Semua Bab 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Bab 671 - Bab 680

730 Bab

第671話

真っ白な病室。小夜が帰った途端、先ほどまで明るくはしゃいでいた佳乃は急に元気をなくした。お菓子を食べるのもやめ、癇癪を起こしたように、残りをベッドのそばに付き添っていた雅臣の手へ押し付ける。そして、ふかふかの布団に潜り込み、頭まですっぽりと隠してしまった。雅臣は、彼女の突発的な小さな癇癪に、とっくに慣れきっていた。それどころか、このわがままを好ましくさえ思っている。これは少女時代の彼女が持っていた、純粋で無邪気なわがままであり、長谷川と遠藤の両家の大人たちから溺愛され、甘やかされて育った証でもあった。しかし、その無邪気で愛らしいわがままは、海外へ留学し、コルシオという男に出会った瞬間に無惨にも打ち砕かれてしまった。それ以来、彼女は神経質になり、いつも何かに怯えるようになってしまったのだ。だからこそ、雅臣は佳乃が過去の記憶を失ったことを、決して悪いことではないと思っていた。構わない。どうせ自分と佳乃が共有する記憶は、幼少期からずっと続いているのだ。たとえ記憶がどれほど退行しようと、幼い頃まで戻ってしまおうと、自分の存在だけは常に彼女の記憶の中にある。二人はずっと一緒にいたのだから。過去も、そして未来も。永遠に離れることはない。「佳乃、どうしてご機嫌斜めなんだ?」雅臣はお菓子を置き、顔を近づけて布団の端をそっと引っ張った。半分ほど下げたところで手を止める。完全に引き剥がせないわけではない。佳乃の力などたかが知れているからだ。だが、本当に無理やり剥ぎ取ってしまえば、その後のご機嫌取りが厄介になる。彼は手を止め、優しくなだめるように言った。「お菓子が美味しくなかったのかな?それとも……小夜ちゃんにもう少し一緒にいてほしかった?私が一緒じゃ不満かな?」「私、嘘をついたの」布団の中から、くぐもった声が聞こえた。雅臣が呆気に取られていると、佳乃が突然布団からひょっこりと顔を出した。鼻の頭を赤くし、目を伏せてすっかりしょげ返りながら呟く。「香水のこと、小夜ちゃんに嘘をついちゃった」彼女はひどく落ち込んでいた。小夜に嘘をついてしまったからだ。彼女は確かに、あの匂いを嗅ぎ取っていた。小夜が以前プレゼントしてくれたあの香水と信じられないほどよく似た、同じ品種の薔薇から作られた香りだ。つまり、小夜に香水を渡した
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第672話

それって、つまり――私が、彼女のすぐそばに危険を運んでしまったということじゃない!私が彼女を危険に晒してしまったのよ!もしそれを知ったら、彼女は私に失望するだろうか?嫌われてしまうだろうか?だが、小夜がそれ以上に恐れていたのは別のことだった。「もしあの香水に、何か危険な成分が入っていたらどうしよう?コルシオがあんなものを送りつけてきた目的は一体何なの?あいつは……」「ささよ!」青山は低く鋭い声で彼女を遮った。恐怖に震える彼女の手を強く握り締め、一言一言、落ち着いた声で言い聞かせる。「いいかい、まずは落ち着くんだ。それはまだ君の推測に過ぎない。それに、もし本当にあの香水に危険な成分でも入っていたのなら、これだけ長く使っていたんだ、とうの昔に異変が起きていたはずだ。むしろ、今こちらがその可能性に気づけたのは、先手を打てるということでもある。コルシオは、こちらが嗅ぎつけたことを知らない。調べて検証する時間は十分にある」その通りだ。パニックになっても何も解決しない。問題を一つずつ解決していくしかないのだ。小夜は何度も深呼吸を繰り返した。焦りと不安で激しく早鐘を打っていた鼓動が次第に落ち着き、思考も急速に冷静さを取り戻していく。「あの香水は、私が渡した時に長谷川家で真っ先に成分を検査したはずよ。その上で、彼女に使わせていたんだから」その時は、何の問題も検出されなかった。それでも、小夜は完全に安心することなどできなかった。「あの香水の調合レシピさえ手に入れば……」自分の手で徹底的に分析し、万が一にも危険がないという確証を得なければならない。コルシオという化け物が一度でも関わった可能性がある以上、警戒を解くことなど絶対にできないのだ。「白石さんが持ってきた時、あれは彼の恩師が自ら手作りしたものだと言っていたわね……」小夜はハッとして言葉を切った。今や、疑念はますます深まっていた。もし光が本当にコルシオと通じているのなら、その『恩師』というのは……コルシオ本人のことではないのか?考えてみれば、その可能性は十分あり得る。問題は、光だ。ロンドンとの時差など構っていられず、小夜はすぐに珠季に電話をかけた。数回のコールの後、少し眠そうだが、どこか機嫌の良さそうな老婦人の声が響いた。「こんな夜
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第673話

