All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 711 - Chapter 720

730 Chapters

第711話

佑介が明日になっても、彼女への約束を忘れずにいてくれることを願うしかない。両手で頬を軽く何度か叩き、混乱した思考を引き戻す。足首には銀の錠がかけられており、ベッドから降りることはできない。彼女は肩の傷を庇いながらベッドの端に丸まり、少し眠ることにした。とにかく休まなければ。怪我のせいか、こんな状況でも夜はぐっすりと眠れた。目を覚ますと、やはり部屋に他の誰の姿もない。時計もないため時間は分からず、カーテンの隙間から漏れる陽の光で判断するしかなかった。もう昼間だ。コルシオは不在で、佑介もどこへ行ったか分からない。だが、昨夜の一件があったせいか、足首の銀の鎖は随分と長く伸ばされており、ベッドから降りて部屋の中を歩き回れるようになっていた。彼女は窓際へ歩み寄った。窓を開けて外を覗き込み、その場で呆然と立ち尽くした。二階から見下ろすと、そこはそれほど大きくない一軒の邸宅であることが分かった。彼女を驚かせたのは、見渡す限りその邸宅以外に建物がなく、遠くには果てしなく続く緑深い山林が広がっていたことだ……一体、どこの山奥へ連れてこられたというのか?どうりで。連れ去られてから丸一日が経つというのに、誰も助けに来ないわけだ。そしてすぐに、一つの疑問が湧いた。光が先手を打って準備を整えていたとはいえ、コルシオの国際的な手腕をもってすれば、国内に身を潜めること自体は不思議ではない。だが、彼女を監視していた目も少なくなかったはずだ。彼女を連れ去って、その監視網をそう簡単に振り切れるものだろうか。なぜ未だに何の動きもないのか……そこまで完璧に隠蔽されているというのか?果てしなく続く山林を見つめ、小夜は沈黙した。だがすぐに、その理由が分かった。洗面を済ませて出てきた彼女が窓際に立ち止まった時、不意に背後でドアの開く音がした。佑介が戻ってきたのだと思い、振り返って口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込み、反射的に眉をひそめた。「私を見て驚いた?」若葉が笑みを浮かべて入ってきた。……「食べないの?毒でも入っているとでも?」二人の女はテーブルを挟んで向かい合っていた。若葉はそう言いながら、お盆に乗った食事を小夜の方へ押しやり、床を引きずる銀の鎖へチラリと視線を落として、薄ら笑いを浮かべた。小夜は動かなかった。驚きは
Read more

第712話

聞いていて吹き出しそうになった。小夜が何も言わずにいると、若葉は話を続けた。「それにしても、思いがけないことばかりね。あの長谷川佑介があなたに気があって、命を助けてくれるなんて。あなたって、本当に運がいいわね」言い終えると、彼女の顔が微かに歪んだ。瞳の奥に嫉妬の炎が揺らめく。小夜が運に恵まれているだけでなく、彼女がずっと見下し、気にも留めていなかったあの佑介――圭介が忌み嫌っていた弟が、まさかコルシオとそんな関係にあったなんて。それほど強大な背景を持っていたなんて!その事実を知った時、彼女は悔しくてたまらなかった。なぜ他の人間ばかりがそんな幸運に恵まれるのか!最初から知っていれば、あんなふうに無視したりはしなかったのに。どいつもこいつも、私を騙して!それに、なぜ私だけがこんなに必死に努力して、あがき続けなければならないの。どうやったって、生まれ持った家柄には勝てないなんて――相沢家だってそれなりに裕福で権力はあるが、そんなものでは全然足りない。到底及ばないのだ!しかも、しかも……彼女は目を閉じ、渦巻く嫉妬と憎悪を隠した。どうせ小夜はもう終わりだ。あのコルシオが本当に彼女を許すと思っているのか?海外でのあの騒動で、コルシオはかなりの面子を潰されたのだ。それ以外のことを抜きにしても、ここへ連れてこられてたった一日で、見張りを怠ったばかりに銃弾を浴びる羽目になったじゃないか。そう考えると、若葉の機嫌は少し良くなった。彼女は再び笑みを浮かべた。彼女の言葉を聞いて、小夜は眉をひそめた。だが、佑介の『気がある』という言葉に引っかかることはなく、ただ心底呆れたように言った。「あなた、本当に狂っているわ」……彼女が知っている限りのこと。以前、青山から、若葉は圭介が生きていることを知っていながら黙っているのだと聞かされていた。つまり、あの二人の間には何らかの密約がある可能性が高い。だが、その上で彼女は長谷川グループから提供された多額の資金を使って、プロジェクトで不正を働いているのだ。単なる野心という言葉では片付かない。彼女は犯罪のボーダーライン上で危険な火遊びをしているようなものだ。しかも今、彼女はコルシオとも裏で繋がっていたのだ。今の状況を見る限り、コルシオは圭介が生きていることを知らない可能性が高
Read more

