All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 621 - Chapter 630

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第621話

誰かが、少し離れた場所から彼女をつけ、覗き見ている。その視線は遠慮というものを知らず、ひどく攻撃的だった。刃のように小夜の背中へ突き刺さり、驚きで全身の毛が逆立つ。四肢までこわばった。いったい誰なの。圭介なの?隠れてこんなことをして、自分が怯えるのを見て楽しんでいるのか。それとも、何がしたいのか。どこから湧き上がってきた感情なのか分からなかった。あるいは、これまで抑え込んできたものが一気に爆発したのかもしれない。小夜は隠れようとは思わなかった。周囲を見回し、その視線がどこから来ているのか探すこともしなかった。ただ、大股でレストランを出た。真昼の日差しは強かった。近くには病院があり、人も車も多かった。小夜は道路脇に立った。太陽の下にまっすぐ立ち、前方を行き交う車と人の流れを見据える。顔には恐れの色など少しもなく、切れ長の瞳には冷ややかな光が満ちていた。彼女には、その視線がまだ自分に突き刺さっているのが分かった。けれど、動かなかった。もし相手が、小夜が怯え、怖がり、縮こまる姿を見たいのだとしたら、絶対に思い通りになんかさせてやらない。彼女はこうして堂々と太陽の下に立ち、見せつけてやるのだ。小夜はスマホを取り出し、彰に電話をかけた。電話はすぐにつながった。相手が口を開くより早く、小夜は神経をすり減らすようなあの視線を浴びながら、冷たい声で問い詰めた。「あなたたち、いい加減にしてくれない?そんな暇があるなら、やるべきことをやったらどうなの。コルシオはどうなったの?もう放っておくつもり?毎日毎日私を見張って、いったいどういうつもり?私には、まだ利用できる価値が残っているってこと?まだ絞り尽くしていない何かがあるなら、はっきり言えばいいじゃない。こんな下劣な手を使わないで」もう、うんざりだった。仮面舞踏会で起きたことだけでも、小夜はとっくに限界に近かったのだ。今はさらに、自分の家に勝手に入り込まれ、外へ出れば尾行されて覗き見られる。毎日毎日、少しのプライバシーもない……日増しにひどくなり、今では隠そうとすらしない。本当に、もうたくさんだった。彼女は、いつ来るかも分からない泥棒に毎日怯えるような、そんな面倒な真似をする気にはなれなかった。相手が隠れているつもりなら、こちらは全部暴いて白日の下に
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第622話

考えられる可能性は、一つだけだった。彰は、圭介のところへ戻ったのだ。結局のところ、彰は初めから終わりまで圭介の人間であり、長谷川家の人間でもある。圭介の望みや命令が、二番目の雇い主である彼女の意向よりはるかに優先されるのは、彼にとっては当然と言えば当然だった。ただ、幸いなことに、小夜も最初から彼に期待などしていなかった。「あの人、そこにいるんでしょう。代わって。私と直接話させて、はっきりさせて」小夜は冷たく言った。電話の向こうは、また沈黙した。小夜は目を閉じた。もう、どうだってよかった。あの人が本当に電話の向こうにいるかどうかなど関係ない。彰が聞けば、あの人も聞くことになる。違いはなかった。彼女は口を開いた。そのときにはもう声は静まり、よどんだ水面のように波一つ立っていなかった。「本当に、あなたにはうんざりしているわ。あなたはいつもこう。身勝手に動いて、何をするにも私の考えなんて少しも聞かない。いつも一方的に……私に面倒を押しつける。何が欲しいのか聞いても、絶対に言わない。まあ、そうよね。利用しているなんて、普通は口にしにくいもの。でも、あなたに言いにくいことなんてある?」彼女は一拍置いて、また続けた。「私はあなたの悪質な本性をよく知っている。あなたがどんな人間かも分かっているわ。こういうことは、あなたにとっては片手間でできる程度のことでしょう。やったなら、どうしてこそこそ隠すの。隠せば隠すほど、かえって白々しい」彼女はその偽善の皮を剥ぎ取った。真正面から、容赦なく。「それとも、あなたみたいな人にも、恥ずかしいとか後ろめたいとかいう気持ちがあるとでも言うの?」小夜の声には嘲りが混じっていた。「本当に、笑わせないでくれる?」返事はなかった。彼女も、もう推測したくなかった。コルシオを完全に片づけるために、小夜はこれまで耐えてきた。けれど、いったいいつまで耐えればいいのか。しかも彼らは、その間に何をしたというのか。問題はずっと解決されないままだ。そのうえ、彼女は二重に脅かされている。もう我慢したくなかった。「正直に言うと、ここまで来ると、あなたとコルシオのどちらが面倒なのか、もう分からない。どちらも同じくらい厄介で、大差ないわ。だから私は、私のやり方で、あなたたちとの関係に区切りを
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第623話

