鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました のすべてのチャプター: チャプター 261 - チャプター 270

291 チャプター

第261話

よりによって、景凪はスマートフォンすら持っていなかった。この気まずさを紛らわせる術もない。ふと、彼女の視線がハンドルを握る渡の手に落ち、そこでぴたりと止まった。渡はグレーのシャツを一枚、さらりと着こなしている。袖口は無造作に捲り上げられ、そこから前腕が覗いていた。筋肉の筋がくっきりと浮かんでいるが、けして武骨ではない。しなやかで、力強い。筋張った手首から先には、男らしい大きな手のひらが広がっている。指の関節は長く、薄い皮膚が骨の形をなぞるように張りついていた。どこを切り取っても、造形美を感じさせる。その時、景凪の脳裏にある光景が閃いた。今さらながらに思い出す。渡と再会するよりずっと前に、自分はこの手を見たことがあるのだと。――まるで美術品のように美しい、この手を。ただ、あの日はエレベーターの扉が閉まるのがあまりに速くて、彼の顔までは見えなかったけれど。景凪は静かにシートへ背中を預けた。運命とは、なんて気まぐれな脚本家なのだろう。七年前、渡とすれ違い、空港をあとにして以来、もう二度と会うことはないと思っていた。それなのに、今や彼は自分のクライアントだ……つまり、これからは渡と嫌でも顔を合わせる日々が続くということ。考えただけで、景凪は少し頭が痛くなる。大学時代、渡の気に障ることばかりしてしまった。……それどころか、彼の頬を張ったことさえある。しかも、二度も。自宅のマンションが見えてきたところで、景凪は意を決して口を開いた。「黒瀬社長」その呼び名に、渡は気づかれないほど微かに眉を上げた。彼はなにも応えず、ただ先を促すように黙っている。「大学時代……私があなたにあれこれ失礼を働いたのは承知しています。昔のことは、もう水に流していただけませんか。明日からは、仕事に徹します。会社のため、あなたのためにしっかり稼ぎます。部下として、きちんと分をわきまえますから!」一気にそこまで言い切ると、景凪はおそるおそる渡の顔色を窺った。昔のことを根に持たれて、仕事で嫌がらせをされるのが怖いのだ。渡はほとんど呆れて、笑いが込み上げてくるのを必死に堪えていた。車はマンション前の路上に停まった。渡が、横顔のまま彼女に視線を向けた。「景凪。お前のなかで、俺はどういう人間なんだ」景凪は真剣に考え、誠心誠意、言
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第262話

「千代、とりあえず家に入ろ。足が痛くて」言われて千代は景凪の足首に目を落とし、はっとした顔になる。ふざけるのをやめ、急いで彼女を支えながら、ゆっくりとマンションの中へと歩き出した。その道すがら、千代は深雲の先祖代々にまで呪いの言葉を吐きかける勢いで、ありとあらゆる罵詈雑言を並べ立てた。「マジであの男、面の皮厚すぎ!どう見たってあの店の常連じゃない。オーナーとも顔見知りみたいだったし。あんたは初めて遊びにきたってのに、友達とちょっと踊っただけで、いきなりキレるなんてさ!」景凪は静かに耳を傾けている。その表情に波はない。玄関のドアを開け、千代のためにグラスに水を注いだ。罵り疲れたのか、千代はそこでようやく口を閉じる。部屋の中をぐるりと見回し、まあまあね、とでも言うように一つ頷いた。景凪は千代の隣に腰を下ろした。「私の荷物はこれだけだけど、いずれ辰希と清音が来たら、この部屋もちゃんとしないとね」千代は彼女の手を握り、ぽんぽんと軽く叩いた。「景凪、なにか手伝えることがあったら、いつでも言ってよ。一人で無理しちゃだめだからね。鷹野の家の連中、ろくなのがいないんだから。あんたが丸め込まれないか心配なの」景凪は笑った。「千代。私が嫌だって言えば、誰も私をどうこうなんてできないわ」以前の自分は、深雲を愛するあまりに盲目だった。彼を愛するがゆえに、鷹野家のすべてを受け入れようとした。尽くしていれば、いつか本当の家族として認めてもらえる――そんな淡い幻想を抱いて、ひたすら自分を殺してきた。でも、今ならわかる。あの頃の自分がどれだけ滑稽で、愚かだったか。景凪は隣にいる千代の顔を見つめる。家族みたいな親友は、ずっと前からここにいてくれたじゃないか。そして今、自分には血を分けた二人の子供がいる。もう、価値のない相手に自分の幸せを委ねる必要なんてないのだ。千代はしばらく景凪と話していたが、やがてマネージャーからの嵐のような着信に捕まった。明日もイベントに出席する予定で、今夜は早くホテルに戻って休まなければならない。明日のヘアメイクには何時間もかかるのだ。景凪は彼女を促した。「早くホテルに戻りなよ。ゆっくり寝て。明日、あんたがバチバチにキメた写真、楽しみにしてるから」千代は名残惜しそうに帽子とマスクをつけると、しぶしぶ玄関へ向か
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第263話

