All Chapters of 娘が死んだ後、クズ社長と元カノが結ばれた: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

蒼空の声は静かだった。「我慢して」文香の言う通り、蒼空が借りた家にはエレベーターはなかった。だが二階だったので、荷物はすぐに運べた。古い団地で建物も老朽化していたが、中の設備は一通りそろっており、二部屋とリビングの間取りでそれほど広くはない。ざっと片付けただけで、すぐ住める状態になった。蒼空は慣れた手つきでリュックを開け、教科書を取り出す。大学入試は目前。気を抜くわけにはいかない。松木家。瑛司が玄関に入ると、出入りする使用人たちがベッドサイドテーブルを運び出そうとしていて、入り口が塞がれていた。使用人は汗をにじませ、体を少しずらして道を空ける。「申し訳ありません」瑛司はその場から動かず、玄関口で立ち止まり、運ばれる家具を見つめた。これは蒼空の部屋のベッドサイドテーブルだ。扉には、彼女が貼った可愛いシールがそのまま残っている。眉間にわずかに皺が寄る。低く抑えた声が落ちる。「何があった」使用人は視線をそらし、低く答えた。「敬一郎様のご指示です。直接お尋ねください」瑛司の切れ長の黒い瞳が、無造作に家具へと注がれる。けれどそこには、妙な圧が宿っていた。何を考えているのか分からない。その無表情が、かえって恐ろしい。使用人たちは額に汗を滲ませ、進むべきか退くべきか判断できず、ただ立ち尽くす。長い沈黙の末、瑛司はようやく体をわずかに動かし、通れるだけの隙間を作った。安堵の息をついた使用人が、家具を持ち上げて外に運ぼうとした、その時――「置け」低く響いた声に、全員の心臓が跳ね上がる。「ですが、敬一郎様のご指示で、関水さんの荷物はすべて処分しろと――」「戻せ」さらに低く、重く落ちる声。「二度言わせるな」使用人同士が目を合わせた。お互いの瞳に映るのは、同じ恐怖。慌てて頭を下げ、彼らは来た道を戻り、ベッドサイドテーブルを蒼空の部屋へ戻した。リビングに置かれていたベッドも、急いで元に戻される。空っぽになりかけていた蒼空の部屋が、元通りになった。瑛司は祖父の書斎の前まで歩き、ノックした。「入れ」老いた声が中から聞こえる。扉を開け、瑛司は無表情のまま部屋に入り、書斎の机を一瞥して切り出した。「蒼空はどこに?」祖父は老眼鏡
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第32話

瑛司はまぶたを上げ、暗い黒の瞳で敬一郎の濁った眼を見据えた。敬一郎の顔色がわずかに沈む。「彼女は松木家の人間にならない。外の人間より、お前はもっと松木家のために考えるべきだ」瑛司の目が細められる。敬一郎は視線を逸らし、窓の外へと向けた。「もし未練があるなら、戻しても構わん」だが予想通り、瑛司はその提案を拒んだ。誰もが知っている。蒼空と松木家の関係は、蒼空と瑠々の関係と同じだ。瑛司が選ぶのは、常に瑠々であり、松木家なのだ。彼は自分が何をすべきか、よく分かっている。そこには敬一郎の信頼もあった。瑠々の家柄と背景は蒼空よりはるかに優れ、彼女が瑛司に与える助力も桁違いだ。情でも物質でも、瑠々は蒼空を凌駕している。敬一郎は手を振った。「もう行け。本を読む邪魔だ」瑛司は黙って部屋を出た。直後、使用人が瑛司の後ろから書斎に入り、尋ねた。「敬一郎様、関水さんの部屋の荷物は、運び出しますか?」敬一郎は一瞬考え、低く言う。「運べ。瑛司のことは気にするな」「分かりました」不意に。熱いミルクを手にした文香が部屋に入った時、蒼空のスマホが鳴った。彼女は文香からミルクを受け取り、そのまま通話ボタンを押す。蒼空の声は冷静だった。「何の用?」瑛司の声が低く響く。「今どこにいる」蒼空は軽く笑う。「外」瑛司の声がさらに沈む。「場所は」蒼空は鼻で笑った。「どうしたの?私に戻ってほしいの?寂しくなった?」