All Chapters of 幾千の想いが春風に散る時: Chapter 1 - Chapter 10

28 Chapters

第1話

「結婚式から逃げたいの……お願い、助けてくれない?」病室の中、天野未幸(あまの みゆき)はスマホをぎゅっと握りしめていた。氷のように冷えた指先は真っ白になっている。まさか人生どん底のこのタイミングで、かつてのライバルに助けを求めることになるなんて、夢にも思わなかった。電話の向こうからは、くすっと小さな笑い声が聞こえた。「……は?あれだけ健之のこと好きだったくせに。やっと向こうが結婚しようって言ってきたのに、なんで今さら逃げる気になったわけ?」未幸は、自分の手首を包む分厚い包帯に目を落とし、力なく笑った。「……ただ、目が覚めただけよ。浩史……お願い、助けて。もう、どうしようもないの」必死なその声に、東雲浩史(しののめ ひろし)はしばらく言葉を失った。そしてようやく、短く告げた。「……帰国したら、迎えに行く。待ってろ」通話が切れた後、未幸は手首の包帯をじっと見つめた。三日前、彼女は藤崎健之(ふじさき たけし)の目の前で自殺を図った。深く切った手首からは大量の血が流れたけれど、運命は彼女をこんなみじめな形でおわらせることさえ、許してくれなかったようだ。生死の境界をさまよったあの瞬間、すべてがはっきりと見えた。健之を愛したことが、人生最大の過ちだったと。病室のドアが突然開かれ、ぼんやりとしていた未幸は我に返る。顔を上げると、健之が立っていた。まさか彼が病院に来るとは思っていなかった。自殺した日でさえ、健之は救急車に同乗すらしてくれなかったのだから。「サインしろ」金縁の眼鏡越しに彼の手が差し出してきた分厚い書類。その表紙に、未幸は自然と目を奪われた。――婚前契約書。未幸は書類を受け取り、さっと目を通す。どの項目も、あまりにも一方的で彼女に不利な内容だった。「夫の私生活への干渉を禁止」、「財産分与なし」、「結婚後は別居」、「離婚時、妻は一切の財産を持ち出せない」……ひとつひとつの条項が、鋭く彼女の心を刺した。手首の痛みも再びじんわりと蘇る。しばらく沈黙した後、未幸は皮肉げに笑った。結婚式が間近に迫り、きっと健之が外で付き合っている「彼女」が、我慢の限界に達したのだろう。その子をなだめるために、わざわざこの契約書を用意したのだ。自殺する前にも、この契約書を見たことがあったが、そ
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第2話

未幸はかつて、何不自由なく育ったお嬢様だった。両親は健在、裕福な家庭で、何もかも大事に与えられていた。けれど、そんな幸福な日々は、一夜にして崩れ去った。家は破産し、多額の借金を抱えた。母は病で亡くなり、父は精神を病んでビルから飛び降り、そのまま帰らぬ人に。さらに追い打ちをかけるように、未幸自身には白血病という診断が下された。幸福だった日々は、暗い闇に飲み込まれてしまった。そんな絶望の中で、未幸にとって唯一の「救い」だったのが、健之だった。風にあおられて揺れる街路樹をぼんやりと眺めながら、未幸は遠い記憶に浸る。あの頃、健之は十歳だった。端整な顔立ちに透き通るような白い肌。どこか儚げな美少女で、育ちの良さが滲み出ていた。一方の未幸は、真逆のタイプだった。田舎育ちで、よく日焼けし、元気いっぱいの活発な少女。炎天下のなか木に登ったり、川で魚を捕まえたりするのが日常で、健之の隣に並ぶと、まるで「田舎の野生児」のように見えた。出会ったその日、せっかちな未幸は、健之が自分のことあんまり好きじゃないな、とすぐ気づいた。それでも健之は、礼儀正しく、相手を傷つけるような態度は絶対にとらなかった。未幸は遠慮なく、ぐいぐいと距離を詰め、まるでゴムのように、粘っこくまとわりついた。学生時代、未幸は健之にラブレターを99通も送り続けた。読まれていないと分かっていても、毎日欠かさず届けた。健之の好きなものは、なんでも真似した。バイオリン、書道、絵画……全部、彼の影響で始めた。ある日なんて、友人のそそのかしで、大学の寮の前にハート型にキャンドルを並べて、バラを持って告白したこともあった。健之は未幸を一瞥しただけで、何も言わずにその場を立ち去った。周りに笑われても、未幸はめげなかった。翌朝も、いつも通り健之に朝ごはんを届けに行った。「まるで健之の追っかけだね」とか、「どうせ最後まで何も得られないよ」なんて、さんざん言われた。それでもある日、健之から突然の告白があり、婚約はあっという間に決まった。「女から追いかけても、上手くいくことあるんだね」と周囲は囁いた。未幸の一途さが、とうとう健之の心を動かしたのだと。でも、現実は違った。当時の藤崎家は、経済的に大きな危機に直面していた。それを打開するため、健之は仕方なく未幸を選んだのだ
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第3話