古美術オークション。以前の小夜なら、興味を持ったかもしれない。けれど今の彼女に、そんな気分も時間もあるはずがなかった。それに、オークションと言われると、どうしても以前のオークションを思い出してしまう。競り負けたうえ、約八十億円という明らかにつり上げられた価格で落札された、あのルビーのイヤリングだ。当時、小夜は希少性の高いそのイヤリングをインスピレーションの素材にしようとしていた。国際ファッションウィークに持ち込み、ルビーをテーマにした衣装展示へ参加するつもりだったのだ。ショーで彼女のデザインした服を着るモデルにつけさせれば、テーマにこれ以上なく応えることができる。けれど最後には、圭介が本来の価値をはるかに超える高値で、若葉のために競り落とした。時間も迫っていたため、小夜は結局、ルビーをテーマにしたデザインには参加できなかった。参加できたのは、山水をテーマにしたデザインだけだった。反響は悪くなかった。ただ、それも少し名が知られた程度にすぎない。「ごめんなさい。最近は、やることが多くて」小夜はやんわりと断った。そう言って、駐車場のほうへ向かおうとする。だが視界の端に、一人の人影がこちらへ早足で歩いてくるのが見えた。手首で揺れる目立つ赤い紐が目に入り、彼女は思わず驚く。「白石さん?」「高宮さん、お久しぶりです」光はにこにこと笑い、それから彼女のそばへ視線を移した。「こちらは?」ちょうど断られて少し落ち込んでいた翔は、現れた相手のあまりにまばゆい容貌にまず驚いた。声をかけられてようやく我に返り、慌てて手を差し出す。「柏木翔です」「柏木さんですか。お噂はかねがね」光は笑った。「白石光です。以前、高宮さんのお見合い相手をしていました」翔は固まった。小夜はさらに気まずくなった……普通の人は、初対面の相手にそうやって自己紹介するものなのだろうか。彼女は急いで話題を変えた。「白石さん、どうしてこちらに?」「病院へお見舞いに来たんです」光は少し離れた場所にそびえる病院の建物を指した。「通りかかったら、ちょうど高宮さんをお見かけしたので、ご挨拶だけでもと思いまして」彼はまた翔を見た。上から下まで眺めるように見て、何気ない冗談のように口を開く。「高宮さんが私を断ったのは、こちらの柏木
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第624話

