All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話

ヴィラへの帰り道、深雲は海舟からの報告の電話を受けた。「社長、ダイヤモンドのネックレス、お届けいたしました」「景凪本人に直接渡したのか?」深雲は問い詰めた。「はい」「……景凪は、何か訊いてきたりしたか……?」妙な緊張を覚えながら尋ねると、海舟は淀みなく答えた。「いえ、何も。社長が奥様のために特別にご用意されたプレゼントだとお伝えしたところ、奥様はとてもお喜びのようでした。特に何も訊かれることなく、その場でお受け取りになりました」「……」その言葉を聞いて、無意識にハンドルを握りしめていた深雲の手から、ふっと力が抜けた。江島海舟という男は、時に融通が利かないこともあるが、誠実で裏表がない。相手によって態度を変えるような人間ではないのだ。それこそが、深雲が彼を個人的なアシスタントとして側に置いている理由だった。海舟がそう言うのなら、景凪は本当にあのダイヤモンドのネックレスを気に入ったのだろう。深雲の胸のうちを占めていた一抹の不安は、すっと消えていった。彼の口角が、微かに上がる。「そうか、わかった」深雲は片手でイヤホンマイクを外し、助手席に放り投げると、何を思ったかふっと鼻で笑った。てっきり景凪は宝飾品になど興味がないと思っていたが、やはり女は女、ということか……いや、あるいは景凪も心の底ではこういうものが好きだったのかもしれない。ただ、実家が裕福でなく、これまで高級品に触れる機会もなかったせいで、ダイヤモンドや宝飾品の価値を知らなかっただけだ。加えて、格上の家に嫁ぎ、俺のことしか見えていない状態では、何かをねだることなどできるはずもなかったのだろう。女を懐柔するには、やはり金を積むのが一番手っ取り早い。それでダメなら、さらに積めばいいだけの話だ。スマホを手に取り画面を確認するが、先ほど景凪に送ったメッセージへの返信はまだない。だが、そのことに深雲はもう焦りを感じなかった。彼の唇から、侮蔑の色を帯びた乾いた笑いが漏れた。ダイヤモンドのネックレスは受け取ったくせに、まだ俺の前で気取ってみせているつもりか。ここ数年、自分が景凪にろくなものを贈っていないことを思い返す。結婚指輪でさえ、式当日に母親の文慧が体裁を保つために貸し与えたものだ……金銭面では、確かに景凪に対して少し負い目があったのかもしれ
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第232話

道一本を隔てた向こう側に、景凪の華奢な姿があることなど、深雲は知る由もなかった。景凪は法律事務所のドアを押し開けると、まっすぐに受付へと向かった。「こんにちは。穂坂景凪と申します。五時に桐谷然弁護士と約束をしております」「少々お待ちください」受付の女性が内線で確認を取った後、景凪に向き直って丁寧に告げた。「申し訳ありません、桐谷先生は一つ前のお客様との面談が長引いておりまして……あちらで少々お待ちいただけますか」「わかりました」景凪は促されるまま、待合スペースのソファに腰を下ろした。受付の女性が水と小さなお茶菓子を運んでくる。「ありがとう」水を一口飲みながら、ふと横の棚に法律関係の雑誌が並んでいるのに気づいた。その中の一冊は、桐谷然が表紙を飾っている。——法曹界の風雲児、敗訴を知らぬ男。景凪はその雑誌を手に取り、まじまじと見つめた。写真の中の桐谷然は、オーダーメイドと思われるスーツを隙なく着こなし、歳は三十代前半といったところだろうか。高く通った鼻筋に金縁の眼鏡をかけ、すっとした一重のまぶたの奥から、鋭く怜悧な光を放っている。写真越しにさえ、彼の持つ揺るぎない老練なオーラが伝わってくるようだった。雑誌をめくっていると、不意に、階上からハイヒールの音が響いてきた。景凪がはっと顔を上げると、まず女物の香水の匂いが鼻をかすめた。スパイシーなのにどこか冷たい、独特の香り。ピンクペッパーと海塩の匂いに、微かなジャスミンが混ざっている。