電話を切った未幸は、迷いなく車のドアをノックした。少しして車窓が下がり、健之の鋭い視線が覗いた。未幸は無言でドアを開け、そのまま車内へ乗り込む。甘ったるい香水の匂いが鼻をつき、顔をしかめながら口を開いた。「タイミング悪いと困るから、一応確認のために電話しただけ」健之は一瞬だけ戸惑ったが、特に言い訳する様子もなかった。代わりに視線を雅美に向け、優しく頬を撫でて落ち着かせる。「やだぁ、くすぐったい~」雅美はくすくす笑った。運転中の健之は、片手でハンドルを握りながら、もう一方の手で雅美と指を絡めていた。しばらくして、雅美が未幸のほうに振り向いた。「未幸さん、もう体は大丈夫?今日は健之さんと一緒に迎えに来たんですよ」さっきまで激しくキスしていたせいで、雅美の唇は腫れ、頬には赤みが残っていた。未幸は目を伏せたまま、冷たく返す。「家族の序列的には、彼ってあなたの『おじさま』にあたりますよね」雅美は健之の父と親しい名家の孫娘で、身体が弱く、十五歳のときに療養のため藤崎家へ預けられてきた。彼女を初めて見たのは、健之の父親の誕生日パーティーだった。純白のドレスに身を包んだ雅美は、まるで咲き誇るカラーの花のようだった。つい健之に目をやると、普段は冷淡なその瞳が、まるで恋に落ちたように燃えているのが分かった。十年以上も健之を追い続けてきた未幸にとって、それは衝撃だった。どれだけ手を尽くしても、その瞬間に芽生えた感情は止められなかった。健之は、雅美に一目惚れしたのだ。二十三歳の男が、十五歳の少女に恋をした。当時の未幸には、それがどういう感情なのか、どう捉えていいのか分からなかった。ただ唯一、救いだったのは、家系の序列上、健之は雅美の「叔父」にあたる立場だったということ。健之は理性的な人間。たとえ想いを抱いたとしても、倫理の一線は超えないはず――未幸はそう信じていた。けれど、それはただの甘い幻想にすぎなかった。健之にとって、倫理も、常識も、束縛も……何の意味もなかった。雅美のためなら、どこまででも堕ちていける男だった。そして、雅美が十七歳になったころには、すでに二人は関係を持っていた。「……未幸さん……」雅美がうるんだ瞳で健之の袖をそっと引く。すると健之の顔が冷たくなり、声
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第4話

