All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

「景凪、自分が何を言っているか分かっているのか」氷のような声で問い詰めながら、その大きな体がにじり寄ってくる。凄まじい威圧感だった。「この俺に離婚を切り出すだと?気でも狂ったか!」嫉妬心から、俺の気を引きたいがために、ついに狂気の沙汰に及んだのか。離婚という切り札を使って、この俺を脅すとは!深雲が放つ激しい怒気と殺気にも、景凪はもはや動じなかった。彼女の瞳は、まるで凍てついた湖面のように静まり返っている。これ以上、この男に振り回されるのはうんざりだった。離婚協議書は、いずれ弁護士が彼の目の前に突きつけてくれる。今夜、これ以上言葉を尽くしたところで、馬の耳に念仏だ。景凪は静かに息を吸い込むと、改めて彼に向き直った。「私は今、清音の顔を見に二階へ行きたいだけ。深雲、あなたがまだ男としての矜持を持っているなら、清音の実の父親であるなら、私を行かせて」「……」深雲は、その甘い瞳をすっと細めた。瞳の奥から、射るような冷たい光が迸る。俺が、男じゃない、だと?どうやら、俺はこいつを甘やかしすぎていたらしい。景凪が背を向け、二歩ほど歩き出した、その瞬間。頭皮に突き刺すような鋭い痛みが走った。深雲に髪を鷲掴みにされ、引き戻されると、再び壁に強く押し付けられていた。「俺が、男じゃない、だと?」彼は陰湿で、甘えるような声色で彼女を見つめる。口元は笑っているように歪んでいるのに、瞳は氷のように冷え切っていた。男のすらりとした指が、なおも彼女の髪の間に深く食い込んでいる。脅すようでもあり、愛撫するようでもある不可解な手つきで、その力は強まったり、緩んだりを繰り返した。「景凪、俺は教えたはずだが……男に、そういう挑発の仕方はするな、と」「この、人でなしっ!」景凪はもう我慢ならなかった。膝を高く上げ、男の両足の間を目掛けて、力いっぱい蹴り上げようとする。しかし、深雲はそれを読んでいた。大きな手が彼女の膝を押さえつけると、怒りに歪んだ顔をぐっと近づけ、その唇を奪った。これは、キスなどではない。彼による一方的な凌辱であり、暴行だった。男の体から放たれる、理性を失った荒々しいアルコールの匂いが鼻をつく。景凪は必死に顔を背けると、人差し指の関節を固く曲げ、深雲の首筋にある急所を目掛けて、ありったけの力を込めて叩きつけた。「うッ……!
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第202話

二人の足元は階段の陰になって、辰希の背丈では見えない。景凪はその死角を利用して、爪先立ちになると、深雲の足の甲を力いっぱい踏みつけた。痛みはあったはずだが、彼は避けようともせず、ただ視線を落として彼女を見つめるだけだった。その甘い瞳には、深く、そしてどこか揺らぐような光が宿っていた。まるで、彼女を惜しんでいるかのような眼差し。だが、景凪が一番よく知っている。彼がどれほど薄情な男であるか。彼はただ、深い愛情を演じるのが得意なだけなのだ。景凪は深雲を憎々しげに一瞥したが、辰希を怖がらせるわけにはいかず、こう言うに留めた。「パパは酔っ払って、駄々をこねてるだけよ」駄々をこねてる、だと?深雲は片眉をぴくりと上げた。追い詰められた景凪の目尻が、怒りでうっすらと赤く染まっているのが見える。彼は軽く唇を結ぶと、やがて彼女を抱きしめていた腕を解いた。拘束が解かれた瞬間、腕の中の女は逃げるように彼の腕から飛び出し、辰希の手を引くと、一度も振り返ることなく階段を上がっていく。辰希がきょとんとしてこちらを一度振り返ったが、景凪は冷たい横顔を向けるだけで、視線の端にすら彼を映そうとはしなかった……深雲は冷たく目を細めた。随分と偉くなったもんだな。確かに酒は飲んだ。だが、その程度のアルコールで理性を失うほどヤワではない。今夜、本当に俺の自制心を奪ったのは、景凪、お前だ。「深雲、離婚しましょう」女の、どこまでも冷たい声が、再び脳内で炸裂した。