一度でも相手を刺激し、警戒させてしまえば、これ以上の情報を掴むのはさらに難しくなる……それでも、佳乃の状態だけは心配でならなかった。今日の状況から推測するに――コルシオが佳乃を連れ去れなかったのは、状況的に追い込まれたからだろう。あの封鎖の規模を見れば、長谷川家がかなり念入りな罠を張っていたことは明らかだ。ただ長谷川家も、あの男がそこまで狂っていて、そのまま車ごと崖下へ突っ込むことまでは予想できなかったに違いない。果たして、奴は死んだのだろうか。あれほどの高さだ。車も爆発した。死んでいてくれればいいと、心底願っている。だが……あのコルシオが、そんな無計画な真似をするだろうか?彼にとって最大の脅威である圭介が「死んだ」ことになっていても、長谷川家自体が健在である以上、相手が何らかの罠を張っていることくらい事前に読めないはずがない。そもそも、佳乃が突然外出するというのも不自然すぎる。誰がどう考えても罠だと疑うはずだ。それでも奴はやって来た。待ち伏せに遭っても、ためらいもなく車を崖へ突っ込ませた。本気で死ぬつもりだったのか?確証はない。だが、古城で共に過ごしたあの忌まわしい日々から判断するに、コルシオのような異常者がもし本気で死を選ぶなら、絶対に佳乃を道連れにするはずだと小夜は確信していた。あいつは正真正銘の、骨の髄からの変態だ!だが、奴は佳乃を道連れにしなかった。つまり、あいつが甘んじて死ぬはずなどないということだ。何年も、あんなに執着してきたのだから。本当に忌々しい。あの変態は『諦める』という言葉を知らないのか!自分が彼女にどれほど深い傷を負わせたのかも、彼女が自分を少しも愛していないことも分かっているはずなのに、一体何にそこまで執着しているのだ!本当に胸糞が悪い!小夜の恨み言を聞き終えた青山は、ふと笑いを漏らした。「だからこそ、あいつらは変態なんだろうね」「あいつら?」小夜はきょとんとした。他にもいるの?「いや、何でもないよ」青山は微笑み、彼女の手を引いて病院の出口へ向かって歩き出した。「婚約披露パーティーの間、ほとんど何も食べていなかっただろう?お腹は空いていないかい?いくら心配事があっても、まずは腹ごしらえをしないと」「別に、空いては……」言い終わ
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第674話

