All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 591 - Chapter 600

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第591話

朦朧とした意識の中で、小夜は無数の声と映像が頭の中を駆け巡るのを感じた。それらが、ナイフを握る手をさらに激しく震わせる。――ママ、ごめんなさい。――ママ、僕、ちゃんと言うこと聞くよ。――ママ、いい匂いがする。僕に何かおいしいもの作ってくれたの?――分かった、ママ。――ママの作るピリ辛の唐揚げが一番好き!――わあ!……――小夜!向こうへ戻ったら、絶対に冷静でいて!――小夜!最後に脳裏に浮かんだのは、珠季の厳格で威厳ある眼差しだった。その叱責のような記憶が、小夜を冷たい闇の底から叩き起こした。自分は今、何をしているのだろう。手からナイフがカランと音を立てて落ちた。小夜は小刻みに震える手で、血と汗で濡れた雪の首元に触れる。おそらく意識が飛びかけていたせいで、それほど力は入っていなかったのだろう。傷は浅い一本の線にすぎず、そこからゆっくりと血が滲んでいるだけだった。命に別状がないと分かった瞬間、小夜は全身の力が抜け、雪の上に馬乗りになったままへたり込み、両腕をだらりと下げた。肩を激しく上下させ、荒い息を繰り返す。まだ意識は少し混乱していた。幼い子供の様々な声が、耳の奥にこびりついて離れない。泣き声も、笑い声も。言葉を覚えたての頃、ベビーラックの中で丸々とした赤ん坊が無邪気に笑っていた声。生まれて初めて上げた元気な泣き声。それらの記憶が、胸の奥を激しく揺さぶっていた。自分の子供は、確かに過ちを犯すかもしれない。素直ないい子ではないかもしれないし、完璧でもない。わがままで、気性が荒いところもある。それでも、他人の命を何とも思わないような、残酷な子では絶対にない。あの子は、もうしないと約束してくれたのだ。意識がゆっくりと現実に戻り、小夜はようやく口を開いた。ひどく掠れた声が、暗闇の非常階段に響く。「あんたの言葉なんかで、決めつけない。私は、あの子自身の口から直接聞くわ」この時点で、小夜はもう「絶対に信じている」「信じていない」と、はっきり断言することはできなかった。長谷川圭介という男の狂気を知っているからだ。あの男なら、子供を利用するような卑劣な真似も本当にやりかねない。だから、樹がまったく関わっていないと言い切ることもできなかった。それでも、少なくとも樹本人の話を直接聞かなければ
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第592話

雪はポケットからライターを取り出した。だがなぜか、普段は迷いなく力強い手が、この時ばかりはひどく震えていた。何度も手こずってようやく火をつけたものの、一口吸い込んだだけで激しくむせ返る。喉がちぎれそうなほど咳き込み、片手を床について必死に上体を支えた。火のついたばかりのタバコが、口からポロリとこぼれ落ちる。雪は片手を床についたまま、もう片方の手でひりひりと焼けるように痛む首元を押さえ、激しく咳き込み続けた。煙にむせたのか、それとも首の傷が痛すぎるのか、自分でもよく分からなかった。激しい咳のせいで目尻に生理的な涙が滲み、それがポタリと、鈍く光を反射する床へと落ちる。真っ白なセンサーライトは、とっくに点灯していた。磨き上げられた白いタイルには、惨めに腫れ上がった彼女自身の顔が映り込んでいる。赤く充血した目尻、乱れ切った髪、そして首元に走る痛々しい血の線。どこをどう見ても、無様で惨めだった。血で汚れた手が、ゆっくりと自分の目を覆う。ふいに、去り際に小夜が放った最後の一言を思い出し、雪の口から冷ややかな嘲笑が漏れた。「高宮。私を憐れんでいるつもり?」あんたに、そんな資格があるわけないでしょう。その呟きには、背筋が凍るような冷酷さが宿っていた。床についていた手が、ゆっくりと握りしめられ、拳へと変わっていく。手の甲に青筋がくっきりと浮かび上がった。その時。非常階段の扉が不意に開いた。雪が手を下ろして苛立たしげに眉をひそめると、扉の外に彰が立っていた。彼の視線は雪の首元に向けられていたが、その表情は相変わらず冷淡だった。「医師を呼びますか」「この状態で呼ばない気?」雪は血にまみれた首の傷を指し示し、冷え切った顔のまま、かすれた声で毒づいた。……「首の傷は処置しました。洗顔や入浴の際は濡らさないよう気をつけてください。薬もこまめに替えるように。顔の腫れはまず保冷剤で冷やしてください。数日すれば引いていくでしょう」病室にて。医師は雪の首に薬を塗って包帯を巻き、いくつか注意事項を伝えると、そそくさと出ていった。医師がいなくなると、雪は保冷剤を顔に当てながら、床から拾い上げておいたあのナイフを彰の足元へ投げつけた。かすれた声で問い詰める。「どこから持ってきたのよ、このなまくらナイフ。あなたが渡したんでしょ
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第593話

