All Chapters of 父と子は元カノしか愛せない?私が離婚したら、なんで二人とも発狂した?: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

「あの、もう寝たいんだけど」紗夜は慌てて顔を布団に埋めた。これ以上されたら、腰が本当に折れちゃうじゃない。文翔は口元をわずかに緩め、彼女を腕の中に引き寄せた。「冗談だよ。おやすみ」紗夜は小さくうなずき、彼の胸元に顔を埋めて、静かに目を閉じた。今までにないほど、安心できる眠りだった。......朝日がレースのカーテン越しにベッドへ差し込み、紗夜はようやく気だるそうに伸びをした。手を伸ばすと、ちょうど誰かの引き締まった腹筋に触れる。彼女の瞳にきらりと光が走り、ひと撫ですると、悪戯っぽくゆっくり下へ。次の瞬間、布団がわずかに動き、背の高い影にすっぽり覆われた。そのまま押し倒され、下から逃げ場を失う。文翔の底知れない視線と目が合い、紗夜はごくりと唾を飲んだ。「......いつ起きたの?」「君より少し前かな」含みのある言い方だった。つまり、もう起きていたくせに寝たふりをして、服までめくり上げて、わざと誘っていたということ。紗夜はむっとして睨んだ。「ずるい」文翔はただ笑い、彼女の唇に口づける。どこか開き直ったような表情で言った。「もう知らない。火をつけた人が消すんだ。朝は朝の運動が必要だろ」文翔に振り回されて、気づけばもう9時半だった。「この、バカ!」首元に点々と残る噛み跡を見て、紗夜は腹立たしそうに彼を蹴った。けれど足首をつかまれ、指先で丁寧になぞられる。まだ名残惜しそうな様子だった。それでも彼は、さーちゃんに少し休む時間を与えた。疲れさせすぎたら、夜が続かなくなる。文翔はシャツのボタンを留めながら、彼女の髪をくしゃりと撫でる。声は穏やかだった。「朝ごはん、何がいい?作るけど」「噛んでいい?」紗夜は不満げに小さく鼻を鳴らした。それを聞いて、彼は眉を軽く上げる。「どこを?」紗夜は一瞬固まり、意味を理解した途端、顔が一気に赤くなった。彼を突き飛ばす。「違う、そういう意味じゃない!」文翔は、さーちゃんが一番照れやすいことをよく分かっている。それでも、ついからかいたくなり、彼女の前に顔を寄せ、吐息混じりに囁いた。「欲しいなら噛んでもいいが......」「文翔!」紗夜の顔は驚くほど熱くなっていた。彼はさらに笑
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第602話

長沢本家。文翔が到着した頃には、長沢家の親族たちもすでに揃っていた。雅恵は得意げな表情で文翔を見つめる。今度こそ、あのときの過ちを完全に消し去る時が来たのだ。懐かない狼など、早く始末すべきだった。「じいさん、呼ばれた理由を伺っても?」文翔が問いかける。「偽物のくせに、まだ私をじいさんと呼ぶ気か?」貴仁は、これまでの温和な態度を一変させ、冷ややかに雅恵へ視線を向けた。「こいつがどこから来たものなのか、お前が説明しろ」「かしこまりました」雅恵は笑みを浮かべ、一枚の親子鑑定の報告書を放り出すように差し出し、親族たちに向かって宣言した。「これは、文翔と私、そして隣一との親子鑑定結果です。この男は、そもそも長沢家の血筋ではありません」その言葉に、場は一斉にざわめいた。「どういうことだ?そんなはずが......」「やっぱりな。前から隣一に全然似てないと思ってたんだ」「だったら、長沢家の当主である資格はない!」「当主の印鑑を返せ!」「そうだ、外部の人間に持たせるわけにはいかない!」......雅恵はその流れを見て、すぐに蒼也を前に押し出した。「こちらこそが、私と隣一の実の息子です。そして貴仁様が直々に認めた、長沢家次代の当主」蒼也は、四方から向けられる視線を浴び、目の奥にかすかな得意の色を浮かべる。高みから見下ろすように文翔を見据え、その視線はまるでこう言っているかのようだった。