Semua Bab 虐げられた王女は、生贄として冥府の国に堕とされる ~家族に捨てられた私を待っていたのは、冥府の王子からの予想外の溺愛: Bab 1 - Bab 10

25 Bab

第1話

暁闇の名残りを色濃く映す石造りの部屋に、一条の朝日が音もなく差し込んできた。古びた窓の隙間から射し込むその光は、微かな塵を黄金の粒子のように煌めかせながら漂い、そこに息づく少女の寝顔を、慈しむかのように淡く浮かび上がらせる。「ん……」重い瞼を微かに震わせ、少女──アイリスはゆっくりと目を開いた。夜明け前の深閑とした静寂が、彼女をそっと包み込む。それは、過酷な一日がその容赦ない幕を開ける前の、ほんの束の間だけ彼女に許された聖域。しかし、その硝子細工のように脆い平穏は、長くは続かないことを彼女は知っていた。「……今日も、頑張ろう」ほとんど吐息に近いその呟きは、決意というよりは己に課せられた宿命への諦念に似ていた。アイリスは鉛のように重い四肢を、古びた人形のようにぎこちなく動かし、寝台から身を起こす。「寝台」とは名ばかりの、硬い藁を薄布で包んだだけの粗末な代物であり、毎夜その上で眠るたびに、華奢な背には鈍い痛みが刻まれる。「……」蜘蛛の巣のように細かく亀裂の走る鏡の前にアイリスが佇むと、齢十六とは到底信じがたいほど痛々しく痩せこけた少女の影が揺らめいた。 手入れが行き届いているとはお世辞にも言えない長い黒髪は、生命の艶めきを失い、所々で力なく途切れてしまっている。 しかし、その痛ましいほど痩身な姿の中にあって、大きな双眸だけは、闇夜に秘やかに瞬く星のごとく、濁ることのない清冽な光を宿していた。 その星彩を湛えた瞳は、かつて「王国に咲き誇る至宝の花」とまで謳われた亡き母から受け継いだ、何よりも貴い形見……。 「おはようございます、お母様」アイリスは、そう祈りにも似た囁きを紡ぎながら、常にその白皙のうなじに下げている小さなロケットペンダントへ、そっと唇を寄せた。 そこに大切に収められているのは、慈愛に満ちた微笑みを湛える母の小さな肖像画。 それは、十年の歳月が流れようとも決して色褪せることのない、母と娘を繋ぐ唯一無二の絆。 「今日も……わたくし、精一杯努めます。ですけれど……お母様。本当に、このようなわたくしにも、いつか陽だまりのような温かな幸せが訪れる日は来るのでしょうか。わたくしのような者に、幸せなんて……」 声はか細く震え、言葉の終わりは吐息と共に頼りなく宙に消えた。「……だめ。弱音なんて……決して口にしちゃだめよ、アイリス」
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第2話

アイリスの網膜に焼き付いたその少女の姿は、自身の侘しいそれとはあまりにも懸け離れた、まばゆいばかりの豪奢を極めていた。整ってはいるものの、酷薄さと傲慢さを隠さないその顔立ちは、今はあからさまな侮蔑の色を湛え、粗末な身なりのアイリスを頭の先からつま先まで見下ろすように細められた瞳を向けていた。 「おはようございます、セリーナ様」 その威圧的なまでの美しさと、隠そうともしない敵意に息を詰めながらも、アイリスはかろうじて声を絞り出し、深く頭を垂れて礼を示した。 それは長年の習慣によって身体に染みついた、条件反射にも似た所作であった。──彼女こそ、アイリスの日常に暗い影を落とし続ける存在……セリーナ。 アイリスにとっては義理の姉妹にあたる、継母が自身の娘として溺愛する少女、その人であった。 「ごきげんよう、『藁かぶり姫』。今日は随分とお早いのねぇ」 セリーナは扇の先で自身の唇を隠すような仕草をしながらも、その声色は隠しようもない嘲弄に満ちていた。 「ゆうべは、薄汚いお友達のネズミさんたちとのお喋りに夢中で、とうとう一睡もなさらなかったのかしら?」 一つ一つが鋭い棘のように突き刺さる皮肉な言葉の連なりに、アイリスはきつく唇を噛み締めた。 だが……セリーナの刺々しい言葉の雨を浴びながらも、アイリスは一度伏せた顔を僅かに持ち上げ、唇の端に自嘲とも諦観ともつかぬ微かな笑みを刷いて、常とは異なる響きで応じた。 「はい、セリーナ様。昨夜は……とても楽しいひとときでございました。わたくしのような者の拙い話にも、あの子たちは真摯に耳を傾けてくれますもの。もしかしたら……人の心よりも、ずっと温かく、そして優しいのかもしれません」 その言葉は、か細いながらも静かな棘を宿し、セリーナの耳朶を打った。 「まぁっ……!」 一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたセリーナだったが、すぐにその整った顔立ちはみるみるうちに侮蔑と嫌悪で歪んでいく。 「あなた……本気でそう思っているのなら、本当に頭がおかしいのではないかしら?」 その声は、汚物でも見るかのような冷え冷えとした響きを帯びていた。 「……」 アイリスは再び唇を固く結び、いかなる反論も、弁明も無意味であると悟っているかのように、ただ静かにセリーナの次の言葉を待った。 セリーナは、アイリスのその反応すら癇に障る
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第3話

