All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 411 - Chapter 420

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第411話

玲奈は、外へ向かう足をふと止めた。堪えきれずに振り返り、涼真を見据えて、冷ややかに言う。「そんな言葉を吐く時点で、あなた自身も大した人間じゃないってことだわ」涼真はもともと玲奈が気に入らなかった。反論された瞬間、かっとなり、声を荒らげる。「もう一回言ってみろ!」玲奈は冷笑した。「何回言っても同じ。表に出せないのは、あなたのほう。ただの出来損ないよ」涼真はついに我慢できず、スマホを床に叩きつけて玲奈の前へ詰め寄る。「死にたいのか!」距離を詰めると、涼真は手を振り上げ、今にも玲奈を殴ろうとした。その手が振り下ろされる前に――二階から、低く重い怒声が響いた。「涼真、やめろ」智也の声だった。兄の声を聞いた瞬間、涼真は理由もなく動揺し、反射的に手を引っ込めた。智也は薄いグレーのパジャマ姿で、階段を一段ずつ下りてくる。その一歩一歩が、涼真の胸を打つ重い槌のようだった。智也が近づいてきて、涼真はようやく声を絞り出す。「......兄さん」うつむいた姿は、叱られる子どものように情けなく、声も掠れている。だが智也は容赦しなかった。無言のまま足を振り上げ、涼真の膝裏を強く蹴りつける。かなりの力だった。涼真はよろめき、立っていられなくなりそうになる。どうにか体勢を保ったところで、智也が低く問いかけた。「誰に向かって、そんな口をきいている」涼真は頭を下げたまま、不満を滲ませて言い返す。「違う。あいつが変わったんだ。飯も作らないし、掃除もしない。だから、ちょっと懲らしめようとしただけだ」智也の声は、さらに低く沈む。「彼女は、お前が懲らしめていい相手か?」涼真は黙り込んだ。智也は畳みかける。「玲奈は、新垣家の家政婦か?」涼真は首を振る。「......違う」「違うなら、なぜ料理をする必要がある。なぜ掃除をしなきゃならない」涼真は顔を上げ、食い下がった。「でも、前は全部やってた。俺に、うまい飯も作ってくれてたじゃないか」智也は怒りを露わにし、涼真の声をかき消すほどの大きさで言った。「なら、これからはやらなくていい。何一つ、する必要はない」涼真は納得できず、なおも言う。「兄さんは、あいつを甘やかしすぎな
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第412話

探し回った末、涼真はゲストルームで愛莉を見つけた。すでに目は覚めていたが、大きなベッドに横たわり、どこか思い悩んでいるような表情をしている。涼真は近づくと、わざと彼女の脇をくすぐった。だが、愛莉は笑わず、顔を向けて小さく呼ぶ。「......叔父さん」涼真は愛莉を起こし、小さな頬をつまんで尋ねた。「どうした?なんだか元気ないな」愛莉は涼真の胸に飛び込み、彼の腰にしがみついて言った。「ううん。愛莉、ちょっと具合が悪いだけ」どこか腑に落ちないものを感じながらも、涼真はそれ以上、深くは聞かなかった。だが、彼の中では、愛莉の不調は、きっと玲奈のせいだという考えが固まっていく。――あの女め。愛莉を不機嫌にさせるなんて、いい度胸だ。心の中でそう吐き捨て、涼真はさらに一度、玲奈を罵った。しばらく愛莉と過ごしたあと、涼真は立ち上がり、下へ行くと言った。愛莉は素直にうなずく。「叔父さん、バイバイ」涼真は笑って、彼女の頭を撫でた。「愛莉はいい子だな」こんなにも可愛い姪が、今にも泣き出しそうな顔をしている。それだけで、彼女が何か抱えていることは分かった。玲奈が愛莉を不幸せにするなら、自分も、あの女を不幸にしてやる。そんなことを考えていたせいで、涼真は階段を下りる途中、上がってきた沙羅に気づかなかった。だが、沙羅はすでに涼真を見つけていた。「涼真」彼女から声をかけられ、その柔らかな呼び方に、涼真は一気に鳥肌が立つ。顔を上げると、自然と表情が緩んだ。「沙羅さん」同時に、耳まで赤くなる。その反応を見て、沙羅はすぐに察した。――この子、照れてる。数え切れないほどの男を見てきた経験から、涼真が自分に好意を抱いていることも、すぐに分かった。彼女はわざと、涼真の額を軽く叩いた。「涼真も、もう立派な大人ね。男らしくなったわ」その仕草だけで、涼真の心臓は激しく跳ね始めた。彼は、ずっと沙羅が好きだった。ピアノを弾くときの横顔が美しく、音楽も、自分の好みにぴたりと合っていた。だが、それはあくまで密かな想いだった。関係が進展するなど、考えたこともなかった。それなのに――今日は、頭に触れられた。その瞬間、足元がふわりと浮いたような感覚に包まれ
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第413話