――今回は、自分の勝ちだ。「文翔、今すぐ当主の印鑑を差し出しなさい。でなければ、こちらも容赦しないわ」雅恵は鋭い口調で言い放った。「そうか?」文翔は軽く笑い、淡々と彼女を見る。「なら、見せてもらおうか」言葉が終わると同時に、足音が一斉に響いた。ボディーガードと武装した警察部隊が、居間を瞬く間に包囲する。「どういうことだ?」「警察まで来てるぞ?」「その説明は、皆さんが長年敬ってきた、その『貴仁様』から聞くといい」文翔は貴仁をまっすぐ見据えた。「この男は私利私欲のために梅谷家、新野家と結託し、公金を横領した。工期を無理に短縮させ、京浜外れの大橋工事で手抜きを重ね、結果、橋は崩落した。その後、深水和洋の家族を人質に取り、彼を身代わりに仕立て上げた。新野家の破産も、分
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第603話

「証拠を掴んだところで、それがどうした?」貴仁は文翔を見据えた。「私を引きずり下ろせば、かえって他人の勢力を利することになるだろう?」彼がいなくなれば、蒼也が正当な後継者として長沢家の当主になる。「それは、お前にとって何の得にもならないはずだが?」「最低だな!」千歳が吐き捨てた。彼にだって分かる。貴仁は恥も外聞もなく、文翔を脅しているのだ。一度徹底的に引きずり下ろし、当主の座を守りたければ、これからも自分の手駒として使おうという魂胆。だが、文翔は軽く笑っただけだった。「長沢家の当主は長沢家の人間でなければならない。そのルール自体は間違っていない。でも、隣一の息子でなければ長沢家の人間じゃないなんて......そんなルール、どこにもないはずだが?」その言葉に、貴仁の表情がわずかに変わる。周囲にいた者たちも皆、驚いたように文翔を見つめた。その瞬間、ふと気づく。文翔と貴仁――この二人こそ、最もよく似ているのだ。蒼也は言葉を失った。「まさか......」文翔は、もう一通の報告書を投げ出した。彼と貴仁の親子鑑定結果だ。――貴仁は、文翔の生物学上の父親と確定されていた。長沢家の親族たちは、目を疑った。誰一人として、信じられない表情を隠せない。貴仁自身も、同様に愕然としていた。――自分に、こんな若い息子がいた覚えなどない。「思い出せないか?」文翔の瞳に、凍りつくような冷意が宿る。「なら、俺が思い出させてやる」そう言って、彼は一束の写真を貴仁の前に叩きつけた。そこに写っていたのは、かつて貴仁が女子生徒に対して行った薬物による性的暴行の証拠。文翔の母親も、その被害者の一人だった。しかも、彼女が受けた苦しみは、より深く、より残酷だった。だからこそ、文翔は生まれたその瞬間から、母の貴仁に対する憎しみを背負う運命にあった。「覚えてないだろうな。あの頃、被害に遭わせた女子生徒が何人いたか、自分でも分からないくらいだろうから」文翔の鋭い視線は、相手を切り刻むかのようだった。「彼女たちが、あんなに若くて、人生はまだまだあそこからだというのに......どうしてお前みたいな人間のせいで、こんな目に遭わなきゃならない」その瞬間、蔑みの視線が一斉に貴仁
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第604話

「彩!お前、正気か!?」千歳が叫んだ。「正気?」彩は冷笑した。「ええ、正気よ。正気だからこんなことしてる」正気だからこそ、これだけの人間を道連れにできる。正気じゃなければ、何度も自分を捨ててきた母親に縋るしかなく、最後は悲惨な結末を迎えるだけだった。それならいっそ、思い切り暴れた。かつて自分を見下し、踏みにじってきた連中に、すべての代償を払わせるために。「あなたたち、この女を愛してるんでしょう?」彩は歪んだ笑みを浮かべた。「だったら今すぐ、彼女のために自分を刺しなさい!どれほど本気で愛してるのか、見せてもらおうじゃない」その目には、抑えきれない興奮が宿っていた。