All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 591 - Chapter 600

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第591話

彼女の防犯意識はかなり高まっていて、常にいくつもの護身用アイテムを持ち歩いている。文翔は、喜ぶべきなのか不満に思うべきなのか分からなかった。警戒心があるのは悪いことではない。だが、その警戒心をすべて自分に向けられていると思うと、どうにも言いようのない挫折感を覚える。「君の中では俺は変態と大差ないってことか?」彼はじっと彼女を見つめた。「さあ?」紗夜は逆に問い返す。文翔は一瞬で気力を失い、黙り込んだ。表情もあまり冴えない。ただ、紗夜はこの手の話題に時間を割くつもりはなかった。「それより、どうしてここにいるの?」ここは京浜からかなり離れている。偶然だとは到底思えなかった。「出張だ」文翔は淡々と答える。「あなたも?」紗夜は疑わしげな顔をする。文翔は無表情のまま彼女を一瞥した。「出張するのは普通だろ」「勝手にして」紗夜はこれ以上言い合う気はなく、出前が冷めてしまうことを気にして、足早に民泊の方へ向かった。だが文翔は、近すぎず遠すぎずの距離を保ったまま、ずっと彼女の横を歩いてくる。紗夜は横目で彼を見る。「どこまでついてくるつもり?」――やっぱり、この男は何か企んでいる。「自分の宿に帰るだけだ。深水さんの目障りだったか?」文翔は低い声で言った。紗夜は一瞬言葉に詰まる。まさか......案の定、文翔も同じ民泊の前で足を止めた。「......あなたも、ここに?」紗夜は眉をひそめる。「この民泊、全部俺のだ」彼は特に気にする様子もなく敷地に入っていき、民泊の主人はすぐに満面の笑みで迎えた。「長沢社長!さあ、こちらへどうぞ!」紗夜は目を細め、珠緒にメッセージを送って、荷物をまとめて別の民泊に移ろうと考える。だが――「無駄だ。半径五キロ以内の民泊は、全部俺のものだから」文翔の淡々とした声が背後から飛び、彼女の逃走計画を一瞬で封じた。紗夜は呆然とする。白雲川に、彼がこれほど多くの民泊を持っているなんて、知らなかった。しかし文翔はすでに踵を返して二階へ上がり、それ以上彼女に話しかけることはなかった。紗夜はその背中を見つめ、目にわずかな思案の色を浮かべる。そこへ、珠緒から電話がかかってきた。彼女は部屋へ戻った。「なにこ
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第592話

紗夜は先に視線を逸らし、二階へ上がろうとした。「奥さま!」中島が慌てて声をかける。紗夜は仕方なく足を止めた。「なに?」「あの......急ぎの用件ができてしまって。少しの間でいいので、長沢社長の傷の処置をお願いできませんか?」中島は彼女の前まで来て、いかにも切羽詰まった様子を見せる。紗夜の口元がわずかに引きつった。――この下手な演技と雑な理由、本気で通用すると思ってる?だが中島は信念だけはやたら強く、紗夜の値踏みするような視線を受けても表情ひとつ変えず、真剣そのものの顔で言った。「お願いします!本当にすぐ戻りますから!」「いえ、私は――」断る言葉を言い切る前に、中島は薬を彼女の手に押し込み、そのまま煙のように走り去った。「ちょっと――」「ありがとうございます、奥さま!」本当に風のように消え、あっという間に姿が見えなくなった。紗夜は眉をひそめ、文翔を見た。文翔は最初から最後まで彼女から目を離さず、わざとらしく唇の端に触れて、息を吸う。「......っ」紗夜は唇をきゅっと結び、結局その可哀想そうな視線に負けて、渋々彼のもとへ歩み寄った。文翔は口元に淡い笑みを浮かべ、素直に顎を上げて彼女に近づく。「どうしてこんな怪我を?」紗夜は綿棒で彼の口角の血を拭った。「喧嘩した」そう答えながら、目の奥に一瞬だけ気まずさがよぎる。「いくつだと思ってるの。今さら若者みたいに喧嘩なんて」紗夜の声には不満が滲んでいた。「悪かった、さーちゃん」文翔は真剣な声音で言う。「それに、前のことも......ごめん」衝動的になり、また彼女を傷つけかけた。だが、どうしようもなく嫉妬してしまったのだ。胸の奥で燃える悔しさの火が、どうしても抑えきれなかった。反省して、だからこそここまで来て、直接謝ろうと思った。「......許してくれる?」彼は縋るような目で彼女を見る。紗夜は何も答えず、黙々と薬を塗り続けた。綿棒が彼の眉骨に触れた瞬間、骨ばった指が彼女の手首を掴んだ。身を乗り出し、薄い唇が彼女の柔らかな唇に触れようとする。だが今回は紗夜の方が早かった。もう一方の手で綿棒を立てて彼の唇を押さえ、低い声で警告する。「変なことしないで。これ以上傷口を引っ
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第593話

