All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 651 - Chapter 660

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第651話

あの男が、佳乃を危険に晒すはずはない。では、なぜ?小夜が答えの出ない疑問を巡らせていた、そのときだった。「小夜ちゃん!」ソファで雅臣と楽しそうに話していた佳乃が、物音に気づいて振り返った。小夜の姿を見ると、嬉しそうに駆け寄り、その手を取る。「もう、小夜ちゃん。婚約するなら、どうして教えてくれなかったの?大切な婚約披露なのに、水臭いじゃない。ほら、見て!お祝いの品を、こんなにたくさん用意してきたのよ。婚約おめでとう!」佳乃はそう言って、部屋の中を指さした。大小さまざまなリボン付きの箱が、部屋の半分を埋めるほど積み上げられている。すべて佳乃が持ってきた婚約祝いだった。「本当は、まだあるのよ。でも、あなたが好きそうな翡翠の飾りや骨董品は、雅臣が持ってこさせてくれなかったの。あとで新居へ運ばせるから、部屋に飾ってね!」佳乃は満面の笑みで小夜を見つめた。「小夜ちゃん?」「……うん。ちゃんと聞いてるよ」小夜は何とか答えた。佳乃の様子を見る限り、まだ記憶が混乱した状態にあるらしい。自分を友人だと思っている。小夜は静かに息を吸った。雅臣の向かいに座る青山へ一度目をやってから、笑みを浮かべる。「ありがとう、佳乃。でも、おかしいな。私、ちゃんと知らせたはずよ。もしかして……雅臣さんが教えなかったの?」小夜は雅臣へ視線を向けた。「え?」雅臣は虚を突かれたように固まった。小夜から、そんな話を聞いた覚えはない。それどころか、長谷川家の人間は参加させられないと言われていたはずだ。だが、考える間もなく、不機嫌になった佳乃が飛びかかるようにして耳を引っ張ってきた。雅臣は、まず妻をなだめるしかない。二人が騒いでいる間に、青山が小夜へ歩み寄り、耳元で囁いた。「心配しないで。先に手配してある。施設の周囲は常に見張らせているから、外部の人間が入り込むことはないよ」外から誰も入れないのなら、佳乃がここにいても危険はない。小夜は頷いたが、それでも完全には安心できなかった。コルシオは深く身を隠している。今どこに潜んでいるのか、いつ姿を現すのか、誰にも分からない。佳乃がここにいると知ったら、何をするかも予想できなかった。長谷川め!今すぐ首を絞めてやりたいほど腹が立つ。一体、何を企んでいるの!小夜は深呼吸
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第652話

以前の小夜は、雅臣だけは違うと思っていた。これまでの振る舞いを見ても、雅臣が佳乃を大切にしてきたことは疑いようがなく、その思いは本物に見えた。それなのに今、コルシオが暗闇から狙っていると分かっていながら、佳乃を連れて無防備に外を歩いている。以前のように細心の注意を払って守る様子は、どこにもない。雅臣も、佳乃を利用しているのだろうか。やはり、長谷川家の人間には心がない。小夜は歯を食いしばり、眼差しを鋭くした。ソファに座る雅臣の顔からも笑みが消えた。手にした繊細な茶器の中で、水面がかすかに揺れる。低く、厳しい声で叱りつけた。「小夜。目上の者の事情に、軽々しく口を出すな」「私には、あなたのような目上の人はいません」小夜は一切遠慮しなかった。「今すぐお帰りください。私の婚約披露パーティーでは、長谷川家の方を歓迎していません。初めから分かっていたはずでしょう」「本気で言っているのか?」雅臣は、奈々と頭を寄せ合って動画を見ている佳乃へ目を向けた。その瞳が、わずかに和らぐ。茶器を静かに置くと、淡々と話した。「小夜。君がどう考えようと、今日ここへ来たいと言ったのは佳乃だ。君がもう一度幸せになるところを、自分の目で見届けたいと言ってな。私も、君の婚約を邪魔するつもりはない。そもそも、私は初めから君と圭介が似合っているとは思っていなかった。あの頃は、あいつが君を望んだから、それに乗っただけだ」いったん言葉を切り、さらに続ける。「君と圭介の結婚生活がどれほどひどいものだったとしても、それは君たち二人の問題だ。この何年か、私と佳乃が君をないがしろにしたことがあるか?君を困らせたことが一度でもあったか?それなのに、今では私にそんな口を利くのか」小夜は黙り込んだ。自分と圭介の結婚生活は、とっくに解きほぐせないほど絡まりきっていた。断ち切るには、迷いを捨てて一刀両断にするしかない。だが圭介のことを切り離して考えれば、長谷川家の年長者たちは、確かに自分を困らせたことがなかった。時折冷淡に接することはあっても、与えるべきものを与えず、尽くすべきことを欠いたこともない。特に佳乃は、小夜を心から大切にしてくれた。彼らが自分へ与えた傷があるとすれば、圭介がしてきたことを見て見ぬふりしたことだ。しかも、彼らは自分を完全に
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第653話

