All Chapters of 娘が死んだ後、クズ社長と元カノが結ばれた: Chapter 1021 - Chapter 1030

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第1021話

その声には、蒼空にも聞き覚えがあった。遥樹のそばにいる女秘書、真理子の声だ。真理子の口から出た「時友社長」――その瞬間、蒼空は全身が凍りつくような感覚に襲われ、血の気が一気に引いた。それ以降の動きは、ほとんど反射的だった。彼女は勢いよく扉を押し開け、部屋の中へ踏み込む。目に飛び込んできたのは、大きなベッドと、その上で重なり合う男女の姿だった。蒼空の瞳が、ぎゅっと縮む。遥樹はベッドに仰向けになっていた。白いスーツはそのままだが、ネクタイはいつの間にか外され、ジャケットのボタンも開けられている。中の白いシャツのボタンも外され、整った鎖骨と長い首筋があらわになっていた。頬は赤く、目を閉じたまま、きれいな眉をわずかにひそめ、潤んだ唇をわずかに開いて熱を帯びた息を吐いている。片手は、覆いかぶさる女の肩に添えられていた。そう、遥樹の上には、確かに女がいた。女は蒼空に背を向け、上半身を遥樹に預けている。絹のような質感の赤いキャミソールワンピースを着ており、肩紐の一本はずり落ち、白くなめらかな肩や首元、太ももが大きく露わになっていた。細い指は、遥樹の露出した鎖骨の上に置かれ、髪が彼の体に落ちかかっている。あまりにも目に刺さる光景だった。生々しく艶めいたその情景が、これから何が起きるかを雄弁に物語っている。蒼空の耳の奥で、ぶうん、と音が鳴った。思考はほとんど止まり、胸の奥が重く沈み、体の血液が凍りついたように感じられた。遥樹の上にいた女は物音に気づき、振り返って唇を吊り上げた。「見たいなら勝手にどうぞ」真理子だった。蒼空の頭は真っ白のまま、真理子が言葉を発しながら、指で遥樹の鎖骨をなぞるのを見ていた。「時友社長......」艶を含んだ声が、室内に落ちる。「......誰だ?」遥樹は目を閉じたまま、状況をまるで把握していないように、成すがままにされつつ、ゆっくりと問いを吐き出した。真理子は甘く笑う。「私よ、真理子」その瞬間、蒼空は遥樹を憎んだ。だが次の瞬間――遥樹は目を閉じたまま、身の上の真理子を乱暴に振り払った。「触るな!」真理子は悲鳴を上げ、ベッドの端から床へと転げ落ちる。遥樹は苛立たしげに起き上がり、目を開け、沈んだ眼差しで真理子を睨みつ
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第1022話

遥樹の目はさらに赤くなり、ひどく悔しそうだったが、その感情を蒼空の前であからさまにする勇気はなかった。一歩前に出ると、蒼空は反射的に一歩退く。その動きに、遥樹の表情が一変し、戸惑いと悔しさを滲ませて彼女を見つめ、焦ったように言った。「婚約のことは本当に知らなかったし、今の俺は薬を盛られてて......許した覚えなんてない......」そう言いながら眉を強く寄せ、襟元を掴んで俯く。苦しそうに小さく息を吐き、頬の赤みはいっそう濃くなり、こめかみや首元には汗が滲んでいた。蒼空も眉をひそめ、手を伸ばそうとしたそのとき、真理子がまた駆け寄り、遥樹を支えて言った。「時友社長、病院へ行きましょう――」遥樹は彼女の腕から自分の腕を引き抜き、低く抑えた声で怒鳴る。「どけ!」真理子の胸が冷え、宙に伸ばした手がそのまま固まった。それでも諦めきれず、また手を伸ばそうとする。遥樹は大きく踏み出し、蒼空の手を取ろうとしたが、突然視界がぐらつき、熱を帯びた息を漏らしながら、そのまま横のクローゼットに体を預けた。寄りかからなければ、倒れてしまいそうだった。目元は潤み、視界は揺れてぼやけ、蒼空の表情がはっきり見えない。ただ、自分がもう立っていられないことと、蒼空がまだその場を動いていないことだけは分かった。胸の奥が酸っぱくなるほど苦しく、喉が詰まる。彼は蒼空に向かって手を伸ばす。「蒼空......」蒼空は眉を寄せ、一歩近づいてその手を掴んだ。「つらいの?」その一言だけで、遥樹の心は一気にほどけた。掌に伝わる温もりを感じ、遥樹は蒼空に近づき、彼女を強く抱きしめ、身をかがめて耳元で囁く。「うん、つらい......蒼空、すごくつらい......病院に連れてって。お願い......」蒼空も彼を抱き留める。「つらい」という言葉を何度も聞いて眉をひそめ、さらに、彼の身にまとわりつくかすかな女性用香水の匂いに胸が重くなる。「先に病院へ行こう。もう話さなくていいから」少し離れた場所で、真理子が言いかけた。「待っ――」その声を聞いた瞬間、遥樹は蒼空をさらに強く抱きしめた。突き放されるのが怖くて、心の中には悔しさと後悔、そして真理子への激しい嫌悪だけが残っていた。蒼空は淡々と真理子を一瞥し、静かに
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第1023話