アイリスが辿り着いたのは、城の巨大な厨房の奥まった一角にある薄暗い洗い場だった。そして彼女の眼前には、昨夜の饗宴で使われたであろう無数の皿、銀食器、そして焦げ付きのこびりついた大鍋の数々。それらが、逃れようのない今日の最初の労役として、アイリスの来訪を音もなく待ち構えていた。しかし、その絶望的な光景を前にしても、アイリスの表情に深い陰は差さない。彼女はそっと、一番手前にあった陶器の皿に指先で触れると、旧知の友に囁きかけるように、柔らかな声を紡いだ。「おはよう、わたしのお友達」その声には、深い孤独と、だからこその愛おしさが滲んでいる。「今日もお世話になりますね。物言わぬあなたたちだけが、唯一、心を許せる味方だから」自嘲ともつかぬ微笑を唇に浮かべ、アイリスは冷たい水に手を浸し、山積みの食器の一つを取り上げた。そして、皿を洗いながら、ごく小さな、ほとんど吐息にしか聞こえぬほどの声で、懐かしい歌を口ずさみ始める。それは、遠い昔、優しい母が彼女を腕に抱きながら、子守唄のように幾度となく歌ってくれた旋律。あまりにも多くのものを奪われ、虐げられてきた彼女にとって、その温かな記憶だけが、今もなお色褪せることのない、唯一無二の心の灯火であり、か細い魂を支える最後の砦なのだった。「~♪」懐かしい母の歌を口ずさむうち、アイリスの心はいつしか過去へと遡っていく。陽光に満ち溢れ、優しい母の愛に包まれていた、あまりにも短く、そして輝かしい日々。それは、手の届かぬ夢の残照。しかし、その温かな記憶は冷たい影によって断ち切られるのだった。──そう、全ての歯車が狂い始めたのは、母が、この世を去ってからだった。かつて、アイリスは次代の光とさえ囁かれた正真正銘の王女であった。母である王妃が存命だった頃は、彼女の周りには常に人々の優しい笑顔と、温かな言葉があった。しかし、その母が儚くも病に倒れ、天へと召されてから数年も経たぬうちに、父である国王は新たな王妃を迎えた。それが、アイリスの運命を底なしの闇へと突き落とす、全ての始まりとなる。新たな王妃──アイリスにとっての継母は、美しく気高い容貌とは裏腹に、酷薄で嫉妬深い心を秘めた女だった。彼女は、先代の王妃の忘れ形見であり、その面影を色濃く宿すアイリスを、忌むべき存在であるかのように異様に疎み、憎んだ。その執拗なまでの憎
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第4話

