All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 641 - Chapter 650

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第641話

「どうだった?」書斎で仕事をしていた小夜は、外の物音を聞きつけると、慌てて扉を開けて問いかけた。だが、その声に応えるよりも早く、樹が胸へ飛び込んでくる。「ママ、青山おじちゃんが僕に意地悪した!ママにも会わせてくれなかったんだ!」小夜は樹を抱き止め、どういうことかと視線で後ろの青山に尋ねた。青山は笑みを浮かべて頷き、声には出さず「もう大丈夫」と口の動きだけで伝える。小夜にも、おおよその事情は察せられた。樹の髪を撫でながら、なだめるように優しい声で言った。「そんなに意地悪されたの?じゃあ今夜は、ママと二人で遊びに行こうか。青山おじちゃんは連れていかないでおこうね」樹の目がぱっと輝いた。「うん!」青山は思わず笑った。「まったく、ちゃっかりしてるな」だが、その顔に腹を立てた様子はない。「ふん!」樹はママの腕の中へ隠れ、振り返って青山にあかんべえをした。ママにとって一番大切なのは僕なんだから。これからも僕を怒らせるなら、ママに相手にしてもらえなくなるからな!これが僕を怒らせた罰だ!小夜も、青山が本当に樹を納得させられるとは思っていなかった。わずかな時間で、樹はまだ怒っている素振りを見せながらも、婚約そのものには反発しなくなっていた。とはいえ、機嫌が直ったわけではない。青山を見送ったあと、スマホで彼から事の顛末を聞いた小夜は、樹を連れて出かけた。樹の好きなように思いきり遊ばせ、ようやく胸に残っていた不満を吐き出させることができた。何はともあれ、これで樹のことはひとまず落ち着いた。翌朝早く、玄関のチャイムが鳴った。小夜が扉を開けると、青山が外で待っていた。「行こうか」今日は、婚約披露パーティーで着る衣装を選ぶ日だ。日程はかなり迫っていた。パーティーは二日後で、今から一から仕立ててもらう時間はない。最近発表されたオートクチュールブランドの新作から、すでに仕立て上がっているものを選ぶしかなかった。珠季からは、スプレンディドへ直接行くよう言われている。二人が帝都にあるスプレンディドの本店へ着くと、貸し切りにされた豪華なホールは静まり返っていた。早くから待っていた店長が歩み寄る。「高宮社長、小林様。こちらへどうぞ」小夜はスプレンディドのイギリス本社で要職に就いているため、店長も役職で呼
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第642話

まだ出てこない。互いの衣装を選ぶと決めた以上、小夜は辛抱強く待つしかなかった。菓子を何個かつまみ、紅茶を半分ほど飲んだ頃、ようやく青山が衣装の山から姿を現した。だが、その手には何も持っていない。「衣装は?」まさか、まだ決められていないのだろうか。「やっと一着見つけたよ。試着室に置いてある」青山は腰をかがめ、小夜が持っていた菓子を口元へ運んでほしいと目で促した。それを一口で頬張ってから続ける。「君自身の目で見てほしいんだ。ちょっと驚かせたくてね。僕の分は?」小夜は笑った。「私が選んだのも、試着室よ」……それぞれ着替えて試着室から出てきた二人は、揃って目を見張り、やがて顔を見合わせて笑った。照明の下に立つ小夜は、色とりどりの花をあしらった、淡いピンクのチュールドレスに身を包んでいた。何層にも重ねられたチュールは膝のあたりで蕾のようにふくらみ、そこからさらに柔らかな布が流れ落ちて床を引いている。胸元にはピンクや白、紫の花が咲き、腰から裾へも連なるように散りばめられていた。細かな輝きが星屑のようにドレス全体を覆い、歩くたび、花々を乗せた天の川が揺らめくようだった。青山の目には、小夜が星の川に咲いた花の精のように映った。まるで、華やかな夢がそのまま形を得たかのようだ。あまりに真っすぐな視線を向けられ、小夜の頬が熱くなった。少しためらってから裾を持ち上げ、青山の前まで歩いていく。その場で軽く一回りすると、ドレスの裾が花と星の川のように広がり、露わになった背中には、白い肌がほんのりと紅潮していた。小夜は目を伏せ、そっと尋ねる。「似合う?」青山の喉が小さく動いた。返ってきた声は、かすかに掠れている。「あまりに綺麗だ。ささよ、魂も命も、何もかも君に捧げてしまいたい」この花の夢に、いつまでも溺れていたいと思うほどに。もう、この人は。また恥ずかしげもなく、こんなことを言って。ほかの人もいるのに!そばに控えていた店長や店員たちも小夜の美しさに見惚れていたが、青山の言葉を聞くと、口元を押さえて笑った。小夜はますます顔を赤らめ、慌てて青山の袖を引くと、今度は彼の姿をじっくり眺める。「私が選んだもの、気に入った?」ようやく小夜から目を離した青山は両腕を広げ、彼女の前でくるりと回ってみせた。「も
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第643話