第713話

突然、何の発作だろうか。若葉の唐突な狂態に、小夜は思わず吹き出しそうになるほどの滑稽さを感じた。なんとか笑いをこらえ、ただ心底呆れ果てた視線を彼女に向けた。「あなたとあいつの事情なんて、私の前でわざわざひけらかさなくていいから。あんな男、欲しいなら勝手に持っていけばいいじゃない。そんなにあいつのことが好きなら、もっとしっかり手綱を握っておきなさいよ!毎日ストーカーみたいに私に付きまとって監視してくるの、いい加減に止めさせてくれない?そうしてくれたら、心底感謝するわ」小夜は心からうんざりしていた。圭介のどこがいいというのか?こっちは散々痛い目を見て学んでいるのだ。もう二度とあんな苦痛は御免だ。他人の目にはどれほどの宝に見えようと、欲しい人間が持っていけばいい。私には微塵も必要ない!ましてや、あんな狂人など!圭介をちゃんと管理できる人間がいればいいのにとさえ思っている。そんな神業ができる人間がいるなら、生き神様として拝んでやりたいくらいだ!だが明らかに、若葉にはその器はない。少なくとも現状、彼を全く管理できていないではないか。彼が死を偽装していることまで知っているくらいなのだ。二人の間にどれほどの真実の愛があるかはさておき、それほど重大な秘密を共有しているのなら、少しは愛情があるのだろう。だったら、圭介が人を遣って自分を監視していた時、どうして「彼に最も愛されている」はずの若葉がしゃしゃり出てきて止めなかったのか?少しは反発してみせればよかったのに。彼のよそ見は平気で見過ごせるほど、心が広かったとでもいうの?それなら、どうしてこんなヒステリーを起こしているの?小夜は完全に言葉を失った。若葉もまさかこんな反応が返ってくるとは思っておらず、一瞬顔を歪ませたが、すぐに完璧な笑みを取り繕った。だが、テーブルの下に隠された手は固く握りしめられ、爪が手のひらに深く食い込んでいた。その時、小夜は何かを思い出し、全く心のこもっていない声で忠告した。「忠告しておくけど、あちこちの陣営に顔を出して、フラフラ渡り歩いていると、いつか痛い目に遭うわよ」二人の狂人を同時に騙そうとするなんて。本当に命知らずだ。だが小夜としては、高みの見物としゃれ込むのも悪くない。自分が相沢家全体を告発する完全な証拠を集め終わる前に、この若
Read more

