Todos los capítulos de 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Capítulo 691 - Capítulo 700

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第691話

彼女はこういう性格だ。昔からずっと。いつも気怠そうで、今にも倒れそうな顔をしているが、専門分野ではズバ抜けて優秀だ。医学部のあのレンガのように分厚い専門書を読破するのも、彼女にとっては朝飯前だった。黙々と勉強し、あっという間に首席に上り詰めた。正真正銘の天才なのだ。車は馴染みのある道を進み、建物の前で停まった。二人は車を降り、生化学棟へ向かってゆっくりと歩き出す。道中、小夜が時折言葉をかけるが、真理は目の下のクマを揉みながら、あくびをするだけだ。気の利いた挨拶など、初めから存在しない。二人は白衣に着替えて実験室に入った。先ほどまで足を引きずるように気怠く歩いていた彼女の顔つきが、突然シャキッとした。小夜の手からガラス瓶を受け取り、中の薔薇をじっと見つめる。メガネをかけると、いくらか活気が戻ったように見えた。「これ?」「ええ。この花に残っている香りの成分と、花そのものの分析をお願いしたいの」小夜は答えた。この程度の実験なら小夜にもできる。だが、彼女は専門家ではない。しかし真理は違う。医学部の教授であるだけでなく、生化学の分野でも相当な腕前を持っている。花と香水の成分分析など、彼女にとっては造作もないことだ。成分を抽出し、その割合が分かれば。レシピも自ずと明らかになる。コルシオが一体何を企んでいるのかも、見えてくるはずだ。真理は深く詮索することなく、マスクとヘアキャップを身につけ、必要な器具を準備した。慎重に黒薔薇を取り出すと、いくつかの部位から少しずつサンプルを採取し、黙々と実験に取りかかった。小夜もただ黙って見ていたわけではない。専門外とはいえ、助手くらいは務まる。実験室の中、白衣を着た二人が様々な器具の前を無言で行き交う。一人の動きは極めてゆっくりだが、非常に繊細だった……静かに時間が流れていく。やがて。真理は調合した試薬の中に花びらを一枚落とし、容器を静かにセットしてから言った。「反応を見るから、五時間後にまた来て」「じゃあ、先にご飯にする?」「いいわよ」わざわざ遠出はせず、学食で真理の職員証を使って昼食を済ませた。食事中も相変わらず一言も交わさなかったが、その空気は非常に穏やかで和やかだった。どれくらい和やかかといえば。食後、生化学棟の休憩室へ入るなり、
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第692話

休憩室のドア一枚を隔てた向こう側。ドアの外にいる光は彼女の姿に一瞬呆然とした後、隣にいる人物と二言三言言葉を交わし、こちらへ歩いてきた。彼がドアをノックしようとするよりも早く、小夜が自らドアを開けた。部屋の中で真理が寝ているからだ。廊下へ出てドアを閉めると、心の中にどれほど疑念や警戒が渦巻いていようとも、小夜はにっこりと笑みを浮かべ、嬉しそうな声を装って言った。「白石さん、どうしてここに?お久しぶりね」「お久しぶりです」光は礼儀正しく頷いたが、彼女の質問には答えず、その視線は彼女が自然に下ろしている手元へと落ちた。そこには、廊下の照明を受けて鮮やかな赤い輝きを放つルビーの指輪がはめられている。「この数日少し立て込んでおりまして、高宮さんのご婚約のお祝いが遅れてしまいました。おめでとうございます」それはさぞかしお忙しかったでしょうね。小夜は表面上は微笑みを保っていたが、彼の言葉など微塵も信じていなかった。婚約披露パーティーの時点では、小夜はまだ光とコルシオの関係を知らなかった。珠季からの紹介ということもあり、礼儀として彼にも招待状を送っていたのだ。だが当日、彼は現れなかった。おそらく、来られなかったのだろう。コルシオがあれほどの大騒ぎを起こしたのだ。奴より先に国内へ入り込んでいた光が、無関係であるはずがない。ずっと自分を騙していたのね。お見合いから逃げたいなどと理由をつけて近づいてきて。つい最近裏を取っていなければ、香水一族の出身だというのも、イギリスの大学院で学んだという経歴も、すべて嘘だったのではないかと疑うところだった……まさか、そこだけは事実だったとは。だが考えてみれば、そこを偽ることはできない。身元を完全に偽っていれば、大叔母の目を誤魔化すことなどできないし、自分の前に現れることすらできなかったはずだ。チッ。せっかくのいい顔が台無しね。どいつもこいつも、嘘つきばかり。そんな考えが頭をよぎったのはほんの一瞬のこと。目の前のその整った顔に一発お見舞いしてやりたい衝動を抑え込み、小夜は微笑みを崩さずに言った。「お気になさらないで。お気持ちだけで十分よ」分析結果はまだ出ていない。状況もはっきりしていない。まだ敵に回す時ではない。今は我慢だ。「高宮さんはここで何を?何か
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第693話