雅臣は結局、佳乃を連れて会場に姿を現した。芝生の上は、たちまちざわめいた。集まった客の中には、最近の噂が本当かどうか見極めようと、様子をうかがいに来た者も少なくない。ところが、決裂したと噂されていた双方が、そろってこの場に現れたのだ。本当に決裂したのなら、長谷川家がわざわざ祝いに来るはずがない。いったい、両家の間はどうなっているのか。婚約披露が始まるのを待ちながら、会場のあちこちに散らばっていた客たちは、それぞれに思惑を巡らせた。知り合いの中には雅臣へ直接探りを入れる者もいたが、二言三言、当たり障りのない返事をされただけで、話を切り上げられてしまった。雅臣に詳しく話す気がないのは明らかだった。「神谷先生が、こういう席に顔を出されるとは珍しいですね」探りを入れてきた数人を適当にかわすと、雅臣は佳乃を連れ、孝志のもとへ挨拶に向かった。ほかの客なら適当にあしらえても、この重鎮を無視するわけにはいかない。少なくとも、挨拶はしておくべきだった。孝志は長谷川家とも旧知の仲で、雅臣を無視することなく、何気ない調子で答えた。「旧友の教え子を見に来ただけだ。それより君こそ、わざわざ嫌われに来たのか?」今日婚約する二人は、どちらも長谷川家と折り合いが悪い。そんな席に顔を出せば、煙たがられるのも当然だ。「……」雅臣は返す言葉もなく、苦笑した。家に戻ったら、圭介をきつく懲らしめてやらなければならない。一体どんなろくでもない策を思いついたのか。今日は恥をかかされてばかりだ。あいつの話など信じるべきではなかった。だが、表情には出さず、笑みを浮かべたまま尋ねた。「旧友の教え子、ですか。先生をここまで動かせるのは、どなたでしょう?」孝志は、小夜をエスコートして入場し、今は壇上で挨拶をしている青山に目をやり、笑った。「ティールのやつだ。自分は楽を決め込んで、この老いぼれに面倒を押しつけおって……」雅臣は驚いた。青山がティールの教え子だったとは。ティールの頼みなら、孝志も断らないだろう。とはいえ、若者の婚約披露のためだけに、わざわざ出向く必要はない。もしや、孝志には別の目的があるのではないか。ある考えが浮かび、雅臣は尋ねた。「神谷先生、例の航空宇宙分野のスマート化プロジェクトですが、研究の方向性はもう固まったのですか?
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第654話