哲郎は怒りを必死に抑え、開口一番、問い詰めるように言った。「遥樹、どこへ行ってた?客がお前のことを待っているのに、勝手に姿を消して、どういうつもりだ」遥樹は息を整えながら答える。「じいさん、俺、薬を盛られた。今から病院に行くよ」「薬を盛られた?大丈夫?」遥樹は言った。「平気」哲郎の声色が変わり、急に厳しくなる。「なるほど、菜々が具合が悪そうだと言っていたのはそのせいか。今どこにいる?人を向かわせて病院に行かせよう」遥樹は答えた。「大丈夫。蒼空が一緒だから。彼女が送ってくれる」哲郎はしばらく黙り込み、やがて言った。「遥樹、お前と蒼空は――」遥樹は小さく「ん」と応じ、顔を横に向けて受話口を押さえ、一度荒く息を吐いてから、スマホに向かって続けた。「じいさん、ホテルの監視カメラと厨房を調べてくれる?俺に薬を盛った人間を絶対に見逃さないで。特に、秘書の森真理子を重点的に調べてほしいんだ」哲郎は低い声で言った。「分かった」遥樹は続ける。「俺のことは心配しないで。客のほうは、じいさんから説明してあげて。今から病院へ向かうから、ごめんって」哲郎が言った。「本当に、付き添いを向かわせなくていいのか?」遥樹はきっぱりと答えた。「蒼空がいるし、大丈夫だよ。彼女ならちゃんと俺を看てくれるから」哲郎はまた沈黙し、少ししてから言った。「今夜、私が黙っていろいろ進めたことを、お前は恨んでいるか?正直、これが本当にお前のためになるのか、私にも分からない」遥樹は息を吸い、少しかすれた声で言った。「じいさん、もう二度と、こんなことはしないで。婚約の話は、俺は絶対に認めないから。客への説明は、じいさんに任せたよ。日下家に対しては、俺は何も後ろめたいことはない。説明する必要もない。俺は最初から、ほかの女性と婚約するつもりなんてなかった。謝罪を求めないだけでも、十分に礼を尽くしていると思う」哲郎はため息をついた。「菜々はお前と一緒に育ったんだ。それほど嫌いなのか」遥樹は言った。「前にも言ったよね。俺が好きなのは、蒼空だけだって」そう言いながら、遥樹は蒼空のほうをちらりと見た。蒼空は視線を落とし、胸の奥が少し酸っぱくなる。哲郎はしばらく黙り、長いため息をついた。「病院へ行きな
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第1024話