わざと苛立たせるような言い方だった。瑛司は、蒼空の好意を何より嫌っていた。男女の関係について、彼は瑠々にだけは甘い言葉を惜しまないが、蒼空には一言も与えない。だからこそ、蒼空はわざと挑発する。彼に電話を切らせ、二度と連絡してこないように。案の定、瑛司の声には怒気が滲む。「蒼空」蒼空は軽くからかうように言った。「名前で呼ばないで。勘違いされちゃうわ」瑛司の沈黙が数秒続く。意外なことに、電話は切れなかった。「蒼空――」その声を遮るように、別の焦った声が飛び込んできた。「松木社長!久米川さんがお急ぎで、今すぐ来てほしいと」蒼空の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。これでいい。わざわざ仕掛けなくても、彼の方から電話を切
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第33話

旧い住宅街から学校までは徒歩でわずか十分ほどの距離だった。校門をくぐった瞬間、蒼空は周囲の空気の変化を敏感に察した。それは同級生だけではない。通りすがりの人々の視線までもが、どこか軽蔑を含んで彼女に注がれていた。校内に入るほどにその気配は強まり、低学年の生徒の中には、わざわざ彼女を見に駆け寄ってくる者までいた。やがて、善意の同級生から事情を知らされることで、彼女はようやく答えを知った。優奈が学校の掲示板に投稿したあの文章。すでに削除したはずのそれは、誰かによってさらに大きなSNSに転載されており、しかもそこでは驚くほどの注目を集めていた。注目度の高さは、国内外で名の知れたピアニスト・久米川瑠々の名前が絡んでいたからだ。優奈の投稿では仮名で匂わせる程度に留まっていたが、転載先の投稿ははっきりと名前を挙げ、暗に「松木瑛司と久米川瑠々は幼馴染で深い仲にあり、まもなく結婚する」という情報を広めていた。そこに、一人の高校三年生の女子生徒──関水蒼空が、孤独に耐えきれず二人の関係に強引に割り込もうとしている、と。瑠々は国内外に数多くのファンを抱えており、そのファンたちは瑛司のことを「お義兄さん」と呼ぶほど二人の仲を認め、喜んでいた。そんな投稿が出回れば、ファンが激怒するのも当然だった。SNSは「蒼空=不倫女」と罵る声であふれかえった。しかし、その投稿を見た蒼空の胸にまず浮かんだのは怒りではなく、皮肉な笑みだった。国内外有名ピアニスト、ね。瑠々という名前を見るたび、彼女は瑛司の態度を思い知らされる。瑠々は決して天才ではない。彼女が世に出してきた楽曲のすべては、金で雇われた作曲家が作ったものだ。音楽配信サイトにあるピアノ曲も、演奏しているのは彼女自身ではない。さらには、大規模なコンクールさえ、事前に録音された音源を流し、瑠々は舞台上で鍵盤に指を置くだけ。当初、瑛司はその真実を知らなかった。だが真実を知った後も、彼は瑠々の「庇護者」となり、さらに金を費やして代奏者や作曲者を雇い続けた。挙げ句、蒼空自身の作品までが彼女の手から奪われ、瑠々の名義で世に出た。瑠々は、蒼空の背中を踏み台に、作品を掲げて「ピアノ界の金字塔」と呼ばれる存在になったのだ。SNS上の投稿など、蒼空にとって取るに足
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第34話

休み時間、蒼空がトイレから出た瞬間、頭上からいきなり水が降ってきた。「死ね、第三者!」しかし蒼空は既に予想していたように、水がかかる寸前の位置で立ち止まり、冷ややかな視線でその水が目の前に派手に落ちるのを見ていた。前世でも、トイレで水をぶちまけられることなど何度も経験している。今世は記憶がある以上、同じ手を食うはずがなかった。トイレの外から響いていた笑い声が、ピタリと止む。蒼空は知っていた。瑛司と瑠々は、この進学校の卒業生だった。二人が高校時代に恋を始めたのは、まだ青く、初々しい感情が芽生えた頃。