第714話

若葉が立ち去ると、小夜は朝食を食べる気など完全に失せ、ドアを叩いて佑介を呼ぼうとした。昨日の探り合いから、ほぼ確信していた。あの「贈り物」とは、間違いなくコルシオが調合したあの香水だ……依存性を持つ香りの可能性が高い。具体的にどんな依存性かはまだ分からないが、後遺症を残すようなものが、まともな品であるはずがない!今、その贈り物を止められるのは、佑介しかいない!彼女はドアを激しく叩き続けた。だが、何の返事もなく、物音一つ聞こえない。まるで屋敷中がもぬけの殻になったかのようだった。コルシオの普段のやり口を考えれば、そんなはずはない。絶対に誰かが物陰から監視しており、彼女の行動を意図的に無視しているだけだ。佑介はおそらく不在なのだろう。彼女は顔を上げ、部屋の四隅に視線を走らせた。片手を左肩の傷口に当てる。賭けに出るしかない。……長谷川本家。今日、この邸宅は思いがけない客を迎えていた。「小林さん、これはどういうことだ?」雅臣は目の前に座る男を見て、少し驚いていた。白いスーツに身を包んだ端正な顔立ちの男の目の下には、疲労からくる濃い隈が浮かんでいる。何しろ二つの家の関係を考えれば、青山がここへやって来るなど到底考えられなかったからだ。しかも、これほど穏やかな態度で。青山はテーブルの上の温かい茶には手を付けず、無表情のままファイルを取り出し、雅臣へ差し出した。「ささよが、一昨日大学へある香水を調べに行った後、行方不明になりました」あの夜、事件が起きたことはすでに察知していた。あの日から今まで一睡もせずに小夜を探し続けていたが、相手は用意周到だった。周辺の監視カメラはすべて破壊されており、深夜まで追跡したものの、青山が配置していた人員も完全に振り切られ、行方が分からなくなってしまったのだ。小夜は大学へ行く前、何をしに行くのか、誰に会うのかを彼に伝えていた。だからこそ、彼は直接、真理の元を訪ねることができた。香水の資料を手に入れた後、小夜がその夜最後に会っていた佑介を探しに行ったが、そこで佑介もまた行方をくらませていることに気づいた。そして、今に至る。それを聞いた雅臣は、ファイルを開こうとした手を止めた。だがその顔に驚きの色はなく、明らかに最初から知っていた様子だった。その反応を
Read more

第715話

彼はコルシオの情報が必要だった。それがなければ、対策の打ちようがない。雅臣は手元の資料を強く握りしめ、顔をしかめたが、やがて口を開いた。「感謝する。この資料と香水の件は非常に有益だ。だが、もし条件を交渉するというのなら、それは小夜自身が我々に提示すべきことではないのか……」「雅臣さん」青山は顔を上げ、雅臣を真っ直ぐに見据えた。眼鏡の奥の普段は温和な瞳に、珍しく冷酷な光が宿っていた。一語一語、はっきりと告げる。「彼女は、僕の婚約者です」つまり、彼女を救うのは自分であるべきだということだ。決して圭介ではない。雅臣は何も言い返せなかった。彼にもそれはもっともだと思えたが、彼のあの『立派な』息子がどう考えるかは別問題だ。一瞬、空気が静まり返る。結局、雅臣は渋々ながらも、現在長谷川家が把握しているコルシオに関する情報の一部を共有することに同意した。相手をよく知る者が捜索に加わった方が、勝算は上がる……それに、あの香水に問題があることを裏付けるレポートや成分表は、少し乱雑とはいえ、非常に貴重な手がかりだ。検証してみれば結果はすぐに分かる。佳乃の件に関しては、彼にも一刻の猶予も許されなかった。何はともあれ、青山は今や正当な小夜の婚約者なのだ。小夜がこれほど尽力してくれた以上、彼としても非情な真似はできない……あの親不孝な息子には申し訳ないが。雅臣は完全に割り切っていた。情報を青山に渡し、雅臣は形式的に食事を勧めたが、断られたため、執事に客を玄関まで見送るよう命じた。青山が階下へ降りる。執事に案内されてリビングへ出た瞬間、玄関から大量の買い物袋を提げて入ってくる一行の姿を目にし、彼は思わず足を止めた。先頭を歩いているのは一人の上品な婦人だ。奇遇なことに、彼はその婦人の顔を知っていた。ビジネスの宴席で見かけたことがある。相沢家の相沢哲也の妻、相沢容子だ。その後ろに続いているのは、光沢のある紫のドレスを着た若葉だった。彼女も青山を見て少し驚いたようだったが、すぐに笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄ってきた。「小林社長、どうしてこちらに?」「用事です」青山の言葉は簡潔だった。「……」若葉は表情一つ変えず、赤い唇を軽く手で覆って微笑んだ。「せっかく提携した仲なのですから……」彼女が言い終える
Read more

