夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった のすべてのチャプター: チャプター 421 - チャプター 430

462 チャプター

第421話

そもそも、この船から無事に降りられる保証すらないのだ。そうなれば、もはや信じる信じないの話ではなくなる……今は、もう一度だけ彼を信じて、船を陸に着けてもらう以外に道はなさそうだった。迷っていると、圭介が再び口を開いた。「一つ忘れるな。大叔母さんは今も昏睡状態だ。お前が今帰ったところで、ただ待つことしかできない。しかも、今の状況でお前が戻れば、かえって向こうに危険を持ち込むことになるぞ。それでもいいのか?」「……」小夜は深く息を吸い込んだ。「分かった。でもこの十五日間、絶対に私と距離を取って」「それはダメだ」小夜が怒り出す寸前で、圭介はまた意地悪く笑って言った。「あと十五日もすれば、お前と俺は完全に無関係になる。俺にとっては不本意でならない。だから、この十五日間は俺に埋め合わせをしろ。お前が嫌がるなら最後の一線は越えないと約束してやる。だが、それ以外は拒否するな」――何が埋め合わせよ!怒りがカッと込み上げてきたが、圭介のこのふざけた態度を見ていると、逆に本当に離婚に同意したのかもしれないと、小夜も少しだけ信じる気になってきた。だが彼女が口を開く前に、圭介が続けた。「それに、こんなに長く溜め込んでいるんだ。お前だって、本当はしたいんじゃないのか? 俺は体つきも悪くないし、顔だっていい。相性だって、かなりいいはずだ。前だって、お前も嫌じゃなかっただろう?小夜、お前だって別に損はしないだろ」バシャッ!もう限界だった。小夜は手元のコーヒーを彼の頭からぶちまけ、カップをテーブルに激しく叩きつけると、「恥知らず」と低く吐き捨て、背を向けてその場を去った。……ダイニングは再び静寂に包まれた。小夜が立ち去ったのを見届けると、遠くから面白がって覗き見していたフランシスが駆け寄ってきた。頭からコーヒーを被った圭介の狼狽ぶりを見て、愉快でたまらないといった様子だ。「お前にもこんな日が来るとはな」フランシスはご機嫌で向かいの席に座り、さらに言った。「しかしお前の奥さん、大人しそうに見えて結構気が強いんだな」圭介はナプキンで顔のコーヒーを拭きながら、彼を冷ややかに一瞥し、淡々と答えた。「あいつは、俺にだけ怒るんだ」そう言いながら、わざと「だけ」の部分を強調するその顔は、どこか得意げだった。フラン
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第422話

船がゆっくりと港に近づいていく。小夜は甲板に立ち、岸に広がる色鮮やかな街並みを眺めていた。白いワンピースが海風に煽られ、身体の線に沿ってはためいている。前方に広がるのは、ナポリだ。自分を拉致したコルシオが、イギリスのロンドンからイタリアまで連れ去っていたことを、彼女はつい先ほど知ったばかりだった。あの島はシチリア島だったのだ。まさか、こんなに遠くまで。「風が強いぞ。もっと着込んだらどうだ」突然、肩に黒いロングコートが掛けられた。腰をぐっと引き寄せられ、圭介の腕の中にすっぽりと収まる。馴染みのある、凛とした白檀の香りが鼻腔をくすぐった。反射的に振りほどこうとしたが、彼の力には到底敵わない。「動くな」圭介は腰を抱いたまま、彼女の頭に顎を乗せて軽く擦りつけた。「埋め合わせをするって約束しただろ。拒否権はないぞ」「……そんな約束、私はした覚えないわ」圭介の圧倒的な気配に包み込まれるのが耐えられない。なのに逃れることもできず、小夜は苛立ちで歯を食いしばった。圭介は相変わらず傍若無人で、彼女の抗議など聞こえないふりをしている。背後からぴったりと密着し、顎と頭を寄せ合う二人。どちらも非の打ち所がない容姿で、まるでこの世で最もお似合いの恋人同士のようだった……腕の中の女が、瞳に怒りの炎を燃やしていることさえ無視すれば、だが。「おい圭介、着いたぞ」船が岸に着くと同時に、ボサボサの赤髪の男が船室から飛び出してきた。甲板で抱き合っている二人を見て一瞬言葉に詰まったが、遠慮する気配もなくにやにやと手を振る。「おっとお二人さん、お邪魔だったか?俺は先に行ってるぜ?」「離して!」圭介が腕を緩めないのを見て、小夜は腰に回された手の甲を思い切り引っ掻いた。ようやく解放される。手の甲に残った数本の赤い爪痕を見つめ、圭介はわずかに口角を上げた。小夜が船を降りようとするのを見て、すかさずその手首を掴んで聞いた。「どこへ行く?」小夜は答えた。「……病院よ!」「傷がまた痛むのか?」圭介は眉をひそめた。「医者を呼ぼう」そう言って、フランシスに船医を呼んでくるよう指示しようとする。「いらないわ」どのみち隠し通せるはずもない。こんな異国の地で、しかもこんな状況だ。正直なところ、一人で病院へ行く勇気はなかった
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第423話