孝志は鼻を鳴らしたが、雅臣は笑ったまま何も言わなかった。実のところ、二人とも分かっていた。圭介を学問の道へさらに進ませなかったのは、家業を継がせるためだけではない。突き詰めれば、長谷川家からこれ以上、国の政策決定に関わる人間を出すわけにはいかなかったのだ。この技術分野を深く研究していけば、いずれ国家戦略の中核に関わることになる。長谷川家の力と、圭介を支えるだけの基盤を考えれば、事態は誰にも制御できなくなる可能性があった。圭介が一族の影響を受けないはずもなく、研究を突き詰めるほど、国の重要な政策決定にも関わるようになる。その先にあるのは、国政の中枢だ。それだけなら、まだよかった。だが、長谷川家の先代は特務機関の要職に就き、その人脈も影響力もあまりに広い。もともと当局から強く警戒されているところへ、さらに国政の中枢に関わる者まで出せば、目をつけてくれと言っているようなものだった。要するに、研究に多少関わる程度ならかまわないが、本格的に踏み込むことはできない。だが圭介は、何事も徹底的にやり、頂点を取らなければ気が済まない。だからこそ、最初から触れさせないしかなかった。それに、直接研究に加われなくても、投資ならできる。金を稼ぐ妨げにもならない。雅臣は、そのくらいに割り切っていた。ところが、圭介の考えは違った。これまでは小夜を理由にして何とか押しとどめていられたが、今ではますます我慢が利かなくなり、また人知れずこの分野の研究に手を出している。本当に厄介な息子だ。まったく、こちらを安心させてくれない。そんなことを考えながら、雅臣は壇上で挨拶をしている婚約者二人へ目を向けた。そのとき、客席から突然ざわめきが広がった。こんな場だというのに、多くの客が無遠慮にスマホを手にし、画面を見ながらひそひそと言葉を交わしている。壇上の二人に目を戻す。小夜も青山も、少しも驚いていなかった。雅臣の胸に、嫌な予感が走る。まずい。雅臣は、すぐにスマホを取り出した。画面を開いた途端、いくつものニュース速報とトレンドが目に飛び込んでくる。中でも、ひときわ目を引いたのは、次の見出しだった。【決裂――長谷川グループ取締役・高宮小夜、辞任を表明!】記事を開く。わずか数行の文章には、一切の迷いを感じさせない強い決意が表れて
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第655話

自分のような年寄りは、とっくに引退すべきなのだ。これからは、若い者たちの番だった。雅臣は笑った。圭介も、ついに手ごわい相手に出会ったものだ。好きなだけ自分で墓穴を掘ればいい。あいつは分かっていないのだろうか。惚れた相手の言葉に心を動かされるのは、男だけだとでも本気で思っているのか?青山は、やはり一筋縄ではいかない男だ。小夜をここまで動かせるのだから。……だが、事態はそれだけでは終わらなかった。小夜が強硬な姿勢でメディアを通じ、長谷川グループの取締役を辞任して同社と決別すると表明したニュースは、瞬く間にネット上で広まり、大きな騒ぎとなった。同じころ、もう一つの話題もトレンド入りした。一枚の婚約写真だった。写真には、クリスタルやダイヤモンド、オーガンジーの花をあしらったピンクのチュールドレス姿の美しい女性が、照明の下で、端正で気品ある男性と抱き合う姿が写っていた。男性は女性の額にそっと口づけている。その表情には、胸を打つほどの深い愛情があふれていた。まるで一枚の絵のような美しさだった。写真は投稿された途端、トレンド上位に躍り出た。コメント欄には、二人の美しさと似合いぶりを絶賛する言葉がずらりと並んだ。ネット上の人々は、ひとしきり二人を褒めたあと、ようやく投稿の見出しに目を通した。そして、同じトレンド欄に並ぶニュースと照らし合わせ、写真の二人が誰なのかを知った。女性は長谷川家の未亡人であり、昨年、国際ファッションウィークで山水をテーマにした衣装を発表して一躍名を上げ、天才デザイナーと称された高宮小夜。男性は、早くから名を知られていたAIの天才・小林青山だった。美貌のデザイナーとAIの天才。その婚約となれば、注目が集まるのも当然だ。話題は長らくトレンド上位にとどまった。壇上での挨拶を終え、婚約披露パーティーの開始が告げられた。少し休んでから招待客への挨拶に回ろうとしていた小夜も、その話題を目にしたらしい。隣を歩く青山へ、笑いながら尋ねた。「この写真、どこで手に入れたの?私たちがドレスを試着しに行った日に撮ったものよね?」青山も笑った。「ああ。店長が撮っているのに気づいたんだ。とてもよく撮れていたから、帰るときにもらっておいた。ちょうどいい一枚が撮れていてね」「本当にきれいね」小夜
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第656話