沙羅は二階へ上がったあと、踊り場でふと足を止め、視線の端で階下の涼真を盗み見た。彼が呆然と立ち尽くし、まだ状況を呑み込めていない様子なのを見て、胸の奥に、理由の分からない温かさが流れ込んでくる。これほど多くの男たちが、自分に惹かれている。そう思うだけで、心は甘く満たされた。部屋に戻ると、沙羅は智也の寝室へ向かった。扉を開けたとき、智也はちょうどパジャマを脱ぎ、着替えているところだった。沙羅は特に気にする様子もなく、そのまま近づく。足音に気づいた智也が振り返り、彼女だと分かると、シャツのボタンを留めながら言った。「もう少し寝ていればよかったのに」沙羅は智也の正面に立ち、つま先立ちになって、彼の襟元を整える。わざと距離を詰め、少し俯けば、彼の頬に触れてしまいそうなほど近づいた。そのまま、静かに答える。「あなた、会社に行くでしょ。だから様子を見に来たの。私がいなかったら、ネクタイも結べないでしょう?」智也のネクタイは、普段から沙羅が結んでいる。そう言って、彼女は穏やかに微笑んだ。智也は彼女を見下ろし、その柔らかな笑顔に、思わず口元を緩める。そのとき、扉のほうから小さな声がした。「パパ......ララちゃん......」二人は同時に、入口を振り返る。髪を下ろしたままの愛莉が立っていた。腕には、あのぬいぐるみを抱えている。愛莉を見た瞬間、沙羅の脳裏には、昨夜、雅子が彼女をつねった光景が浮かんだ。正直に言えば――愛莉が痛みに泣きじゃくっていたとき、沙羅の胸は、妙に高鳴っていた。智也は愛莉に手を伸ばす。「おいで。ララちゃんに、髪を結ってもらおう」その言葉に、愛莉はぬいぐるみを抱えたまま、おずおずと寝室に入ってきた。沙羅が髪を整え終え、「はい、できたわ」と声をかけた、そのとき――振り向いた拍子に、愛莉の袖が少しめくれ、腕に残る、点々とした青あざが露わになった。智也は身だしなみを整えるのに気を取られ、それに気づいていない。沙羅は一瞬、心臓が跳ねた。――見られたら、まずい。彼女はとっさに一歩前へ出て、自分の身体で、智也と愛莉の視線を遮った。視界を塞がれ、智也は眉をひそめて尋ねる。「どうした?」沙羅は視線を巡らせ、すぐに思いついた言葉を口
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第414話