黒いタイトなミニスカートにハイヒールを合わせた女は、すらりと背が高く、引き締まった体つきをしていた。顔はスカーフで覆われ、サングラスで目元も隠されているため判然としないが、その立ち姿と身のこなしだけで、紛れもない美人とわかる。サングラスの奥の瞳が、一瞬こちらをちらりと見たような気がした。だが、女はすぐにサングラスの位置を直し、足を止めることなく事務所から出ていく。外では黒のワンボックスカーが待機しており、女が乗り込むとすぐに走り去っていった。「穂坂さん、どうぞお上がりください」受付の声に、景凪は我に返った。「はい」どうやらあの女性が、桐谷然の一つ前の依頼人だったようだ。きっと、自分と同じように、離婚の相談に。景凪は雑誌を棚に戻し、立ち上がって二階へと続く階
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第233話

然はそれにさっと目を通したが、表情は少しも変わらない。「穂坂さん、お気持ちはお察しします。ですが、はっきり申し上げますと、今の世の中、不倫、特に金持ちの男の浮気など珍しくもなんともない。これだけで鷹野家からお子さん二人の親権を勝ち取ろうというのは、少々……」然は言葉を探し、そして続けた。「考えが甘いと言わざるを得ませんね」「だからこそ、先生のところへ伺ったんです」「……」然はペンを弄びながら、レンズの奥にある鷹のような鋭い目で、まっすぐに景凪を見据えた。心の中で素早くそろばんを弾いている。「私の名声を利用して鷹野深雲に圧力をかけ、法廷に持ち込んでも勝てるとは限らないと、そう思わせたいわけか」「はい」景凪は潔く認めた。桐谷然は弁護士になってから長年、一度も負けたことがない。しかも彼女は事前に調べていた。二年ほど前、桐谷然が国をまたぐ大型の企業買収案件を手がけた際、雲天グループの法務部と対峙したことがある。それは、雲天グループの法務部が喫した数少ない敗北の一つだった。だから、深雲も然の実力はよくわかっているはずだ。それに、もちろん、深雲と交渉するための切り札は他にもある。ただ、それを今この男に明かす必要はない。「桐谷先生、あなたが離婚専門に転身されてから、まだ大きな案件は手がけていないと伺っています。もし私の依頼を引き受けて、何の後ろ盾もないこの私を、あの鷹野家相手に勝たせてくだされば……その輝かしい実績は、先生がこの離婚弁護の世界で一躍名を上げるのに、十分すぎるはずです」景凪は、言い含めるように告げた。然はデスクを挟んで、目の前の女をじっと観察した。これほどの美貌を持ちながら、化粧気もなく、服装も質素。それでいて、自分を前にして少しも臆した様子がない。よほど芯が強くなくては、こうはいかないだろう。この穂坂景凪という女、見た目ほど単純ではないな、と彼は直感した。それに、この女、なぜか見覚えがあるような……ふと、ある考えが頭をよぎる。然は何気ない素振りでスマホを手に取り、画面を数回タップした。すぐに、求めていた情報に行き着く。——黒瀬家の、あの方からの直々のメッセージ。然は画面を消すと、何事もなかったかのようにスマホをテーブルに伏せた。そして、おもむろに立ち上がると襟元を直し、景凪に向
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第234話

隅の方で、面談の記録を取っていた補助弁護士は、あまりのことに呆然としていた。目の前の男が、自分の知っている桐谷然と同一人物だとは到底思えなかった。すぐに委任契約書が運ばれ、景凪は二度ほど目を通すと、潔くサインをした。「桐谷先生、それでは、これからよろしくお願いします」「いえいえ、穂坂さん。当然のことをするまでです」然は口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、自ら景凪をドアまで見送った。景凪が去った後、補助弁護士はついに堪えきれなくなった。「き、桐谷先生!正気ですか!?手付金1千万円って……先生の相談料は一時間100万円もするのに……んぐっ!」