芝生の会場では、招待客たちが行き交っていた。ネットでは関連ニュースやトレンドワードが飛び交い、大騒ぎになっているというのに、婚約披露パーティーの会場は、少なくとも表面上は穏やかなものだった。小夜と青山がグラスを片手に招待客の間を回って挨拶をすると、耳に入るのは「おめでとうございます」という祝福の言葉ばかりだった。ここにいるのは皆、立場をわきまえた大人たちだ。こんな場でわざわざ水を差すような真似をする者はいない。それでも、雅臣と談笑する小夜や青山には、周囲から探るような視線がいくつも向けられていた――先ほどのニュースを知らない者なら、彼らが和やかに言葉を交わす姿だけを見て、両家の関係は本当に良好なのだと信じてしまっただろう。ついさっきまで、雅臣が妻を伴って息子の元妻の婚約祝いに現れたのを見て、「長谷川家との仲が悪いという噂は、やはり根も葉もない話だったのか」と思っていたのだから。だが、今となっては、誰もその噂を疑っていなかった。長谷川家の人間がその場にいるというのに、小夜はメディアを通じて、長谷川グループの役職から退き、関係を断つと強硬な姿勢で表明した。しかも、まだすべての役職を退き終えてもいないこの段階で、だ。これほどの決裂は、もう取り繕いようがない。一方で、雅臣が今日わざわざ婚約披露パーティーに顔を出したことも、周囲には不可解だった。会場にいる多くの者は、両家の不仲が噂になった時点で、長谷川家が、実権を握る小夜の存在を疎ましく思い、グループから追い出そうとしているのではないかと考えていた。一族の外にいる人間に、本家の大きな権限を握らせておくなど、どう考えても道理に合わない。たとえ亡き圭介の遺言があったとしても、時間が経てば、生きている人間の思惑がそれを塗り替えてしまう。自分たちの莫大な資産と権力を、血のつながらない他人にいつまでも預けておきたい家など、あるはずがない。これまで築き上げてきたすべてを水の泡にするつもりか、と。血縁のない人間なのだ。もし小夜が資産を手にしたまま別の男と再婚すれば、金も権力もそっくり他人の懐に入ってしまう。長谷川家にとっては大損だ――圭介の遺言が公になった当初、世間の大半はそんなふうに考えていた。そして、長谷川家が内輪揉めする様子を、高みの見物を決め込んで眺めていた。ところが
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第657話

さらに言えば。ゲストたちの視線は、小夜の隣で穏やかな微笑みを浮かべる青山へと移った。誰もが内心、深く頷かざるを得なかった。小夜という女は、男を見る目だけは確かだ。どの男も、選りすぐりの逸材ではないか。長谷川家ほどの後ろ盾には及ばないにせよ、青山自身も並の男ではない。卓越した能力を持ち、将来性も計り知れない。何しろ、航空宇宙分野の重鎮である孝志までが、わざわざ足を運んだのだ。青山の後ろ盾も、決して侮れない。そう思うと、ゲストたちは一瞬、心を動かされた。自分の家の、まだ婚約していない娘たちにも、どうすればこんな男たちを選び、射止められるのか、小夜に教えを乞わせたいとさえ思った。だが、少し考えただけで、その考えを打ち消した。そもそも、小夜自身が一筋縄でいく相手ではない。ここに来ている者の多くは、これまで少なからず彼女と関わってきており、彼女が厄介な人物だと知っていた。せいぜい、かつての圭介よりは、越えてはならない一線をわきまえ、やり方がいくらか穏当なだけだ。一見すると物腰の柔らかな女だが、その手腕も気性も決して甘くない。彼女のように華々しくも波乱に満ちた人生を歩み、豊かな経験を積んでいなければ、とても真似できるものではなかった。自分たちの娘が、そう簡単に真似できるはずもない。そう考えると、そんな思いつきはすぐに消えた。それでも、今日ここへ様子見に来た客たちは、ひとつのことを思い知った。小夜が長谷川家と決裂したとしても、彼女は自分たちがうかつに敵に回せる相手ではない。胸の内の打算を、彼らは静かに引っ込めた。会場にいるのは、この業界で長年もまれてきた海千山千の者たちだ。腹の中でいくつもの思惑を巡らせながらも、小夜と青山が挨拶に回るたび、満面の笑みで「おめでとうございます」と祝福を贈った。芝生の会場は、すっかり和やかな空気に包まれていた。いくつもの波乱はあったものの、婚約披露パーティーは無事に始まった。一通り挨拶を終えると、小夜はゲストたちに、このリゾート施設でごゆっくりお過ごしくださいと伝えた。ここは一か月間貸し切ってあるため、パーティーが終わってもしばらく滞在できるのだ。その間、客たちには好きなように楽しんでもらえばいい。青山にひとこと断り、小夜は奥へ下がり、少し休んでから動きやすいドレスに着替えて戻る
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第658話