第716話

部屋の中で、小夜はソファにあぐらをかいていた。青白い顔で微かに眉をひそめ、医師が裂けた肩の傷口に包帯を巻き直し、部屋を出ていくのを待ってから、向かいへ目を向けた。向かいのソファには佑介が座っていた。うつむき加減の顔には乱れた前髪が垂れ下がり、片目を半ば隠している。視線は宙をさまよい、まるで魂が抜けたような顔つきだった。若葉の言葉が気がかりで、小夜は不安を拭えなかった。部屋でいくら物音を立てても誰も来ない。見張られていると察した彼女は、わざと傷を開いて監視の者を誘い出し、佑介を呼ばせるつもりだった。コルシオは今のところ、自分を死なせる気はないようだったからだ。ところが予想に反し、佑介がすぐに医師を連れてやって来た……この子は、ずっとここにいたのだろうか。彼が私を見張っていたの?それなら、なぜさっきまで姿を見せなかったのだろう。ふと、一つの可能性が浮かんだ。小夜は口を開いた。「私を避けてるの?」青年の視線はますます泳ぎ始めた。床を見つめたまま、しばらくして小夜の視線に耐えきれなくなったように、かすかな声を漏らした。「……避けてません」そんなこと、誰が信じるのよ!小夜は呆れた。こんな佑介を見ていると、どちらが本当にさらわれた側なのか分からなくなる。さらった本人が、まるで自分がいじめられたかのような顔をしているのだ。小夜は頭を抱えた。「どうして私を避けるの?」「……避けてません」佑介の声はさらに小さくなった。もういいわ。小夜はそれ以上追及せずに立ち上がり、佑介の隣へ移った。白く、かすかに赤みを帯びた足首から伸びる銀の鎖が、床を引きずられてチャリンと小さく鳴る。隣に腰を下ろすと、彼女はそっと青年の左肩に手を置き、顔を寄せた。「傷の手当て、ちゃんとしてる?」青年の体がわずかにこわばり、彼はぼんやりとうなずいた。「はい」「見せて」小夜はさらに身を寄せた。彼の鼻先を、小夜から漂うかすかな血の匂いと、体温で立ちのぼる濃密な甘い香りがかすめた。耳元に触れる温かな吐息に彼の耳たぶは赤く染まり、彼がぼうっとしていると、小夜のかすかな声が耳元に落ち、羽毛でそっと撫でられたようなくすぐったさが走った。青年の体が小さく震える。「昨夜、私と約束したこと、覚えてる?」えっ、昨夜?佑介ははっと我に返った。昨
Read more

第717話

小夜はふと思い出した。以前、佑介に会うたび、彼の顔はいつも真っ白だった。化粧で塗り固めたような不自然な白さだったのだ。あの頃は不思議に思っていたが、今なら分かる。あれは青年が自分の心を守るために描いていた仮面だったのだと。今、その仮面は取り払われている。素顔の佑介は以前よりも透き通るように白く、実の父親の面影を濃く残していた。それでも、あの男の死人のような蒼白さに比べればずっと生気がある。仮面を脱ぎ捨てた青年は、まるで命を吹き込まれた絵画のように、かえって鮮烈な美しさを放っていた。両親がそろって並外れた容姿の持ち主だからだろう。もっと幸せに生きられたらいいのに。まだ若いのだ。笑えば、きっと今よりもずっと美しいはずだ。昨夜、感情を爆発させて絶望していた青年の姿が脳裏をよぎる。今は小夜の前で何でもないふりをしている彼の頭を優しく撫でながら、彼女は穏やかな声で言った。「佑介、もっと楽しく生きていいのよ。たくさん笑って。どうしてもつらい時は、泣けばいい。声を上げて思いきり泣いたって構わない。私がちゃんと聞いているから」あなたの苦しみは、私にちゃんと届く。だから、怖がらなくていい。怯えなくていい。まだ若いんだから、もっと自由に、思うまま生きていい。小夜は小さくため息をついて続けた。「佑介、あなたは風のように生きなきゃ」世界は広く、美しく、どこまでも続いている。自由な風のように大地を駆け抜け、青空の下で翼を広げる白い鳩のように、どこまでも高く遠くへ飛んでいけばいい。嫌なものは全部、後ろに置き去りにすればいいのだ。一番いい時期にいる今、他人に与えられた苦しみで自分を閉じ込め、飛ぶ力を自ら手放してはいけない。佑介のくぐもった声が返ってきた。「でも、僕はお姉さんのそばを離れたくありません」ずっとお姉さんのそばを飛んでいたい。永遠に、ずっと。「私だって風よ。私の方が少し先を飛んでいるだけ」小夜は彼のふわふわした髪を軽く叩き、笑って言った。「佑介もその気なら、もっと速く、もっと高く飛んで、私に追いついてきて」追いつく……お姉さんに?小夜の太ももに顔を伏せたまま、佑介のこわばっていた体から少しずつ力が抜け、ふわりと柔らかくほどけていった。窓の外からは穏やかな夕暮れの日差しが斜めに差し込んでいる。遠くから、鳥のさ
Read more