然は彼の口を鷲掴みにすると、耳元から引き離した。彼は大きな窓辺まで歩いていくと、法律事務所の門を出ていく景凪の姿を見やり、スマホを取り出してその背中を撮影した。そして、その写真を黒瀬渡へと直接送信する。然は軽く咳払いをすると、渡にボイスメッセージを送った。【黒瀬様、例の件ですが、弁護士費用は前払いでお願いしております。穂坂様から手付金として1千万円を頂戴しましたので、そちらは差し引かせていただきます。費用の明細は、三十分後に改めてお送りしますので、ご確認ください】あの穂坂景凪という女が何者かは知らんが、黒瀬渡自らが動くほどの相手だ。ならば、金のなる木に違いない。黒瀬渡と鷹野深雲。然は面白そうに、口の端を吊り上げた。どうやら今回の離婚訴訟、なかなか面白いことになりそうだ。……法律事務所を出て間もなく、景凪のスマホに深雲からの着信が入った。彼女は応答せずにそのまま通話を切ったが、数分もしないうちに、再び着信音が鳴り響く。今度の相手は、鷹野典子だった。「おばあさん」景凪は電話に出た。耳元から、典子の親しげな声が聞こえてくる。「景凪、今夜はうちに食事に来なさいな。深雲のあのろくでなしにも、あんたを連れて帰ってくるように言っておいたんだよ。それなのに連絡がつかないだなんて、あの子ったら嘘ばっかり。ほら、私がかけたら一発で繋がったじゃないの!」「……」典子に会いに行くのはやぶさかではないが、深雲も一緒となると気が進まなかった。「おばあさん、私……」景凪が適当な口実で断ろうとした、その時。電話の向こうで典子が苦しげに呻き始めた。「あぁ、痛たた……ここのと
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第235話

鷹野家の庭園。景凪はいつものように、屋敷に着いてまず文慧たちに挨拶を、とはしなかった。母屋を避け、まっすぐに典子の離れへと向かう。一歩足を踏み入れると、典子が広間のカウチソファに腰掛け、手にした念珠を弄んでいるのが見えた。傍らには花子が控え、うちわでゆっくりと風を送っている。そして、その典子のすぐそばに、深雲が静かに座っていた。彼は黙々と、採れたての蓮の実の殻を剥いている。その美しい指先が器用に殻を割り、中から白くつややかな実を取り出す。さらに、その中心に隠れた苦い芯を抜き取り、そばの小皿へと置いていく。「景凪が言ってたんだ。この蓮の芯は苦いが、薬にもなる貴重なものだって。体の熱を冷ますだけじゃなく、苛立ちや不眠も和らげてくれる、と」深雲の澄んだ声が、夕暮れの風に乗って一言一句、はっきりと景凪の耳に届いた。彼女は一瞬足を止め、そして再び歩き出す。「おばあさん」そう声をかけると、典子と深雲が同時にこちらを向いた。景凪は深雲には一瞥もくれず、微笑みを浮かべて典子の方へと歩み寄る。完全に無視された深雲の視線が、ふと止まった。そして、するりと彼女の細い首筋へと滑り落ちる。その下の鎖骨もまた、華奢で美しい。だが、そこは何も飾られておらず、むき出しだった。深雲は微かに眉をひそめた。あれほど喜んで受け取ったダイヤモンドのネックレスを、見せびらかすでもなく、着けてもいないのか?ふと、数年前に彼女を連れてゲームセンターへ行った時のことを思い出す。UFOキャッチャーで取った安っぽいぬいぐるみを、彼女はそれはもう大喜びでバッグにつけ、どこへ行くにも一緒だった。あれほどまでに気に入っていたのに……たかがぬいぐるみ一つで半月も上機嫌でいられた女が、高価なダイヤモンドを手にしても、相変わらず冷めきった、能面のような顔を向けてくる。深雲の胸のうちに、苛立ちがじりじりと募った。彼は剥き終えたばかりの蓮の実を口に放り込み、噛み砕く。柔らかな甘さの奥に、強い苦味が広がった。芯を取り忘れていたらしい。苦味を好まない彼の眉間の皺が、さらに深くなった。「景凪が来たのかい、さあ、こっちへ来てお座り!」典子は満面の笑みで手を伸ばし、景凪を自分の隣へと引き寄せる。深雲はさりげない素振りで、殻を剥いた蓮の実を小皿に分け、景凪の前へとそっと押しやった
