All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

その夜、仕事を終えた小夜は車を走らせ、長谷川邸へと向かった。その手には、作成したばかりの離婚協議書が握られていた。この離婚協議書は、芽衣が離婚専門の恩師に頼み込み、小夜の結婚生活の実情に合わせて特別に作成してもらったものだ。まだ詰めるべき条項は残っていたが、小夜にもう待つ気はなかった。午後に圭介たちが去った後、彼女はすぐに芽衣に連絡を取り、未完成の協議書を送ってもらうと、今夜、長谷川邸で決着をつける覚悟を決めた。長谷川邸に到着したが、そこにいたのは使用人のみだった。夜十時を過ぎても、圭介も樹も帰宅しない。二人がどこにいるのかは、想像に難くなかった。だが、圭介は夜には戻ると言った。彼を信じるのは、これが最後だ。家政婦の千代が体を温めるようにと運んできた生姜湯を断り、小夜は一階のソファに腰を下ろして彼を待った。「奥様、お荷物は……」千代は小夜が出張から戻ったものと思い、手ぶらなのを不思議に思った。「少し用事があって戻っただけよ」小夜はそっけなく答えると、イヤホンをつけ、携帯で最新の国際ファッションウィークの映像を見始めた。そこは、すべてのファッションデザイナーが夢見る、世界最大の舞台。彼女も、もちろん例外ではない。この舞台に立てるのは、国際的な有名ブランドのトップデザイナーばかり。彼らが、世界の最先端のファッショントレンドを牽引しているのだ。見ているうちに、彼女はすっかりその世界に引き込まれていた。リビングの時計が鐘を鳴らし、小夜はそれでようやく零時を過ぎたことに気づいた。圭介も樹も、まだ帰ってこない。待ちくたびれた小夜は、ついに圭介に電話をかけた。しばらくしてようやく相手が出たが、その声は氷のように冷たく、苛立ちに満ちていた。「こんな夜更けに、何の用だ?」その声に重なるように、電話の向こうから若葉の声が聞こえてきた。「圭介、このパジャマどう?」小夜が何かを考える間もなく、通話は一方的に切られた。通話時間は、三十秒にも満たなかった。数秒後、彼女は携帯を置くと、ふっと自嘲の笑みが漏れた。昼間は三十分の時間さえ惜しみ、今度は話を聞く時間すらくれない。圭介にとって、どんな用事も、どんな人間も、自分より大切で、彼女との約束など、いつでも反故にしていいものなのだ。予想通りだった
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第12話

屋内に入ると、ふわりと漂う、ごく淡いお茶の香りが小夜の鼻をかすめた。目隠しが外される。目に飛び込んできたのは、静謐な空気に満ちた、趣のある和風の広間だった。お団子頭にかんざしを挿した端正な顔立ちの女性が近づいてきて、彼女のダウンコートを預かり、温かい湯を張った木盆を差し出す。小夜はそれに手を入れて清め、持ち物などを改められた後、ようやく奥の部屋へと案内された。そこもまた、静寂に包まれた和室だった。腰を下ろすとすぐにお茶と茶菓子が運ばれてきたが、その間、誰一人として言葉を発することはなく、張り詰めたような静けさが支配している。ここの作法は、ひどく厳格だ。小夜は長谷川本家を思い出した。あそこの作法も同じように厳格だったから、彼女は比較的すぐに順応できた。順応はできたが、やはり居心地は悪く、息が詰まるようだった。三十分ほど待っただろうか。外から落ち着いた足音が聞こえ、木の扉が開くと、長身で、優雅な笑みを浮かべた美しい男性が入ってきた。相手は彼女に向かって微笑み、頷いた。「徒花先生、でよろしいですね?」小夜は業界では「徒花」と名乗っている。頷いて挨拶を返し、礼儀正しく尋ねた。「失礼ですが、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」これまでのやり取りはすべてメッセージ上で行われており、この気前の良い依頼主の顔を見るのは、これが初めてだった。採寸データを受け取った時から、相手が見事な体躯の持ち主であることは分かっていた。