それでも、愛莉はまだ不安だった。沙羅の胸に飛び込み、ぎゅっと抱きしめて訴える。「ララちゃん......私を捨てないで。ママはいないの。ララちゃんが、私のママでしょ?」沙羅は愛莉の髪を撫で、柔らかな声で言った。「いいわよ。私が、あなたのママよ」扉の外では、着替えを終えた智也が、ちょうど入ろうとしていた。だが、その言葉を耳にした瞬間、彼は足を止める。愛莉がこれほどまでに沙羅に依存している様子を見て、智也の胸には、ある思いが浮かんだ。――やはり、玲奈と離婚したのは、間違いではなかったのかもしれない。……土曜日。幼稚園の秋の遠足の日。前日の夜、綾乃から玲奈に連絡があった。用事があるため、当日は玲奈一人で陽葵に付き添ってほしいという。玲奈はそれを引き受け、当日は早く起きて準備を整えた。幼稚園に着くと、すでにほとんどの保護者が集まっていた。先生が点呼を行い、最後に残ったのは、愛莉とその保護者だけ。玲奈は陽葵の手を引き、人混みの中に立ちながら、校門のほうを見つめていた。幼い頃から、愛莉には「遅刻はだめ」と教えてきた。だが、すでに十分近く、全員が待たされている。なかなか姿を見せない愛莉と保護者に、不満の声が上がり始めた。「まだ出発しないの?全員そろわないとダメなの?」「せっかくの週末なのに。仕事も山ほどあるのに、時間を無駄にしすぎでしょ」「先生、早く行きません?時間は命ですよ。無駄にするのは勿体ないって、分かってます?」口々の不満が、あっという間に園内に広がった。玲奈は、その輪に加わらず、ただ黙って、校門を見つめ続けていた。そのとき、陽葵が玲奈の手を軽く揺らし、小さく呼ぶ。「おばちゃん」玲奈はしゃがみ込み、慈しむように尋ねた。「どうしたの?」陽葵は声を潜めて言った。「須賀おじさん、ずっとおばちゃんを見てるよ」それを聞き、玲奈は陽葵の視線の先を追った。人混みの中に立っていたのは、拓海。その隣には、真言がいる。だが、玲奈が目を向けた瞬間、拓海はすでに視線を逸らしていた。玲奈は陽葵の頬を撫で、穏やかに言う。「陽葵ちゃん。おばちゃんと須賀おじさんは、お友だちなの。見てくるのは、変なことじゃないのよ」まだ幼
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第415話

先頭に立つ数人の先生は、沙羅の振る舞いを見て、思わず口元を引き結んだ。とはいえ、公の場で彼女を非難するわけにもいかない。そこで阿部先生が手を叩き、大きな声で呼びかけた。「皆さん、少し静かにしてください。今日の秋の遠足は、保護者二人と子ども二人を一組にします。まずはバスで西山公園へ移動し、そこで薪を拾って火を起こし、昼食を作ります。料理ができたら、各組の料理を持ち寄って一緒に食べましょう。午後は公園内で親子ゲームやお絵描き、歌を行い、終了後は私のところで報告してから、順に解散してください」阿部先生が話し始めると、保護者たちはようやく静かになった。説明が終わるや否や、あちこちから沙羅に声がかかる。「愛莉ちゃんのママ、うちと組みませんか?」子どもを連れた父親も、母親も、こぞって沙羅に声をかける。彼女が現れてからというもの、整っていたはずの列は、すでに二度も乱れていた。一方で、玲奈と拓海は、子どもを連れて動かず、その場に留まっていた。秩序が崩れ始め、先生たちの眉が次々とひそめられる。最終的に、阿部先生が打開策を出した。点呼表の順に名前を呼び、呼ばれた二人で組む、という方法だ。玲奈が呼ばれ、別の母親と組になった。そして拓海の名前の次に、沙羅の名前が呼ばれた。組み合わせに不満を持つ者はいたものの、表立って騒ぐ人はいなかった。ほどなくして、一行はバスで西山公園に到着した。下車すると、沙羅は自分から拓海に声をかける。「須賀さん、私たちは薪を探しに行きましょう。愛莉ちゃんと真言くんには、ここで食材の準備をしてもらいましょう」子ども二人を連れては動きづらいこと。そして何より、拓海と二人きりで行動できる。そんな思惑もあった。拓海は、その提案をもっともだと感じ、うなずいた。「いいね」沙羅は用意してきた道具を取り出し、愛莉と真言に食材の準備を指示する。一通り伝え終えると、拓海に向き直った。「行きましょう、須賀さん」なぜか沙羅は、拓海が現実で会うと、ライン上ほど奔放ではないと感じていた。昨日の夜、ラインではあれほどあけすけに「一発どう?」などと送ってきたのに、今は、まともに視線すら向けてこない。自分の誘いを断ったことを、まだ気にしているのか。それとも、ただ
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第416話

