All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 581 - Chapter 590

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第581話

――忘れないで、樹の体にも長谷川家の血が流れているのよ。小夜にはその疑念を打ち消すことができなかった。それでも……小夜はパソコンの画面を見つめたまま、膝の上で両手をぎゅっと固く握りしめた。目の奥がじんわりと熱くなっていく。樹は約束してくれたのに。もう絶対に喧嘩はしないって……それなのに、私を騙していたというの?心の奥底から、またあの忌まわしい声が這い上がってくる。――樹は長谷川家の子供だ。――長谷川家の人間は、嘘つきばかりだ!「小夜?」珠季は、小夜がパソコンを見つめたまま上の空になっていることに気づき、執事に合図してパソコンを片づけさせた。小夜がようやく我に返ると、呆れたように尋ねた。「何をそんなに考え込んでいるの。いくら声をかけても返事もしないで。この件、あなたはどうするつもり?」「帰国するわ」小夜はもう迷わなかった。珠季は眉をひそめ、デスクを軽く叩いて不機嫌そうに言った。「帰ってどうするの?私に言わせれば、あんな手に負えない子供なんて、もう放っておけばいいのよ。いつもいつも人の気を揉ませてばかり。何をしでかすか分かったものじゃないのだから、長谷川家の中で勝手に解決させなさい」「大叔母様」小夜は頭痛をこらえるように言った。「私が自分で見に行かなければいけないの。樹の口から直接聞きたい。あの子自身の口から、本当にやったのかどうかを確かめたいのよ」珠季は黙り込んだ。しばらくして、彼女は静かにため息を漏らした。「つまり、あなたはあの子がやったとは信じていないのね」「分からないわ」小夜はうつむいた。その声には迷いが滲んでいたが、それでも決して譲らない芯が残っていた。「でも少なくとも、母親として、こんな時にそばにいないわけにはいかない。それに、大叔母様。あの子は私に約束したの」――樹が自分を騙したなどとは、絶対に思いたくなかった。真実を、自分の目で、耳で確かめたい。それは母親としての責任であり、何よりも偽らざる本心だった。自分は、あの子の母親なのだから。それに、どんな事情があるにせよ、星文のことも心配でならなかった。あの子の情緒が不安定だと分かっていながら、しかも二人の間に深い確執があると知りながら、なぜ同じ学校、それも同じクラスに通わせたのだろう。雪が何を考えているのか
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第582話

ロンドンの空港にて。芽衣が、小夜と青山を見送りに来ていた。彼女には一緒に帰国する勇気はなかったが、どうしても心配で、搭乗口まで二人を送ってきたのだ。搭乗ゲートへ向かう直前、芽衣は小夜だけを少し離れた隅へ引っ張り、小声で別れ際の忠告を始めた。「小夜、向こうへ戻ったら、絶対に冷静でいて。慎重に行動するのよ。もし、万が一、本当に長谷川と鉢合わせするようなことがあっても、絶対に刺激しちゃ駄目。正面からぶつからないで、落ち着いて話し合うの。絶対に怒らせないでね。あいつは本当に頭がおかしいんだから」今回の樹の件は、ここまで騒ぎが大きくなっている以上、完全なでっち上げではないだろう。けれど、このタイミングでこんな事件が起きること自体、どう考えても不自然すぎる。誰もがそれを分かっているのに、それでも行かざるを得ないのだ。だからこそ、より一層警戒しなければならない。「ええ、分かっているわ」小夜は微笑み、芽衣の手の甲を軽く叩いた。最近あまりにも大きな刺激が連続したせいか、いざこの段階になると、かえって心は妙に落ち着いていた。「大丈夫よ。何が起きても、きっと打開策はあるわ」絶体絶命に思えた過去の困難でさえ、自分はどうにか踏み越えてきたのだ。今回だって、必ず乗り越えられる。小夜の表情が穏やかで、笑みさえ浮かべているのを見て、芽衣はようやく少しだけ安堵した。だが考えた末、やはり一言だけ付け加えた。「どちらにしても、前に私が提案したあのこと、もし本気でやる気になったらいつでも電話して。一緒に作戦を練りましょう」――それは、あの「狩り」の話だった。――自らが狩人となり、獲物を狩るという、あの危険な計画。小夜は苦笑するしかなかった。どう考えても荒唐無稽で無茶な提案だと思っていたが、芽衣の表情があまりにも真剣だったため、あえて否定はせず、そっと頷いた。「その時にまた考えるわ」手を振って別れようとした瞬間、芽衣は鼻を赤くして、小夜をぎゅっと力強く抱きしめた。涙声で囁く。「本当に、気をつけてね」小夜は思わず吹き出した。「ただ一度帰るだけよ。数日したらまたここへ戻ってこなきゃいけないのに、今生の別れみたいな顔をしないで」芽衣は小夜の首筋に顔を埋めたまま、小さく首を横に振るばかりで、何も言わなかった。そのまましば
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第583話