深雲は、だらりと垂れていた両の拳を強く握りしめた。天井からの照明が、彼の彫りの深い眉骨に落ち、目の窪みに深い影を落とす。離婚?「……ふっ」深雲の喉の奥から、乾いた嘲笑が漏れた。忘れたとでもいうのか。あれほど見苦しいほどに、追い払っても追い払っても俺に纏わりついてきた、あの何年もの日々を。俺を手に入れた途端、離婚だと?たとえ離婚という日が本当に訪れるのだとしても、その言葉を口にするのは、この鷹野深雲であるべきだ。深雲は深呼吸を一つすると、じんわりと痛む胃のあたりを押さえ、階段を上がろうとした、その時だった。階下のソファに放ってあったスマートフォンが、先に音を立てたのは。新着メッセージが一件。深雲はちらりと二階を見上げたが、やがて踵を返し、ソファへと向かった。急
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第203話

言一にそう言われ、景凪はすべてを察した。「わかりました。……お手数をおかけしました、曽根先生」通話を終えるやいなや、辰希が心配そうな顔で問いかけてきた。「清音、どうしたの?」景凪は何でもないというように息子を安心させる。「大丈夫よ。ちょっとお腹を壊しちゃっただけ。ちょうど明日と明後日は週末だし、ゆっくり休めば、月曜日にはきっとすっかり元気になるわ」辰希は眉をきゅっと寄せ、不思議そうに首を傾げる。「でも、どうしてお腹壊したんだろう。僕と清音のご飯は、桃子さんがちゃんとメニュー通りに作ってくれてるのに……もしかして、清音、誰か他の人から何か貰って食べちゃったのかな」そして、顎に手を当てると、いっちょまえにため息をついた。まるで小さな大人のような口ぶりだ。「学校でも、この食いしん坊から目を離さないようにしないと!」その健気な息子の姿に、景凪の胸に温かいものが込み上げてくる。同時に、辰希が自分を責めていることにも気づいていた。鷹野家の人々から言い聞かされてきたことが多すぎたせいか、あるいは彼にかけられる期待が大きすぎたせいか、まだ五歳だというのに、この子はたくさんの責任を一身に背負おうとする癖がついてしまっている。「ううん、辰希くんはもう十分頑張ってるわ。あなたと清音を守るのは、私たち大人の役目なんだから」辰希は俯いてつま先を見つめ、ぽつりと力なく呟いた。「僕は誰にも守ってもらわなくていいんだ……おばあちゃんたちが言ってたもん、僕は天才だって。天才は、もっともっとたくさんの責任を負わなきゃいけないんだ。妹の面倒を見て、将来は雲天グループを世界一の会社にするんだ」物心ついた時から、繰り返しそう教え込まれてきた。景凪の胸を、ガラスの破片を押し付けられたような鋭い痛みが走る。この人たちは、私の息子を何だと思っているの!一族を繁栄させるための道具だとでも?まだ、たった五つの子なのに!一体、どれほどの想いをその小さな胸に飲み込んできたら、こんなにも大人びてしまうというのだろう。景凪自身も、幼い頃からその才能を嘱望されてきた。けれど祖父の益雄は、悪意ある者から利用されぬよう、『能ある鷹は爪を隠せ』と、その才を隠す術を彼女に教え込んだのだ。大学に入り、自分の人生を自分で切り拓けるようになるまで、祖父は決して彼女が本領を発
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第204話

深雲:【研時が病院にいる。少し顔を出してくる。十二時までには戻る】二件目は、スクリーンショットだった。自分の言葉が嘘ではないと証明するためだろう。深雲は、研時からのメッセージをそのまま転送してきたのだ。時刻は、十分前。研時:【病院に来てくれ】病院の住所が添付されている。景凪の心は、何の波も立たなかった。当然、返信する気にもなれない。彼女はメッセージアプリを閉じ、森屋教諭に電話をかけた。「もしもし、森屋先生でいらっしゃいますか。夜分遅くに申し訳ありません、クラスの鷹野清音の母です」電話の向こうの森屋は、まだ学校のオフィスで残業をしているところだった。女性のその自己紹介に、一瞬戸惑う。