「はい、分かりました」病室の中、窓辺に立っていた病衣姿の青年がその声に振り向いた。光が片手を後ろへ回して病室の扉を閉め、手元のスマホで誰かと話している。佑介は冷ややかな目で見ていた。「少しはよくなった?」光は通話を切っても近づいては来なかった。扉脇の壁にもたれ、浅く笑ってこちらを見る。「自分の出自を知ったくらいで、そんなにショックを受けるものかな」「また何をしに来た」佑介は冷たい声で尋ねた。「君と少し話しに来ただけだよ。ちょうど伝えることもある。先生が数日後に来られる。君に会いたいそうだ」光は微笑んだ。「それで、どちらにつくか、もう決めた?」佑介は沈黙した。「本当に分からないな」佑介が黙っているのを見て、光は額を軽く叩き、ため息をついた。「何をそんなに迷うことがあるんだ。長谷川家に残って、表に出せない隠し子のまま生きるのか。それとも実の父親についてイタリアの本家へ戻り、ルナーレ家の次代で唯一の後継者になるのか。そんなに迷うことかな?」彼には理解できなかった。ルナーレ家がどれほどの家柄か。ヨーロッパでも古い大貴族と呼べる一族であり、歴史上、何代もの当主が教皇に選ばれたことすらある。まして彼の先生であり、佑介の実父であるコルシオは、父方だけでなく、母方もヨーロッパ史に名を残すほど名高い貴族の出だった。一族は近代に入って少しずつ衰えたとはいえ、国際社会での地位はいまも揺るぎない。生まれながらにして、これ以上ないほど高貴な身分にある。何をためらう必要があるのか。佑介は光を見つめた。黒々とした瞳が沈んでいる。「どうして急にそんな話になる」前は、まだ様子を見ると言っていなかったか。光は微笑んだ。彼は説明しなかった。ただ言う。「本来なら、もっと早く来るべきだった。君に残された時間はあまり多くない。早く考えを決めたほうがいい。先生が来られてもまだ選べないなら、そのときはもう選ばなくていい」数秒、静けさが落ちた。佑介が不意に尋ねる。「もし、君たちを選ばなかったら?」光は笑みを変えなかった。うつむき、片手で手首の赤い紐をそっと弄びながら、さらりと言う。「そのときは、長谷川家で表に出せない隠し子のままでいればいい。君の選択を尊重するよ」ただ、彼は一言だけ口にしなかった。ルナーレ
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第625話

窓枠を押さえていた手に、ぎゅっと力がこもった。けれど、佑介は沈黙した。光も気にしなかった。続けて言う。「考えたことはないのか。隠し子である君に、彼女と結ばれる可能性は永遠にない。彼女を追いかけている男たちと比べれば、誰を適当に一人選んだとしても、君には何の競争力もない。それとも、数学の才能に頼るつもりか?」彼は笑った。「その才能があれば、将来に限りない可能性があるのは確かだ。けれど君は今、まだ若すぎる。彼らはすでに成熟し、地位を固め、それぞれ自分の巨大な世界を持っている」光はそれ以上言わなかった。だが、その言葉が何を意味するかは明らかだった。隠し子では駄目だ。では、ルナーレ家の後継者なら?佑介の手は、窓枠をきつく掴んだままだった。表情はなお変わらず、声も平らに保たれている。「彼女は僕の義姉さんだ」永遠に変わらない。光は笑った。わずかに顎を上げ、瞳に嘲りを滲ませる。「君に力がないから、彼女は君の義姉でしかいられないんだよ。佑介、人は力がなければ何者にもなれない。価値もなければ、何かを望む資格も、憧れる資格もない」数秒言葉を止め、それからまた続けた。「そして私たちは、その資格を君に与えられる。このまま腐って運命を受け入れるのか。それとも同じ土俵に立て、駒を動かす側になって、一度勝負に出るのか」佑介の表情が陰った。「聞こえのいいことを言う。でも結局、駒を動かす側なのか、それとも君たちの駒なのか」光は、言い当てられたことを恥じる様子もなかった。彼はゆっくりと言った。「少なくとも、君は同じ土俵に立てる。世の中には、少なくとも九十九パーセントの人間は、その土俵に上がる資格すらない。ましてこの階層の闘いならなおさらだ。勝負を仕掛ける側であろうと手駒であろうと、土俵に上がって初めて、上へ斬り込む機会が生まれる。望むすべてを勝ち取る資格が生まれるんだ」そうして初めて、この世界に揺るぎない姿で立つことができる。本物の権力を手に入れられるのだ。「よく考えなよ、佑介」光は病室の扉を開けた。一歩外へ出ようとして、不意に足を止める。少しだけ横を向き、青年を見て淡く笑った。「君は生まれながらに権力の場にいる。最初から、権力のそばにいるんだ。君が望みさえすれば、他人が一生を費やしても届かない頂に、手を伸ばす
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第626話