蒼空は思わず笑って、彼の背中を軽く叩いた。「誰が」エレベーターの扉が開き、入口から小さな驚いた声が聞こえた。蒼空が視線を上げると、エレベーターの外に一人の女性が立っていて、顔を真っ赤にして二人を見ていた。蒼空は唇をきゅっと結び、遥樹の背中を叩く。「ほら、起きて。降りるわよ」遥樹は大人しく身を起こし、蒼空に連れられてエレベーターを降りた。その女性は顔を赤らめたまま、俯いて二人を見ようとしなかった。そこはホテルのロビーで、正面の扉は開いたままになっており、外の冷たい風がそのまま吹き込んできていた。蒼空は遥樹を立たせ、自分は手を伸ばして彼の服のボタンを留めてやる。哲郎の指示を受けたホテルのスタッフが、すでにコートを持って待機しており、二人を見ると駆け寄ってきて、遥樹に差し出した。「時友社長、外は冷えますので、こちらを」蒼空がそれを受け取ると、遥樹は素直に身をかがめ、目を輝かせて蒼空を見つめ、彼女にコートを掛けてもらった。スタッフは一瞬ためらい、二人をそっと観察してから慎重に言った。「病院までの車はこちらで手配しておりますが、いかがなさいますか」遥樹は蒼空を見る。蒼空はコートのボタンを留めながら言った。「大丈夫です。もう運転手に車を回させていますので」スタッフが外を見ると、黒いワンボックスカーがすでに入口に停まっていた。彼は素直に一歩退いた。「かしこまりました」蒼空はそのスタッフを見て、何か思い当たるような表情をしたが、何も言わず、遥樹を支えて車に乗せた。事前に運転手へ伝えてあったため、二人が乗り込むとすぐに車は発進し、最寄りの病院へ向かった。後部座席で、遥樹は蒼空の肩にもたれ、彼女の腕を抱き、目を閉じたまま口を少し開けて熱い息を吐いている。蒼空は手を伸ばして彼の額に触れ、しばらくして眉をひそめた。「......熱い」遥樹の額は熱を帯び、蒼空の手のひらはひんやりとしていた。遥樹は、場違いな衝動が込み上げてくるのを必死に抑え、強く目を閉じて、ようやく堪えた。彼は体をこわばらせ、蒼空の手を引き下ろして、自分の手でぎゅっと握る。「蒼空......」蒼空は俯いた拍子に、明らかに異変のある一部が視界に入り、視線が一瞬止まり、すぐにゆっくりと逸らした。理由もなく喉
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第1025話

蒼空は目を閉じかけ、菜々とこれ以上言い合う気にはなれず、率直に切り出した。「遥樹に薬を盛った件、どこまで調べが進んでいますか」話題が急に変わり、菜々は一瞬きょとんとしたが、すぐに理解して答えた。「まだ監視カメラの確認と聞き取りをしているところで......」蒼空は、今夜スタッフから聞いた「遥樹が自分のために用意したプレジデンシャルスイート」のことを思い出し、どうにも腑に落ちないと感じていた。もし本当に遥樹が手配した部屋なら、今夜電話してきたとき、彼が自分の居場所を聞くはずがない。その後、遥樹は彼女を迎えに来ると言ったが、姿を見せたのはスタッフで、そこから蒼空は一連の出来事に巻き込まれた。しかも、真理子の部屋は彼女の隣だった。そう考えると、部屋を手配したのは真理子で、わざと彼女に自分と遥樹の一幕を見せ、完全に諦めさせるつもりだった可能性が高い。今夜の出来事を総合すれば、この件にも明らかに不審な点がある。蒼空は菜々に言った。「今夜、1304号室を予約したのが誰か、調べてください。そこに突破口があると思います」菜々は怪訝そうに聞き返した。「どういうこと?」蒼空は、ここではっきり言わなければ、菜々の性格上、協力は得られないと分かっていた。そこで、あえて踏み込んで話すことにした。「私が着いたとき、スタッフは『時友社長が1304号室を用意した』と言いました。でも、遥樹本人はそのことを知りませんでした。その後、彼は薬を盛られ、秘書の森に1305号室へ連れて行かれた。私が間に合わなければ、何が起きていたか分かりません。二つの部屋がこんなに近いのは、偶然とは思えません」すべてを語ったわけではないが、これで十分伝わるはずだった。菜々の声が一気に高くなる。「何ですって?!あの秘書が、そんなことを......!」蒼空は淡々と言った。「さっき、遥樹はおじいさんに森を監視するよう頼みました。部屋を取ったのが誰なのかも、改めて調べてください」菜々は歯を食いしばる。「どうして秘書まで......わかった。必ず調べ上げるわ、絶対に許さないんだから」蒼空は短く「ええ」と答え、落ち着いた声で続けた。「遥樹は今、博雅(はくが)病院にいます。来たいなら、どうぞ」病院名を聞いた途端、菜々は電話を切った。
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第1026話