しかし、これほど優雅で美しい顔立ちをしているとは思わなかった。圭介の美しさとは全く異なる、対極の魅力だ。この人は温和で優雅、圭介はどこか影のある、人を寄せ付けない高貴さを纏っている。相手は謎めいた微笑みを浮かべるだけで、小夜の問いには答えなかった。自己紹介をするつもりはないらしい。小夜も気にしなかった。彼女は似たような顧客の対応に慣れている。中には、はっきりとした身分を明かしたくない者もいるが、それは双方のやり取りに影響しない。ただ、この男性の顔立ちに、彼女はどこか見覚えがあるような気がした。どこかで会ったことがあるのだろうか?しかし、馴れ馴れしく尋ねることもできず、その疑問を心の奥に押し込めるしかなかった。すぐに、検品を終えた礼服と道具のバッグが運ばれてきた。使用人が
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第13話

小夜は、今しがた口にした言葉を撤回する気はなかった。彼女にとって、天野陽介という男は終始一貫して病的な人間、その一言に尽きた。しかし、この狂気じみた男と、これ以上言葉を交わす気もなかった。頭がおかしく、次に何をしでかすか分からない放蕩息子。まともな理屈など、到底通じる相手ではない。彼女は身を翻してその場を去ろうとしたが、陽介に腕を掴まれ、強引に引き寄せられた。あまりの力に、腕が折れるかと思うほどの痛みが走る。小夜は低く唸った。「放して!」陽介は彼女をきつく掴んだまま見下ろし、その目に狂気を宿していた。「高宮、警告しておく。もし圭介と若葉の邪魔をするようなことがあれば、どうなるか分かってるだろうな」彼は嘲るような笑みを浮かべた。「俺のやり方は、お前も知ってるだろ」知っているどころではない。過去の嫌がらせや屈辱の数々を思い出し、小夜の瞳は氷のように冷え切った。彼女は抵抗をやめ、目を伏せてしばし沈黙すると、再び顔を上げた時には、その顔に完璧な笑みを浮かべていた。「天野陽介、あなた、幼稚じゃない?それにしても、可哀想な人ね。もう何年……」小夜は首を傾げて少し考えると、楽しげに言った。「うん、十数年にはなるかしら。相沢若葉のことがそんなに長く好きなのに、全く実らないどころか、彼女と自分の親友をくっつけようと必死になるなんて。その忠犬ぶりと友情には、本当に涙が出そうよ。健気すぎて、見ていられないわ」陽介の顔がみるみるうちに怒りに染まる。彼が何か言おうとする前に、小夜は彼の頬を軽く叩き、心底残念そうな顔をした。「でも、あなたの状況、すごくよく分かるわ。本当に。だって、あなたにはその顔とお金以外、見るべきところは何もないもの。何から何まで長谷川圭介に敵わない。若葉があなたを相手にしないのは、彼女に見る目があるってこと。あなたに自覚があるなら、それが人生で一番マシな判断だったってことよ」陽介は、小夜のこれほど歯に衣着せぬ物言いを聞くのは初めてだった。これまでの物静かな姿とはまるで違う。笑っているのに、その眼差しは鋭く、人の心を容赦なく突き刺すようだった。彼は一瞬、呆気に取られて我に返れず、頭がくらくらした。小夜はその隙に腕を振りほどき、掴まれて痛む腕を揉んだ。気分は決して良くなかったが、顔には終始
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第14話

「大したことじゃないんだけどさ」その話になると、陽介はふうっと息をつき、少し身を乗り出した。「兄が最近帰国してさ、しばらくは海外にも行かないで、今年は国内にいるみたいなんだ。明後日、あいつのためにうちで宴を開くことになってな。身内と親しい友人だけ呼ぶんだけど、お前たち二人も来いよ」彼がそう言う時、宴への招待が長谷川圭介宛には夫婦二人分で届いているという事実を、意にも介さない様子だった。陽介にしてみれば、高宮小夜が来る必要など全くなく、ただ邪魔なだけだ。天野家は、彼女を歓迎しない。圭介と若葉さえ来てくれればいい。