Todos los capítulos de 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Capítulo 401 - Capítulo 410

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第401話

絵筆が舞う。烏が乱れ飛び、枯れ枝が牙を剥き、月は暗雲に呑み込まれる。画用紙の上には、陰鬱な夜景が広がっている。それは、佳乃の筆がよく描いていた風景でもあった。小夜はただ、佳乃の心境になりきり、その筆致を真似て、彼女の心底に抑え込まれた絶望や恐怖を……一筆一筆、再び描き出し、コルシオに伝えようとする。時に、絵は言葉よりも雄弁に心を語るものだ。薄暗いアトリエの中、ベールを被った小夜は絵筆を動かす手を止め、人形のように静止すると、傍らで同じく静寂に沈むコルシオをじっと見つめた。コルシオの呼吸が、次第に重くなる。彼は呆然と手を伸ばし、その指は、画の中で飛び立とうともがく烏の上で止まった。しばらくして、突然口を開いた。その声はひどく辛そうで、低く掠れていた。「愛しい人、辛いのか?」彼は、絵から読み取ったのだ。小夜は口を開かない。コルシオが自分に話しかけているのではないこと、答えなど必要としていないことも分かっている。ただ、彼の言う通り……自分は、とても辛かったのだ。長谷川家に嫁ぎ、佳乃に初めて会った時から、小夜は一目で分かった。優しい彼女が持つ魂の根底にある色は、苦痛に満ち、傷だらけなのだと。初めは分からず、理解もできなかった。だが、詳しい事情は分からなくとも、ここでわずか数日過ごしただけで、小夜は佳乃の苦しみがどこから来ているのかを肌で理解した。彼女ははっきりと知っている。目の前の男こそが、すべての元凶なのだと。小夜は再び絵筆を手に取った。筆先が迷いなく動き、画の中の烏の首筋へと落ちる。彼女が何をしようとしているのか察したのか、突然、右手首を強く掴まれた。小夜は構わず、コルシオの骨を砕かんばかりの力による痛みをこらえながら、烏の首筋に深く一筋の線を引いた。――頭が、体から離れた。手首に骨が軋むほどの激痛が走り、絵筆が床に落ちて軽い音を立てた。彼女は一言も発さず、コルシオから降りかかるであろう怒りを静かに待った。しばらくして、手首の痛みが和らいだ。コルシオは手を離し、彼女の赤くなった手首を優しく揉み、撫でさすり、さらには頭を下げて軽く口づけ、労わるように息を吹きかけた。そして、とても小さな声で言う。「愛しい人、私のそばにいると、どうしていつもそんなに辛そうなのだ。どうすれば、君を幸せにして
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第402話

食事を終えると、コルシオは思いがけず小夜を古城の外へと連れ出した。最近ふさぎ込んでいるのは、ずっと部屋に閉じこもっているせいだろうから、森へピクニックに行こう、と彼は言う。小夜は黙ってそれに従った。たしかに、ずっとここに閉じ込められているのには飽き飽きしていたし、外の空気を吸うのも悪くない。車は険しい小道を抜け、島に広がるジャングルの一角で停まった。床まで届く金色の紗のドレスを纏い、金色のベールで顔を覆った小夜は、紺色のカジュアルスーツ姿のコルシオに手を引かれ、開けた芝生へと向かった。すぐそばを、浅い小川がせせらいでいる。そこにはすでに召使いの装いをした若者たちが音もなく控えており、ピクニックの準備は万端に整えられていた。彼に手を取られ、ふかふかの椅子に腰を下ろす。ベール越しで視界は遮られているが、耳元で虫や鳥のさえずりが、すぐそばで小川の音が聞こえ、青々とした草木の香りが色濃く漂ってくる。どこからか飛んできた花びらが数枚、風に舞って彼女の裾に落ちた。小夜のふさぎ込んでいた心も、この広大な自然の中では少しだけほぐれるような気がした。暖かな陽光が紗のドレスに当たり、淡い金色の光を放っている。小川のほとりに座るコルシオは、コルシオは小川のほとりでこちらを向き、イーゼルに向かって絵筆を走らせていた。見なくても分かる。彼が描いているのは今の自分ではない。この男が何を考えているのか、小夜には本当に理解できなかった。毎日毎日、随分と暇そうにしている。古城では毎日のように顔を合わせるが、大抵はどこかぼんやりとしていて、一体何がしたいのか見当もつかない。まさか、自分を一生ここに閉じ込めておくつもりじゃないでしょうね?……しばらく柔らかな日差しを浴び、軽いお菓子を口にすると、彼女の気持ちもだいぶ軽くなった。そこでようやく、小夜はゆらりと立ち上がり、小川のほとりで絵を描くコルシオの方へと歩いていった。ベール越しでは足元がよく見えず、一歩一歩慎重に進む。近づくと、コルシオが迎えに出て彼女を優しく支え、イーゼルの前へと導いた。「今日の絵は、どうだ?」小夜はベールを少しめくった。キャンバスの中で椅子に座る女は金色の紗に包まれ、陽光の下で神秘的かつ神聖に見える。顔立ちははっきりと描かれていないが、一目で分かった――やは
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第403話