彼はゆっくりと息を吐き出した。「いいだろう」麻子と晋也は顔を見合わせ、麻子が一歩前に出て、蒼空を上から下まで見回し、眉をひそめる。「失礼ですが......あなたと遥樹は、どういうご関係ですか」この瞬間、蒼空は本気で病床の遥樹を叩き起こしたくなった。彼女は淡々と答えた。「私が何を言っても、きっと信じてはもらえないでしょう。遥樹が目を覚してから、直接ご本人に聞いてください」麻子の眉はさらに深く寄った。蒼空はそれを気にも留めない。哲郎が軽く咳払いをし、踵を返す。「中を見てこよう」麻子は応じ、病室に入る際、もう一度蒼空を振り返った。その視線には迷いとためらいが滲んでいた。蒼空が呼び止める。「お待ちください」哲郎が足を止めた。「まだ何か?」蒼空は彼を見上げ、尋ねた。「薬を盛った人物は分かりましたか」哲郎はうなずき、低い声で答える。「森真理子だ。監視カメラに、彼女が遥樹の酒に薬を入れる様子が映っていた。君に1304号室を手配したのも彼女だ。菜々が遥樹の異変に気づいた後、意識がはっきりしない隙に連れ出した。君が間に合わなければ、本当に取り返しがつかなかった。証拠と本人はすでに警察に引き渡した。あとの処理はこちらで責任を持つつもりでいる」――やはり、真理子だった。蒼空はうなずいた。「そうですか。分かりました」用件を終えると、哲郎は日下夫婦に向き直る。「中へ」蒼空も彼らの後に続いて病室に入った。病室では、菜々が涙を拭いながらベッド脇に座り、両手で遥樹の手を包み込むようにして、か細くすすり泣いていた。遥樹は眠ったままで、そのことを知る由もなく、自分の手が菜々に握られていることにも気づいていない。前に立っていた麻子はその光景を見ると、再び蒼空を振り返った。蒼空は視線を伏せ、まるで何も感じていないかのように見せている。麻子は疑念を抱きつつ、顔を背けた。――実際には、蒼空は今にも遥樹を起こしてしまいそうだった。哲郎は一通り見渡し、蒼空に尋ねる。「いつになったら、目を覚ますんだ?」蒼空は声を落とした。「分かりません。明日かもしれませんし、今すぐかもしれません」すると、菜々の泣き声が急に大きくなり、顔を遥樹の手のひらに埋めそうになる。赤い目のまま
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第1027話

且つ、病室には時友家と日下家の人間が大勢集まっており、しかも衆人環視の中で婚約を発表された遥樹の「婚約者」までいた。蒼空はいくら面の皮が厚いとはいえ、ああした病室に居続けることはできなかった。少し感情的になっていたのも事実だが、遥樹のそばには菜々と両家の人間がついている。大事にはならないだろうと判断し、彼女はその場を離れた。胸の奥に溜まった苛立ちを抱えたままの立ち去りだった。蒼空が去ったことで、病室の空気は明らかに和らいだ。菜々も大きく息をつき、改めて遥樹の方へ意識を向ける。蒼空がエレベーターの前に着いて間もなく、遥樹は目を覚ました。菜々は喜びいっぱいに駆け寄り、涙を浮かべて遥樹を見つめる。「遥樹、やっと目を覚ましたのね」動きに気づいた哲郎も近づき、身をかがめて声をかけた。「遥樹」遥樹はぼんやりとした視線で、必死に周囲を見回す。そこに蒼空の姿はなく、彼はわずかに眉を寄せ、哲郎を見た。「じいさん、蒼空はどこ?」目覚めて最初に口にしたのは、蒼空の名前だった。周囲に小さなどよめきが走る。哲郎は表情を読ませず、日下夫婦の顔は硬くこわばった。菜々は驚きと怒り、そして悔しさが入り混じった表情で、遥樹の手を強く握る。「どうして彼女のことを聞くの?私こそ、遥樹の婚約者なのに」誰も答えなかったため、遥樹はもう一度病室を見渡し、蒼空がいないことを確認した。菜々が近づきすぎてきたため、遥樹は顔を背け、明らかな拒絶を示す。眉をさらに深く寄せ、かすれた声で言った。「菜々、少し離れてくれ」「え......」菜々の目はさらに赤くなる。遥樹は手を上げて彼女を押しのけようとしたが、その瞬間、自分の手が握られていることに気づいた。小さく舌打ちし、菜々の手を振りほどき、ほとんど覆いかぶさっていた彼女を押し返す。再び周囲を見回したが、やはり蒼空はいない。病室の入口にも人影はなかった。嫌な予感が胸をよぎり、彼は無理に体を起こす。菜々が支えようとしたが、彼はそれを押しのけた。点滴を打ってからすでに一時間近くが経ち、体内の薬効はほぼ抜けていた。まだ力は入らないものの、支えが必要なほどではない。起き上がると視界は広がったが、それでも蒼空の姿は見当たらなかった。遥樹は哲郎を見つめる
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第1028話

