All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

ネクタイをグイッと掴んで引き寄せた。頭に血が上った勢いのまま、彼女は言い放った。「女王をみだりにからかう不届きな騎士が、どこの世界にいるのよ!」口に出した瞬間、彼女は我に返った。心の中で悲鳴を上げる。――終わった。私まで毒されてるじゃない!耳元で、青山の抑えきれない低い笑い声が聞こえた。彼女が手を離した瞬間、彼がすかさず小夜の手を捉える。大きくて熱いもう片方の手が彼女の細い腰に回され、その熱に彼女は小さく身を震わせた。耳元で、かすれた、誘惑するような声が響く。「では、我が女王は僕に罰をお与えになるのですか?どのように?何を使って?それとも……」青山は彼女の耳元に唇を寄せ、低く囁いた。小夜の顔から火が出そうだった。「この、大馬鹿!あなたって人は……」彼女は目を大きく見開き、笑いを堪えきれない目の前の男を睨みつけた。全身が茹で上がったように熱くなり、恥ずかしさのあまり男の胸をポカポカと叩く。「どうしてそんなふうになっちゃったのよ!」――この人、だんだん口にブレーキがかからなくなってきてる!よくもまあ、そんな恥ずかしいセリフが言えるわね!今までどうして気づかなかったのだろう。彼がこんなにも……色気を放つ男だったなんて。何が高潔な人よ!ここはまだ外なのに!彼女は顔を真っ赤にして怒りながら車に戻り、青山も楽しげな笑みを浮かべながらそれに続いた。彼らは気づいていなかった。街角の監視カメラが、ずっと彼らの方向へ向いたまま、赤いランプを点滅させていたことに。……その後、竹園地区のマンションへ戻る道中、顔を真っ赤にした小夜は青山を完全に無視し、一方的な冷戦を開始した。竹園地区に到着し、青山は車のドアを開けてやり、笑いながら尋ねた。「本当に口を利いてくれないのかい?」小夜は彼を睨みつけた。車を降り、花束を抱え、彼女は無言のまま自宅へと歩き出す。婚約したとはいえ、息子の樹がまだ少し彼を警戒していることもあり、今のところ二人は単なるお隣さん同士だ。同居はまだ先の話である。だが、ドアを押し開けようとした瞬間。小夜は何かを思いついたように瞳をくるりと回し、突然振り返って、後ろから見送りに来ていた青山に向かって手を高く掲げた。中指のルビーの指輪が、月明かりの下で異常なほど鮮やかに輝いて
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第682話

それに、樹自身も行きたがらなかった。婚約すること自体にはもう反対しなくなっていたが、完全に受け入れたわけでもない。もし今回がただの婚約披露ではなく結婚式だったら、絶対に最後まで暴れていただろう……小夜はそう確信している。この子は、まるで小さな時限爆弾なのだ。子供を一人で家に残してきたことを思い出し、護衛がついているとはいえ、小夜はやはり心を痛め、両手を広げて駆け寄ってきた我が子を抱きしめた。「こんなに遅いのに、どうして起きてるの?」もう午前零時を回っているのに。「……眠くないもん」樹はママの胸に顔を埋め、くぐもった声で答えた。何かを聞こうとしたようだが、不意に顔を上げ、さっきまでの嬉しそうな顔から一転して微かな怒りを露わにした。「ママ!」「え?どうしたの?」また急に機嫌が悪くなって。「また病院へ行ったんでしょ!」と樹は怒った。彼はあの底意地の悪い青山のことも我慢して、婚約の邪魔もしなかった。今日はママの婚約の日なのに、どうしてママの体から病院の消毒液や薬の匂いがするんだ。ほんの少しの匂いだけど。今の彼は、その匂いに人一倍敏感だった。――また、星文のところへ行ったの?どうして!「それは……」小夜は、ただ病院へ行っただけでなぜ樹が怒るのかピンとこなかったが、彼が佳乃にとても懐いていたことを思い出した。佳乃が入院していると知れば心配してパニックになるだろうと考え、あえてそのことには触れないでおく。どう誤魔化そうかと考えていると。樹が突然、おとなしくなった。