All Chapters of 火葬の日にも来なかった夫、転生した私を追いかける: Chapter 1691 - Chapter 1700

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第1691話

時正の胸が、締め付けられるように痛んだ。彼は沈黙した。麗蘭は落ち着いた声で言った。「あなたは、私の身体が目的で、弱みに付け込んで私と関係を持ったのよね。あなたにとっては、私の無事なんて、本当は取るに足らないことなんでしょう」麗蘭は時正を見つめて言った。「ねえ、誰に私の無事を守ってほしい?誰か……紹介してくれない?堂々と恋人でいてくれて、弱みにつけ込んだり、中途半端に思い出を残したりせず、正当な理由で私を守ってくれる人を。ねえ、どうかしら?」一つ一つの言葉が、まるでナイフのように時正の心を深く突き刺した。時正の顔は次第に青ざめ、彼はその場に立ち尽くした。彼は目の前にいる、記憶を失ってもなお、彼の急所を的確に突く麗蘭を見つめた。時正は入り口に立ったまま、力いっぱいドアノブを握りしめた。麗蘭の言葉は、彼の偽りの仮面を一枚一枚剥いでいくようだった――彼の自制心や、彼女を守ろうとする気持ちは、その言葉の前で効力を失い、色褪せていった。「私と……堂々と付き合ってくれる人を紹介してくれない?」彼女の落ち着いた表情と、淡々と発した言葉が、彼を息苦しく感じさせた。時正はしばらく沈黙した後、声を絞り出すように言った。「……自分で探してくれ」その言葉は、とても重く響いた。時正はそう言うと、立ち去った。室内は再び静けさに包まれた。麗蘭はゆっくりとソファにもたれ、感情を押し殺すように静かに目を閉じた。しばらくして、彼女は自分にしか聞こえないほどの小さな声で、ふっと笑った。行っちゃった。結局、逃げるんだ。麗蘭は、心にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちになった。彼女は自分に言い聞かせた、これでよかったのだ。線引きをし、互いに干渉せず、貸し借りのない関係。だけど、なぜ胸がこんなに苦しいのだろう。それから間もなく。ピンポーン――突然、インターホンの音が響いた。麗蘭は少し驚いた。もう戻ってきたの?再び胸が高鳴ったが、それが期待なのか苛立ちなのか、自分でもわからなかった。彼女は怪我をしていることを思い出して言った。「どうぞ、ドアに鍵はかかっていないから」足音が聞こえた。麗蘭は顔を上げ、訪ねて来た者たちを見て、言葉を詰まらせた。ドアの入り口に、中年夫婦が立って
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第1692話

両親?麗蘭は呆然とした。記憶を失ってから、彼女の前に家族が現れたことはなかった。医者、アシスタント、友人とは会ったが……両親とは会ったことがなかった。彼女は自分が孤児か、或いは家族はとっくにいなくなったのだと思い込んでいた。「覚えていません」麗蘭は警戒心を滲ませて言った。「記憶を失って、何も覚えていないんです」川上明美(かわかみ あけみ)は、慌てて一枚の古い写真を取り出した。「これを見て。あなたが小さい頃、一緒に撮った写真なの」写真は古く、少し黄ばんでいた。小さな麗蘭は男女に抱かれ、満面の笑みを浮かべていた。その若い男女の面影は、目の前にいる夫婦によく似ていた。写真の裏には、麗蘭が子供の頃に書いた英文が残されていた。麗蘭の指先が微かに震えた。偽物ではない。彼らは本当に自分の両親なのだ。心の中で張り詰めていた糸が、ふっと解けた。自分には家族がいた。独りぼっちではなかったのだ。あまりに長く会っていなかったために、記憶を失ってしまっていたのだ。明美は和らいだ麗蘭の表情を見て、ついに涙を流し、彼女の手をそっと握った。「辛かったでしょう……事故に遭って、怪我を負って、記憶まで失うなんて。何も知らず、すぐに来てあげられなくて、ごめんなさいね」麗蘭は何も言えなかった。心の中が、複雑な思いでいっぱいだった。あまりにも突然で、彼女はどうしていいのかわからなかった。榮太郎は、麗蘭の足を見つめて言った。「私たちは、お前を連れ戻しに来たんだよ」麗蘭は顔を上げた。「どこへ?」「海外さ」榮太郎は言った。「私たちのところへ戻って来なさい。お前は研究が好きだっただろう?医学をもっと学びたいと言っていただろう?海外の実験室は、ここより条件もいいし安全だ。安心して好きなことに打ち込めるぞ」明美も同調した。「ええ、向こうで一緒に暮らしましょう。ここは危険だわ。事故や事件に巻き込まれて。あなた一人にしておくのは心配なの。一緒に、ここを離れましょう」彼らは、心から麗蘭の身を案じてくれている。しかし、麗蘭はそっと首を振った。「私は行かない」榮太郎と明美は呆然とした。「どうして?海外が嫌いなの?私たちが最高の環境を用意してあげるわ――」「好き嫌いの問題じゃないの」麗蘭は顔を上げて言った。「私の研究
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第1693話