中に足を踏み入れた佳乃は、思わず立ち止まった。外観は和風の造りだったが、内部は二階分が吹き抜けになっており、頭上の屋根まで見渡せた。ところが、室内はがらんとしていた。壁には扇形のステンドグラスの窓が二つ嵌め込まれているだけだった。沈みかけた夕日がステンドグラスに差し込み、七色の光を放っていた。何もない広い室内に広がるその光は、異様なほど美しく、ひときわ目を引いた。だが、その光以上に目を奪うものがあった。ステンドグラスの下に立つ、一人の男の姿だった。背中しか見えなかった。肩まで届く、金褐色の巻き髪。画家の目を持つ佳乃には、背中と骨格だけで相手の性別が分かった。男だ。それも、体つきも骨格も見事な異国の男だった。きっと、顔立ちも素晴らしいのだろう。佳乃は心の中でそう思った。邪魔をしてはいけないと、佳乃は入り口で立ち止まり、そっと顔を覗かせた。がらんとした室内に視線を巡らせた……何もない。本当に何もなく、薔薇の花は一輪も見当たらなかった。それなのに、香りはこれほどはっきり漂っていた。佳乃の視線は、再び男へ戻った。黒いロングコートをまとい、金褐色の巻き髪を肩に散らした男は、ステンドグラスの下で背を向け、沈みゆく夕日を眺めていた。夕日の光がその輪郭を金と赤に縁取り、優雅で謎めいた姿を浮かび上がらせていた。空気に満ちる香りは、次第に濃くなっていった。佳乃は少しぼうっとした。なぜか、男の背中をじっと見ていると、どこかで見たことがあるような気がしてきた……どこで見たのかしら?だが、彼女の記憶に、このような背中を持つ人物はいなかった。これほど美しい背中なら、一度見れば忘れるはずがなかった。佳乃は額に手を当てた。香りがますます濃くなり、少し眩暈がした。「入ってこないのか?」突然、低く、艶のあるハスキーな声が響いた。あまりにも馴れ馴れしい口調で、まるで二人がずっと昔から知り合いであるかのようだった。……いい声。佳乃はその馴れ馴れしさには気づかず、声の心地よさにばかり気を取られた。額に手を当てたまま、ゆっくりと顔を上げた。ステンドグラスの下にいた男は、いつの間にか振り返っていた。その背後から、橘色の夕日が差し込んでいた。あまりにも眩しかった。逆光で顔は見えず、佳乃は目を細めた。見えるのは、かろ
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第659話