第718話

食事が終わりに近づいた頃。コルシオはワイングラスを揺らし、照明の下で波打つ深紅の液体を眺めていた。佑介がようやく口を開く。「父さん、母さんはいつ戻ってくるんですか?僕たちはいつここを出るんですか?」コルシオは彼を一瞥し、赤ワインを一口含んだ。「急いでいるのか?」「……早くお姉さんを連れてここを出て、母さんと暮らしたいんです」佑介の表情は落ち着いていた。コルシオの唇がかすかに吊り上がる。「もうすぐだ」「前は失敗したよね、父さん」佑介は、コルシオの緑の瞳がわずかに沈むのを見ても構わずに続けた。「今度は長谷川雅臣たちも、もっと警戒しているはずです。父さん、本当に成功すると言い切れるんですか?」そもそも、佑介は計画の全貌を知らされてはいなかったが、元の計画では、小夜が触れてはならないことに手を出さない限り、こんなに早く連れ去られてくるはずではなかったのだ。この予想外の出来事が、計画の歩調を乱した。だからこそ、佑介は疑念を抱いたのだ。「お前が心配することではない」コルシオはワイングラスを静かに置き、冷えた声で言った。「お前は自分のやるべきことだけやっていればいい」空気が凍りついた。佑介は長いまつげを伏せ、ほとんど手をつけていない皿へ緑の目を落とした。しばらく黙った後、コルシオが席を立とうとしたところで、ようやく尋ねた。「母さんに何をしたんですか?」コルシオは立ち上がり、片手を椅子の背に置いた。そのまま横目で佑介を見る。「高宮小夜に何を吹き込まれた?」「僕は見ました」佑介は顔を上げ、前髪の隙間からコルシオを見据えた。「あの資料を見ました。あんなやり方で、母さんを傷つけてまで連れ戻すつもりなんですか?」「傷つける?」コルシオは笑い、ステッキの先でコツンと床を打った。あまりにも整いすぎた、ほとんど異様といえる顔立ち。その血のように赤い唇が弧を描いても、見惚れるどころか背筋が凍るようだ。それなのに、声だけは異常なほど静かだった。「甘さや慈悲は、弱者の無力さの表れにすぎない。俺を失望させるな、佑介」コルシオはそのまま部屋を出ていった。……夕方から、細かな雨が降り始めた。小夜は窓辺に立っていた。湿った風には土の匂いが混じり、雨が森の木々を打つ音が聞こえる。瞳には心配の色が浮かんでいた。どうして
Read more

