All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 701 - Chapter 710

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第701話

壁のランプが一つだけ点された薄暗い部屋の中。佑介の言葉にまだ呆然としていた小夜だったが、突然、肩を強く押された。次の瞬間、視界が大きく揺れ、柔らかいベッドの上に仰向けに倒れ込んでいた。長い髪が真っ白な枕の上に散らばる。完全に頭が真っ白になった。体も強張る。上に覆いかぶさってきた佑介は、彼女の顔の横に両手をついた。前髪から滴る水滴が小夜の顔に落ち、その冷たさにビクッと体を震わせる。ハッとして上にいる彼を突き飛ばそうとしたその時、濡れた頭が不意に彼女の首元へとうなだれ込んできた。その動きに、小夜は思わず手を止める。佑介のくぐもった声が、熱を帯びて耳元に響いた。「お姉さん、僕、もう何日も寝てないんです。すごく眠いから、話は明日、父さんに会ってからにしてくれませんか?」ひどく眠たげで、甘く絡みつくような声だった。「それとも、お姉さん、別のことがしたいんですか?いいですよ。すごく眠いですけど……痛っ!」佑介が痛みに声を上げた。小夜は無表情のまま、彼の頭に振り下ろした拳を引っ込めた。そしてチャリンと銀の鎖の音を響かせながら、彼をベッドから蹴り落とし、怒鳴りつけた。「このクソガキ、お姉ちゃんに向かってなんて口の利き方してんのよ!」姉をからかうなんて、いい度胸ね!あんなにいい子だったのに、あの実の父親と知り合ってどれくらい経つっていうのよ。すっかりグレちゃって、全部コルシオのせいだわ!良いことを身につけるのはあんなに大変なのに、悪いことに染まるのはあっという間なんだから!一体どうなってるのよ!考えれば考えるほど腹が立ってきた。ベッドの下からガサゴソと身じろぎする音が聞こえ、小夜は怒気を含んだ声で言い放った。「上がってこないで!」実際のところ、コルシオに自分の動きがバレたことへの恐怖は別として、自分を縛り付けた佑介に対する恐怖心はそれほど湧いてこなかった。普段の素直で従順な彼を見慣れていたし、すっかり姉としての立場が板についていたせいで、どうしても彼が自分に危害を加えるとは思えなかったのだ。何しろ、この義理の弟だけではない。いつも自分を騙そうと企んでいたあのどうしようもない実の弟でさえ、彼女は力ずくでねじ伏せてきたのだ。「弟」という生き物を恐ろしいと思ったことなど一度もない。彼女の怒気を感じ取ったのか、ベッド
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第702話

どのくらい時間が経っただろうか。小夜もいつの間にかまどろみの中に沈んでいた。目を覚ました時、部屋には彼女一人しかおらず、佑介の姿はなかった。彼女は少し痺れた腕を揉んだ。ひどく気が重かった。佑介の言葉からすれば、コルシオもここにいるはずだ。一体どこに身を潜めているのか……昨夜帰らなかったことで、青山も絶対に異変に気づいているはずだ。早く助けに来てくれることを祈るしかない。コルシオと顔を合わせて、無事で済むとは到底思えない。何しろ前回は、肩と手のひらを撃ち抜かれたのだから。思い出すだけで傷口が疼くような気がした。あいつは完全に狂っている!対話など通じる相手ではない。そんなことを考えていると、ふと、自分の手に違和感を覚えた。慌てて手元を見て、彼女の血の気が引いた……青山から贈られた婚約指輪がない!その時、ガチャリとドアが開いた。佑介が食事を乗せたお盆を持って入ってきた。深刻な睡眠不足で昨日まで憔悴しきっていた顔は、一晩ですっかり血色を取り戻していた。目の下のクマはまだ消えていなかったが、彼女を見るとパッと明るい笑顔を見せた。「お姉さん、起きたんですね。まずは朝ごはんを食べてください」小夜は答えず、左手を掲げて険しい顔で問い詰めた。「私の指輪はどこ?」佑介は笑顔を崩さずに言った。「知りませんよ」「佑介!」小夜は低く鋭い声を出した。「冗談を言ってる場合じゃないのよ!」佑介の顔から少しだけ笑みが消えた。しばらく唇を引き結んだ後、不機嫌そうに言った。「たかが指輪一つでしょう。お姉さんが好きなら、あれよりずっと良いものを山ほどプレゼントしてあげますよ」「あれじゃなきゃダメなの!」小夜の顔色が沈んだ。部屋に静寂が落ちた。佑介はそれ以上何も言わず、長いまつ毛を伏せて緑の瞳を半分閉じ、無表情になった。だが、小夜はどういうわけか、目に見えない強烈な重圧を感じていた。その違和感について考えるよりも早く、目の前の青年が突然笑い出した。「お姉さん、そんなに怒らないでください。朝ごはんを食べ終わったら、指輪は返してあげますから」さっきの威圧感は気のせいだったのか?小夜は眉をひそめ、足首を少し揺らして銀の鎖を指差した。「まずはこれを外して。ベッドの上じゃ食べにくいわ。顔も洗いたいし」「焦らないでください、お姉さん
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第703話

