月曜の朝のオフィスには、週末に溜まった湿気と、まだ誰にも手をつけられていない空気の隙間が漂っていた。前夜まで降っていた雨の名残がガラス窓に細かい水滴となって残り、街の騒音さえ鈍く遮っている。時計の針は九時を数分過ぎたばかりで、社員たちはそれぞれのデスクに散り始めたばかりだった。
河内は、いつものようにコーヒー片手に自席に戻る途中、視線の端に一瞬の違和を捉えた。フロアの向こう、企画部のエリアで、森がプリンターの前に立っていた。資料を手にしたまま、何かを待っているような姿だったが、目の動きだけが周囲とは別のリズムを持っていた。
森は企画部の中でも中堅に差しかかる立場にある男だった。技術力とバランス感覚には定評があり、上にはよく気がつき、下には過剰に干渉しない。温和でいて鋭く、社内でも“あたりさわりのない有能”として知られている。だからこそ、彼の「見てないふり」が余計に目に付いた。
その視線の先にいたのは、小阪だった。
デスクに座る彼の左耳に、朝の光が斜めに差し込んでいた。黒いスタッズのピアスが、微かに光を弾いている。顔は伏せられていたが、薄い髪がさらりと頬をかすめ、まばらなまつ毛が影を落としている。相変わらず整いすぎた横顔だと思った。飾らないようで、どこか整いすぎている。
ピアスの反射に、一瞬だけ河内の視線が泳いだ。
その刹那、森の目がわずかに動いた気がした。向きを変えた首筋が、あくまで自然を装っているのが余計に不自然だった。河内はその動きに、何か小さな針を心臓の奥に差し込まれたような感覚を覚えた。森の眼差しは曖昧で、それでいて確かに“知っている”気配があった。
なんやろな…と、河内は心の中で呟いた。別に後ろめたいことはしてへん、という言い訳のような反射的な言葉が胸の内に浮かぶ。けれど、実際はその“してへん”が何を指すのか、自分でもわからなかった。
机に戻り、モニターを立ち上げながらも、意識はどこか落ち着かなかった。斜め後方から森が資料を手に通りすぎる。すれ違いざま、声をかけるでもなく、わざと避けるでもない。だが、その一瞬の“気配”が河内の背中を
薄明かりの下、静かだったはずの空間に、ごく小さな気配が生まれた。椅子の軋む音もしなければ、物音もなかった。それでも、確かに何かが“起きた”と、河内はすぐに察した。小阪の睫毛が、わずかに揺れた。寝息が止まり、呼吸が浅くなる。まるで自分の存在に気づいたことを示すように、空気がぴんと張った。河内は身動きを取れなかった。仮眠中だと思っていたその身体が、次の瞬間、ゆっくりと動いた。小阪は顔を伏せたまま、腕の位置をわずかにずらす。その拍子に額が机から離れ、目がひらく。何秒かの間、小阪は無言だった。表情も動かさず、視線はどこにも向けられない。ただ、起きてしまったことを肯定するように、まぶたの奥に薄い影が差していく。それから、小さな息継ぎ。「……なんで優しくすんの」その声は、乾いていて、それでいて濡れていた。低く、少し掠れ、胸の奥を舐めるような温度で。「そんなん、いらんやん」何かが壊れた音がしたような気がした。それは耳に届くものではなく、皮膚の内側に沈んでいくような音だった。河内は息を飲んだわけでも、声を返したわけでもなかった。ただ、咄嗟に動かそうとした指が、デスクの上の缶に触れかけ、そのまま止まった。アルミの冷たさが指先に伝わる寸前。掴むでもなく、払うでもなく。沈黙が、今にも崩れそうな均衡を保っていた。小阪はそれ以上、何も言わなかった。顔を上げることもなく、視線も合わせなかった。まぶたの裏側に、何を隠しているのか。それとも、もうすべて見られたとでも思っているのか。河内は、無言のまま、背中を椅子に預けた。浅かった呼吸が、少しだけ深くなる。けれど、その変化を、隣の人間は見ようともしない。窓の外では、始発の車が滑るように走り抜けていった。小阪の髪が少し揺れる。肩が震えたわけではなかったが、眠っていた時よりも、その姿はかえって脆く見えた。優しさがいらないのではなく、優しさが怖いのかもしれない――そんな考えが一瞬、頭をよぎったが、河内