夜が更け始めたレストラン。照明は明るいが客の数はまばらで、特に隅の席はひどく静まり返っていた。そこにいる三人の客は……ただ無言で食事をしている。小夜は箸を握ったまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。彼女にはまったく理解できなかった。なぜ雪の体から、佳乃とまったく同じ香水の匂いがするのか。病院の薬品の匂いが混ざっていない分、その香りは異常なほど鮮明だった。彼女の嗅覚は間違いない。疑う余地すらないほど、同じ香りだ。だが、どうして?雪は……まさかコルシオと知り合いなのか?彼らはどういう関係だ?裏で繋がっているのか?それとも、今回の婚約披露パーティーでの佳乃の拉致事件に、雪も一枚噛んでいたのか?でも、彼女は圭介と協力関係にあるのではなかったのか?小夜の頭の中は、完全に大混乱に陥っていた。一体全体、どうなっているの。雪を問い詰め、腹の底に渦巻くすべての疑問をぶつけたい衝動に駆られた。だが、自分と彼女の険悪な関係性を考えれば、素直に答えるはずがない。それに、答えたとしてその言葉を信じられるだろうか?さらに恐ろしいのは、もし雪が本当にコルシオと繋がっていた場合、ここで問い詰めることは自ら「あなたたちが裏でコソコソやっていることに気づいているわよ」と宣言するに等しいということだ。完全に手の内を明かし、藪蛇になるだけだ。だが、黙っていられるだろうか……?葛藤で身動きが取れずにいる小夜を尻目に、隣に無理やり押し入ってきた雪は、悠然と箸を伸ばして料理を一口運び、流し目で小夜を見た。「何をぼんやりしているの?食べない気?」招かれざる客だという自覚が、本当に微塵もない。小夜は何も答えなかった。雪をじっと見つめた後、露骨に眉をひそめて少し距離を取った。「暑苦しいわね。少し席をずれてくれない?」レストランはクーラーで快適な温度に保たれているとはいえ、こんなに密着していれば息が詰まるに決まっている。それに、あの香りのせいで頭がクラクラする。向かいに座っていた青山が、タイミングよくウェイトレスを呼んだ。そして二人の間、つまりテーブルの横側のスペースを指差して穏やかに言う。「すみません。こちらに椅子を一つ追加してもらえますか」雪の冷ややかな視線が彼を射抜いた。青山は温和な笑みを崩さない。二人が
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第675話

小夜は戸惑いながら頷いた。なんだか、調子が狂う。「この馬鹿」雪は吐き捨てるように毒づき、結局は向かいの席に座った。座るなり背もたれに寄りかかり、自分の箸をくるりと回して、目の前にある牛肉の炒め物の皿を指差す。「私、これが食べたいわ」そう言いながら、彼女の視線は小夜へ向けられていた。私を見てどうしろっていうの?小夜は内心で毒づいた。食べたいなら自分で取ればいいじゃない。彼女が言い返そうとしたその時、向かいの女が突然スマホを取り出し、こちらへ向かって放り投げてきた。青山がそれを空中で受け止め、小夜の目の前へ差し出す……画面を見た小夜の顔色が変わった。画面には、ガラス瓶の中に密封された一輪の黒い薔薇が写っていた。それは彼女にとって、あまりにも見覚えのあるものだった。イタリアの古城で、コルシオが庭園一面に咲かせ、部屋中に飾り立てていたあの漆黒の薔薇……真っ黒な花びらだが、目を凝らすと、その奥に赤黒い血のような色が潜んでいる。市場にはほとんど出回っていない、極めて特殊な品種だ。写真の薔薇は、それと完全に一致していた。そして、光が口にしていた、あの香水の主原料である特別な薔薇の品種のことも脳裏をよぎる。この薔薇は、もしかして……「これ、どこで手に入れたの?」小夜はスマホを強く握りしめた。雪は彼女を一瞥し、再び箸で牛肉の皿をトントンと叩き、薄く嗤いながら同じ言葉を繰り返した。「私、これが食べたいって言ってるの」小夜は無言で彼女を見つめた。数秒後、小夜は自分の箸を取った。たかが料理を一口取り分けるだけのことだ。だが、予想に反して、もう一膳の箸が彼女よりも早く動いた。薄切りの牛肉を適当につまみ上げ、雪の茶碗へ放り込もうとする。しかし、それは空中で別の箸に弾き落とされた。雪は青山を冷たく睨みつけ、吐き捨てるように言った。「あんたが取ったのなんて食わないわ。吐き気がする」「雪さん!」小夜は低く鋭い声で咎めた。しばらくの沈黙の後、雪は短く「チッ」と舌打ちをした。そして箸の先を、小夜の手元にあるスマホの画面に映る薔薇へ向けた。「おかしな話なんだけどね。この薔薇、私があの安っぽいリゾート施設で見つけたの。その時、そこには長谷川佳乃もいたわ。ああ、それともう一人、ステッキを持った男もね……この
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第676話