少年少女の淡い恋心は、まさに純粋で美しい時期のものだった。名家に生まれ、誇り高い瑛司は、恋を隠そうともしなかった。二人の成績は常にトップクラス。瑛司は常に一位を独占し、唯一順位を落としたのも休暇を取ったときだけだった。二人は大学入試を受けず、各種コンクールの実績で海外の大学に進学。卒業後も、学校では二人の恋愛は美談として語り継がれた。蒼空がその経緯を知っているのは、教師たちがよく「模範」として二人の恋を語っていたからだ。数年経った今も、教師も新入生も二人を誇りに思い、功績を話題にする。そのため、学校の多くの生徒や教師は二人の熱心なファンであり、中にはカップリングとして推す者までいた。二人は「小説の主人公たち」とまで呼ばれ、幼なじみで運命の相手、と評されている。そんな二人の間に誰かが割り込むことなど、ファンには許せない。今まさに、彼らは「第三者」と罵りながら、蒼空に学校を出て行けと叫んでいた。他人の恋愛に割り込む恥知らず、そしてこの「小説」の悪役ヒロインだと。結末は「ヒーロー・瑛司に殺されるだけ」だとまで言い放つ。前世の展開は、確かに彼らの言葉通りだった。「悪役ヒロイン」の蒼空は、「正義で善良なヒロイン」瑠々による交通事故で罰せられ、唯一の娘を失い、瑠々と瑛司の盛大な結婚式を見せつけられた。前世の結末は、小説のハッピーエンドのように美しかった。だが、残念なことに、蒼空は「悪役」などではない。彼女は、自分自身の物語の「ヒロイン」なのだ。蒼空は冷ややかな目で、笑みの消えた生徒たちを見据え、ゆっくりと歩み寄り、床に落ちていたプラスチックの桶を拾い上げた。静かに水を汲み
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第35話

女子は怒りに歯を食いしばった。「絶対に許さないから!」蒼空は人混みをすり抜け、平静な声で答える。「じゃあ待ってるね」数日後に控える学園祭での瑠々のピアノ演奏は、本来そこまで注目されるものではなかった。だがネット上の投稿がきっかけで、演奏の話題性は大きく跳ね上がる。最初の投稿は削除されたものの、瑠々のファンやカップリングファンの熱狂は止まらず、今もなおSNS上では多くの議論が続き、その中には蒼空への呪詛や罵詈雑言も混じっていた。前世でも、こんな手口は山ほどあった。蒼空は見飽きるほど経験してきた。だからこそ、これほどの騒ぎも眼中になかった。そして、この一連の投稿を誰が裏で操っているのか、推測するのも容易だった。蒼空は何も言わず、直接一文を投稿する。【お二人が白髪になるまで寄り添えますように】そこに瑠々と瑛司が手を繋いでいる後ろ姿の写真を添えた。この投稿はすぐに「いいね」がついたが、蒼空は確認もせず荷物をまとめて学校を出た。だが、校門を出た瞬間、蒼空は目を細める。そこには、瑛司のロールスロイスが停まっていたのだ。人波の中に停まる高級車はいやでも目立ち、周囲の視線を集め、「誰を迎えに来たのか」と小声の憶測が飛び交う。蒼空は一瞥もせず、横道へそれようとした。だが数歩進んだところで、腕を後ろから掴まれる。「関水さん、松木社長がお呼びです。車へどうぞ」蒼空はその手を乱暴に振り払い、冷ややかに言い放つ。「私はもう松木家の人間じゃない、彼に私を縛る資格はないって、そうお伝えして」「資格がない?」低く沈んだ声が、背後から響く。蒼空は振り向かず、そのまま歩き出す。が、次の瞬間、瑛司が鋭く手首を掴んだ。「蒼空」抑えた声に、怒りと苛立ちが滲む。「放して!」蒼空は必死に振りほどこうとするが、瑛司の漆黒の瞳は険しく、その声音はさらに低く沈む。「ここで揉めたいなら、付き合ってやるが?」蒼空は歯を食いしばり、吐き捨てるように言う。「イカれてる」結局、蒼空は車に乗り込む羽目になった。助手席に座ろうとした瞬間、瑛司は、静かな眼差しで彼女の手元を見やる。まるで「後部座席に乗らなければ、話は進まない」と言わんばかりの圧。蒼空は仕方なく後部座席に座り、できるだ