「……鼻血?」未幸は目を見開いた。気づけば、両手が真っ赤に濡れていた。慌ててバッグの中を探ったが、ティッシュはどこにも見当たらなかった。「健之……ティッシュ、ある?」鼻血が襟元にまで垂れ、いくら拭っても止まらない。恥ずかしさと混乱で、彼に助けを求めるしかなかった。健之は反射的に車内のウェットティッシュに手を伸ばした。だが、その手は、雅美にあっさりと止められる。彼女は唇を尖らせ、拗ねたように言った。「健之さん、言ったよね?この車の中、全部雅美専用なんだから」健之は一瞬だけ戸惑ったが、次の瞬間には、何のためらいもなくティッシュを元に戻した。未幸は、差し出されると思っていた手が止まったまま宙に浮いているのを見つめ、声を抑えて尋ねた。「……ティッシュ一枚すら、そんなに惜しいの?私、今……」言い終える前に、雅美が眉をひそめて声をかぶせる。「きゃー、早く鼻おさえてよ!血がシートに垂れてる!やだもう……本気で気持ち悪い〜!」わざとらしく鼻をつまんで、雅美は健之の胸元に身を寄せた。「健之さん……血の匂いでまた気持ち悪くなっちゃった……前に未幸さんが自殺した時の、あのトラウマかも……」健之の目がすっと暗くなり、冷たい声が車内に落ちた。「降りろ」一瞬、未幸は聞き間違いだと思った。目を見開き、血がさらに激しく滴り落ちた。「……今、なんて言ったの?」「雅美は血の匂いが苦手なんだ。早く降りろ」窓の外では、いまだに豪雨が打ちつけていた。ガラスは水滴で曇り、外の景色はまったく見えない。未幸は傘も持っていない。それでも健之は、本気で彼女を車から降ろそうとしているのか?彼は、未幸がなぜ鼻血を流しているのかさえ、気に留めていなかった。まるで、彼女がなぜ命を絶とうとしたかにも、無関心だった時と同じように。ふと気づけば、車はすでに止まっていた。フロントガラス越しに、高架道路の上だとようやく気がつく。未幸は叫んだ。「ここで降ろすの?携帯は電池切れてるし、傘もない。タクシーなんて捕まるはずないわよ……!」健之が答えるより早く、雅美がまた泣きまねを始めた。「た、健之さん……だ、大丈夫よ……薬飲めば平気だから……未幸さんを無理に降ろさなくても……」どう見ても芝居。小学生でも見破れるレベルだった。それでも、健
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第5話

あの日、母の入院費を納める期限が迫っていた。しかし、未幸の手元には、たったの二千六百円しか残っていなかった。その時、取り立て屋が病院に押しかけてきた。そして、みんなの前で彼女を罵り始めた。「金がないなら、風俗で稼げ!」その言葉に、母はショックを受けて倒れ、緊急搬送されてしまった。助けはどこにもなかった。絶望的な状況の中で、未幸は健之に電話をかけた。しかし、彼は雅美の成人式の準備で忙しく、すぐに電話を切ってしまった。何度もかけ直してようやく繋がったとき、健之の声は冷たく、氷のようだった。「もうやめろよ。昨日、秘書に四千万円の小切手を渡しただろ?」そう言って、彼はすぐに電話を切った。未幸は戸惑った。そんな小切手なんて、もらっていない。疑念に駆られながら、ふと見ると、雅美から動画が届いていた。小切手を手にした雅美は、それをくるくる回しながら、冷ややかに笑った。「欲しいの?じゃあ、犬みたいに地面に這いつくばってお願いしてみなよ」未幸は歯を食いしばりながら、言われた通りに地面にひざまずいた。けれど、雅美はその小切手を破り捨て、嘲笑を浮かべながら言った。その瞬間、未幸は崩れ落ちそうになった。しかし、治療室で母親がどんな状況かを考えると、立ち止まってはいられなかった。彼女は、健之の母・藤崎美和子(ふじさき みわこ)に頭を下げる決意をした。美和子は、元々未幸を「成金の娘」として見下し、息子にはふさわしくない存在だと考えていた。もし藤崎家に経済的な困難がなければ、彼女との婚約など絶対に認めなかっただろう。地面に倒れ、涙ながらに懇願する未幸を見て、美和子はゆっくりと口を開いた。「いいわ、貸してあげる。でも条件があるわよ」――結婚後、男の子を産みなさい。そして、出産したらすぐに離婚すること。問い詰めたところ、藤崎家の人々はすでに健之と雅美の関係を知っていたことが明らかになった。自分がただの「出産装置」として扱われていることを知り、未幸は心底打ちのめされた。しかし、彼女には選択肢がなかった。結局、金を手に入れて病院に駆けつけたとき、母はすでに息を引き取っていた。さらに、医者からは自分の白血病の診断も告げられた。初期とはいえ、病状は進行しており、治療費も莫大である。母の葬儀を終えたばかりの未幸に、また
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第6話