雪は低く罵った。「ろくでもない男ね」タバコを一本取り出し、鼻先で何度か香りを嗅ぐ。気持ちが落ち着いてから通話に出ようとしたが、視界の端に、病床で眠り続ける星文の姿が入った。しばらく黙り込み、忌々しげに舌打ちをしてからスマホを手に取り、病室に付いた小さなバルコニーへ出た。……ガラス扉を閉める。通話をつなぎ、スピーカーフォンにした。雪は首に巻かれたばかりの包帯にそっと触れ、タバコの匂いで患部の痛みをごまかしながら、かすれた声で言った。「首が痛いの。無駄話は抜きにして」「俺と約束した件は、どうなっている」電話の向こうから、圭介のゆったりとした、だが圧のある声が聞こえた。「目的は果たしたんだから、それでいいじゃない」雪は適当に返した。圭介の思惑を小夜に洗いざらい暴露したことには、もちろん触れない。どうせ目的は達成したのだ。プロセスが少し変わっただけのこと。大した問題ではない。「桐生が、彼女はひどく激昂していたと言っていたが」――やっぱり私のことなんて信用していないのね。わざわざ先に彰へ状況を確認していたというわけだ。雪は鼻で嗤った。彼女は苛立たしげに言い放った。「怒り狂うのも当然でしょう?あなたが望んでいるのは、あの女があなたを底知れず恐れて、二度と裏切る気を起こさないようにすることでしょう。だったら、計画はまだ始まったばかりよ。あんなふうに取り乱すのも想定内だわ。私は『だいたい』あなたの言った通りに動いたのよ」彼女は無表情のまま、いけしゃあしゃあと嘘を並べ立てた。「だいたい、だと?」圭介の声がわずかに冷たさを増した。もともと小夜に痛手を負わされて最悪の気分だったうえに、こうして高圧的に問い詰められ、雪も腹を立てた。「似たようなものでしょう。圭介、勘違いしないで。私たちはあくまで協力関係よ。私に命令して、あれこれ指図するような口は利かないでちょうだい」「雪」彼女の突然の怒りを、圭介は完全に無視した。話し方はゆったりとしていたが、その声は骨の髄まで冷え切っていた。「俺が求めているのは、彼女の怒りではない。俺を恐れ、怯え、二度と裏切る気を起こさせないことだ。大人しく家で俺の帰りを待つように仕向けることだ。他の男の元へ走らせることではない」雪は一瞬、言葉に詰まった。「…
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第594話