景凪の瞳から、すうっと温度が消え失せた。「郁夫くんは大学時代の友達なだけ。あの人を侮辱しないでちょうだい。それに、私がどこにいようとあなたには関係ないはずよ」そして、言い聞かせるように付け加えた。「家で当たり散らさないで。桃子さんや子供たちが怖がるわ」その頃、深雲はヴィラのリビングにいた。彼の端正な顔は凍てつき、呼吸は荒くなる一方だった。深雲の背後では、桃子が心配そうに佇んでいる。おずおずと口を挟んだ。「奥様、辰希さまと清音さまはご本邸のほうへお送りしましたので。ご心配なく……」突き刺すような深雲の視線に、桃子はびくりと首をすくめ、それ以上はなにも言えなかった。深雲が再び電話に意識を戻すと、桃子は彼の背後で、見えないのをいいことに小さく天を仰いだ。奥様が出ていってから慌てたって、もう遅いっていうのよ。まったく、今までなにやってたんだか!深雲は苛立ちにまかせて、自らの襟元をぐいっと引き裂いた。シャツのボタンが一つ、ぷちんと音を立てて弾け飛ぶ。「景凪、いつまでも茶番に付き合う暇はない。一時間やる。さっさと帰ってこい!」景凪は思わず鼻で笑ってしまった。まだそんな脅しが自分に通用するとでも思っているのだろうか。「鷹野さん」彼女はベッドの端に腰掛けたまま、静かだが、きっぱりとした声で告げた。「もう、あの家には戻りません。荷物も、すべて運び出しましたから」怒りに震える声で、深雲が叫んだ。「景凪ッ!」彼の激情とは裏腹に、景凪の声は冷淡なほどに落ち着き払っていた。「離婚協議書は、明日、私の弁護士があなたのオフィスに届けます。鷹野さん。この十数年、私があなたに尽くし、命懸けで寄り添ってきたことに免じて……なにも言わず、サインしてください。もう、私を解放して」他の恋人たちが甘いだけの時間を過ごしていたとしても、自分が深雲を愛したあの日々は、文字通り、彼のために何度も死にかけた日々の積み重ねだった。深雲の荒い呼吸が、ぴたりと止まった。まるで頭を鈍器で殴られたような衝撃。その場に縫い付けられたように固まり、全身の血が凍りつく。離婚なんて、ただの脅し文句だと思っていた。自分にもっと関心を向けてほしいがための、子供じみた駆け引きだと、そう高を括っていたのに……だが、今。深雲は悟り始めていた。景凪は、本気で自分と離れるつもりなの
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第264話