卵を溶いて焼き、目玉焼きを作り、ランチョンミートを焼く。別の鍋では湯を沸かし、麺を入れる。丼にラードをひとさじと干しエビを入れ、スープを注ぎ、茹で上がった麺を盛る。その上に卵とランチョンミート、そして青々とした野菜をのせた。ほどなくして、見た目も香りも申し分ない一杯の麺が、紗夜の前に差し出された。湯気が立ち上り、紗夜は思わずごくりと喉を鳴らす。確かに、出前よりずっと食欲をそそられる。「食べてみて」文翔は洗った箸とスプーンを渡し、期待に満ちた表情で見つめる。紗夜はゆっくり一口すすった。濃厚な香りが口いっぱいに広がり、正直なところ、文翔の料理の腕がここまで上がっているとは思ってもいなかった。「どう?おいしい?」彼が尋ねる。紗夜は噛んでから飲み込み、わざと素っ気なく言った。「普通」だが文翔は落ち込むどころか、彼女の箸をそのまま受け取り、麺を一口食べた。「それ、私の箸!」紗夜は睨みつける。「何度もキスしてる仲なんだし、箸くらい気にすんな」彼は気にも留めず、味わったあとで言った。「結構おいしいと思うけどな」――最初からその感想を引き出して、箸を使うつもりだったに違いない。紗夜は立ち上がって新しい箸を取り、自分のペースで食べ始め、彼を無視した。文翔もそれ以上ちょっかいを出さず、彼女が美味しそうに食べているのを見て、目元の笑みを深めた。ティッシュを取り、彼女の口元をそっと拭う。「ゆっくり食べて。足りなければ、また作るから」紗夜はティッシュを受け取り、距離を置くような口調で言った。「自分でできる。勝手に触らないで」だが、彼女の瞳に一瞬よぎった微妙な感情を、文翔は見逃さなかった。彼は手を引き、進んで距離を保つ。外では風がしばらく唸り続けたあと、激しい雨が降り始めた。雨水が軒先から集まり、筋になって流れ落ち、庭を洗い流していく。紗夜は、早めに戻ってきて正解だったと思った。でなければ、びしょ濡れになっていたはずだ。民泊の主人に聞くと、白雲川ではすでに一か月も雨が続いているという。外出時は気をつけるように、山間部は土砂災害の危険があるとも忠告された。この最悪の天候で、どうやって兼城豊の正確な住所を見つければいいのか。紗夜は不安を覚えた。ほど
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第594話

