Semua Bab 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Bab 631 - Bab 640

646 Bab

第631話

「でも、国内で開くことにして正解だったよ」青山がふいに口を開いた。「どうして?」小夜は不思議に思い、尋ねた。「公安のプロジェクトで少し問題が起きてね。しばらくは海外へ出られそうにないんだ。婚約まで時間もないし、問題が片づくのを待ってはいられなかったから」青山は困ったように説明した。「何があったの?」口にした途端、小夜は聞いてはいけないことだったと気づいた。「今の質問は忘れて」あのプロジェクトのことなら、小夜も知っていた。基盤となるソースコードの構築に、彼女自身も一部関わっていたからだ。だが、公安のプロジェクトであり、機密性は極めて高い。軽々しく聞いていい話ではなかった。そもそも、尋ねるべきではない。青山は頷いた。「ごめん。やっぱり詳しいことは話せないんだ」青山は機密保持契約を結んでいる。『雲山』のアルゴリズムを組み込んだ公安のプロジェクトは、システムの防御に加え、大量の情報処理も担い、情報部門と密接につながっていた。わずかな情報漏洩でさえ、重大な危険を招く。今回は外部から攻撃を受けたものの、防御が十分に機能し、逆に信号を追跡できたため、実害は出なかった。だが、それはあくまで結果である。公安が重く見ているのは、攻撃を仕掛けられたという事実そのものだった。決して見過ごすことはできない。追跡を進めれば国際的な問題へ発展する可能性が高く、当然、厳重な機密保持が必要になる。信号が海外から送られたことまでは分かっている。ただ、相手が情報を何重にも暗号化しており、発信元の正確な位置はまだ特定できていなかった。青山は、プロジェクトの技術責任者である。国内に残り、技術面の方向性を見定めなければならない。この重要な時期に、現場を離れられるはずがなかった。詳しい事情は分からなくても、公安が関わる以上、小さな問題ではない。小夜は心配になった。「こんなときに婚約の準備をして、仕事に影響はない?無理なら延期してもいいのよ。問題が片づいてからでも……」何を優先すべきかくらい、小夜にも分かっている。自分の身の安全に関わる問題など、公的機関が抱える重大事に比べれば、優先順位は低い。しかも、小夜はあのアルゴリズムのソースコードを一部担当しており、どんな役割を持つものかよく知っていた。公安が扱う仕事まで考えれば、何が起きたのかもおおよそ察しがつく。おそら
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第632話

青山は、ずっと前から二人の結婚について考えていた。会場のデザインから演出まで構想し、すでに一通りの案を作り上げていたのだ。準備期間は短くても、その計画は細部までよく練られており、このまますぐ実行に移せるほど完成していた。小夜は心底驚いた。長年温めていた計画が思いがけない形で明るみに出てしまい、普段はまっすぐに気持ちを伝える青山も、さすがに照れくさそうだった。感嘆の目を向ける小夜から、わずかに視線をそらしている。「今回は婚約のお披露目だけど、結婚式は大叔母様がすべて取り仕切ることになっているだろう?だから、婚約のほうは僕が考えた案でやらせてほしい」「いいわよ、もちろん」小夜に異論などなかった。ここまで準備が整っているのだ。自分が頭を悩ませる必要など、少しもなかった。基本的なことはすぐに決まった。だが二人は間もなく、招待客のリストで頭を抱えることになった。まずは小夜である。一番の親友である芽衣は海外にいて、間に合わない。大叔母の珠季にも、体に負担のかかる長距離移動はさせられないため、今回は欠席してもらうことになっていた。実家側の親戚とは、とうの昔に縁を切っている。招待するはずもない。最後に残ったのは、佳乃だった。佳乃は長いあいだ、小夜の中で母親に代わる存在だった。人生の大切な節目だからこそ、見届けてもらいたいと心から思う。だが、今回の婚約には、長谷川家との関係を切り離すという目的がある。当然、佳乃を招くことはできなかった。招待できそうな相手をすべて挙げてみて、小夜は気づいた。仕事上の付き合いがある相手を除けば、招待できる人がほとんどいない。青山のほうは、小夜よりわずかにましだった。それでも、大差はない。「両親は呼ばなくていい。来たところで揉め事を起こし、せっかくの席を台無しにするだけだ」青山が真っ先にリストから外したのは、小林家の親族だった。それでも、友人を何人か招くことはできる。ただ、青山は長年海外で暮らしていたため、人脈の大半は海外にあった。親しい友人や仕事仲間、とりわけ青山が恩師として敬い、父親のように慕う人物は、急な話だけにどうしても間に合いそうになかった。招待客のリストをまとめ終えた二人は、顔を見合わせた。「大丈夫よ」先に現実を受け入れたのは小夜だった。青山の手を握り、笑って慰めた。「今回は婚約のお披露目だけ
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第633話