石段に足を踏み入れた瞬間、突然肩を叩かれ、心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。振り返ると、目の下にひどいクマを作り、相変わらず無気力な顔をした真理が気怠そうにこちらを見て、欠伸をしていた。「どこ行くの?」「声くらいかけてよ」小夜は胸を撫で下ろした。昔から足音を立てずに歩く真理の癖には、いつまで経っても慣れない。「さっき同僚から電話があったの」真理はスマホを揺らし、壁にもたれかかって重そうなまぶたを細めた。「私が貸し出した第3Aラボで、何を研究しているのかって」小夜は目を丸くした。第3Aラボ?それは彼女が真理に頼んで借りてもらった場所だ。本当に腹立たしい。これで腑に落ちた。間違いなく、光も小夜の言い訳など信じていなかったのだ。ここを離れた直後に誰かに連絡し、今日貸し出されている実験室を調べさせたに違いない。本当に、どこまで腹黒いのよ!調べるのは難しくない。だが、実験室の中で具体的に何をしているかまでは、借りた本人に聞くしかない……彼女は、壁からズルズルと崩れ落ちそうになっている真理をじっと見つめた。小夜の考えを見透かしたように、真理は目も開けずに言った。「何も言ってないわよ」「そうじゃなくて」小夜は彼女がバラさないことは分かっていた。ただ、別に頼みたいことがあったのだ。「さっきドアの外で話していた白石光って男が、今日ここで何をしているのか、何を研究しているのか、探ってくれない?」わざわざ尾行する必要なんてない。直接調べてもらえばいいのだ!真理は答えた。「いいわよ」彼女がゆっくりとスマホを取り出し、電話をかけるのを見て、小夜は念を押した。「もう少しオブラートに包んで、直接的に聞きすぎないでよ」「ん」電話が繋がると、真理は相手に向かってのんびりと言い放った。「白石光って人が、今日ここで何をしてるのか、何を研究してるのか教えて」自分の言葉をそのまま繰り返しただけだ!微塵もオブラートに包んでいない。絶望だ。小夜は顔を覆い、無表情になった。終わった。完全に藪蛇だ。真理に気遣いを求めた自分がバカだった。「どうしたの?」電話を切り、数秒前まで元気だったのに、今は壁にもたれてこの世の終わりのような顔をしている小夜を見て、真理は不思議そうに首を傾げた。「……オブラートに
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第694話