やっぱり、あなただったのね。小夜は笑った。「でも、すごく気に入ってる。青山、ありがとう」「じゃあ、結婚式の衣装は?」「もちろん私がデザインするわ」そう答えてから、小夜は少し困ったように眉を寄せた。「でも、私がデザインして仕立てられるのは、あなたの衣装だけ。私のウェディングドレスは、大叔母様が自分で作ると前から決めているの。ずっと叶えたかったことだから」「うん。それもいいね」青山は、ピンクのチュールに包まれた小夜の細い腰をそっと抱き寄せ、その眉間に口づけた。「じゃあ、僕の衣装はささよにお願いしていいんだね?」「ええ」小夜はわずかに顔を上げ、避けることなくその口づけを受け入れた。照明の下に立つ二人は、どちらも息を呑むほど美しかった。ピンクとブルーを基調にした二人の衣装に、咲き乱れる無数の花。その華やかさが二人の整った顔立ちをいっそう引き立て、目が眩みそうなほどだ。そばにいた店長は思わず見惚れ、気づけばスマホを取り出していた。そして、その瞬間を写真に収める。咲き誇る花の中に浮かぶ、華麗な夢を。……時間はなかったが、婚約披露パーティーに必要な準備は、こうして滞りなく整っていった。ところが前夜になって、小夜のもとへ思いがけない人物から電話がかかってきた。「佑介?」前に別れたときの様子を思い出し、小夜は尋ねる。「……少しは落ち着いた?」「はい」佑介の声は穏やかで、特に変わった様子もなかった。だが、その次の言葉には鋭さが滲んだ。「お姉さんが婚約するって、どうして僕に教えてくれなかったんですか?僕たちは姉弟ではないんですか?こんなに大切なことなのに、僕はほかの人から聞かされたんですよ」「……ごめん」小夜は言葉を選びながら答えた。「事情があって、今回の婚約披露パーティーには、長谷川家の人を呼べないの」「呼べないんですか。それとも、呼びたくないんですか?」小夜は眉をひそめ、何も答えなかった。自分の口調がきつすぎたと気づいたのか、佑介は少し間を置いた。次に聞こえてきた声は、普段の柔らかさを取り戻していたが、どこか傷ついたようでもあった。「僕が長谷川の姓を名乗っているからですか?でも、お姉さんは僕のこと、本当に長谷川家の人間だと思っているんですか?お姉さんの人生にとって大切な
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第644話