景凪の声は、驚くほど穏やかだった。ふ、と軽く笑う気配さえある。「そう?私がそんなに、望んだものを手に入れるのが得意なら……じゃあ今度は、私と離婚してちょうだい。慰謝料も財産も、なにもいらない。この身一つで、出ていってあげるから」返ってきたのは、耳をつんざくような破壊音だった。『ガッシャーーーン!』電話は、そこで途切れた。景凪は気にも留めず、携帯を置くと、自分の足の手当てを始めた。その頃、ヴィラのリビングでは。桃子が悲鳴を上げていた。「ああ、私のスマホが!」彼女のスマートフォンと一緒に木っ端微塵になったのは、壁にかかった結婚式の写真。その額縁のガラスだった。「深雲様、なにかを壊すにしても、私のを壊すことはないでしょうに!」桃子は太ももを叩き、泣くに泣けないといった様子だ。こうなるくらいなら、あのボタンしかない古いガラケーを渡しとけばよかった!深雲は彼女を無視した。墨を垂らしたように真っ黒な顔で踵を返し、大股で階段を駆け上がる。そして、主寝室のドアを蹴り開けた。血走った目が、キングサイズのベッドを睨めつける。胸が激しく上下していた。景凪が、このベッドで寝なくなって、もうずいぶん経つ……最初は仕事が忙しいと言い訳し、そのうち、喧嘩を仕掛けては別室で寝るようになった。深雲は、彼女が駆け引きをしているだけだと思っていた。だが、違った。すべては、彼女が周到に仕組んだことだったのだ。壁には、まだあの結婚写真が掛かっている。写真の中の景凪は、七年前の彼女。あんなにも甘く、優しく微笑み、その瞳は彼だけを映していた。景凪を安心させるために、わざわざ掛け直したというのに。あの恩知らずな女は……!この俺を、捨てるつもりだったというのか!!深雲は一度、強く目を閉じると、ウォークインクローゼットへと飛び込んだ。勢いよく扉を引き開ける。目に飛び込んできたのは、ずらりと並んだ服、服、服……景凪の服は、すべてここにあるはずだ。いや、違う。隅の一角が、ぽっかりと空いている……!その事実に気づいた瞬間、深雲はその場に膝から崩れ落ちた。あの小さな空間。そこに収められていたのは、景凪が嫁ぐときに持ってきた、彼女自身の服だった。では、残っているこの大量の服はなにか。それは、ここ数年、彼が彼女に買い与えたもの――いや、その大
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第265話

その時、彼の視界の端が、部屋の隅に置かれた大きなバスケットを捉えた。季節外れの、捨てる予定の服がいくつか入っている……そうだ、あの中には、まだ別のものが入っていたはずだ!深雲は狂ったようにバスケットに駆け寄り、中の服をすべて床にぶちまけた。そして底を漁る。だが、そこにあるはずだったガラクタの山――その欠片すら、どこにもなかった!リビングでは、桃子が壮絶な最期を遂げたスマートフォンの残骸を並べていた。そして、予備の携帯でその写真を撮り、典子に涙ながらの訴えを送りつける。「典子様、このスマホ、深雲様がお投げになったんです。今年、息子が親孝行だって買ってくれたばかりで、まだ半年も使ってないんですよぅ!」今の深雲は、怒り狂った闘牛のようだ。とてもじゃないが、近づけない。自分の給料を払ってくれるのも、ここに自分を遣わしたのも典子だ。ならば、損害賠償を請求する相手も典子であるべきだろう。桃子はそう考えた。そのボイスメッセージを送り終えた、まさにその時。背後から、荒々しく重い足音が迫ってきた。「桃子さん!」深雲の、圧迫感すら覚える長身が自分に向かってくるのを見て、桃子は慌てて予備の携帯を隠し、代わりに古いガラケーを握りしめた。鋼鉄の万力のような両手が、彼女の肩を掴む。深雲の目は恐ろしいほどに赤く充血していた。「クローゼットの、あのがらくたの山はどこだ!どこへやった!」「が、がらくた……?深雲様、私は深雲様のクローゼットには触れておりませんが」この歳になって、こんな風に詰め寄られるとは。桃子は本気で肝を冷やした。混乱する頭のなかで、ふと、景凪が出ていく前に裏庭でなにかを燃やしていたことを思い出す。そのことを深雲に告げると、彼は桃子の腕を掴んだまま、裏庭へと引きずっていった。「どこで燃やした!」「こ、ここでございます……」桃子が指さした先には、ただの空き地が広がっている。「奥様は、燃やし終えたあと、穴を掘って灰を埋めておられました」燃やした、だと……!あいつが、俺に贈ってきたあの贈り物の数々を。あいつは、燃やしてしまったというのかッ!「深雲、私が贈ったプレゼント、一つも捨てちゃだめだからね」彼女はめったに俺に要求などしなかった。だが、このことに関してだけは、異様なまでに執着していた。「そうすれば、私が年を
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第266話

