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第31話

Author: 浮島
蒼空の声は静かだった。

「我慢して」

文香の言う通り、蒼空が借りた家にはエレベーターはなかった。

だが二階だったので、荷物はすぐに運べた。

古い団地で建物も老朽化していたが、中の設備は一通りそろっており、二部屋とリビングの間取りでそれほど広くはない。

ざっと片付けただけで、すぐ住める状態になった。

蒼空は慣れた手つきでリュックを開け、教科書を取り出す。

大学入試は目前。

気を抜くわけにはいかない。

松木家。

瑛司が玄関に入ると、出入りする使用人たちがベッドサイドテーブルを運び出そうとしていて、入り口が塞がれていた。

使用人は汗をにじませ、体を少しずらして道を空ける。

「申し訳ありません」

瑛司はその場から動かず、玄関口で立ち止まり、運ばれる家具を見つめた。

これは蒼空の部屋のベッドサイドテーブルだ。

扉には、彼女が貼った可愛いシールがそのまま残っている。

眉間にわずかに皺が寄る。

低く抑えた声が落ちる。

「何があった」

使用人は視線をそらし、低く答えた。

「敬一郎様のご指示です。直接お尋ねください」

瑛司の切れ長の黒い瞳が、無造作に家具へと注がれる。

けれどそこには、妙な圧が宿っていた。

何を考えているのか分からない。

その無表情が、かえって恐ろしい。

使用人たちは額に汗を滲ませ、進むべきか退くべきか判断できず、ただ立ち尽くす。

長い沈黙の末、瑛司はようやく体をわずかに動かし、通れるだけの隙間を作った。

安堵の息をついた使用人が、家具を持ち上げて外に運ぼうとした、その時――

「置け」

低く響いた声に、全員の心臓が跳ね上がる。

「ですが、敬一郎様のご指示で、関水さんの荷物はすべて処分しろと――」

「戻せ」

さらに低く、重く落ちる声。

「二度言わせるな」

使用人同士が目を合わせた。

お互いの瞳に映るのは、同じ恐怖。

慌てて頭を下げ、彼らは来た道を戻り、ベッドサイドテーブルを蒼空の部屋へ戻した。

リビングに置かれていたベッドも、急いで元に戻される。

空っぽになりかけていた蒼空の部屋が、元通りになった。

瑛司は祖父の書斎の前まで歩き、ノックした。

「入れ」

老いた声が中から聞こえる。

扉を開け、瑛司は無表情のまま部屋に入り、書斎の机を一瞥して切り出した。

「蒼空はどこに?」

祖父は老眼鏡
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