怒るのもやめた。彼は小夜の手をギュッと握り、落ち着いた声で言った。「ママ、次に病院へ行く時は、僕も一緒に行く!」――ママを引き止められないなら、僕もついていく!「あなたが行ってどうするのよ……?」「星文くんに会いたいんだ」樹は奥歯をギリッと噛みしめながらも、無邪気で可愛い笑顔を作ってみせた。「あいつ、最近どうしてるかなって。僕もお見舞いに行きたいな」学校で彼ら二人が仲良しだったという話を思い出し、自ら会いたいと言い出したのだから、あの事件のトラウマもだいぶ薄れたのだろう……と小夜は考えた。今なら会いに行かせても大丈夫かもしれない。ちょうどいい。明日、様子を見に行こう。あれから随分日が経つ。もしこのまま彼が目
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第683話

病院の病室。雪はリクライニングチェアに斜めにもたれかかり、果物ナイフを器用に操ってリンゴの皮を剥いていた。薄く赤い果皮が、一度も途切れることなく長く連なっていく。「目が覚めたようね。気分はどう?」彼女は顔を上げることもなく、極めて淡々とした口調で言った。そこには母親らしい温もりなど微塵もない。ベッドの上では。体中と頭に包帯を巻かれた小さな子供が、青白い顔で目を開けていたが、まったくの無表情だった。目の前にいる「血縁上の母親」に対して一切の感情の揺らぎを見せず、彼女の問いかけにも答えない。二人の間には、普通の親子の姿などどこにもない。だが、それは彼らにとって日常の風景だった。剥き終わったリンゴの皮がゴミ箱へ落ちる。皿の上で何等分かに切り分けられたリンゴの欠片を、雪は自ら一つ突き刺してかじりながら、苛立たしげに促した。「答えなさい。私が無視されるのを一番嫌うってこと、知ってるでしょう」星文は瞳だけを動かして彼女を一瞥したが、やはり何も言わなかった。雪は小さく舌打ちをした。少しイラついてきた。彼女は星文のこの態度が一番嫌いだった。見ているだけで無性に腹が立つ……他人がもし自分の前でこんな態度をとれば、とうの昔に殴り倒しているところだが、かろうじてこいつが自分の腹を痛めて産んだ子供であることだけは覚えていた……それに、こいつの父親は虫酸が走るほど最低な男だったが、この子の顔は成長するにつれてますます父親に似てきている。これからもっと似てくるだろう……本当にイライラする。リンゴを飲み込み、ナイフの先を歯で軽く噛んだ。まあ、一応使い道はある。自分が産んだ子だ。彼女は少し口調を落ち着かせ、もう一切れリンゴを刺してかじった。「あんたが自分で飛び降りたって言う奴がいるけど。どういうつもり?私が鬱陶しかった?腹を立てたの?それとも、私への当てつけ?」本来なら、子供に向かって口にすべきではない酷い言葉を、彼女は平然と口にした。だが、雪はふと少しだけ思考を飛ばした。もしあのいつも人に甘い小夜がここにいたら、私のこの言葉を聞いてさぞかし怒り狂うだろうな……あいつはいつも「気をつけて、慎重に」とうるさいが、私の子供がそんなにヤワなわけがない。飛び降りるならもっと早く飛び降りていたはずだ。どうして今になって飛
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第684話

「ママに会いたい」このクソガキ……いい度胸ね!彼女は冷ややかな目をわずかに動かし、ベッドの上で病弱そうな顔をした、ひどく痩せこけた子供を見つめた。だが、思いがけず彼女の口角が吊り上がり、笑みさえ浮かべる。そこにはある種の満足感すら漂っていた。「やはりあんたは、誰よりも私にそっくりね」……「うっかり落ちた?」病院に駆けつけた小夜は、雪の口からその報告を聞いて耳を疑った……自分から飛び降りたのではないなら、よかった。だが安堵したのも束の間、彼女はすぐにある事に気づいた。「この子が目を覚ましたばかりなのに、そんなことを問い詰めたの?」チッ、やっぱりね。雪は露骨に呆れた目を向けた。