「こちらを……ご確認いただけますか」圭介は眉をひそめて検査報告書をひったくるように奪い取り、結果が書かれた最後のページに目を落とした。その瞬間、顔色がさっと険しくなり、怒りを押し殺した低い声が漏れた。「コルシオ!」――よくも……よくもこんな真似を……!報告書がくしゃくしゃになるほど強く握りしめても、圭介は込み上げる怒りは収まらなかった。何度か深呼吸を繰り返し、ようやく表面上の冷静さを取り戻す。顔にはまだどす黒い影が落ちていたが、少し考えた後、手元の報告書を医師に突き返し、淡々と言い放った。「破棄しろ。別の新しいものを用意しろ」医師は一瞬あっけにとられた。「しかし、それでは病院の規則に……」「用意しろと言ってるんだ」圭介から放たれる、陰鬱で有無を言わせぬ視線。そして、自分たちを手配した人物からの事前の忠告を思い出し、医師は慌てて口をつぐんだ。相手はもとより、規則など気にかけるような人種ではないのだ。すべての検査が終わり、着替えを済ませて検査室から出てきた小夜は、外で待っていた医師にすぐさま視線を向けた。「先生、結果はどうでしたか?」少しぎこちないイタリア語で尋ねる。「特に異常はありませんよ」医師は作り笑いを浮かべ、新しく用意された報告書を彼女に手渡した。小夜は急いでそれを受け取り、内容を確認する。いくつかの数値が基準値をわずかに外れている程度で、大きな問題はどこにも記されていなかった。何度も確認した後、心にのしかかっていた重石がようやく下りた。結婚式の前に気を失わされて以来、ずっと気が気でなかったのだ。身体に違和感こそなかったものの、コルシオという男が何をしでかすか分からない。こうして結果を自分の目で見るまでは、どうしても不安が拭えなかったのだ。何もなくて、本当によかった。ぐっと腕を引かれ、男の硬い胸の中に引き寄せられた。圭介の大きな手が独占欲むき出しに彼女の腰を抱きすくめ、眉をひそめて不満げに言った。「今回は事なきを得たが、次に何かあったら絶対にすぐ俺に言え」そう言ってから、彼はすぐに訂正した。「いや、次はない。絶対にだ」彼の言葉など、小夜は適当に聞き流した。だが、一つだけ疑問が残る。「何も異常がないなら、どうしてわざわざ私を気絶させたのかしら?」――ただの悪
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第424話