文翔と紗夜を手のひらで弄ぶ――それこそが、彼女にとって最高の快楽だった。千歳は歯を食いしばり、地面に落ちていたナイフを掴んだ。だが次の瞬間、文翔に腕を押さえられる。「何するんだ!」千歳が声を荒らげた。「見て分からないのか?あの女、紗夜を本気で殺す気だぞ!」「落ち着け」文翔は眉を寄せた。「......彼女を信じろ」「どういう意味だ?」千歳が戸惑った、その次の瞬間――バンッ、と乾いた銃声が響いた。「うあっ......!」永井の悲鳴が上がる。信じられないという顔で、紗夜を見つめていた。紗夜は、スカートの裾の下から拳銃を取り出し、彼の太腿を正確に撃ち抜いていたのだ。永井が床に倒れ込み、苦悶する姿を見て、彩は愕然と口を押さえた。反射的に逃げ出そうとしたが、気づいたときには、紗夜の銃口がすでに彼女を捉えていた。「どこへ行くつもり?」紗夜は眉を軽く上げる。その瞬間、彩の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。悔しさと恐怖に震えながら、ゆっくりと両手を上げる。紗夜は視線を下へ移し、文翔を見た。文翔もまた彼女を見上げ、その瞳には抑えきれない賞賛と愛情が溢れていた。千歳は呆然と二人を見つめる。ふと、悟った気がした。――自分には、もうチャンスがない。けれど、不思議と想像していたほど苦しくはなかった。彩を確保した後、紗夜は階段を下りた。文翔はすでに、階段の下で彼女を待っていた。「お前ら......」千歳は、まだ状況を理解しきれていない。紗夜は口元を緩め、文翔
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第605話

「帰ろう。俺が何でも作るから」文翔は彼女の手を取り、穏やかな声で言った。「うん」紗夜は目を細め、立ち去る前に千歳を一度振り返る。「千歳。あなたも、自分の幸せを探しに行って」千歳は一瞬言葉に詰まり、やがて肩の力を抜くように息を吐いた。「......心から、幸せを祈ってる」「ありがとう」文翔は彼の肩を軽く叩いた。それでも千歳は、どこか未練が残っている様子で言う。「もし彼女を不幸にしたら、その時は必ず俺が奪い返すからな」「その心配は無用だ」文翔は断固とした口調で答える。「そんな未来、絶対に来ない」これから先、彼は紗夜の手を決して離さない。手を取り合い、朝も夜も、ともに歩んでいく。長沢家の別荘へ戻る車の中で、中島は処理結果を順に報告した。「長沢貴仁、長沢宏らは横領や治安を脅かした罪など、複数の容疑について証拠が揃い、すでに正式に逮捕されました。今後は司法の厳正な裁きを受けることになります。竹内彩も、永井と共謀した拉致および故意傷害の疑いで連行されています。証人・物証ともに揃っており、罪状はほぼ確定です」文翔は淡々と聞いていた。まるで自分とは無関係の出来事を聞いているかのように、表情は変わらない。紗夜は彼の肩に身を預け、静かに耳を傾けていた。かつて自分を深く傷つけた人々は、ようやく相応の結末を迎えた。胸に湧いたのは痛快さではなく、すべてが終わったあとの静かな安堵だった。「それから......」中島は少し言い淀み、声の調子を落とす。「新野雅恵がかなり取り乱しており、奥さまに会いたいと強く求めています」その言葉に、隣にいる男の体がわずかに強張ったのを、紗夜は感じ取った。彼女はそっと手を伸ばし、彼の手の甲に重ねる。文翔は我に返り、彼女の手を握り返した。「分かった。お前は先に戻ってくれ」車は別荘の前で停まった。夜は更けていたが、屋内は明かりが灯り、煌々としている。執事と池田は二人の姿を見て、ようやく安堵の色を浮かべたが、文翔の蒼白な顔を目にした途端、再び表情を曇らせた。「旦那様......」「お湯と救急箱を用意しろ」文翔の声は低く穏やかだったが、逆らう余地はなかった。彼は紗夜の手を離さず、そのまま3階の主寝室へと彼女を連れて行く。部屋