桃子が姿月にいい顔をするはずもない。対する姿月は、怒るでもなく、慌てるでもなく、ただ優雅に髪をかきあげて微笑んだ。「桃子さん。少し、言葉遣いに気をつけたほうがいいわよ。この家から追い出されるのは、あなたのほうになるかもしれないんだから」桃子は呆れて笑いが込み上げてきた。人生半分も生きてきて、厚かましい人間は山ほど見てきたけれど、ここまで面の皮が厚いのは初めてだ。「御託はいいから、さっさと出ていって!ここは、あんたみたいな人が来る場所じゃないんだよ!」そう言って、桃子は彼女を力ずくで追い出そうと腕を伸ばした。たかが使用人の婆さんのくせに。姿月は眉をひそめ、やり返そうとした、その時。彼女の視界の端が、桃子の背後から現れた人影を捉えた。裏庭からリビングへ入ってきた深雲だ。泥だらけの無様な姿で、その手には、焼け残ったマフラーの切れ端が握られている。姿月の瞳の奥に、鋭い光が宿った。もちろん、そのマフラーには見覚えがあった。大学時代、景凪が深雲のために手編みしたものだ。ふふん、あの時、私が寒いって言ったら、深雲はすぐにこのマフラーを外して、私に巻いてくれたっけ……「きゃっ……!桃子さん、やめて、叩かないで!」姿月はわざとらしく後ずさりしながら、哀れっぽく、しおらしい声で言い訳する。「私、社長の胃の調子が悪いんじゃないかって心配で……お腹に優しいお粥を持ってきただけなんです。そんなに怒らないでください、すぐに帰りますから」姿月がなぜ、急に態度を変えたのかわからない。桃子は呆れ、怒鳴りつけた。「そんな不味そうな粥と一緒に、さっさと失せな!恥知らずにもほどがあるね。こんな夜更けに、奥さんのいる男の家に押しかけてくるなんて!」そう言って、桃子は姿月の肩を軽く押した。たいした力は込めていない。だが、姿月はまるで柳の枝のように弱々しくよろめき、そのまま床に倒れ込んだ。手から滑り落ちた保温ジャーが床に転がり、中から熱い粥がこぼれ出る。それが、彼女の太ももにかかった。「きゃあああ、熱いッ!」桃子はそんな芝居に付き合う気はなかった。「みえすいた真似をするんじゃないよ!あんたみたいな泥棒猫のせいで、奥様は深雲様と離婚するなんて言い出したんだ!よくもまあ、のこのことこの家の敷居を跨げたもんだね!」桃子は腕まくりをすると、姿月
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第267話

深雲は視線を逸らし、低く「わかった」とだけ告げる。バスルームを出ると、ぱたんとドアを閉めた。その瞬間、さっきまでのか弱い仮面を剥ぎ取り、姿月は冷たい光を宿した瞳でバスルームを見渡した。彼女は身をかがめると、シャワーの温度を冷水から熱湯へと切り替える。そして、濡れたスカートの生地をめくりあげ、火傷した箇所にその熱湯を直接叩きつけた。大した火傷でなくとも、これで重症に見せかけることができる。それだけでは飽き足らず、自らの手でごしごしと二、三度こすりつけた。その時、傍らに置いたバッグの中から、携帯の通知音が聞こえた。新しいメッセージのようだ。姿月がスマートフォンを取り出すと、それは清音からのボイスメッセージだった。耳元で再生する。【姿月ママ、ヴィラに着いた?パパは大丈夫?あの女のひと……おうちに帰ってきたの?】一時間前、姿月は清音からメッセージを受け取っていた。お兄ちゃんと一緒に、急にご本邸に送られて、今夜はそこで寝るように言われた、と。その後、清音は伊雲と文慧の会話を盗み聞きしたらしい。子供の理解力や表現力には限りがある。姿月は辛抱強く、あの手この手で清音を宥めすかし、ようやく状況を把握したのだ。深雲と景凪が大喧嘩をしたこと。そして、深雲が仲直りのために、伊雲に高価なバッグを買ってくるよう頼んだこと。おそらく今夜、彼は景凪にそれを渡して、関係を修復するつもりだったのだろう。そんなこと、させてたまるものか。姿月がこんな夜更けに熱い粥を持って押しかけたのは、深雲と景凪を二人きりにさせないためだ。せっかくここまで来たのだ。あの女が生んだ子供たちの母親役を五年も勤め上げ、あと一歩で「鷹野深雲の妻」の座が手に入るはずだった。それなのに、あの死にぞこないのクソアマは、しぶとくも目を覚ましやがった。姿月の瞳の奥で、陰湿で、どす黒い光が燃え盛る。大学時代、深雲に一目惚れしたあの日から、彼の隣に立つのは自分だと決めていた。鷹野深雲の妻の座は、この私のものだ。穂坂景凪ごときが、いったい何様のつもりか。あいつの早死にした母親だって、結局は私の母、小林雪華に敗れ、命まで落としたというのに。姿月は唇の端を吊り上げた。あの女を、母親の穂坂長楽と同じ末路を辿らせるのも悪くない。「清音ちゃん、姿月ママよ。今、ヴィラに着
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第268話

