鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました のすべてのチャプター: チャプター 221 - チャプター 230

291 チャプター

第221話

景凪が声のした方、ホールの入り口へ視線を向けると、二人の黒服のボディガードに腕を掴まれた春江が入ってくるところだった。そしてその正面に、ちょうど姿月が立っている。半狂乱の春江は、ボディガードの腕を振りほどかんばかりの勢いで姿月へと突進する。その凄まじい力に、ボディガードたちも一瞬たじろぎ、抑えきれない。姿月も凍りついていた。まさか、この女が戻ってくるなんて——!春江は姿月の腕を掴むと、必死の形相でまくし立てた。「早くこの人たちに言ってよ!警察は呼ばないでって!あんたがやらせたんでしょ!あんたがお金をくれて、私は何も知らないって!」「離して!あなた、誰なの?」姿月の瞳の奥に、激しい苛立ちの色がよぎる。もがきながらも、頭の中では必死に対応策を巡らせていた。その時、姿月の視界の端に、こちらへ向かってくる景凪の姿が映った。途端に、彼女の顔から血の気が引く。どうして、あの女が……「知らないわけないでしょ!」春江は必死に姿月にしがみつく。「さっき会ったばかりじゃない!あんたがお金をくれて、『人が死にそうだって言えば、あの女は絶対助けに行く』って言ったじゃない!」絶対に、認めるわけにはいかない!姿月は金切り声をあげた。「助けて!この頭のおかしい女、知らないわ!」景凪がその茶番を冷ややかに見つめ、一歩前に出ようとした、その時だった。不意に、長身の見慣れた男の影が視界に飛び込んできて、景凪ははっと息を呑んだ。彼女はただ、見つめていた。深雲が、まるでヒーローのように駆け込んできて、危機一髪の姿月を救う姿を。「何をしている!」鋭い声で春江を怒鳴りつけると、深雲は片手で彼女を突き飛ばし、もう一方の腕で、恐怖に青ざめた姿月を背後にかばった。結婚して七年。彼は一度だって、こんな風に自分を守ってくれたことはなかった。それなのに、姿月は何度も、何度も、こうして彼の背中に守られている。景凪の口元に、乾いた皮肉な笑みが浮かんだ。クズ男と泥棒猫……ふん、お似合いのカップルじゃない。深雲もこの時、景凪の存在に気づき、一瞬固まった。「景凪?」来ていないはずではなかったか?その直後、景凪の背後に立つ若い男が、深雲の目に入った。体にぴったりと合ったダークスーツに、地紋の入ったネクタイが、その妖しいまでに整った顔立ちを一層引き立て
続きを読む

第222話

男はあろうことか、こちらを一瞥すると、気だるげに笑ってさえみせた。その瞳には、投げやりな、それでいて明らかな挑発の色が浮かんでいた。深雲「……」……初対面のはずなのに、この男は、どうしようもなく神経に障る!その頃には、春江はすでに二人のボディガードに取り押さえられ、引きずられてきていた。春江は景凪の顔を認めるなり、懇願するように叫んだ。「お嬢さん、私が悪かった!謝るから、警察だけは呼ばないで!お願い!前科なんてついたら、もうどこにも働き口がなくなっちゃう!全部、全部あの女が!」春江は姿月を指差し、興奮のあまりすべてを洗いざらいぶちまけた。「この女がお金をくれて、あんたを騙してトイレに閉じ込めさせたのよ!あの時、この女は隣の個室にいて、あんたに汚い水をぶっかけたの!」その言葉は、深雲の耳にもはっきりと届いていた。彼は姿月に向き直り、信じられないといった様子で眉をひそめる。「姿月、彼女の言っていることは本当か?」「いいえ!違いますわ!」姿月は当然のように、きっぱりと否定した。「社長、私を信じてください!私が、どうしてそんなことをするんですの?景凪さん、きっと、何かの間違いですわ!」姿月は景凪のほうへ向き直り、涙で潤んだ瞳で訴えかける。「景凪さん、私には、この女がなぜ私を陥れようとするのか、さっぱり分からないの……」「陥れる?」景凪は鼻で笑うと、勢いよく姿月の手首を掴み、高々と掲げた。きらびやかなダイヤモンドのブレスレットが、衆人の目に晒される。彼女は鋭い声で言い放った。「はっきり覚えているわ。私に汚水を浴びせた女は、その腕に、このブレスレットをしていた!」姿月の表情が、わずかにこわばる。景凪は深雲をまっすぐに見つめ、こわばった笑みを浮かべた。「深雲。あなたはこのブレスレットをよく知っているはずよね?一本数千万円は下らない、世界に一つだけのオーダーメイド品」あとの半分は、喉の奥に押しとどめた。このブレスレットの宣伝文句——愛はダイヤモンドのように、固く、そして永遠に。それを、自分の夫が買い、姿月に贈ったのだ。そして妻である自分は、そのおまけとしてついてきた、安物の腕時計を手にすることになった。「……」景凪の無言の抗議を宿した瞳に見つめられ、深雲はようやく気づいた。景凪が、このブレスレットの贈り主が自分
続きを読む