パソコンのディスプレイに映る進捗表は、半端な作業で途切れていた。小阪はデスクに突っ伏したまま、浅い眠りに落ちている。腕を額に乗せ、身体の輪郭が小さく縮こまる。息はゆっくりと、一定のリズムを刻んでいた。河内はその呼吸の流れを、机越しに感じ取っていた。深夜のオフィスは、雨上がりの静けさに包まれていた。外からは車の音も聞こえず、天井の照明が低い唸りをあげるだけ。そんな中で、河内は椅子に座り直し、小阪の横顔を改めて見つめていた。寝息が、ほんのわずか震えては沈む。まつ毛が長く、頬骨の影が淡く浮かぶ。その顔は、仕事中のどんな無表情よりも、脆くて、守りたくなるような静けさをたたえていた。自分でも理由はわからなかった。ただ、手を伸ばしたかった。いや、正確には「触れたい」などという明確な欲望でもなかった。もっと、どうしようもなく引き寄せられる感覚。目の前の相手がたとえどれほど傷ついても、こうして何も知らないふりで、眠っていられる時間があることを――その奇跡のような瞬間を、形に残したかったのかもしれない。河内は身体を少し前へ傾ける。手のひらを膝の上で握りしめた。額にはうっすらと汗が滲んでいた。寝息を確かめるように、小阪の肩口をそっと見下ろす。額にかかった髪が微かに揺れ、夜の空調が弱く吹き抜けていく。その揺れに目を奪われながら、河内の喉がひとつ、乾いた音を立てて上下した。唾を飲み込む動作は、自覚するより早かった。彼の頬に自分の指先が触れそうになる。だが、思いとどまる。代わりに、ごく近くまで顔を近づける。小阪の呼吸の温度が、ほのかに感じられる距離。鼻先が、寝顔の輪郭をなぞる直前で止まった。唇を落とすか、落とさないか――その一瞬の逡巡。「……」静寂のなかで、河内はほんのわずか身体を前に倒し、唇をそっと小阪の額へと落とした。押しつけるのでも、触れるだけでもない。ほんの一瞬、呼吸と心音が重なっただけ。だが、その一瞬が永遠にも感じられた。小阪の眉が、わずかに寄る。眠ったままの顔に、かすかな皺が生まれる。その動きが、抵抗なのか、無意識の戸惑いなのか、河内にはわからなかった。ただ、額に残る微かな熱と、自分の呼吸だけが、ひどく鮮明だった。キスの
夜の帳がすっかり落ち、オフィスビルの廊下には人気の気配もなかった。ビルの外壁を照らす街灯の光だけが、細長く伸びてガラス戸をかすめていた。河内は自販機の前に立ち、硬貨を投じる。取り出した缶コーヒーはまだ熱く、手のひらにじわりと熱が染みてきた。アルミの薄膜越しに感じる温度は、なぜか妙に重たかった。深夜一時を少し回った頃だった。自動ドアの前で足を止めると、河内は作業ルームのドアノブに手をかける。だが、その指先が一度、静かに止まる。中からは、かすかなキーボードの音が断続的に響いていた。タイピングというにはあまりに単調で、リズムも早くはない。まるで惰性だけで続けられているような音だった。扉を押し開けると、部屋の中には一部の照明だけが点いていた。全体を照らすには足りない灯りのなか、小阪はデスクに向かっていた。体を深く椅子に預け、画面から顔を離さない。背筋は伸びていたが、集中しているというより、意地でそこに座っているような姿勢だった。「おつかれ」そう声をかける代わりに、河内は黙って近づき、小阪の手の届く場所に缶を置いた。音を立てないよう、そっと。