「えっと……清音ちゃんのお母様、ですか?」記憶にある声と違う。森屋は慌てて清音の家庭状況が記載されたファイルをめくった。母親の欄には、はっきりと『小林姿月』と記されている。ファイルには、一家四人の写真も添えられていた。確か、今学期の初めには、写真に写っているこの小林さんと鷹野社長が一緒に清音ちゃんを連れて入学手続きに来たはずだ。その時、清音ちゃんはしきりに「姿月ママ」と呼んでいたのに……もう母親が変わったというのか?「……」森屋は内心で首を傾げたが、深くは詮索しなかった。一学期の学費だけで一千六百万円にもなるこのインターナショナルスクールの中でも、鷹野家の資産は群を抜いている。このクラスの富豪にとって、子供の母親を取り換えることなど、日常茶飯事なのかもしれない。「これはこれは、鷹野奥様。何か御用でいらっしゃいますか?」「鷹野奥様」というその呼び名が、景凪の胸に棘のように突き刺さる。しかし、離婚手続きが始まってすらいない今、それを訂正する気力もなかった。「今日の放課後、誰か清音に食べ物を渡したりはしませんでしたか?」清音が下痢をし始めたのは、家に帰ってからだ。つまり、昼食には問題はなかったはず。だとすれば、疑わしいのは下校の時間帯だ。「学校内で、ということは断じてありません」森屋はきっぱりと断言した。「学期の初めに鷹野社長ご自身から、清音ちゃんにはむやみに食べ物を与えないよう、固く釘を刺されておりますので。万が一のことがあれば、責任を問うとまで……私共では、その責任は負いかねます。ただ、学校の
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第205話

メッセージを送ってから、二十分が経過していた。景凪からの返信は、ない。深雲の、凪いでいたはずの瞳の奥に、じりじりと怒りの火が燃え広がっていく。自ら進んで行き先を報告し、ご丁寧に証拠のスクリーンショットまで付けてやったのだ。俺がここまで下手に出てやっているというのに、あの女は、その気遣いをありがたがるどころか、無視するとは!深雲はもう一件メッセージを送ろうとして、だが、画面に指を落とそうとしたところで、その行為がひどく馬鹿らしく思えた。これ以上譲歩を重ねれば、離婚という脅しが有効だと景凪に思わせるだけだ。そうなれば、あの女はますます増長するに違いない。そう思うと、深雲はもう何もかもが煩わしくなり、いっそ景凪とのトーク画面ごと削除してしまった。目に入らなければ、気も滅入らない。やがて、車は研時に指定された病院に到着した。深雲は車を降り、研時から追って送られてきた病室の番号を頼りに、受付にいた当直の看護師に場所を尋ねると、足早にそこへ向かった。しかし、病室のドアを開け、ベッドに横たわる人物の顔を認めた瞬間、深雲は意外な面持ちでわずかに眉をひそめた。「姿月?」ベッドに横たわり、点滴を受けているのは研時ではなく、姿月だったのだ。そして、あれほど性急に自分を呼びつけた張本人の研時はといえば、ベッドサイドの椅子に腰掛け、のんきに姿月のための果物を切っている。「深雲さん!」姿月は深雲の姿を認めると、ぱっと顔に喜びを浮かべたが、すぐにそれを押し殺した。彼女は困ったように隣の研時に視線を送り、責める言葉さえも優しく響かせた。「陸野先輩、深雲さんには言わないってお約束したじゃないですか。私は本当に大丈夫ですから……こんな時間にお邪魔したら、また景凪さんを怒らせてしまいます……」景凪という女を思い出すだけで、研時の腹の底からは怒りがこみ上げてくる。彼は冷たく鼻を鳴らした。「あいつのことなんか気にする必要ないだろ。あのイカれた女があんたを散々いたぶってた時、少しでも手加減したかよ!」「……」ここまで来てしまった以上、引き返すわけにもいかない。深雲は部屋に入ると、背後で静かにドアを閉めた。ベッドの足元まで歩み寄ると、深雲はベッドに横たわる姿月の青白い顔を見つめ、軽く眉根を寄せた。「どうしたんだ?」姿月はか細い声で答