第223話

「景凪!」深雲の声には、明らかな動揺が混じっていた。彼は前に出ようとする。しかし、景凪の隣に立っていた渡のほうが速かった。彼は景凪の腕をぐっと引き寄せ、懐に抱き込むと、そのまま長い足を振り上げ、春江の鳩尾を蹴り飛ばした。手加減はしたものの、春江の体はそれでも二、三メートルは吹き飛ばされ、床に激しく叩きつけられる。「うっ」と呻き、ごぼりと血を吐き出した。景凪は、自分の腕を掴む大きな手に目を落とした。渡の肌は白い。その手の甲には、青い血管がくっきりと張り詰め、浮き出ていた。渡は当然、景凪の視線に気づいている。彼は彼女を見ずに、自制するようにその手を離した。シャツの下で、胸がわずかに上下しているのが見て取れた。血に飢えたような凶暴性を、彼は必死に墨のように昏い瞳の奥底に押し殺している。今はまだ……だ。俺のもう一つの顔を見せれば、こいつは怯えてしまう。景凪は床で必死に起き上がろうとする春江を見た。狂気に満ちたその様相、焦点の合わない瞳……景凪は眉をひそめ、すぐに気づいた。この女は、ただ躁病を患っているだけではない、と。それに、さっき「警察」という言葉を聞いた途端、まるで人が変わったように……春江が落ちたナイフを拾い、ふらつきながら立ち上がるのが見えた。「彼女を捕らえろ!」悠斗がボディガードに鋭く命じる。「景凪さんを傷つけさせないで!」最も近くにいた姿月が、ボディガードたちより先に、矢のように飛び出した。次の瞬間、彼女の動きがぴたりと止まる。血が、ぽつり、ぽつりと床に落ちた。春江が握るナイフは、姿月の脇腹に突き刺さっていた。姿月はふらふらと二、三歩後ずさり、そのまま糸が切れたように倒れ込んだ。「姿月!」深雲は狼狽した声でその名を叫び、慌てて駆け寄って彼女の体を支えた。これほどまでに深雲が取り乱す姿を、景凪は見たことがなかった。先ほど、春江が刃物を手に自分に襲い掛かってきた時でさえ、彼はただ緊張した声で自分の名を呼んだだけだったというのに。怒りに我を忘れたのか、深雲の目尻は赤く染まっている。彼は、すでに取り押さえられた春江を睨みつけ、怒鳴った。「姿月にもしものことがあったら、ただじゃおかんぞ!」景凪はその光景を、ただ冷ややかに見つめていた。心は、もう何の波も立ててはいなかった。悠斗が素早くスマートフ
続きを読む