あの瞬間、未幸は、ベッドの上で絡み合っている二人をナイフで刺したくてたまらなかった。でも、最終的に彼女が刃を向けたのは、自分自身だった。この世界には、もう彼女が生きていたいと思える人も、場所も、何一つ残っていなかったから。けたたましいクラクションが響き、未幸はふっと現実に引き戻された。目の前に広がるのは、激しく打ちつけるような土砂降りの雨。その景色が、だんだん黒く染まっていく。視界がぐらつき、足元がふらついている。次の瞬間――未幸の身体は、地面に崩れ落ちた。意識が戻った時、すでに外は真っ暗だった。「通りすがりの女性ドライバーが、病院まで運んでくださいました」と看護師が告げた。その言葉に、未幸はようやくほっと息をついた。しかし、手首に巻かれた包帯を見ると、心の奥が痛むようだった。今、夜はすっかり更けている。きっと健之は、雅美と一緒に母親の誕生日を祝っているのだろう。家族全員が幸せそうに過ごしているその中に、再び病院で目を覚ましている自分を、誰も気にしていないだろう。「天野さん、もし体調が大丈夫でしたら、入院費用の確認をお願いしますね」看護師の声で、未幸は現実に引き戻された。自殺未遂の日、彼女の手元にあったのは、たった数百円だけだった。前回の入院費も健之が支払ってくれた。でも、今回はどうする?「……天野さん?」怪訝そうに見つめる看護師に、未幸はわずかに笑顔を作った。「……少しだけ待ってもらえますか?家族に連絡してみるので」看護師はそれ以上何も言わず、薬の交換を終えて部屋を出て行った。その後、不意にスマホの着信音が鳴った。未幸は手を伸ばすが、包帯の下の手首に鋭い痛みが走り、思わず手が滑ってスマホが床に落ちてしまった。急いで拾い上げると、画面には「健之」の名前が表示されていた。しかし、わずかにためらった後、彼は電話を切った。通話履歴を開くと、すでに何度も着信があったことが分かった。未幸はその履歴をちらっと見ただけで、掛け直さなかった。代わりに、彼からのメッセージが立て続けに届いていた。【どこにいる?】【またくだらないことしてんのか?今日、俺の母さんの誕生日だぞ。来ないのか?】【電話にも出ないなんて、ちょっと調子に乗ってるんじゃねえか?】胸の奥がキリキリと痛み、吐き気さえ覚
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第7話

内容は言うまでもなく、また雅美が健之と一緒に過ごしたという報告だった。【昨日の健之さん、ほんっとに激しかったの……体クタクタで死にそう。でもあなたは羨ましいよね?だって、健之さん、あなたのことなんて一度も触れたことないんだもん】その後には、目を覆いたくなるような写真がいくつも添付されていた。未幸はそれらを見つめながら、冷笑を漏らす。確かに、婚約してから今日に至るまで、健之は未幸に一度も触れたことがなかった。手を繋いだことすら、数えるほどしかない。唯一の接触は、大学の卒業式の日に、あの静かな廊下で、健之が突然未幸を壁際に押しやり、強引にキスをしてきたことがあった。その記憶を思い出すだけで、未幸は吐き気を催す。彼女はこみ上げる気持ち悪さを抑えながら、写真をすべて保存していった。未幸は病院に三日間入院した後、退院手続きを済ませてその足で藤崎家へ向かった。しかし、タイミングが悪いことに、家の前で健之と雅美に鉢合わせてしまった。車から降りた瞬間、健之が勢いよく駆け寄ってきた。「ここ数日、どこ行ってたんだ!いい加減にしろよ、みんながどれだけ心配してたと思ってるんだ!」雅美もすかさず、鼻にかかった甘い声で口を挟む。「未幸さんって、本当に手のかかる人ね。もうすぐ結婚するっていうのに、健之さんをこんなに心配させて……」未幸は皮肉げに微笑みながら呟いた。「藤崎家に、私のことを心配してくれる人なんて、いるのかしら?」どうせ、健之の両親は、彼女がこのままひっそり死んでくれればと思っていたに違いない。その一言に、健之は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに苛立ちを露わにし、未幸の手首を強く掴んだ。「てっきりお前は二度と戻らないつもりかと思ったぜ。まさか金に困って戻ってきたのか?」その力はあまりにも強く、ようやく癒えかけていた傷口がまた開いたような痛みが走った。未幸は無言で手を振り払う。その目には、もはや感情の色はなかった。「……ここ数日、私は病院にいた。高架下に捨てられたあの日、気を失って倒れたのだ」健之の表情が固まり、その場に凍りつくような空気が流れる。それでも雅美はお構いなしに、薄ら笑いを浮かべて言った。「未幸さんって、昔から健康そのものだったじゃない?どうしてそんなに打たれ弱くなっちゃったの?」健之は眼
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第8話