ガタン!「あの女、いったい何のつもりなの!」病室に大きな音が響き、折りたたみ椅子が床へ倒れた。雪が投げつけた深紅の招待状は、くしゃくしゃに丸められたまま床を転がり、ゆっくり近づいてきた磨き抜かれた赤茶色の革靴の前で止まった。翔は身をかがめ、招待状を拾い上げた。表情を変えず、ゆっくりと開いていく。紙面には金の箔押しが施され、冒頭に『柏木翔様』と記されていた。翔に宛てられた招待状である。そこには信じられないほど間近に迫った日付と会場が書かれ、最後には婚約する二人の署名が並んでいた。【高宮小夜 小林青山】まるで夢の中にいるようだった。わずか一日で、何もかもが一変してしまった。今はただ、静けさだけが満ちている。だが、雪は黙っていられる性格ではなかった。倒れた椅子を蹴り、病室にいる唯一の相手である翔を指さして怒鳴りつける。「この役立たず!せっかく機会を作ってやったのに、昨日、教師の件で高宮と話したとき、どうしてものにできなかったのよ!デートの約束一つ取りつけられないなんて!その間に、向こうはもう婚約を決めてるじゃない。あんたは一体、何ができるの!それに、どうして招待状があんた宛てだけなのよ。私をいないもの扱いするつもり?柏木家で誰が決める立場なのか、分かってないの!」雪は怒りでどうにかなりそうだった。圭介とはもう組まないと決めてから、雪は小夜を柏木家へ連れてくるつもりでいた。結婚という形で、家に縛りつけるのだ。ちょうど未婚の弟がいる。翔も小夜を好きなのだから、弟にとっても悪い話ではない。だから昨日、小夜が佐々木だったか何だったかという教師の件で訪ねてきたとき、雪はわざわざ翔を引っ張り出した。それなのに、結果はどうだ。デートの約束すら取りつけられなかった。食事に誘うことさえできていない。そして今日、届いたのがこの婚約式の招待状だった。自分をバカにしているのか。それともわざと逆らっているのか!これほど罵られても、もう慣れているのだろう。翔の顔には何の変化もなかった。感情すら見せず、ただ、しわだらけになった赤い招待状を見つめている。雪の怒鳴り声が少し収まってから、翔はようやく静かに呼びかけた。「姉さん。これでいいんだよ」顔を上げ、首に包帯を巻き、怒りで頬を赤くした雪を見る。「
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第634話

