夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった のすべてのチャプター: チャプター 611 - チャプター 620

622 チャプター

第611話

――絶対に許せない!だが、小夜がそれだけのことを語っても、雪は長いこと平静なままだった。ケースからタバコを一本抜き出し、鼻先で匂いを嗅ぐ。その顔には感情らしいものが微塵も浮かんでおらず、小夜は思わず眉をひそめた。小夜が再び口を開こうとした時、雪がふいに言った。「ふん。ずいぶんともっともらしい作り話ね。でも、証拠はあるの?何を根拠に断言できるの?あんたの子が言ったことが真実だって。知らないのかもしれないけど」雪は火のついていないタバコを咥えた。病床にもたれて座っているだけなのに、小夜を見下すような視線を向けてくる。そこには、明らかな嘲りの色が混じっていた。「あんたの子、嘘をつくのがとっても上手なのよ」平気で嘘をつくような子供の言葉に、果たしてどれほどの真実があるというのか。小夜の顔に、一瞬だけ激しい怒りが走った。だが、次の瞬間には理性を持ち直す。ここで怒って何になる。この話を他人にしても信じてもらえないだろうことは、最初から分かっていた。だが、雪は明らかに論点をすり替えている。問題の本質は、そこではないのだ。小夜は顔を上げ、雪をじっと見据えた。一語一語、相手の逃げ道を塞ぐように核心を突く。「こんな事態になったのは、あなたと圭介が引き起こした結果でしょう。いい大人が、自分のしたことくらい堂々と認めて向き合ったらどうなの。何でもかんでも子供に責任を押しつけて、自分で責任を取る覚悟すらないなんて、恥ずかしくないの?大人なら大人らしくしなさいよ。臆病者みたいに逃げ回らないで」小夜は無表情でそう言い放った。病室は水を打ったように静まり返った。次の瞬間、小夜は雪に胸ぐらを掴まれ、ぐいっと顔を引き寄せられた。「この私を、臆病者だと言うの?」雪はそう吐き捨て、その目に凶暴な色を浮かべた。唇の端に咥えたタバコが、怒りのあまり細かく震えている。「私が今まで何をしてきたか、あんたに分かるの!?」「ええ」小夜は静かに視線を上げた。至近距離で、怒りに燃える雪の目を真っ直ぐに見つめ返す。それと同時に、その瞳のさらに奥――怒りの底に深く隠された何かまで見透かそうとしているようだった。数秒の沈黙のあと、小夜は続ける。「雪さん、あなたがしたことは、確かに私には一生真似できないわ。その決断力と勇気
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第612話

真っ白な病室。窓は半分開いていた。季節は春から夏へと移ろい、気温も少しずつ上がり始めている。熱を帯びた風が絶えず吹き込み、カーテンは先ほどよりも激しくばさばさと音を立てて揺れていた。もがき合う音も、怒鳴り声も、少しずつ小さくなっていく。後にはただ、風の音だけが残った。やがて、雪の低くかすれた声が不意に響いた。ギリッと歯を食いしばるような響きが混じっている。「私の人生が、あんたに何の関係があるの。何様のつもりで、私の人生に口出ししてるのよ」――あんたにそんな権利があるわけないだろう!「あなたの人生なんて、もちろん私には関係ないわ」小夜は短く息を吐いた。「でも、星文のことは関係ある。私はあの子をしばらく育てたし、あの子は私をママと呼んでくれた。あなたがあの子を傷つけるのを、黙って見て見ぬふりなんてできない」「あんたって女は、まだそんなことを言うのね!」雪の怒りが再び爆発した。起き上がろうと激しく身をよじる。だが、足にも首にも傷があり、動くたびに鋭い痛みが走った。おまけに小夜が体重をかけて背中を押さえつけているため、どうしても抜け出すことができない。怒りはますます膨れ上がっていく。今にも怒りで弾け飛びそうな雪を見て、小夜も頭が痛くなった。彼女の目的は、雪を怒らせることではない。星文に、ちゃんと生きてほしいだけなのだ。そして雪は、その子の実の母親であり、唯一の直系の親族でもある。どうしても避けては通れない存在だった。根本からこの問題を解決するには、まず雪を落ち着かせるしかない。そうでなければ、これからも同じことが繰り返される。あの子はまだあんなに小さいのだ。叔父である翔も、雪の強烈な圧力を受け止められる人間には到底見えなかった。まったく当てにならない。それに、もし星文が成長してすべての真実を知ったらどうなるのか。自分の父親はろくでもない人間で、母親も……ろくでもない人間だった。しかも他人と手を組み、自分を罠にかけたのだと知ったら。そんな残酷な真実を、あの子が受け止めきれるはずがない。できる限りのことをしてみるしかなかった。雪が怒りに任せてさらに力を込め、今にも抜け出しそうになる。小夜は仕方なく彼女の顎を掴んで顔をこちらへ向けさせると、自分の額を思いきりぶつけた。ごつん、と鈍い音が響いた。
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第613話