深夜、竹園地区。書斎には暖かな明かりが灯り、机の上には、縁を金で彩った赤い巻紙が広げられていた。銀縁の眼鏡をかけた青山が筆を手に取り、金色の墨を含ませて文字をしたためていく。赤い紙の上に、金色の文字が一つ、また一つと並んだ。だが、十数文字を書いたところで青山は眉を寄せ、紙を破ってゴミ箱へ捨てた。そばに控えていた神崎執事が、すぐに新しい巻紙を広げる。青山は、また初めから書き始めた。同じことが、夜中にもう何十回も繰り返されている。ゴミ箱が赤い紙で埋まりかけているのを見て、神崎執事は新たな紙に並ぶ、力強く流麗な金文字へ目を落とした。ついに、見かねて声をかける。「旦那様、もう十分に素晴らしい出来です。文字にも申し分ございません。そのまま最後までお書きになってよろしいかと」「駄目だ。まだ足りない」青山は顔も上げなかった。「これは、僕とささよの婚約の契約書なんだ」完璧でなければならない。わずかな瑕も、あってはならないのだ。「ですが、そのお手が……」筆を握る青山の手は、かすかに震えていた。神崎執事は心配そうに眉を寄せる。青山の手は、まだ完全には治っていない。それなのに、これほど長い間、机に向かって書き続けている。「何か言った?」よく聞き取れなかった青山が尋ねた。「もう夜も更けております。今夜はお休みになり、英気を養ってからお書きになったほうが、かえって良いものになるのではないでしょうか」青山は首を横に振り、筆を走らせたまま答える。「明日は婚約披露パーティーだ。今夜のうちに仕上げないと」そこで筆を止め、顔を上げて笑った。「それに、どうせ眠れないんだ」パーティーが近づくほど、気持ちは昂る一方だった。これ以上言っても無駄だと悟り、神崎執事も諦めた。青山がこれほど浮き立っている姿など、めったに見られない。婚約は一生に一度なのだから、今夜くらいは仕方がない。時計の針が音を刻み、夜はさらに深まっていく。床には、破られた赤い紙が散らばっていた。やがて窓の外が白み始めた頃、青山はようやく筆を止めた。震える手で筆を置き、赤い紙に縦書きされた金文字を眺めると、晴れやかな笑みを浮かべる。「できた」赤い紙に、金の文字。伸びやかで流麗な筆致には、躍動するような力が宿っていた。最初から
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第645話

眠気の残る小夜は、メイク担当者の感嘆をぼんやりと聞き、反射的に答えた。「ありがとう」本人は、それほど真に受けていなかった。客へのお世辞だろうと思っただけだ。とはいえ、今日はめったにない祝いの日である。いろいろな意味で、喜ばしい一日だ。すべて終わったら、彼女たちにも十分な心付けを渡そう。「もう終わる?」このまま座っていたら、本当に眠ってしまいそうだった。「はい、もう少しです」薄めのメイクに決め、衣装まできちんと整えると、スタッフたちは部屋を出ていった。小夜はしばらく目を閉じてから、ゆっくりと立ち上がって背筋を伸ばした。鏡の前へ戻り、頭に載せたピンクと白のチュールの花冠を、両手でそっと直す。きちんと固定されている。何度か深呼吸をし、両手で頬を軽く叩いた。鏡の中の顔にいつもの生気が戻ったのを確認すると、小夜はようやく笑みを浮かべる。ピンクのチュールドレスの裾を持ち上げ、軽やかに身を翻した。ピンクとブルーのクリスタルをあしらった細いヒールが、小気味よい音を立てる。足首に巻かれた薄絹の飾りには淡いピンクの花が咲き、歩くたびに光を受けて揺らめいた。小夜は、そのまま扉の前まで歩いていく。婚約披露パーティーは、もうすぐ始まる。そろそろ外へ出なければならない。もう一度衣装を整え、ドアノブを握って扉を開こうとした。だが、その手に力を込めるより早く、扉が内側へ押し開かれた。小夜は反射的に数歩下がる。誰かが部屋へ入ってきた。そして、扉は再び閉ざされた。……帝都郊外のリゾート施設。芝生の上に設けられた屋外会場では、花で飾られた大きなアーチの両脇に、正装した神崎執事と奈々が立ち、次々に到着する招待客を迎えていた。青山もそこにいる。今回の婚約披露パーティーは、少し事情が特殊だった。婚約する二人のどちらにも、身内が出席していない。招待客の多くは各界の有力者で、中には誰もが名を知るほどの大物もいる。さらに、青山との縁を頼って、国内の学術・研究分野を代表する人物も大勢訪れていた。身内が応対できない以上、二人のうち少なくとも一人は、こうして自ら出迎えなければならない。これほどの客を招いておきながら、誰も迎えに立たなければ礼を欠く。本来、婚約披露だけでここまで大がかりにする必要はなかった。家族や友人に祝って
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第646話