夕日は、金と赤に燃えるような光を放っていた。ステンドグラスを通した色とりどりの光が、がらんとした室内をきらめきで満たしていた。だが、そこにはもう人影はなかった。男も女も、すでに姿を消していた。そのとき、ステンドグラスの窓が一枚、突然外から押し開けられた。そこから深い赤の服を着た人影が身軽に飛び込み、部屋の隅へ向かった。人影が足を止めると、深い赤のスラックスの裾には、色とりどりの染みが派手に飛び散っていた。彼女は腰をかがめた。室内に残された、たった一つのものを拾い上げた。一輪の黒薔薇だ。彼女は黒薔薇を手の中で弄びながら、空気に残る濃厚な香りを嗅いだ。指先で軽く鼻を覆い、しばらくして低く笑った。「ああ、あれが……コルシオってやつ?」――なかなか面白い男じゃない。……屋外の会場は、相変わらず賑わっていた。一方、モニタールームには息が詰まるような重苦しい沈黙が漂っていた。十数人が室内に詰め、疑わしい箇所がないか、監視カメラの映像を次々と切り替えながら必死に探していた。青山と雅臣も同じだった。画面が切り替わる音だけが響き、誰も口を開かなかった。やがて、張り詰めた静寂を破って勢いよく扉が開いた。小夜が入ってくるなり雅臣の胸ぐらを掴み、険しい顔で低く怒鳴りつけた。「あなたたち、いったい何を企んでいるの!」必死に怒りを抑え込んでいる。――来るな、帰れと何度も言ったのに!言うことを聞かないなら、せめて佳乃を守り切ればいいものを。それなのに、目の前で連れ去られるなんて!わざと見逃したのではないと、一体誰が信じるというの!「あなたは彼女のそばにいたんでしょう!どうして気づかなかったのよ……」小夜は怒りに目元を真っ赤にし、俯いて表情を見せない雅臣を睨みつけた。歯を食いしばり、声を押し殺すように言った。「彼女はあなたの妻よ。連れ去られたらどうなるか、分からないはずがないでしょう……あなたたち、正気なの!?」圭介と一緒に狂ってしまったの!?こんなときに佳乃を連れ去れる人間は、たった一人しかいない!コルシオは、もう来ているのだ!「あいつは狂人よ!」小夜は低く唸るように言った。「……分かっている」雅臣はようやく口を開いた。声はひどく掠れていた。ゆっくりと顔を上げる。端正な顔に感情は浮かんでいなか
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第660話

その責任転嫁の言葉を聞いて、小夜は耳を疑った。小夜の目は、たちまち真っ赤に充血した。今にも怒りを爆発させそうな小夜を見て、雅臣はすぐに口を挟み、怒りの矛先を逸らした。「あいつが言い出したことだ」あいつ、とは誰のことか。この場にいる三人には、言うまでもなく分かっていた。小夜の胸がぎゅっと詰まった。喉元までこみ上げた怒りが、吐き出すこともできずに引っかかる。――あの圭介のクソ野郎!あいつ、正気なの!?そのとき、雅臣は突然後ずさりし、掴まれていた胸ぐらを引き戻した。小夜が怒鳴り散らす前にモニタールームを出ていき、監視カメラの映像すら見ようとしなかった。まるで、この一言を告げるためだけに、ここで待っていたかのようだった。「まあまあ、深呼吸して」青山は小夜の背中をそっと撫で、穏やかな声で言い聞かせた。「心配しないで。もう人を外に出して探させている。この件は君のせいじゃないし、気に病む必要もない。長谷川家がどうしても来ると言い張った結果なんだから……」「まずは人探しよ。山荘の中だけでなく外も調べて。怪しい車両も確認してちょうだい」人を一人連れたまま、そう簡単に逃げ切れるはずがない。「分かった」青山は頷き、そばに控えていた神崎執事に向き直って告げた。「宴会は止めないで。騒ぎを起こさず、予定どおり招待客にはここに一泊してもらうよう手配して。車庫と出入口を見張って……」青山は次々と的確な指示を出した。小夜が焦りのあまり見落としていた点まで、すべて網羅されていた。「安心して」指示を終えると、青山は再びモニターを睨みつけている小夜のもとへ戻り、声をかけた。「雅臣さんがあれほどあっさり立ち去り、監視モニターさえ見ようとしなかったのは、事前に手はずが整っている証拠だ。あの人たちが佳乃さんを危険にさらすはずがない。雅臣さんの妻で、圭介の母親なんだから。決して無謀な真似はさせないはずだ」いくらなんでも、そこまで見通しが甘いわけではないだろう。「分かってる」小夜にも分かっていた。だが、不安は消えなかった。今回は本当に肝を冷やしたのだ。長谷川家が裏で何をするつもりなのか、まったく読めない。ついに佳乃まで巻き込まれてしまった。いや、佳乃は実際にはずっとこの騒動の渦中にいたのだ。それでも、これまでは大
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