彼が姿を見せなくなったことは、本来なら小夜にとって良いことのはずだった。だが、間近に迫った結婚式のせいで、彼女は少しも喜べなかった。もう、おしまいだわ。二晩続けて眠れず、小夜はもう限界だった。コルシオと直接話をつけることにした。無理やり結婚だなんて、本当にどうかしている。どう考えても、ありえない!絶対に、ありえない!夕食を済ませ、部屋で夜が少し深まるまで待ち、何度も自分に言い聞かせてから、小夜はようやく長い廊下を抜けて上階の主寝室へと向かった。ベールを顔に被ってドアをノックする。返事はない。何度かノックしたが、誰も応じなかった。アトリエにいるのかもしれないと思い、アトリエのドアのところで何度かノックしたが、やはり返事はない。しかし、アトリエのドアはわずかに隙間が開いていた。鍵は開いている。中にいるはずだ。また何かに没頭しているか、単にノックを無視しているだけなのだろう。少し躊躇したが、意を決してそっとドアを押し開け、ベールをわずかにめくって中を覗き込んだ。その瞬間、小夜は凍りついた。目が、みるみる見開かれていく。彼女が見たものは――……薄暗いアトリエの中。あちこちに置かれた絵画に被せてあった白い布が、いつの間にか剥ぎ取られ、床に散乱している。その下から現れた絵の正体は――その中の一枚に、小夜の目は釘付けになった。裸の女。美しくも儚げな白い肌は、無数の赤い紐で固く縛られている。青白い男の手が、赤い紐の絡まる女の白い首を乱暴に掴み、目尻から零れる涙にも構わず、無理やり引き寄せて口づけをしていた。そんな絵が、いくつもあった。もっと露骨なものもある。女ひとりだけを描いたものもあれば、男と女が裸で生々しく絡み合っているものも……構図は様々で、どれもひどく淫靡で退廃的だった。数ある絵の中で男が横顔を見せているのは一枚だけだったが、それは紛れもなくコルシオだった。そして女の顔は――どれもはっきりと、佳乃だった。小夜はその場に立ち尽くした。アトリエと繋がる主寝室の方から微かな物音がして、ようやく我に返る。二歩後ずさり、慌てふためいてその場から逃げ出した。正直、恐ろしかった。自分が何をしに来たのかも、すっかり忘れていた。自室に戻り、窓を開けてしばらく冷たい潮風に当たる。小夜は胸
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第404話