その言葉を口にした瞬間、ごくり、と深雲の喉が動いた。不意に、景凪の太ももに残る、あの決して消えることのない傷跡を思い出したのだ。肉が裂け、骨が見えるほど深かったという、あの傷跡を――深雲はぐっと目を閉じ、思考を振り払う。そして、目の前の姿月の手当てに意識を集中させた。わずかにタコのできた男の指先が、ひんやりとした軟膏をすくい取り、そっと彼女の太ももに塗り広げられていく。姿月は、深雲の端正な横顔から、一瞬たりとも目を離さなかった。「今夜、どうして急に来たんだ」深雲が低く尋ねる。「清音ちゃんから、辰希くんと一緒にご本邸に行ったって連絡があって。パパが一人でお留守番してるのを心配して、どうしてもパパの様子を見てきてって、お願いされちゃったの」姿月はくすりと笑った。「あんなに可愛い天使にお願いされたら、誰だって断れないわ」娘のことを思い出したのか、深雲の表情が少し和らいだ。「あいつを、あまり甘やかすな」「清音ちゃんなら、一生だって甘やかしてあげる」薬を塗る深雲の手が、ぴたりと止まった。互いにいい大人だ。それに、この間の病室での一件もある。姿月が自分に気があることくらい、わからないはずがない。深雲は黙って軟膏の蓋を閉めると、すっと立ち上がった。半歩下がり、洗面台に背を預ける。そして、静かに姿月を見下ろした。その瞳の奥に、深い疲労が滲んでいる。「姿月、この間の病室でのことは……お祖母様が薬を入れたスープを飲んでしまったせいだ」彼は言った。「すまなかった。だが、結局俺たちの間ではなにもなかった。これからは……」その言葉を、姿月は自らの手で遮った。瞳に涙を浮かべながら、彼女は言う。「たとえ、私たちの間に本当に何かがあったとしても、私はあなたに責任を迫ったりしないわ。大学の時だってそう。あなたのために輸血して、死にかけたのだって、私が望んだことだもの!あなたを困らせたくないの」そう言って、彼女は深雲の胸に飛び込み、その体を強く抱きしめた。「深雲さん、お願い、突き放さないで」姿月は泣きじゃくりながら、か細い声で懇願する。「私、五年間もあなたのそばにいたのよ。少しだけ、わがままを言わせて。たった五分でいいから……五分だけ、あなたを独り占めさせてくれない?五分経ったら、ちゃんとあなたを景凪さんのところに返すから……」「……
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第269話