文翔は、紗夜がひとまず冷静になった隙を逃さず、これまでの経緯をすべて説明した。彼女の過去の交通事故が梅谷家と関係していること、そして兼城豊が梅谷家とつながりを持っていたこと――自分が調べ上げた内容を含めて。だからこそ、彼は兼城豊に狙いを定めたのだ。脇でそれを見ていた中島は、必死に説明する自分の上司の姿に、もし喜多村先生が見たらきっと感慨深いだろうな、と思った。なにしろ、あの社長がようやく「口を開いた」のだ。生きているうちに見られるとは、まさに奇跡である。「君を調べようと思ったことは、一度もない。ただ当時の件を追っていただけだ」文翔は率直にそう言った。「でもあの時のあなたが、私の父を刑務所に送ったのは事実でしょう」紗夜は彼を見据え、探るような目を向けた。「それなのに、どうして今さらまた調べ直すの?理由を教えて」彼はすでに「答え」を手にしていたはずなのに、なぜ再調査をするのか。それは、当時の判断が誤りだったということなのか。それとも――確かな証拠が揃っていなくても、友の仇を早めに討つため、自分の力を使って無理やり結果を作り出しただけなのか。そう思った瞬間、紗夜は急に、答えを知りたくなくなった。もしそれが真実なら、自分は彼を心底憎んでしまう。だから、彼の口からそれを認めてほしくなかった。紗夜は指を強く握りしめ、わずかに震えた。――怖い。「これは、君がずっと気にしてきたことだ。そして、俺たちの間にある溝でもある」文翔は深く息を吐いた。「当時の証拠や記録は、すべて君に見せられる。判断は俺の私情じゃない、目の前に並んだ証拠に基づいたものだ。君の父親を弁護した、あの許斐という弁護士が勝てたのは、ただ一つの小さな穴を突いただけにすぎない」実際のところ、和洋は最初から最後まで、嫌疑を完全に晴らしたわけではなかった。それでも、なぜ彼が外に出られたのか――理由は一つ。文翔が情に流れたからだ。紗夜が父のために奔走し、心をすり減らし、塞ぎ込んでいく姿を、これ以上見ていられなかった。だから彼は、和洋を見逃した。かつて仏様の前で願った通りに。彼は、さーちゃんと年々変わらず共にある未来を望んだ。友との因縁や業は、すべて自分一人で背負えばいい。たとえ百年後、地獄に堕ち、永劫
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第595話

「奥さまは......」中島はぱちぱちと瞬きをしながら文翔を見て、首をかしげた。「照れてるんだと思う」文翔は至って真面目な顔でそう言った。「え......」中島は口元をひくりと引きつらせた。照れているかどうかは正直わからなかったが、さっきの奥さまの背中は、どう見てもお化けにでも追われたかのようだった。もっとも、本音を口にしようものなら、上司にそのまま豪雨の中へ放り込まれかねない。彼は賢明にも黙っていた。紗夜は勢いよくドアを押し開けた。「うわっ......!」資料を見ていた珠緒は驚いて声を上げた。「どうしたの?顔色、なんか変だよ?」赤かったり白かったり、落ち着かない色をしている。紗夜は自分の頬に触れた。自分でも理由はよくわからない。彼女は足早にバスルームへ入り、手ですくった水を顔にかけた。少しは熱が引いたものの、心臓の鼓動は相変わらず早く、無視できないほどだった。紗夜は胸元を押さえ、眉をひそめる。「紗夜、大丈夫?」珠緒が近づいてきて、心配そうに声をかけた。「うん、平気」紗夜は深呼吸をして笑ってみせたが、どこか無理をしているのは明らかだった。珠緒もそれ以上は突っ込まず、「さっきあんまり食べてなかったでしょ。少し残してあるけど、いる?」と聞いた。食べ物の話題になった瞬間、紗夜の脳裏に、文翔が作ってくれたあの一杯の麺と、彼の言葉がよみがえり、心臓がさらに跳ねた。「大丈夫。ありがとう。先に休むね」珠緒はソファに戻り、紗夜の背中を見送った。彼女がベッドに横になり、スタンドライトを消し、目を閉じて呼吸が落ち着いたのを確認してから、そっと電話を手に取り、ある番号にかけた。相手はすぐに出た。「長沢社長......」珠緒は紗夜をちらりと見て、声を潜めた。「紗夜はもう寝ました。ただ、さっきはちょっと調子が悪そうで、顔がかなり赤かったです」数秒の沈黙のあと、「寝相が悪くて布団を蹴ったら、掛け直してやってくれ。頼む」低い声と同時に、送金通知が届いた。「まあまあ、長沢社長、ご丁寧にありがとうございます」珠緒は一瞬で上機嫌になり、目を細めて笑った。以前は散々文翔を罵っていたものの、何しろ額が大きいし、彼が紗夜に向ける感情もずっと見てきた。そこまで
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第596話