最近、どうも怒りっぽくなっている気がする。小夜は深く息を吸った。「やるべきことがあるんじゃないの?ほら、あの……フランシスと一緒に何か片付けることがあったでしょ?コルシオの件はどうなったのよ?」――さっさと用事を済ませに行ってよ!圭介は笑った。「心配するな。全て手配済みだ。今はお前の側にいる時間がたっぷりあるんでな。そういえば、一緒に旅行するのもずいぶん久しぶりだな。したくないか?」「したくないわ」小夜は無表情で言った。「消えてくれない?」「本当はしたいはずだ」彼女の意見など一切聞かず、圭介は笑いながら彼女の手を引き、陽光の降り注ぐ通りを当てもなく歩き始めた。車は後方から遠く離れてついてくる。小夜は手を振りほどかなかった。もう、疲れたのだ。それに、今は船に戻る気にもなれなかった。この男が言ったことは必ず実行する。本当に船に戻れば、間違いなくベッドから降ろしてもらえなくなる……このクズ。考えれば考えるほど腹が立つ。握られた手がもがくように動き、指先で圭介の掌を思い切り引っ掻いた。爪が食い込み、じわりと湿った感触が広がったが、圭介はかえってさらに強く握り返してきた。小夜は敗北感を味わいながら、力を抜いた。こんな狂人を相手にムキになっても仕方ない。余計イライラするだけだ!午後の陽光はなおも燦々と降り注ぐ。白いドレスを翻し、海風にはためく黒いロングコートを羽織った女が後ろを歩き、前を行く圭介は体に沿った薄手のチャコールグレーのシャツを着て、袖を無造作に捲り上げ、引き締まった腕を覗かせている。襟元は軽くはだけ、風が吹くとシャツが体に張り付いて、鍛え上げられた筋肉のラインを浮かび上がらせた。その姿は精悍で、どこか野性的だ。二人は手を繋ぎ、前後に連れ立って、陽光の敷き詰められた金色の道を当てもなく歩いていた。通りには人々が行き交っている。こんな風にのんびりと散策するのは、本当に久しぶりのことだった。この見知らぬ異国の地で、暖かな陽光に包まれながら、小夜はふと我を忘れた。太陽の匂いがするような気がしたのだ。思わず足を止め、軽く鼻をすんと鳴らす。――ああ、太陽の匂いじゃない。とても爽やかな柑橘系の香り。でもよく嗅ぐと、柑橘とも少し違う。「どうした?」圭介が振り返った。香りの出どころを探
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第425話

「何してるのよ!」海沿いのレストランのテラス席で、小夜は自分の髪に絡みついた無数の白いレモンの花を指さし、怒りのあまり言葉を失っていた。この男がまた何を血迷ったのか、さっぱり理解できない。海風で彼女の髪からレモンの花が吹き飛ばされた後、圭介は数秒間呆然としたかと思うと、突然振り返り、傍らの満開のレモンの木から花を半分近くむしり取って、狂ったように彼女の頭に挿し始めたのだ。頭を花だらけにするなんて、全くもって意味不明だ!――まあ、そうよね。頭のおかしい人間の思考回路なんて、理解できるはずもない。ただ、あのレモンの木が可哀想だ。せっかくの見事な木が、まさに花盛りの季節だったのに、あんなに花をむしり取られては、実の半分はならなくなるだろう。本当に、ろくでもない男だ。圭介は満足げに微笑んでいた。ひどく上機嫌な様子でレストランのオーナーを呼び、近くのレモンの木について尋ねた。それがオーナーのものだと知ると、非常に丁寧に謝罪し、おおよそのレモンの実の値段と木の価値を計算して、オーナーが辞退するのも聞かずに、その六倍の値段で買い取ってしまった。圭介がそこまで言うならと、オーナーも承諾するしかなかった。「では、お届け先のご住所を教えていただけますか?後ほど作業員を呼んで掘り起こし、お届けしますので」圭介は首を横に振った。「いや、このままここで育ててやってくれ。世話も頼む。この木は、引き続きあんたのものだ」オーナーは黙り込んだ。小夜はさらに沈黙した。――やっぱり頭がおかしい。結局、オーナーは断りきれず、自ら厨房に立って本場のイタリアンを二人に無料で振る舞うと強く申し出た。ちょうど食事時だったこともあり、二人はそのまま席に残ることにした。頭にレモンの花をいくつも挿されたまま、小夜はナイフとフォークを握りしめ、腹立ち紛れに運ばれてきたばかりのロブスターのパスタを一口食べた。その瞬間、パッと目が輝いた。すごく美味しい。オーナーが自分の腕前に自信を持っていたのも頷ける。もう一口食べようとした瞬間、目の前の皿がさっと取り上げられ、代わりに味気ないサラダが置かれた。理解できないといった嫌悪と怒りが混じった彼女の視線を受けながらも、圭介はさらりと言い放った。「傷が治ってない。海鮮はまだ駄目だ」そう言
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第426話