病院から一人で立ち去った小夜は、雪が心の中でさらに深い恨みを刻んだことなど知る由もなかった。だが知ったところで、どうでもよかった。彼女と雪の確執は、とっくに修復不可能なところまで来ている。恨みが一つや二つ増えたところで、もはや痛くも痒くもないのだ。それに今の小夜には、もっと頭を悩ませる、心休まらない問題があった。怒りに任せて病院を飛び出し、そのまま柏木家へと向かってきたものの、いざ門の前まで来ると、かえって足がすくんでしまった。どうするかは決めていた。だが実際にここまで来ると、樹とどう向き合えばいいのか分からなくなったのだ。彼女は怖かった。もし本当に、樹が突き落としたのだったらどうしよう、と。夜の闇の中、車は邸宅から少し離れた並木道に停まっていた。周囲にはいくつか街灯がぼんやりと点っている。小夜は車内でしばらくじっと座っていたが、やがて意を決したようにドアを開け、柏木家の門へ向かって歩き出した。もういい。最初から決めていたではないか。真実は、樹の口から直接聞くのだと。……「写真がいっぱいある!青山おじちゃんは、ママとずっと前からお友達なの?」リビングでは、樹がソファに座り、青山のスマホを両手で抱え込むようにして、画面に保存された写真を一枚一枚スワイプしていた。どれも小夜の大学時代の写真だった。青山と一緒に写っているものもあれば、小夜一人の写真もある。彼はそれらを一枚一枚、大切にクラウドへ保存していたのだ。樹を落ち着かせるために見せたのだが、案の定、子供の興味を強く惹きつけることができた。少なくとも、泣き喚くことはなくなった。青山は樹の隣に座り、一緒に写真を見つめながら、懐かしそうな目で微笑んだ。「そうだよ。おじちゃんは、君のママとはずっと昔からの知り合いなんだ。昔のママはね、とてもおてんばで……いや、今と同じくらい元気だったよ」「元気?」樹は不思議そうに首を傾げて青山を見た。この男の人は眼鏡をかけていた。頭上の照明がレンズに反射して目元まではよく見えないが、輪郭は穏やかで落ち着いている。笑い方も柔らかく、とても優しそうなおじちゃんだった。――ママが信頼している、おじちゃん。青山は少し顎を上げ、考え込むようにしてから言った。「そうだね。アニメに出てくる正義のヒーローって知っ
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第595話

突然、何かを思い出したように、樹は青山のスマホを握りしめたままカメラアプリを閉じ、記憶している番号を打ち込んでママに電話をかけようとした。樹に近づいていた青山は、目ざとくそれに気づいた。わずかに顔色を変え、スマホを取り戻そうとした。しかし、一歩遅かった。番号を入力すると、画面には連絡先が表示された。【xx・xx・……】樹はその場で固まった。自分が番号を打ち間違えたのかと思った。もう一度入力しようとしたところで、スマホを取り上げられた。「樹くん」青山が手を伸ばして彼を引き止めようとした。樹はさっと身をかわした。その幼い顔にはショックの色が浮かんでいる。彼が泣き叫ぼうとしたその時、リビングに使用人が入ってきて報告した。「旦那様。高宮様がお見えです。お子様を迎えにいらしたと……」「ママ!」大人たちが何か言うよりも早く、樹は歓声を上げてリビングを飛び出した。大人たちも「走らないで」と声をかけながら、その後を追うしかなかった。……小夜は屋敷に入ったばかりだった。エントランスホールを進み、まだ半ばも行かないうちに、遠くから元気な樹の声が聞こえてきた。続いて、すっかり大きくなった子供の姿が勢いよく駆けてくるのが見え、彼女は反射的に両手を広げて飛び込んできた我が子を受け止めた。「うっ」だが小夜は、日ごとにしっかりとした体つきになっていく樹の力を甘く見ていた。その勢いに押され、体ごと後ろへ倒れそうになる。「危ない!」後ろから追ってきた青山が驚き、とっさに駆け寄った。片手で樹の襟首を掴み、もう片方の手で小夜の手首を引いて、二人まとめて自分の腕の中へ引き寄せた。「大丈夫?」樹を離すなり、青山は小夜の様子を確認しようとした。しかし、伸ばした手はすぐにぱしんと強く払いのけられた。視線を下げると、樹が怒りに満ちた目で彼を睨みつけていた。「僕のママに触らないで!」「……」この子は……利用するだけ利用して、用が済めば突き放すというのか。まったく、抜け目のない子だ。樹が大人に対してそんな失礼な態度を取るのを見て、小夜は厳しい声を上げた。「樹!青山おじさんはこんな時間まであなたについていてくれたのよ。さっきも助けてくれたのに、その態度は何なの」「違う、だってこの人は……」樹は大声で言
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第596話