麗蘭は驚いた。両親は、時正を知っていたのだ。両親が、彼に自分を託していたなんて。その時――ピンポーン。インターホンが再び鳴った。榮太郎は冷ややかに言った。「あいつを呼んでおいた。あいつの口から、説明させる」麗蘭は呆然とした。時正は、帰ったわけではなかったのだ。彼は両親に呼び出されていた。ドアがそっと押し開けられた。見慣れた人影が、再び入り口に現れた。時正は青白い顔をして、入り口に立っていた。彼は背筋を伸ばし、麗蘭の両親を見ると、複雑な表情をした。彼は静かに、一歩ずつ部屋に入ってきた。時正は視線を麗蘭に向け、彼女の無事を確認すると、ゆっくりと榮太郎の方を向いた。たちまち、空気が張り詰めていった。榮太郎は立ち上がり、鋭い目で時正を見て言った。「時正。娘の護衛を頼んだはずだが、これは一体どういうことだ?」部屋に、重い空気が漂った。時正はリビングの中央に背筋を伸ばして立っていた。榮太郎の言葉に、時正は胸の内の想いや感情を覆い隠すようにうつむき、微かに目を伏せていた。いつかこの日が訪れると、彼は予測していた。時正は、麗蘭の両親が海外へ発つ際、自分を訪ね、「命をかけて麗蘭を守ってくれ」と言った言葉を、ずっと胸に刻んできた。しかし、麗蘭が記憶を失い、追われ、事故にあって足を負傷した今も、彼は騒動を起こし、彼女を独りで恐怖と向き合わせている。もはや、弁解の余地などない。時正はかすれた声で言った。「すべて私の不徳の致すところです。彼女を守り切れませんでした。いかなる処分もお受けします」時正は、まるで自分とは無関係なことを話すかのように平静に語ったが、わずかにこわばった肩や握りしめた拳から、彼の悔しさや自責の念が滲み出ていた。麗蘭は身体を硬直させたまま、ソファに座っていた。彼女はぼんやりと、両親の前で頭を下げる時正を見つめた。心が、この上なく混乱していた。つまり……そういうこと?彼の親切も、彼が彼女を守り、彼女のためにあれほど狂い、焦っていたのも、病院で一晩中付き添ってくれていたのも全部……全て、感情とは無関係だった。心動かされたわけでも、気にかけていたわけでも、未練があったからでもない。彼は、両親の命令に従っていただけ。約束と、責任のため
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第1694話