樹を会社へ連れてきたインパクトは、予想以上のものだった。すると、半日もたたないうちに社内はひそかな騒ぎとなり、あちこちのグループチャットで噂が飛び交った。最後には、小林社長の略奪愛がついに実ったらしいという話にまで発展し、結婚はいつなのか、特別休暇はもらえるのか、祝い金や特別ボーナスは出るのかと、社員たちはすっかり盛り上がっていた。あれだけ長く独り身だった社長に、ようやく春が来たのだ。会社を挙げて祝わずにどうする。社員にも少しくらい幸せのお裾分けがあってほしいものだ。その頃、オフィスで開発部のメンバーを集め、重要な会議を開いていた青山は、子供を一人連れてきただけで社内がこれほど騒ぎになっているとは思いもしなかった。もっとも、噂の内容そのものは願ったりかなったりだったが。モニターに次々と映し出される資料を追い、技術面の報告に耳を傾けながら、青山は時折、隣の椅子でゲーム機を抱えている樹へ視線を向けた。子供を連れて出社すると言った以上、ただ連れてきて放置しておくつもりはなかった。青山自身、本来なら目が回るほど忙しい。それでも小夜と約束したからには、樹の面倒をきちんと見なければならない。常に目の届くところに置き、万が一のことがあってはならないからだ。視線に気づいたのか、樹はゲーム機から顔を上げ、不機嫌そうに青山を見た。「つまんない。お腹すいた。外に出たい」大人たちが口にするのは、樹にはさっぱり分からない話ばかりだ。初めのうちは物珍しかったが、聞き続けているうちに眠くなり、ゲームをしていてもまぶたが重くなってくる。パパの会社に行ったときも退屈だったが、ここまでではなかった。少なくとも、こんな意味不明な話を延々と聞かされることはなかったからだ。とにかく、退屈で仕方がない。樹は激しく後悔していた。最初から大人しく、外へ遊びに行くほうを選んでおけばよかったのだ。青山は笑い、銀縁の眼鏡を軽く押し上げると、樹の願いを聞き入れるように、穏やかな声で口を開いた。「ひとまずここまでにしよう。今の方針に沿って細部を調整し、できるだけ早くプログラムを固めてくれ。まずは試作機を何台か作り、実際に動かして様子を見よう」そのほかにもいくつか指示を出し、それからようやく、樹を連れて会議室を出た。扉を出たところで、ラフな服装の男性が向
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第627話

竹園地区、徒花の邸宅。夕暮れ時。沈みゆく夕日が空一面を茜色に染めるなか、小夜は一階の窓辺に座り、果てしなく広がる夕焼けを眺めながら、電話越しに聞こえる珠季の声に静かに耳を傾けていた。返すのは、時折短い相槌だけだった。「私もそう思うわ。具体的な日程は、二人で相談して決めてから、また連絡するわね。ただ、資産の確認と分割については、大叔母様の力を借りることになりそう。どう分けるかは、すべて大叔母様に任せるわ」「ええ、分かった」「分かってる」「心配しないで。私は青山を信じているから」そう話していると、玄関のほうからチャイムが鳴った。青山と出かけていた樹が帰ってきたのだろう。小夜は立ち上がって玄関へ向かい、電子錠を開けた。「じゃあ、大叔母様。今日はこのあたりで。なるべく早く日程を決めて、連絡するわ」電話を切った。扉が開くなり、樹が勢いよく飛び込んでくる。「おかえり」樹を抱き止めた小夜は、後ろからついてきた青山に笑顔で軽く会釈し、腕の中の息子へ目を落とした。「青山おじちゃんと一緒に遊んで、楽しかった?」「ふん!全然楽しくなかった!」ママの顔を見るなり、樹はさっそく言いつけた。「おじちゃん、嘘つきなんだ!」小夜は訳が分からず、青山へ視線を向ける。青山は銀縁の眼鏡を軽く押し上げ、困ったように笑った。「途中で用事が入って、公安まで連れていったんだ。でも、約束していた『雲山』のソースコードは見せてやれなくてね。ちょっとしたトラブルが起きたんだ。今度また連れていくって約束しただろう?いつまで怒ってるんだい。帰り道でもずっとむくれてたな、この拗ねっ子は」青山は笑いながら樹の頭を撫でようとしたが、その手はすぐに払いのけられた。「誰が見たいって言ったんだよ!もう見ない!」樹は玄関の外にいる青山を睨みつけると、勢いよく扉を閉めた。内と外にいた二人の大人は、反応する暇もなかった。小夜はどうにか樹をなだめ、もう一度扉を開けた。青山はまだ外で、笑みを浮かべて立っている。小夜を見ると、変わらず穏やかな声で尋ねた。「拗ねっ子の機嫌は直った?」「おじちゃんこそ、拗ねっ子だ!おじちゃんの家族もみんな、拗ねっ子だ!」樹が小夜の後ろから顔を出した。また言い争いが始まりそうになり、小夜は呆れて少し声を張った。「二
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第628話

