All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

「奥様……」桃子は半ば遅れて、自分がとんでもない失言をしてしまったことに気づいた。不安と心痛に顔を歪め、白磁のように儚い景凪の横顔を、眉を曇らせて見つめる。奥様はまるで……指で触れただけで、砕けてしまいそうだ。景凪は何も言わなかった。ただ静かに腰を屈め、使い終えた銀鍼を道具袋に仕舞い、救急箱の中へと戻す。だが、立ち上がるその体は、明らかに震えていた。薄くか弱いそのシルエットが、今にも崩れ落ちそうに揺らいでいる。二年……景凪はぎゅっと目を閉じた。あの二年間、彼女はほとんど休みなく時間を捻出し、深雲のために薬を煎じ続けた。あの頃の自分は、深雲に二度も輸血をした後で、ひどく衰弱していたはずなのに。それでも彼が「お願いだ」と口にすれば、断ることなどできなかった。彼と従姉は非常に仲が良く、実の姉弟同然なのだと、彼は言った。「景凪、従姉は俺にとって、すごく大事な人なんだ。あの事故も、俺を庇ったせいで……」彼は言ったのだ。「景凪、俺は……彼女に借りがあるんだ」「……ふっ」冷え冷えとした笑いが、景凪の唇から漏れた。心臓に流れ込んでくる血さえもが、氷のように冷たい。彼に借りがあると言うから、私が代わりにそれを返した。嘘だった。すべて、全部、嘘だった!!もう、わからない。あの頃、鷹野深雲が自分に語った言葉の中に、一体どれだけ真実があったというのだろう。そして自分は、まるで道化だ。真心を捧げ、ただただ彼の掌の上で踊らされているだけだったなんて!部屋の隅で埃をかぶっていたはずのウェディングフォトが、いつの間にか元の壁に掛け戻されていた。七年という歳月を隔て、当時の、ひたむきに深雲だけを見つめていた自分を眺めながら、景凪はまるで、何年も醒めない馬鹿げた夢を見ていたかのようだと感じた。景凪はぽつりと呟く。「……本当に、釣り合わないわね」鷹野深雲のような男に、どうして私の真心が釣り合うというのだろう?いつの間にかそばに来ていた桃子は景凪のその一言を聞き、深雲との結婚当時に囁かれた心無い噂を思い出しているのだと勘違いした。慌てて彼女を慰める。「そんなことありません、奥様!ご覧ください、奥様と深雲様が並んでお立ちになっているお姿は、まさしく天が定めたお似合いの夫婦そのものですわ!外野の戯言になど、耳を貸し
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第212話

きのうの夜は、本当にいやな夢を見なかった。もしかして、あの悪い女の人って、そんなに悪くないのかも……清音はスリッパをぱたぱたさせて、階段をおりた。小さな頭をひょっこり出して、あたりを見回す。キッチンには、桃子がひとりでいそがしく働いているだけ。あの女の人の姿はない。清音は、むすっとしてカーペットの端をけとばした。どうせまた、お仕事に行ったんだ。いなくなってくれて、ちょうどいい。これで私を怒る人は誰もいない。清音はそう思ったのに、なぜだか、ちっとも嬉しくなかった。彼女はまだ小さすぎて、この気持ちが「さみしい」ということだとわからない。ただ、胸のあたりがもやもやするだけだった。「清音」深雲の声がした。清音は振り向いた。階段をおりてくるパパを見て、とろけるような笑顔になる。「パパ」彼女が両手を広げて「だっこ」とせがむと、深雲は身をかがめて娘を抱き上げ、自分の腕の中に座らせた。清音の顔色がずいぶん良くなったのを見て、深雲もほっとする。彼はふと、視線を二階に向けた。「ママはまだ寝てるのか?」清音は口をとがらせた。「行っちゃったよ」深雲の足が、ぴたりと止まる。ちょうどキッチンから出てきた桃子が、父と娘の会話を耳にした。「旦那様。奥様は朝早くにお出かけになりました。本日は、大事なお客様とお会いになるご予定だとか」まともな実験データすら出せないくせに。西都製薬の件は、まだあきらめていなかったのか。深雲は心の中で、冷たく笑った。せいぜい今日、みじめに失敗して、泣きながら俺に助けを求めに帰ってくるがいい。