普通、こういう時は「よかった、これで解決だ」と胸を撫で下ろすのが先だろう……少なくとも私は、この件を口実にあの女の子供を法廷に引きずり出したりはしないと言っているのだから。本当に、愚かな女。相手にするのも面倒になり、彼女は視線を下げて小夜の横にいる樹を見た。大人と子供の視線がぶつかり合う。雪は赤い唇を歪めて、どう見ても悪意のある笑みを浮かべた。――このクソガキ。樹は彼女をじっと見つめ返し、しばらくして視線を逸らした。「どうやって聞き出したのよ?」小夜はまだ食い下がっていた。彼女は、雪がまともに子供と会話できる人間だとは到底信じられなかった。あの口にはいつも毒が塗られている。子供が目を覚ました途端、刺激するような酷い言葉を投げつけたのではないかと心配だったのだ。そう考えると、雪の返答も待たずに、小夜は病室のドアを押し開けて中へ入った。ベッドに近づくより早く、横たわっていた少年がこちらを見た。光のなかった瞳が、一瞬にして明るく輝く。「ママ!」小夜は思わず踵を返して逃げ出したくなった。――ちょっと、今そう呼ぶのはヤバいって!彼女は反射的に振り返り、一足遅れて入ってきた樹と雪の顔を見た……この二人は、少しでも火種があればすぐに爆発する厄介な時限爆弾だ。星文が目を覚ましたと聞いて喜んで駆けつけてきたが、この地雷の存在をすっかり忘れていた!だが、予想外のことが起きた。二つの時限爆弾は、驚くほど静かだったのだ。樹は顔色こそ悪かったが、ママが振り返って自分を見るなり、あざとく可愛い笑顔を作ってみせた……キュッと引き
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第685話

結局のところ、彼女は星文を放っておくことなどできなかった。見て見ぬふりなど、できるはずがなかった。「先生のところへ行って、今の状態を詳しく聞いてくるわ。星文はここでおとなしく待っていてくれる?」まだ医師に直接会えておらず、安心できなかった小夜は、服を握る子供の手をそっと外し、ナースコールを押そうとした。雪も一緒に医師の話を聞くべきだ。母親としての責任なのだから。星文は服を掴んだまま離さず、少しだけ顔を上げた。声はひどくかすれていたが、それでも甘えたような愛らしさが滲んでいた。大きくて丸い瞳に、いたいけな光を浮かべた。「ママ、ちゅっして」昔もいつもこうだった。ママが離れる時は、必ずキスをしてくれた。そうすれば、すぐに戻ってきてくれるから。小夜は心の中でため息をついた。元気になったら、この子が自分を「ママ」と呼ぶ癖をどうにかして直させなければ。実の母親がすぐそばにいるのに、こんな状況は絶対によくない……だが、星文のあまりにも可哀想で愛らしい瞳には逆らえず、彼女は背中に突き刺さる痛い視線に耐えながら、子供の骨ばった頬に軽くキスを落とした。鼻の奥がツンとした。本当に、痩せすぎている。胸の奥に込み上げる苦しい感情を噛み殺しながら、彼女は表面上は笑顔を保ち、病室のドアを出た。廊下で少しだけ感情を落ち着かせていると、雪が看護師を呼びに行っている間に、病室からついてきた樹が突然彼女の手を引っ張った。自分の頬を指差して、冷たい無表情で言う。「……ちゅっ」「……はいはい」あっちを宥めたら、今度はこちらが機嫌を損ねてしまった。彼女は腰をかがめ、樹の柔らかい頬にキスをした。ふっくらとした感触に安心する。だが、体を起こす前に今度は反対側の頬を引っ張られ、両方の頬に何度もキスをして、ようやく樹は満足したようだった。看護師がやってくると、樹は急に「行かない」と言い出した。「僕は歩きたくない。病室の中で星文くんと一緒に、ママが戻ってくるのを待ってる」小夜はためらった。先ほど病室での二人の再会が穏やかで、何のパニックも起きなかったのはこの目で見た……それでも、やはり完全には安心できない……自分がそばにいればまだいいのだが。「あなた……」「さあ、行くわよ。子供二人が病室にいるだけで、看護師も
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第686話