少し迷った末、小夜はエプロンを受け取った。青山の腰に回し、後ろで紐をそっと結ぶ。そのまま離れず、そばに立って、時折必要なものを手渡した。流れる水の音に包まれながら、二人は他愛もない話を続けた。樹を昼間どこへ連れていったのか聞いた小夜は、つい口を挟んだ。「これからは、樹を公安へ連れていかないで。プロジェクトのことを抜きにしても、ああいう場所は機密が多いでしょう。子供を連れていくところじゃないわ」何しろ、公安のプロジェクトなのだ。子供には何が許され、何がいけないのか分からなくても、大人なら分かるはずだ。いくら何でも無茶がすぎる。青山は泡だらけの手で鍋を丁寧にすすぎながら、きちんと答えた。「心配しなくていい。そこはわきまえてるよ。あのときは急なことだったし、樹くんをどこかへ置いていくわけにもいかなかった。それで、その場を収めるために口にしたんだけど、僕が悪かった。できない約束は、たとえ相手が子供でも軽々しくするものじゃないね。むしろ子供だからこそ、本気にするんだ。あとで、もう一度ちゃんと謝ってくるよ」「ごめんなさい。手を焼かせたでしょう」小夜はためらいがちに尋ねた。「昼間も、かなり振り回されたんじゃない?」樹の性格は、誰よりもよく分かっている。「そうでもないよ」青山は笑い、洗い終えた鍋を小夜へ渡した。「引き受けた以上、きちんと面倒を見られないようじゃ困るからね。それに、樹くんは少しわがままなだけで、かわいい子だよ」そこまで言うと、青山はわずかに顔を向け、ふいに笑った。「さっき食卓で、僕の味方をしてくれたよね」小夜は一瞬、言葉に詰まった。慌てて鍋を受け取り、視線をそらしたまま棚へ置く。「二人があんなふうに張り合うのを見ていたくなかっただけよ。それに、私にも考えがあってのことだし、あなただけに頑張らせるわけには……」青山はこらえきれずに笑った。小夜のすぐそばまで寄ってくる。まだ手に泡が残っていたため、触れる代わりに、すぐ隣の小夜へ肩をそっとぶつけた。「ごめん、心配をかけたね。樹くんとは、ちゃんとうまくやっていくよ」二人の距離は近かった。キッチンの白い照明が、青山の端正な横顔を明るく照らしている。髪を縁取った光はそのまま下へ流れ、高い鼻から少しずり落ちた銀縁の眼鏡の奥から覗く瞳を、柔らか
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第629話