愛莉は、まだほんの子どもだ。しかも――玲奈の子どもでもある。拓海は空中で振り上げた手を激しく震わせた末、ゆっくりと下ろした。遅れて、沙羅も戻ってきた。拓海が愛莉を突き放した瞬間、沙羅は慌てて彼女を抱きしめた。「この子をきちんと躾けろ。次また同じことを言ったら、誰が相手でも容赦しない。舌を引き抜く。本気だ」低く、冷えきった声。拓海はわずかに顔を横に向け、鋭い視線で沙羅を見た。その眼差しは毒を帯びた刃のようで、今にも人を噛み殺しそうだった。沙羅は、こんな拓海を見たことがなかった。思わず、息を呑む。愛莉は、殴られそうになった恐怖で完全に固まり、沙羅の胸に顔を埋め、声を殺して泣いていた。一方、真言は――拓海が戻ってきたのを見た瞬間、不思議と涙が止まっていた。拓海は愛莉を威圧し終えると、腰を屈め、真言を抱き上げた。静かな場所まで連れて行き、そこでようやく彼を下ろす。拓海は真言の前にしゃがみ込み、小さな頭を撫でながら優しく言った。「須賀おじさんが悪かった。ひとりで置いていってしまって」普段は冗談ばかり言っている拓海だが、本心では、真言を自分の子どものように思っている。だからこそ、こんな思いをさせるなど耐えられなかった。真言は首を横に振る。目は真っ赤なのに、無理に笑って言った。「おじさんは悪くない。謝らなくていいよ」その言葉に、拓海の胸は、いっそう締めつけられた。彼は真言を抱き寄せ、言う。「行こう。別の組に移ろう。あんな奴と、同じ組にいる必要はない」そう言って拓海は真言を連れ、阿部先生のもとへ向かった。真言が泣いていたのを見て、阿部先生も事情を聞き出す。話を理解すると、彼女は深く胸を痛め、穏やかに言った。「真言君、男の子でしょ。将来は、立派な大人になるのよ。だから、少し強くなろう。もう泣かないで、ね?」真言は小さくうなずいた。「うん」拓海の意図を察した阿部先生は、さらに優しく尋ねた。「じゃあ、真言君は、どの組に行きたい?」真言は迷わず答えた。「陽葵ちゃんの組がいい」陽葵は気が強いが、真言は彼女と遊ぶのが好きだった。厳しくても、彼女は決して、彼の傷をえぐることはしない。阿部先生は真言の頭を撫で
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第417話

玲奈は、ティッシュで拓海の指の血を止めていた。彼の問いを聞いた瞬間、ほんのわずかだが、身体が強張った。短い沈黙のあと、彼女は静かに答えた。「......私たちは、もともと住む世界が違うの」俯いたまま、長い睫毛が影を落とす。笑顔はなく、声はひどく真剣だった。その言葉に、拓海の胸はざらついた。声を低く沈め、重く問い返す。「玲奈。俺は、君に近づこうとしてきた。何歩も、何歩も。なのに、どうして君は、一歩もこっちに来ようとしない?どうしてだ」玲奈は彼の指を押さえたまま、顔を上げた。視線がぶつかった瞬間、彼の目に渦巻く、激しい怒りと苛立ちが映り込む。一瞬、意識が揺れた。だが、あの夜――拓海が沙羅にキスした光景が、再び脳裏に蘇る。玲奈の表情は冷え切り、声も氷のようだった。「あなたには、あなたの人生がある。私にも、私の人生がある」その言い分は、拓海にとって聞き飽きたものだった。病院にいた頃の彼女は、こんな態度ではなかった。彼女は、彼に抱かれて眠ることを許した。心が、少しも動いていなかったなど、信じられない。拓海は苛立ち、玲奈の腕を掴んで強く引き寄せる。彼女の瞳を射抜くように見つめ、冷たく言った。「......嘘だ」玲奈は痛みに眉を寄せた。「須賀君、放して」なぜ彼女が、ここまで態度を変えたのか分からない。彼は声を抑えたまま、食い下がる。「教えてくれ。俺の、どこが間違ってた?もし間違ってたなら、直す。それじゃ駄目か」玲奈は彼の目を真っ直ぐ見返した。「いいえ。あなたは間違ってない。何一つ、間違ってないわ」その言葉に、彼女の腕を掴む力が、わずかに緩む。拓海は信じられないという顔で問う。「......じゃあ、まだ智也が好きなのか?」玲奈は二度ほど身をよじり、手を引き抜こうとしたが、どうしても外れない。やがて、諦めたように言った。「誰も好きじゃない。好きなのは自分だけ。愛するのも、自分だけよ」冷たい言葉が、拓海の胸を刺す。だが彼には、それがまだ智也を想っているための言い訳にしか聞こえなかった。彼は乱暴に手を放ち、怒声を上げる。「そんなに俺が嫌なら、もう関わるな。俺が死んでも、お前には関係な
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第418話