翔はもう、絶望していた。そもそも、子供の世話なんて楽な仕事であるはずがない。しかも、相手はあの樹なのだ。星文を同じ学校に入れると聞いた時、翔は忠告した。この二人を一緒にすれば絶対に厄介なことになる、と。だが、姉の雪は聞き入れなかった。いや、違う。彼女は最初から分かっていたのだ。だからこそ、わざと同じクラスにしたのだ。一度徹底的に壊さなければ、新たな局面は切り開けない――いわゆる、現状打破のための「荒療治」というやつだ。だが、その結果はどうだ。事態が好転するどころか、当の星文本人が病院のベッドで昏睡状態に陥っているのだ。病院から連絡を受けた時、翔はあまりの衝撃に頭が真っ白になった。正直なところ、翔にはいまだに状況が呑み込めていなかった。どうしてこんな大惨事になってしまったのか、と。星文が転校してきた当初、翔はしばらく気が気ではなかった。だが、星文に目立った悪影響は見られなかった。むしろ食欲は以前より増し、家出したいと騒ぐこともなくなっていたのだ。それなのに、どうして突然階段から落ちるような事態になったのか。おまけに、樹が突き落としたという話まで飛び出してきた。当の樹は、絶対に自分が押したわけじゃないと頑なに言い張っている。だが、具体的な状況を尋ねると、途端にしどろもどろになり、最後には「ママに会いたい」と泣き喚くばかりだ。一体全体、何が起きているというのか。翔はキーボードから手を離し、ずきずきと脈打つこめかみを揉みほぐした。その瞬間、視界の端に何かが飛んでくるのを捉え、すかさず首を傾けた。向かいから飛んできたおもちゃが、慣れた動きであっさりとかわされる。「そんなの知らない!お前たちは悪いやつだ!早くスマホを返せよ、ママに言いつけてやる!」樹は部屋中のおもちゃを手当たり次第に投げ散らしていた。床の上にまた一つ、がらがらと部品が散らばる。続いて、ガラス製の置物がガチャンと甲高い音を立てて砕け散った。翔の頭痛は限界に達していた。誰でもいい。誰か来てくれ。頼むからこの生き地獄から俺を助け出してくれ。そう切実に願った矢先、使用人が一人の華やかな美人をリビングへ案内してきた。使用人が声をかけるより早く、女はその背後から進み出ると、にこやかに翔へ挨拶した。「翔。雪さんが、あなた一人じゃ大変だろうから
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第584話