「姉さん、もうやめよう。これ以上、高宮さんに関わらないで。星文のことも、高宮さんのことも……今回はやりすぎた。もう終わりにしよう」翔は扉の前まで行き、ドアノブに手をかけた。振り返らないまま、扉を開けた。「それでもまだ続けるなら、星文に対してであれ、高宮さんに対してであれ、俺たちはもう姉弟じゃない。どれだけつらくても、俺は最後まで姉さんと戦う」ガシャーン!閉ざされた扉に、グラスが叩きつけられた。水が扉を伝って流れ落ちる。割れたガラスが、床一面に散らばった。雪はテーブルを平手で強く叩いた。手の下には、しわだらけになった深紅の招待状がある。その顔は怒りで暗く沈んでいた。「役立たずのくせに!」よくも私に逆らったわね!……一枚の招待状をきっかけに、柏木家の姉弟が決裂寸前まで争ったことなど、小夜は知る由もなかった。小夜は婚約の準備に追われている。ほとんどは青山が引き受けていた。それ以外も、プランナーに任せている。それでも重要な電話だけは、小夜自身が受けなければならなかった。親しい友人に加え、仕事で関わった相手や、デザインの仕事で付き合いのある人々から、事実を確かめる連絡や祝いの電話が絶えずかかってくる。話し続けて、喉がひりつくほどだった。書斎に続く小さなバルコニーで、ようやく一本の電話を終えた。お茶を一口飲み、ロッキングチェアに体を預けて、しばらく日差しを浴びながら休もうとしたところで、またスマホが鳴った。「またか」小夜は少し息を整え、画面も見ずに電話へ出た。「はい、高宮小夜です」いつものように名乗ったが、相手は何も言わない。もう一度呼びかけても、返事はなかった。話し疲れてぼんやりしていた頭が、一気に冴えた。小夜はロッキングチェアの肘掛けを掴み、ゆっくり体を起こした。「……もしもし?」「私だ」雅臣の声だった。画面を見て相手を確かめると、先ほどまでの気の緩みは消えた。小夜の声も、たちまち硬く警戒を帯びた。「……何かご用ですか?」「婚約するそうだな」圭介の父親からそんなことを聞かれるのは、やはり奇妙だった。それでも小夜は答えた。「……はい」「よく考えたのか。その男でいいんだな?」「はい」「なぜ私たちを招待しない?」雅臣の声は、まだ穏やかだった。
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第635話

日差しは、ちょうどよい暖かさだった。バルコニーで風に揺れる薄い白のカーテンをぼんやり眺めながら、小夜はロッキングチェアの動きに身を任せていた。その目は、どこかうつろだった。一つだけ、ほっとしたことがある。先ほどの電話で、雅臣は佳乃のことを持ち出し、自分を揺さぶろうとはしなかった。たとえ名前を出されたとしても、もう決意が揺らぐことはない。それでも、こんな状況で佳乃を利用されていたら、長谷川家にまつわる、たった一つの温かな記憶まで完全に壊れていただろう。それは、小夜と佳乃が二人で築いた思い出だった。雅臣が持ち出さなかったことに、小夜は安堵している。あの思い出だけは、美しいまま胸にしまっておくことができた。そんなことを考えていると、背後でガラス戸が開く音がした。振り返るより先に、日差しで火照った頬へ、冷たく濡れたものが触れる。「ひゃっ、冷たい」小夜は慌てて顔をそらし、見上げた。笑顔でバルコニーへ入ってきた青山の姿があった。手には、たっぷりの果肉が浮かんだ桃色のジュースがあった。「今作ったばかりのアイスドリンク。桃とレモンのジュースだよ。飲んでみる?」青山がグラスを軽く揺らすと、氷がカランと鳴った。冷気が頬に触れる。ロッキングチェアに座ったままでは動きにくい。小夜は差し出されたグラスへ顔を寄せ、そのままストローをくわえて一口飲んだ。甘酸っぱく、後味はさっぱりしている。冷たさが、体の中へ心地よく広がった。話し続けて熱を持っていた喉も、ずいぶん楽になった。小夜はもう一口飲んだ。「すごくおいしい。ちょっと冷たいけど」「少しなら平気だよ」青山は近くの椅子を引き寄せ、隣へ腰を下ろした。グラスが傾かないよう、しっかり支えていた。小夜が少しずつ飲む様子を眺め、笑って言った。「ほかにもいくつか組み合わせを考えたんだ。順番に作ってあげるよ」「うん」小夜は頷いた。「本当においしい」何口か飲んだところで、小夜はふと気づき、不思議そうに顔を上げた。「でも、どうしてジュースを作る暇があるの?私のスマホは電話が鳴りっぱなしよ。あなたは出なくていいの?」電話が少ないはずはない。「ああ、電話か」青山は少し顎を上げ、考えるような顔をした。やがて首を横に振った。「さあ。スマホは神崎に預け
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第636話