「これからは、僕たち、友達だよね?」病室の中。ベッドの上に座る星文は、転落による怪我がまだ完全に癒えておらず、病衣から覗く肌のあちこちに包帯を巻かれていた。彼は少し離れたところに立つ樹を、静かで感情の読めない瞳で見つめている。本来なら、友情を渇望するような言葉のはずだった。だが、彼の口から紡がれると、どういうわけか感情が麻痺したような、ひどく無機質な響きを帯びていた。決して弱々しくも、哀れっぽくもない。一方、そう問いかけられ、友情を乞われたはずの樹の顔にも、得意げな様子や喜びの色は微塵もなかった。彼はベッドの上で、自分より一つ年上なだけの、傷だらけでひどく痩せこけた星文を冷ややかに睨みつけ、その顔に次第に明らかな怒りを滲ませていった。彼は奥歯をギリッと噛み締めた。「僕を馬鹿にしてるのか!」今日に至るまで、樹には後悔していることなどほとんどなかった。ママの件は数少ない例外だが、この星文とかいう奴は一体何なのだ!最初から彼と友達になる気などさらさらなかった。学校で見せていたあの優しさだって、全部僕を馬鹿にして遊んでいただけじゃないか!だが今、彼は本当に、少しだけ後悔し始めていた。こいつは、まるで一度くっついたら剥がれない粘着テープだ!しかも、この世で一番気持ち悪くて厄介なタイプの!もし、桐生おじさんのあの言葉がなかったら……――坊ちゃま、どんなことにも代償というものがあります。得るものがあれば、失うものもあるのです。代償?そんなもの、納得できるわけがない!絶対に……あの日の光景を思い出し、樹の呼吸が荒くなった。激しく肩で息をする。すると、彼の返事を待っていたベッドの上の星文が、待ちきれなくなったかのように、突然自分の腕に巻かれた包帯を掴み、力任せに引き剥がした。癒えかけた傷口が引き裂かれるような鈍い音とともに、包帯が床に落ちる。転落の際に擦りむいた腕の傷口のかさぶたがめくれ上がり、生々しい血が玉となって滲み出した。完全に剥がれきっていない包帯の端を、じわじわと赤く染めていく。ひどく痩せこけた小さな体にあるその生傷は、あまりにも痛ましく、正視に耐えない光景だった。だが、星文はまるで何も感じていないかのように顔色一つ変えず、血の滲むその傷口を真っ直ぐに樹へ向けてみせた。「嘘をついたの?」樹のまぶ
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第687話

「ママはどこ?」樹は少し声を張り上げ、彼女の言葉を遮った。若い看護師は思わず呆然とした。つい先ほどまで見せていたあのあざとく甘えてきた愛らしい姿から、一瞬にして別人のように変わってしまったからだ……その小さな顔には明らかな苛立ちが浮かび、こちらに向ける視線もひどく冷ややかで、嫌悪感すら滲んでいた。なんだ、その目は?顔立ちが可愛いことには変わりない。だが、先ほどの愛嬌は微塵もなくなっていた。最近の子供はみんなこうなのか?手のひらを返すのが早すぎる!彼女がそんなことを考えて呆気に取られているほんの一瞬の間に、その子はすでに廊下の先へ走り去ってしまっていた。何かあっては大変だと、彼女は数歩踏み出して追いかけようとしたが、病室の中にもう一人、目を離してはいけない患者がいることを思い出した。どうしよう?だがすぐに、さらに頭の痛い事態が起こった。病室でおとなしく休んでいるはずのもう一人の子供が、いつの間にかベッドから降りていたのだ。彼は足元をおぼつかせながら病室から歩み出てくると、看護師の存在など完全に無視して、樹が消えた方向へふらふらと後を追い始めた。「あ、ちょっと!待って!」看護師は慌てて彼を捕まえようと手を伸ばしたが、全身のあちこちに巻かれた痛々しい包帯を見て、思わず手を引っ込めてしまった。強く掴んで痛がらせたり、傷口を再び開いたりするのが怖かったのだ。そうして一瞬ためらっている間に、子供はずいぶん先まで進んでしまっていた。看護師にはまったく理解できなかった。二人の子供がほんの数分、内緒話をしただけなのに。