目的が何であれ。少なくとも、今の小夜にはその薔薇が必要だった。雪は薄く嗤い、箸で皿をトントンと叩きながら、傲慢に、気だるげな口調で言った。「ただの薔薇一輪よ。あんたが欲しいならくれてやってもいいわ。でもね、私がタダでくれてやるようなお人好しじゃないってことくらい、分かってるでしょう?前に提案したこと、よく考えなさい。私がまだ、あんたとお遊びの『同盟』を組んであげる気があるうちにね。早く決めなさい」そう言って、彼女は立ち上がった。立ち上がると少し顎を上げ、冷ややかで無機質な瞳で、先ほどから黙り込んでいる対面の青山を見下ろす。そして、ふんと鼻で嗤った。――たかが青山ごときが、一度私を出し抜いたからって何だっていうの。所詮はただの婚約よ。まだ結婚したわけではない以上、柏木家にも付け入る隙はいくらでもある……最終的に彼女の隣に立つのが誰になるか、分からないわよ。だが、店を出た途端、雪の表情は氷のように冷たく凍りついた。脳裏に、あのまったく役に立たない、不甲斐ない弟の顔が浮かんだのだ。――あの大馬鹿者。一族のために女一人落とすことすらできないなんて。しかも、自分が惚れた相手だというのに。結局、実の姉である私がこうして手を回してやらなければならないなんて。本当に、使えないクズね!……レストランを出た後。小夜も青山も、ひどく無口になっていた。二人は先ほどの出来事について何も触れなかったが、あんな大騒ぎの末、時間はすっかり遅くなっていた。今からリゾート施設へ戻るには、あまりにも遅すぎる。青山は車を出し、竹園地区のマンションへと向かった。予定していた休暇は、どうやらお預けになりそうだ。すでに深夜に差し掛かり、街を行き交う人や車の数はまばらだった。ただ街灯だけが、黄色く明るい光で夜道を照らし出している。助手席に座る小夜は、半分ほど開けた窓から外を見つめ、夜風の音を聞きながら、ぼんやりと思考を巡らせていた。彼女の頭を占めているのは、先ほどの一件。あの、一輪の黒薔薇のことだ。確かにあの薔薇は欲しい。だが、雪を信じ切ることはできないし、あのふざけた同盟の提案にも乗りたくはない……そもそも、雪という女自体がとてつもなく厄介なのだ。一度関われば、簡単には振り払えなくなる。とはいえ、これは絶好の
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第677話

小夜は車のドアを開け、軽やかに外へ飛び出した。くるりと振り返り、ドアに手をかけて少し身をかがめると、車内でまだ不思議そうにしている青山に向かって、花が咲いたような笑顔を見せた。目を三日月のように細める。「行くわよ。急がないと」「どこへ?」そう尋ねる頃には、彼もすでに車を降りていた。小夜に手を引かれて少し歩くと、すぐに彼女の目的の場所が見えてきた。深夜の商店街はほとんどの店がシャッターを下ろしていたが、一軒だけ明かりが灯っている店があった。こぢんまりとした、質素な店構えの花屋だった。看板のネオンは一部が切れており、近づいてようやくその名が読み取れた――フラワーショップ「刹那花屋」変わった名前の店だ。カラン、とドアベルを鳴らして中へ入る。店内には所狭しと花が並べられ、芳しい香りが立ち込めていた。小夜は辺りを見回し、少し声を張った。「すみません、どなたかいますか?」「はーい!いますよー!」うずたかく積まれた花台の後ろから、お団子ヘアにオーバーオール姿の、少しそばかすのある女の子がひょっこり顔を出した。まだ開ききっていない薔薇がいっぱいに入ったバケツを抱えており、二人を見るなりパッと弾けるような笑顔を見せた。とても活発そうな子だった。「わあ、お二人ともすっごく素敵!恋人同士ですか?こんな夜遅くに花を買いに?ゆっくり見ていってくださいね、気に入ったのがあったらお安くしますよ!」「今日、婚約したばかりなんです」青山が笑って答えた。「わあっ、おめでとうございます!」お団子ヘアの女の子は目をキラキラと輝かせた。「じゃあ、思い切って七割引にしちゃいます!お花を選んだら、私からもお祝いに少しおまけしますね!」「ありがとう」小夜も微笑んだ。「七割引だなんて、赤字になっちゃうからお気持ちだけで十分よ。こんな時間に押しかけて、ご迷惑じゃなかったかしら?」もう店じまいの時間ではないかと心配だったのだ。「ううん、ちょうど花の整理をしていたところですから。ごゆっくり選んでくださいね」そう言って、女の子は棚から何かを取り出し、再び花台の奥へ潜り込んでいった。奥からはジャージャーと水を換える音が聞こえてくる。「どんな花がいいんだい?」青山がそばへ歩み寄ってきた。その顔の笑みは、車を降りる前よりもずっと晴れやかなもの
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第678話