逃亡の計画がまとまると、小夜は結婚式をそれほど嫌悪しなくなり、ようやく夜も眠れるようになった。ただ、一つだけ分かっていることがある。結婚式を利用して逃げ出すなら、少なくとも一点は確実にしなければならない。式場がこの閉ざされた古城の中であってはならないのだ。できれば、人が集まる外の式場で……翌日の朝。朝食を終えて立ち去ろうとするコルシオの袖を、小夜は掴んで無言で引き留めた。最近、結婚式の準備のせいか、コルシオは朝食を終えるとすぐにどこかへ出かけ、夜遅くにしか戻ってこなくなっていた。一人の時間は気楽でよかったが、今日だけは別だ。するとコルシオは彼女の手を優しく握り返し、笑みを滲ませた声で言った。「愛しい人、俺がいなくなると寂しいのか?」「……」小夜は答えず、ただもう一度軽く袖を引いた。「君は相変わらず恥ずかしがり屋だな。引き留めたいのに、決して言葉にして素直に言おうとはしない」コルシオは甘やかすように小さくため息をつき、「構わないさ、俺がこれほど君を愛しているのだから」と続けた。こうして、城に残った。目的を果たすと、小夜はすぐに彼から手を引いた。アトリエで直視に耐えない変態的な絵を見て以来、彼女は目の前の男をまともに見ることができなくなっていた。表向きは抑制が効いていて紳士的に見えるが、その頭の中はひどく汚れきっているのだ。今ではわずかに触れられるだけでも、吐き気をこらえなければならなかった。しかしコルシオは、彼女がただ恥ずかしがっているだけだと思い込み、低く笑うだけで何も言わなかった。……昼下がり、庭園にて。召使いがいつものようにイーゼルを立てた。だが今回、絵筆を握るのはコルシオではなく、金色の紗のドレスを纏った小夜だった。ベールの端を軽くめくり、彼女は絵筆を走らせた。色使いは佳乃の心を模倣したこれまでの陰鬱で生気のないものとは違い、明るく鮮やかだった。たちまちキャンバスの上に、荘厳で明るい教会が描き出される。青々とした芝生の上にそびえ立つ教会、画面の隅には太陽が輝き、神聖で眩しい光景だ。さらに数筆重ねると、純白のウェディングドレスを纏った新婦が花束を手に、スーツ姿の新郎と腕を組んで、教会へと続くレッドカーペットを歩く姿が浮かび上がった。まるで、今まさに挙式の最中であるかのような光景だ
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第405話

だが、直前で手首を強く掴まれ、動きを封じられた。鮮血のような赤い絵の具が数滴、新婦のウェディングドレスに飛び散っただけで、絵筆は画面に届かなかった。コルシオがわずかに力を込めると、手から絵筆が滑り落ちる。小夜は強引に彼の腕の中へ引き寄せられた。背中に密着した彼の胸から、激しい心臓の鼓動が伝わってくる。頭上からは、重い息遣いと、やや上擦った声が降ってきた。「愛しい人。考えたんだが……やはり教会で、俺たちの永遠の絆を誓おう」「……」目的は達成できたはずなのに、なぜこれほど腹が立つのか。いっそ、目の前の絵を引き裂いてしまいたかった。……他人の感情をなぞって絵を描くという行為は、あまりにも精神をすり減らす。半日かけて、小夜はようやく荒ぶる気持ちを落ち着けることができた。ともかく、目的はひとまず果たせた。結婚式は、屋外にある島の教会で行われることになった。小夜の演技があまりに真に迫っていたからか、コルシオが結婚式に入れ込みすぎているからか。あるいは、彼が焦がれてやまない「佳乃」に、結婚式の準備そのものへ関わってほしかったからか。理由はともかく、コルシオは小夜に式の演出に関するすべての決定権を与えてくれた。数日後の、庭園にて。小夜は分厚いカタログを膝に置き、そこに並ぶ贅を尽くしたオーダーメイドのウェディングプランを眺めていた。どこか物珍しい気持ちになる。自分の結婚式のためにこんな準備をするのは、初めてのことだった。たとえ、これが狂人に付き合うだけの極めて馬鹿げた偽りの結婚式だとしても。ただ、この機会のおかげで、閉ざされた古城にようやくまともな話し相手ができた――外部から呼ばれたウェディングプランナーだ。「プランは、これだけですか?」ざっと目を通すと、小夜はカタログを閉じ、傍らで落ち着かない様子で立っている、茶色い巻き毛の女性に尋ねた。「お名前は……」「リアと申します、奥様」女性はおずおずと答えた。「リアさん。いい響きのお名前ね」小夜はベールの下で微笑んだ。「私は高宮小夜よ。高宮さん、と呼んでちょうだい」リアはちらりと、小夜の背後で目を伏せて控えている召使いの様子を窺い、咎めるような反応がないのを確かめてから、慎重に応じた。「高宮さん。では……こちらのプランは、どれもお気に召しませ
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第406話