「そうだ、未幸さん。私、健之さんと相談して、あなたの結婚式でブライズメイドをやることにしたの」未幸は横顔を向けたまま、ニッコリと微笑んで返す。「いっそ花嫁になったらどうかしら?ま、でも叔父と姪っ子の結婚なんて、世間に知られたら、聞こえは最悪だけど?」雅美は唇をぎゅっと噛み締め、目元がじわっと赤くなっていた。「……未幸さん、怒ってるの……?」未幸は相変わらず淡い笑みを浮かべたまま、落ち着いた声で言う。「あなたに怒るなんて、とんでもないわ。もしそんなことしたら、『藤崎家の妻』の座が危うくなるもの」「もういい加減にしろ!」とうとう我慢の限界が来たのか、健之が怒鳴り声を上げた。未幸は無言でスーツケースのハンドルを引き直し、きっぱりと宣言した。「……しばらく、この家を出て暮らすわ」健之が去ろうとする未幸の腕を強引に掴んで引き戻した。「一体何を考えてるんだ!」その勢いでよろめいた未幸は、近くのキャビネットにぶつかり、痛みで顔が真っ青になる。思わず、低く小さな呻き声が漏れた。健之は怒りに任せてさらに詰め寄ろうとしたが、次の瞬間、未幸の鼻から再び赤い血が垂れてきた。「……どうしたんだ、お前?」未幸は無言のまま鼻を押さえ、ティッシュを手に取り、そのままバスルームへ向かった。健之も後を追ってくる。「……また鼻血が出てるじゃないか。何があったんだ?」未幸は首を反らし、無言のまま答えなかった。そんな彼女を見て、健之の眉間には深いしわが刻まれる。その様子を見た雅美は、まさか健之がこれほどまで未幸を心配しているとは思っていなかったらしく、口元を噛みしめて不満げな表情を浮かべる。「健之さん……もう行かないと、遅れちゃうよ?」健之は未幸を一瞥すると、表情をすっと冷静に戻し、強い口調で言った。「……未幸も一緒に来い。ウェディングドレスはもうオーダーしてある」未幸が何も返す間もなく、健之は彼女の手首を掴んで、車へと連れて行く。道中、車内では健之と雅美が仲睦まじく談笑していた。まるで未幸など、最初からそこに存在していないかのように。雅美は何度か後ろを振り返り、挑発的な視線を投げかけてきたが、未幸はそれをすべて無視した。顔を窓の外へ向け、淡々と景色を眺める。けれど、ふとした拍子にミラー越しに視線
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第9話