小夜は画面上のファイルをクリックし、一つずつ目を通していった。そのうちの一つを開いたところで、わずかに眉を寄せた。「ほかは何とかなるし、長谷川会長に引き継げるものもあるけど、これは……」「厄介なの?」青山に聞かれ、小夜は頷いて顔を上げた。「うん。相沢さんが担当しているAI自動化の研究プロジェクトよ。まだ始まったばかりでしょう?本当は、このプロジェクトを追いながら彼女の本当の狙いを突き止めて、それから彼女と相沢家への対処を考えるつもりだったの。でも私が取締役を辞めたら、もう監視できなくなる。それが少し厄介で」「馬鹿だなあ」「え?」青山は手を伸ばしてパソコンの縁に触れ、くすりと笑った。「何も困ることはないよ。また忘れたの?あのプロジェクトに入っている技術チームは、僕が送り込んだ人たちだ。進捗も研究の方向性も、ずっと監視させている。それも、加工されていない最新の一次資料でね。見る?」「見るわ」「分かった」青山はノートパソコンを手に取り、自分のアカウントにログインすると、資料を呼び出して小夜に見せた。小夜は全体にざっと目を通した。読み終える頃には、何とも言えない表情になっていた。「やっぱり。最近、彼女が本社に提出していた進捗報告は、都合よく手を加えた偽の資料だったのね。実際には、もっと先まで進んでる……長谷川グループの研究開発費を使っておきながら、本社まで欺くつもり?」あまりの大胆さに、呆れるほかなかった。「彼女の野心は、相当なものだね」青山は驚く様子もなく、口元に薄い笑みを浮かべた。「君も見ただろう。AI自動化の研究には違いないけど、実際に目指しているものは、彼女が表向きに説明している内容とはまるで違う。これでは、正直に報告できるはずもない」小夜は頷いた。これまで提出された報告には、毎回目を通してきた。実際の研究内容が、報告書と食い違っているのは明らかだった。加工前の資料を見ると、実に興味深い。「相沢さん……正気なの?」しばらくして、小夜の口からようやく出てきたのは、その一言だった。「僕も同じことを考えてた」青山は声を抑えて笑った。「前は、本当に長谷川家のためか、長谷川くんのために必死になっているんだと思ってたんだけどね。ふたを開けてみれば、彼女の狙いは僕た
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第637話

「聖地?」青山は考え込むような顔をした。ふと何かを思い出し、真剣な眼差しを小夜へ向けた。「そういえば、覚えてる?一年あまり前、君と瀬戸さんが宗介を助けたときのこと」「覚えてるわ」小夜にとっても、忘れられない出来事だった。当時、天野家は一部の事業に反社会勢力との関わりを疑われ、当局から目をつけられていた。その最中に、宗介まで襲撃を受けたのだ。あの夜、たまたま現場に居合わせた芽衣が、銃で撃たれた宗介を助けた。それがきっかけで、二人の厄介な縁が始まった。今もなお、関係はこじれたままである。だが、なぜ急にその話をするのだろう。青山はわずかに眉を寄せた。「僕たちも、あの夜、宗介を襲った連中をずっと追ってるんだ。帝都の外まで足取りをたどったけど、そいつらも聖地で消息を絶ってる」書斎が一瞬にして静まり返った。二人は顔を見合わせ、同時に一つの可能性へ行き着いた。「まさか」小夜は呆れたように声を漏らした。「相沢家は、天野家にまで手を出したの?」両家では、規模がまるで違う。とはいえ、長谷川家を相手にあれほどのことを企んでいるのだ。今さら相沢家が何をしていても、不思議ではない。しかも当時の天野家は当局から目をつけられ、大勢がその動向をひそかにうかがっていた。天野家が倒れたら、その利権にありつこうとしていたのだ。そう考えれば、あのとき小夜と芽衣が偶然、宗介を助けたことは、結果的に天野家を救うことにもなった。それなのに、宗介は芽衣をあれほど苦しめたのだ。結婚まで無理強いするなんて、あまりにひどい。心の中で宗介をひとしきり罵ってから、小夜は本題へ戻った。「確かなの?」青山は首を横に振った。「確証があったら、とっくに君に話してるよ。今日、君から聖地の話を聞いて、僕も今になって思い出したんだ。こちらが聖地までたどり着いたのも、つい最近だからね。ここまで調べにくいとなると、誰かがあの連中を守っている可能性は高い。でも、君が追っているのと同じ連中かどうかは、まだ分からない。それに、天野家の件と相沢家を結びつけるものも、今のところ何もない。当時、関与が疑われた者の名簿にも、相沢家の名前はなかった」「でも、逆方向から調べることはできるでしょう?」小夜は言った。「殺し屋を雇った証拠を追って
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第638話