招待客たちは、一様に驚きの色を浮かべた。無理もない。一見すると、その老人は温厚で、威圧感など少しもない。だが実際には、国内のコンピュータ科学と宇宙工学の分野で絶大な影響力を持つ、科学アカデミー会員の神谷孝志(かみや たかし)教授だった。国家の重要な戦略研究プロジェクトで、何度も統括責任者を務めてきた人物である。とりわけ宇宙開発に関わる研究と技術革新では、名実ともに中心的な指導者であり、その功績は群を抜いていた。この分野で、孝志を知らない者はいない。そんな大物が、なぜここへ?しかも、ただの婚約披露パーティーに出席するために?孝志が、このような私的な集まりへ顔を出したことなどあっただろうか。普段は世界中を飛び回り、誰に招かれても時間が取れない人物だ。それが、今ここにいる。しかも、青山と親しげに話していた。青山がコンピュータ分野でどれほどの天才で、関係機関から高く評価されているとしても、神谷教授がわざわざ足を運ぶほどとは思えない。単に学界の先輩と後輩というだけでは説明がつかなかった。立場にも大きな隔たりがある。何より、二人は研究分野が違うはずだ。宇宙開発を支えるコンピュータ技術と人工知能は、同じものではない。いや、待て。孝志が最近取り組んでいる研究は……そこまで思い至り、招待客たちの表情が微妙に変わった。……周囲が何を考えていようと、青山自身も孝志の姿には驚いていた。だが顔には出さず、まずは礼儀正しく手を差し出す。「神谷先生。お越しになるとは存じ上げず、ご挨拶が……」ぱしん、と手を取られ、言葉を遮られた。孝志は青山の手をしっかりと握ると、不満そうに顔をしかめる。「どこで、そんな他人行儀な話し方を覚えたんだ。いつもどおり話せんのか」「……」青山は困ったように笑った。「……神谷おじい様、どうして来たんですか?」最近は忙しいはずではなかったのか。「君の先生のせいだよ。ティールのやつ、自分は来られないからと私に電話をかけてきてな。一番出来のいい教え子を射止めた相手がどんな女性なのか、代わりに見てこいとうるさいんだ」「……神谷おじい様」青山はますます困り果てた。「分かった、分かった。私自身も見ておきたかったんだよ」「……」孝志は声を立てて笑った。「君は相変わら
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第647話

芝生の会場では招待客が少しずつ集まり、咲き乱れる花の間でいくつもの輪を作って談笑しながら、開宴を待っていた。だが、メイクルームの中には、それとは正反対の緊張が走っている。かちり、と音がした。扉の鍵が、内側からかけられた。「どうしたの?私がいて、そんなに驚いた?」深い赤のスーツを着た雪が、気だるそうに扉へ寄りかかっていた。金属のシガレットケースから細いタバコを一本取り出し、口にくわえて火をつける。顔を上げて煙を吐き、薄笑いを浮かべながら、きらめくチュールドレスに身を包んだ小夜を眺めた。小さく笑う。「やっぱり、こういう日の女は一番綺麗ね」「何をしに来たの?」小夜は眉を寄せた。不意を突かれたように数歩下がり、メイク台へ寄りかかる。腕から垂れたピンクのチュールに隠しながら、片手をそっとテーブルの上へ伸ばした。すぐにスマホへ触れる。手探りで緊急連絡先を呼び出そうとした、そのときだった。ミントの混じったタバコの匂いが急に濃くなった。次の瞬間、横から伸びてきた手に押さえつけられ、小夜の手のひらはテーブルにぴたりとつく。スマホも脇へ払い落とされた。耳元で、雪が低く笑った。「何を焦ってるの。人が話しているときくらい、ちゃんと聞きなさいよ」小夜は眉間に皺を寄せ、吹きかけられた煙を嫌悪も露わに避けた。「あなたを招待した覚えはないわ。それに、離れて。タバコ臭いし、ドレスに火がついたらどうするの」値段の問題だけではない。今ここで灰を落とされたり、火で焦がされたりしても、代わりのドレスなど用意できない。これほどの仕立ての衣装は、ただ一着しかないのだ。何より、青山が自分のために選んだものだった。それにしても、タバコの匂いが本当に不快だった。「ちっ。本当に面倒な女」雪はタバコをくわえたまま、消そうともしない。不機嫌そうな小夜を見つめる目が細まり、瞳も声も冷えていった。「高宮。私たちの話は、まだ終わってないわよ。星文は今も病院で眠ったままなのに、あんたは何事もなかったみたいに婚約を祝ってる。よくそんな真似ができるわね。しかも、私にあれこれ要求までして!」その言葉が終わると同時に、大きな音が響いた。雪が小夜の手首を掴む力を強め、そのまま手前へ引いたのだ。メイク台に寄りかかっていた小夜の体が大きく
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第648話