遥樹は頑なな態度を崩さず、ベッド脇のスリッパを履くと、周囲の制止も聞かずに立ち去ろうとした。日下夫婦の顔色はみるみる悪くなる。哲郎は眉を強くひそめ、声を低く抑えた。「遥樹、何をしている。ここには大勢の人がいるんだ、少しは体面というものを考えなさい」遥樹の足は、病室の扉の前でようやく止まった。ドアノブに手をかけたまま振り返らず、皆の目に映るのは、広くまっすぐな背中だけだった。低く沈んだ声が響く。「俺は、俺に隠れて婚約を決めた皆さんに対して、怒りをぶつけていない。それだけでも、十分に譲ったと思っています」誰も口を開かない。遥樹は続けた。「蒼空は俺の彼女です。目の前で、俺が別の女と婚約するのを見せられて、その上、俺を病院まで送り、看病までしたあとで、あなた方に追い出された。胸に手を当てて考えてみてください。本当に、後ろめたさを感じないんですか?」菜々は呆然とし、哲郎は目を閉じてため息をついた。「彼女が怒らなかったのは、あなた方が俺の親族だからです。俺の顔を立ててくれたんです。俺は、そのことに感謝すべきだと思っています」そう言ってから、はっきりと告げた。「だから今から、俺は彼女をなだめに行く。わかってください」それだけ言い残し、遥樹はもう立ち止まらず、扉を開けて足早に出て行った。病室には、互いの顔を見合わせる人々だけが残された。菜々は、開いたままの扉の隙間をぼんやりと見つめていたが、やがて鼻をすすり、両手で顔を覆って泣き出した。麻子は表情を崩しながらも、なお貴婦人としての体裁を保ち、歩み寄って菜々を抱き寄せる。「菜々は小さい頃から、手のひらで大切に育ててきた子よ。こんな屈辱を味わったことなんて、一度もなかった」声はできるだけ穏やかに保っていたが、その内に秘めた怒りは隠しきれなかった。遥樹がどれほど優れた人間でも、ここまでして自分の大切な娘の面目を踏みにじることは許せない。誰であろうと、娘をこんな扱いにすることは認められなかった。哲郎は、腰が少し曲がったように見えた。「この件は、私の配慮が足りなかった。申し訳ないことをした......遠藤」遠藤が「はい」と応じると、哲郎は言った。「見送りに行きなさい」晋也は襟元を引き、低い声で答える。「結構です。自分で帰ります」
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第1029話