「どうした?」目の前から、文翔の低い笑い声が聞こえた。紗夜がまぶたを上げると、彼は彼女に近づいたのではなく、彼女の前を越して、外したエプロンを元の場所に掛けていただけだった。――なのに、自分はてっきり......「別に」紗夜は顔を背け、硬い口調で言った。次の瞬間、文翔の指がそっと彼女の顎をつまみ、顔をこちらへ向けさせた。反応する間もなく、薄い唇が彼女の唇に触れた。ほんの一瞬、トンボが水面に触れるような軽いキスで、すぐに離れる。「おはよう」彼は微笑み、朝食を彼女の前へ押し出した。「冷めないうちに食べて。食べ終わったら、一緒に出発しよう」紗夜は何か言いかけたが、結局何も言わず、黙って朝食を口にした。その後、二人は車で兼城豊の住所へ向かった。空は再び重たく曇り、小雨が降り始めていた。目的地に着くと、文翔は傘を差し、彼女の側へ回り込んで手を差し出した。「足元、気をつけて」紗夜も傘を開き、兼城豊の家へ向かう。中島が先にドアを叩いた。「ごめんください、どなたかいませんか」しばらくして、ようやく若い男がドアを開けた。「誰ですか?」「兼城さんの取引先です。お話があって伺いました」中島は落ち着いた様子で答えた。「取引?彼なら一時間前に出ていきましたよ。この家、長期で僕に貸すって言って」「長期で?」紗夜と文翔は顔を見合わせ、すぐに異変を察した。――兼城は逃げるつもりだ。「行き先は聞いていませんか?」中島が食い下がる。「知らない。もう帰ってくれ!」相手は素っ気なく言い放ち、ドアを閉めた。「一体どこへ......」紗夜は思わず呟いた。まさかここまで警戒心が強いとは。文翔は地面に残ったタイヤ痕を一目見ると、すぐに判断した。「こっちだ」彼はすぐに車へ乗り込み、紗夜も後部座席に滑り込む。ドアが閉まり、車は東へとハンドルを切った。「もう、かなり遠くへ行っちゃったんじゃ......?」紗夜は不安を隠せない。ここで警戒させてしまって逃げられたら、次に見つけるのは難しい。「大丈夫だ。この天気と路面状況じゃ、飛ばせない」文翔は運転しながら、中島に人手を増やすよう指示を出した。紗夜は指を強く握り、前方を凝視する。やがて30分ほど走
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第597話

酸素が、少しずつ失われていく。息苦しさに襲われたその瞬間、紗夜は目を覚ました。視界いっぱいに滲む血の赤に、思わず体が震える。「文翔......!」声は震え、掠れていた。文翔は、またしても彼女を庇い、背中をフロントガラスに強く打ちつけていた。真っ赤な血が流れ出し、彼は目を閉じたまま、呼吸もかすかだ。紗夜は目頭が熱くなり、声を詰まらせる。「文翔?ねえ、文翔ってば!起きて、起きてよ......」抑えきれなくなった涙が溢れ、文翔の頬へと落ちた。その時、彼のまつげが微かに動き、ゆっくりと目を開ける。泣きじゃくる紗夜の姿を見て、無理やり慰めるように笑った。「さーちゃん、泣かないで......俺は大丈夫だから......」「こんな時まで無理しないでよ!」紗夜は泣き声混じりに叫んだ。「本当に、大丈夫だ」文翔は歯を食いしばり、シートを倒した。紗夜が後ろへもたれかかり、彼もわずかな隙間を作る。体を起こし、砕けたガラス片から離れる。だが、少しでも動くたびに車体が揺れ、土砂が障害を破って押し寄せようとする不気味な音が響いた。文翔は紗夜の上に身を支え、彼女を押し潰さないよう身動きせず、かすれた声で指示する。「......中島に、電話を......」紗夜は慌ててスマホを取り出した。幸い、ずっとポケットに入っていたし、かろうじて電波もある。電話を受けた中島は、すぐに状況を把握し、救助の手配を進め、落ち着くよう告げた。――落ち着けるわけがない。紗夜は目を赤くしながら叫ぶ。「急いで!文翔、怪我してるの!」中島は一瞬言葉に詰まり、すぐに答えた。「分かりました、すぐ向かいます!」電話を切って初めて、紗夜は文翔がずっと自分を見つめていることに気づいた。「どこか辛い?」彼女は不安そうに尋ねる。文翔は首を横に振り、青白い唇でかすかに笑った。「さーちゃんが泣くと......子猫みたいで、可愛いな......」「ちょっ、こんな時に何言ってるの!」紗夜は思わず怒鳴った。だが次の瞬間、文翔は激しく咳き込み、力が抜けて崩れ落ちそうになる。「文翔!」紗夜は悲鳴を上げた。それでも彼は必死に座席に体を支え、彼女を押さないようにしながら、優しく言った。「......
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第598話