書斎の扉が激しく揺れた。だが、それ以上に大きく響いたのは、少年の怒鳴り声だった。「ママ!どうして僕に何も言ってくれなかったの!」扉の向こうから聞こえた樹の声に、小夜は青山の服を掴む指へ、わずかに力を込めた。唇を引き結び、顔の片側を影に沈めた。今回の婚約は、あまりに急だった。樹にはまだ、何も話していない。自分一人で決めてしまった。これは、自分自身の問題だ。もちろん樹の気持ちも大切だが、それだけで自分の決断を左右させるべきではない。ただ、どう話せばいいのか、今も答えが見つからずにいた。だが、もう樹は知ってしまった。これ以上、避けるべきではない。向き合うときが来たのだ。小夜は心の中でため息をつき、青山を押しのけて椅子から立とうとした。そのとき、汗ばんだ手をそっと握られた。頭上から、青山の穏やかな声が降ってきた。「僕が行くよ。君は仕事を続けて」そう言って、桃のアイスドリンクを小夜へ渡した。驚いたように見返す小夜へ、青山は笑った。「これからは、僕も父親として責任を負うんだから。樹くんとうまくやっていけないようじゃ、駄目だろう?」確かに、その通りだった。青山なら、きっと樹を大切にしてくれる。父親としての責任も、きちんと果たしてくれるだろう。けれど、樹がいつまでも青山を受け入れなければ、小夜も困ってしまう。そうなれば、三人ともつらい思いをする。一人だけが努力して、どうにかなることではない。「君は、これまでもう十分に頑張った。ここからは僕に任せて」青山は小夜の耳元で乱れた髪を優しく整えた。「行ってくるよ」「うん」小夜は頷き、少し考えてから、腕を伸ばした。青山の首に回して引き寄せ、その頬にそっと口づけた。「これで、ご褒美になる?」ほのかな桃の香りが漂った。青山は目を見開いた。数秒後、笑いながら小夜の柔らかな頬をつまんだ。「それでごまかすつもり?」扉を叩く音は、ますます激しくなっていた。苛立ちをぶつけるような、鋭い音が響いた。「早く行って」小夜は青山の身体を軽く押した。青山はもう一度その頬をつまんだ。小夜が手を上げると、笑いながら手を離し、扉へ向かった。扉を開け、樹が中へ飛び込んでくるより早く、その腕を掴んで外へ連れ出した。直後、書斎の
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第639話