真心など存在しない。だから雪には、小夜のことが理解できなかった。理解できない。この人間のすることは、どれも彼女を茫然とさせる。「あんたは、何のためにそこまでするの」長い時間が過ぎてから、雪はまっすぐ疑問を口にした。「何が欲しいの」背中に押し当てられていた小夜の頭が、かすかに動いた。雪は、自分の上にいる人間の、少しかすれたごく小さな声を聞いた。「星文に幸せになってほしい。あの子に、もっと良い人生と未来を与えたいの」はっ、やっぱり。雪には、小夜のような人間がまったく理解できない。いっそ笑い出してしまいたいほどだった。なのに、なぜか笑えなかった。その時、背中に小さな震えが伝わった。再び声が聞こえてくる。今度の声には、言葉にしがたい穏やかさと優しさが滲み、それでいて、とても強い芯が通っていた。「あの子は、私をママと呼んでくれたの」雪は息を呑んで固まった。今回は不思議と、怒りは湧かなかった。……小夜が考えていたことは、実のところ単純なものだった。かつて、樹が彼女を嫌がり拒み、ほかの人にママになってほしいと言い放った時、小夜は表面上は静かにそれを受け入れた。けれど、本当に平気だったのか、心が崩れ落ちるほど傷つかなかったのかと言えば、そんなはずがない。あの時、彼女は深く気に病んでいた。どうしようもないほど、傷ついていたのだ。良い母親になりたかった。特別に優れた母親でなくてもいい。せめて、合格点をもらえるくらいの母親にはなりたかった。自分の子供に、幸せな子供時代を与えたいと願い、そのために努力していた。けれど現実は、無様な惨敗だった。あの頃の小夜の人生は、完全に軌道を外れてしまっていた。結婚から始まり、一つ間違え、また一つ間違え、最後には何もかもがめちゃくちゃになってしまった。自分は失敗したのだと、一時期は本気で思い詰めていた。その少し後に、星文が現れたのだ。彼は最初から最後まで、何の迷いもなく自分を選び、慕い、ママと呼んでくれた。たとえそれが、精神状態がひどく不安定な子供が犯した、単なる混乱による勘違いにすぎなかったとしても。ただ、小夜を別の人と取り違えただけだったとしても。小夜にとっては、まったく違っていた。彼女は戸惑い、ためらった。それでも、自分でも抑えきれ
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第614話