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第236話

「誰と話してるんだ、そんなに楽しそうに」彼は平静を装って口を開いたが、その声には自分でも気づかない、嫉妬の色が混じっていた。「……見せろ」脳が判断を下すより先に、手が伸びていた。景凪のスマホを奪い取ろうとする。景凪は眉をひそめ、目の前に突き出された彼の手を、思いきり平手で叩いた。じゃれ合うようなものではない。乾いた音が響く、本気の一撃だった。パシッ――!叩かれた彼の手の甲に、瞬く間に数条の赤い筋が浮かんだ。「景凪!」深雲の、常に穏やかで整っていた顔に、怒りの色が浮かんだ。彼は怒りのあまり、逆に笑みを浮かべ、言葉を選ぶこともなく言い放った。「どうした、どこぞの色男と逢瀬の相談でもしてたか?それを、夫である俺に見せられないとでも?」景凪はそこでようやく、彼に視線を向けた。冷え冷えとした一瞥だった。声は、その視線よりもさらに冷たい。「誰もがあなたみたいに汚らわしいわけじゃないわ」「……!」深雲は言葉に詰まり、怒りを増幅させた。「なんだと?俺が……汚らわしいだと!?」「私のスマホが見たいの?いいわよ、どうぞ。私はやましいことなんて何もないから」景凪は落ち着き払って告げた。「でも、あなたも私に見せられる?あなたのスマホを。削除したメッセージなら、復元する方法もあるけど」差し出そうとしたスマホを、景凪の最後の一言を聞いて、深雲はぴたりと止めた。それを見て、景凪は笑った。その瞳にもはや失望の色はなく、ただ濃い嘲りが浮かんでいる。ほら、この通り。男というものは、口ではどれだけ立派なことを言っても、自分の胸の内が一番よくわかっているものだ。あなたを裏切った人間こそが、あなたがどれだけ傷ついているかを、一番よく知っている。深雲は浅く息を吸い込み、どうにか感情を立て直した。「景凪、こんなことして、何が面白い?」彼は椅子の背にもたれかかり、その涼やかな瞳で彼女を深く見つめた。その眼差しに宿るのは、いくばくかの真情と、いくばくかの偽りか。「姿月が気に入らないのはわかっている。いいだろう。来週から、もう会社に来なくていい。どうせ西都製薬との提携も終わったことだしな。これからは家にいて、清音と辰希の面倒を見て、子供たちとの時間を大切に過ごせばいい」深雲は思いやりに満ちた声で言った。「約束する。姿月は、二度と君の前に現れない」
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第237話

――俺を、愛していない?それを聞いた深雲の最初の反応は、拒絶だった。信じられるものか。「何を血迷ってるんだ?まだ騒ぎ足りないのか!」「……」景凪は呆れてものが言えなかった。この男は、人の言葉を理解できないのだろうか。彼女の言葉がわからないのなら、月曜日に桐谷然が離婚協議書を突きつけたとき、さすがに理解できるだろう。手首を掴む力が強すぎる。締め付けられて、痛みが走った。「深雲、痛いわ!」だが、深雲は力を緩めようとしない。むしろ、さらに顔を近づけてくる。「景凪、今の言葉を取り消せ!」景凪は、怒りを通り越して笑いさえこみ上げてきた。「深雲、今の自分がどれだけ幼稚か、わかってる?」「……」深雲は苦虫を噛み潰したような顔で、彼女を睨みつけた。その視線は、まるで彼女に穴を開けてしまいそうなほど、鋭く、執拗だった。思わずため息が出そうになった、その時。景凪の視界の隅に、深雲の背後から近づいてくる典子の姿が映った。「おばあさん」「……」深雲にもまだ、世間体というものがあったらしい。彼は景凪の手を掴んでいたその手を、ゆっくりと離した。そして、典子がこちらへ来る前に、何事もなかったかのように元の席へと戻る。その姿は完璧に見えたが、ただ一つ、その視線だけは、まるで彼女を食い殺さんばかりに、景凪の上にねっとりと張り付いていた。景凪は彼を空気のように無視し、立ち上がって典子に歩み寄る。「二人で何を話していたんだい?」典子もまた、二人の間の不穏な空気に気づいたようだった。