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第606話

彼女はもう心が凪いでいるつもりだった。けれど、自分のせいで残ったこの傷跡を目にした瞬間、指先が思わず震えた。消毒液を含ませた綿棒が、そっと傷口の縁に触れる。文翔の身体がびくりと強張り、額には一気に細かな冷や汗が滲んだが、彼は歯を食いしばり、声ひとつ漏らさなかった。紗夜の手つきはいっそう慎重になる。俯いたまま、長い髪が垂れて表情を隠す。彼の身体からは、ボディソープのほのかな香りと血の匂いが混じり合って伝わってきて、その気配に理由の分からない胸騒ぎを覚えた。早く処置を終えて、ここを離れたい。そう思った、そのときだった。文翔が、怪我をしていないほうの手を伸ばし、薬を塗っている彼女の手をそっと包み込んだ。紗夜の動きが止まり、顔を上げて彼の視線とぶつかる。そこには、かつて見慣れていた冷淡さも嘲りもなく、あの偏執的な狂気さえ消えていた。残っていたのは、彼女が一度も見たことのない、壊れそうなほどの脆さだった。「さーちゃん......」かすれ切った声で、彼は言う。「行かないでくれ」胸を、強く掴まれたような痛みが走る。手を引こうとすると、彼はさらに強く握りしめた。「今夜だけでいい」隠そうともしない懇願を宿した目で、彼女を見つめる。「そばにいてほしい」紗夜は何も言わず、ただ彼を見ていた。かつては傲然としていたこの男が、今は彼女の前で無防備にすべてをさらけ出している。結局、彼女は彼を突き放さなかった。再び綿棒を取り、傷の手当てを続ける。ひとつひとつの動作は、夢を壊してしまわないような、あまりにも軽やかなものだった。文翔は、彼女の横顔を見つめ、指先から伝わるかすかな冷たさを感じていた。長いあいだ荒れ果てていた心の廃墟に、ようやく一筋の光が差し込んだような気がした。処置を終えると、紗夜は立ち上がり、客間へ行こうとする。だが文翔が、彼女の服の裾を引いた。力は弱いが、拒ませない頑なさがあった。「客間はだめだ」紗夜は振り返る。「ベッドは広い」彼女を見つめる目には、慎重な探る色が浮かんでいる。「半分、使っていい」長い沈黙が流れた。文翔が、また拒まれるのだと思いかけたそのとき、彼女は小さく「うん」と答えた。その夜、二人は同じベッドで眠ったが、きっちりと距離
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第607話

文翔の喉仏が小さく動いた。彼女はきっと問い詰めてくる、怒りをぶつけてくる、以前のようにあの澄んだ瞳で、自分の冷酷さや計算高さを責め立ててくる――そう思っていた。だが、彼女はそうしなかった。ただ静かに、あまりにも静かに彼を見つめていた。その静けさが、かえって彼の胸をざわつかせる。彼は長い脚を踏み出し、彼女のもとへ向かおうとした。だが腹部の傷に引き裂かれるような激痛が走り、身体がぐらりと揺れる。反射的に、バルコニーの手すりに手をついた。紗夜のまつげが、かすかに震えた。先に動いたのは、彼女だった。彼の前に歩み寄り、そっと腕を支える。「部屋に戻ろう」感情の読めない、低い声だった。文翔は彼女に身を預け、寝室へ戻った。彼女は彼をソファに座らせると、何も言わずに医療箱から新しいカーゼと薬を取ってくる。その間、彼女は一言も発しなかった。この沈黙は、どんな激しい詰問よりも、文翔を息苦しくさせた。伏せられた眉、傷の手当てをする細い指先。手慣れた動きを見つめながら、胸の奥に広がる無力感は増すばかりだった。殴られて、罵られたほうがいい――今のように、取るに足らない他人のように扱われるより、ずっと。「さーちゃん......」ついに堪えきれず、掠れた声で呼ぶ。紗夜の手が一瞬止まったが、顔は上げない。「出雲と雅恵のことだが、俺は......」「文翔」彼女は遮った。声音は相変わらず淡々としている。「そんなこと、私に説明しなくていいよ」何を説明するというのか。