All Chapters of 娘が死んだ後、クズ社長と元カノが結ばれた: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

小春は肩を揉みながら、再び警戒するように周囲を見回した。「ていうか、こんなに周りくどく動いたんだし、さすがに松木に居場所バレたりしないよね?」彼女たちは賃貸を出てから、すぐ空港へ向かったわけではない。車を何度も乗り換え、遠回りに遠回りを重ねてようやくここまで来たのだ。もしそれでも瑛司に見つかるなら――もうどうしようもない。蒼空は曖昧に答えた。「......たぶん」ここまでの動きは全て敬一郎の手配だった。随行者も、迂回ルートも、全て敬一郎の人間が絡んでいる。その存在がある以上、そう簡単に瑛司が辿り着くとは思えない。彼女は敬一郎の力を信じている。ただ――約束を守るかどうかは別問題だ。何せ、瑛司は彼が最も可愛がり、目をかけている孫。瑛司が望むものは、彼はいつだって与えてきた。ならもし、瑛司が「蒼空の居場所」を望んだら?そのとき、敬一郎はどうする?それは分からない。ただ約束を信じるしかない。その後、小春は口をつぐんだ。ここまで来るだけで疲労困憊、荷物を抱えて歩き通し。席に座ると、すぐ眠りに落ちた。「時間になったら、起こしてよ......」かろうじてそう呟いて、彼女は目を閉じた。三人とも眠っている。深夜、蒼空の普段なら眠る時間だが、不思議と睡気はなかった。精神が研ぎ澄まれ、意識が妙に冴えている。彼女は空港の入口をじっと見つめていた。説明できない焦りが胸の内を叩き続ける。嫌な予感が、静かに、しかし確かに膨らんでいた。搭乗の十分前。蒼空は三人を起こし、チケットを準備して搭乗口へ向かうつもりだった。小春を起こそうと手を伸ばした瞬間、ふと顔を上げた。空港入口へ視線を向ける。なぜか胸が跳ねた。空気が震えたような感覚。何かが、見えないところで動き始めた気がした。入口には二つの観葉植物。冷たい風に葉が揺れる。手が空中で止まった。入口には誰もいない。何も起きていない。それでも、彼女は目を逸らさなかった。まるでこのあと、誰かがそこから入ってくると分かっているみたいに。その予感が最高潮に達した瞬間、蒼空は勢いよく立ち上がった。すぐに三人を起こし、荷物を手に取らせた。まだ寝ぼけている彼女たちに、冷静だが急ぎ気味の声で
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第362話

足音は、まだ少し距離があった。蒼空は一度まぶたを閉じ、再び開いたときには、その瞳の奥に揺るぎない決意と意地が宿っていた。彼女は足を踏み出し、小さく言った。「行くよ、早く!」振り返らず、歩幅を速め、受付へと向かう。ここまで胸のざわつきが強まったのなら、それはもう「予感」じゃない。現実だ。蒼空は視線を落とし、荷物を引きながら、傷ついた足をかばいつつ大股で進んだ。小春たちは状況が掴めないまま、後ろを追う。文香が息を整えながら聞いた。「蒼空、何があったの?」「急がないと、間に合わない」そのとき、背後から鋭く響いた声が空気を裂いた。「蒼空!」雷が落ちたような怒気に満ちた呼び声。蒼空の肩がびくりと震え、瞳が大きく揺れる。「松木!?」小春が驚愕の声を上げる。「無視して。まずは行く」蒼空は歯を噛みしめ、低く言い切った。文香が眉を寄せる。「なんで?敬一郎様が隠してくれてたんじゃ......?まさかバレた?」