アルミの底がデスクに触れたときのかすかな音に、小阪の指が一瞬だけ止まった。視線は動かない。ディスプレイを見たまま、小阪は小さく頷いた。それは返事だったのか、ただの無意識の反応だったのか。判断はつかなかった。河内は背後の椅子を引いて腰を下ろす。小阪の横顔が正面から見えない角度にいたが、それでも彼の様子は痛いほどよく見えた。頬がわずかに痩け、目元には深い影が落ちている。睫毛の下で目の焦点はぼやけ、時折、瞬きのリズムがずれる。肩の線が前よりも細く見えたのは、気のせいではない。「進んでるん?」何気ない問いかけだった。仕事の話をするには、それくらいが丁度よかった。が、小阪は返事をしなかった。代わりに、手元のキーボードがわずかに速度を上げた。それが答えだと受け取るには、少し足りなかった。河内は自分の持っていたもう一本のコーヒーを開けた。プルタブの音が静寂に割って入る。中身が喉を下る温度も味も、よくわからないままだった。ただ、空気が少しだけ温もった気がした。横目で、小阪を見た。相変わらず、
朝の光は、ビルのガラス越しにゆっくりと室内に染み込んできた。夜を通して張り詰めていた空気は、ほんの少しだけ緩み、静かな疲労と共にプロジェクトルームの隅々へと滲んでいく。河内は椅子に深く腰を下ろしたまま、背もたれに頭を預けて大きく息を吐いた。視線の先では、小阪が無言でファイルを閉じ、整然と資料をまとめている。徹夜明けの疲労は隠しようもないが、彼の仕草にはいつものような乱れがない。さきほどまで、ほんの少し仮眠をとっていたとは思えないほど、表情に起伏はなかった。壁掛けの時計が八時を示した頃、ドアの向こうからノックもなく人の気配が差し込む。森だった。手にしたコンビニ袋を軽く掲げ、にやりとした笑みを浮かべながら、ふたりの前に立つ。「おつかれさん。徹夜組、よう頑張ったな」そう言って、缶コーヒーをふたつ、デスクの上に置く。片方を小阪の近くに、もう片方を河内の正面に。どちらも微糖だ。気遣いを装ったその選び方に、少しだけ棘があるような気がした。「ありがとうな。気ぃ遣わせてもうて」河内はいつもの調子で笑いながら受け取った。だがその声の底に、わずかな掠れが混じっていた。小阪は缶に触れることもなく、視線をそらしたまま黙っている。その無言が、かえって多くを物語っているようにも見えた。森はふたりの様子を、何気ない顔で見渡している。だが、その瞳の奥には、明らかな観察の光があった。仕事相手を眺めるというよりも、人と人の間に流れる“空気”を計測するような目つきだった。伏し目がちで、それでいて一瞬の視線の交差を逃さない。まるで、あえて言葉を挟まずに、空白の中に真実を見ようとするかのようだった。「あんたら、息ぴったりやな。資料、きれいに仕上がってる」葉山の言葉が、昨日の昼にあった。そのときは軽口として受け流したはずなのに、今になって妙に引っかかる。河内の胸の奥に、じわりと薄い不安が滲んでいた。小阪の仮眠姿を見つめていた夜と、この朝が地続きであることを思い知らされる。特別やと思っていた。ふたりだけの距離。誰にも知られない関係。身体を重ねながら、言葉を交わさずに済ませるやり方。仕事で見せる呼吸の合わせ方。