第224話

景凪は黙り込む。この女は職を失ったばかりだった。金のために姿月に手を貸して自分を陥れ、すぐに逃げられると思ったのに、三十分も経たないうちに捕まってしまった……警察と聞いてあれほどパニックになったのも無理はない。姿月は、おそらく最初からこの女の精神が不安定なことを見抜き、わざとあのタイミングで追い詰めたのだ。姿月に、そこまでの洞察力と悪知恵があったなんて……「穂坂様、まもなく警察が到着します」悠斗が言った。「この件は、我々が必ずや最後まで追求いたします」無駄よ。景凪は心の中でつぶやく。人を傷つけた統合失調症患者の言うことなど、誰も信じはしない。有罪に問うのも難しいだろう。おまけに、深雲があれほど宝物のように姿月をかばっているのだ。もう、どうあがいても姿月に罪を問うことはできない。景凪は悠斗に礼儀として微笑みかけると、渡に向き直った。「黒瀬社長、本日はご迷惑をおかけしました。これは事故です。ご安心ください、私的な感情が、今後の業務に影響することは決してないと保証します!」彼女は真剣な顔で、誓いを立てるかのように言った。ビジネスパートナーを選ぶ際、不安定な結婚生活はマイナス要素だわ。渡は大学時代、深雲との交際をせせら笑っていたのを覚えている。もし離婚協議中だと知られれば、こんな大きなプロジェクトは任せてもらえなくなるかもしれない……でも、このチャンスはどうしても必要なの。弁護士費用を払うための、着手金が……!だが、景凪のその言葉は、渡の耳にはまったく違う意味で響いていた。深雲は、あの女の目の前で、別の女を抱いて去っていった。それなのに、まだあの男のために、この契約を取りたいだと!?まったく、この女は俺を本気で怒らせる天才だな、と渡は心の中で毒づいた。渡が険しい顔で黙り込むのを見て、景凪は急に心許なくなった。自分の専門分野には絶対の自信がある。けれど、この渡という男には、常識が一切通用しない……「黒瀬社長?」景凪は探るように声をかけ、彼の顔を窺った。「……」結局、彼は彼女にきつい言葉をかけることなどできはしないのだ。「月曜、契約書を持ってうちに来い」望んでいた答えに、景凪はぱあっと顔を輝かせた。「はい、黒瀬社長!必ずや、大儲けさせてみせますから!」そして、ちゃっかりと付け加える。「でしたら、プロ
続きを読む

第225話

景凪は、先生から送られてきた動画ファイルを開いた。映し出されたのは、昨日の放課後の、校門脇にある一角。映像の中では、清音があたりに誰もいないのを見計らって、別の女の子のお弁当箱から食べ物をひったくるように奪い取っていた。そしてそれをそのまま自分の口へと放り込むと、くるりと踵を返して走り去っていく。その場に残されたもう一人の女の子は、ただ黙ってお弁当箱をしまい、清音とは反対の方向へととぼとぼと歩き去っていった。景凪は動画を巻き戻し、画面の中の女の子を凝視する。見れば見るほど、その顔に見覚えがあるような気がして……はっと、記憶が閃いた。この子、以前、清音を学校に送っていった帰り道で会った女の子じゃないか。あの時、この子が何か面倒に巻き込まれているような気がして、自分の電話番号を渡したのだ……「清音ちゃんは、クラスではいつもお手本みたいないい子なんですよ。だから信じられなくて……まさかほかの子のものを奪って食べるなんて!これはもう、いじめに発展しかねない、とても重大な問題ですわ!」森屋先生の真剣な声に、景凪は言葉に詰まった。娘が食いしん坊なのは確かだ。けれど、だからといって、人からものを奪うなんて……そんなことをする子じゃないはず。だが、目の前には動かぬ証拠が突きつけられている……「森屋先生、清音とはよく話してみます」「ええ、お願いします」先生は、なおも心配そうに続けた。「清音ちゃんは、明るく活発に見えますけど、本当はとても繊細なところがあるんです。お父様やお母様が、もっと気にかけてあげて、心のケアをしっかりしてあげてください」「はい、承知いたしました。お忙しいところ、ありがとうございました」「いえ。では、失礼します」電話を切った森屋先生は、眉をひそめてため息をひとつ吐いた。家の奥様役が、服を着替えるより頻繁に代わるんだもの。いくらお金持ちだって、あんな環境で育つなんて、お子さんがお気の毒だわ。……景凪は通話を終えると、思考を巡らせる。深雲は今ごろ、姿月を連れて病院にいるはず。しばらくは付き添っているだろうから、家には戻らない。そう踏んで、彼女はまっすぐ鷹野家へと車を走らせた。玄関の扉を開けると、ちょうど薬を届け終えた曽根言一が帰るところで、ばったりと鉢合わせになった。「奥様」言一は景凪の姿を認め
続きを読む