「しかも、こんな早く追ってくるなんて......」小春も不安を隠せない。蒼空の胸は怒りで波打つ。――やっぱり、松木家で信じられる人なんて一人もいない。三人はこれ以上何も言わず、ただ蒼空の背を追った。「蒼空」先ほどより低く、怒気を飲み込んだ声が再び呼ぶ。それは、堪えている感情が限界に近い男の声だった。蒼空は完全に無視し、受付に駆け寄り、チケットを差し出した。「すみません、できるだけ早くお願いします」「はい、少々お待ちください......」受付がチケットを受け取り、ふと蒼空の肩越しに目をやる。そこへ男が歩み寄り、その顔を確認した瞬間、彼女の頬が赤く染まった。「少々お待ちください......すぐに終わりますね」けど、受付は躊躇った。「関水蒼空さんですね?でも後ろの方が、さっきから何度もお呼びして......」「知りません。時間がないので、急いでください」受付は苦笑する。「どれだけ急いでも、出発時間は決まってますよ?」蒼空は乾いた唇を舐め、低く息を漏らす。「できるだけ早く手続きを済ませたいので」三度「早く」と言われ、受付は何かを悟ったようにうなずいた。指先が素早くキーボードを叩き、数秒後、チケットが差し出される。
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第363話

瑛司の声が頭上に落ちてくる。まるですぐ耳元で囁かれたかのように近く、彼の強い気配が全身を包み込む。その匂いが鼻先をかすめるたび、蒼空の体中がさらに拒絶で強張った。目を閉じ、歯を食いしばる。全身の細胞が叫び続けている――離れろ、と。かつては全身で求めていたその腕を、今は汚れた布切れのように捨て去りたい。もう視界に入れるのも嫌だ。数秒後、蒼空は両手を持ち上げ、必死の力で彼を押し退け、拳で叩き始めた。「離して!」彼は無言のまま、さらに強く抱き寄せただけだった。蒼空の拳が彼の胸に当たるたび、鈍い音が響く。だが瑛司は一言も発さず、表情一つ変えない。顔を上げても、見えるのは鋭い顎のラインと高い鼻だけ。視線すら向けず、ただその腕で彼女を縛り付けている――まるで、彼が許さない限り絶対に逃げられないと言うように。どれだけ暴れても抜け出せない。どれだけ拳を叩きつけても、彼は氷のように動かない。「頭おかしいの!?離しなさいよ!」広く静かな空港に、彼女の声だけが響き渡り、反響した。見なくてもわかる。周囲のわずかな人々が彼女たちを見ている。文香と小春が声を張り上げた。彼女たちの非難は蒼空よりずっと刺々しく、容赦がない。普段穏やかな小春の祖母まで口を開く。「男の人、離しなさい。女の子にそんなことしちゃいかないよ」だが瑛司は平然と、図太く、彼女の身体を抱き締め続けた。蒼空の目が赤くなっていく。わからない。どうして彼はここまでして彼女を止めるのか。本当に、理解できなかった。「瑛司、いい加減離して」そのとき、彼がふいに顔を下げ、冷たく鋭い瞳で彼女を見た。「殴り終わったか?」「一体何がしたいの?」返答はなく、ただ手首を掴んだまま低く言う。「終わったなら、帰るぞ」「なんでなの。私が出て行くこともダメなの?」瑛司の足が止まった。長い沈黙。視線は冷めきり、他人を見るように淡々としている。蒼空の瞳が揺れる。「久米川は?このこと、彼女は知ってるの?」小春が前へ出た。「話すだけムダ。離さないなら警察呼ぶよ」その瞬間、瑛司の後ろに控えていた黒いスーツのボディーガードが三、四人前へ出た。鋭い視線が小春を射抜く。「なにそれ、ヤクザ気取り?