一体全体、どうしてこんな事態になってしまったのだろう?彼女は頭を抱えながら、急いで二人の後を追った。……医師の診察室。小夜は、星文の容態について医師と真剣に話し合っていた。その傍らで、雪は完全に上の空といった様子で、火のついていないタバコを指先でくるくると弄んでいる。その態度に腹を立てた小夜は、少し力を込めて彼女の肩をバシッと叩いた。「少しは真面目に聞けないの?」一体、誰の子供だと思っているの!「ああ、聞いてるわよ」雪は露骨に白目をむき、火のついていないタバコを口にくわえたまま、呆れた顔で黙り込む医師に顎をしゃくった。「続けて」「……」医療面については、すぐに話がまとまった。
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第688話

「はい、わかりました」小夜は何度も頷いた。「先生、ありがとうございました。お手数をおかけします」医師は気にするなというように手を振った。……診察室を出た後。小夜が星文のことで雪に説教しようとするより早く、雪が先手を打った。「この前言った件、考えはまとまった?あの薔薇の残り香が完全に消えるまで待つつもり?」小夜は眉をひそめた。今日ここへ来たのは、星文を見舞うこと以外に、確かにその件を片付ける目的もあった。だが、雪のこの態度が無性に腹立たしかった。彼女は怒りを込めた声で言った。「星文のこと、もう少し真剣に考えられないの!」「私が真剣じゃないって?」雪は心底面倒くさそうに顔をしかめ、唇にくわえたタバコを微かに震わせた。「治療費を出さなかったとでも言うの?それとも入院の手続きをしなかったとでも?私がどれだけ病院で時間を無駄にしていると思ってるの。これでもまだ不満だって言うわけ?」パーン!乾いた平手打ちの音が響いた。小夜が我に返った時には、すでに手が勝手に動いた後だった。目の前の女が頬を押さえ、無言でこちらを見つめている。小夜は気まずそうに一歩後ずさりながら言った。「ご、ごめんなさい」怒りに任せて、つい手が出てしまった。だが、雪の方にだって大いに問題があるはずだ!「このバカ女、よくも私を!」噛みちぎられたタバコが床に落ちる。雪はゆっくりとこちらに向き直り、血走った目で小夜を強く睨みつけた。「最近私が大目に見てやってるからって、つけ上がるんじゃないわよ!」前回の平手打ちは、一応我慢してやった。だが、二度目となれば話は別だ!怒りが頂点に達し、ここが病院の廊下であることも忘れて、雪は小夜の襟首を掴んで近くの部屋へ引きずり込もうと一歩踏み出した。その時、廊下の奥から子供の声が響いた。「ママ!ここにいたの!」手を伸ばそうとしていた雪の動きがピタリと止まった。小夜も一緒に声のした方へ振り向くと、廊下の端にある階段から樹が勢いよく駆け下りてきて、そのまま彼女の胸に飛び込んできた。「どうしてここに来たの?」あわや力ずくで引きずり込まれる寸前だったことなどすっかり忘れ、小夜は樹を抱きしめながら不思議そうに尋ねた。「病室で星文と一緒にいるんじゃなかったの?どうして……」言い終わらないう
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第689話

家に帰るなど、絶対に無理だ。先ほど医師とも確認したばかりだ。目を覚ましたとはいえ、まだしばらくは病院で経過観察が必要なのだ。それに、こんなふうに歩き回ったせいで、せっかく塞がりかけていた傷口も少し開いてしまっていた。絶対に帰せるわけがない。どうにか二人の子供をなだめすかしたものの、小夜はまだ、まったく状況が飲み込めていなかった。先ほどの、ほんの一瞬よぎった自分の疑念についてもだ。樹は涙を浮かべ、星文も彼のために弁解してくれた。二人の子供が再びしっかりと手を繋いで病室へ戻っていく姿を見て、彼女はその不信感を心の奥底へ封じ込めた。自分でも理解できなかった。あんな痛々しい姿の星文を見た瞬間、どうして無意識に樹を疑ってしまったのか。二人とも、あんなに仲が良さそうにしているというのに。