玲奈の手が下りた瞬間、指先が震えているのを感じた。感覚が戻ると、彼女は再び手を上げ、自分の唇を力いっぱい擦った。赤くなっても。皮が切れても。それでも、やめようとしなかった。その様子を見て、拓海の胸は無数の針で突き刺されるように痛んだ。玲奈は拓海を睨みつけ、涙をこぼしながら嗚咽混じりに言った。「須賀君......最低。汚れてるくせに、どうして私に触るの?」彼女は多くの言葉を吐いた。だが、拓海の耳に残ったのは、ただ一つ――「汚れてる」という言葉だけだった。彼は呆然と立ち尽くし、しばらくしてから、信じられないといった口調で笑った。「......俺が汚れてる?玲奈、俺が汚れてると言うのか?俺は女遊びしてきたが、誰一人、本気で手を出しちゃいない。お前のために、身を守ってきたつもりだった。それなのに、汚れてるだと?」言葉を重ねるほど、拓海の感情は制御を失っていく。整った顔立ちは怒りで歪み、血が滲んだように赤い目で、玲奈を睨みつけた。言い終えると、彼は地面の薪を思いきり蹴り飛ばし、背を向けて立ち去った。玲奈はその場に立ち尽くしたまま、拓海の言葉を反芻していた。――自分のために、身を守っていた?だが、世間には彼の浮名の噂が溢れている。あの日、レストランで女優と親密にしていた姿も、彼女はこの目で見た。それでも彼は、堂々と「守っていた」と言う。あの女優はさておき。では、沙羅とはどうなのか。玲奈は、すべてが嘘だとは到底思えなかった。だからこそ、拓海の言葉は信じるに値しないのだと思った。拓海が戻ってきたとき、沙羅はすぐに彼の異変に気づいた。彼女は歩み寄り、気遣うように声をかけた。「須賀さん......まだ、愛莉ちゃんの言葉を気にしているの?」拓海は腹の底に溜まった怒りを抑えきれず、沙羅を一瞥して言った。「どうでもいい」愛莉は子どもだ。本気で怒る価値はない。だが、それ以上に真言の置かれた境遇が、胸に刺さっていた。拓海が冷淡な態度を取ったことで、沙羅は彼がまだ愛莉に腹を立てているのだと勘違いした。彼女は思わず口を開いた。「須賀さん......愛莉ちゃんの代わりに、私が謝るわ。さっきの言葉は、確かに言い過ぎだった」拓海は振
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第419話