「誰か、助けてよ......!」紗夜は嗚咽混じりに叫び、涙がぽろぽろと零れ落ちた。震える手で、次第に体温を失っていく文翔の頬に触れる。胸が締めつけられ、息ができないほど苦しい。「文翔......大丈夫だって言ったでしょう?お願い、目を開けて......起きてよ......!」けれど返ってきたのは、果てしなく長い沈黙だけだった。車内の酸素も尽きかけ、再び眩暈が押し寄せる。今度は、紗夜は彼の胸元に顔を埋め、ぎゅっと抱きしめた。それが死ぬ前の走馬灯だったのかは分からない。ただ突然、これまでの年月で文翔と過ごした数々の光景が、脳裏に浮かび上がった。最初は苦く、切なかった記憶。けれどいつの間にか、文翔は少しずつ、彼女の胸に残った傷を癒してくれていた。彼は持てるすべてを捧げていた――その命さえも使って。彼はかつて、彼女の中に自分の居場所はまだいるのかと尋ねた。あのとき、ほんの数秒言葉に詰まった間に、答えはすでに出ていたのだ。――いる。ずっと、いる。ただ彼女は答えられなかった。自分の本心と向き合う勇気がなかった。文翔がとっくに、消えないほど深い痕跡を心に刻んでいたことを、認められなかった。そして今、彼女の胸にある思いはただ一つ。生きたいかどうかではない。自分の気持ちと答えを、彼に伝えられないまま終わることが、ただただ悔しかった。「文翔......」彼の胸に頬を寄せ、かすれた声で、しかしはっきりと告げる。「私の中には、あなたがいるよ......ずっと、ずっと。もう二度と取り戻せないと思っていた『好き』を......あなたが、見つけてくれた......文翔......私は、文翔のことが好き......ううん、違う。愛してるよ、文翔」最後の言葉を落とし、彼女は静かに目を閉じた。もし結末がこう定められているのなら、ただ彼を抱きしめたまま、一緒に......すべてが、果てしない闇へと沈んでいった。――紗夜は、夢を見ているような気がした。その夢の中では、育ての両親も、実の両親も、兄も、海羽も、瑚々も、理久も、みんなが揃っていて、家族で賑やかに、幸せな生活を送っていた。けれどそこに、文翔の姿だけがなかった。胸に大きな穴が空いたような喪失感に襲われ、彼女は慌
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第599話