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第36話

彼女の視界が一瞬で暗転し、気づけば瑛司の腕の中に抱き込まれていた。バン!耳元で爆ぜるような轟音。蒼空の頭の中は、鳴り止まぬ金属音で支配され、思考が真っ白になる。体が硬直し、呼吸すらままならない。事故。これは、車の事故だ。肩が震え、口を開いても空気が入ってこない。全身が、まるで氷のように強張っていた。咲紀。彼女の咲紀は、車の事故で死んだのだ。耳元に、あのときの裂けるような泣き声が蘇る。視界が真紅に染まり、血に濡れた咲紀の小さな身体が脳裏をかすめる。「咲紀......わたしの......さき......」その瞬間、全身を切り裂くような痛みが走った。喉を誰かに押さえつけられたように呼吸が乱れ、止まらない震えとともに涙が溢れ出す。「そら!」焦った声が遠くで響く。彼女は必死に周囲を見回した。咲紀は?咲紀はどこ?「蒼空っ!」瑛司の声が一層鋭くなる。大きな手が肩を掴み、ぐっと力強く引き上げられ、車のシートに押し付けられていた身体が無理やり起こされる。不意を突かれ、蒼空は瑛司の険しい眉間と鋭い視線を正面から見てしまった。全身が震え、彼女はその顔に釘付けになる。瑛司の手が肩から下り、腕をしっかりと掴む。低い声が落ちる。「怪我は?」頭の中が少しずつ回り始め、蒼空は硬直したまま横を向いた。そこには、バイクが倒れ込んでいた。運転していたのは中年の女性で、その後ろには高校生ぐらいの娘が座っていたらしい。放課後に娘を迎えに来ていたのだろう。中年女性の顔は青ざめ、必死に何かを言い続けている。額には大粒の汗。蒼空自身に怪我はなかった。だが、前世の事故の記憶が生々しく蘇り、体の硬直が解けなかった。「おい」瑛司の指先にさらに力がこもる。蒼空は小さく首を横に振り、掠れた声で答える。「怪我は......してない」瑛司は彼女を見据え、目を細めた。「何を考えているんだ」蒼空はゆっくりと顔を上げ、瑛司の視線を真正面から受け止めた。この男だ。あの日、事故直後に救急車へと抱えて乗せたのは、膝に擦り傷を負った瑠々の息子だった。もしあのとき、先に咲紀を救急車に乗せていたなら......あの子は死なずにすんだかもしれない。だが、
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第37話

後部座席の女子高生はうつむき、髪で顔を隠しながら、指先を胸の前で絶えず弄んでいた。瑛司は片手を上げ、疲れたように指の腹で眉間を押さえる。蒼空は窓を下げ、顔を上げて瑛司を見た。「松木社長」瑛司は手を下ろし、冷ややかな視線を蒼空に向けた。「さっきまで死ぬほど怖がってたんじゃないか」蒼空の瞳が一瞬止まり、伏し目がちに光を失う。唇を噛み、低く呟いた。「許してあげて」うつむいていても、彼の視線が頭上に落ちているのを感じ取れる。瑛司は口角をわずかに上げた。「これは俺の車だ。『許す』と言うなら、修理代は俺が持つことになる」蒼空はほとんど膝をつきそうになっている中年女性を見やり、窓枠に置いた手をぎゅっと握りしめた。「じゃあ、どうしたいの?」瑛司は唇を吊り上げたが、瞳の冷淡さは変わらない。「いいさ、帳消しにしてやる。ただし、これは貸しだ」そう言って顎を軽くしゃくり、アシスタントに示す。中年女性は感極まったように、今にも跪きそうな勢いで何度も頭を下げた。「ありがとうございます、本当に......ありがとうございます!」後部座席の女子高生が突然、顔を上げて蒼空を見た。蒼空も、その顔をはっきりと確認する。あのトイレで彼女を待ち伏せしていた生徒の一人だ。女子生徒が口を開こうとしたが、蒼空は無表情のまま視線を外し、窓を閉めた。車体は軽く凹んだだけで走行に支障はない。瑛司とアシスタントが乗り込み、車はすぐに発進した。蒼空は、彼から次にどんな言葉が出るのかを待った。