「パパ、姿月ママがきのう、私へのプレゼントをパパにことづけたって言ってた!」清音はわくわくしながら、深雲のポケットを探しはじめた。深雲は止めなかった。清音は彼のポケットから、ピンク色のお守りをひとつ見つけだす。「わあ、きれい!これ、姿月ママのお守りだ」「ああ」深雲はさらりと言った。「これからはお前のものだ」清音がお守りを宝物みたいに大事そうにしているのを見て、桃子はそばで思わず眉をひそめた。どんなすごい物かと思えば、そんな安っぽい代物。あんなもの、ネットで探せばいくらでも売っているのに。それにしても……深雲様はゆうべ、またあの女に会いに行かれたのか。桃子の目から、不満
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第213話

声は大きくない。だが、ぞっとするような冷たさがこもっていた。明らかに、本気で怒っている。桃子はそれを見て、思わず首をすくめた。もう何も言えない、というふりをする。自分の身にふりかかって、やっと痛みがわかったのかしらね。心の中では、そう毒づいていた。深雲は怒りを無理やり抑え込み、冷たい顔で言い放つ。「次はない。これ以上余計な口をきくなら、たとえお祖母様の人間だろうと、容赦はしないぞ」「は……はい、深雲様」深雲様は普段、穏やかで話がわかるように見える。けれど、一度火がつくと、本当に恐ろしいところがあった。桃子が典子の目でもあることを思い出し、深雲は少し気持ちを整理してから、低い声で言った。「俺と景凪のことは、心配しなくていい。あいつは最近、少しわがままが過ぎるだけだ。外で少し痛い目にあえば、自然とおとなしくなって帰ってくる」今日、西都製薬に断られることこそが、ここ最近の彼女のわがままに対する、自業自得の罰なのだ。「はい」桃子はおとなしく頷き、うつむいた。そして、くるりと背を向けながら、心の中で悪態をつく。言っても無駄ね、ほんと。そのうち奥様に愛想を尽かされて捨てられればいいんだわ。そうなったら、どこかで勝手に泣いてなさい!一方、屋敷を出た景凪は、借りているアパートへまっすぐ車を走らせていた。ハンドルを握りながら、景凪は少しずつ冷静さを取り戻していく。そして、これまで見過ごしてきた些細な記憶を、注意深くたぐり寄せていった。大学三、四年の頃。彼女は二年ものあいだ、深雲の言う「従姉」のために薬を煎じ続けた。その中でも、はっきりと覚えていることがある。ある時、深雲が急用で薬を取りに来られなくなり、彼女は気を利かせたつもりで、彼が言っていた「従姉」の家があるという高級住宅街まで、直接届けに行ったのだ。――潮音台ヒルズのヴィラ、七十九番地。しかし、彼女がそこに到着するやいなや、深雲が血相を変えて駆けつけてきた。景凪は、自分が人並み外れた記憶力を持つ、いわゆる天才でよかったと思った。一度見ただけですべてを記憶できる、とまではいかない。それでも、何年も前のことなのに、あの時の深雲の様子をはっきと思い出すことができる。彼は明らかに動揺していた。そして、彼女の手から薬を受け取ると、「従姉の家は決まりごとが多くて、今日は
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第214話

売りに出されている物件が、いくつかあった。景凪はその地区を担当する不動産仲介業者に、電話をかけた。「こんにちは。潮音台ヒルズで売りに出ている中古物件を見学したいのですが」この手の高級物件を扱う仲介業者は、相手によって態度を変えるのが常だ。景凪の声が若く、女性だとわかると、案の定、突き放すような事務的な声が返ってきた。「お客様。潮音台ヒルズは賃貸はしておらず、分譲のみとなっております。価格は最低でも60億円から。ローンもご利用になれません。また、見学には事前の資産審査が必要になりますが」言葉の端々から、「冷やかしなら時間を無駄にさせるな」という空気が伝わってくる。景凪は自分の身分情報を相手に送信すると、静かに言った。「私は雲天グループ、鷹野深雲の妻です。