露見することすら恐れていないのか。だが、この行動のおかげで、彼女は完全に確信した……佳乃に使われていた香水には絶対に問題がある。昨日、真理と話し合った可能性のうちの一つ――体に悪影響を及ぼす作用があることに間違いない。そうでなければ、こんな時期にわざわざ厄介ごとを起こすわけがない。頭がおかしくなったとしか思えない。佑介が片付けを終えて部屋を出た後、どこからか奇妙な形をした車椅子を押して戻ってきた。それを見た小夜の表情はついに限界を迎え、引きつった。「これはどういう意味?」ただ人に会うだけなのに。ここまで大げさにする必要があるの?佑介は緑の瞳を伏せ、少し申し訳なさそうに言った。「父さんが言っていたんです。お姉さんはすぐに逃げ出すから、最初は足を使い物にならなくするつもりだったって」そう言うと佑介の瞳は一瞬暗く沈み、やがてまた笑みを浮かべた。「お姉さんの足が折れたって、僕は嫌いになりませんし、一生面倒を見てあげますよ。でも、お姉さんは絶対に嫌でしょうし、僕だってそんなお姉さんを見たら悲しいですからね」小夜は絶句した。そんな恐ろしいことを、笑顔で言わないでくれる?足を使い物にならなくするって?おそらく、イタリアの教会での偽装結婚式の最中、自分が圭介と一緒に逃げ出したことへの腹いせだろう。あの男は正真正銘の変態だ!彼女はそれ以上文句を言うのをやめた。一時的に行動を制限されるのと、両足を折られるのなら、どちらを選ぶべきかくらい分かっている。それでも、やはり気分は鬱々とした。手首の銀の鎖は外されたが、銀の足枷はそのまま足首に残され、今度は車椅子の底から伸びる別の鎖に繋がれた。両手首も車椅子の肘掛けにしっかりとロックされ、腰も黒いベルトで背もたれに固定された。身動き一つ取れない。どれだけ逃げるのを警戒しているのよ。佑介に車椅子を押されて部屋を出る。外は円形の吹き抜けの回廊になっており、彼女の部屋は回廊の途中にあった。そこから見下ろすと、一階のホールはまばゆいシャンデリアの光に照らされ、一面に黒薔薇が敷き詰められていた……コルシオは、どれだけこの花が好きなのだ。どこへ行くにも持ち歩く気らしい。相変わらず、異常なほど華美で悪趣味だ。そんなことを考えていると、一階のホールの扉が開くのが見えた。見
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第704話