「さっきは、怖がった?」突然、瑛司が口を開く。「うん」蒼空の返事は冷たく、淡々としていた。彼女はこれ以上、この件で瑛司と関わるつもりはなかった。しかし、ふと気づく。車が向かっているのは、自宅の方向ではない。眉をひそめ、問いかける。「どこに行くつもり?」瑛司は目を閉じたまま、淡々と答える。「病院だ。検査させる」蒼空は眉を寄せた。「必要ない。怪我なんてしてないから」それきり、瑛司もアシスタントも何も言わず、車は進み続けた。蒼空は手をぎゅっと握り、じっと目を閉じて耐える。途中で、車内に着信音が鳴り響いた。蒼空は反射的に画面へ目をやる。表示されていたのは「瑠々」という二文字。
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第38話

文香は彼女を見るなり、目をぱっと輝かせた。「松木社長、探しに行った?」蒼空は腰をかがめて靴を履き替えながら、冷ややかな声で答えた。「今ごろ、久米川と甘い時間を過ごしてるんじゃない?」文香の笑みが一瞬で凍りつき、苦々しい声を絞り出す。「お願いはした?私たちを戻してくれるようにって。ずっとこんなところに住むわけにはいかないじゃない......」靴を履き終え、蒼空は体を起こし、透き通るような視線で文香を見据えた。「まだわからないの?」文香は彼女の顔を見つめ、胸の奥がじわりと痛んだ。最初から、蒼空を松木家に嫁がせたいとは思っていなかった。ただ、平穏に一生を過ごせればそれでいいと願っていた。だが、蒼空の父親は松木敬一郎を救うために命を落とし、八歳の蒼空は松木家に引き取られ、松木家の子どもたちと共に育てられた。幼い頃から、蒼空は愛らしく、成長するにつれますます美しさを備えていった。敬一郎のもとで育ったためか、佇まいも本物の名家の令嬢に劣らなかった。優奈や瑠々と並んでも見劣りすることなく、むしろ蒼空の方が際立って映えるほどだった。名門の奥様となる資質すら十分に備えていた。蒼空を松木家に嫁がせようと本気で思うようになったのは、ある出来事がきっかけだった。蒼空が高熱で立つこともできなくなったとき、瑛司が彼女を横抱きにして医者を呼んできたのだ。そのとき、二人の関係は近しく、温かい雰囲気に包まれていた。彼女の目には、蒼空が瑛司を見つめる視線に淡い恋情が滲んでいるのがはっきりと見えた。だが、瑠々が戻ってきた途端、すべてが変わった。二人の関係はぎこちなくなり、やがて剣呑な空気すら漂わせるようになった。思い返すたびに、文香の胸は締めつけられる。瑛司も蒼空を想っているのだと信じていた。だが、それは完全な思い違いだった。瑛司にとって蒼空は、あくまで「妹」でしかなかったのだ。蒼空は食卓と台所に目を向ける。案の定、文香は夕食の用意をしていない。それも予想の範囲内だった。買ってきた料理をテーブルに並べ、淡々と告げる。「もう遅いし、食べよ」文香は渋い顔のまま、向かいに腰を下ろした。蒼空は黙って彼女を見つめる。前世、文香は「悪役令嬢の母」という役回りで、悲惨な末路を辿った。
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第39話

来た。蒼空は静かにまぶたを伏せ、淡々と言った。「はい」風見先生が言った。「学校側の意向としては、大学入試も近いし、あなたには勉強に集中してほしいから、演奏の枠は取り消しになったの。蒼空さんが心置きなく勉強できるようにって」蒼空はベッドの端に腰を下ろし、事情を察したように口を開く。「代わりに別の人を呼んだんですね?」風見先生は少し間を置き、ため息交じりに答えた。「......ええ。蒼空さんが学園祭のためにずっと準備してきたのも分かってるし、私も掛け合ったんだけど、学校の決定だからどうすることも......だから今は勉強に集中して。将来、演奏する機会はいくらでもあるし、いい話があれば先生からも連絡するね」蒼空は静かな声で言った。