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第206話

「研時!」深雲は眉をひそめて研時を見た。その声には、咎める響きが混じる。「景凪は、どうあれ俺の妻だ。少しは敬意を払え」不意に、彼の視線が研時の顔で止まった。その頬には、痛々しい傷が走っている。「……やられたのか?」研時も呆れたように肩をすくめた。「仕事帰りに、頭のおかしいヤツに絡まれてな。交差点でいきなり突っ込んできやがって、もう少しでぶつかるところだったんだよ」そこまで言って、研時はなぜか少し後ろめたい気持ちになる。だが、深雲の表情に変化はない。昼間、自分が景凪にぶつかりそうになったことを、彼女はまだ告げ口してはいないようだった。いや、と研時はすぐに考え直す。仮にあの女が告げ口したとして、それがどうした?深雲が、あんな女のために、長年の親友である俺と事を構えるはずがない。深雲は研時が擦り傷程度なのを確かめると、大して気にも留めなかった。腕時計に目をやり、それから姿月の点滴の袋に視線を移す。あと一時間といったところか……姿月の点滴が終わるのを待ってから送っていけば、十二時までの帰宅には間に合わない。景凪に、そう約束してしまった。「もう少しだけいたら、帰る」深雲は言葉を選ぶように言った。「清音が今夜、少し体調を崩していてな。十二時までには戻らないと」その言葉に、姿月の瞳から、すっと光が消える。研時はそれにいち早く気づいた。「深雲、お前……」彼が何かを言いかけた、その時だった。スマートフォンの着信音が、病室の静寂を破る。画面に表示されたのは、『親父』の二文字。こんな時間に、親父が何の用だ?研時は訝しみながらも、すぐに通話ボタンを押した。「親父……」呼びかけた途端、電話の向こうから、父・陸野源三(りくの げんぞう)の雷のような怒声が鼓膜を突き破った。「親父と呼ぶな、この大馬鹿者が!貴様、外で一体どこのどいつに喧嘩を売ってきた!今すぐ、すっ飛んで帰ってこい!一時間以内に俺の前に姿を見せなければ、もう二度とこの家の敷居は跨がせんからな!」源三は怒鳴り散らした挙句、研時に何も問いただす隙を与えず、一方的に電話を切った。誰かを怒らせただと?研時は眉をひそめ、脳裏に思い当たる相手を探す。浮かんだのはただ一人――自分の車に追突してきた、あのドラ息子の墨田昭野だ。だが、そもそもぶつかってきたのは
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第207話

水のように静まり返った夜。肌寒い夜風は、窓ガラスに阻まれて部屋の中には届かない。寝室にはフロアランプが一つ、柔らかな光を投げかけているだけだ。その光は、夕陽の最後の名残のような、暖かな琥珀色。熱を伴わない、ただ安らぎだけを与える光だ。景凪は清音の枕元に腰を下ろし、静かに娘を見守っていた。片手を清音の肩に置き、その小さな体を抱き寄せるようにして。うっすらと目を閉じ、浅い眠りに身を委ねる。それでも眠りは浅く、腕の中の娘が不安げに身じろぎするたびに、優しく背中を叩き、無言で宥める。すると清音は次第に落ち着きを取り戻し、無意識に母の温もりを求めるように、すり寄ってくる。まだ辛いのか、小さな顔をくしゃりと歪め、景凪の服の裾を小さく握りしめ、そこに顔を埋めるようにこすりつけた。いい匂い……姿月ママの香水の匂いとは違う。お日様の光をいっぱい浴びた、草の匂いみたいな……暖かくて、優しい匂い。その匂いに包まれていると、不思議と気持ちが安らいで、きつく寄せていた眉間の皺が、自然と解けていくのだった。清音は重い瞼を必死に持ち上げた。ぼんやりとした視界に映ったのは、うつむき加減で、今にも眠りに落ちてしまいそうな母の疲れた横顔だった。「……」あ……あの悪い女の人だ。清音は、はっとした。すぐに姿月ママのことを思い出し、景凪に対する拒絶の気持ちが胸の内に芽生える。私は、姿月ママの味方なんだから!清音は弱々しく身じろぎした。けれど、目の前の悪い女の人は、明らかに眠そうで目も開けていられないほどなのに、清音の背中に置かれた手は、本能的に、ぽん、ぽん、と優しくあやすように叩き始めた。