「現に、あんたは今ここに立っているじゃない」雪は微笑んだ。小夜は黙り込んだ。しばらく奥歯を噛みしめてから、もう一度尋ねる。「あの男は、あなたに何を約束したの」まさか以前話していた、子供を利用し、精神的に追い詰めてから支配下におくという、あの荒唐無稽な「壊して立て直す」計画のことではないだろうか。もしそうなら。もっと穏便な方法はいくらでもあったはずだ。ここまで極端な真似をする必要など、どこにもない。雪には、小夜の考えが手に取るように分かっているようだった。思わず鼻で笑う。「高宮。もしそれだけが目的なら、私一人でどうにでもできるわ。どうしてわざわざ、長谷川なんていう男と手を組まなきゃいけないの?あんたも知っているでしょう。あの男がどれだけ度量が狭くて、面倒な人間かってことくらい」胸の中の不安が、ますます濃く広がっていく。小夜はもう一度聞いた。「彼はあなたに何を約束したの。私なら……」「無理よ」雪の顔に浮かぶ笑みが、さらに深くなる。「私が欲しいものは、長谷川家にしかないの。しかも、あの男にしか私へ渡すことはできない……ああ、そうね。あんたが今でも自分を長谷川家の奥様だと思っているのなら、あんたにも渡せるかもしれないわね。もしそうなれば、あの男を切り捨ててあんたと手を組むことも本気で考えるわ。だって星文は私の子供だもの。私だって、あの子にこんな苦しみを味わわせたいわけじゃないわ……残念ね」小夜の顔色が悪くなった。「あなたが欲しいものって……何なの」長谷川家にしかないもの。権力か。利権か。金か。「あいつがあんたのところへ来たら、直接聞いてみればいいじゃない」「私のところへ来る?」「そうよ」雪は小夜を見て、笑っているような、笑っていないような顔で言った。「最近のあんた、少し好き勝手に動きすぎだと思わない?それとも、あいつがあんたに対して、まだどれだけの忍耐を残しているとでも思っているの?」「……」小夜は何と答えていいのか分からなかった。圭介の行動が理解できない。ただ、かつて所有していた人間への独占欲だけで、人はここまで狂えるものなのだろうか。それとも、自分にはまだ、彼にとって何か利用価値のあるものが残っているというのか。それは何なのか。そうでなければ、いったいなぜ
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第615話

もちろん、小夜には雪の思惑など知る由もなかった。もし知っていたとしても、きっと「どいつもこいつも、人を人として見ていない。本当にどうかしている」と呆れ果てるだけだっただろう。夕方になった。雪の口から、いわゆる「取引」の内容を聞かされた小夜は、どこか夢の中を歩いているような心地で病院を後にした。家へ戻り、扉を開けた瞬間、玄関の上がり框にへたり込んでいる奈々の姿が目に入った。その顔は疲れきっていたが、小夜を見た途端、まるで救世主でも見たかのような表情に変わった。「社長……お帰りなさいませ」「ママ!」続いて、奥から樹が飛び出してきた。その勢いに押されて数歩よろけながらも、小夜はどうにか扉の枠を掴んで踏みとどまった。奈々に向かって軽く頷く。「今日は一日、樹を見てくれてありがとう。夕食を食べていって。あとで車を手配して送らせるから」「いえいえ!大丈夫です!」奈々は慌てて断った。上司に夕食を作ってもらうなど、とてもじゃないが恐れ多い。しかし、断り方がいささか強すぎたと思ったのか、すぐに言葉を補う。「社長、実はこのあと友人と夕食の約束が入っておりまして。社長も一日お疲れでしょうし、本日はこれでお暇させていただきます」そう早口でまくし立てると、彼女は素早くバッグを掴み、実に手慣れた動作で家を出ていった。その背中は、背後から何かに追いかけられているように慌ただしかった。樹の手を引いてリビングに入ると、小夜はようやく、奈々がなぜあんなに必死で逃げるように帰っていったのかを理解した。リビングは、あちこちの家具が動かされた形跡があり、ソファの上にも物が散乱していた。見るも無惨な有様だった。犯人は火を見るより明らかだ。奈々があれほど一目散に逃げ出したのも無理はない。きっと、自分が子供を叱り飛ばす場面に鉢合わせて、気まずい思いをするのを避けたかったのだろう。あの疲れ切った様子から察するに、今日一日中ずっと片付けに追われ、相当振り回されたに違いない。小夜は視線を横へと動かした。すると樹は、まるで自分は何もしていないと言わんばかりの無邪気な顔を作っていた。小夜が見つめると、少しだけ後ろめたそうに目を逸らしたが、すぐに視線を戻す。そして腰に手を当てて、ひどく不満そうに言った。「ママが僕を置いて出かけちゃうから、すっごく退屈だ
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第616話