第719話

バスルームでは、絶え間なくシャワーの水が流れていた。湯気が白く立ちこめている。その中で、小夜はお湯の張られていない乾いたバスタブに裸足で入り、膝を抱えて座っていた。佑介がバスタブの縁に両手をつき、小夜はその影にすっぽりと覆われている。彼女は目を伏せたまま、一言も発しなかった。やがて青年が身をかがめ、低い声で尋ねた。「お姉さん、僕が話したこと、全部覚えていますか?」「……ええ」蒸し暑い湯気のせいだろうか。自分自身の服は濡れていないのに、どうにも居心地が悪く、落ち着かない。少し躊躇ってから、小夜は彼の濡れたシャツの胸元、筋肉の輪郭がうっすらと浮かぶあたりを片手で押し返した。「そんなに顔を近づけないと話せないの?」「誰かに聞かれたら、どうするんです?」佑介は大真面目だった。一瞬、なるほどと納得しかけた小夜だったが、すぐに気づいて彼をさらに押し返す。「これだけ水の音がしてるんだから、声を落とせば聞こえないわよ」佑介は低く笑った。押し当てた手のひらに、彼の胸の奥が震えるのが伝わってくる。押し返す小夜の手の力に逆らうように、佑介はゆっくりと体を寄せた。浴室の熱気で汗ばんだ額を、同じく汗をにじませた小夜の額へ重ねる。乱れた前髪の奥、熱気で目尻をかすかに赤く染めた緑の瞳が、宝石のようにまっすぐ彼女を見つめていた。小夜は息をのんだ。鼻先が触れそうな距離から伝わる温かな吐息に、はっと我に返る。突き放そうとしたその時、青年は急に顔をそらし、彼女の首元へ顔を埋めた。「お姉さん、少しだけ抱きしめてくれませんか?」と、小さな声でささやく。水音だけが、ざあざあと響いている。しばらく呆然としていた小夜の胸の中には、戸惑いと、ペースを乱されたような苛立ちが残っていた。それでも彼女は青年の首へ腕を回し、そっと抱きしめ返した。「気をつけてね。どうしても無理だと思ったら、私のことは気にしなくていいから」と、低い声で念を押す。佑介はそれに直接は答えず、「お姉さんもね」とだけ返した。そう言うと、素早く小夜の頬に唇を当て、ちゅっ、と音を立ててキスをした。小夜が怒って叩こうとするより早く、青年は彼女の「このバカ!」という怒鳴り声を背に、笑いながら浴室の窓から身を躍らせた。外壁のくぼみに足をかけ、佑介は下へ降りていく。そのまま、雨が降る夜の闇の
Read more

第720話

そこが、今夜の目的地だった。それこそが、小夜の狙いでもある。佳乃に使われた香水の調合データやその性質、あるいは後遺症への対処法が、コルシオの手元に隠されていないかを確かめるのだ。何としても手に入れなければならない。母のためにも、姉のためにも。佑介は深く息を吸い込んだ。消した懐中電灯をポケットへ押し込み、二階のリビングから漏れるかすかな暖色の光を頼りに、壁伝いに書斎へと向かう。資料が正確にどこに隠されているのかは、二人とも分かっていない。ただ、佑介は以前この書斎に出入りしたことがあり、中の配置をある程度把握している。ここが最も可能性の高い場所だと踏んでいた。佑介はドアの前まで来た。隣にある主寝室の閉ざされたドアを一度見やり、監視カメラがないか確かめるように天井の隅へと視線を走らせる。最後に、ドアの電子錠のキーパッドへ緑の目を落とした。しばらく耳を澄ましてから、キーパッドを点灯させる。迷いなく、一連の番号を打ち込んだ。カチャリと音を立ててロックが外れる。佑介は口元に薄い笑みを浮かべた。この家には以前から出入りしているのだ。ドア一つ開けられないようでは、わざわざ忍び込んできた意味がない。わずかに開いたドアの隙間の向こうは真っ暗で、光はまったく漏れていなかった。佑介は中へ入り、後ろ手にそっとドアを閉めた。入り口で息を殺し、暗闇に目が慣れるのを待つ。室内を見回し、ポケットから再び懐中電灯を取り出すと、先端を手で覆って指の隙間から細い光を漏らしながら、室内を探り始めた。まずは本棚を調べ、次に、机の下にある金庫へと目を向けた。金庫自体はそれほど大きくなかったが、当然ながら暗証番号は分からない。佑介はしゃがみ込み、指の隙間から漏れる光でダイヤル部分を確かめた。しばらく手探りを続け、かすかに眉をひそめる。厄介だ。指紋認証や顔認証、あるいは電子式の暗証番号ロックであれば、スマホで小夜にメッセージを送り、遠隔操作でハッキングして開けてもらうことができた。腕の立つ彼女にとって、そんなことは造作もない。そのために、佑介はここへ来る前、小夜に連絡・操作用のスマートフォンを一つ残してきていたのだ。ところが、目の前にあるのは、まさかの機械式ダイヤル錠だった。今どき、こんなアナログな金庫を使う奴がいるか?心の中で悪態をつ
Read more
PREV
1
...
686970717273
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status