書斎のドアが開いた。広大な書斎も同じように黒薔薇で埋め尽くされていた。深紅のカーテンが引かれて外の陽光を遮り、部屋全体が薄暗い照明に包まれている。濃厚な花の香りが漂う中、空間は深紅と漆黒に支配されていた。理由のない圧迫感が重くのしかかる。車椅子が深紅の絨毯の上を音もなく滑り、部屋の中へと入っていく。佑介は部屋の外で止められた。コルシオによく似たその顔に、微かな緊張が走る。「父さん」「俺のことが信じられないのか?」コルシオは流し目で彼を見た。全く同じ色をした二組の緑の瞳がぶつかり合い、一瞬の静寂が落ちた。やがて佑介の眉間のシワが緩み、彼は身をかがめて小夜の耳元で囁いた。「お姉さん、何かあったら僕を呼んでください」小夜は無言だった。書斎のドアが閉まる。部屋の中にはコルシオと小夜の二人きりになり、しばらく誰も口を開かなかった。コルシオの姿を見た瞬間から、小夜は一言も発していなかった。木偶人形のように車椅子に静かに座り、絨毯の敷かれた部屋をゆったりと歩き回る男の姿を目で追うだけだ。肘掛けにロックされた指が少しずつ握り込まれ、指先が白くなっている。彼と冷静に話し合えるような関係ではないことくらい、自分が一番よく分かっている。彼女はコルシオの最も恐ろしい一面を知っているのだ。最も常軌を逸した姿を。相手に自分と対話する忍耐力があるとも思えない。だからこそ、小夜には理解できなかった。なぜわざわざ自分に会いに来たのか。佑介に免じて命だけは助けるにしても、そのまま放置しておけばいいではないか。それとも、本当にこれまでのツケを清算しに来たのか?あの古城で自分がコルシオに対して取った言動、わざと彼を騙し、弄んだことを思い出し、小夜は絶望した。こうなると分かっていれば。いや、それでも同じことをしただろう。あの時はそうするしか道がなかったのだから。今はただ、彼の中で佑介がどれほどの重みを持っているかに賭けるしかない。だがそれでも、小夜はほとんど希望を持てなかった。そもそも、コルシオにまともな心などあるのだろうか?その時、部屋の中を歩き回っていた男が突然立ち止まった。その動きに小夜の意識が引き戻され、彼女の瞳は男の背中を食い入るように見つめた。すると、ひどく低い声が響いた。「ここだ」小夜は首を傾げた。
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第705話

はっきり言って、コルシオは自分を弄んでいるだけだとしか思えなかった。おそらく、どんな絵を描こうとも彼が満足することはない。結果は変わらないのだ。あの眼差しを見れば、最初から足を奪うつもりなのは明らかだ……この男の残忍さを、彼女は微塵も疑っていなかった。「描かないのか?」彼女が返事もせず、身動き一つしないのを見て、コルシオはステッキの仕込み銃を引き抜き、彼女の膝へ向けた。「なら、諦めたとみなす」「待って!描くわ!」小夜は額に冷や汗を浮かべ、無理に笑みを作った。「手が動かせないの」彼女は肘掛けにロックされた両手を軽く揺らしてみせた。ガチャリと手首の錠が外される。コルシオの緑の瞳は冷酷なままだった。「描け」……小夜は絵筆を握り、真っ白な画用紙を見つめた。頭の中も真っ白だ……何を描けばいい?彼女は視線の端で横を窺った。コルシオは斜め前に座り、椅子の背もたれに深くもたれかかっていた。銀の拳銃を仕込んだ黒檀のステッキを膝の上に置き、気怠げにまぶたを半分閉じて仮眠を取っているかのようだ。こちらには見向きもせず、彼女が何を描いているのかなど全く興味がないらしい。それも当然だ。どうせ結果は最初から決まっているのだから。足を奪う前に、少しでも長く恐怖と苦痛を味わわせようという腹だろう。正真正銘の変態だ。小夜は唇を真一文字に結び、伏せた長いまつ毛の奥で黒い瞳を暗く沈ませた……どうせ結果が変わらないなら、命乞いなど無意味だ。それに、こんな忌まわしい変態にすがるなんて死んでもごめんだ!笑い者になるだけだ。どうせ足が奪われるなら、この男にも絶対に一泡吹かせてやる!彼女は、何を描くべきか決めた。絵筆が動き出す。黒と白の顔料が画用紙の上で滲み、広がっていく。絵に集中し始めたその時、横から突然、男の気怠げな声が響いた。「どうやって気づいた?」何のこと?小夜にはすぐにはピンとこなかった。コルシオは短く言った。「香水だ」小夜は少し驚いた。あの資料を手に入れた以上、彼がそのことに触れてくることはないと思っていたからだ。絵筆を動かしたまま、彼女は平静な声で答えた。「匂いで分かったの。その後はただ、あなたみたいな人間が、ろくなことをするはずがないって本能的に思っただけ」刺々しい言い草だった。どうせこ
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第706話