「ネグローニを二つ」ロングコートの男はバーテンダーから深い紅色のカクテルを受け取ると、そのうち一杯を、カウンターで唯一突っ伏している――どうやら完全に酔いつぶれているらしい赤毛の男の手元へ押しやった。「起きろ」赤毛は乱れ、男は身じろぎすると、わずかに顔を上げた。酔いに朦朧としたアクアマリンの瞳がこちらを覗き込む。半ばカウンターに突っ伏したまま、差し出されたカクテルを遠慮なく飲み干す。水色の瞳はますます潤み、にやにや笑いながらもう一杯を奪い取ろうと手を伸ばしたが、さっとかわされた。ロングコートの男が帽子のつばを上げる。冷ややかな切れ長の目が覗いた。「フランシス。それがお前の仕事のやり方か?」「冷たいねえ」フランシスと呼ばれた赤毛の男がぶつぶつ文句を言う。「圭介、俺たち何年ぶりだと思ってんだ。何年ぶりかに会った親友への第一声がそれかよ。酒一杯も寄こさないなんて、相変わらず器が小せえな」「まだ酔いが覚めないって言うなら、お前んちのワインセラー、今すぐ燃やすぞ」圭介は彼の戯言に付き合う気など毛頭なかった。「ひでえ男」フランシスはぶつぶつ言いながら、ふらつく手で懐からしわくちゃになった招待状を取り出し、ぽいと圭介に向かって投げてよこした。「見ろよ、コルシオの化け物、今度はどうやら本気だぜ。お前の愛しい奥さんが、あの化け物に嫁ぐってさ。ははははは、ざまあみろ!いっつも俺に隠して見せねえからだ……ケチめ!」それは結婚式の招待状だった。新郎の名はコルシオ。奇妙なことに、新婦の欄は空白のままだった。圭介には、その理由が痛いほど分かっていた。あの狂った化け物は、まだ自分の母に執着しているのだ。そして今度は、自分の妻である小夜にまでその汚い手を伸ばそうとしている。ふざけるな。考えるだけで腸が煮えくり返るほど腹が立つ。そこへフランシスの呂律の回らない呑気な呟きが追い打ちをかけ、圭介は堪えきれずにその頭へ一発げんこつを叩き込んだ。「うっ……!」フランシスは頭を抱えてカウンター脇にうずくまり、半泣きで喚いた。「てめえ!痛えだろうが、本気で殴りやがって、親友を殺す気かよ!」「まだ目が覚めないか?」圭介は拳を握り、ゴキゴキと威嚇するように音を鳴らした。「覚めた!ばっちり覚めた!」圭介の表情が少しだけ
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第407話

フランシスはああ言っていたが、圭介はそれでもやはり安心しきれずにいた。今回の件は彼にとって極めて重要だ。愛する小夜を奪い返すだけでなく、久々のコルシオとの直接対決でもある。前回正面からぶつかったのは大学時代――あの時は惨敗を喫し、あわや生きて戻ってこられなくなるところだった。払った代償は、あまりにも大きすぎた。今回だけは、絶対に勝たなければならない。何があっても、勝つしかないのだ。バーを出ると、同じく黒のロングコートを纏った彰が音もなく傍らに現れ、低く告げた。「準備は整いました」「ああ」少し考えてから、圭介は付け加えた。「何人かフランシスを見張らせろ。あのふざけた結婚式が始まるまで、あいつには絶対に酒を触れさせるな。しくじられたら困る」「承知しました」その時だった。抜群のプロポーションを誇る、妖艶な真紅のドレスの女が、腰をくねらせながら近づいてきた。細いタバコを咥え、煙の輪を吐きながら、目を細めて圭介の端正な顔立ちを舐め回すように眺める。そしてタバコを差し出し、遠慮なく誘いをかけた。「ねえイケメンさん、バーの中からずっと見てたの。あなた、すごくいいわ。気に入っちゃった。今夜、予定ある?」女は赤い唇をちろりと舐め、その意図は誰の目にも明らかだった。「悪いが、妻がいるんでね」圭介は差し出されたタバコを手で遮り、素っ気なく断った。「妻がタバコの匂いを嫌がるんだ。とっくにやめたよ」女は一瞬きょとんとしたが、それ以上は絡んでこず、「残念」と一言残して、ゆっくりと立ち去っていった。圭介は去っていく女など気にも留めず、視線を島の中心へと向けた。遠く、山頂にそびえ立つ巨大な古城が見える。彼の愛する人、彼のたった一人の妻が、あそこに囚われているのだ。……結婚式の日が、刻一刻と近づいてくる。逃亡の心の準備はできていたはずなのに、なぜだろう――カウントダウンが進むにつれ、小夜の胸はますます落ち着かなくなっていく。何か、決定的に良くないことが起こる気がしてならない。また夜も眠れなくなった。幸い、コルシオに会うときは常にベールで顔を隠している。さもなければ、目の下のひどい隈を見ただけで、彼女が結婚式をどれほど望んでいないか、一目瞭然だっただろう。ある朝の食卓にて。コルシオは濃いコーヒー
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第408話