「雪!」小夜は歯を食いしばり、ベッド脇の女を睨みつけた。「睨みつけてどうなるって言うの?」病室は禁煙であるため、雪は火のついていないタバコを弄び、時折鼻先に近づけては香りを嗅いでいた。小夜の刺すような視線を浴びても、顔を上げようともせず、気だるげに口を開く。「うちの星文が今日、こんな姿で横たわっているのはね、全部あなたの立派な息子のおかげよ。ここで私を睨んでる暇があるなら、どうやって責任を取るのか考えた方がいいんじゃない?」小夜は深く息を吸い込み、怒りを押し殺した。眠っている星文の安静を妨げまいと、まずは医師を病室の外へ連れ出し、子供の容体を確認する。医師は眼鏡を押し上げ、説明を始めた。「外傷そのものは、命に関わるほどではありません。具体的には、左足のすねと左腕の軽い骨折です。まだ幼いですから、きちんと治療すれば回復も早いでしょう。ただ、問題は頭部です。転落時に強く打っており、CTなどの所見では頭蓋内に出血が見られます。それが神経を圧迫して、意識が戻らない状態なのです」「頭蓋内の出血……それはどう治療するんですか?手術が必要なんですか!?」頭にも傷があると聞き、小夜の心臓がぎゅっと締めつけられた。医師は落ち着かせるように答えた。「まずは保存療法です。現在のところ出血量は少ないと見ていますし、患者さんがまだ小さいこともあって、すぐに手術に踏み切ることはお勧めしません。まずは投薬で様子を見ます。長期間意識が戻らない場合は、その段階で手術を検討します。これは、ご家族の意向でもあります」雪の意向。小夜はわずかに眉をひそめた。その後も小夜は何度か医師に確認し、現時点では薬による保存療法が最善の選択肢であると納得して、ようやくそれ以上は追及しなかった。だが、医師の続く言葉に、再び顔を曇らせることになる。「それにしても……この子が転落した高さは、それほどでもなかったんです。もう少し体に肉がついていれば、あの高さから落ちても大事には至らなかったかもしれません。骨折すら免れた可能性もあります。それくらい、この子は痩せ細っています。目を覚ましたら、栄養のあるものをしっかり食べさせてあげてください。成長期なんですから。たとえ好き嫌いが激しくても、ご家族が根気よく向き合ってあげないと」医師は、ただ単に子供が偏食なの
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第585話

柏木家、リビング。パシッ。ソファに片足を乗せていた樹は、自分の頬に触れようとした若葉の手を力いっぱい払いのけ、持っていたおもちゃを床に叩きつけた。「あっちへ行け!この嘘つき!」若葉はその場で固まり、手にしたゲーム機をぎゅっと握りしめた。数秒後、ひどく傷ついたような顔で樹を見つめる。「樹くん。私のことを、嘘つきって言うの?」「そうだよ!」樹は若葉を指差し、声を張り上げた。「あんたのせいで、ママが僕のところに来てくれないんだ!あんたのくだらないゲームなんかいらない。ママがいい!ママに会いたい!」彼はソファから飛び降りた。翔の元へ駆け寄り、その膝の上にあったノートパソコンを乱暴に払い落とすと、服の胸ぐらを掴んで大声でわめいた。「お前も悪いやつだ!早くスマホを返せ!ママに連絡するんだ!」「あなたのママは来ないわ」その一言で、リビングの空気が凍りついた。さっきまで立ち尽くしていた若葉が、ゆっくりと振り返る。口元には微かな笑みが浮かんでいるのに、その目には一切の感情がなかった。彼女は冷ややかな声で、一言一言、区切るように言い放った。「知らないの?あなたのママ、とっくに国内に帰ってきているのよ。飛行機を降りたらすぐに病院へ向かって、星文くんのところへ行ったわ。あなたなんて放っておいてね。もう、ここへは来ないわ。樹くん、まだ分からないの?あなたのママはね、あなたのことなんて愛してないの。彼女が愛しているのは、素直で聞き分けのいい星文くんだけ。人を階段から突き落とすような、問題だらけでわがままな悪い子を、愛せるはずがないじゃない。何があってもあなたを受け入れて、ずっと変わらずに愛して、絶対に捨てないのは……私だけ。私だけなのよ!」若葉は半ば正気を失っていた。ここ最近、長谷川家の妨害に遭い、彼女はずっと樹に近づけずにいた。そのせいで、かつては完全に自分の手の中にあったはずのこの子が、少しずつ自分の支配から抜け出そうとしている。それが、彼女にはどうしても許せなかった。すべては、あの高宮小夜のせいだ。「若葉さん!いい加減にしろ!」床に落ちたパソコンを拾い上げていた翔は、その言葉を聞いた瞬間、さっと血の気が引いた。怒鳴りつけながら、慌てて樹の耳を塞ごうと手を伸ばす。だが、遅かった。樹はしばらく
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第586話