それにしても、大学教授ともあろう人がこんなに暇でいいのだろうか?それとも今日は休みなのか?小夜はそれ以上声をかけず、壁の時計に目をやった。午後二時を回ったところだ。あと数時間で結果が出る。光が今日ここで何をしていたのかが分かれば、なおさら良いのだが。……時計の針が四時半を指した。小夜はすぐに真理を叩き起こし、眠そうな彼女を引きずって実験室へ入った。案の定、先ほどまで床に崩れ落ちそうだった女は、実験室に入った途端に顔つきが変わった。まずは台の上の試薬を確認する。薄黄色の液体の中に、黒い薔薇の花びらが浮かんでいる。手作業で液体の反応を観測した後、分析器にかける。すぐに結果のレポートが出力された。「めちゃくちゃね」真理はレポートを一瞥し、小夜に手渡した。小夜はそれを受け取った。レポートには様々な化学物質や専門用語、そしてその成分の割合がびっしりと並んでいた。何ページかめくった後、小夜は眉をひそめた。真理の言った意味が分かった。確かに、めちゃくちゃだ。レポートの意味自体は理解できる。だが、成分の構成そのものがおかしいのだ。これらの成分を割合通りに計算してみると、薔薇そのものの成分を除外し、付着していた成分――つまり残り香から抽出された成分だけでは、どう組み合わせても一つの完成された香水にはならない。「香水のことはよく分からないけど」真理は片手で台に寄りかかり、目の前の試薬を見つめた。「分析レポートに間違いはないわ。複数の香水が混ざっているのでない限りね」小夜は眉をひそめた。「二種類以上の香水が使われているってこと?」「可能性の話よ」真理は断言はしなかった。「薔薇の残り香は成分が複雑に混ざり合いすぎているし、不純物も混じっている。元の液体の香水を持ってくるのが一番確実よ」そう言って彼女は少し近づき、レポートのいくつかの成分を指差した。「でも、このいくつかの成分は、含有量が多すぎると人体に影響を及ぼすわ」やはり。小夜は緊張に身を硬くした。「どんな影響?」顎に手を当てて数秒考えた後、真理は首を振った。「断定はできないわ。ごくわずかな成分の割合が変わるだけでも、影響の出方はまったく変わってくるから。でも確かなのは、致死性はないってこと。配合次第では、むしろ人体に有益な可能性すらあるわ」小
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第695話

「……お姉さん」生化学棟のガラス戸の前に続く階段の上に、一人の青年が立っていた。彼女を見ると、どこかぼんやりとした表情を浮かべた。小夜も驚いた。この数日、様々な出来事でパンク状態だった脳がほんの一瞬ショートし、ようやく我に返る……そうだった、佑介はこの大学の二年生なのだ。香水と花の分析のことばかり考えていて、すっかり忘れていた。驚きの後、この子ともしばらく会っていないことを思い出した。最後に連絡したのは、婚約披露の招待のために電話をかけた時だ。彼女は喜んで歩み寄った。「佑介!」近づいてみて、彼女は再び言葉を失った。すっかり夜になり、先ほどは離れていてよく見えなかったが、軒下の明かりに照らされた青年の顔は、整ってはいるもののひどく憔悴しきっており、目の下には真理に負けないくらい巨大なクマができていた。彼女は目を丸くして、思わず口走った。「あんたたち、揃いも揃ってどうしたのよ?」「僕たち、ですか?」佑介は首を傾げた。彼の口から出たその声も、近くで聞くと明らかに掠れており、深い疲労の色が滲んでいた。様子がおかしい。最後に直接会ったのは、遊園地で彼が母親の佳乃にこっそりと別れを告げた時だ。あの日から彼の様子は少しおかしかった。心配して大学まで様子を見に来たこともあったが、結局会えずじまいで、自分の気持ちを整理すると約束していたはずなのに……どうしてさらに悪化しているのよ!小夜はあの件がまだ尾を引いているのだと思い、そのまま口にした。佑介は少しの間黙り込み、首を振った。「違いますよ。最近、勉強が忙しかっただけです」あまり語りたくないのか、彼はすぐに話題を切り替えた。「お姉さんはここで何を?」彼は生化学棟の方へ視線を向け、その瞳を微かに暗く沈ませた。「ちょっと調べ物をね」佑介に対して隠し立てする必要もなく、彼女は手に持った紙袋を軽く振ってみせた。そして、青年の目の下のクマをしばらく見つめてから尋ねた。「あなたは?ここで何か用事でもあったの?」「えっ?」佑介は長いまつ毛を伏せた。「たいした用事じゃありませんよ」「それなら、夜食でもどう?」佑介は少し戸惑った後、小さく頷いた。……それから十分ほどして。小夜は佑介を連れて、大学の近くにある焼き鳥屋へ入った。この時間は客で溢れ返っており、店内は冷
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第696話