小夜は慌ててベッドから身を起こし、まず自分の体を確かめた。特に変わった様子はない。部屋に閉じ込められたのかもしれない――そう思い、急いでベッドを下りてドアへ駆け寄ると、あっさりと開いた。以前見張りについていたあの狼の姿さえない。疑念はますます深まった。分からない。気絶させて、一体何がしたかったというのか?どうしても安心できず、浴室へ駆け込んでドアに鍵をかけ、服をすべて脱ぎ捨てた。鏡の前で隅々まで体を確かめる。注射痕や、何か印のようなものを付けられていないか。あの狂人に、良い期待など抱けるはずがなかった。念入りに確認したが、何もなかった。体は以前と何ら変わりなく、気分が悪いわけでもない……ますます分からなくなる。コルシオは突然あんなことをして、一体何のつもりなのか。その日の夕食にて。食事もそっちのけで、小夜はコルシオの手を掴んだ。何も言わず、ただ無言で不安と疑惑をぶつける。ベール越しに、コルシオは優しく彼女の頬を撫でた。「心配しないで、愛しい人。君に悪いことなど何一つしていない。ただ、俺が少し安心したかっただけなんだ」――じゃあ、一体何をしたっていうの!心は恐怖に満ちていた。だが口を開いてコルシオの美しい夢を打ち砕く勇気はなく、この様子では謎を解き明かしてくれるはずもない。小夜は、諦めて引き下がるしかなかった。数日間、びくびくしながら過ごした。体に不調がないことでようやく少し安心したが、完全には安心しきれない。ここから逃げ出したら、絶対にすぐ病院で全身検査を受けなければ。そうしなければ、本当の安らぎなど得られない。不安に苛まれ、一日がまるで一年のように長く感じられていたその時――小夜は突然、思いがけない知らせを受け取った。……ウェディングドレスの最終フィッティングの日。時間が限られている上、貴族級の結婚式とあって、ドレスの縫製には大勢のテーラーが必要とされた。作られるドレスも一着ではない。試着のため、古城には外部から多くの人々がやって来ていた。人々がせわしなく行き交う中、小夜はすれ違いざまに、手を軽く握られるのを感じた。反応する間もなく、手の中に何かが押し込まれる。それが何かは分からなかったが、無意識にぎゅっと握りしめた。休憩の合間、彼女は人のいない隅に隠れた。ゆったりとしたドレスの陰で慌てて
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第409話