それでも、見学する資格はありませんか」どうせ「鷹野深雲の妻」でいられるのも、あとわずか。使えるものは、今のうちに使い倒しておかないと。電話の向こうはすぐには答えなかった。だが、キーボードをけたたましく叩く音が聞こえる。景凪の身元が本当かどうか、急いで調べているのだろう。三分もしないうちに、再び仲介業者の声が聞こえた。今度は、さっきまでとはうってかわって、へりくだった声になっている。その声には、上客に対するあからさまな敬意と媚びるような響きさえあった。「お、奥様!大変失礼いたしました!いつ頃、ご見学なさいますか?奥様のご都合がよろしければ、私はいつでもご案内できますので!」景凪は淡々と言った。「この二、三日のうちに時間ができたら、こちらから連絡します」「はい、はい!奥様からのお電話、心よりお待ちしております!」景凪は通話を切ると、まっすぐ前方の道路を見据えた。その横顔に、感情の揺らぎは一切なかった。アパートに戻ると、景凪は手早くシャワーを浴びた。そして、アイボリーのビジネススーツに着替える。長い髪をうなじのあたりで一つにまとめると、知的でクールな雰囲気が漂った。ただ、顔色が悪すぎる。家を出る前に、彼女は薄く化粧を施した。鏡の中の自分は、たちまち生き生きとして見える。時間を確認し、景凪は書類を手に取ると、急いで玄関のドアを開けた。道路を渡れば、向かいはもう西都製薬のビルだ。景凪の視界の端に、姿月の白いBMWがこちらへ向かってくるのが映った。助手席には男の人
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第215話

シートベルトを外したばかりの郁夫は、この突然の急ブレーキに不意を突かれ、肘をドアに強く打ちつけた。その痛みで、整った顔からさっと血の気が引いていく。骨がずれるような、鈍い感触があった。「先輩!」姿月はひどく狼狽えたふりをし、自責の念にかられるように、その目に涙を浮かべた。「先輩、大丈夫ですか!?ごめんなさい、今、目の前を急に猫が飛び出してきて、それで、急ブレーキを……すみません、先輩がシートベルトを外したのに気づかなくて……」「いや、大丈夫だ。君のせいじゃない……」郁夫の額には汗が滲み、歯を食いしばって痛みに耐えている。さっきは僕も、どうかしていた。景凪を見かけたと思い込んで、ついシートベルトを外してしまうなんて……「先輩、すぐそこの病院に行きましょう! そのままじゃ、だめですよ!」姿月が心配そうに言う。「……」郁夫は一瞬迷ったが、頷くしかなかった。「ああ、わかった。すまないが、今日はもう付き合えそうにない」姿月は、彼の気持ちを思いやるように言った。「いいんです。先輩のそのお気持ちだけで、嬉しいですから」郁夫が力なく微笑むと、姿月は身を乗り出し、彼のためにシートベルトを締め直そうと体を近づけた。距離が、近すぎた。郁夫は、彼女の体からふわりと漂う香水の匂いを感じる。郁夫は背中をシートに押しつけるようにして、さりげなく彼女との距離を取った。同時に、怪我をしていない左手で、シートを少し後ろに倒す。その、距離を取ろうとするさりげない仕草に、姿月は気づいた。彼女の瞳の奥に、すっと冷たい光が走る。だが、体を起こした時には、もういつもの表情に戻っていた。「先輩、さっきは誰を見かけたんですか? あんなに興奮して」「昔の知り合いだ。たぶん、見間違いだろう」郁夫がそれ以上話したがらないのは明らかだった。だが、彼の瞳の奥に宿る、確かな心の揺れを、姿月は見逃さなかった。自分たちが久しぶりに再会した時でさえ、郁夫はただ淡く笑っただけで、喜ぶそぶりすらほとんど見せなかったのに。穂坂景凪……姿月は心の中で、チッと舌打ちをした。あの女、どこにいても本当に目障りなこと……!姿月は郁夫を一番近くの病院に送り届けると、すぐに車を走らせ、西都製薬のビルへと引き返した。ビルの中に入ると、彼女はさりげなくホール全体を見回し、隅のほ
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第216話