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第364話

瑛司はふっと鼻で笑い、冷たい光を宿した目で睨みつけ、低く抑えた声で言った。「まだ投稿を消していないだろう。行かせるわけがない」――やっぱりネットに上げたあの投稿のせいか。さもありなん。蒼空の瞳に、皮肉がうっすらと浮かぶ。てっきり自分がそこまで重要で、彼がわざわざここまで来て捕まえに来たのかと思った。結局は瑠々のため。瑠々を庇いたいだけ。蒼空は薄く目を持ち上げ、冷ややかに言い放つ。「なるほど、松木社長もああいう投稿が当事者をどれだけ傷つけるか分かってるんですね。じゃあ久米川が投稿した時は?どうして私のために動いてくれなかったんです?それとも、久米川が可愛がっているから、他人の痛みなんてどうでもいいですか?」瑛司の目が暗く沈む。そして突然、静かに問うた。「痛みとは?」まるで真相を引きずり出すまで問い続けるつもりのように、もう一度重ねる。「お前は、何が苦しい?」蒼空は心底おかしくなる。分かっていて惚けて、わざと話させようとしている。そんな茶番に乗る気はない。心に刺さった棘を、わざわざ彼に見せる必要なんてない。「私に投稿を消させるより、開発側の会社に直接連絡して、裏から削除させた方がよっぽど早いでしょう」言い終えると、瑛司は短く言った。「話は終わりか?終わったなら戻るぞ」全く聞く耳を持たない。蒼空は今にも手にした荷物を投げつけたい気分になる。「言ったでしょう。投稿は消さない。松木家にも戻らないって」瑛司は軽く「ああ」と返した。その直後、掴んでいた彼女の手を離す。蒼空は一瞬だけ目を見張る。やっと放してくれた?とそう思った、次の瞬間だった。瑛司が後ろへ視線を送る。すると四人のボディーガードが無言で頷き、力強く歩み寄ってくる。鋭い視線が蒼空に注がれる。蒼空は一歩後退した。「何をするつもり?」空港のライトの下で、瑛司の鋭い輪郭はさらに冷たさを増す。「帰る気がないなら、担がれてでも連れ帰ってやる」心臓が跳ね、警戒が一気に高まる。四人のボディーガードが険しい表情で距離を詰める。小春と文香が青ざめて叫ぶ。「ちょっと!何する気?!彼女に近づかないで!」二人が立ちはだかり、ボディーガードはひとまず動きを止める。蒼空はその隙に、連絡先の
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第365話

明らかに蒼空の言葉には挑発が溢れている。明らかに裏がある。わざと怒らせようとしているのも分かる。そして、瑛司が自分を愛していることだって信じている。それでも、瑠々は胸の奥がムカムカして仕方なかった。スマホをぎゅっと握りしめ、画面を睨みつける。まるで視線で穴を開けようとしているみたいに。「また蒼空......」彼女はスマホを握ったまま勢いよくベッドを降り、部屋のドアをバッと開けた。こんな時間、瑛司が寝ているはずがない。蒼空と一緒にいるなんて、あるわけない──そう信じたかった。瑛司の部屋には、いつでも入れる。彼女は早足で向かい、ドアを開けた。――誰もいない。その瞬間、悔しさと怒りが混ざった目になる。スマホを取り出し、瑛司の番号をタップして即座に電話をかけた。――空港。小春と文香が、身体ごと盾になるように前に立ちはだかる。ボディーガードが蒼空に近づこうとすれば、すぐに飛び込んで睨み返す。小春はついに自分の祖母まで引っ張ってきて、三人で壁を作る。ボディーガード「......」――これはさすがに反則だろ。怒りを抑えつつ眉間に皺を寄せ、片手を上げたまま固まってしまう。「松木社長、どうしますか?」女二人だけなら強行もできた。でも今は背を丸めたおばあさんまでいる。下手に触って倒れでもしたら──責任問題どころの騒ぎじゃない。祖母は状況が飲み込めていないようで、ぽつりと言った。「小春、この人たち何?怖い顔して......暴力団かな?警察呼ぼうか?」ボディーガードたちは「呼べるもんなら呼んでみてくれ」と言ってやりたいが、ただしその前に瑛司が捕まると思って口を閉じた。小春は祖母の肩を抱き、柔らかく言う。「おばあちゃん、ただの変な人たちだよ。気にしないで。ここに立ってれば、こいつらも手出しはしないから!」祖母は目を細めて笑う。「そうかそうか。でも飛行機もうすぐでしょ?いいのか、並ばんで?」小春は遠慮なく雑談を始め、瑛司とボディーガードなど視界にも入らない様子。ボディーガードたちの顔は黒くなる一方だった。「松木社長、どうしましょう......!」その後ろで、蒼空はスマホを握りつつ、鼻で笑った。「瑛司、スマホ見たら?」言った直後、