遥樹はまだ顔色が青白く、息も荒かった。蒼空が抵抗するのを感じると、彼はさらに力を込めて彼女の手首を掴む。「行くな、ここにいて、俺のそばにいてよ」振りほどけないと悟った蒼空は抵抗をやめ、遥樹の顔をまっすぐ見つめた。「いつ目が覚めたの?」蒼空の口調も表情も落ち着いていたが、遥樹は気を抜けず、一歩近づく。「さっきだ。戻ろう?約束しただろ。病院で一緒にいてくれるって」蒼空は一瞬言葉を止め、首を縦には振らずに問い返した。「......あの人たちは、まだいるの?」遥樹は手に力を込め、声を低くし、わずかに懇願するように言った。「もう、誰にも君を困らせないから」蒼空はしばらく沈黙し、やがて口を開く。「あなたのおじいさんもいるし、菜々も日下家の人たちもいる。私が戻ったら、皆が気まずくなるだけよ」そう言って、遥樹の目を見つめる。「あなたも、困ることになる」「困らない」遥樹は焦るように言った。「約束する。ちゃんと全部片づける。じいさんにも日下家にも、俺が説明する。だから行かないで」蒼空はしばらく黙り込み、視線を落として、彼女の手首を掴んでいる遥樹の手の甲を見た。ふと、その視線が止まる。彼女は手を伸ばし、遥樹の手を引き寄せ、うつむいて確認した。色白な腕だからこそ、手の甲に走る細長い傷と、そこからにじむ鮮やかな血がいっそう目立っていた。「ちょっ、あなた!」蒼空は彼の手を掴んだまま、ようやく思い出す。自分が病室を出たとき、点滴はまだ半分以上残っていた。――遥樹は、自分で点滴を抜いて、彼女を追ってきたのだ。蒼空はすぐに顔を上げ、睨む。「なんでこんなことを......!」遥樹は唇を結び、わざと可哀想そうな顔をした。「目が覚めたら蒼空がいなくて、不安になって......だから、探しに来たんだ。わざとじゃないんだ......」「無茶なことばかりして......」蒼空は低く叱った。遥樹の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。彼女が自分のことで焦ってくれる、その表情が見たかった。それがたまらなく可愛かった。彼は甘えるように体を寄せ、半ば抱きつく。蒼空は彼の手を引いたまま車のドアを開け、車内に置いてあったティッシュを取り出し、遥樹の傷口に押し当てた。一言も言わずにドアを
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第1030話

遥樹は蒼空を連れ戻せたことで機嫌がすこぶる良く、看護師に何を言われても軽くうなずくだけで、まるで説教が耳に入っていない様子だった。その態度に看護師は腹を立て、顔をしかめて立ち去っていく。蒼空は不機嫌そうに彼を睨んだが、遥樹は彼女の手を引き、どこか挑発的な笑みを浮かべた。哲郎は二人を見て、大きくため息をつき、遥樹に言った。「今回は、すまなかった。お前に黙って菜々との婚約を進めるべきではなかった。日下家のほうは私が話をつける。それから、薬の件も調べはついた。犯人はお前の身近にいた秘書だ。すでに警察に引き渡した。あとのことは気にしなくていい、今は静養に専念しなさい」遥樹は軽く笑って答える。「分かった。ありがとう、じいさん」そう言うと、さらに続けた。「日下家だけじゃなくて、今夜パーティーにいた連中にもはっきりさせておかないと。俺と菜々が婚約者同士じゃないって。二股なんて誤解されたら、それこそ大惨事だよ。俺は被害者なのに」哲郎は低い声で言った。「お前があの場を途中で出て行った時点で、誰だってお前の気持ちは分かったはずだ」遥樹はくすっと笑う。「それはどうかな」そう言ってから、蒼空の手を引き寄せ、哲郎の前で軽く振ってみせた。「そうだ、ちょうどいい機会だ。紹介しよう。この子は蒼空、俺の彼女だ」蒼空は一瞬、言葉に詰まった。思いがけず「家族に紹介される」形になり、戸惑いと重さを感じ、どう反応すべきか分からなかった。哲郎の表情も決して穏やかではない。それでも遥樹は構わず続ける。「特別なことがなければ、俺が婚約するのも結婚するのも、この人だけだ。だからじいさん、もう俺の縁談を勝手に決めなくていいんだぞ。俺の結婚は俺が決める。これからは蒼空を孫嫁だと思ってくれ」老い、濁りを帯びた哲郎の目が彼を見つめたまま、言葉はなかった。遥樹も引かず、哲郎を見据え、蒼空への承認の言葉を引き出そうとする。二人は互いに視線を外さず、譲らない。蒼空はその空気を察し、胸の内で小さく息をついた。そして遥樹の手を引く。「ほら、まだ点滴中なんだから、静かに。今はそんな話をする場合じゃないでしょ」遥樹は小さく鼻を鳴らし、彼女の手をしっかり握る。「早めにハッキリさせたかったの」そう言いながら、甘えるように蒼空の肩に
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