佑介は口を開くや否や、公式や理論を長々と並べ立てた。小夜は少し聞いただけで頭が痛くなった。彼女も大学時代、数学はそれなりに得意だった。だが、あくまで優秀というレベルに過ぎない。数学上の予想を研究するようなレベルには達していないし、そもそも専門も違う。それに、佑介はまだ大学二年生だが、手掛けている課題はすでに学部生のレベルを超えており、教授と共に研究を進めているのだ。もし、長谷川家の様々な事情で海外留学を阻まれていなければ……とっくに飛び級で卒業していただろう。だから、今彼が話している内容は、彼女にはほとんど理解できなかった。数学というのは、やはり他の学問とは違う。努力である程度のところまではいけても、その先へ行くには絶対に天賦の才が必要な、最も才能を問われる学問なのだ。もちろん才能があっても必ずしもうまくいくとは限らないが、佑介ほどのレベルの人間が研究している課題が、簡単なはずはない。なるほどと、彼女は少し納得した。それほど行き詰まっているのなら、ここまでやつれてしまうのも無理はない。彼女は慌てて手を上げ、ぎこちなく笑った。「ストップ、ストップ。よく分かったわ。じゃあ、あなたは……」無理をしすぎないようアドバイスするつもりだった。だが、照明のせいなのか何なのか、彼女の視線は不意に佑介の微かにウェーブのかかった髪に落ちた。そして、根元から数センチほどの部分が金髪に近い茶色になっているのに気づき、呆然とした。「あなた、髪染めたの?」思わず口走った。「パーマもかけた?」佑介は少し表情を強張らせ、以前より随分とカールの強くなった髪に触れた。その漆黒の瞳を小夜の顔から逸らさずに、静かに首を振って言った。「いいえ」彼はただ、黒く染めるのをやめただけだ。これこそが、彼の本来の髪色なのだから。「お姉さん、どうかしましたか?」佑介は少し無理に笑みを作った。「……なんでもないわ」小夜は心の中に湧き上がった違和感を隠した。まさかね。以前から少し疑ってはいたけれど、まさか……いや、やめておこう。彼女は深く詮索するのはやめ、ちょうど焼き上がったばかりの焼き鳥を一本取って、佑介に手渡した。「たくさん食べて、研究頑張ってね!」もし彼女の推測が正しいなら、佑介はこのまま研究に没頭し続けてくれた方がいい。
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第697話

「はい」佑介はおとなしく食べながら、世間話でもするように尋ねた。「お姉さんの婚約披露パーティー、無事に終わりましたか?」「……」またか。光だけでなく、最近会う人はみんな、最初にお祝いを言うのではなく「無事に終わったか」と聞いてくる。まったく、婚約披露くらいで何が起こるって……まあ、実際に色々あったのだけれど。小夜は苦笑した。「無事に終わったわよ」「そうですか」佑介は肉を飲み込み、一度瞬きをしてからまた尋ねた。「その婚約者の人、お姉さんに優しくしてくれますか?」「とっても優しいわよ」小夜は笑った。「前にも言ったでしょ、名前は小林青山よ。まだ会ったことなかったわよね?今度時間がある時、紹介するわ」彼女は佑介を本当の弟のように思っている。婚約披露パーティーに彼を呼ばなかったのは、長谷川家の事情があったからだが、それでも一度も顔を合わせないままというわけにはいかない。「いいですね」佑介はまた一本串を取り、ゆっくりと食べながらうつむき加減で言った。「お姉さん、今日突然こっちに来たのは何か用事があったんですか?連絡もくれなかったから、すれ違うところでしたよ」「ちょっと調べ物をね」以前から、彼が母親である佳乃のことをとても気にかけているのは知っていた。香水や黒薔薇のことを知れば、絶対に心配するだろうし、取り乱して厄介なことになっては困る。だから、適当に誤魔化した。彼女はそれ以上深くは語らず、ただ彼にたくさん食べるように促し、ご飯ものも追加注文して、話題を明るいものへと変えた。深夜になり、佑介の表情が随分と和らいだのを見届けてから、小夜はようやく別れを告げた。大学の正門近くの並木道。一人で歩いていく青年の痩せた後ろ姿を見て、小夜はたまらず声をかけた。「佑介、疲れたり嫌なことがあったりしたら、何でも一人で抱え込まずに私を頼ってきなさい。もし研究で行き詰まって辛いなら、少し休めばいい。あなた自身が幸せでいること以上に、大切なことなんてないんだからね」佑介は足を止めた。月明かりの下、佑介は振り返って彼女を見た。薄暗い並木道ではその顔はよく見えなかったが、掠れた冷たい声だけははっきりと聞こえた。「お姉さん、僕を許してくれますか?」「え?」よく聞こえず、小夜は一歩前に出た。言葉の意味を理解し、思わず吹き出した。「
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第698話