青山にとって、こうした電子制御の仕組みなど、ないも同然だった。規則に沿って組まれた、単純なコードにすぎない。飛んできたレゴブロックを、軽く首を傾けてかわした。青山は後ろ手に扉を閉め、笑顔を浮かべた。「ごめんね。勝手に入ったのは悪かったけど、こうして話し合いから逃げるのはよくないよ」それほど申し訳なく思っているようには見えなかった。何にせよ、問題は解決しなければならないのだ。そのために、どんな手段を取るかは二の次だった。まして、樹のように扱いの難しい子供が相手なら、ときには強引な方法も必要になる。「少し落ち着こう。冷たいジュースでも飲む?」青山は笑顔で近づき、持っていたグラスを一つ差し出した。だが、樹はその手を勢いよく払いのけた。グラスは傾いたものの、床には落ちなかった。しかし、中の桃色のジュースは青山の手にこぼれ、指を伝って滴り落ちた。部屋中に、桃の甘い香りが広がった。「出ていって!」樹は冷たい目で青山を睨みつけた。「もったいないな」青山は気にする様子もなく、デスクへ歩み寄った。空になったグラスを置き、もう一杯のジュースもその隣へ置いた。それからティッシュを取り、手にまとわりつくジュースを丁寧に拭き始めた。「せっかく、おじちゃんが心を込めて作ったのに。君のママは、とても気に入ってくれたよ」「僕はママみたいに騙されないからな!」樹は怒りに満ちた目で、青山を睨んだ。「騙す?」指を拭く手が、わずかに止まった。青山は目を伏せて、樹を見下ろした。口元の笑みは少し薄れたものの、声は変わらず穏やかだった。ただ、眼鏡の奥の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。「それは逆じゃないかな、樹くん」その場にしゃがみ込み、怒りを隠しきれない樹の目を正面から見つめた。「おじちゃんは、君のママに嘘をついたことは一度もないよ。君はどう?嘘をつくのは、いい子とは言えないね」樹の顔色が変わった。部屋へ入る前、青山も穏やかに話し合うつもりではいた。だが、実際にはそう簡単にいかなかった。樹は、まともに話す機会すら与えようとしなかった。樹が青山を拒む気持ちは、理屈より先にある。このまま何も話さないか。それとも、強引にでも向き合わせるか。ほかに選択肢はなかった。幸い、樹は
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第640話

今回の婚約披露パーティーも、単に長谷川家と縁を切るためだけのものではない。珠季に心から安心して、これからの人生を楽しんでもらうためでもある。いつまでも小夜のことを気に病み、心を煩わせずに済むように。青山は、そのおかげでずいぶん得をしたのだ。あの夜、小夜と一緒にイギリスへ行き、珠季に会うと決めたことは、今振り返っても会心の一手だった。珠季から、はっきりと拒絶されない限り、青山の想いはほとんど実ったも同然だった。もともと、小夜も青山を強く拒んでいたわけではない。珠季が青山を嫌いさえしなければ、あとは自然に進んでいく。では、樹の気持ちはどうか。もちろん大切ではあるが、それだけで全てが決まるわけではない。樹とうまくやれれば、さらに望ましいということだ。たとえ関係を築けなくても、婚約そのものに大きな支障はないかもしれない。だが、小夜を失望させることにはなる。それだけは、絶対に避けたかった。青山自身も、このことで小夜を悩ませたくはない。小夜には、幸せを心から味わってほしかった。後悔など、させたくない。もし後悔させてしまったら、これほど情けないことはなかった。……樹は、目の前にいる男を食い入るように見つめた。馬鹿ではない。青山が嘘をついていないことも分かっている。それでも、やはり青山が嫌いだった。樹は勢いよく立ち上がると、扉へ歩み寄った。ドアノブを掴み、扉を開けようとした。「今の話をママに言ったら、ママは……」「言ってもいいよ」青山は椅子に座ったまま、身じろぎもしなかった。樹が扉を細く開け、外へ出ようとしたところで、静かに続けた。「樹くんは、おじちゃんの秘密を知ってる。おじちゃんも、樹くんの秘密を知ってる。おじちゃんを父親として認めたくないなら、それでも構わないよ。親子になれなくても、友達にはなれるだろう?それに、今はまだ婚約しただけだ。君を大切にしてくれる人が一人増える。それって、悪いことかな。どうして一度試してみようと思わないの?」樹が動かないのを見て、青山はさらに言葉を重ねた。「君のママは、僕を受け入れた。君と僕、ママにとって同じように大切な二人がいがみ合っていたら、一番幸せなはずのときに、ママを悲しませることになる。君はもう、何度もママを悲しませてきた。それでも、ま
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