一方、景凪は身支度を終え、ベッドに横になったところだった。眠りにつく前に、ふと、千代が郁夫の連絡先を送ってくれていたことを思い出す。携帯を手に取ると、友達申請を送り、簡単な自己紹介を添えた。景凪:【郁夫くん、穂坂景凪です】こんな夜更けだ。てっきりもう寝ているだろうと思っていたが、申請はすぐに承認された。景凪が、クラブでの一件を詫びようとメッセージを打ち始めた、その時だった。郁夫の方から、先にメッセージが届いたのだ。郁夫:【今、少し通話しても大丈夫ですか?】メッセージを打つ景凪の手が、わずかに止まる。確かに、声で話した方が早いだろう。打ちかけた一行を消し、【はい】と返そうとした、その矢先。郁夫から二通目のメッセージが届いた。郁夫:【あ、もし無理なら大丈夫です。急にすみません】その気遣いに、景凪は思わずふっと笑ってしまった。そして、そのまま通話ボタンを押す。夜の帳が下りた、街の反対側。クラシックで品の良い調度品が並ぶ、広いペントハウスの一室で。ソファに座って携帯を凝視していた郁夫は、景凪からの着信画面を見て、勢いよく立ち上がった。一つ、咳払いをしてから、通話に応じる。「景凪?」「ええ。郁夫くん、体は大丈夫?」景凪の声は、心から心配している響きを帯びていた。「ごめんなさい、あの時、あまりにもめちゃくちゃで……病院に付き添うことも、ちゃんとお別れを言うこともできなかった」「いや、大丈夫だよ。ただの擦り傷だから、病院なんて大袈裟だ。それに、君はなにも悪くない!」そこで郁夫は少し間を置いて、おそるおる口を開いた。「今夜のあの男は……」景凪は、少しも臆することなく、はっきりと答えた。「彼の名前は鷹野深雲。雲天グループの社長。そして……私の、もうすぐ元夫になる人よ」雲天グループの……社長!郁夫は息を呑んだ。ということは……彼女こそが、姿月が口にしていたコネ入社の鷹野夫人だったのか!雲天グループの研究開発部には、これまで何度も足を運んだ。ずっと探し求めていたその人が、まさか自分とわずか二十メートルほどの距離にいただなんて。しかも、そんなこととは露知らず、自分は彼女を心の底から軽蔑していたのだ。郁夫はたまらない羞恥心に襲われ、時間を巻き戻して過去の自分を殴りつけてやりたい衝動に駆られた。「……郁
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第270話

そこで景凪は、その投稿にていねいなコメントを残してやることにした。景凪:【そのパジャマ、五年は洗ってないけど、あなたにすごくお似合いよ】最後にはご丁寧に、親指を立てた絵文字まで添えて。そして、ためらうことなく姿月をブロックし、連絡先から削除した。アラームをセットし、スマホをおやすみモードに切り替える。ふかふかの布団に気持ちよく潜り込み、景凪はすぐに深い眠りに落ちていった……だがその夜、深雲は寝返りばかりを繰り返し、一向に眠れなかった。うとうとしても、見るのは決まって景凪の夢だった。彼女の周りには、得体の知れない男たちが群がっている。一人を殴り倒せば、また次が湧いてくる。一晩中そんな夢にうなされ、彼は疲労困憊だった。翌朝早く、深雲はけたたましい電話の音で目を覚ました。眉を顰め、額を押さえながら身を起こす。鳴りやまないスマホを探り当て、表示された【父・明岳】の名前に目を通して、通話ボタンを押した。「……親父」「深雲、貴様も偉くなったものだな!バーで殴り合いだと!?トップニュースになってるじゃないか!私とグループの顔に泥を塗りおって!」父・明岳の怒声に、深雲の眠気は一瞬で吹き飛んだ。彼は父の言葉に答えるのも忘れ、すぐさまニュースサイトを開く。目に飛び込んできたのは、赤文字で踊る見出しだった。【雲天グループ社長・鷹野深雲、バーで女性を巡り乱闘!鬼の形相で暴行、完璧な仮面が崩壊!】タップすると、昨夜の乱闘動画が再生される。すでに数十万回も拡散されていた。だが、動画は薄暗く、映っているのはぼんやりとした輪郭だけだ。顔まではっきりと見えはしない。深雲はとっさに、しらを切ることにした。「親父、これは俺じゃない。誰かが意図的に俺を陥れようとしてるんだ……」明岳は、怒りを通り越して呆れたように笑った。「動画を最後まで見てからほざけ!」「……」深雲に、動画を最後まで見る度胸などなかった。再生バーを一番端までスライドさせる。そこには、バーのオーナー自らが顔出しでインタビューに応じ、深雲が犯人だと断定している映像が映し出されていた。オーナー「いやあ、鷹野社長は前の晩からうちで泥酔してましてね。まさかあんなに酒癖が悪いとは思わなかった。相手のお客さんは何もしてないんですよ、ただ綺麗な子と踊ろうとしただけで。そしたら社長
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