小夜の視線が、雪の首元へ落ちた。そこには、まだガーゼが巻かれている。雪はわずかに首を傾げ、小夜の落ち着き払った顔を見つめた。しばらくすると、急に眉間の力を抜き、きつく掴んでいた小夜の手首を放す。「だから、私を招待しなかったわけ?」小夜は意味が分からず眉をひそめたが、淡々と答えた。「好きに受け取ればいいわ」この女の常識外れな考えなど、理解したくもない。それより、小夜は掴まれていた手首を見下ろし、眉を寄せた。厄介だ。もともと色白で肌も弱いため、あの程度の力でもすでに赤くなり、うっすらと青みまで帯び始めている。間違いなく痣になる。これからパーティーに出なければならないのに、人に見られたら困る。本当に面倒だ。雪には構わず、アクセサリースタンドへ向かった。ドレスと同じ色合いの、絹花をあしらったリボンを探し、手首へ巻いて隠そうとする。その背後から、雪の声が飛んできた。「おい、婚約披露パーティーを中止しな」……リボンを探る手が止まった。小夜はゆっくり振り返り、無表情で雪を見る。「今、何て言ったの?」いつの間にか、雪はキャスター付きの椅子にどっかりと腰を下ろしていた。ひどく行儀の悪い座り方だ。小夜が振り返ると、雪は口からタバコを外し、椅子の肘掛けへ押しつけて火を消した。そして、何でもないことのように繰り返す。「婚約披露パーティーを中止しろって言ったのよ」「絶対に嫌」小夜は冷たく拒絶した。「あなたに何の関係があるの?」「このまま続けて、あんたに何の得があるの?最近、派手に動きすぎだって忠告したでしょう。あの狂人がいることを、本当に忘れたの?それとも、このパーティーが無事に終わると本気で思ってる?」あの狂人?圭介のことだろうか。小夜は少しも動揺せず、確信を込めて答えた。「それが何?あの人には、このパーティーを壊せない。そんなことをする勇気もないわ。私は確信してる」雪は片方の眉を上げた。「ずいぶん自信があるのね」「もちろん」小夜は続けた。「あなたがなぜここで騒いでいるのかは知らない。でも、長谷川と手を組んでいるなら、あの人がどうして今も姿を現さないのか、この婚約があの人にとって何を意味するのか、知らないはずがないでしょう?」そこでいったん言葉を切り、断言する。「長谷
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第649話

