって言ったろ?」帰宅した江藤怜(えとう れい)は千尋の額に軽くキスを落とし、そのまま抱き寄せて二階の寝室へ向かう。「まったく、あいつらは俺が早く家に帰りたいって言ってるのに、毎晩毎晩飲み会だのカラオケだのって引っ張りまわしてさ」「ただ歌ってるだけなら……別にいいけど」千尋は怜の横顔を見つめながら視線を下げていき、彼の顎の下に残されていた薄いキスマークをじっと見ていた。彼女の唇が皮肉げに歪み、自嘲気味な笑いが漏れた。怜が本当に友人たちと飲み歩いているのか、それとも、実際には星野晴美(ほしの はるみ)のそばにいるのだろうか?星野晴美――怜の忘れられない初恋の人。かつて怜と晴美が婚約するという噂は、この界隈では誰もが知っていることだった。しかし晴美が海外へ留学したため、その話は立ち消えとなった。落ち込んだ怜は癒しを求め、彼に片思いをしていた千尋との電撃結婚を決めた。以来、六年の月日が流れた。あの日の結婚式を千尋は鮮明に覚えている。タキシード姿の怜がひざまずき、自分がデザインした指輪を差し出した。「千尋、愛してる。俺は一生、君だけを愛する。俺の心にまだ晴美がいると思っているかもしれないけど、大丈夫だ。この先の人生で必ず証明する。俺の心には相原千尋しかいないってな。結婚してくれないか?」その言葉は決して嘘ではなかった。結婚してから
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