道中、絶え間なく花びらが舞い、祝福の歌声が降り注いだ。やがて花で飾られた長い車列は、黒薔薇に彩られ、白鳩が舞い飛ぶ教会の前に停まった。そこには招待客のみならず、沿道から追いかけてきた祝福の人々も群がっていた。この上なく、盛大な光景だった。これが極めて馬鹿げた結婚式で、狂った新郎以外誰も本気になどしていないと分かっていても、小夜は緊張を抑えられなかった。花嫁として結婚式に臨むのは、彼女の人生でこれが初めてだった。たとえ、それが狂人の妄想に付き合うだけの虚構の式であっても……重い裾を持ち上げ、車を降りる。視界に白手袋をはめた男の手が差し伸べられ、続いてコルシオの笑みを含んだ声が聞こえた。「愛しい人、しっかり掴まっておいで」気のせいだろうか。笑みを帯びたその声の奥に、ごく微かな嗚咽を聞いた気がした……泣いている?コルシオが、泣いている?その事に、小夜は愕然とした。こんな残忍で冷酷な男に、涙などあるはずがない。きっと気のせいだ――会場の熱狂的な歓声のせいで、そう聞こえただけだ。コルシオの手を取る。一瞬、痛いほど強く、強く握り返された。まるで、二度と離さないとでも言うように。コルシオの異常なまでの執着に、なぜか無性に悲哀を感じた。花で敷き詰められた赤い絨毯を歩きながら、結婚行進曲を聴きながら、握り合った手の微かな震えを感じながら、小夜は心の中でため息をつき、静かに爆発へのカウントダウンを始めた。三。二。「ドォォン――!」赤い絨毯の突き当たり、無人の教会から突如として轟音が炸裂した。地面が激しく揺れ、外で新郎新婦を待ち受けていた人々から悲鳴が上がる。その衝撃で、コルシオの手がわずかに緩んだ。再び力強く掴み直されるより早く、小夜は即座にその手を振りほどいた。頭のベールを引き剥がすと同時に、もう片方の手で腰の紐を強く引く――歩くことさえ困難なほど重厚な、星屑を散りばめた紗のオーバースカートがはらりと地に落ちた。その下から現れたのは、軽やかで動きやすいシンプルな白いドレスだった。目の前で茫然と立ち尽くすコルシオと、視線が絡み合う。初めて、コルシオの顔を正面から見た。歳月はこの男に何の痕跡も残していない。佳乃の油絵の中に描かれていた彼と寸分違わぬ、妖しくすらある美貌……いや、狂気を孕んでいる分、さら
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第410話

潮風が吹き抜け、派手なバンドの音楽が激しく鳴り響く。喧騒の中、オレンジ色のオープンタイプのスポーツカーの助手席で、白いドレスに身を包んだ女がサングラスの男の首にしっかりと腕を回している。まだ激しい動悸が収まらぬうちに、男の低くからかうような笑い声が耳元に響いた――その瞬間、小夜の中で何かがプツンと弾けた。我に返ると、無性に怒りがこみ上げてきた。こんな命懸けの時に、一体何を考えているの!怒りと恐怖、そして安堵が複雑に入り混じる。小夜は考えるよりも先に、圭介の首に回した腕にぐっと力を込め、勢いよく身を乗り出して――その端正な顔へ、強烈な頭突きを叩き込んだ。このクソ野郎!圭介は少しも避けようとはせず、ぶつかってきた彼女の額をまともに受け止め、楽しげに低く笑った。「痛いな、花嫁さん」「おいおい、頼むから今は格好つけてイチャついてる場合じゃねえだろ!逃げるぞ!」傍らから、苛立った声が割り込んできた。小夜ははっと我に返った。そこでようやく、スポーツカーの運転席に赤毛の男が座っていることに気がついた。彼は急ハンドルを切って車を反転させながら、小夜の視線に気づいたのか、歯を見せてにっと笑う。「美人さん、こんにちは。俺はフラ――」パシッ!圭介が容赦なく赤毛の男の後頭部を叩いた。「余計な口を叩くな。運転しろ。まずこの島を出るぞ」「女が絡むとすぐそれだ、この色ボケ野郎!」フランシスは悪態をつきながらも、この島全体がコルシオの縄張りだと十分に分かっている。長居して相手に態勢を立て直されてはまずい。車載のメガホンを掴み、大声で叫んだ。「野郎ども、ずらかるぜー!」「ウォォォー!」後続の豪華な車列から一斉に歓声が上がる。屋根のドラムバンドもドンドンバンバンとさらに激しく楽器を打ち鳴らす。車列は一斉に方向転換を始めた――だが、ただ逃げるためではない。弧を描くように広がり、追手と人混みとの間に強固な車の壁を作ったのだ。その隙を突き、オレンジ色のスポーツカーが弾かれたように飛び出す。小夜は圭介の腕に抱かれたまま、吹きつける強い潮風を感じながら、思わず後ろを振り返った。彼女は、見てしまった。パニックに陥る喧騒の中、先ほどの爆発で灰色の煙が立ち上る教会の前、黒薔薇が散乱する赤い絨毯の上――コルシオが静かに立
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