女はすぐに景凪を連れて、隅にあるトイレへと向かった。「一番奥の個室です!」女は景凪の手を引いて、ずんずんと奥へ進んでいく。景凪は患者の容体が気になり、すぐに処置ができるよう、いつも持ち歩いている銀針を取り出そうとした。だが、彼女が針の入ったケースを取り出した、まさにその時。さっきまで必死な形相で自分に掴みかかっていた見知らぬ女がいきなり態度を変え、凶暴な力で景凪を個室の中に突き飛ばした。そして、同時に彼女のバッグをひったくる。バンッ!鈍い音がして、個室のドアが外から力任せに閉められた。そして、外から鍵がかけられる音が響く。すべては、あまりにも一瞬の出来事だった。景凪はすぐに冷静さを取り戻し、ドアを叩いて助けを呼ぼうとした。だが、その瞬間。隣の個室から、モップを洗った後であろう汚水が、バケツ一杯、頭から浴びせかけられた。景凪は、全身が芯から冷え切っていくのを感じる。それでも彼女は、汚水に濡れて霞む視界の向こうに、はっきりと見た。頭上からすっと引っ込められたその手。その手首で、きらりと光るダイヤモンドのブレスレットを。……姿月は洗面台の前に立つと、バッグから現金の束を取り出し、背後で期待に満ちた目で待つ女に手渡した。彼女は、まるでどうでもいいことのように言い放つ。「あいつの持ち物は、どこか遠くのゴミ箱に捨ててきて」「わかってる」女はこんなことをするのは初めてらしく、ひどく緊張していた。金を受け取ると、すぐにその場を立ち去る。姿月は落ち着き払った様子で鏡に向かい、口紅をさっと塗り直した。そして、トイレから出ると、ついでに「清掃中」の札をドアノブに掛けておく。彼女は平然とした足取りで、受付へと向かった。「こんにちは。雲天グループ開発部のマネージャーです。九時にお約束しておりました、黒瀬社長との提携の件でまいりました」「あなたも、開発部のマネージャー?」受付担当は、彼女をじろじろと二、三度見てから、景凪がさっきまで座っていた隅のほうへ視線をやった。首をかしげ、腑に落ちない様子だったが、それでも内線電話を手に取り、社長秘書の影山悠斗に連絡を入れる。向こうが何かを言ったのだろう。受付担当は受話器を握ったまま、姿月に視線を向けた。「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」姿月は自信に満ちた微
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第217話

だが、彼女はすぐに冷静さを取り戻す。どうせ今日、景凪がここへたどり着くことなど、もう不可能だ。提携相手は、自分ひとり。黒瀬渡にしろ、墨田昭野にしろ、医薬学の分野では素人同然だ。私の実験は、及第点さえ取れればそれでいいのだから。そこまで考えると、姿月はリラックスした。自信にあふれた、堂々とした足取りで、装置へと歩み寄っていく……その頃、階下のロビーでは。渡が長い脚でエレベーターから降り立った。いつもはどこか靄がかかったように捉えどころのないその美しい顔は、今、見る者の肌を粟立たせるほど、険しく冷酷な光を帯びている。彼は、景凪がビルに入ってくるのを、確かにこの目で見ていた。それなのに、ほんの短い会議をひとつこなした間に、目の前で彼女を見失ってしまった。とてつもない恐怖と不安が、見えない手となって、一瞬のうちに渡の心臓を鷲掴みにし、崖っぷちまで引きずり出す。彼は、強く目を閉じた。ここ何年も、彼女に関わることであれば、ほんの些細な出来事でも、自分の心を千々に引き裂くには十分すぎるのだ。悠斗は既にロビーの監視カメラの映像を入手し、すぐに渡へ差し出した。「社長。穂坂様は二十分前に正面玄関から入られた後、ビルから出られた記録はございません。受付の者の話では、記帳を済まされた後、あそこの席でお待ちになっていた、とのことです」渡は悠斗が指さす方向へ目をやった。そこは、運悪く監視カメラの死角になっている。悠斗「途中、受付の者が五分ほど席を外しておりまして、戻ってきた時には、もう穂坂様の姿はなかった、と」「……」渡はその場に立ち尽くした。