蛍光灯の明かりが仄かに滲むプロジェクトルームの一角で、小阪は椅子を少し倒し、浅い角度で身体を預けていた。隣の河内はパソコンに向かいながら、しばらく画面と対話していたが、ふと手を止める。指の動きが止まるのは、思考が行き詰まったからではない。無意識に、隣から聞こえる呼吸のリズムに引き寄せられていた。小阪は静かに眠っていた。深くではないが、目を閉じてしばらく経ったらしい。きちんと腕を組み、浅く息を吐くたび、シャツの胸元がわずかに上下していた。資料の束を支えるように置いた膝の上で、薄い指が軽く丸まっている。その手の力加減にさえ、どこか儚さを感じさせる。頬にかかる髪が一本、微かに揺れた。ピアスの下にある耳の輪郭が、寝息のたびにわずかに動いている。喉元のラインは静かに、しかし確かに鼓動を伝えていた。生きているという実感がそこにある。けれどその存在感は、触れたらすぐに消えてしまいそうな、薄い硝子のようだった。河内はしばらくのあいだ、キーボードの上に指を置いたまま、打鍵を忘れていた。視線がモニタから外れ、どうしても、小阪の横顔に吸い寄せられる。睫毛が長い。下を向いたそれが、頬に影を落とす。眉間がほんの少し寄っているのは、眠っていても緊張が抜けないせいだろうか。それとも、夢のなかでさえ警戒を解けないままなのか。まるで、眠ることにさえ慣れていない子どものようだった。「……こんなとこ、誰にも見せんなよ」ぽつりと、河内は呟いた。音になった自分の声に、自分で驚いた。誰にも届かないはずの声だった。誰に聞かれるわけでもなく、ただ空気のなかに放っただけの言葉。それなのに、その響きが妙に重たく胸に返ってくる。眠っている小阪に触れたいと思ったわけではなかった。触れて起こしたくも、目覚めてほしくもない。ただ、この姿を、自分以外の誰かに見せるのは嫌だった。小阪の中にある無防備な部分。それが、たとえ一瞬でも顔を覗かせたとき、それを知ってしまった自分が、どうにもやりきれなくなる。仮眠をとる小阪の肩がふと揺れた。呼吸が少し浅くなったのか、あるいは夢の途中に引っかかったのかもしれない。河内は反射的に身体を起こし、そっと視線を逸らした。無防
オフィスの空気が変わったのは、日付が変わってしばらく経った頃だった。昼間の喧騒はとうに消え、フロアに残るのは河内と小阪、そして数人の制作チームだけ。空調の音が不規則に唸り、遠くの複合機が一度だけ小さく唸ったあと、また沈黙が落ちた。蛍光灯は部分的に落とされており、プロジェクトルームには天井の間接照明がぼんやりと灯っている。スクリーンにはクライアントの修正指示が映し出されていた。急な仕様変更で、翌朝までに再提出が必要となった。葉山が「悪いけど、ふたりお願い」と言って去っていったのが、数時間前のことだ。河内はマグカップにインスタントのコーヒーを注ぎながら、小阪の姿を一瞬だけ盗み見る。資料を見ながらパソコンを操作する手が止まらず、まっすぐな背筋と、時おり前髪をかき上げる仕草だけが、妙に静かだった。小阪はジャケットを脱ぎ、椅子の背にかけていた。腕まくりされた白いシャツの袖口から、骨ばった手首と前腕が露出している。照明の加減か、皮膚が薄く見えた。その肌の上に、河内の視線が止まる。本人はまったく気づいていない様子だった。「眠いんか」河内が声をかける。コーヒーの湯気が目の前で揺れる。小阪はモニターを見たまま、指を止めずに答えた。「……別に」その返事に、特別な感情は含まれていなかった。ただ、あえて嘘もつかず、素直でもなく。夜にしか出てこない、どこか削ぎ落とされたような声音だった。「ようやるわ、小阪くん。俺はもう三回くらい魂抜けかけてるで」そう言って、笑うでもなく肩をすくめると、小阪の口角が一瞬だけ動いた気がした。笑ったとは言えない。だが、何かがわずかに弛んだのは確かだった。光の弱い部屋の中で、それはほんの瞬きのように通り過ぎた。「コーヒー、飲む?ちょっと濃いやつやけど」「……ありがとうございます。でも大丈夫です」また沈黙が戻る。けれど、それは重くはなかった。音のない空間に、ふたり分の呼吸だけが微かに重なっている。その重なり方が、どこか心地よかった。昼間のような緊張でもなく、夜色で交わす身体の距離でもない。もっと曖昧で、だが確かに&ld