「別に、何も」景凪は話題を逸らした。「おばあさん、脈を診て、鍼を打ちましょうか」その言葉に、深雲は隣で冷たく鼻を鳴らした。猫を被るのも大概にしろ。俺を愛していないと宣った舌の根も乾かぬうちに、おばあさんの前で孝行嫁を演じるとは。景凪は、心を無にして典子の脈を診ることに集中した。深雲は隣でスマホをいじっていたが、彼の意識の半分が自分に向けられているのを、景凪はひしひしと感じていた。「……」正直に言って、少し居心地が悪い。以前の深雲が自分に向ける関心など、十分の一にも満たなかっただろうに。好きでもない相手に注目されるというのは、こんなにも鬱陶しいものだったのか。景凪は深雲の存在を意識の外へ追いやり、典子の脈を診終える
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第238話

彼女は笑みを無理やり浮かべると、もう片方の手でそっとハンカチを取り出す。夕闇に紛れて、飲むふりをしながら、スープの具をハンカチの上へと移していく。口に含んだ汁も、こっそりとそこへ吐き出した。典子は、もちろんそのことに気づいていない。二人がほとんど飲み干したのを見計らって、彼女はわざとらしくあくびをしてみせた。「あらあら、急に眠くなっちまったよ。おばあさんはもう寝ることにするからね。客間は用意してあるから、あんたたち、今夜はここに泊まってもいいし、帰りたければ帰ってもいいからね」言い終わるやいなや、彼女は花子と共にさっさとその場を立ち去り、若い二人のための時間を残した。景凪はハンカチを捨て、すぐに立ち上がってその場を去ろうとした。だが、またしても深雲が追いかけてくる。「待て!」彼は背後から景凪の手を掴んだが、そこでふと、何かに気づいた。彼が掴んだのは、景凪の左手だった。深雲ははっと息をのみ、その手を街灯の下へと掲げる。すると、景凪の左手の薬指が、がらんとしているのが目に飛び込んできた。「指輪は?」深雲の眉間に、深い皺が刻まれる。実験の時以外、景凪が結婚指輪を外すことなどこれまでなかったはずだ。寝る時でさえ、肌身離さずつけていたというのに!景凪は、いっそ可笑しくなった。散々やり合った今になって、ようやく彼が自分の指輪の不在に気づいたのだ。「ええ。ダイヤが小さすぎて、着けて歩くのもみっともないじゃない。だから、とっくに捨てたわ」景凪は、さも当然であるかのように、あっけらかんと言い放つ。捨てただと……!?深雲は景凪を射殺さんばかりの勢いで睨みつけた。その瞳の奥で、どす黒い激情が渦を巻いている。やがて彼は、侮蔑を滲ませた冷笑を唇に浮かべた。「フン……どうやら、姿月が言っていたお前への評価は、的を射ていたらしいな」景凪は、その名を聞くだけで胃の腑が煮えくり返る思いだった。彼女は深雲を真っ向から見据え、唇の端だけを歪めてみせる。「でしたら鷹野社長と小林秘書、心からお祝いを申し上げるわ。クズ同士、どうぞ再婚してお幸せに」クズ同士……?その上……再婚だと?これが、あの景凪の口から吐かれた言葉だというのか。深雲のこめかみが、ぐん、と激しく脈打つ。完全に、彼女の挑発に火をつけられていた。彼は、
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第239話

暗証番号を教えろと、きらきらした瞳で期待を向けてくる景凪を前にして、深雲は危うく呼吸を忘れるところだった。「景凪ッ、お前、金に目がくらんだか!」「ふふっ」と景凪は鼻で笑う。「あら、足りるかって聞いたのはそちらでしょう?払えないなら、見栄を張らなければいいのに」「……っ」深雲の顔色が、かつてないほどに険しくなる。目の前の女が、本当に景凪なのか。何者かに成り代わられているのではないか、とすら思った。その時だった。間の悪いことに、深雲の携帯が着信を告げた。彼は苦虫を噛み潰したような顔でそれを取り出し、画面に目を落とす。すぐ目の前にいた景凪の視界にも、当然その表示は飛び込んできた。――『姿月』深雲は舌打ちと共に通話を切ったが、間髪入れずに再び着信音が鳴り響く。