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第366話

瑛司は低く言う。「......ああ、ちょっと用事がある。大丈夫だ、すぐ戻る。先に休んでくれ。もう遅い。余計なこと考えるな。最近体調良くないんだから、ちゃんと休め。俺に心配させるな」そこで、しばらく沈黙が続いた。蒼空は小春と文香に目で合図し、そっと荷物を握り直す。ボディーガードは一挙一動を見逃すまいと目を光らせ、彼女が身を翻そうとした瞬間、瞳孔が開き、表情が険しくなる。追おうと踏み出したその時、小春がすかさず祖母を引っ張り、左右に動いて壁になる。だが今度は通じない。二人のボディーガードが彼女と祖母の肩を押さえ、乱暴ではないがしっかり動けなくする。文香も別のボディーガードに腕を掴まれた。そして残りのボディーガードが蒼空へ向かう。小春は焦り、思い切り目の前のボディーガードの急所を蹴り上げた。ボディーガードの顔が一瞬で真っ赤になり、苦痛に身体を折り曲げて股間を押さえる。痙攣までし始めた。小春は場数を踏んでいる。男の弱点くらい熟知しているし、躊躇いもしない。その手を振りほどき、蒼空を追うボディーガードの方へ振り返る──ちょうどその時。蒼空はすでに素早く動き、保安検査の内側に入っていた。ボディーガードは空港職員に止められ、中へ入れない。焦りで汗まで浮かべている。空港職員は頭を抱えつつ、ボディーガードたちを警戒する。この場に集まった男たちはどう見ても強面、背後の男は威圧感すらある。「......暴力団ですか?」ボディーガード「違います!」職員はうなずき、探知機を引っ込める。蒼空、ボディーガード、そして電話中の男を見比べ、ため息を漏らす。「ですが、中には入れることはできません。規則ですから」安検口の内側、蒼空は荷物を持ったまま瑛司と目を合わせた。黒と白のはっきりした瞳で、冷静に言う。「お母さん、小春、おばあちゃん、入ってきて!」小春は鼻で笑い、祖母の肩から手を離してキャリーを引き、安検へ向かう。文香も続く。瑛司は眉を落とし、電話に短く言葉を残して切った。ボディーガードがすぐに文香の腕を掴み、振り向いて尋ねる。「松木社長?」蒼空を釣るため、他の人間を利用する気配があった。文香が小さく悲鳴を上げ、蒼空の顔が険しくなる。だが瑛司は首を
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第367話

蒼空は、瑛司にとって大した存在ではない。瑛司の意図ははっきりしていた。今回、彼女が拒めば、もう二度と引き止めないということ。さきほど、彼がただ黙ってこちらを見ていた時の、あの冷めた表情を思い出す。きっとあの瞬間、彼はすでに考えていたのだ。「この女は、そこまでして引き止める価値があるのか」と。それが瑛司の常だ。何をするにも、まず価値を量る。やるべきか、やる価値があるのか、それをすることで得られるものは何か、期待に見合うか。起業も、瑠々との結婚も出産も、そして自分を簡単に切り捨てたことも──すべて彼が価値を計算した上で選んだ道。そんな彼が何度も足を運び、強引に自分を引き止めようとしたのは、確かに予想の外だった。そして彼自身の理性すら外れていた。だが、衝動の後に来るのは、徹底した冷静さだ。自分の行動を冷酷に審査し、そして彼女も。今、彼の中で答えが出ている。「価値はない」と。引き止める価値も、騒ぎ立てる意義もない。ただの無意味。無価値。だから、これは最後の選択――残るか、去るか。