思考を無理やり中断させられ、絵の世界から引き戻された小夜は、本能的に苛立ちを覚えながらも、男の言葉に気を引かれた。好奇心を抑えきれずに尋ねる。「教えてくれるの?」コルシオは唇の端を吊り上げた。「なぜだ?お前は賢いはずだろう」「……」こうなることは分かっていた。小夜は無表情のまま、手に持った絵筆をキャンバスに強く走らせた。しかし、コルシオの様子を見る限り、絵が完成するまでは手を出してこない確率が高そうだった。なぜ彼がこんな話を喜んで教えてくれるのかは分からないが、彼女自身もあの香水に対して疑問を抱いていたのは確かだ。筆を止めないまま。小夜は自分から口を開いた。「黒薔薇に残っていた香水の成分を分析したわ。あれは一種類の香水だけが使われていたわけじゃない」可能性があるなどと濁さず、確信を持った口調で言い切る。返事はない。コルシオは気怠そうに背もたれに体を預け、目を閉じたまま何の反応も示さない。彼女の推理が合っているのかどうか、これでは全く分からない。小夜は視線を戻した。そして話を続ける。「成分表から推測すると、主要な成分の配合比率によって、人体への影響は二極化するわ。つまり、有益なものになるか、それとも健康を害するものになるかよ」彼女は言葉を切った。数秒の静寂の後、コルシオはスッと緑の瞳を開き、冷ややかな視線を向けたまま淡々と言った。「続けろ」合っていたということか?絵筆を動かし、キャンバスの上で軽やかに線を引いていく。この絵にはそれほど多くの思考を割く必要がなかったため、小夜は深く息を吸い込んだ。ここに連れて来られて調香による検証はできなかったが、様々な服飾デザインを手掛ける中で、もともと伝統工芸や香りにも興味があった彼女は、珠季から調香の技術も教わっていた。そのため、この分野の知識は一通り持っている。今は実物を使って調香する条件は揃っていないが、頭の中で大まかなプロセスをシミュレーションし、これまでの経験から起こりうる反応を予測することはできる。絵筆が止まり、カサカサという音が消えた。彼女は軽く目を閉じ、睫毛をそっと震わせた。そして、しばらくしてから目を開き、静かに口を開いた。「……依存性が出るわね」それが、予測しうる可能性の中から彼女が導き出した最悪の結末だった。相手がコルシオであれば、間違
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第707話

目の前の絵をしばらく見つめた後、小夜はふうっと大きく息を吐き出し、絵筆をそっとイーゼルに置いた。来るべき時が来たのだ。彼女はあえて時間を稼ごうとはしなかった。絵が完成すると、目を閉じてマホガニーの椅子にもたれかかり、しばらく動かずにいたコルシオに向かって、落ち着いた声を投げかけた。「できたわ」絵が完成したのだ。コルシオがゆっくりと瞼を持ち上げ、澄んだ緑の瞳を向けてきた。彼は小さく笑う。「もう少し引き延ばさないのか?」なにせ、この絵が彼の気に入らなければ、小夜の両足は完全に使い物にならなくなるのだから。お互いに分かっていた。コルシオが満足することなど、最初からあり得ないということを。これは彼女をいたぶるための口実に過ぎない。どうせこうなる運命なのだ。小夜は特に返事もせず、車椅子を横へ動かして背後の絵を見せると、口をつぐんだ。コルシオも気にする様子はない。彼は大股でイーゼルの前に歩み寄り、黒檀のステッキの銀製ハンドルを握りしめた。その先端には銀の拳銃が仕込まれている。その動きに、小夜の心臓が再び跳ね上がった……どれほど覚悟を決めていようとも、この状況で全く恐怖を感じないわけがない。両足がかすかに痙攣しているのを感じ、彼女は両手で膝を押さえつけ、必死に自分を落ち着かせながら最後の審判を待った。コルシオが絵を見つめている。キャンバスに描かれていたのは、冬の風景だった。枯れ果てた木々の中に西欧風の尖塔を持つ小さな城がそびえ立ち、葉の落ちた枝には無数の巣が作られ、羽を広げて静かにその時を待つ大量の鴉が群がっている。キャンバスの隅では、一羽の瀕死の鴉が地面に倒れ、その真っ黒な瞳で灰白色の空を見上げていた。息が詰まるほど陰鬱な絵だった。一瞥しただけで、コルシオは銃口を小夜の眉間に向けた。表情一つ変えず、その緑の瞳の奥はどこまでも冷え切っていた。「まだあいつの真似をしているのか。いい度胸だな」これは小夜の絵ではない。コルシオは佳乃の画風を熟知していた。その筆致やスタイルは彼の心に深く刻み込まれており、一目見ただけで誰の画風であるか判別できたのだ。彼の推測通りだった。コルシオを激怒させると分かっていながら、小夜はあえて佳乃の画風を模して、この絵を完成させたのだ。彼を簡単には思い通りにさせたくないという反発心があ
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第708話