「宗介兄もお戻りになったのね」若葉の美しい切れ長の瞳が一瞬揺らぎ、すぐに微笑んで応えた。「もちろん、行かせていただくわ。どうして早く言ってくださらなかったの、プレゼントの準備も間に合わないじゃない」陽介は手を振った。「そんなもん、お前が準備する必要なんてないって。お前が来てくれるだけでいいんだよ」彼は圭介の方を向いた。「圭介、お前、その日は空いてるよな」圭介は淡々と言った。「ああ、行く」彼と宗介には多少の付き合いがあり、相手が帰国したことも、招待状が届いていたこともとっくに知っていた。当然、行くつもりだった。話がまとまると、一同はしばらく賑やかに過ごしてから、それぞれ解散した。陽介と別れた後、若葉は圭介の車に乗り、相沢家の屋敷へと向かった。車が相沢家の門の前に停まったが、圭介は一緒に降りようとしなかった。若葉は不思議そうに尋ねた。「圭介?」「今夜はだめだ。昼間、家の千代から用事があると電話があってな。一度戻らないと」圭介は穏やかな声でそう説明すると、車を発進させた。若葉は車が走り去る方向を見つめていた。その優美で穏やかだった笑みは一瞬で消え去り、氷のように冷たく、陰鬱な表情に変わる。……また、高宮小夜。本当に、しつこい女ね。……昨夜はポートフォリオの制作で徹夜し、今朝は早起きして出社した。午前中だけで立て続けに三人も面接し、小夜の疲労は色濃くなっていた。この働き詰めの日々は、体にこたえる。会社での引き継ぎは、できるだけ早く終わらせなければ。昼食を適当に済ませると、小夜はオフィスで少し昼寝をしようとソファに横になった。しかし、眠りについて間もな
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第15話

呼び出し音が数回鳴った後、電話は繋がった。「徒花先生」電話の向こうから聞こえてきたのは、宗介の優雅で、どこか笑みを含んだ声だった。清らかな泉の響きを思わせるその声に、小夜は一瞬、心を奪われそうになる。しかし、すぐに我に返ると、礼儀正しく挨拶を返し、本題を切り出した。「天野様、先ほどお送りいただいた招待状の件ですが、失礼ながら、どのようなご意図でしょうか」小夜は一拍置いて、丁寧に断りの言葉を続けた。「私と天野様との間のお取引は、先日礼服をお納めした時点で完了したと認識しておりますが」相手が天野家の長男だと分かった以上、彼女はますます関わりたくなかった。山荘で感じた血の匂い、そしてあの狂気じみた放蕩者の弟。天野家からは、ただ距離を置きたいと願うばかりだった。この一家は、あまりに厄介すぎる。電話の向こうから、くすり、と軽い笑い声が聞こえた。明らかに、彼女の言葉の裏にある意図を読み取っている。「高宮さん」今度は、宗介は彼女の本名を直接呼んだ。温かい声で、笑いながら言う。「あなたが作ってくださった礼服、大変気に入りました。これはささやかな宴で、感謝の印でもあります。どうか、私、天野の顔を立てていただけませんか」これは、完全にこちらの素性を知った上での物言いだ。相手の口調は終始穏やかで優しいが、その言葉には逆らうことを許さないような響きがあった。小夜はふと、この天野家の兄弟は、ある一点において非常に似ていると思った。二人とも同じように強引だ。ただ、兄の方が弟よりずっと成熟し、手練手管に長けている。こう言われてしまっては、もう断れない。ただ……小夜は数秒黙り込んだが、やはり尋ねずにはいられなかった。「天野様、私どもを結びつけるものは、礼服一着きりです。宴という、特別で大切な場に、私のような部外者がお邪魔しては、ご迷惑ではないでしょうか」小夜と圭介(けいすけ)は籍を入れただけで、彼女の身分を公にしてはいなかった。世間は圭介が既婚者であることしか知らず、その妻が誰なのかは知らない。圭介が小夜を社交の場に連れて行くことは滅多になく、ごく近しい友人たちだけが知る事実だった。そのため、圭介の妻としての彼女の存在は、社交界ではほとんど知られていない。長谷川家と天野家は親しい付き合いがあったが、陽介