その手は、穏やかに、そして優しく、一定のリズムを刻み続ける。「大丈夫よ……ママが、ここにいるから」景凪は、夢うつつにそう囁いた。「……」清音は、きょとんとした。心の中にあったはずの拒絶の気持ちが、その軽いリズムに、すうっと溶かされていくようだった。景凪が目を開けそうになる気配がして、清音は、慌ててぎゅっと目を閉じた。すると、温かい手が、自分の額にそっと置かれるのを感じた。景凪が、ほっと息を吐く音が聞こえる。「よかった、熱は下がったみたいね」清音は「……」この悪い女の人の手は、姿月ママの手とは違う。姿月ママの手は、すごく柔らかいのに、この悪い
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第208話

未読メッセージが二件。これまでの付き合いからして、彼が自分に直接連絡してくるときは、決まって一つの目的しかない―――彼女に嫌がらせをするためだ。景凪がトーク画面を開くと、案の定、一枚の写真が送られてきていた。深雲がベッドサイドに座り、姿月のために果物を切っている写真だ。研時:【お前が入院してた時、深雲がこんなふうに世話を焼いてくれたか?「鷹野夫人」という肩書にいつまでもしがみついて、滑稽だと思わないのか、穂坂景凪?】景凪は「……」正直なところ、研時が送ってきたこの二つのメッセージは、今の彼女にとっては何のダメージもなかった。深雲が夜更けに出かけて行ったのが姿月に付き添うためだったという事実にも、もはや何の驚きもない。そんなことは、これが初めてではなかったからだ。景凪は冷静にスクリーンショットを保存し、【ゲス男の浮気証拠】と名付けたプライベートフォルダに、手際よく格納した。むしろ、研時には感謝したいくらいだ。深雲の浮気の証拠を、また一つ、ご丁寧に自分の元へ届けてくれたのだから。証拠を保存し終えると、景凪はためらうことなく、研時を友だちリストからブロックし、削除した。自分のLINEはゴミ捨て場ではない。汚らわしいものをいつまでも残しておく必要はないのだから。……一方、その頃。深雲は姿月のハンドバッグを手に、彼女を伴って病院から出てきた。彼は自ら後部座席のドアを開け、姿月を車内へと促す。運転席のドライバーは、その光景にもはや見慣れた様子だった。二人が乗り込むと、深雲は淡々とした口調で告げた。「まず、小林秘書を自宅まで」「承知いたしました、社長」ドライバーは事務的にそう応えると、心得たように後部座席との間にあるパーテーションを上げた。後部座席は、完全なプライベート空間と化した。深雲はちらりと腕時計に目をやり、ごくわずかに眉をひそめる。「深雲さん、私、今夜はあなたの邪魔をしちゃったわね」姿月が、申し訳なさそうに切り出した。「陸野先輩があなたに連絡したって知ってたら、絶対に止めさせてたのに……わざわざ来てもらうことになっちゃってごめんなさい」「気にするな」深雲は彼女の言葉を遮り、姿月を見た。「元はと言えば、お前がその持病を抱えることになったのは、俺のためなんだからな。この数年で、もうすっかり良く
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第209話

姿月はそっと手を伸ばし、彼の眉間に刻まれた皺を、慈しむように指でなぞる。そして、はっとしたように、抑制的にその手を引っこめた。「もし私がこの汚名を被ることで、あなたの眉間の皺が少しでも和らぐのなら……」彼女は深雲を深く見つめ、痛みを堪えるように微笑んでみせる。「私が悪者になっても、構わないわ」「……」深雲は言葉を失い、重い息を吐き出す。喉が、からからに乾いていた。「姿月、そういう意味じゃない」「いいの」姿月は健気に微笑んでみせる。「何も言わなくてもわかるわ。景凪さんとは長年連れ添った仲ですもの。私より、彼女を信じるのは当然よ」姿月はそこで言葉を切り、今度は景凪を庇うように続けた。「同じ女として、景凪さんの気持ち、わかる気がするの。