リビングは、凍り付いたような重苦しい空気が漂ったままだった。榮太郎の言葉に、皆は息を詰まらせていた。時正はその場に立ち尽くし、身体の横に垂らした手を強く握りしめた。彼は麗蘭に、当時のやむを得ない事情を伝えたいと思った。しかし、彼女の瞳に渦巻く混乱や疲労を見ると、言葉が出てこなかった。彼女は記憶を失っている。彼女は何も覚えていない。彼女は今、これ以上の真実に耐えられない。麗蘭は、言いよどむ時正や、両親の険しい表情を見て、胸が苦しくなり、こめかみがズキズキと痛んだ。娘を託す、ボディガード、婚約者、偽装結婚、護衛、負い目……もううんざりだ。理解したくもない。これ以上、誰かに何かを押し付けられて生きるのは嫌だ。突然、苛立ちと悔しさが込み上げ、麗蘭は顔を上げると、鋭い目で時正を見つめて言った。「出てって――あなたたちの話なんかもう聞きたくない!一人にして!みんな出てって!」突然の事態に、榮太郎と明美は驚いた。麗蘭は赤い目をして、必死で涙をこらえていた。彼女は今一人になりたかった。誰も信じられず、真実や過去、感情や負い目の有無も、何も考えたくなかった。時正の身体がこわばった。麗蘭の言った、「出てって」という言葉に、彼は胸を痛めた。彼は、「俺は出て行かない」と伝えたかったが、そのことで彼女を追い詰めるのではないかと思うと怖くなった。時正は、麗蘭をこれ以上刺激したくなかった。感情が高ぶり、体調や足の傷に障るといけない。明美は時正に目配せして言った。「とにかく今は帰って。この子は今、気持ちが不安定だから。落ち着いたら、また連絡するわ」時正は喉を動かした。彼は、その場に立ち尽くし、もう一度、麗蘭をじっと見つめた。結局、時正は頷き、かすれた声で言った。「……わかりました」「失礼します」彼は背を向け、扉の方へ歩いていった。ドアが二人の間を隔てるように、静かに閉まった。時正の姿がドアの外に消えると、麗蘭は力が抜けたようにソファにもたれ、長い息を吐くと、涙が込み上げてきた。榮太郎はその様子を見て、胸が痛み、ため息をついた。「麗蘭、無理強いするつもりはないんだ。ただ私は――」「わかってる」麗蘭は言った。「パパとママが私のためを思ってくれているのはわかってる」明美は彼女の
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第1695話

「一人で……静かに暮らしたい」こんな乱れた気持ちでは、どこへ行っても同じだ。海外へ逃げても、何の解決にもならない。記憶だって、戻らないものは戻らないのだ。榮太郎と明美は、互いに顔を見合わせた。両親は、麗蘭の一度決めたら頑として譲らない性格をよく知っていた。「わかった」榮太郎は言った。「無理強いはしない」「しばらくの間、私たちは近くのホテルに滞在する。気が変わったり、私たちに会いたくなったら、いつでも連絡してくれ」明美が言った。「気が変わったら、いつでも言ってね」「私たちは、すぐに手配してやれる。最高の医師と治療で、必ず記憶を取り戻してやる」麗蘭は、「うん」とだけ返事をした。榮太郎と明美は、安全に気をつけること、食事を摂り、怪我の治療をすることを念を押し、名残惜しそうに去っていった。ドアが再び閉まった。やっと、一人になれた。口論も、詰問も、守る人も、嘘もない。残されたのは、彼女ただ一人だけ。麗蘭は、ぼんやりとソファに腰かけた。窓の外の空は次第に暗くなり、夜の闇がゆっくりと街を覆っていく。どれぐらい経っただろう。足に微かな痛みを感じ、麗蘭はようやく腰を上げた。辺りにまだ時正の気配が残っているようで、ここから早く離れたいと思った。ふと、散歩に出かけようと思った。麗蘭は片足を引きずりながら、上着を羽織り、携帯と鍵を持って、そっとドアを開け、外へ出た。川辺の方へ行ってみよう。すっかり真冬の寒気を帯びた冷たい夜風が、顔に当たると気持ちよかった。川辺を歩く人はまばらで、通行人が通り過ぎると、すぐに遠ざかっていった。麗蘭は風を避けられる階段を見つけて座り、ゆっくりと流れる川を、ぼんやりと見つめた。広い水面に、街灯の光がちらちらと反射して光っている。その様子を、麗蘭はただじっと見つめていた。頭の中は、まだ少し混乱していた。記憶を失った後の出来事が、次々と脳裏をよぎっていく。時正は寡黙で、強引で、何度も彼女の前に現れ、いつも彼女に寄り添ってくれていた。そして、琴美の挑発、交通事故の恐怖。波多野家からの脅し、そして突然現れた両親。そしてさっき、口にできなかった真実……すべてが、絡まった糸のようにもつれ合っていた。自分は、何のために生きているのだろう?か
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第1696話