第226話

景凪はそっと目を伏せる。……別に、何でもない。深雲はただ、長い年月をかけて自分が彼の生活に根付かせた習慣を、今も続けているだけ。それだけのことだ。「清音。ママ、ひとつ聞きたいことがあるの」景凪は空のお椀をそばに置くと、娘の目をまっすぐ見つめて言った。「昨日の放課後、どうしてほかの子の食べ物を取っちゃったの?」その言葉に、清音はすぐさまむきになって反論した。「弥生(やよい)の食べ物なんか取ってないもん!」あの子、『やよい』って言うのね……どの漢字を当てるのかは見当もつかないが、景凪は娘の発音をそのまま心の中で繰り返した。「じゃあ、どうしてやよいちゃんのご飯を食べたの?清音、あなたはお腹が弱いんだから、むやみやたらにものを食べちゃいけないってわかってるでしょ?」清音は明らかに言いたくなさそうにぷいと顔をそむけると、ベッドの掛け布団に顔をうずめてしまった。くぐもった声が聞こえてくる。「……弥生との、ひみつだもん。あなたには言えない。でも、もうお腹、痛くならないから大丈夫」娘がいじめをしていたわけではないとわかり、景凪はひとまず胸をなでおろす。せっかくの娘とふたりきりの時間。清音の警戒心も、以前よりずっと和らいでいる。景凪がもう少し何か話そうとした、ちょうどその時だった。清音の子供用スマホが鳴った。彼女はベッドから飛びつくようにして電話に出る。「パパ!」電話の相手は深雲だった。彼が電話口で何かを言ったのだろう。清音は、ちらりと警戒するように景凪を一瞥すると、小さなスマホを持ったままくるりと背を向け、ひそひそと話し始めた。景凪は気を利かせて、空のお椀を手に取り、部屋を出ていこうとする。だが、ドアのそばまで来た時、抑えきれずに思わず張り上げた清音の声が耳に突き刺さった。「姿月ママが怪我したの!?どうして!?だって、今朝お電話くれたんだよっ。私が元気になったら、可愛いお洋服を買いに連れてってくれるって言ってたのに……!」清音の幼い声には、どうしていいかわからない、途方に暮れたような泣き声が混じっていた。景凪の背中が、わずかにこわばる。静かにドアを閉め、階下へと降りていった。ドアが閉まる音を聞いて、清音はそっと振り返った。スマホの向こうから聞こえてくる父の声は、ひどく疲れてかすれている。それでも、娘を慰めよ
続きを読む

第227話

深雲は、ひどい潔癖症だった。血の匂いがこびりついた服が、どうしようもなく不快でたまらない。彼は近くの五つ星ホテルで部屋を時間で取り、新しい服を届けさせた。シャワーを浴びて着替えると、今まで着ていた服はためらいなくゴミ箱に叩き込んだ。深雲が身なりを整え、再び病室を訪れると、姿月はすでに目を覚ましていた。「社長……」彼女は血の気を失った顔で、痛々しく微笑む。深雲は何も言わず、ベッドに歩み寄ると、リクライニングの角度を少しだけ上げてやった。「景凪さん、ご無事でしたか……?」姿月は、感情の読めない深雲の端正な横顔に、食い入るような視線を送る。深雲が手を引こうとしたその瞬間、彼女はとっさにその袖口を掴んだ。「深雲さん、信じて……」真っ白な頬を、涙がつうっと伝っていく。姿月は嗚咽を漏らしながら訴えた。「私、本当に景凪さんをトイレに閉じ込めたりしてない……あの狂った女のひとのことなんて、何も知らないの……」深雲は黙って彼女を見つめ、そっと手を伸ばすと、その頬に伝う涙を指で拭った。「姿月。俺たちが知り合って、もうどのくらいになる?」いつもと変わらない、穏やかな声で彼は尋ねた。姿月は濡れた瞳で彼を見上げる。なぜそんなことを聞くのかわからなかったが、それでも答えた。「十年よ……私が大学一年生の時、新入生歓迎会の実行委員だったあなたに、初めて会ったの」「ああ」深雲は椅子を引き寄せ、ベッドのそばに腰を下ろした。アッシュブルーのシャツが、彼の端正な顔立ちを一層引き立て、息をのむほど魅力的だ。あの頃の自分が彼に一目惚れしたのも、無理はない。十年という月日が経った今も、彼は大学時代に比べて少し大人の男の色気が増したくらいで、その輝きは少しも衰えていない。だが、姿月がしばし感傷に浸っていたのも束の間、深雲が低い声で言葉を続けた。「俺と景凪は、知り合って十五年になる」──お前よりも、俺は景凪のことをよく知っている。言葉の裏にある意味を察して、姿月の表情が微かにこわばる。布団の下で、彼女の手がシーツを強く握りしめた。深雲は静かに目の前の女を見つめる。さすがに、これ以上厳しい言葉を重ねるのは忍びなかった。「姿月、この数年、お前がそばにいてくれたことは確かだ。おかげでずいぶん気が楽だった。お前がたまに見せるずる賢さも、大目に見てやれた
続きを読む