彼は素早くその光を受け止めた。掌に落ちたそれを一目見るなり、青山は呆然と立ち尽くし、長い間言葉を失った。花の茎を握る指先が、小刻みに震えている。「君……」「何よ?まだ私がけちん坊だって言うの?」小夜は視線を泳がせ、小さく口を尖らせた。返事がない。しばらく待っても何の反応もないため、小夜は視線を彼へ戻し、少し不安になってきた。「き、気に入らなかった?」どうして何も言ってくれないのだろう。「まさか」青山は低く笑った。嬉しすぎて、胸が張り裂けそうだった。「ただ、少し驚いただけだよ」彼が持ち上げた手は、微かに震えていた。その掌の中には、一筋の銀色の光が横たわっている。それは、竹の節を模した銀の指輪だった。一つ一つの節に、細やかなダイヤモンドが埋め込まれている。街灯の光を浴びて、それは星屑のようにきらきらと輝いていた。「ごめんなさい」小夜は鼻の頭を掻き、小声で言った。「今日は本当にバタバタしちゃって、婚約指輪の交換をまだしていなかったこと、さっき思い出したの……ちょっと遅くなっちゃったけど、午前零時を回ってないから、今日という日は終わってないわよね」そう言って、彼女はその指輪を手に取ろうとした。指輪が青山の掌から離れた瞬間、彼の手は無意識にそれを追いかけるように前へ伸びた。ハッとして引っ込めようとしたその時、宙に浮いた手を小夜にそっと握られた。彼女の柔らかく、滑らかな指の腹の感触が、彼の指の節々にしっかりと伝わってくる。信じられないほど、温かかった。彼の指が、わずかにビクッと震える。やがて力を抜き、静かに彼女へ手を預けた。「君は」彼の声は掠れていた。「覚えていて……くれたんだね?」てっきり、小夜は忘れてしまったのだと思っていた。今日が彼らにとってどれほど大切な日であるか、この婚約披露の意味を。だがそれは、人命に関わる重大な危機を解決するためだったのだと、彼は必死に自分に言い聞かせていた。だから、何も言わなかった。彼は十分に理解していた。この関係も、この婚約も、そもそも自分が策を弄し、ありとあらゆる手段を使って手に入れたものだということを。これ以上を望むべきではない。何かを不満に思う資格もない。たとえ自分が、彼女の婚約者であったとしても。たとえ、自分自身の心が、本当は傷ついて
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第679話