「……分かった」翔はすでに少し前からその場にいた。少し離れた場所から、小夜と青山が並んで立っているのを見ていたのだ。二人の距離は近く、時折身をかがめては目の前の樹に何かを話しかけていた。周囲をまったく気にする様子のない三人の姿は、翔の目に――まるで一つの家族であるかのように映った。だからこそ、思わず足が止まり、近づきがたくなっていた。小夜がこちらを振り向いてようやく我に返り、慌てて返事をしたのだ。もとより、小夜を引き止めるつもりはなかった。いくら事情があるとはいえ、他人の家の子供を預かり続けるのは、やはり感心できることではないと思っていたからだ。だからこそ、素直に頷いて樹を連れて帰ることを認めたのだ。それでも、彼女の隣に立つ青山にちらりと視線を向けると、翔は思わず口を開いていた。「中に入って、少し休んでいかないか。お茶くらい出すよ」「ありがとう。でも、また今度にするわ」小夜は短く礼を言うと、リビングに入ることも、樹の忘れ物がないか確認することもなく、子供の手を引いて足早に門の外へ向かった。一刻も早く家に帰り、樹から直接話を聞きたかったのだ。少し後ろに控えていた青山は、どこか落胆した様子の翔に淡い視線を投げた。しかし、特に気にかける風でもなく軽く眉を上げると、数歩で小夜に追いつき、そのまま連れ立って出て行った。……三人が去った途端。柏木邸は、再びひんやりとした静寂に包まれた。屋根を突き破るような泣き声も、手当たり次第に物が壊される音も、もう聞こえない。潮が引くように、すべてが静まり返った。翔は夜の庭に立ち、門の向こうへ消えていく背中を見送っていた。しばらくぼんやりしてから、ようやく踵を返してリビングへ戻る。だが、ふと顔を上げた瞬間、思わず眉をひそめた。二階の吹き抜けの廊下で、手すりに若葉が寄りかかっていた。何を考えているのか、そして、いつからそこに立っていたのかも分からない。夕食の後、少し言葉を交わしてから、彼女は二階にある雪の部屋で休むと言って上がっていったはずだった。それが、今になってふらりと姿を現したのだ。「まだここにいたのか」若葉の姿を認めた瞬間、翔の表情はすっと冷たくなった。昔は、若葉が少し年上だったこともあり、幼なじみとして、また友人として親しくしていた。華やかな美
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第597話

「この役立たず!子供一人ろくに見張っていられないなんて、何のためにいるのよ!昔からずっとそうだったわ。いつも私の足を引っ張って……」案の定、翔は雪に電話口でひどく罵られた。気のせいかもしれないが、今夜の雪はとりわけ機嫌が悪いようだった。電話に出るなり翔を捕まえては、子供の頃の古い話まで蒸し返し、最後は樹一人見ていられなかったことにまで話が及び、そのまま一晩中、息をつく暇もないほど責め立ててきた。休まる時間など、一時たりともなかった。結局、翔は病院の方がどうなったのか、一言も聞けずじまいだった。あの異常な怒りようから察するに、彼女にとって思い通りの結果にはならなかったのだろう。途中で電話を切る勇気など、翔には到底なかった。……一方、その頃。小夜はこれから樹と真剣に向き合わなければならない。そのため、青山は空気を読んでそれ以上干渉せず、柏木邸を後にした。別れ際、迎えに来た車に乗り込むと、道中で若葉から着信があった。用件の察しはついている。彼は気のない様子で、ついでのように通話ボタンをタップした。「小林社長、少し気が早いかもしれませんが、そろそろお祝いを申し上げてもよろしいでしょうか。おめでたい話も近そうですわね」受話口の向こうから、笑みを含んだ若葉の声が聞こえてきた。「僕が今すぐそのおめでたい話を実らせてしまったら、相沢さんは僕が契約を反故にするかもしれないとは思わないのか?」青山は若葉の遠回しな探りを、あっさりと切り捨てた。電話の向こうで、若葉は息を呑んで黙り込んだ。青山がここまで単刀直入に突いてくること自体は、さほど意外ではない。彼女が本当に恐れているのは、まさにその事実だった。まさか、これほど短い期間に、小夜と青山の距離がここまで縮まっているとは思わなかったのだ。子供の世話まで任されるほどの仲になっていたなんて。このままでは、小夜に何を吹き込まれるか分かったものではない。もしあの女が邪魔をしてきたら、プロジェクトはどうなってしまうのか。少なくとも圭介が戻るまでは、自分が立ち上げたこのプロジェクトを維持するために、今不可欠な開発チームを青山の名でつなぎ止めておかなければならない。絶対に、手放すわけにはいかなかった。だが、その焦りが思考を駆け巡ったのはほんの一瞬のことだった。若葉は深く
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第598話