狭いシャワールームの中、水音が響く。氷のように冷たい水が、青年の丸まった背中を打ち据えていた。佑介は片手を壁につき、少しうつむいている。冷水を浴びていても、まるで何も感じていないかのようだ。もう何日も眠れていない。毎日、頭が鉛でも詰まったように重く、眠ることもできないまま意識だけが濁っていく。だから冷水の刺激で、せめてこの混沌を和らげるしかなかった……だが、今夜は違う。今夜こそ眠れるはずだ。何かを思い出した。冷水で凍りついて強張っていた体が微かに動いた。気怠げな目が少し開き、まるで今目覚めたかのように、彼は手探りで蛇口を回し、お湯へと切り替えた。湯気が立ち上る。充満する白い蒸気が、青年の顔をぼんやりと覆い隠した。水音は一向に止まない。……小夜は、そんな水音の中で目を覚ました。意識が朦朧とする中、雨でも降っているのかと思い、ズキズキと痛む額に片手を当てて小さく呟いた。「雨……?」家の窓、ちゃんと閉めてきたっけ?風邪を引かないように……待って。そこでようやく彼女は状況を理解し、額に当てた手がピタリと止まった。彼女は思い出したのだ……自分は真理のところへ薔薇の香水成分の分析に行き、それから佑介に会って、それから……勢いよく顔を上げた。目に飛び込んできたのは、無駄なものが一切ない、シンプルすぎる部屋だった。ビジネスホテルのような雰囲気だ……壁の隙間に隠されたランプが黄金色の間接照明を放ち、磨かれたフローリングがその光を反射している。彼女は、この部屋で唯一の、そして最も大きなベッドの上に寝かされていた。体を起こすと、腰の辺りに掛けられていた白い薄手の布団がゆっくりと滑り落ちた。部屋は広く、ひどく殺風景だった。生活感がまったくない。小夜は少し混乱していた。布団をめくり、自分の体を見下ろす。服は昼間、真理に会いに行った時のままだ。白いシャツに黒のニットベスト、下は黒のワイドパンツという、カジュアルで動きやすい服装。少しだけ安堵した。だが次の瞬間、再び心臓が跳ね上がった。そこでようやく、水音の正体に気づいたのだ。すぐ近くで聞こえており、雨音ではない。音のする方へ振り向くと、ベッドの斜め後ろにあるバスルームに明かりが点いていた。すりガラスで中ははっきりと見えないが、誰かがシャワーを浴びてい
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第699話