遠くから、麗蘭を見守る人物がいることに、彼女は気付いていないだろう。時正は、彼女の傍を去っていなかった。彼は麗蘭の部屋を出た後、下で待機し、彼女の邪魔にならないよう、影のように後を追っていたのだ。麗蘭が足を引きずりながら、川辺に向かい、独りぼっちで階段に座り、ぼんやりと川辺を眺める姿を見て、時正の心は押しつぶされるように痛んだ。彼は少し離れた街灯の下から、川辺を眺める彼女をじっと見つめていた。彼女に近づくことはできない。邪魔をしてはいけない。これ以上、彼女を困らせたくない。今、自分にできるのは、こうして離れた場所から見守ることだけなのだ。しかし、麗蘭はとっくに気付いていた。彼女にとって、彼の気配と視線はあまりにも馴染み深いものだった。時正だ。彼女は振り返らず、彼を呼び寄せもしなかった。二人は距離を保ちながら、静まり返った夜の川辺にいた。麗蘭はなぜか、時正の胸に渦巻くさまざまな気持ちがわかるような気がしていた。彼の心配、慈しみ、自責の念……そして、深い愛情。でも、彼はそれを口にしようとしない。決して、表に出そうとしない。感情を押し殺し、すべてを胸の内にしまい込み、彼女に誤解され、嫌われても、「好きだ」という言葉を口にしようとしない。麗蘭は、そっと目を閉じた。どれくらい経っただろう。辺りはすっかり暗くなり、風は一層冷たくなって、麗蘭はその寒さに、ついに身震いした。そろそろ、家に帰らなければ。麗蘭は階段に手をつき、ふらつきながら身体を起こした。手すりにもたれて、少し休んでから、麗蘭はゆっくりと帰路についた。後ろから、影のように時正がついてくる。麗蘭は、気付かないふりをした。部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、全身の力が一気に抜けていった。するとすぐに、めまいがして喉が痛み、身体の火照りを感じた。どうやら、風邪を引いてしまったようだ。元々弱っていたところに、冷たい風に当たっていたせいだろう。麗蘭は壁に手をつき、ゆっくりとリビングに移動し、お湯を沸かして風邪薬を探そうとしたが、足元がふらついて上手く歩けない。彼女はもがきながらソファまで這っていき、毛布を被ったが、寒気は収まらず、頭痛や身体の痛みに涙が込み上げてきた。次第に、意識がぼんやりとし始め、彼女は眠
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第1697話

麗蘭は身体を引きずりながら、時正に近づくと、そっと彼の顔を両手で包み込み、彼のこわばった顎をなぞった。時正の身体が硬直した。彼は部屋でうずくまっている麗蘭を見て驚いた。彼女は顔が真っ赤で呼吸が荒く、熱を出しているようだった。口を開く間もなく、彼は彼女に抱き着かれた。麗蘭は子猫のように時正の胸に飛び込み、頬を胸にすり寄せながら、力強く落ち着いた彼の胸の鼓動に耳を傾けた。彼女は顔を上げ、時正の首筋にそっと寄り添い、彼の喉ぼとけにキスをした。それは優しいキスだった。「んっ……」時正は声を漏らした。彼の喉が激しく動き、首筋には血管が浮き上り、全身の筋肉が震えるほど緊張した。理性が、崩壊寸前だった。時正は、微動だにせず、胸に渦巻く感情と、今にも抑えきれなくなりそうな欲望を必死に堪えていた。麗蘭は熱を出しているせいで、意識が朦朧としているのだ。彼女の弱みにつけこんではならない。時正は目を閉じて、あらゆる雑念を振り払った。彼は麗蘭をソファに寝かせると、台所へ急いだ。火をつけて、やかんで湯を沸かした。間もなく、湯が沸いた。時正は、あらかじめ準備しておいた風邪薬を取り出し、ぬるま湯をグラスに注いで、麗蘭に差し出した。「さあ、薬を飲んで。薬を飲めば、少し楽になる」麗蘭は意識が朦朧とし、発熱による身体の痛みに涙を流しながら言った。「薬はイヤ……苦いから……飲みたくないわ……」麗蘭は涙を流しながら、時正の手を払いのけた。時正は、胸が張り裂けそうだった。しかし、薬を飲ませなければならない。このまま高熱が続けば、肺炎を起こす危険がある。仕方なく、彼は心を鬼にした。時正は深く息を吸い、片手で錠剤を取り、もう一方の手で麗蘭の顎をそっと掴んで、彼女の口を少し開けさせた。彼は、かすれた声で、なだめるように優しく言った。「ほら、口を開けて。飲み込むんだ」麗蘭は仰向けになり、小さな口をわずかに開けた。時正は、錠剤を麗蘭の口の中に入れた。指先が彼女の唇や舌先に触れ、温かく柔らかな感触が広がった。その感触に、時正は再び、理性を失いかけた。時正の指先が震え、全身の血が頭に駆け上ったが、彼は必死に耐えながら、理性を保とうとしていた。時正は、かすれた声で言った。「もう少し水を飲んだ
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第1698話