誰の許可を待つこともなく、遠慮の欠片も見せず、青山はずかずかと歩み寄った。訳が分からず立ち尽くしている翔を、軽く横へ追いやる。そして樹の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。その動作はゆっくりと穏やかだった。樹の頬を伝う涙をそっと拭うと、品のある柔らかな笑みを浮かべ、低く落ち着いた声で語りかける。「こんにちは、樹くん。僕はね、君のママからとっても信頼されているお友達なんだよ。ママにお願いされて、先に君の様子を見に来たんだ。おじちゃんは、小林青山っていうんだ。青山おじちゃんって、呼んでくれるかな?」……病院の非常階段。重い鉄の扉が閉まるのと同時に、小夜が力任せに引っ張った勢いで、雪の背中がドンと壁に打ちつけられた。雪は短く呻き声を漏らす。「ちょっと、痛いじゃないの」小夜は、雪が痛がろうがお構いなしだった。彼女の肩を壁へ強く押しつけ、病室で異様なほど痩せ細って横たわっていた星文の姿と、先ほどの医師の言葉を思い出しながら、ギリッと歯を食いしばって問い詰める。「星文に、何をしたの!」「あら、珍しいこと」雪は、これまでにないほど殺気立った小夜の鋭い視線を正面から受け止めた。しばらく見つめ返した後、ふんと鼻で嗤う。「話の順序が逆じゃないかしら。今ここで話し合うべきなのは、あなたの子供が私の子供に何をしたかってことでしょう?ここで話がまとまらなければ、あなたの息子は法廷に立たされて前科がつくわよ。一生消えない汚点になるわ」自分の子供が病室で意識不明のまま横たわっているというのに、雪はまるで他人事のビジネス交渉でもするかのような冷淡な口ぶりで、小夜と駆け引きをしようとしていた。これが、母親の態度だというのか。小夜の手が、雪の肩を押さえつける力をギリギリと強めていく。「ねえ、離してくれない?」雪は肩に食い込む小夜の手を鬱陶しそうに払いのけ、ポケットから再びタバコを取り出した。ひどく不機嫌そうに言い放つ。「ここはタバコも吸えないなんて最悪だわ。用があるなら早く済ませて。話が終わったらさっさと帰ってちょうだい。それとも外へ出て話す?」彼女はニコチン切れで限界まで苛立っているようだった。小夜は深く息を吸い、目を伏せた。そして、異様なほど静まり返った声で問いかける。「分かっていてやったの?樹と星文の仲が悪いことを
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第587話

「来ないで!」雪が立ち止まったのを見て、小夜はようやく安堵の息を吐き出した。片手でナイフを構え、もう片方の手で壁を支えながら、ふらつきつつもゆっくりと立ち上がる。このナイフは、病院へ向かう途中で彰からこっそり抜き取ったものだった。無防備なままではいられなかったのだ。前に一度対峙して以来、小夜は雪という女がどれほど常軌を逸しているかを痛いほど知っていた。自衛の手段もないまま、この女と密室で二人きりになる勇気などない。いくらなんでも、自分の命を粗末にするつもりはなかった。「げほっ、げほ……っ」小夜は激しく咳き込んでから、ようやくかすれた声を絞り出した。「落ち着きなさいよ。ちゃんと話をしましょう」「ふっ」雪は鼻で嗤った。「話し合う気なんてないわ。私にも一発、同じように平手打ちさせてくれるっていうなら別だけど」小夜は痛む首元を押さえ、雪の後半の言葉は聞かなかったことにした。呼吸を整え、静かに凄む。「あなたが何を考えているのか、本当に理解できない。二人の子供の仲が最悪だと知っていたのに、わざと同じクラスにした。言っておくけれど、私は樹の性格を知っているわ。あの子は絶対に、人を階段から突き落とすような真似はしない。それに、あなたが法廷で私たちを訴える必要なんてないわ。私の方こそあなたを訴えてやる。児童虐待でね」「児童虐待?」雪は冷ややかにオウム返しにした。「そうよ。じゃなきゃ、星文があれほど骨と皮だけみたいに痩せ細っている理由をどう説明するの?あなたに引き渡す前、私はあの子が健康的にふっくらするまで、手塩にかけて世話をしたのよ。それなのに、あなたは……」ガシャァンッ!小夜が言い終わるより早く、耳元で激しい破壊音が炸裂した。雪が自分のスマホを壁に向かって全力で投げつけたのだ。彼女は氷のように冷たい目で小夜を睨みつける。「よくそんな偉そうなことが言えるわね。あなたが昔からあのガキを甘い顔で手懐けて、私の言うことなんて欠片も聞かないように育て上げたんでしょうが!私が出したご飯には一切手をつけない。毎日毎日、家出しては『ママに会いたい』って泣き喚くのよ。本当の母親はこの私なのに!」小夜は言葉を失った。まさか、星文が食べなかった理由がそうだったとは思いもよらず、一瞬、どう返せばいいのか分からなくな
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第588話