王宮長官グレゴリーは、彫像のように冷たく整った顔を不快感に歪め、汚物でも見下ろすかのような侮蔑の眼差しをアイリスに突き刺していた。全身から放たれる威圧感は、アイリスの存在そのものを否定するかのように、重くのしかかってくる。しかし、その殺気にも似た視線に射抜かれながらも、アイリスの心は不思議なほど凪いでいた。長年にわたる虐待と屈辱が、彼女から恐怖という感情すらも摩耗させてしまったのかもしれない。あるいは、それは絶望の果てにたどり着いた、ある種の諦観からくる静けさであったのか。彼女はただ、いつものこと、とでもいうように、その視線を甘んじて受け止め、抑揚のない、平坦な声で静かに口を開いた。「申し訳ございません、グレゴリー様」その言葉と共に、アイリスは操り人形のように、反射的に深く頭を垂れた。その動作は、彼女が発した声の平坦さとは裏腹に、どこか強張っており、長年かけて身体に刻み込まれた恐怖の記憶を物語っている。「卑しき身分で、鼻歌などを口ずさみながら、漫然と職務に当たるなどとは、一体全体どういう心得違いだッ!」グレゴリーは細い目をさらに吊り上げ、低い声で腹の底から絞り出すような怒気を込めて怒鳴りつけた。その言葉の一つ一つが、見えぬ鞭となってアイリスの心を打つ。だが、彼女はただ、より一層深く頭を下げることで、その侮辱に耐えるしかなかった。「……はい。申し訳、ございませんでした」消え入りそうな声で繰り返された謝罪の言葉は、冷たい厨房の石の床に吸い込まれ、虚しく響いた。アイリスの消え入りそうな謝罪を、グレゴリーは汚れた道端の石でも眺めるかのように冷ややかに一瞥し、フン、と鼻先で嘲笑を漏らす。そして……その唇が、更なる冷酷な宣告を紡ぎ出す。「今日の午後、国王陛下がお前をお呼びだ。くれぐれも、遅参するでないぞ」その言葉は、冷たい刃のようにアイリスの胸を刺した。──父が、私を……?予期せぬ呼び出しに、彼女の血の気がさっと引くのを感じる。アイリスは知らず知らずのうちに、首にかけられた母の形見である小さなペンダントを、祈るように強く握りしめていた。グレゴリーは、アイリスの動揺を愉しむかのように一瞬その場に留まった後、興味を失ったかのように音もなく踵を返し、足音も荒々しく厨房から去っていった。「お母様……父が、わたくしをお呼びになるなんて……一体、何
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第5話

王の間へと続く長い廊下の磨き抜かれた冷たい石の床は、無数の氷の針を突き立てるかのように容赦なくその硬さを伝えてくる。アイリスの心臓は、肋骨の内側で狂ったように激しく鼓動を打ち、強張った指先はじっとりと汗ばんでいた。「……」やがて、長い廊下の先に、目的地である王の間の巨大な双璧の扉が見えてくる。その扉を護るかのように微動だにせず佇む長大な槍を携えた近衛の兵士たち。その絢爛たる装いとは裏腹に、彼らの表情は能面のように無機質で、アイリスの存在など意に介さぬといった風情だ。アイリスは、その兵士たちの数歩手前で、一度、足を止めた。そして、震える胸を必死に抑えつけるように、深く、深く息を吸い込んだ。「大丈夫……きっと、大丈夫……」ほとんど吐息に近い、自分自身に言い聞かせるための呪文のような言葉をか細く紡ぐと、アイリスは意を決して、なおも微かに震える膝を叱咤し、その重々しい扉へと再び歩を進めた。一歩が、これほどまでに重く感じられたことは、かつてなかったかもしれない。アイリスが扉の真下に到達すると、左右に控えていた二人の近衛兵が、無言のままゆっくりと動き出す。彼らが屈強な腕で、重厚長大の扉に手をかけると、地響きにも似た鈍い音と共に、巨大な扉が開かれていった。その先には、ただ、広大で、そして底知れぬほどの威圧感を湛えた空間が、アイリスを待ち受けていた。壮麗な絨毯はアイリスのか細い足音を無情に吸い込み、壁に連なる歴代王族の肖像画は、皆、この哀れな娘を冷ややかに見下ろしている。部屋の奥、玉座に深々と腰かける父へ、アイリスは絞り出すように呼びかけた。「父上……お呼びと伺い、参りました……」その声は、自分でも情けないほど弱々しく震えていた。父は応えず、ただ氷のような双眸で娘を見下ろした。何の感情も宿さぬ無慈悲な視線に、アイリスは凍りつくように身を縮ませる。暫くの静寂。──やがて冷厳な沈黙を破り、父王の温度のない低い声が響いた。「アイリス」その一言に、彼女の心臓は氷の手に掴まれたように強く収縮した。「──そなたを、古き盟約に従い、『死者の国』へ嫁がせることに決した」雷鳴にも似たその言葉は、アイリスの世界を一瞬にして打ち砕いた。視界が白く染まり、思考は完全に停止する。「し……死者の、国……?わたしが……?」かろうじて絞り出した声は、もはや意味のあ
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第6話