彼は佳乃の絵を理解している――小夜にはそれが分かっていた。コルシオは何も言わなかった。深く沈んだ緑の瞳でキャンバスを見つめ、長い間その場から動かなかった。突然、彼の唇の端が微かに吊り上がった。美しく整った顔立ちは陰鬱さと冷徹さに満ち、彼は低く呟いた。「俺とあいつの間にあったものを、お前ごときに何が分かる」指が力を込め、引き金が引かれた。二発の銃声が響き渡る。……書斎のドアが勢いよく開き、銃声を聞きつけて駆け込んできた佑介は、車椅子の上でぐったりと倒れ込んでいる小夜の姿を真っ先に捉えた。父親と瓜二つの顔は同じように陰鬱と冷徹さに染まり、緑の瞳に怒りの炎が燃え盛っていた。「何をしたんだ!」コルシオは銃をステッキに納めると、表情一つ変えずに駆け寄ってきた佑介の脇を大股で通り抜け、冷ややかな一言だけを残した。「あいつを見張っておけ。次は命はない」「お姉さん!」佑介は車椅子へ駆け寄り、小夜の白いシャツの左肩部分に鮮やかな血の赤が広がっているのを見て顔を青ざめさせ、怒りを押し殺しながら叫んだ。「医者だ!医者を呼べ!」小夜は何か言おうとしたが、力が出なかった。額にびっしりと冷や汗を浮かべながら、視線はどうしても脇にあるキャンバスに向いてしまう。そこには、はっきりと焦げた弾痕が残されていた。コルシオが放った二発のうちの一発は、彼女の肩を撃ち抜いていた。かつて古城で撃たれた位置と全く同じ場所であり、それは明確な警告だった。だが彼女は、心のどこかで微かな安堵を覚えていた。コルシオがどんな理由で思い直したのかは分からないが、彼の当初の予定通り両足を奪われることは避けられたのだ。ある意味、今回は見逃されたと言ってよかった。本当に、気まぐれで、触れる者を蝕む毒花のような男だ。だが、小夜が何よりも気になっていたのは、絵に向けられたもう一発の銃弾だった……それは、キャンバスに描かれた雪原の中で瀕死になっている一羽の鴉の胸を正確に撃ち抜いていた。そこに残されたのは、息絶え絶えの圧倒的な死の気配だった。あの日から、コルシオはすでに長谷川家との決着をつける覚悟を決めていたのだろう。どちらか一方が死に絶えるか、あるいは共倒れになるまで終わらない破滅の道を選ぶ――この男は完全に狂っていた。小夜は震える指先で、キャンバスの上で穴の空
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第709話