樹の表情は、ひどく複雑に揺れていた。少し迷ったあと、彼はふいに尋ねた。「ママは、あの青山おじちゃんのことがそんなに好きなの?」「……今は、樹の話をしているの」小夜はそう答えた。「僕……」樹はうつむき、手にした箸で茶碗の中の鶏もも肉をそっとつついた。しばらくしてから、ようやく小さな声で言う。「僕、あの人が好きじゃない。嫌いだ。新しいパパなんて……いらない」最後のほうになるほど、声はどんどん低くなっていった。新しいパパ?小夜はすっかり面食らった。あまりに唐突だった。戸惑う一方で、小夜は同時に気づいた。これはちょうどいい機会かもしれない。子供がこういう話をどこまで受け入れられるのか、試してみることができる。「青山おじちゃんのどこが嫌なの?」小夜が尋ねる。「新しいパパになるところ!」樹はすぐに答えた。「……」これでは、何を言えばいいのか。小夜がどう返すべきか分からずにいると、さっきまでまだ落ち着いていた樹が、突然口を開いた。声は少し高くなり、明らかに興奮していた。「だからママは、やっぱり僕のこと、いらないんだ!」なんてことを言うの。小夜はわずかに眉をひそめた。「そんなことない。どうしてそう思うの?」「じゃあ、新しいパパなんか作らないで!」樹は箸をぎゅっと握りしめた。「僕は新しいパパなんかいらない。僕のパパは、永遠に一人だけだもん!」小夜は頭が痛くなった。その二つが、いったいどうつながるのか分からない。彼女は説明しようとした。「樹。ママがこの先、誰かと一緒になるかならないかに関係なく、樹がママの子供であることは永遠に変わらない。ただ、ママにもママ自身の……」ガシャン!最後の言葉を口にする前に、突然の大きな音がそれを遮った。樹が勢いよく立ち上がり、手にしていた箸も、目の前の茶碗も、一緒にひっくり返したのだ。鶏もも肉が転がり、床へ落ちた。「嫌だ!」樹の感情は急に爆発した。目を真っ赤にして、大声で叫ぶ。「僕にはパパが一人だけいればいいの。パパだけがいい!ほかの人なんかいらない!ママはやっぱり僕のこと、いらないんだ。あの人たちが言ってたことは本当だったんだ。ママはパパと離婚するとき、僕のことなんか考えてくれなかった!パパはいなくなった。今度はママも、ほかの人のところ
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第617話

小夜は胸の内で、そっとため息をついた。それから、とても静かに口を開く。「樹のことをいらないなんて、思っていないわ」少し間を置いて、さらに続けた。「でもね、ママにも自分の生活があるし、自分が望むものもあるの。樹が無理に受け入れる必要はないわ。嫌なら、あの人をパパと呼ばなくていい。何と呼ぶかは、樹の好きにしていいから」けれど、小夜は自分の考えを変えるつもりはなかった。よく考えた末のことだった。彼女には、彼女自身の人生がある。望むものもある。もちろん、彼女自身は新しい伴侶を探すことにそこまで熱心なわけではない。大叔母である珠季のため、という理由の方が大きかった。それでも今の小夜には、もうこのことに対して強い抵抗感はない……結局のところ、先のことは一歩ずつ歩きながら見ていくしかないのだ。これから何が起こるかなど、誰にも保証できない。その点について、樹に嘘をつくつもりはなかった。少なくとも、自分の態度だけははっきりと伝えておく必要がある。小夜は、樹の好き嫌いを理由にして、自分が本来持っているはずの「人生のあらゆることを決める権利」を切り捨てるつもりはなかった。それと同じように、樹にも自分の気持ちを無理に押し殺させるつもりはない。もう二度と、同じ過ちを繰り返したくなかったのだ。「誰が樹にそんなことを言ったのかは分からない。でも、樹は今、ちゃんとママのそばにいるじゃない」小夜は言葉を続けた。「うちのことなんだから、他人の言うことじゃなくて、もっとママに聞いてくれない?もう少し、私を信じてくれない?」月明かりが窓から差し込んでいた。丸まった布団が、かすかに震えている。部屋の中は、音もなく静まり返っていた。ずいぶん時間が経ってから、布団の奥から、少しくぐもったかすれ声が聞こえてきた。泣いたあとのような声だった。「僕が嫌だって言ったら、ママは探すのをやめてくれないの?」「やめない」どれだけ甘やかしても、限度はある。自分の人生に関わることについて、小夜は譲歩するつもりがなかった。樹は黙った。たぶん、布団の中でしばらく考えていたのだろう。やがて、また尋ねてきた。「じゃあ、ママが新しい家庭を持ったら、ほかにも子供ができるの?僕、いつもママに迷惑ばかりかけてる。もっといい子で、もっと言うことを聞く子がで
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第618話