「悪かった。お前なら一人でもやれると思ってな」圭介は彼の肩を軽く叩いた。「……そういうの、やめろよ」フランシスは苛立たしげに声を荒げた。「お前、肝心なことを忘れてないか?俺たちがあの化け物の結婚式をぶち壊したんだ。向こうはとっくに動き出してるはずだぞ。ここを嗅ぎつけられるのも時間の問題だってのに、そんなのんびりしてる場合か?お前はハネムーンで、俺は仕事?冗談じゃねえ、明日は交代だからな!」バシッ!圭介は呆れたように彼の頭を軽く叩いた。「交代だと?殴られたいのか」「くそっ!」フランシスは怒った。「お前の頭の中、一体どうなってんだ?俺が言いたいのは、明日はお前が仕事をして、俺はバーに遊びに行くってことだ。ずっと我慢してたんだからな……ちょっと待て、お前、酒飲んでんのか?くそ、自分はこっそり飲んでおいて、俺には飲むなだと!」こんな奴、もう親友でも何でもない。やってられるか。絶交だ!「俺とお前が同じだとでも?お前は一度飲み始めると歯止めが利かなくて、よくヘマをやらかすだろう。こんな大事な時期に足を引っ張るんじゃねえ。我慢しろ。飲んだと知ったらタダじゃおかないからな」「俺のどこが歯止めが利かないって言うんだ。酒がないとやってられねえんだよ。これ以上飲めなかったら死んじまう……血も涙もねえ奴だ」圭介は言葉を失った。ギャーギャー喚くフランシスの腕を引っ張ってバルコニーへと向かい、後ろ手でガラス戸を閉める。そして、リビングにある固く閉ざされた寝室のドアをちらりと見て、声を潜めた。「よし、本題に入るぞ」「最低野郎め」フランシスはさらにボサボサになった赤髪を掻きむしり、焦燥感をにじませながら言った。「言ってみろ」「……」圭介はバルコニーの手すりに斜めにもたれかかり、夕焼けに溶け込む遠くの海面を見つめながら、淡々と口を開いた。「計画を変更する」「……」彼が何を言ったのか理解した瞬間、フランシスは目を丸くした。「お前、正気か?あの計画を練るのにどれだけかかったと思ってる?何年だぞ。それを今更変えるだと?こんなタイミングで変えたって間に合うわけがねえ!」「そこまで大幅な変更じゃない」「それでもダメだ!」フランシスは即座に否定した。今はあの化け物を葬り去るための重要な局面なの
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第427話

「離して」これ以上腹を立てたくなくて、小夜はできるだけ冷静さを保とうとした。だが、圭介は動こうとしない。彼は身をかがめ、小夜の柔らかなうなじに顔をうずめて深く息を吸い込んだ。肌と肌が触れ合い、互いの息遣いが絡み合う。彼女がもがこうとした瞬間、圭介の低く掠れた声が耳元に響いた。「動くな。少しの間、このまま抱かせろ」「どいて」小夜は冷たく言い放った。「吐き気がするわ」「相変わらず口が悪いな。俺を怒らせる言葉しか知らないのか」圭介はくぐもった笑い声を漏らし、腕の中の彼女が蹴りを入れてきたところでようやく身を引いた。だが、そばのハンガーラックからコートを取ると、嫌がる彼女の体に強引に巻きつけ、ボタンをきっちりと留めて、そのままドアを開けて外へ連れ出そうとした。「何するのよ」小夜はドア枠にしがみつき、外へ出るのを拒んだ。「私はもう寝るのよ」「戻ってきたら一緒に寝よう」圭介はからかうように言い、かすかに怒りを滲ませた小夜の桜色の唇に軽くキスをした。彼女が怒って彼を叩こうとした瞬間、その体を軽々と抱き上げ、靴も履かせないままホテルから連れ出した。人目があるというのに。小夜は顔から火が出そうだった。車はすでに外で待機していた。後部座席に乗り込むなり、彼女は圭介を思い切り蹴りつけた。「帰してよ。私、靴も履いてないのよ!」「気にするな。俺がお前の足代わりになってやる」圭介は笑って言った。――足代わりになってやる、ですって?ふざけないでよ!この男と口論しても意味がない。いくら言い合っても埒が明かないのだ。小夜はコートにくるまり、後部座席の端で縮こまって黙り込んだ。窓の外を飛ぶように流れていく景色をぼんやりと眺め、どこへ行くのかと尋ねる気力すら湧かなかった。意外なことに、圭介もそれ以上彼女をからかうことはなく、道中はずっと静かだった。しばらくして。空から夕焼けの名残が消え、深い夜の帳が下りた頃、車は静かな庭園の前で停まった。圭介は先に降りてドアを開け、彼女を抱き上げようとした。小夜はシートの上で身を引いた。蛍火のような柔らかな灯りが点る庭園を見つめ、外に出ようとしなかった。「ここはどこよ。まさか私をここで殺す気じゃないでしょうね」「物騒なことを言うな」圭介は身をかがめて強
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第428話