小夜は顔を覆ってため息をついた。正直なところ、もしこれが拉致だとしたら、コルシオよりも圭介であってほしいとすら思った……少なくとも、彼女が裏で動いていたことを圭介が知ったとしても、危害を加えるようなことはしないだろうし、まだ交渉の余地がある。何しろ、佳乃に関わることなのだから。だが、もしコルシオだとしたら……彼女が持っていた薔薇や香水の成分分析レポートのことを考えると、本当に絶望的だった。そうだ、あの資料!ベッドから降りられない彼女は、部屋の中で物を置けそうな場所をくまなく見回した……だが、目につく場所には何一つ置かれていなかった。その時、背後で物音がした。バスルームのドアが開いたのだ。小夜の背中が強張った。今更寝たふりをするのも無理で、彼女はぎこちない動きでゆっくりと首を回し、バスルームの方へ視線を向けた……心臓がドクンと鳴り、そのまま真っ逆さまに落ちていくような感覚に襲われた。終わった。コルシオに拉致されるよりもさらに悪い予想が、的中してしまったのだ。バスルームの前に立つ青年の姿を見て、彼女の心は急速に冷え込んでいき、ひどく掠れて乾いた声が漏れた。「……佑介」……部屋の中に沈黙が落ちた。心のどこかで予想していたとはいえ、それが確定した今、小夜はやはりショックを隠せなかった。何か言おうと口を開いたが、声にならなかった。「……」張り詰めた静寂の中、佑介が不意に動き出し、ベッドの方へ歩み寄ってきた。小夜が本能的にベッドの上で後ずさるのを見て、彼はベッドの脇で立ち止まり、少し顔を上げた。ランプの光が彼を照らす。シャワーを浴びた直後とはいえ、佑介は白いクルーネックのTシャツに膝丈の黒いショートパンツという爽やかな格好をしていた。微かにウェーブのかかった短い髪から滴る水滴が肩を濡らし、少し湿った前髪の奥には、水で洗われた宝石のように透き通るエメラルドグリーンの瞳があった。整った顔立ちは以前よりも彫りが深く、青白く見え、それがかえってハッとするほど美しかった。瑞々しい少年らしさが溢れている。だが、小夜の目には恐ろしい光景にしか映らなかった。これはどういうこと!これで確定だ。小夜はショックで胸が詰まりそうだった……以前から佑介とコルシオの関係を疑ってはいたが、ほんの少し遺伝しただ
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第700話

長谷川家が隠すように強要したのか?それとも、彼自身が。「お姉さん、そんな目で見ないでくださいよ」佑介が少し身を乗り出すと、髪から落ちた水滴が白いシーツに染みを作った。エメラルドグリーンの瞳が、小夜が逸らそうとした視線を捉える。「僕だって、最近知ったばかりなんですから」最近?小夜は唇を噛み締め、黙っていた。「どうしてこんなことをしたのか、聞きたくないですか?」佑介がさらに近づいてきた。彼の体からはまだ湯気が立ち上り、息が触れるだけで周囲の空気まで湿っぽく感じられた。小夜は不快感に眉をひそめ、思わず青年の濡れた頭に手を当てて押し返した。近すぎる。「それなら、理由を教えてくれるの?」彼女は尋ねた。佑介は大人しく押し返され、軽い口調で言った。「いいですよ。お姉さんが聞くことなら何でも答えます。理由はすごく簡単です。父さんが、僕と母さんをイタリアへ連れて行ってくれると言ったんです。向こうで、僕も欠けるもののない新しい家庭を持てるって」最悪のパターンだ。小夜は頭を抱えた。「あいつの言葉を信じたの?」つい最近知ったばかりの、実の父親だと名乗る男の言葉を信じたというの?だが、以前から彼が佳乃に対して抱いていた執着や、家族というものへの強い渇望を思うと、小夜も少し分からなくなった。コルシオにそう言われれば。佑介は本当に応じてしまうかもしれない。だが、コルシオのような人間を本当に信じていいはずがない!小夜が説得しようと口を開きかけた時、佑介が低い声で言った。「信じるかどうかなんて関係ありますか?あの人は僕の父親なんです。息子の僕が、それを拒絶できるわけないじゃないですか」あれは、父親からの願いなのだから。「……」小夜は返す言葉を失った。その言葉には反論のしようがなかった。過去の血縁をきっぱりと断ち切った自分と、佑介の状況は全く違う。あまりにもかけ離れている。彼女は若い頃に両親と共に過ごし、血の繋がりがありながらも非情な仕打ちを受けたからこそ断ち切れた。だが佑介は、最初から何も与えられていなかったのだ……彼女には、何とアドバイスすればいいのか分からなかった。彼女はただ、絞り出すように言った。「あの男は狂ってる。あなたたちを傷つけるわ」佑介は沈黙し、すぐに答えた。「僕の父親ですよ」「……
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