麗蘭は、ようやく深い眠りについた。夢の中でだけ優しくしてくれる彼が、ずっと傍にいてくれると思うと、安心できた。時正は、傍で一睡もせずに夜を明かした。-翌日。麗蘭は、ゆっくりと目を覚ました。まだ少し倦怠感は残っていたものの、熱はもうすでに引いたようで、悪寒やめまい、高熱による身体の痛みはなく、喉の痛みも幾分和らいでいた。彼女はソファに横たわり、ぼんやりと天井を見つめた。頭の中に断片的な記憶が甦った――夜の川辺、冷たい風、遠くで見守る影。朦朧とした意識の中で、突然開いたドア……自分を抱きかかえ、薬を飲ませてくれた時正。時正。彼が来てくれた。一晩中、ずっと傍にいてくれた。朦朧とした意識の中で、彼の喉仏にキスをした。薬を飲んだ時に触れた、彼の指先の感触が、まだ唇や舌に残っている。麗蘭は、頬を赤らめた。夢じゃない。少なくとも麗蘭は、夢じゃないと感じていた。彼女は身体を支えながら、リビングを見渡した。全身が、わずかに硬直した。リビングはがらんとしていた。リビングはひっそりと静まり返り、ソファや椅子には動かしたような形跡はなく、誰かがここにいた痕跡は微塵もなかった。昨夜の出来事が、まるで幻だったかのように、リビングは静寂に包まれていた。やっぱり……夢だったのか。麗蘭は手を下ろし、そっと膝の上に置いた。心の中に感じた小さな温もりが、少しずつ冷めていくのを感じた。仕方ない。昨日、麗蘭は時正を怒鳴りつけ、彼を傷つけ、追い払ったのだから。彼がまたここに来て、彼女の世話をしてくれるなんて、あり得ない。高熱のせいで、幻を見ていたのだろう。麗蘭は虚しくなり、そっとため息をついた。時正との関係は、このままなのだろうか?関係を断ち切れないまま、近づいたり遠ざかったりを繰り返す。彼といると胸が高鳴り、心が安らぐのに、つい「借りは作りたくない」などと言ってしまう。時正も、心の内を見せず、「安全を守る」と言うだけ。自分も、過去や理由を尋ねず、気にしていないふりをしているだけ。まるで、張り詰めた細い糸のような関係が、彼女を息苦しく感じさせていた。麗蘭は心の中に渦巻く感情を押し殺し、ゆっくりとソファから立ち上がった。夢であれ現実であれ、日々は続いていく。彼女
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第1699話