――あなたの息子と夫が裏で何をしてきたか、知ってるの?雪の嘲りを含んだ冷ややかな声が、病院の薄暗い非常階段に響いた。小夜はその場で固まった。何を言っているの?雪は嗤った。平手打ちを受けてますます赤く腫れ上がる頬を撫でながら、瞳の奥で憎悪の炎をいっそう暗く滾らせる。「知りたい?全部の真実を教えてあげてもいいわよ。あんたが信じているその嘘っぱちの世界のメッキを、全部剥がしてあげる。だって、あんた本当に可哀想なんだもの。あははっ!」小夜は一歩後ずさり、背中を冷たい壁にぶつけた。ナイフを握る手が、自分でも制御できないほど小刻みに震えている。まだ何も聞いていない。それなのに、本能が先に恐怖を感じ取っていた。信じちゃ駄目だ。この女は私を憎んでいる。この女の口から出る言葉なんて、一つだって信用できない。でも、本当に気づいていなかった?これまでに見過ごしてきた、いくつもの違和感に。それに、長谷川家の人間は皆、嘘つきばかりだ。あの一家が自分を騙したのは、これが初めてなわけがない。今まで何度、数え切れないほど騙されてきた。彼らの嘘を、本当に全部見抜けていると言い切れる?でも、あの子は私を騙さない!樹は、もうしないって約束してくれた!小夜は強引に意識を引き戻した。背中はべっとりと冷や汗をかいていたが、ナイフを握る手は少しずつ落ち着きを取り戻していく。揺らいでいた瞳にも、再び確かな光が宿った。「私は、自分の子供を信じている。あの子は絶対にそんなことをしない。私に約束したのよ」雪の笑い声が、ぴたりと止んだ。彼女は首を傾げ、小夜の顔をじっと見つめる。その瞳には、かすかな驚きが浮かんでいた。怒りの奥底から、ふいに奇妙な好奇心が湧き上がる。すでに無数に騙され、裏切られてきた人間が、どうしてまだ誰かを信じる勇気を持てるのだろうか。やがて、沸騰するようなドロドロとした憎しみが再び膨れ上がった。どうして、まだそんなふうに信じようとできるの?同じ嘘の泥沼に沈んで、息も絶え絶えに足掻いているっていうのに。どうしてあんただけが過去を綺麗さっぱり忘れて、何もなかったかのように沼から這い上がり、もう一度やり直して、また誰かを信じられるの。どうして!小夜の目に宿るそのまっすぐな光が、雪にはたまらなく憎らしかった。圭介
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第589話