「窓、どうして開いているの?」早朝、部屋の冷気を感じて目を覚ました小夜は、寝室の窓が開いていることに気づいた。呟きながら窓を閉めに行き、ついでに起きたばかりの樹へ何気なく尋ねる。「樹、昨日、奈々お姉さんと家にいたとき、この窓を開けた?換気したら、ちゃんと閉めるのを忘れないでね。夜、寝ているときに身体を冷やすから」「開けてないよ」樹は目をこすり、まだ眠そうな顔で答えた。「僕たち、昼間はずっと下で遊んでたもん。二階には来てないよ」開けていない?小夜は窓を閉める手を止めた。昨日出かけるとき、窓を閉めたことははっきりと覚えている。家にはほかに誰もいなかった。樹と奈々が開けていないのなら……誰が開けたのか。冷たい風が流れ込み、全身が冷え切るような感覚を覚えた。頭の芯までぞわりとした。「樹、先に自分で顔を洗ってきて」窓を閉め、その一言を残すと、小夜は足早に書斎へ向かった。珠季のこの邸宅にも監視カメラは設置されている。彼女はパスワードを入力し、録画を開いて確認した。異常なし。すべて異常なしだった。では、あの窓はどういうことなのか。小夜は、たった一日しか経っていないことを忘れるほど記憶力が衰えたつもりはない。彼女は確信していた。窓は間違いなく閉まっていたのだ。納得できない小夜は、一日分の録画を呼び出し、一コマずつ細かく確認していった。時間が静かに過ぎていき、背中を冷や汗が少しずつ伝い落ちる……この監視映像は、おかしい。改ざんされた痕跡がある。つまり――昨日、自分の知らないうちに、誰かがこっそりこの家へ入り込んでいたということだ。違う。昨日だけではないかもしれない!今回はたまたま、自分が気づいただけなのだ。誰が?コルシオか?それとも、圭介か?誰であれ、ここはもう安全ではない。……小夜は考えるより先に、家中を探し始めた。コレクションルームにあるものまで含め、すべて照合して確認する……何一つ、なくなってはいなかった。ただ、あの窓だけが、まるで彼女に気づかせるためにわざと開けられていたかのようだった。あの二人なら、どちらにもあり得る。けれど、昨日病院で彰が「最近外は安全ではないから本邸か大旦那様の屋敷へ移るように」と言っていたことを思い出すと、小夜は、こっそり入り込ん
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第619話