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第16話

やがて、車は長谷川本家の敷地へと足を踏み入れた。巨大な花の彫刻が施された鉄門が静かに開くと、冬とは思えぬほど青々とした庭園が広がり、生命力に満ち溢れていた。小川にかかる古い橋が、古風な趣を一層深めている。車は庭園内の広い道を通って奥の母屋まで直接乗りつけ、車寄せの暖かい空間に滑り込んだ。車が停まるやいなや、義父の長谷川雅臣(はせがわ まさおみ)が出迎えた。彼はまず佳乃の手を取り、その温もりを確かめて安堵の表情を浮かべると、ようやく後から降りてきた小夜に視線を移した。その眼差しは、温度のない、厳しいものだった。この家で小夜に心を許しているのは、義母だけだ。圭介も、そして彼の父である雅臣も、彼女を快く思ってはいない。ただ、妻である佳乃の手前、雅臣の不快感はあからさまに表に出ることはなかった。小夜は淡々と声をかけた。「……お義父様」雅臣は素っ気なく応じると、佳乃の手を引いてさっさと家の中へ入っていく。小夜は黙ってその後に続いた。「圭介から、今夜は来られないと電話があった。待たなくていい」雅臣がそう告げると、佳乃の顔色が変わった。彼女は夫の手を振りほどくと、小夜の元へ歩み寄り、その手を取った。その顔には、心配と怒りが浮かんでいた。「小夜ちゃん、気を悪くしないでね。明日!明日あの子が帰ってきたら、お母さんがきつく叱ってあげるから。夫の務めも果たさず、なんてことするの!子供だけ連れて家を顧みないなんて!」「お義母様、大丈夫です。私がお二人とご一緒しますから」小夜の心には、もう怒りも悲しみもなかった。圭介に見捨てられるのは、これが初めてではないのだから。それに、彼女はもう圭介に何の期待もしていなかった。怒る佳乃をなだめ、小夜は席に着いて義父母と共に食卓を囲んだ。夕食は豪勢なものだったが、広い食卓を囲むのは、わずか三人。圭介と樹が不在なだけでなく、圭介の弟である佑介の姿もなかった。もっとも、小夜はそれに慣れていた。この家の次男、佑介との関係は実に奇妙なものだった。正月などの大きな祝日でもなければ、彼女はこの本家で彼に会ったことがない。いつも本家で食事をする時、佑介は決まって席にいないのだ。不思議なことに、両親である雅臣と佳乃も、この次男のことを気にかける様子はなく、彼のことを話題にするのもほとん
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第17話

その夜、小夜は義母の佳乃に引き留められ、長谷川本家で一泊することになった。圭介と樹は、結局一晩中帰ってこなかった。本家と小夜の会社との間には、ある程度の距離があった。翌朝は早くに起き、簡単な朝食を済ませると、慌ただしく支度を整えて家を出た。いつものように朝の会議を終えると、彼女は再び面接の業務に没頭した。幸いにも、その日は一日がかりの面接の末、ようやく適任者を見つけることができた。相手も仕事が早く、給与の交渉から入社日の決定まで、とんとん拍子に話が進んだ。これで、小夜もようやく肩の荷が下りた気がした。この人物に仕事を引き継げば、年内には会社を辞め、自分の好きなことに全身全霊で打ち込める。ただ……離婚の件も、これ以上先延ばしにはできない。彼女には理解しがたかった。圭介が自分を好かず、無視するのはまだいい。だが、この何日間、一度も家に帰ってこないとはどういうことか。離婚協議書は、果たして彼の目に触れたのだろうか。佳乃がどう催促してくれているかは分からないが、今が圭介と直接話せる唯一の機会かもしれなかった。その夜、佳乃から電話があり、本家で食事をしないかと誘われた。明日、小夜と圭介を本家から天野家の宴席へ向かわせるという口実で、圭介を呼び戻したのだという。小夜はもちろん同意した。今夜こそ、彼と離婚の話をつけなければならない。……その日の仕事終わり、小夜は圭介から「迎えに行く」という電話を受けた。小夜は、きっぱりと断った。