「そ、そんな……本当、なのですか?」全身から急速に血の気が引いていくのを感じ、立っていることすら困難なほどの激しい眩暈がアイリスを襲った。白い顔は、蝋のように色を失っている。「そうだ」玉座の父は、まるで他人事のように、感情の欠片も見せず淡々と肯定した。「百年の盟約は絶対である。我が王国は、定めに基づき、王族の姫をかの国へ差し出さねばならぬ。……幸い、我が国には、その役に『ちょうどいい』者がおったというわけだ」その声には、実の娘を死地へ送るという苦悩も、憐憫も、一片たりとも含まれていなかった。ただただ冷え切った、無慈悲な響き。あまりの冷酷さに、アイリスの心は、薄氷のように、無惨にも砕け散ってしまいそうだった。「ち、父上……。ど、どうか……お考え直しを……」アイリスは、最後の望みを託すかのように、震える唇で懇願の言葉を紡ごうとした。しかし、声は喉の奥でか細く痙攣するだけで、意味のある音となっては響かない。そんな哀れな娘の姿を、玉座の父は路傍の虫けらでも見るかのように一瞥し、冷淡に、そして侮蔑を込めて片手を軽く振った。「アイリス。まさか、この期に及んで、王の決定に否と唱えるつもりではあるまいな?」その声の奥には有無を言わせぬ絶対的な圧力が潜んでいた。「そもそも」と、国王は言葉を続ける。その声は、不思議なほど穏やかであったが、紡がれる言葉の一つ一つが、見えぬ刃となってアイリスの心を抉っていく。「お前のような、ただ存在するだけの娘が、この生者の世界で誰に求められるというのだ。……ああ、そういえば」国王はそこで一度言葉を切り、何かを思い出したかのように、僅かに視線を宙に泳がせた。「お前の母は……確かに、稀に見る美しさと聡明さを兼ね備えた、素晴らしい王妃であった。だがな……」再びアイリスに向けられたその瞳には、先程までの無感情とは異なる、蛇のような冷酷な光が宿っていた。「……あやつは、お前を身籠り、そして産み落としてからというもの、日に日にその身を弱らせ、ついには儚くもこの世を去った。お前という存在が、彼女の命を吸い尽くしたかのように……」父の口から紡がれた、無慈悲で、そして残酷極まりないその言葉。それは、アイリスにとって、死刑宣告よりもなお重く、魂の最も柔らかな部分を鋭利な刃物で引き裂かれるような、耐え難い苦痛であった。先程までかろう
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第7話

アイリスが「死者の国」へ生贄として嫁がされる──その衝撃的な報せは、羽を得た凶兆のように、瞬く間に陰鬱な王城の隅々まで広まっていった。 人々は囁き合い、ある者は安堵の表情を浮かべ、またある者は恐れと好奇の入り混じった視線を交わす。その喧騒をよそに、昨日までみすぼらしい召使いの服をまとい、城の片隅で虐げられていたアイリスの境遇は、一夜にして劇的な変化を遂げた。 手のひらを返すように、彼女は「姫君」として扱われ始め、陽もろくに射さぬ物置同然の部屋から、無駄に広く、そして冷ややかに豪華な一室へと移された。 目の前には、これまで見たこともないほどに美しく、しかしどこか死装束を思わせる純白のドレスが、まるで「お前のためのものだ」と無言で主張するかのように用意されていた。 侍女たちが、ぎこちない手つきでアイリスの身の回りを世話しようとするが、その目には憐憫も敬意も浮かんでいない。 「……」 アイリスはその突然の厚遇に、一片の喜びも安らぎも感じなかった。 (わたしは「贈り物」) 冷え切った心で、彼女は全てを悟っていた。これは決して、父王や継母からの贖罪の念や、ましてや慈悲などでは断じてない。 ただ、死者の国へ捧げられる生贄が、あまりにみすぼらしくては先方への体面が保てぬという、ただそれだけのための、上辺だけの取り繕い。 これから赴くであろう、永遠の闇への最後の餞別として、彼らはこの哀れな「供物」を、できる限り見栄え良く飾り立てようとしているに過ぎないのだ。 その冷徹な事実に、アイリスはもはや涙すら浮かばなかった。アイリスが冷え切った悟りの中に沈んでいた、まさにその時。 静寂をけたたましく切り裂いて、甲高い、絹を裂くような女の笑い声が部屋の外から響き渡り、次の瞬間には、何の遠慮もなく扉が乱暴に開け放たれた。 そこに現れたのは、やはりというべきか、継母の娘セリーナであった。数人の取り巻きである令嬢たちを引き連れ、まるで自分の庭を闊歩するかのように、彼女はアイリスの部屋へずかずかと踏み込んでくる。 「まぁ、アイリス!そのお姿!本物の……そうね、どこかの国の高貴な『生贄の姫君』のようだわ。その清らかな白がお似合い……とは、とてもじゃないけれど言えないけれど。その穢れた身には、不相応なほど眩しくて、見ているこちらの目が痛いわね?」 セリーナはわざとらしく
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第8話