それに、イギリスから戻った直後、彰からコルシオが間もなくやって来ると警告された。前後の出来事を逆にたどれば、答えは明らかだった。圭介が偽装死し、小夜を利用してコルシオの目を欺いたのと同じだ。今の小夜の行動もまた、圭介に何か隠し玉が残っていないか、コルシオが見極めるための判断材料になっている。小夜の動向は参考材料であると同時に、相手の出方を探るための試金石でもあった。一方は小夜を利用して相手の警戒を解こうとし、もう一方は小夜を見て、相手がまだ策を隠していないか判断する。小夜の知らないところで、両者の駆け引きを左右する風向計にされていたのだ。どいつもこいつも、最低だ!小夜は心の中で歯を食いしばった。だが、悪いことばかりでもない。そこまで自分を風向計にしたいのなら、こちらから一度だけ、進んで圭介に利用されてやればいい。今回の婚約披露パーティーこそ、小夜が打った一手だった。小夜と青山が婚約すれば、コルシオは完全に警戒を解き、国内へ入る決心をするだろう。それは、圭介の計画にとって都合がいい。同時に、圭介は絶対にパーティーを邪魔できない。手を出せばコルシオに疑われ、何もしなければ自分の利益になる。何より、圭介は常に利益を最優先する男だ。どちらを選ぶべきかは、本人にも分かっているはずだった。小夜は青山と婚約するだけではない。この場で長谷川家との決別を公にし、きっぱり縁を切るつもりだ。そうすれば、長谷川家とコルシオが争う場から抜け出せる。あとは当人同士で好きなだけ戦えばいい。小夜は、自分の穏やかな暮らしへ戻る。完璧な計画だった。もっとも、こうするほかないところまで追い詰められた結果でもある。コルシオが間もなくやって来るというのに、長谷川家はもう頼りにならない。次は自分をどんなことに利用するか、分かったものではなかった。樹と星文という二人の子供まで使い、自分を帰国させようとしたほどなのだ。もう長谷川家を信じることはできない。それでも、コルシオへの警戒は必要だ。だから、こうするしかなかった。この機会に、争いの外へ抜け出す。両者が戦い始め、互いのことで手一杯になれば、自分が巻き込まれさえしなければ、かえって安全になる。あとは樹を守ればいい。今回の樹の件についても、長谷川家は何もしなかった。ある意味
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第650話

リゾート施設の屋外に設けられた、婚約披露パーティーの会場。孝志の到着で、会場は一時、大いに沸き立った。無理もない。どこででも会えるような人物ではないのだ。せっかく同じ場に居合わせた以上、この機会を逃したくないと考える者は多い。折を見ては、誰かが話しかけようと近づいていく。最近の研究について聞き出せなくても、顔を覚えてもらうだけで十分な価値がある。だが、誰もが冷たくあしらわれた。先ほど青山と話していたときは、温和な笑顔を浮かべ、楽しそうに見えた老人が、彼らを前にするとまるで別人になった。穏やかどころか、近寄りがたいほど冷淡である。社交辞令さえ口にしない。大勢で囲んでも、孝志本人とは一言も話せなかった。教授が連れてきた学生たちがすぐに前へ出て、笑顔のまま二言三言で応対し、遠ざけてしまう。まるで近づけなかった。そうなると、もともと様子見に来ただけの招待客たちにも、別の考えが浮かび始める。小夜が長谷川家と決裂するとしても、それが利益をめぐる内輪揉めであれ、長谷川家から追い出された結果であれ、一方的に不利になるとは限らない。まだ見極める必要がありそうだ。一時は沸き立っていた会場も、次第に落ち着きを取り戻した。招待客がほぼ揃い、花嫁を呼ぶ声まで上がり始めた頃、花のアーチの向こうから、新たな一団が姿を現した。会場が、たちまちざわめく。人々は二人三人と囁きを交わしながら、一斉にそちらへ目を向けた。どの顔にも驚きが浮かび、会場は徐々に静まり、話し声も消えていく。花のアーチの下で、青山は近づいてくる一行を見つめ、わずかに眉を寄せた。隣で同じように呆然としていた奈々へ声をかける。「メイクルームへ行って、ここで何が起きているか、ささよに伝えてきて」「あ、はい!」奈々は慌てて答えた。青山は笑みを浮かべ、一行を迎えに出る。……小夜が急いで会場へ駆けつけると、そこはまた賑やかになっていた。小夜の姿に気づいた瞬間だけ、周囲は静まり、話し声も少し小さくなった。その一方で、いくつもの視線がさりげなく小夜へ向けられる。「みんな、どこにいるの?」招待客のことを気にする余裕はなかった。花のアーチの下まで来て辺りを見回したが、青山の姿はなく、奈々が話していた長谷川家の人々も見当たらない。「高宮様、こちら
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