黒い服に黒い髪。その長身は、まるで人の首を絞め上げる暗雲のように、重苦しい威圧感を放っている。彼の前に連れてこられた受付担当の女性は、その威圧感に耐えきれず、全身をわなわなと震わせていた。これが、新しい社長の姿。なんて恐ろしい人なんだろう……「く、黒瀬社長……わ、私は本当に、五分しか席を外してません……」渡は何も言わなかった。ただ、じっとあたりを見回し、厳しい眼差しで監視カメラの死角沿いをたどっていく。そして、その視線は一番奥にあるトイレで止まった。入り口には、「清掃中」の札が掛かっている。「お前が戻ってきた後、小林姿月が来たのか」渡が口を開いた。その声は、感情が抜け落ち
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第218話

どれほど驚いても、景凪はその事実を、わずか数秒のうちに受け入れた。「来い」渡の胸が激しく上下している。怒りを必死に抑えつけ、その声は低く嗄れていた。「体を洗って、服を着替えろ」彼はもう彼女を見ようとはせず、その手を取ると、背を向けて歩き出した。彼女のこの姿を、これ以上見ていたら、感情が抑えきれなくなりそうだった。「待って……」渡は冷たい顔のまま、無視する。景凪は彼を呼び止められない。とっさに、彼のその手を、強く握り返した。手のひらに、不意に触れたことのない柔らかな感触が伝わる。渡の体が止まった。彼はゆっくりと振り返る。その眉間には、今にも嵐が吹き荒れそうな暗雲が立ち込めていた。一方、景凪は彼の腕をきつく掴んでいた。まるで、最後の頼みの綱に必死ですがりつくかのように。「時間に遅れたのはわかっています。すぐに着替えますから、でも、どうか、もう一度だけ、提携の話をする機会を……お願いします、黒瀬社長」この機会だけは、絶対に失うわけにはいかない!渡は黙って彼女を見つめ、静かに問いかけた。「……それほど、大事か」「はい!」彼女は一秒もためらわなかった。「……」五年前、まさにこの穂坂景凪が、西都製薬との五年契約を勝ち取った。そのおかげで鷹野深雲はグループ社長の座を固め、雲天グループの役員にまで上り詰めたのだ。そして今、彼女はまた、あの男のために、二度目の五年を勝ち取ろうとしているのか。数日前に、離婚弁護士を探してくれと、この俺に頼んできたというのに……胸の奥で激しく燃え上がっていた何かが、ふっと消えた。渡の全身から、急速に熱が引いていく。彼は、自分の腕を掴む女の手に、冷え切った視線を落とした。そして、薄い唇をわずかに動かす。「……手を離せ」景凪ははっとして、すぐに彼の手を放した。そして、潤んだ瞳で彼を見上げた。その眼差しには、すがるような響きがある。西都製薬との契約は、今の私が状況をひっくり返し、深雲と対等に交渉するための、たった一つの切り札なのだ。離婚して、二人の子供の親権を手にするために。この一歩は、何よりも重要なのに。でも、渡の瞳の奥は深すぎて、そこにどんな感情が渦巻いているのか、彼女には読み取れなかった。ただ、彼がひどく不機嫌だということだけは、肌で感じられる……景凪が不安に
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第219話

景凪に、今の渡の心が分かるはずもなかった。大学時代、彼女は人が良いことで有名だった。誰かと顔を赤らめて言い争うことなど、一度もなかったのだ。その温厚すぎる性格は、蘇我教授でさえも見過ごせず、「君には天才的な才能があるというのに、天才が持つべき鋭さがまるでない。それではいつか、人にいいように利用されるだけだぞ」と窘められるほどだった。それでも景凪は、ただ微笑むばかりで、決して反論はしなかった。だが、彼女自身はよく分かっていた。争わないのではない。自分が何を求めているのかを、はっきりと理解しているだけだ。例えば、グループ課題が寮の部屋ごとで一つ、そう決められていたとする。だが、他の三人の手際が悪すぎる。彼女たちと協力していては、ただ時間を浪費するだけだ。