「ほら、手も足も取られてないし、こうして息もしているんだから、もう大丈夫よ」「……すごく痛いです」今度は返事があった。青年は泣いているのか、声はひどくしゃがれていた。それでも、かすかに響く声だった。小夜は痛みをこらえながら、少しでも近づこうと体を動かした。だが、肩の傷に急激な痛みが走り、そこで動きを止めるしかなかった。「ごめんなさい、お姉さん。僕、お姉さんを守れると思ってたんです。でも、まさかあいつが……ごめんなさい」それ以上、佑介は言葉を続けられなかった。「今ので分かったでしょう」小夜は、かえって冷静な声で言った。「佑介、あの男はあなたを壊す。あなたの周りの人間まで、みんな壊してしまう。あの人は、父親として誰かを守れるような人間じゃないのよ」「……分かっています」沈んだ青年の声を聞いているうちに、小夜の胸の奥から、突然苛立ちがこみ上げてきた。「分かっているのに、どうしてまだあの人についていくの?あなたは……」「お姉さん」佑介が小夜の言葉を遮った。ベッド脇にうずくまっていた黒い影がゆっくりと起き上がり、彼はベッドの端に腰を下ろした。「僕には、もうどうしようもないんです。居場所なんて、どこにも残っていません」小夜は声を荒らげた。「あなた、まだ若いし、人生はこれからじゃない。何が『居場所』よ!」「違うんです、お姉さん」佑介はうつむいた。暗闇の中で、その声は低く、押し殺されていた。「僕にはどうしようもないんです。だから、僕を信じてくれませんか。お姉さん」小夜は深く息を吸った。もう我慢できなかった。肩の傷など忘れたように勢いよく身を起こし、ベッドの端に座っていた佑介の腕をつかむと、力任せに引き寄せた。「今のあなたを見て、私に……」そこまで言いかけて、小夜は異変に気づいた。つかんだ腕が震えている。肌には異常な冷や汗が浮かび、耳元にはかすかなうめき声が届いた。空気には、さっきまでなかった濃い血の匂いが混じっている。小夜の体がこわばった。「あなた……」「大丈夫ですよ、お姉さん。ちゃんと休んでください」佑介はそう言って小夜の手を振りほどき、部屋を出ようとした。小夜は反射的に手に力を込めた。青年の袖口をつかんで引き開き、窓の隙間から差し込むぼんやりとした月明かりの下で、その肩を見た。佑
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第710話

赤と黒で彩られた書斎では、医師やスタッフが慌ただしく行き来していた。白衣の人々が動き回る中、佑介はその場に立ち尽くしていたが、彼の目に映っているのは、小夜の白いシャツの左肩に広がる血の赤だけだった。赤い。目を焼くような血の色だった。その鮮やかな赤が、佑介の目の奥にまで流れ込み、視界を覆っていく。押し寄せる波にすべてをのみ込まれるように、その赤以外のものは見えなくなり、周囲の音も遠ざかっていった。思考までもが、ばらばらに崩れていく。小夜をどうやって部屋まで運び戻したのか、佑介はもう覚えていなかった。我に返ったのは、左肩に走った裂けるような痛みのせいだった。彼女と同じ場所から血がにじみ出し、濃い血の匂いが、手にした銃から漂う硝煙の匂いをかき消していく。痛い。ひどく痛い。だがその瞬間、痛みが混乱した頭を現実へと引き戻した。胸を押しつぶしていた重苦しさも、ほんの少しだけ軽くなった気がする。ようやく、かすかに息ができた。痛みは、時間がたつにつれて激しくなっていった。痛い。お姉さんは、自分のせいであんなに苦しんだ。自分があの男の言葉を信じてしまったせいで……そのせいで、お姉さんを傷つけてしまった。どうして僕は死なないんだろう。痛い。銃弾を受けたのは肩のはずなのに、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。心臓が壊れて止まってしまったかのようで、どれだけ胸を押さえても鼓動を感じ取れない。意識は再び、泥のような混乱の中へ沈んでいった。朦朧とする中で、小夜の姿が見えた気がした。彼女が何かを話しかけてくる。自分も、何かをたくさん答えたような気がする。でも、違う。本当は、そんなことを言いたかったわけじゃない。自分は何を伝えたかったのだろう。佑介は胸を強くつかみ、苦痛に耐えかねて声を漏らした。「お姉さん、僕はいったいどうすれば……」死んでしまえば、この痛みから解放されるのだろうか。それとも……頭の奥底から、無数の黒い泥が湧き上がってきた。視界をふさぎ、息の根を止めようとする。心臓の鼓動さえ、完全に止まったようだった。混乱の中で、冷たくて優しいものが頬に触れた。遠くから誰かの声が聞こえ、どうにか耳へ届かせようと響いている。だが、何を言っているのかは、はっきり聞き取れない。何かを約束させられている気がした。お姉さんが言
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