すでに圭介に期待など何もしていなかったが、また道半ばで車から追い出されるような屈辱は味わいたくなかった。それに、目上の者の前で、圭介のために仲睦まじい夫婦を演じるのも、もううんざりだった。小夜は自分で車を運転し、長谷川本家へと向かった。庭を抜け、屋内車寄せに車を入れると、ドアを開けた途端、義母の怒声と、パシッ、パシッという乾いた音が聞こえてきた。車寄せでは、佳乃が棒を片手に圭介を追い回し、叩きながら怒鳴りつけていた。「一体どこにそんな夫がいるっていうの! 妻を迎えに行きなさいとあれほど言ったのに、それすらできないなんて! 私がいつそんなふうに育てたっていうのよ!ほら、叩かれて当然でしょう!」長身の圭介は、実の母親に追いかけ回されても反撃はせず、ただ面倒そうに身を
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第18話

雅臣と圭介が書斎で何を話したのか、小夜には知る由もなかった。彼らの話が終わり、佳乃の体調が落ち着くのを待ってから、一家五人はようやく食卓を囲んだ。圭介の弟、佑介は、やはり帰ってこなかった。長いテーブルの上座には、雅臣と佳乃が並んで腰掛けている。圭介と樹が雅臣の側に座ったのに対し、小夜はいつものように圭介の隣ではなく、義母である佳乃の隣に腰を下ろした。食卓にいた全員の視線が、一斉に小夜へと注がれる。佳乃が何か言う前に、小夜は先んじて佳乃の好物を箸で取り、その小鉢へ入れながら微笑んだ。「最近はなかなかお会いできませんでしたから、お義母様ともっとお話ししたいと思いまして」圭介の隣に座りたくない、というのが本音だった。しかし、佳乃はそれを聞いて喜び、小夜に圭介の隣へ移るよう促すことはなかった。圭介はわずかに眉をひそめたが、何も言わなかった。食事は、一見すると和やかで穏やかに進んだ。明日、本家から天野家の宴へ向かうことは事前に決まっていたため、その夜、小夜たち一家三人は本家に泊まることになった。……本家では、小夜と圭介は同じ寝室を使い、樹は隣の部屋で寝る。「ママ、お風呂入りたい」自分の部屋で若葉とオンラインゲームをしていた樹は、待ちくたびれて退屈になり、小夜を呼びに来た。実のところ、樹はもう、小夜が若葉を好いていないと言ったことをそれほど根に持ってはいなかった。ママが嫌なら、ママの前でその話をしなければいい。これからはこっそり若葉おばさんと遊べばいいのだ。それに、このところ母親からの連絡はなく、自分への態度も以前ほど熱心ではないように感じて、心の中では拗ねつつも、少し寂しくも思っていた。本当は、夜になったらいつものようにママが部屋に来て、お風呂に入れてくれて、物語を読んでくれるのを待つつもりだった。その時は、今度こそちゃんと言うことを聞いて、そうすれば仲直りできる、と。だが、ゲームを終えてしばらく経っても、母親は一向に来る気配がなかった。仕方なく、樹は自分から小夜の部屋へやって来たのだった。気まずそうな顔で戸口に立つ樹の姿に、小夜は心の中でそっとため息をつき、読んでいたデザイン関連の本を置いて歩み寄った。この結婚がどういう結末を迎えようと、母親として、樹に対する責任は果たさなけ
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第19話

書斎は、息が詰まるような静寂に包まれた。圭介は眉根を寄せ、ようやく一つの可能性に行き着いた。「……若葉のことで、か?」小夜が突然こんな騒ぎを起こした理由を、彼はそう結論づけたのだろう。妖艶な切れ長の目を細め、その顔には嫌悪と苛立ちの色がますます濃くなっていく。「高宮小夜、嫉妬に狂うのも大概にしろ。これ以上騒ぐなら、長谷川夫人の座から降りるがいい。こんな紙切れを持って、とっとと失せろ!」圭介はそう言い放つと、テーブルの上の離婚協議書をひったくり、小夜の顔めがけて投げつけた。彼は、小夜がどれほど自分を愛しているかを知っていた。この離婚騒動も、彼女なりの気を引くための手段、滑稽な茶番に過ぎないと高を括っていたのだ。