「あんたの家なんか、僕の家じゃない!家族みたいに言わないで!僕、絶対行かないから!」樹はそう怒鳴ると、家の中へ駆け込んでいった。「樹!」呼び止められず、小夜は振り返った。少し気まずそうに青山を見る。「ごめんなさい。あの子、たぶん何となく察していて……その、まだあまり……」彼女はそこから先を言いにくそうに濁した。「大丈夫。ゆっくりでいいよ」青山は事情を察していたし、急ぐつもりもなかった。小夜を手伝って、車に積んでいたスーツケースを屋内へ運び込む。一段落してから、彼は小夜に尋ねた。「どうして急にこっちへ移ってきたの?」電話を受け、小夜がこちらへ戻ってくると知ったとき、青山は嬉しい一方でかなり意外でもあった。あのときは彼女がひどく慌ただしそうだったので深く聞かなかったが、今なら当然、確認しておく必要がある。小夜も隠さなかった。一部始終を聞いた青山は、かすかに眉を寄せた。まず彼女を落ち着かせるように言う。「怖がらなくていい。この周辺には組織の人間がついている。僕からも前もって話しておくから、ここで同じことは絶対に起こさせない。安心して」小夜は頷いた。「あなたのことは、もちろん信じているわ」屋敷に誰かが入り込んだと確認したあと、小夜が最初に考えたのは、ボディガードを増やすことだった。けれど、どうしても不安があった。もし間違ってコルシオや圭介が差し向けた人間を雇ってしまったら、それこそ自分から危険を家へ招き入れることになる。考えれば考えるほど、青山のそばが一番よかった。彼の身分の特殊性と、組織にとっての重要性を考えれば、周囲には常に守りが置かれている。絶対に安全で、あの二人に入り込まれる心配もいらない。安全は確保されている。それが、小夜が急いで樹と青山を接触させ、慣れさせようとした理由でもあった。彼女は大叔母である珠季と先に約束している。帰国してから七日以内に、樹と星文の件が解決していようがいまいが、必ずイギリスへ戻らなければならない。そうしなければ、珠季が帰国してくる。そのときは、事態がもっと面倒なことになるだけだ。しかも今回の帰国目的は、それだけではなかった。小夜は珠季に、樹に確認すると約束していた。これから長谷川家に残るのか、それとも高宮家を選び、小夜についてイギリスへ行くのか。彼女は
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第620話

青山は、いっそ正面突破を図ることにした。樹は母親の顔を立てて、最後には折れるだろう。そう賭けたのだ。「触るな!」樹は肩に置かれた青山の手を振り払った。表情には不満がにじんでいたが、それでも拒絶の言葉を続けることはなかった。ただ、口では負けまいとして、遠慮なく青山を指差す。「あんたが何を考えているかなんて、僕には分かってるからな。言っておくけど、僕がいるかぎり、あんたの思い通りになんか絶対にさせない。僕は絶対に、あんたをパパなんて認めないから!」それだけでは足りないと思ったのか、さらに腹立たしげに吐き捨てた。「汚い大人!」青山はおかしくてたまらなかった。子供が嫌がるかどうかなど気にせず、わざと樹の頭をもう一度撫でる。分かっていながら、知らないふりで尋ねた。「青山おじちゃんって呼んでくれないかな。おじちゃんのどこが汚いんだろう。僕たち、何か誤解してない?」「触るなって言ってるだろ!」前に見たスマホの連絡先名を思い出し、樹はますます腹を立てた。頭に置かれた手を力いっぱい払いのける。青山は笑った。何度も拒まれても、まったく怒る気配はない。腕時計に目を落とし、穏やかな声で尋ねた。「それで、樹くんはどこか遊びに行きたいところはある?おじちゃん、どこへでも付き合うよ」「ない!」「分かった。じゃあ、おじちゃんと一緒に仕事へ行こうか」青山はにこにこと答えた。……病院近くのレストラン。華やかな内装の店で、窓際のテーブルを挟み、小夜と翔は向かい合って座っていた。二人とも、何を話せばいいのか分からないといった顔をしている。彼らがこうして向かい合って座るのは、本当に久しぶりだった。まして、一緒に食事をするなどなおさらだ。多少なりとも、よそよそしさが漂っていた。注文した料理が一品ずつ運ばれてきて、ようやく小夜は沈黙を破った。言葉を選びながら、ここへ来た理由を説明する。「本当は、雪さんとこの件を話すつもりだったの。でも雪さんは関わらない、柏木さんと話してと言って……佐々木先生の停職処分のことだけれど、柏木さんも事情は知っているはずよ。あの件は、先生にそこまで大きな責任があるわけではないし、さすがにあの処分は重すぎると思う。停職を解き、処分なしに戻すには、こちらとそちらの双方が、これ以上追及しないことで合意する必要
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