しかし、単位は絶対に必要。景凪が一人でやれば、一時間もかからずにすべてを終わらせられる。残りの三人は、そこに名前を連ねるだけでいい。そうなると、彼女たちも多少は気が引けるのだろう。タピオカティーや食事を差し入れてくれたりと、積極的に景凪の機嫌を取ろうとしてくる。結果として、部屋の雰囲気も格段に良くなるのだ。他人から見れば、彼女は損な役回りを黙って引き受けているだけに見えたかもしれない。だが、景凪にしてみれば、それは最小限の労力で、望むものを手に入れるための最善策に過ぎなかった。唯一の例外が、黒瀬渡だった。渡だけは、彼女のその手には乗らなかった。穏やかな仮面の下に隠された、他人を寄せ付けない冷めた部分を、彼は常に見抜いていた。そして、いつも彼女の剥き出しの棘を引きずり出してみせるのだ。「渡くん、私、何かあんたに気に障ることでもした?」我慢の限界を迎えた彼女は、一度だけ、授業の後に渡を教室の裏口で待ち伏せしたことがある。背後から射し込む西日が眩しく、渡は目を細め、眼下で不満げに自分を睨みつける景凪を見下ろした。彼は片眉を上げ、気だるげに笑う。「へえ。なんだ、お前も怒ったりするんだな。てっきり能面みたいに、いつも同じ顔してるのかと思ってたぜ」「……ッ」これほどまでに、人の神経を逆撫でする男に会ったことがない。景凪は不意に渡の背後を指差し、目を見開いて叫んだ。「な、なに、あれ!?」渡が訝しげに振り返る。その隙に、彼女は彼の膝の裏を思い切り蹴り上げ、脱
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第220話

数秒の沈黙の後、彼はそれに手を伸ばし、受け取った。……一方、特別会議室では——姿月は実験用のゴーグルを外した。たった今、昭野の前で、実験の根幹となる工程の実演を終えたところだ。「墨田さん。ご指示通り、実演は終わりましたわ」姿月は昭野に視線を向ける。「黒瀬さんはいついらっしゃるのかしら。もう契約書にサインをいただけますの?」昭野は椅子にふんぞり返り、行儀悪く両足をテーブルに乗せたまま、スマートフォンをいじっている。そのふてぶてしい態度に、姿月は思わず眉をひそめ、嫌悪感を隠せないでいた。墨田家ほどの旧家が、景舟のような非凡な才を持つ者を育て上げる一方で、どうして昭野のような、表舞台に出すのも恥ずかしい出来損ないをのさばらせておけるのかしら!「あー、実験終わった?」昭野はゲームのモンスターと戦っていたようで、今ようやく彼女の声に気づいたかのように、投げやりに言った。「あんたの実験、全部撮影して渡さんのスマホに送っといたから。で、向こうがそれで満足するかどうかは、まあ、帰って結果でも待ってなよ」「……っ」姿月は奥歯を噛みしめた。どうやら今日は、黒瀬渡本人は西都製薬にすら来ていないということらしい。それもそうか。西都製薬は業界内でこそ名高いけれど、黒瀬家の事業は世界中に広がり、その資産は計り知れないほど。渡のような、表立って言えない隠し子ごときが、せっかく本家の跡目を継ぐ好機を得たのだ。今頃は必死に黒瀬家の当主に取り入って、正統な後継者である黒瀬知聿と骨肉の争いを繰り広げている真っ最中でしょうね!姿月は胸の内に渦巻く怒りを力でねじ伏せ、完璧な微笑みを浮かべた。「ええ、分かりましたわ。では、良いお返事をお待ちしております」くるりと背を向け、部屋を出ていく。その表情は落ち着き払い、口元には勝利を確信した笑みが浮かんでいた。穂坂景凪のあの女は、今頃まだトイレに閉じ込められているはず。今日、西都製薬と交渉できるのは、この私だけ!彼女からすれば、黒瀬渡も所詮は分かったような顔で偉ぶっているだけだ。今回の契約は、絶対に自分のものになる——姿月はそう確信していた。姿月がエレベーターに乗り込むと、タイミングよく深雲から電話がかかってきた。姿月はすぐに出た。「社長」「どうだった」姿月は笑みを浮かべて答える。「ええ、すべ
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