小夜は言った。「でも、私にとってあなたは十分すぎるほど素晴らしい人よ」――そんなことはないのに。「それなら」青山はようやく言葉を絞り出した。「もしもいつか、僕が君の想像しているような『立派な人間』じゃないと気づいた時……それでも、君は……」それでも、今のように僕に微笑んでくれるだろうか?僕を優しく受け入れてくれるだろうか?それとも……僕を、見捨ててしまうのだろうか?「もしも、なんて考えても仕方ないでしょう」小夜は首を傾げて少し考えた。彼女は、彼が言っているのは、世間のあらゆる恋愛や結婚が直面する『時間が経てば相手の心は変わってしまうかもしれない』という普遍的な悩みのことだと思った。彼女自身、嫌というほど身をもって経験してきた。かつての自分の結婚生活がまさにそうだった。人は変わるものだ。時には、まったくの別人のようになってしまうこともある。だが、青山のように誇り高く自信に満ち溢れた人でも、こんな形もなく、誰にも先の読めないことを思い悩み、不安になることがあるのだと知り、少し驚いた。彼はすでに、十分に素晴らしい人間なのに。彼女は少し考えてから言った。「感情のことなんて、私だって得意じゃないわ。こればっかりは、世界中で一番不確かなものだと思う。でも、人間がどれだけ思い悩んだって、未来のことなんて誰にも予測できないじゃない?だったら、今はただ一緒に前を向いて歩いていきましょう。地に足をつけて、今という瞬間を大切に生きていけばいいわ……それに、あなたが真心で私に接してくれていることは、分かっているから」それが、彼女が今、この目で見ている真実だった。月明かりの下、彼女のその真っ直ぐで輝くような笑顔を見つめていると、青山の強張っていた指の力が、少しずつ抜けていった……『今という瞬間』を生きる、か。「ほら、指輪はめるわよ?」そう口にしたことで小夜も何かが吹っ切れたのか、先ほどの微妙な緊張感はすっかり消え去っていた。彼女は笑いながら青山の左手を取り、まだ少し強張っていた指を優しく開くと、その中指にダイヤモンドの指輪を滑り込ませた。ゆっくりと、奥まで通していく。そこは、心臓に直結すると言われる指。結婚を示す薬指まで、あと一歩の距離にある場所。それは……「愛」という名の、自ら課した枷でもあ
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第680話

変わっているって、どういう意味?青山がベルベットの小さなケースを取り出したのに、なかなか開けようとしないのを見て、小夜の好奇心はますます膨らみ、同時に少し戸惑った……一体どんな指輪なら、あの人がここまでためらうというのだろう?これ以上待っていたら、午前零時を回ってしまう。彼女は手を差し出した。優しく促す。「私に、はめてくれないの?」青山は意を決したように息を吸い、ゆっくりとケースの蓋を開けた。中を見た瞬間、小夜はハッと息を呑んだ……それは「変わっている」というよりも、圧倒的にゴージャスだったのだ。尋常ではないほどに。ケースの中には、王冠の形をした銀の指輪が収められていた。冠の輪郭に沿って大粒のダイヤモンドが散りばめられ、その冠の中心には、しずく型にカットされた巨大なルビーが逆さまに鎮座している。息を呑むほどに大きく、月と街灯の光を浴びて、眩いほどの極彩色の光を放っていた。小夜は呆然とした。まさか、ルビーの指輪だったとは。彼女が驚いている間に、青山は慎重に指輪を取り出し、宙に浮いたままの彼女の左手の中指へとゆっくりはめ込んだ。そして、深く息を吐き出してから言った。「ささよ、この指輪の名前はね……『クラウン』と言うんだ」クラウン?いったい、何を戴冠するというの?なぜだか分からないが、小夜の心にふとそんな疑問がよぎった。彼女は指輪の中央にあるルビーをじっと見つめた。青山が指輪を完全にはめ終えた後も、ずっと見つめていた。そしてゆっくりと。視線を青山の顔へと移した。もう、目をそらさなかった。端正で優雅なその顔には、緊張を孕んだ真剣な表情が浮かんでいる。小夜はふと、不思議な錯覚に陥った……彼は今、永遠の愛を誓う婚約指輪を私にはめているのではなく、まるで女王の頭に王冠を戴かせているかのようだと。何考えてるのよ、私。彼女は思わず頭を振り、その考えを追い払おうとした。彼女が首を振るのを見て、指輪をはめ終えた青山の動きが硬直した。声に明らかな焦りが滲む。「気に入らなかったかい?」この指輪には、彼自身の言葉にできない密かな願望が込められていた。それが小夜に見透かされ、嫌われたのではないかと恐れたのだ。「ううん、そうじゃなくて……」数秒間迷った後、小夜は心の中に引っかかっていたその奇妙な感覚を素直に口に
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