声のするほうを見ると、愛莉が石の上に立ち、真言の頭を指さしながら、聞くに堪えない言葉を浴びせていた。玲奈は、反射的にそちらへ歩き出す。歩きながら、指を強く握りしめた。音もなく、胸の奥で怒りが渦を巻く。だが、愛莉まであと二、三メートルというところで――どこからともなく、陽葵が飛び出してきた。彼女は一言も発せず、石の上に立っていた愛莉に体当たりし、地面へ倒した。それだけでは終わらない。愛莉が状況を理解する前に、陽葵は彼女に跨がり、容赦なく顔や身体を殴りつけた。愛莉は、いわゆるお嬢様だ。喧嘩などしたこともなく、陽葵の前ではあっという間に劣勢に立たされた。子ども同士の乱闘は、かなりの騒ぎだった。拓海との関係を修復しようとしていた沙羅でさえ、思わず眉をひそめる。沙羅は殴られている愛莉のほうへ向かいながら、声を張り上げた。「陽葵ちゃん、何をしているの!智也が知ったら、ただで済むと思ってるの?」その言葉は、明らかに玲奈に向けたものだった。智也の名を出し、玲奈に止めさせようとしたのだ。だが、玲奈は一歩も動かなかった。ただ冷ややかに、陽葵が愛莉を殴り続ける様子を見ていた。愛莉は、金切り声を上げて泣きながらも、なおも叫ぶ。「陽葵!これ以上やったら、パパに言って殺させるから!あんたも、あんたの家族も、みんな殺してやる!」だが、陽葵は聞く耳を持たない。拳を振るい続ける。やがて、先ほどまで勢いのあった愛莉の脅し声が次第に弱まり、ほとんど聞こえなくなった。沙羅は焦った。陽葵が加減を知らず、本当に取り返しのつかないことになったら、どうやって智也に説明すればいいのか。彼女は前に出て、止めに入ろうとする。その瞬間――玲奈が手を伸ばし、沙羅の腕を掴んで行く手を遮った。沙羅は信じられないという顔で振り返り、声を荒らげた。「玲奈!愛莉ちゃんは、あなたの娘よ。殴られて......殺されてもいいっていうの?それでも母親なの?」玲奈は、冷たい視線を向けた。その瞳の奥の冷気は、毒を含んだ刃のようだった。彼女は低く言い放つ。「人を罵るなら、殴られて当然よ」その言葉に、沙羅は言葉を失う。「玲奈......あなた......」だが、玲奈が一切動じ
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第420話

愛莉は地面に倒れたまま、もはや身分も体面も気にすることなく、ただ声を上げて泣きじゃくっていた。その泣き声を耳にした瞬間、玲奈の胸はぎゅっと握り潰されるように痛んだ。沙羅は、玲奈と拓海の脇をすり抜け、小走りで愛莉のもとへ向かう。一方、陽葵は真言の前に立ち、まだ血の匂いが残る手を、彼の肩に置いた。「またあいつがあんたを罵ったら、私に言いな。次は、口を引き裂いてやるわ」真言の胸は、じんわりと温かくなった。だが、陽葵の乱れた髪を見て、思わず口をついて出る。「......陽葵ちゃん、なんか男勝りだね」その瞬間、陽葵は彼の頭をぴしっと叩いた。「死にたいの?」真言は反射的に頭を抱える。「ごめん、ごめん!」それを見て、陽葵はようやく手を引っ込め、満足そうに言った。「それでよし」真言は両手を下ろし、真剣な表情で言った。「......ありがとう、陽葵ちゃん」その言葉が気恥ずかしくて、陽葵は白い目を向ける。「黙りなさい」言われた真言は、本当にそれ以上何も言わなかった。その頃、沙羅は愛莉のそばに辿り着き、身を屈めて抱き上げようとした。だが、伸ばした手が触れる前に、愛莉は自力で起き上がり、そのまま林のほうへ駆け出した。泣き声を上げながら、ただひたすら走っていく。沙羅は、どうすることもできず、慌てて後を追った。陽葵と真言のやり取りを終えたあと、陽葵は玲奈の様子がおかしいことに気づいた。自分が殴ったのは、叔母の実の娘だ。誰だって、それを見て平気でいられるはずがない。真言の前では、怖いもの知らずの女番長のような陽葵も、今は玲奈を二度見しただけで、胸がざわついた。陽葵は玲奈の前に立ち、そっと指を伸ばし、彼女の手を引っかける。玲奈が見下ろした瞬間、陽葵は目をぎゅっと閉じ、勢いよく言った。「玲奈おばちゃん、ごめんなさい。陽葵、悪いことした。殴ってもいいから、でも......怒らないで。無視しないで」その言葉を聞いた途端、玲奈の胸はさらに痛んだ。どうして――同じ子どもなのに、こんなにも違うのだろう。陽葵は、こんなにも素直で優しい。それに比べて、愛莉は......――いや。今、愛莉のそばにいるのは、沙羅だ。玲奈はその場にしゃがみ込み、陽葵の頬をそ
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