キッチンでは、水が勢いよく流れ続けていた。けれど、人の声はしない。長い沈黙が続いた。青山がその場に立ち尽くしたまま何も言わないので、小夜もだんだん不安になってきた。「……駄目?」「いいに決まってる!」青山は即座に答えた。何をためらっているんだ!答えるなり、小夜の手を取ろうとした。だが、伸ばしかけた手が泡だらけなのに気づき、慌てて引っ込める。しばらくして、ようやく声が出るようになった。どうして急に公表する気になったのか尋ねかけたものの、すぐに思い直す。そんなことが、今それほど大事だろうか。「いつにする?」尋ねたのは、それだけだった。今度は小夜が面食らった。迷わず承諾してくれるとは思っていたが、ここまで即答されるとは予想していなかった。しばらくして、ようやく一言だけ口にする。「……三日後?」青山は目を瞬いた。さすがに早すぎないか。「三日後?」青山は眉を寄せ、思わず早口になった。「少し急すぎない?用意するものはたくさんあるし、それだけしか時間がなければ、とても間に合わない。それに僕は、まだ君にプロポーズもしてないんだよ」「そんなに慌てないで」青山の様子を見ているうちに、小夜の胸にあった不安は、かえって少しずつ消えていった。「婚約なら、そこまで構えなくても大丈夫よ。まずは二人の関係をきちんと決めて、正式に結婚するときに盛大にお祝いすれば……」「それじゃ駄目だ!」青山は小夜の言葉を遮り、真剣な顔で言った。「婚約だって大切だよ。君には、何もかも最高の形で迎えてほしいんだ」二人の結婚なのだ。人生を左右する大切な節目である。そこへ至る一つ一つを、小夜にとって最高のものにしたい。いい加減に済ませるなど、できるはずがなかった。小夜はしばらく動けなかった。胸の中で、言葉にできない感情が激しく揺れる。その直後、後ろめたさと罪悪感が一気にこみ上げ、もう耐えられなくなった。小夜は、泡でぬるついた青山の手を掴んだ。「青山、私……ごめんなさい。でも、どうしても三日後じゃなきゃ駄目なの」激しく高鳴っていた青山の心臓が、少しずつ落ち着いていく。何かを察した青山は、小夜の手を握り返し、なだめるような穏やかな声で尋ねた。「ささよ、何があったのか話して」……昼間の出来事を聞き終えた青山は、
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第630話

「前にも言っただろう。僕のことは、好きなように利用してくれていいって。なのに君は、何でも馬鹿正直に話してしまうんだから。こんなことを言うのは、これで最後にするよ。僕は君の役に立てるなら、喜んで利用されたい。だから、罪悪感なんて抱かないで。君の役に立てることが、僕には嬉しいんだ……少しでも僕を大切にしてくれたら、それで十分だから」胸の奥を強く打たれたようだった。小夜は目頭が熱くなるのを感じた。何か言おうと口を開いたものの、胸が詰まり、言葉にならない。気づけば、小夜は青山の引き締まった腰に腕を回し、その胸に顔を埋めていた。二人は長いあいだ、何も言わなかった。青山は小夜の頭にそっと顎を乗せ、髪に優しくすり寄せながら、ふいに笑って尋ねた。「それに、僕が断ったら、今度は誰に頼むつもりだったの?あの柏木さん?」その声には、わずかに嫉妬が滲んでいた。「そんなわけないでしょう」小夜は思わず笑みをこぼした。「今日、柏木さんに会いに行ったのは、樹の担任が停職になった件を話すためよ……あなたがいなかったら、こんな方法は取らなかった」最後の言葉は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。それでも、青山にははっきり聞こえていた。青山は笑みを浮かべ、まつげを伏せると、優しく言った。「ささよ、それで十分だよ」青山は今になって気づいた。自分は、思っていたよりずっと満足しやすい人間なのだと。たとえ今回の婚約に、利用という思惑が大きく含まれ、純粋な気持ちだけではないと分かっていても、それでも嬉しかった。少なくとも、小夜が最初に思い浮かべたのは自分だったのだから。ほかのことなど、どうでもいい。自分のほうが小夜を深く愛していれば、それでいいのだ。……青山は小夜の少し乱れた髪を指で整えると、ようやく別のことを尋ねた。「この話は、大叔母様にもした?婚約のお披露目は、国内とイギリスのどちらにするつもり?」「国内よ」小夜は青山を見上げた。「コルシオがいつ来てもおかしくないし、時間もないでしょう。それに今は、樹を連れて海外へ出るのも不安なの。海外で開くとなれば、私たち二人ともこちらを離れることになるし、樹のことが心配だから、国内で開くことにしたわ。大叔母様には、もう話してあるわ。長谷川家に関係する私の資産も、整理を始めて
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