小夜は、かつて自分を夢中にさせたその冷酷で魅力的な顔を見つめた。しかし今、心に宿るのは燃え殻のような恨みと、それに伴う底なしの徒労感だけだった。まるで、分厚い壁に一人で話しかけているような、途方もない虚しさ。自分たちの結婚がここまで歪んでしまったのは、果たして若葉一人のせいだろうか。彼女はきっかけに過ぎない。火種は、ずっと前からこの関係の奥底で燻っていたのだ。投げつけられた離婚協議書を空中で掴み、強く握りしめる。小夜は顔をこわばらせ、一言一言、区切るように低い声で言った。「長谷川さん、もう、疲れたんです。耐えるのは限界。あなたとは、もう本当にやっていけない。私たち……これで終わりにしましょう。お互いを、解放して」おそらく、小夜の口調があまりに真に迫っていたのだろう。圭介の脳裏に、一瞬、彼女が本気なのではないかという疑念がよぎった。彼が呆然とし、何かを言いかけたその時、書斎机の電話が鳴った。目を落とすと――相沢若葉からの着信だった。書斎机の向かいに座っていた小夜にも、その表示ははっきりと見えた。圭介が電話に出ようとするより早く、彼女は離婚協議書をテーブルに叩きつけた。「あなたがサインさえすれば、私はすぐに出ていく。そうすれば、あなたの愛する人に、正々堂々とした立場を与えてあげられる……」ビリッ――紙が引き裂かれる音が、唐突に響いた。小夜は、角だけが残った離婚協議書を押さえたまま、宙を舞い、はらりはらりと落ちていく白い紙片を呆然と見つめた。耳元で、圭介の怒声が炸裂する。「今日のこ
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第20話

「任せて!」二人は他愛もない話をしてから電話を切った。……アトリエまでは、さほど時間はかからなかった。小夜は竹林を抜け、アトリエのある別荘の前に車を停めたが、向かいの別荘の前に数台のトラックが停まり、多くの人々が家具を運び入れているのが目に入った。引っ越しだろうか。その時、荷物の搬入を指示していた若い女性が彼女に気づき、遠くから声をかけ、ゆっくりと歩み寄ってきた。「徒花先生、こちらにいらっしゃるのはお久しぶりですね。お元気でしたか?」小夜もここではデザイナーとしての雅号で通しており、顔見知りの隣人たちも皆、そう呼ぶ。礼儀正しく挨拶を返し、彼女はついでに尋ねた。「お引越しですか?」「ええ」その話になると、女性は目を細めて嬉しそうに笑った。「ここは正直、不便な場所でしょ? 生活するにはあまり向いていなくて、この別荘もずっと手放したかったんですけど、なかなか買い手が見つからなくて。それが、この間、海外帰りの博士だという方が、相場よりかなり高い値段で買い取ってくださって。近々お住まいになるそうなので、急いで片付けて明け渡しに来たんです」海外帰りの博士、という言葉に、小夜の細い眉がぴくりと動いた。最近、その言葉には少し過敏になっていた。無意識のうちに、帰国したばかりの相沢若葉を連想してしまう。彼女も博士号を持っている。だが、すぐに考え直した。若葉が都内に住む場所に困っているわけではない。あれほど大きな相沢家に、彼女が住む良い場所がないはずがない。よほどの物好きでもなければ、こんな不便な場所にわざわざ高値で別荘を買ったりはしないだろう。そもそも、自分がここを買ったのも、安くて静かなのが取り柄だったからだ。アトリエとして使うには申し分ないが、生活するには確かに不便だった。ふと浮かんだ考えを打ち消し、小夜は笑顔で隣人に祝いの言葉をかけた。二人はそこで別れ、それぞれの用事に戻った。……午後いっぱいポートフォリオの作成に没頭し、気づけばもう宴会の時間が迫っていた。小夜は義母の佳乃が誂えてくれた、真珠色の光沢を放つ紫のドレスに着替え、車を運転して天野家の宴が開かれる場所へと向かった。天野家の宴の場所には、見覚えがあった。以前、宗介に礼服を届けた場所の近くだ。あの時は山の上だったが、今回
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