今度は、さすがに彼も躊躇いを見せた。よほど緊急の用件でなければ、あの姿月がこれほど無粋な真似をするはずがない。彼の性根は見抜いている。深雲が通話ボタンを押した、その瞬間。景凪は、彼の脛を思いきり蹴り上げた。不意の激痛に深雲が顔を歪め、腕の力が緩んだ隙を見逃さず、景凪はその手を振り払い、振り返ることなくその場を去った。「鷹野さん」電話の向こうから聞こえてきたのは、意外な声だった。姿月の声ではない。景凪を追おうとしていた深雲は、その声に思わず足を止めた。「おばさん?どうしてあなたが……」電話の主は、姿月の母親である小林雪華(こばやし ゆきは)だった。春江の声は、ひどく切羽詰まっていた。「鷹野さん、娘とどんな諍いがあったのかは存じませんが……あの子が、たった今、遺書を書いてバスルームで……!」深雲は血の気が引き、携帯を握る手に感覚がなくなる。「姿月が……?」「幸い発見が早かったんですが、まだひどく取り乱していて……申し訳ありませんが、一度こちらへ来ていただけないでしょうか」深雲に、断る理由などあろうはずもなかった。「ええ、すぐに向かいます!」電話を切ると、深雲は足早に離れを出た。ちょうどその時、景凪の車が目の前を滑るように走り去っていく。深雲は一瞬眉を寄せたが、結局は追うことをせず、アクセルを強く踏み込んで逆方向にある病院へと車を走らせた。だというのに、なぜだろう。体の内側から言い知れぬ熱がこみ上げてくる。車の窓を開けて冷たい
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第240話

雪華の言葉は、明らかに自分に聞かせるためのものだった。大学時代、姿月が自分を命懸けで庇ってくれた、あの日の恩を忘れるなと……そう言われているようで、深雲の胸に罪悪感がじわりと広がった。「お母さん、もうやめて」姿月のか細い声が聞こえる。「深雲さんは関係ないの。私が勝手にしたことだから……あの人はずっと、私によくしてくれたわ」まだ、彼女は自分を庇おうとしている。深雲はきつく唇を結んだ。「はいはい、あんたの気持ちに口出しはしないわよ。でもね、自分の娘が濡れ衣を着せられるのを黙って見てるわけにはいかないの!」雪華の声には、抑えきれない憤りが滲んでいた。「あの内藤春江っていう狂った女に会ってきたわ。薬を飲んで少し落ち着いた時に、あいつが全部吐いたのよ。昨日の昼にはもう、穂坂景凪があの女に接触していたって!今日のこの騒ぎも、全部あの二人が仕組んだことだったのよ。あんたを陥れるためだけにね!それなのにこのお人好しは、自分から飛び込んでいって彼女を庇って……あげくに鷹野さんからは腹黒い女だなんて思われて!」その言葉は、まるで雷のように深雲の頭を撃ち抜いた。あまりの衝撃に、何も考えられない。まさか……本当に、景凪が仕組んだことだったというのか?だとすれば、姿月は……濡れ衣を着せられただけだったのか!病室の中。姿月は、気配を殺してドアに目をやった。だが、すぐに視線を戻す。「お母さん、そんなの憶測よ! 景凪さんが……私にそんなこと、するはずないじゃない……」「憶測ですって?女の嫉妬はこわいのよ。一度火がついたら、なんだってするわ」雪華は、はぁ、と重いため息を落とす。「それに、お医者さんも看護師さんも見てた。信じられないなら、聞けばいいじゃない!……ただ、あの内藤って女がまともじゃないのがね。あいつの言うことじゃ、証拠にはならないけど」その時、病室のドアが開いた。ゆっくりと入ってきたのは、深雲の大きな影だった。「……おばさん」彼は気まずそうに、雪華から目をそらした。雪華は、ふんと鼻を鳴らす。「鷹野さん。うちの娘もね、宝物みたいに大事に育ててきたの。なのに、あなたのせいでこんなひどい目に!忘れたなんて言わせないわよ。昔、なんて言いました?姿月は命の恩人だから一生守るって。これが、あなたの言う『守る』ってこと?」「……すみませ
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