母が息子に抱く贖罪の念を利用し、親子を互いに追い詰めたことを、どう弁解するつもりなのか。彼女は聞きたくなかった。文翔の心が、重く沈んだ。昨夜の策略が、また彼女を遠ざけてしまったことを、彼は悟っていた。最後のカーゼを巻き終え、結び目を作る。作業が終わると同時に、彼女はすぐに手を離し、距離を取った。空になった掌を見つめる文翔の瞳は、溶けない墨のように暗かった。朝の光が窓から差し込んでくる。それでも、部屋の冷えきった空気は和らがない。午前中いっぱい、二人の間に言葉はなかった。紗夜は窓辺に座り、フラワーアレンジメントの雑誌をめくっている。陽光を受けたその姿は、金の縁取りを施されたようで、現実味が
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第608話

「書類、もう一度見せて。彼女、私に会いたがってるんでしょう?」紗夜は、自分が以前よりも強くなった気がしていた。揺るぎない支えを得たことで、人はこんなにも自信を持てるものなのかもしれない。もう二度と振り返りたくないと思っていた記憶でさえ、今ではどこか麻痺したように感じられた。分厚く重なった書類を、紗夜はゆっくりとめくっていく。一枚一枚に記されているのは、彩が闇の中に隠してきた、毒蛇のような算段の数々だった。帰国してから送られてきた、何気ない顔をした写真の数々。理久に対する意図的な誘導。命を落としかけたあの交通事故。そして最後、屋根裏で突き刺さるように放たれた言葉......彼女の目に映らないところで、これほど多くの悪意が、巨大な網のように広がり、彼女を絡め取り、淵へと引きずり込もうとしていたのだ。紗夜はずっと、彩はただ文翔を奪いたいだけなのだと思っていた。だが今になって、ようやく理解した。彩が本当に望んでいたのは――彼女の死だ。窓の外の陽射しは穏やかで、あたたかく彼女を包んでいる。それでも紗夜の指先は冷たかった。ページを一枚一枚めくりながら、その表情は静かで、まるで自分とは無関係な物語を読んでいるかのようだった。文翔は彼女の向かいに座り、何も言わずに見守っていた。力の入った指の関節が白くなるのも、伏せたまつげが蝶の羽のように微かに震えるのも、すべて見えていた。彼女の心が、表面ほど穏やかではないことを、彼は分かっている。胸が、締めつけられる。これらの証拠は、彼が長く迷った末に、ようやく彼女に見せると決めたものだった。もう何一つ隠したくはない。すべての真実を知ってほしい。だが同時に、この醜い過去が、再び彼女を傷つけるのではないかと、恐れてもいた。やがて、紗夜は最後のページに辿り着いた。ゆっくりと書類を閉じる。かすかな音が、静かな室内に響いた。顔を上げて文翔を見る。かつて星を宿していたその瞳は、今や深い潭のように静まり返り、波一つ立っていない。「彼女に、会いに行きたい」声は低く穏やかだったが、揺るぎない強さを帯びていた。文翔は反射的に眉を寄せ、彼女のそばへ歩み寄る。手を伸ばし、その頬に触れようとして――途中で止めた。「さーちゃん」かすかな憂
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第609話

彼女は外から向けられた視線に気づいたのか、はっと顔を上げ、ガラス越しに映る文翔のぼんやりとした影を認めた瞬間、正気を失ったように突進してきた。「文翔!この恩知らずのクズ!出しなさいよ、今すぐここから!」拳でガラスを激しく叩きつけ、鈍い音が響く。冷たいガラスに顔を押しつけ、興奮で歪んだその表情。かつて輝きを宿していた瞳は血走り、外を睨みつけている。「あんたが、こんなことする権利があるとでも思ってるの?!あんたを救ったのは私よ!私こそ、本来、長沢奥様になる人間よ!あの下賤な女じゃないわ!!どうしてあの女が、全部を手に入れられるの?!文翔!出てきなさいよ、この卑怯者!会うのが怖いんでしょ?!ねえ、私が怖いんでしょう?!」喚き散らすうちに声は掠れ、耳を刺すような金切り声になる。