第228話

深雲の顔色が見る間に険しくなる。一度は収まったはずの焦燥感が、死灰の中から蘇るように胸の奥で燃え上がり、胃の腑まで焼き尽くすかのようだった。彼は、自分の腰に回された姿月の腕を、少し力を込めて引きはがした。「まだやることがある。お前はゆっくり休め。それと、西都製薬との契約だが……お前がサインしたんだ、このプロジェクトはもうお前のものだ」深雲は振り返らないまま、言葉を続ける。「プロジェクトが動き出したら、必要なものがあれば何でも言え」病室のドアを開けた途端、知らせを聞いて見舞いに来たらしい暮翔と研時に、正面から出くわした。今着いたばかりなのか、それとも、ドアの外でしばらく聞き耳を立てていたのか。暮翔は少し気まずそうに頭を掻きながら、へらりと笑う。「よう、深雲!奥さんの……いや、姿月ちゃんのお見舞いに来たぜ!」深雲の突き刺すような視線に射抜かれ、暮翔は慌てて舌を噛み、言い直した。研時の目は、深雲の肩越しに、ベッドの上で背を向けて涙を拭っている姿月の姿を捉えていた。彼は痛ましげに眉をひそめると、暮翔に「お前、先に入ってろ」とだけ告げる。そしてすぐさま踵を返し、足早に去っていく深雲の後を追った。「深雲!」研時は、少し前からここに来ていた。ドアのそばで、深雲と姿月の会話を、七割か八割がた聞いてしまっていたのだ。彼は眉根を寄せ、友人を諭すように言う。「お前……姿月には酷すぎるぞ。あんな腹の底が知れない女の言うことを信じて、姿月を疑うのか?穂坂がお前の気を引くためなら、どんなことだってやる女だってこと、わかってるだろ?」「……」気を引くため、か……深雲は、最近の景凪の様々な言動を思い返し、眉間の皺をさらに深くした。どうしてだろうな。俺にはむしろ……景凪は最近、俺の前から存在感を消そうとしているようにしか、思えないんだが。その考えが頭をもたげた瞬間、深雲の心を焼く不安と焦燥の炎は、ますます勢いを増した。彼はスマートフォンを取り出し、景凪に電話をかけようとする。だが、最初の何桁かを打ち込んだところで、その先がどうしても思い出せない。結局、連絡先リストの中から彼女の名前を探し出し、発信ボタンを押した。「おかけになった電話は、ただいま通話中か……」通話中。一体、誰と電話しているんだ?深雲の苛立ちは、さらに募って
続きを読む