彼女、決して恵まれた生まれではないでしょう?ようやくあなたと結ばれても、あんなことになってしまって……五年も意識が戻らなかった間に、夫であるあなたは昔よりもずっと手の届かない、立派な人になってしまった。彼女が不安になるのも、無理はないわ。もし私が彼女の立場だったら……」深雲は彼女をじっと見つめる。「お前だったら、どうする?」姿月はふっと寂しそうに笑うと、首を横に振った。「私には、そんな幸運は巡ってこなかったから。あなたの側にいられて、お仕事をご一緒できるだけで、もう十分に満たされているの」「……」その謙虚で、何も求めない健気な姿に、深雲の胸に罪悪感がじわりと広がっていく。俺は、姿月を疑うべきではなかった。確かに、景凪とは幼い頃からの付き合いだ。だが、姿月とだって、決して短くはない歳月を共に過ごしてきた。それに、先ほどの姿月の言葉で、はっとさせられた。今の景凪は、五年間も植物状態でいたせいで、心が歪んでしまったのかもしれないのだ。もう、五年前に知っていたあの景凪とは、まるで別人だ!深雲は景凪が目覚めてからの数々の言動を脳裏に反芻し、その瞳から温度がすうっと消えていく。昔の景凪も、不安を抱えていた。だが、その不安を埋めるために、彼女は俺に全身全霊で尽くし、俺を愛するがゆえに、俺の家族や友人たちにまで必死に取り入ろうとしていた。それに比べて、今はどうだ!深雲は無表情にスマートフォンに目を落とす。時刻は、十二時半。約束の時間は、とうに過ぎている。昔の彼女なら、きっと心配
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第210話

深雲の瞳が冷たく翳り、その奥に深い失望の色が浮かんだ。……午前二時も間近な頃、かすかなドアの開く音で、景凪は目を覚ました。だが、まぶたは閉じたままだ。重く、ゆっくりとした男の足音が床を踏みしめ、じりじりと近づいてくる。それが深雲であることは、すぐにわかった。彼が纏う、あの小林姿月の香水の匂いで。決して濃厚な香りではない。むしろ爽やかな茶の香りだというのに、それだけで吐き気を催す。深雲はベッドのそばで足を止め、すやすやと眠る清音にしばし目をやった後、その視線を景凪の顔へと移した。途端にその眼差しはふっと冷たさを帯び、ごく微かな、けれど確かな苛立ちが滲む。彼女のスマートフォンは、すぐそこに置かれている。連絡ひとつ寄越さなかったのは、間違いなく故意だ。深雲は辰希の寝顔も一瞥すると、静かに踵を返し、部屋を出て行った。彼が去った後も、景凪は目を開けることなく、少し身じろぎして楽な姿勢になると、再び眠りの中へと落ちていった。朝七時、景凪は目を覚ました。夜の後半、ずっと清音に抱き込まれていた腕を、そっと引き抜く。腕全体がジンジンと痺れ、痛痒さがたまらない。けれど、彼女の心は確かな幸福感で満たされていた。娘にこんなふうに頼られることは、母親であれば誰にとっても温かいものだろう。ましてや景凪と清音は、五年もの間、こうして肌を寄せ合うことさえ叶わなかった母と娘なのだから。景凪はもう片方の手で、清音の脈を診た。幸い、この子は元々体が弱いものの、ここ数年、鷹野家で手厚く養生されてきたおかげか、体つきは悪くない。一晩休んだだけで、七、八割方は回復しているようだ。景凪は痺れの残る腕をそっと揉みほぐすと、立ち上がって脇の小さなデスクへ向かった。紙とペンを手に取ると、さらさらと処方箋を書き付け、スマートフォンで撮影して医師の曽根言一に送信する。二日分を煎じて清音に届けてくれるよう、簡潔に依頼した。それらを終えると、景凪は抜き足差し足で階下へ降りた。今日はいよいよ西都製薬で黒瀬家の次男に会う日。雲天グループを正式に去り、自身の事業を始動させる、記念すべき日だ。その前に、借りている部屋へ寄り、長らく準備してきた提携案を回収しなければならない。「あら、奥様。もうお起きになったんですか」部屋から出てきたばかりの桃子が、
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