星の河のプロジェクションマッピングが煌めいている。だが圭介の言葉が口をついた瞬間、小夜の呆然としていた表情はふっと醒め、いつもの冷淡で淡々としたものに戻った。「今日は私の誕生日じゃないわ」「分かってる」圭介は微笑んだ。「でももうすぐだ。その頃には俺たちはもう何の関わりもなくなってるだろうから、早めに祝いたくてな」約束通りなら、十数日後には二人は完全に縁を切ることになる。確かにその通りだ。だが小夜は興味なさげだった。「いらないわ。私の誕生日を、あなたとなんて過ごしたくない」彼女は、圭介と誕生日を過ごしたくはなかった。誕生日という話題は、彼女にとって決して愉快なものではない。むしろ反感と嫌悪しか湧かないものだった。この七年間の結婚生活で、毎年若葉の誕生日になると圭介が海外へ飛んでいくこと自体は、別に気にしてはいなかった。だが彼女がどうしても許せなかったのは――圭介があの女の誕生日を祝いに国外へ向かうたび、ほとんど毎回、小夜は圭介や若葉の仲間たちに嵌められ、誰もいない別荘へ閉じ込められていたことだ。ただ、彼女が祝いの席に押しかけて場の雰囲気を壊すかもしれないと思っていただけなのだ。助けを求めても、誰にも聞こえず、誰にも届かない。目の前にはただ暗闇が広がるだけ。極限の屈辱だった。圭介の口から誕生日という言葉を聞くだけで、不快感で吐き気がする。――本当に、笑える話だ。――この男は、どうすれば私を辱められるか、いつだって熟知しているのだ。小夜はもう、部屋の中で回転する星の河の投影を見ようともしなかった。冷たい目を上げて圭介を見据える。「疲れたし眠いの。帰って休みたいわ」「でも俺は祝いたい」圭介は彼女の冷たい視線を避け、片腕で腰を抱いたままテーブルの前まで連れていき、もう片方の手でライターを擦ってケーキのキャンドルに火を灯した。「小夜、願い事をしてくれ」本当に鬱陶しい。ますます気分が沈み、いっそ投げやりな態度で口を開いて、苛立たしげに願い事を口にした。「さっさとコルシオを片付けて、長谷川が私の前から消えますように。二度と現れませんように」ふっと息を吹きかけ、キャンドルの火を消した。静寂が降りる。微かに、キャンドルの芯がパチッと爆ぜる音が聞こえた。星の河のプロジェ
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第429話