青山は内心で冷笑した。もっとも、それが自分に何の関係があるというのか。……柏木家を出ると、小夜は樹を連れて家へ帰った。ただし、向かった先は長谷川家の本邸でも、栄知のいる邸宅でもない。彼女と珠季が帝都に構えている家だった。小夜が帰国して以来、拠点にしている場所でもある。樹がこの家に来るのは初めてだった。ようやくママの元へ戻れたのがうれしかったのか、夜も遅いというのにひどく興奮していた。部屋中を走り回り、あちこちを物珍しそうに引っかき回しては、隅の隙間にまで潜り込もうとする。小夜に捕まり、浴室へ連れて行かれて、ようやく大人しくなった。自分で風呂に入るよう言い聞かせ、後で絵本を読んであげること、そして一緒に寝ることを約束してから、小夜は重く沈んだ心を抱えたまま洗面所へ向かった。どう切り出せばいいのか、分からなかった。決して気分の良い話ではない。単刀直入に聞くべきか。それとも遠回しに探るべきか。だとしたら、どうやって?その夜。寝室には、小さなナイトライトの明かりだけが灯っていた。小夜は絵本を手に、ゆっくりと読み聞かせをしていた。時折、樹が物語について尋ねてくる疑問に優しく答えてやる。だが、樹は眠くなるどころか、ますます目を輝かせるばかりだった。小夜は、ついに口を開いた。絵本のページをめくる手を止めず、できるだけ穏やかな、やわらかい声を作って問いかける。「樹。あなたと星文くんは、仲が……」まずは、子供同士の関係が良かったのかどうかから聞くつもりだった。少しずつ、順を追って。だが、まだ切り出したばかりだというのに――さっきまでベッドに寝転がり、目をぱちぱちさせながら楽しそうに物語を聞いていた樹が、突然弾かれたように起き上がった。そして、小夜の手にあった絵本をバシッと叩き落とした。小夜が慌てて顔を上げると、樹は目を大きく見開き、彼女を射るように睨みつけていた。顔いっぱいに怒りを浮かべ、悲鳴のように叫ぶ。「ママ、どうしてママまでそんなこと聞くの!?ママも僕のこと信じてないの!?僕、言ったじゃないか!僕はあの子を突き落としてない!やってない!僕じゃない!」小夜は、樹がここまで激しく反応するとは思っていなかった。一瞬、体が強張る。だがすぐに我に返ると、怒鳴って暴れる樹の、激しく振り回される小さな腕を押さえ込み、力いっぱい自分の胸の中へ抱き寄
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第599話