この状況で、ほかに何が言えるというのか。刃物を握っている側が絶対だ。ましてや、相手は完全に正気を失っているのだ。小夜は壁に押しつけられたまま、降参するように両手を挙げ、屈辱を飲み込んで口を開くしかなかった。「……話しなさいよ」……柏木家、リビング。「じゃあ、おじちゃんは本当にママのお友達なの?ママが、おじちゃんに来てって頼んだの?どうしてママは来てくれないの?」樹はまだ赤い目を瞬かせながら、ママの友達だと名乗る「青山おじちゃん」を疑わしげに見つめていた。青山は一つずつ、根気よく答えていく。「もちろん本当だよ。柏木家の子が大怪我をしちゃったから、ママはどうしても先にそっちへ行かなくちゃならなかったんだ。でも、君のことも心配でたまらなかった。だから、一番信頼しているお友達――つまり僕に、君のところへ先に行っててくれって頼んだのさ。ママもすぐ来るからね」樹に信じてもらうため、青山はスマホを取り出し、小夜とのツーショット写真を見せた。大学時代の写真だった。樹はそれを見て、少し安心したようだった。だが、すぐにまたしょんぼりとした顔になり、小さな声で尋ねた。「ママは、どうして先に僕のところへ来てくれなかったの?僕のこと、信じてないの?僕、本当に星文くんを突き落としてなんかいないのに……」青山は微笑み、穏やかな声で言った。「もちろん信じているはずだよ。ただ、この件は少し複雑なんだ。君のためにも、ママはどうしても先に病院へ行って、あの子の怪我の具合を確かめる必要があったんだ。それに、おじちゃんや他の人から聞くより、ママがここへ来た時に、君の口から直接伝えた方がいいと思わないかい?」樹は首を傾げて考え、こくりと頷いた。「うん……分かった。ママが来たら、僕が自分で言う」「いい子だね」青山は笑って、樹の髪をそっと撫でた。樹はまだ慣れていないのか、身をすくめて避けようとした。しかし、ママが頼んだおじちゃんだと思い直したのか、渋々ながらもじっと我慢して撫でられていた。青山は笑みを深め、また尋ねた。「もう少し待つことになりそうだけど、お腹は空いていないかい?」「……うん」「それじゃあ、先に何か美味しいものを食べようか」青山は顔を上げ、すっかり呆然としている翔に向かって言った。「柏木さん。樹が
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第590話

空はすでに真っ暗で、病院の非常階段はさらに暗かった。ただ非常口の標識の蛍光緑の光だけが、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。薄暗い緑の光の下。二人の女がいた。一人は立ち、もう一人は壁にもたれてへたり込んでいた。どちらも無言だった。あのナイフはいつの間にか床に落ちており、荒い息遣いだけが閉鎖空間に響いている。しばらくして。立っていた雪がふらつきながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。蛍光の緑色がその美しい笑顔を照らし出し、どこか現実離れした不気味さを漂わせている。雪は、床に座り込んだままうなだれている小夜の肩にそっと片手を置き、低く嗤った。「これが全部の真実よ。驚いた?二人の子供をわざと同じ学校、同じクラスに入れたのは、あなたの夫――長谷川圭介の考えよ。あの時、彼は何て言っていたかしら。現状を打破するには荒療治が必要だ、星文の心の傷は、このまま温室で大事に守っていてもどんどん脆くなるだけだ、ってね。なら一気に、もっと強い感情の刺激を与えて、過去と強制的に向き合わせるべきだって。強い感情って、何だと思う?感情の裏切りは、時に血を流すような残酷な真実よりも深く刻まれて、忘れられない傷になるの。正直なところ、あの男はこういう残酷なやり方に本当に慣れているわよね。もちろん、私もそれに賛成したけれど。そうそう、樹くんも賢い子だったわ。星文と友達になりたい、あの子の脆い殻を壊す手伝いがしたい、そして……」雪は身をかがめ、小夜の耳元で楽しげに囁いた。「『裏切り者』の役回りを演じることも、引き受けてくれたのよ」小夜の忍耐は限界だった。彼女は突如として弾かれたように動き、雪を床へ押し倒した。片手で床のナイフを掴み取り、雪の首元に突きつける。歯の根が合わないほどガチガチと震えていたが、それでも一言一言、絞り出すように怒鳴った。「いい加減にして!」雪は床に打ちつけられ、背中の痛みに顔をしかめながらも、笑みを絶やさずに続けた。「じゃあ、想像してみて。星文が樹くんのことを完全に信じ切った後。二人が一緒に階段の上に立った時、計画通りの『裏切り者』である樹くんは、無防備な星文に何をしたのかしら」あなたの息子は、何をしたの?何をしたと思う?小夜は怒鳴った。「黙れ!私はあの子を信じてる!私の子供は、樹は絶対にそんなこ
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