──ついに運命の朝が訪れた。アイリスが「死者の国」へと嫁ぐ、その日である。まだ薄闇が支配する早朝から、数人の侍女たちがアイリスの許に遣わされ、無言のままに、しかし手際よく彼女の身支度を整え始めた。 「姫様、お湯殿のご用意が整いました」 年嵩の侍女からの抑揚のない声が、微睡んでいたアイリスの意識を現へと引き戻す。促されるままに、湯気のもうもうと立ち込める豪奢な浴槽へとその痩せた身を沈めると、じんわりと、しかし芯まで染み渡るような温かな湯が、凍えていた彼女の身体を優しく包み込んだ。(これが……わたしが感じる、最後の温もり、なのかな……) 水面に揺れる自らの顔を、アイリスはぼんやりと見つめる。そこに映るのは、あまりにも大きな、そして底なしの悲しみを湛えた双の瞳。母譲りの瞳だけが、この儀式めいた静寂の中で、声なき叫びを上げている。湯浴みを終えたアイリスの細い身体は、為されるがままに、昨日までのものとは比較にならぬほど絢爛豪華な純白のドレスに包まれた。それは、初雪の朝の光をそのまま閉じ込めたかのように清冽な輝きを放つ最高級のシルク。繊細な銀糸で縁取られた胸元には、夜空の星々を砕いて散りばめたかのような無数の小粒の宝石が煌めき、幾重にも重なるスカートの裾には、熟練の職人の手によるものだろう。ため息が出るほどに精緻な花の刺繍が、生命を宿しているかのように咲き誇っていた。(……こんなの、着たくない)心の内で、アイリスは虚ろに呟く。(ただ、お母様と二人、あの小さな庭で、穏やかな陽だまりの中で笑い合って暮らせる……それだけで、それだけで良かった……)その純白のドレスが、やがて自分を誘うであろう「死者の国」への入り口を象徴しているかのように思えてならなかった。セリーナが語った、永遠の闇、血の月、嘆きの声、そして慰みものにされるという、おぞましい運命。そのどれもが、今や現実の輪郭を帯びて、アイリスの心を容赦なく苛む。悲しみと恐怖が、冷たい霧のように胸の内に立ち込め、呼吸すらも苦しく感じる……。そうして、美しい人形のように飾り立てられたアイリスは、侍女たちに促されるまま、重い足取りで冷たい石造りの廊下を歩み始めた。その時であった。アイリスの背中に、ま氷の矢が突き刺さるかのように、甲高く、そしてねっとりとした声が投げかけられた。「あらまあ、アイ
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第9話