未幸は静かに視線を落とし、何も言わず試着室へと向かい、ドレスを脱いだ。戻ったとき、ふたりは親しく恋人のように寄り添い、雅美が何度もスマホでツーショットを撮っていた。未幸の姿を見た雅美は、意味ありげに眉をひそめて声をかけた。「ねぇ、未幸さん。さっき健之さんと相談してたんだけど……式場の白バラ、私の好きなブルーローズに変えてもいいかな?こっちのほうが、私のドレスにぴったりだわ。未幸さんはどう思う?」「好きにすればいいわ。私はもう行くから」それだけを淡々と告げて、未幸は一度も振り返ることなく、ドレスショップをあとにした。どうせこれは、彼らの結婚式。どんな花を飾ろうが、彼女には関係のない話だった。背を向ける未幸の姿を、健之は険しい表情でじっと見送っていた。外に出て間もなく、空は急に雨が降り出した。未幸は小走りで近くの建物の軒先を探したが、不意に誰かとぶつかった。「ごめんなさいっ……!」思わず声を上げて謝った次の瞬間、頭上から気だるげな笑い声が降ってきた。「どうした、今じゃドジっ子なのか?」驚いて顔を上げると、そこには上がり気味の目尻、狐のような瞳があった。あのとき突然消えたかのような人物が、今また目の前に現れた。それは、浩史だった。六年ぶりの再会。変わったようで、変わっていない。端整な顔立ちは昔よりもシャープになり、鼻先の小さなホクロがさらに目を引いた。未幸は彼の顔をじっと見つめ、言葉が出なかった。どれほどの時間、そうしていたのか自分でもわからない。ようやく口元に笑みを浮かべて、かすかに声を出す。「……久しぶり、浩史」浩史は傘を彼女側に傾けながら、口角を緩めて言った。「おう、久しぶり。泣き虫未幸」喫茶店で、ふたりは向かい合って座った。浩史が何度も問いかけてくる中、未幸はこれまでの経緯をすべて話した。天野家の事を聞き終えた浩史は、しばらく言葉を発しなかった。「……どうして、もっと早く俺に連絡しなかった?」未幸は、答えられなかった。ただ小さく首を横に振る。どう言えばよかったのだろう?あのとき、自分は浩史の告白をはっきり断った。「健之が好きよ、絶対に後悔しないから」と、はっきり言った。その自分が今、彼に助けを乞うなんて。浩史も黙っていた。しばらくして、ふっと笑って言
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第10話

未幸は一歩も動かず、代わりに隣の浩史へ顔を向けて言った。「久しぶりね。食事でもどう?」話し終えると、健之は皮肉げに笑いながら窓を上げ、車を走らせて行ってしまった。未幸は、雨の中に消えていく車を見つめ、怒りも悲しみも感じなかった。浩史は未幸の肩に添えていた腕をそっと離し、首をかしげて聞く。「それで、食事行く?」未幸は我に返ったように微笑んだ。「もちろん」それから数時間。ふたりは暗黙の了解で、あの出来事について一切触れなかった。未幸が藤崎家へ戻ったのは、夜の十時を過ぎた頃だった。彼女がこの家に引っ越してきてから、健之はほとんど家に帰ってこなかった。だから、今日も家にはいないはずだと思っていたが、玄関をくぐった瞬間、リビングの奥から鋭い視線が突き刺さる。二人は無言のまま目を合わせる。先に立ち上がったのは、健之の方だった。彼はゆっくり近づき、低く問いかけた。「……やっと帰ったのか?」近づくと、強いアルコールの匂いが鼻を突いた。未幸は顔をしかめながら、素早く背を向ける。「……疲れてるの。先に休む」階段を上がろうとしたその瞬間、腕を強引に引かれ、彼女の身体はソファに押し倒された。「この数日、ずっとあいつと一緒にいたのか?……だから、金の話もしてこなかったんだな。まさか、もう別の男を見つけたのか?」健之の目は赤く充血していた。未幸は混乱した。何を言おうとしたその瞬間、冷たい唇が強引に彼女に押しつけられた。「いいか、未幸。お前は俺の妻になるんだ。俺の許可なく、他の男と関わるなんて絶対に許さない。とくに、浩史とはな!」そう叫びながら、健之はほとんど狂ったように、未幸の服を乱暴に引き裂こうとした。未幸は必死に叫びながら、抵抗した。「やめてっ!健之!あんた頭おかしいの!?」抵抗するほど、彼の力は強くなった。とうとう、未幸の上着がビリリと音を立てて裂ける。その瞬間、彼女の手が勢いよく振り抜かれた。パァン!鮮やかな音とともに、健之の頬に赤い五本の指跡が浮かび上がった。その痛みでようやく彼の意識が戻った。未幸の気まずい姿を見つめながら、健之は立ち尽くして動けなかった。「健之さん……!?」そのとき、いつの間にか雅美がリビングに姿を現した。目を見開き、信じられない顔で健之を見ている。涙を
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