彼がそう思っていることも、彼の性格も、蒼空にはよくわかる。彼の中に生まれたのは、「所有していたものが手から滑り落ちる」という危機感。それは彼には滅多にない感覚で、だからこそ反射的に動いた。家に押しかけ、ここまで追いかけ、ボディーガードまで連れて来た。後悔はしていないのだろう。彼は冷静だったと自分でわかっている。ただ、返ってきたのは何度も何度も突きつけられた拒絶。幼い頃から頂点に立つよう言われ、実際にその通り成し遂げてきた男。家柄、才能、成果、すべてが並外れている。それを鼻にかけない分、誇りは人一倍強い。これが彼の限界だ。何度も拒まれてなお縋るなど、彼の矜持が許さない。望まれない相手を無理に繋ぎ止めるなど、彼自身が許さない。だから、線を引く。そして最後の問い。「残るか、出て行くか。どっちだ、蒼空」蒼空は理解し、静かに答える。「......私は、出て行く」瑛司の瞳は冷え切り、遠く、説明しがたいほどの距離感を帯びた。やがて、淡々と頷く。「......そうか」その時、小春と文香が安検を抜け、彼女の隣に立つ。蒼空は、瑛司が顎でボディーガ
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第368話

多分、もう二度と会わないという意味だ。その瞬間の瑛司は、まるで仕事モードに戻ったかのように、一切の感情を排した機械のようだった。情の揺らぎはなく、冷静で気高く、自制の利いたまま、蒼空の顔を一瞥して視線を引く。瑛司は踵を返し、去っていく。瞳の色は次第に冷たく沈んだ。引き際を見誤らない――それが彼の処世術だ。蒼空がそうまで言うのなら、彼はその意志を尊重する。蒼空は、離れていく背中を見つめ、ようやくゆっくりと息を吐いた。考える暇もなく、保安検査場の係員が急かす。「急いでください、搭乗時間が終わりますよ」文香がすぐ頷き、蒼空の手を引く。「蒼空、全部終わったんだから、早く行こ」唇を引き結び、蒼空は頷く。荷物を持ち、通路へ歩き出す。だが、ふと足を止めた。小春が尋ねる。「どうしたの?」文香も続く。「何か落とした?」首を横に振る蒼空。空港内の視線が一斉に向けられる中、彼女はスマホからSIMカードを取り出した。小春はその動きを見て、言葉を失いながらも意図を悟る。蒼空はそのカードを、迷いなく折り、二つに割れた欠片をゴミ箱へ落とした。文香が目を丸くする。「なんで捨てるの?」蒼空は歩きだし、振り返らない。淡々とした声だけが残る。「大丈夫。着いたらまた買えばいい。これはもう要らない」飛行機が離陸した瞬間、すべてが途切れたように感じられた。愛も憎しみも、距離といくつもの飛行機、タクシーによって厚い空の壁ができ、過去の痛みは骨の痕に変わり、感覚さえ遠のいていく。空が明けた気がした。けれど、それは一時の光にすぎないと、蒼空は知っている。いつか必ず戻る。前世で唯一の娘のためにも、必ず戻って清算する。――瑛司が外の住まいに戻った頃、空はほとんど白んでいた。午前五時半。瑠々は一晩中眠れず、リビングに座っている。灯りはつけっぱなし。彼が入ってきた瞬間、そこにいる彼女を見つけた。薄手のルームウェア姿に、瑛司は思わず眉を寄せ、スリッパも履かずに歩み寄る。ソファの毛布を取って彼女の肩に掛け、低く声を落とした。「部屋で休めばよかったのに」瑠々は青ざめた顔で、彼を見上げ続ける。「瑛司......」彼はそっと毛布を整え、短く応じる。「あ
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第369話