文翔は眉をさらに寄せ、反射的に紗夜を連れてその場を離れようとした。だが紗夜は振り返り、静かに言った。「中に入りたい。ひとりで」彼女を見つめる文翔。その瞳は、変わらず落ち着いている。やがて彼は小さく頷いた。「外で待っている」取調室の扉が開いた。紗夜はゆっくりと中へ入っていく。彼女を見た彩は一瞬呆け、次の瞬間、さらに甲高い笑い声を上げた。「あら、誰かと思ったら。クソ女、私の惨めな姿を見に来たの?」上から下まで舐め回すように眺め、その視線に宿る嫉妬と憎悪は、今にも形を成しそうだった。紗夜は、淡いベージュのシンプルなワンピースを身にまとい、長い髪を肩に自然に流していた。化粧気のない顔は、欠点一つ見当たらないほど滑らかで、ただ静かに立つその佇まいは、冷ややかで凛とし、まるで塵に染まらぬ蓮のようだった。一方の自分は、溝に追い込まれたネズミのように無様だ。あまりに鮮烈な対比に、彩は完全に理性を失った。「これで勝ったと思ってるの!?」紗夜に向かって叫ぶ。「笑わせないで!そもそも文翔はね、あんたなんか愛してないのよ!私と一緒にいたときだって、あんたに触れる気すらなかった!あんたはただのベットを温める道具!いてもいなくても同じ飾りよ!」最も毒のある言葉で、目の前の女を傷つけようとする。苦しませたい。壊したい。自分と同じように、奈落へ引きずり込みたい。けれど――紗夜は違った。彼女はただ静かに聞いて
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第610話

時間が、この瞬間にミュートボタンを押されたかのようだった。取調室に残っているのは、彩の荒く混乱した息遣いと、紗夜の放った、軽やかでありながら重みを持つ一言の残響だけ。「今は、私を愛してるの」その言葉は、真っ赤に焼けた見えない焼き印のように、彩の心に深く押しつけられた。彼女のすべての狂気も、すべての叫びも、すべての悔しさも、その何気ない一言によって、この瞬間、完全に粉々に砕け散った。彩は呆然と紗夜を見つめ、唇を震わせながらも、言葉をひとつも発することができなかった。彼女がこれまで必死に縋ってきた信念――文翔は紗夜を愛していない、彼女を利用しているだけで、心にいるのは自分だという思い込みは、この瞬間、音を立てて崩れ落ちた。結局、彼女のすべての策略も、得意げな自己満足も、思い上がりも、最初から最後まで、ただの笑い話に過ぎなかったのだ。自分こそが盤面を支配する棋士だと思い込んでいたのに、実は最初から、盤上にすら立っていなかった。「そんな......ありえない......」彩の声は喉の奥から無理やり絞り出されたようで、乾ききり、絶望に満ちていた。「嘘でしょ。私を騙してるに違いないわ!」彼女は最後の藁にすがるように、血走った目で紗夜を睨みつけ、その顔からほんの一瞬でも動揺や後ろめたさを見つけ出そうとした。だが、そこには何もなかった。紗夜の眼差しは、相変わらず静かだった。あまりにも静かで、残酷なほどに。彼女は彩を見ていた。まるで、滑稽で哀れな独り芝居を終えた道化を見るかのように。「もし彼が私を愛していなかったら」紗夜は淡々と、あまりにも当たり前の事実を述べるように言った。「どうして私のために、あなたを自らここへ送り込んだりするの?どうして長沢家すべてを敵に回してまで、彼を縛りつけていたあの家を爆破したりするの?どうして長沢家の未来そのものを賭けて、すでに決着のついていた私の父の事件に、すべてを注いだりするの?」紗夜が一言口にするたびに、彩の顔色は一段と青ざめていった。――そうだ。どうして忘れていたのだろう。文翔がどんな人間なのかを。冷酷で、非情で、利益を最優先する商人。彼は決して、得にならないことはしない。それなのに、紗夜のために、何度も自分のルールを破り、何度
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