「はい。ちゃんと分かってますから、それで大丈夫です」風見先生は少し驚いた様子で、戸惑いながら聞き返す。「本当にそれでいいの?」蒼空は淡く笑い、短く答えた。「はい」校方が呼んだのは、瑠々と瑛司の四手連弾。瑛司は学校に図書館と教室棟を寄贈し、奨学金まで設立した。学校が重視する特別な校友であることは明らかだった。学園祭の演奏は、瑠々の提案。瑛司がそれを拒むはずがない。前世の彼女はそれを知らず、校長に直談判して自分の演奏曲を残すよう求めた。意外にも学校はすぐに承諾したが、後になって知った。校長はすでに瑠々に意見を聞いており、瑠々が彼女の演奏を許しただけだったのだ。だがその裏で、瑠々は蒼空が借りてきたピアノを壊し、学園祭当日の彼女の演奏は滅茶苦茶になった。一方で、瑠々と瑛司の四手連弾は夢のように完璧で、蒼空の存在は惨めに映えた。その後、瑠々の仕掛けたネットの風評によって、彼女は主人公の間に割って入る「第三者」として叩かれ、学校からも責められた。だから今回は、瑠々を「成就」させてやる。瑠々と瑛司が演奏する四手連弾は、世に出ていない新曲だ。だが、それは瑠々のオリジナルではない。その曲を作ったのは、ピアノ界で無名の作曲者。すでに亡くなり、作品も埋もれていた。ならば、今回は瑠々に思い切り『驚き』を味わわせてやろう。電話を切った蒼空は、演習帳を取り出して机に広げ、ペンを走らせた。前世、彼女は大学入試を受けられなかったことに執念を抱き
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第40話

反対側では、和人がスマホの画面に映るメッセージを見つめ、口元に浮かぶ笑みがさらに大きくなっていた。隣の友人たちが肩を小突く。「どう、来るのか?」「来るさ。俺が呼んでるんだ、来ないわけないだろ?」言葉と同時に、和人の顔には抑えきれない得意げな笑みが浮かぶ。「お前らは知らないだろな。昔のあいつの俺へのベタベタっぷりを。『お兄ちゃん』って呼んでさ。あんな馬鹿が俺の言うこと聞かないわけがない」友人たちも笑いながら頷く。「そりゃいいな。こっちもしっかり準備して、うっぷん晴らしてやろうぜ」和人は軽く頷いた。「ああ」メッセージ画面を見つめながら、誰にも悟られないようにひとつ深く息を吐く。友人たちは気づかないが、彼には分かる。蒼空は、以前とはまるで違っていた。前の蒼空は、いつもおどおどしていて、彼の言うことには逆らえなかった。何を言っても「はい」と従い、崇拝するような目で見上げてきた。まるで本物の兄のように。当時の彼は、そんな安っぽい妹に対して特別な感情はなく、ただ弱々しい様子が可笑しくて、弄びたくなっただけだった。彼の些細な施しひとつで感謝して涙ぐむ彼女を見るのが面白く、暇つぶしにちょうどよかったのだ。だが今回は違う。久々に再会した蒼空は、明らかに変わっていた。彼に向ける目に、もう昔のような憧れはない。代わりに、真っ向から対抗するような、鋭い光が宿っていた。その変化が、彼を少しだけ不安にさせていた。今回、彼が蒼空にきつく当たり、瑠々や優奈のために強気な態度を取ったのは、確かに半分は二人のため。だが残りの半分は、彼女が再び怯えて、昔のように彼を「お兄ちゃん」と呼び、後ろをついて回る姿を見たかったからだ。なのに、蒼空はどれだけ威圧しても頭を下げなかった。その変化が、彼を動揺させていた。だから今日、試しにメッセージを送った。すると、素直に「行く」と返ってきた。やっと、昔の蒼空が戻ってきた。胸の奥の緊張が、少しだけ解ける。それでも、怒りが消えたわけではない。しっかり、教えてやらなきゃ。和人はスマホを置き、横に置いてあった淡いピンク色のドレスを手に取った。それは、彼がわざわざ仕込んだドレスだった。ワンショルダーで、背中のリボンを軽く引くだけで、全てがす
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