ここは自分の部屋だ。ただ、ベッドで横になっていたわけではない。背もたれに寄りかかる形で眠っていた。片脚はベッドに乗せ、もう片方は床につけたまま、頭は壁に傾けたまま一晩中姿勢を変えずにいたせいで、首が痛むのだ。しばらくぼんやりし、ようやく意識がはっきりしてくる。視線を落とすと、布団の中でまだ眠っている瑠々がいた。内側に伸ばしていた腕は瑠々に抱かれたまま布団に埋もれている。彼はそっと腕を動かし、抜こうと試みた。数時間前、どれだけ言い聞かせても瑠々は手を離さず、「そばにいて」と強く求めた。一晩駆け回って疲れ切っていた彼は、それ以上抵抗する気にもなれず、そのままこの姿勢で眠ってしまったのだ。目覚めた今、瑠々の手に力はほとんどなく、彼は簡単に自分の手を抜くことができた。彼女を起こすこともなかった。ベッドの端に立ち、眉間を揉みながらスマホを手に取る。一番上に表示されたのは、敬一郎からのメッセージだった。【起きたら松木家に来い。話がある。】長い指で画面をタップする。【分かった。】その後、いくつか仕事の連絡に返信し、洗面所へ向かって身支度を整える。朝食を済ませても、瑠々はまだ眠ったまま。瑛司は使用人に一言だけ告げる。「彼女が起きたら温かい朝食を出してくれ」「はい、分かってますよ。何度も言われてますからね」使用人が微笑む。妊娠中で朝が弱い奥様は必ず十時過ぎに起きる――だから朝食もその時間に合わせて用意する。何度も念押しされているので忘れようがない。瑛司は軽く頷き、家を出た。――松木家。向かいに座る瑛司が表情一つ変えないのを見て、敬一郎は鼻で笑い、茶を一口飲む。「蒼空は一緒じゃないのか」「ああ」まるで、蒼空という存在など最初から心にないかのように。それでいい。誇り高い自分の孫は、あの女にそんな態度でこそ正しい。敬一郎は満足げに目を細めた。「出て行ったなら、それでいい。もう気にするな。大事なのは、今そばにいる人だ」誰のことか、二人とも分かっている。瑛司は静かに頷く。それ以上、何も言わない。「そうだ、今朝お前の部下を戻しておいた。もう連絡が来てるだろう」蒼空の動向を追わせていた者のことだ。「ああ、もう確認した」蒼空につい
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第370話

「ああ、ちゃんと分かってる」瑛司の低く落ち着いた声が響く。敬一郎は満足げに頷いた。「よろしい。私は書斎に戻る。お前も会社に行け。山ほど仕事が待ってるだろう」瑛司は余計な時間を取らず、立ち上がってそのまま出ていく。去っていく背中を見ながら、敬一郎の目はますます満足げになる。後ろで控えていた執事が静かに待つ中、敬一郎は笑った。「瑠々の両親が来るんだ、私も新しい服を用意したほうがいいかな」執事が静かに答える。「すでにご用意しております」「そうだ、瑛司の両親は?最近見てないが」「旦那様は国外にて女性の件で少し揉めているようで、奥様が向こうに行って対応中です。まだ戻れないと」「何だと?」敬一郎は眉をひそめる。女ひとりすら扱えないのかと言わんばかりだ。執事はさらに声を落とした。「三ヶ月の子を身ごもっていると。その女性が中絶を拒否しているとか」敬一郎の目が暗く沈む。しばし沈黙。「なら産めばいい。松木家が子一人くらい養える」執事は言葉の意味を測りながら、これ以上口を挟まない。――その頃、首都に着いた蒼空はとりあえずホテルを取り、住む場所は後でゆっくり探すつもりだった。手元には十分な資金がある。焦る必要はない。ひとまず落ち着くと、まず小春の祖母を専門医に診せ、入院手続きと前払いの医療費まで整えた。「お礼はいらない」蒼空は小春の口を塞ぐ。「本当に感謝したいなら、ちゃんと勉強して。受験でいい点取ればそれで十分だから」小春は顔をしかめ、手を振る。「私の成績知ってるでしょ?絶対無理だって」蒼空は眉を上げ、黙って見つめた。小春はふと表情を変え、彼女の手首を掴む。「あんたはどうするつもり?」「え?」「だって退学したんでしょ?学校ないのに受験できる?」焦りが募る。「受験するんだよな?成績だってめちゃくちゃ良かったんだからさ!受け入れてくれる学校は?ねえ、何とか言えよ!」蒼空は吹き出し、「大丈夫だってば。ちゃんと考えてるから」「え?」――まさか、自分の人生でこんな女の子に出会うとは──新井大道(あらい ひろみち)は内心で愕然としていた。受験まであと二、三ヶ月。その短さで「トップ合格を取ります」なんて平然と言うなんて。狂気だ
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