力尽きたように自分の膝の上で突っ伏して眠る樹を見つめながら、小夜は布団を引き寄せ、そっと掛けてやった。その寝顔は、まだひどく不安げだった。それからベッドのヘッドボードに背を預け、手の甲で目を覆うと、声もなく長いため息をついた。いったい、何がどうなっているのか。突然の出来事と、受けたショックが大きすぎたせいだろう。樹の話は断片的で、ひどく混乱していた。小夜はどうにか言葉をつなぎ合わせて理解しようとしたが、それでも信じがたい思いが拭えなかった。本当に、あの子が自分で落ちたというのか?自ら身を投げたのか?それとも、足を滑らせて落ちただけなのか?それはまったく確かめようがなかった。しかも、小夜にはもう樹に聞き返す勇気がなかった。何度も当時の状況を思い出させて、余計に刺激してしまうのが怖かったのだ。自ら身を投げたにせよ、足を滑らせたにせよ、樹のような幼い子供にはあまりにも大きすぎる衝撃だった。大人でさえ、目の前でそんな光景を見れば正気を保てるとは限らない。小夜は目を覆った手に、ゆっくりと力を込めた。けれど、たとえこれが真実だとしても、誰が信じるというのか。何一つ証拠がないのだ。病院を出る時、小夜はすでに彰に状況を確認していた。上の階には監視カメラがない。階段の踊り場にあるカメラに映っていたのは、二人の子供が追いかけ合うように上へ走っていく姿だけだったという。まるで、ただ遊んでいるようにしか見えなかったと。その後に残ったのは、星文が転落したという結果だけだ。実際の状況を知っているのは、その時上にいた樹と星文だけである。だが、今の樹は強いショックを受けて記憶が混乱している。たとえ彼が証言したとしても、他人がそれを信じるとは限らず、幼い言葉では到底説明しきれない。もう一人の当事者である星文は、意識不明のままだ。しかも、最も恐ろしいのはそこではなかった。万が一、星文が足を滑らせたのではなく、本当に自ら身を投げたのだとすれば、それこそ問題の根は計り知れないほど深い。たとえ星文が目を覚ましたとしても、簡単に解決できるとは限らないのだ。小夜には分からなかった。自分の手元ではあんなに大切に世話をして、健やかに育っていた子が、たった一年でどうしてあそこまで追い詰められてしまったのか。その疑問のあとに込み上げてき
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第600話

小夜は、ほんの少しうとうとしただけで、目を覚ました樹に起こされた。無理に眠気をこらえて樹の様子を確かめると、小夜はもう事件のことには一切触れなかった。ただ樹と一緒に顔を洗い、簡単な朝食を用意し、それから秘書の奈々に電話をかけて、こちらへ来てもらうよう頼んだ。今日は学校へ行かなければならない。この状況では、とても樹を学校に通わせるわけにはいかない。まずは休学の手続きを取り、その足で学校の状況も確認するつもりだった。彰や長谷川家の言い分は、もう信用できない。自分のやり方で、もう一度、実際に何があったのか確かめる必要があった。けれど、樹を連れていくわけにはいかない。「樹、ママは今日、用があって少し出かけなきゃいけないの。帰りは遅くなるから、先に奈々さんと家で待っていてくれる?」食卓で、小夜は樹に相談するように言った。「どうして?どこに行くの?僕も行く」やっとママに会えて、しかも一緒に暮らせるようになったばかりだ。樹はママから離れたくなかった。「今回は、ちょっと連れていけないの。ママには大事な用事があるから」小夜は少し考えてから、さらに言った。「いい子で家にいてね。遊びたいものがあったら、何で遊んでもいいから。ママ、帰ってきたらお土産を買ってくるわ」樹は少し迷った。それでもママが譲らないのを見て、最後には不満そうに言った。「約束だよ。前にもお土産買ってくるって言ったのに、買ってこなかったじゃん」小夜は痛いところを突かれ、苦笑するしかなかった。幸い、家にはいろいろなゲームやおもちゃが用意されていた。小夜はそれを全部出して、樹の気晴らしに使わせた。少しでも学校でのあの日のことを思い出さずにいられればいい。そのうえで、朝早く駆けつけてくれた奈々にいくつか言い含めた。さらに、その場で給料の引き上げを約束し、多額の特別ボーナスまで振り込んだ。奈々は、スマホの画面に並ぶゼロの数をこっそり数えた。そしてすぐに、自信たっぷりで嬉しそうに引き受けた。子供の世話なら、出産や育児の経験はなくても、親戚の子の世話くらいなら、したことがある。絶対に大丈夫だ、と。一通りのことを伝え終え、出かける前、小夜は二階の寝室にあるウォークインクローゼットで外出用の服に着替えた。部屋を出ようとした時、ふと肌寒さを感じた。どこからか風が
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