「や、やめろ!」兼城は一瞬で取り乱し、巨大な恐怖に包まれた。「話す......話すから......!」しかし、そのとき――パンッという乾いた銃声が響いた。血しぶきが紗夜の身体に飛び散る。「危ない!」文翔が咄嗟に彼女を抱き寄せ、庇った。紗夜は目を見開いた。目の前の兼城豊の胸は、銃弾に貫かれ、心臓の位置にぽっかりと血の穴が空いていた。兼城豊は口を開いたまま、結局何も言えず、目を見開いたまま息絶えた。紗夜は一瞬、呼吸を忘れた。「見るな」文翔はすぐに彼女の視界を遮る。同時に、ボディーガードたちが一斉に前へ出て、二人を囲むように防護の陣を作った。「長沢社長、奥さま、すぐに車へ!」文翔は紗夜を抱え、防弾仕様の車に素早く乗り込んだ。彼女の身体が震えているのに気づき、さらに強く抱きしめる。「さーちゃん、大丈夫だ」「......兼城は、口封じされた......」紗夜のまつげがかすかに震えた。それはつまり、この件が「彼」と無関係ではないということ。和洋は、やはり無実である可能性が高い。なのに......ようやく見つけた重要な証人は、こうして消されてしまった。「落ち着け」文翔は静かに彼女を落ち着かせる。「まずは戻ろう。あとのことは、俺に任せてくれ」その声は低く、揺るぎなく、すべてを掌握しているかのようだった。紗夜は少し驚き、彼を見上げる。「信じてほしい」文翔は真剣な眼差しで言った。「必ず、納得できる答えを出すから」なぜか彼がそばにいるだけで、心の奥に安堵が広がった。紗夜は小さく頷く。文翔は彼女の額に、そっと口づけを落とした。......紗夜を無事に自宅へ送り届けたあと、文翔はそのまま京浜病院へ向かい、和洋の病室へ直行した。すでに明が待機しており、外には完全武装したボディーガードが幾重にも配置されていた。鉄壁のような警戒態勢で、いかなる企みも入り込む隙はない。病室では、ベッドに腰掛けた和洋が、サイドテーブルに置かれたチェス盤を挟み、仁と対局していた。ただし、盤面の形勢は――仁が劣勢だ。「若者、これは負け筋だな」和洋は笑みを浮かべる。「よく考えなさい。次の一手を誤れば、クイーンは完全に失うぞ」仁はしばし考え、駒を取
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第600話

雅恵の目がぱっと明るくなり、すぐに男の手を引いて前へ進ませた。「蒼也、さあ......おじいさまに挨拶して」「おじいさま」貴仁は目を細め、目の前の人物をじっと値踏みするように見つめる。「フルネームは?」「出雲蒼也です」雅恵は貴仁を見て、指先をきゅっと握りしめた。「今日から、お前は長沢蒼也だ」貴仁はそう言って、ひとつ頷いた。その言葉が落ちた瞬間、雅恵の顔にようやく笑みが浮かんだ。蒼也を連れて長沢家を出ると、雅恵は彼の肩を軽く叩き、評価するように言った。「よくやったわ」貴仁の指示に従い、白雲川へ行って兼城豊を始末した。それだけでも、彼が無能ではないことの証明になる。「誇りに思うわ」だが、蒼也は彼女の手を払いのけた。「僕は、もともと自分のものだったものを取り戻しただけだ。あんたとは関係ない。手柄を横取りするな」雅恵は一瞬言葉に詰まったが、それでも笑顔を保った。「今回文翔を引きずり下ろすことができれば、貴仁様はあなたを次の長沢家の当主に据えるはずよ。その時になったら、長沢家の財産をすべて新野家に移しなさい。そうすれば、我が新野家は、ようやく復興を......」彼女の目的は、最初から一つだけだった。人の血肉を啜ってきた長沢家を、完全な空っぽの殻にすること。そうでなければ、息子を捨て、娘を顧みず、恩知らずを何十年も育てるはずがない。そして今、その願いは、ようやく叶おうとしていた。蒼也は、彼女の切迫した視線を一瞥しただけで、さほど興味なさげに言った。「先に帰る」「どこへ?」雅恵が引き留める。「仕事だ。今は紗夜のアシスタントだから」「どうして彼女のアシスタントなんかに?」それが、雅恵にはどうしても理解できなかった。「お金に困ってるわけでもないのに、わざわざそんなことをする必要がある?」「金には困ってない」蒼也は口角をわずかに上げた。「が。あの男のものは、全部奪ってやる」ただ紗夜の警戒心があまりにも強く、付け入る隙がほとんどなかった。しかも、文翔の奪い合いを厭わない性格は、確かに厄介だ。だが――もうすぐだ。文翔の当主の座を完全に奪えば、長沢家のすべてが彼の手に落ちる。......紗夜が目を覚ましたのは、長沢家の別荘にある大きな
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