第229話

ヴィラにて。書斎のドアに内側から鍵をかけた景凪は、そのままバルコニーに出て、親友の千代と電話をしていた。「離婚弁護士を探してほしい、ですって!?」電話の向こうで、千代が弾んだ声を上げる。「景凪、あなた、本当に決心したのね!」「ええ、とっくに決めてたわ」景凪はスマホを握りしめ、眉根を寄せる。「でも、二人の親権は、きっと深雲が手放さない。だから、腕のいい弁護士さんを探したいの。ただ、私、今あまりお金がなくて……来週、6千万円ほど入る予定だけど、弁護士費用は分割にしてもらわないと……」雲天グループの法務部は、その道のプロフェッショナル集団として有名だ。商法、刑法、経済法、あらゆる分野を網羅し、敗北を知らないとまで言われている。これから始まるのは、間違いなく厳しい戦いになるだろう。景凪自身の交友関係は、研究者仲間が中心で、とても狭い。実家の昔の人脈を頼ることもできない今、彼女が唯一助けを求められるのは、この親友だけだった。千代は、あの鷹野深雲とかいうろくでなしの男のことが、昔からずっと気に入らなかった。あんな男、自慢の親友である景凪には到底釣り合わない。「ちょっと待ってて!」彼女はスマホの連絡先を片っ端からスクロールし、景凪のために最強の弁護士を探し出そうと躍起になった。不意に、千代の目がきらりと光る。「景凪、見つかったわ!この間のドラマでお世話になった法律顧問の先生、離婚裁判専門のすご腕弁護士よ。桐谷然(きりや ぜん)先生!」桐谷然。その名には、景凪も聞き覚えがあった。かつては国を跨ぐような大型の企業買収案件ばかりを扱い、報酬は八桁以下なら受けないとまで言われた大物弁護士。あまりに勝ちすぎて敵がいなくなったせいか、その後は刑事事件専門に転向し、あげくの果てには相手側の弁護士ごと刑務所に送り込んだという輝かしい伝説まで持つ人物だ。そして、刑事事件にも飽きてしまったのか、去年からは離婚弁護士を始めたという。──そういえば。あの『自渡』と名乗る人物が勧めてきた弁護士リストの、一番上にあったのも彼の名前だった。最高の弁護士であることは間違いない。だが……「千代、私には無理よ。そんな人、雇えないわ」景凪は、正直にそう告げた。千代は、自分が費用を出す、と言いかけて、はっと口をつぐむ。スマホの画面にポップアップ表示され
続きを読む

第230話

電話を切った千代は、すっかり上機嫌だった。今日は誰にでも優しくしよう。何度もNGを出すコネ入社の二番手俳優にさえ、にっこりと微笑みかけてやったほどだ。公式のSNSアカウントは事務所に管理されているため、出番を待つ間、千代はプライベートで使っているSNSのタイムラインに、ある歌のリンクを投稿した。曲名は、『素晴らしい日々』。そして少し考えてから、とうの昔にブロックした深雲のアカウントをわざわざ解除し、この投稿に彼を名指しでタグ付けしてやった。一方、景凪は、桐谷然に会うため、身支度を整えていた。家を出る前に、一度、清音の部屋をのぞいてみる。娘はベッドにうつ伏せになり、小さな足を空中でぱたぱたとさせながら、スマホに向かってボイスメッセージを送っていた。「姿月ママ、もう大丈夫?まだ痛い……?」その声は、実の母親である自分には、一度も見せたことのない甘さに満ちていた。ドアノブに伸ばしかけた景凪の手が、宙で止まる。しばらくして、彼女はその手を力なく下ろすと、音を立てずに背を向け、静かにその場を立ち去った。階下に降り、玄関の扉を開けると、ちょうど息を切らして駆け込んできた海舟と鉢合わせになった。景凪は意外な訪問者に、少し驚く。「海舟?」「よ、よかったです、奥様!ご在宅で!」ぜえぜえと肩で息をする海舟の額には、汗が滲んでいた。景凪は、海舟のことを昔から悪い人間だとは思っていなかった。だから、その声は自然と穏やかになる。「どうかしたの?そんなに慌てて」「こ、こちらを」海舟は、息を切らしながら、見るからに高級そうな箱を景凪に差し出した。「社長からでございます。必ず、奥様に直接お渡しするようにと……」景凪は「……」彼女は箱を受け取ると、ためらいなく蓋を開ける。現れたのは、息をのむほど華やかなダイヤモンドのネックレスだった。ひと粒ひと粒が、まばゆいばかりの輝きを放っている。姿月に贈った、あのダイヤモンドのブレスレットと同じブランドだ。値段にすれば、1億円は下らないだろう。景凪は、皮肉っぽく唇の端を吊り上げると、ふっと乾いた笑い声を漏らした。なるほど。これが深雲からの、不貞の慰謝料というわけ……「奥様」海舟は、おそるおそる口を挟んだ。「そ、その贈り物は、社長のお気持ちです。どうか、お納めください」景凪
続きを読む
前へ
1
...
2122232425
...
30
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status