心臓の鼓動まで伝わってくるようだった。小夜は身をよじって逃れようとしたが、腰をしっかりと固定されていた。圭介の胸の奥から響く声が、彼女の耳元にまで届く。「小夜、お前は……俺は……」彼は何かを聞きたがり、同時に何かを言いたがっているようだったが、結局はその言葉は沈黙に呑み込まれた。しばらくして、ようやく穏やかな声が響いた。「小夜、俺と一曲踊ってくれないか。せっかくこの星の河を用意したんだ。こんな美しい夜なんだから」美しい時間かどうかはともかく、景色は確かに美しい。彼女は軽く手を挙げ、指先がすぐ横を回転する星の幻影をすり抜けた。そして、静かに口を開いた。「でも、偽物は所詮偽物よ」それは、明確な拒絶だった。その夜、二人はホテルには戻らず、木造の小屋で休むことになった。疲れ果てていたのか、小夜はすぐに眠りに落ちたが、隣の圭介はいつまでも起きていた。淡い星の光の下。圭介は冴えた瞳で、背を向けて眠る小夜の背中をじっと見つめていた。薄いネグリジェの下で、肩甲骨が翼を広げる蝶のように浮き上がっている。彼は長くそれを見つめた後、手を伸ばして小夜の体を自分の方へ向けさせ、腕の中に抱き寄せると、服の中に手を入れてその肩甲骨を優しく撫でた。小夜の肌は玉のように滑らかで、圭介の呼吸は一瞬重くなり、そのまま手は背筋に沿って下へと滑っていく。「ふぁ……ん……」揺らされる感覚と荒い息遣いに目を覚ました小夜は、本能的にくぐもった声を漏らしたが、火傷しそうなほどの熱を感じて一気に目が覚めた。状況を理解し、怒りが込み上げる。「長谷川、この……っ!」背後で低い呻き声が聞こえ、自分の背中が汗ばんだ熱い胸板にぴったりと密着しているのを感じた。そして、自分が着ていたネグリジェがいつの間にかはだけて乱れていることに気がついた。――この男、よくもこんな時に。彼女は怒り、もがこうとしたが、背後から圭介の激しい鼓動が伝わってきた。頭上から、ひどく掠れた声が聞こえる。「小夜、俺は今、我慢するのがすごく辛いんだ。これ以上動かれたら、本当に我慢できなくなって、お前を抱いてしまうかもしれない……頼む、少し手伝ってくれ」「我慢してるようには見えないけど」彼女は歯を食いしばった。「小夜、それは……さすがに言いがかりだろう」圭介は
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第430話

「おやおや、見事に顔が腫れてるじゃないか」フランシスは圭介の周りをぐるぐると回りながら、いかにも他人の不幸を喜ぶ目で覗き込んだ。圭介は微笑みながら尋ねた。「知りたいか?」その満ち足りた、すっきりと晴れやかな笑顔を見た瞬間、フランシスは嫌な予感がして、慌てて手を挙げた。「待て!聞きたくない!言うな!」絶対に聞きたくない。圭介が幸せになればなるほど、自分が惨めになるだけだ!「くそっ、親友がせっせと働いてる間に、お前だけいい思いしやがって」フランシスは毒づいた。「本当にろくでなしだな!」「一つ訂正しておこう」圭介は薄く笑い、コーヒーを軽く口に含んでから、のんびりと言った。「ほんの少し、味見をしただけだ」箸をつけた程度。到底、腹を満たすには至らない。「同じことだろ!」フランシスはテーブルを叩いた。「もう我慢できねえ、酒だ!樽ごと持ってこい!」「ダメだ」圭介は容赦なく却下した。「ローマの件が片付くまでだ。終わったら、飲み過ぎて死んでも知らん。だが今、一滴でも口にしたら、お前の家にある酒のコレクションを全部叩き割ってやると思え」「……」フランシスは中指を突き立て、引きつった笑みを浮かべた。「悪魔め、地獄に落ちろ」「……」機嫌が良かったので張り合う気にもならず、圭介は微笑んで尋ねた。「で、どうだった?」本題になると、フランシスも真剣な顔になった。ただでさえボサボサの赤髪を掻きながら、表情を引き締める。「あの化け物の配下、やっぱり嗅ぎつけてきやがった。お前たちが二人で出てる間、奴らはずっと遠巻きについてきてた。ただ、手を出す気配はなかったから、こっちにも動くなと指示しておいた」「ああ」圭介は少し考え込んでから言った。「なら向こうも俺と同じ考えだろう。お互い、ローマで決着をつけるつもりだ」「じゃあ俺たちは?」「午後に出港する。ローマへ向かうぞ」そう言いながら、圭介はふっと口角を上げた。「だがその前に、一箇所寄りたい場所がある。ずっと小夜を連れて行きたかった場所だ」フランシスは一瞬きょとんとしたが、すぐに呆れたように首を振って軽くため息をついた。……小夜が目を覚ました時、船はすでに動き出していた。「ローマに向かうの?」部屋に届けられ
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