本当に、親友同士のように。「最近、忙しすぎて頭がおかしくなっちゃったのかしら?」病院の廊下で、小夜は自分の額を軽く叩き、ふっと眩暈を覚えた。実際のところ、最近の彼女は本当に働き詰めで限界だった。良いことも悪いことも、すべてが一度に押し寄せてくる。心身ともに擦り減っていた。彼女がひどく疲れた様子で壁にもたれかかっていると、ちょうど病室のドアを開けて出てきた雪と目が合った。雪の顔色は相変わらず最悪だったが、先ほどのように掴みかかってくる気配はなく、ただ冷ややかに言った。「じゃあ、これで決まりね?」「ええ」小夜は彼女を一瞥し、頷いた。先ほど子供たちをなだめた後、彼女はすぐに青山に電話を入れていた。光の海外での経歴について少しだけ手がかりが掴め、彼が言っていた「恩師」についても目星がつき始めていた。だが、肝心の香水のレシピについては依然として何の進展もなかった。もう、これ以上待っている時間はなかった。だからこそ、雪から持ちかけられたあの協力の提案に乗るしかなかったのだ。彼女は疲れたように眉間を揉みほぐした。「先に言っておくけど、私はあなたが言っているような腹の探り合いは得意じゃないから、できる限りのことしかしないわ。それに、一度きりよ。成功しようが失敗しようが、その後のことには一切関わらないから」「いいわよ」雪は薄く嗤った。「でも、一つだけ条件があるわ」小夜は冷ややかな視線で彼女を射抜いた。「私がこの提案を受け入れる代わ
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第690話

小夜は完全に言葉を失った。この柏木雪という女。ここへ来てようやく、あの翔と姉弟なのだという共通点が見えてきた気がする……星文が自分を「ママ」と呼ぶことについてあれほど噛みついていたのに、今度は自分の弟と同じように、私に母親役を押し付けようとしているのだ。本当に、呆れてものも言えない。彼女はそんな馬鹿げた戯言を相手にする気はなかった。星文がすっかり回復して退院すれば、それで柏木家との縁を完全に断ち切れる……あの子がいい子なのは分かっているが、雪のような狂人をこれ以上自分の人生に関わらせる余裕など、今の彼女には微塵も残っていなかった。一時的な付き合いで済むなら、まだいい。だが、一生関わり続けるなど絶対に御免だ。これ以上、ストレスで寿命を縮める気はないのだから。……病院を後にする前。小夜は別の病棟にある佳乃の病室へ向かった。遠くから様子を見るだけのつもりだったが、着いてみると、彼女はすでに退院して自宅へ戻った後だった。おそらく、長谷川家が彼女を外の病院に置いておくことを不安視したのだろう。小夜は佳乃の担当医を訪ね、入院中に何か体の異常が見られなかったかを確認した。結果から言えば、異常はあった。だが、どれも以前から佳乃が抱えていた持病の範囲内だった……精神的なダメージにより長年薬を服用し続けているため、体のあちこちに不調が出ているのは事実だ。だが、それ以上の新たな異常は見つかっていなかった。樹を連れて竹園地区へ戻ったその日の夜、雪は約束通り、黒薔薇が密封されたあのガラス瓶を人を介して届けてきた。ご丁寧にも「手伝いが必要なら言って」という伝言まで添えられていたが。当然、小夜はそれを断った。彼女はすでに、検査機関と専門家を手配していた。公安の知人が陰で見守ってくれているおかげで、小夜は安心して樹を竹園地区のマンションに残すことができた。青山に一声かけ、彼女は車を出して帝都大学へと向かった。彼女の母校であり、同窓生も多い場所だ。卒業後、それぞれの分野へ飛び立っていった者もいれば、そのまま大学に残り教鞭をとる道を選んだ者も少なくない。近藤真理(こんどう まり)もその一人だった……車が大学の正門に差し掛かった瞬間、小夜の目は、入り口で待っている白衣を着たポニーテールの女性の姿を素早く捉えた。「
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