城の喧騒から逃れるように、アイリスは滅多に人の来ない、古びた西のバルコニーに一人佇んでいた。眼下に広がるのは、夕暮れの柔らかな光に包まれた城下の街並み。家々の窓からは温かな灯りがこぼれ始め、人々の穏やかな営みの音が、微かな風に乗ってここまで届いてくる。 「……」その光景をぼんやりと眺めているうちに、アイリスの心は自然と、遠い昔の日々へと遡っていった。(お母様……)まだ幼かった頃、優しい母に抱かれ、あの街を見て回ったことがある。市場の活気、焼きたてのパンの香ばしい匂い、そして、すれ違う人々の屈託のない笑顔。街の人たちは、皆、驚くほどに優しかった。それは、母である王妃が、誰に対しても分け隔てなく慈悲深く接し、民から絶大な人気と敬愛を集めていたからに他ならない。そして、その温かな眼差しは、母の腕の中にいる幼いアイリスにも、惜しみなく注がれたのだ。「まあ、なんて愛らしいお姫さまだろうか」「妃様にそっくりで、お美しいこと!」そういえば、自分で歩けるようになった頃からは、どこか世間知らずな好奇心に突き動かされて、たった一人でこっそりとお城を抜け出し、あの街を歩いたこともあった。(あの頃のわたくしは……まだ、希望という光を信じていた。なんて、やんちゃで、無謀なことをしたんだろう)アイリスは、今の自分からは想像もつかない、かつての奔放な自分を思い出し、自嘲にも似た淡い笑みを唇に浮かべた。あの時、粗末な町娘の服で変装したつもりでいたが、彼女の顔を知る街の人々には、その正体は筒抜けだったに違いない。けれど、誰もそれを騒ぎ立てたりはしなかった。それどころか、彼らは皆、自分たちの「お姫様」のささやかな冒険を、温かく、そして優しく見守ってくれていたのだ。果物屋の屈強な主人は、リンゴを一つ転がしてしまったアイリスを見て、わざと怖い顔で「お嬢ちゃん、気をつけな!」と怒鳴りながらも、その目には優しい光が宿っていたし、帰り際には「これはおまけだよ」と、一番赤く熟れた実をこっそり握らせてくれた。花売りの老婆は、アイリスの髪にそっと野の花を飾り、「よく似合ってるねぇ」と、実の孫にするように皺くちゃの笑顔を向けてくれた。彼らはアイリスをただの王女としてではなく、守るべき、愛すべき一人の少女として、そのささやかな冒険けを見守ってくれていた。その記憶は、あまりにも温かく
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第10話

──夜空に、満天の星空が広がる中。王城の正面に広がる巨大な石畳の広場は、無数の松明の赤い光と、天上で冷たく輝く月光とに照らし出されていた。その光が映し出すのは、広場を埋め尽くさんばかりに集まったおびただしい数の民衆の姿であった。老いも若きも、男も女も、誰もが固唾を飲んで、今宵執り行われるという、百年に一度の古の儀式を待っている。皆、知っているのだ。今宵、この国を救うための「生贄の儀」が行われることを。ざわざわ、と。抑えられた、しかし無数の声が織りなす不気味なざわめきが、生き物のように広場を這う。「ついに『死者の国』の使者が、百年の盟約を果たしにやってくるそうだ」「ああ、聞いたとも。もし、我らが盟約を違えれば、この国は一夜にして滅びの炎に焼かれるとか」「生贄になるのは、あの『忘れられた姫君』らしい……」「可哀そうに……だが、みんな殺されるよりは……」恐怖、憐憫、安堵、そして残酷なまでの好奇心。様々な感情が渦巻く人々の囁きは、やがて来るべき厳粛な儀式への、不吉な序曲のように、夜の冷たい空気の中へと溶けていく。そうして、民衆たちの不安と好奇のざわめきが最高潮に達した、まさにその時。それまで固く閉ざされていた王城の巨大な正門が、地響きにも似た重々しい音を立てながら、ゆっくりと、しかし厳かに内側へと開かれていく。その瞬間、あれほど満ちていた広場の喧騒が、魔法にでもかかったかのようにぴたりと止み、全ての視線が門の奥の暗がりへと吸い寄せられた。「……」やがて門の内側から、磨き上げられた鎧を月光にきらめかせた近衛兵の一団が整然とした足取りで姿を現し、貴人歩むためであろう一本の道を人々を隔てるようにして形作っていく。その兵士たちの後に続いて、一人の少女が静かに姿を現した。「……おい、あれが……『姫様』なのか……?」「昔、遠目にお見かけした時は、まだ幼い少女だったが……」静まり返った広場に、抑えきれぬ感嘆と、そして深い憐憫の入り混じった囁きが、ひそひそと広がっていく。そこに現れたのは、美しい姫君──アイリス。彼女の姿は、まさしく夜の闇に舞い降りた、一輪の月光花であった。彼女の身を包む純白のシルクのドレスは、周囲の松明の赤い光すらも清冽な輝きに変え、夜空の深い藍色とは対照的に、神々しいほどに白く浮かび上がっている。手入れの行き届いていなか
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