「気分はどうだい?高熱は下がったのかな?」「はい、まだ少し倦怠感がありますが、だいぶ良くなりました」麗蘭は答えた。「ふむ、順調に回復しているようだね」鳴海は続けた。「しかし麗蘭くん、くれぐれも忘れないでくれ。今の君にとって何より大事なのは、心の状態なんだ」麗蘭は呆然とした。「君の記憶喪失は、情緒面での刺激や精神的ストレスと直接関係があるからね」鳴海は真剣な口調で言った。「安定した情緒を保たなければならないんだ。過度な喜びや悲しみ、興奮もできるだけ避けた方がいい。情緒が高ぶり、神経が張り詰めると、今の安定した状態さえも崩れてしまう可能性がある」麗蘭は沈黙した。彼女は誰よりも、情緒を安定させたいと思っていた。いつも、穏やかな気持ちで過ごしたいと願っていた。複雑なことをあれこれ考えずに、平穏な日々を送りたいと思っていた。しかし、身の周りでは、様々なことが起きる。彼女が息もつけないほど、厄介なことが次から次へと起きてしまうのだ。平穏な毎日を望んでいるのに、現実は彼女にその機会を与えてくれない。「ええ」麗蘭は疲れたように返事をした。「できるだけ努力します」鳴海は彼女を見てため息をついた。「君が、大変な日々を送っているのはわかっているよ」「今夜、医学のシンポジウムがあるんだ。君が以前、研究していた分野について話すんだよ。君も参加しないかい?」麗蘭は顔を上げた。「シンポジウム?」「ああ」鳴海は頷いた。「日常生活が辛くて、情緒が抑えられないのなら、仕事で気を紛らわせるのもいいだろう。君は医者であり研究者だ。気分転換ぐらいにはなると思うよ。慣れ親しんだ分野で、専門家と専門的な話をすることで、悩みを一時的に忘れ、混乱した心を鎮めることができるかもしれない。忙しくしていれば、悩む時間もなくなる」麗蘭はぼんやりと医師を見つめた。確かにそうだ。いつまでも恋愛感情や記憶喪失の迷いの中に閉じこもっているわけにはいかない。彼女には専門分野があり、理想があり、やりたいことがあるのだ。時正とのことをあれこれ考えていても仕方ない。まず自分を正常な軌道に引き戻すべきだ。麗蘭は、ゆっくりと深呼吸して、目を輝かせた。「わかりました」麗蘭は頷いた。「参加します。シンポジウムは今夜ですか
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第1700話

麗蘭は医師との約束通り、時間通りにシンポジウム会場に到着した。シンポジウムは、市街地の交流センターで行われた。行き交う人々は皆、落ち着いた雰囲気の業界関係者ばかりだった。記憶を失って以来、麗蘭はこのような自身の専門分野に足を踏み入れていなかった。傍にいた鳴海が言った。「焦る必要はない。足の怪我はまだ完治していないし、無理はしちゃいけないよ」麗蘭は軽く頷き、静かに会場を見渡した。来場者の多くが、見覚えのある顔ぶれだったが、記憶に霧がかかったように、彼らの名前が思い出せなかった。しかし、彼らと話をする内に、麗蘭は悟った――かつての自分は、この業界で認められ、尊敬されていたのだ。受付付近で、年配の教授から話しかけられた。「麗蘭さん、ご無沙汰しています。先日、体調が優れないと伺いましたが、お元気そうで何よりです」麗蘭は礼儀正しく応じた。「ご心配いただきありがとうございます。だいぶ良くなりました」また、若い医師や研究者も次々に挨拶に来た。以前共同で取り組んだテーマや、彼女が発表した論文について話す者、「ずっとご指導をお願いしたいと思っていました」と言う者もいた。彼らの目には、偽りのない敬意が込められ、計算も、隠し事も、彼女を心身ともに疲弊させるような煩わしい駆け引きもなかった。麗蘭は一人ひとりに丁寧に対応し、終始笑顔を浮かべていた。記憶を失っていても、これまで培ってきた専門性や応対能力は、少しも失われていなかった。皆と挨拶を交わした後、鳴海が言った。「どうだい?外に出て同業者たちと交流するのも、悪くないだろう?君の能力も、評価も、ちゃんと残っている。誰も奪うことなどできないんだよ」麗蘭はしばらく沈黙した後、「ええ」と返事をした。彼女はその時初めて、鳴海の真意を理解した。鳴海は、彼女に気付かせたかったのだ――記憶を失っても、彼女は川上麗蘭であり、周囲の者たちから尊敬される医師なのだと。彼女の価値は、恋愛や、特定の誰かによって決められるものではないのだ。シンポジウムが始まる頃には、麗蘭の心はすっかり落ち着いていた。壇上で交わされる専門的なやり取りが、彼女の脳裏の奥深くに眠る曖昧な認識を少しずつ呼び覚ましていった。明らかに初めて聞く内容だったが、彼女はどこか懐かしく感じた。久しぶりに感じ
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