よりによって、景凪はスマートフォンすら持っていなかった。この気まずさを紛らわせる術もない。ふと、彼女の視線がハンドルを握る渡の手に落ち、そこでぴたりと止まった。渡はグレーのシャツを一枚、さらりと着こなしている。袖口は無造作に捲り上げられ、そこから前腕が覗いていた。筋肉の筋がくっきりと浮かんでいるが、けして武骨ではない。しなやかで、力強い。筋張った手首から先には、男らしい大きな手のひらが広がっている。指の関節は長く、薄い皮膚が骨の形をなぞるように張りついていた。どこを切り取っても、造形美を感じさせる。その時、景凪の脳裏にある光景が閃いた。今さらながらに思い出す。渡と再会するよりずっと前に、自分はこの手を見たことがあるのだと。――まるで美術品のように美しい、この手を。ただ、あの日はエレベーターの扉が閉まるのがあまりに速くて、彼の顔までは見えなかったけれど。景凪は静かにシートへ背中を預けた。運命とは、なんて気まぐれな脚本家なのだろう。七年前、渡とすれ違い、空港をあとにして以来、もう二度と会うことはないと思っていた。それなのに、今や彼は自分のクライアントだ……つまり、これからは渡と嫌でも顔を合わせる日々が続くということ。考えただけで、景凪は少し頭が痛くなる。大学時代、渡の気に障ることばかりしてしまった。……それどころか、彼の頬を張ったことさえある。しかも、二度も。自宅のマンションが見えてきたところで、景凪は意を決して口を開いた。「黒瀬社長」その呼び名に、渡は気づかれないほど微かに眉を上げた。彼はなにも応えず、ただ先を促すように黙っている。「大学時代……私があなたにあれこれ失礼を働いたのは承知しています。昔のことは、もう水に流していただけませんか。明日からは、仕事に徹します。会社のため、あなたのためにしっかり稼ぎます。部下として、きちんと分をわきまえますから!」一気にそこまで言い切ると、景凪はおそるおそる渡の顔色を窺った。昔のことを根に持たれて、仕事で嫌がらせをされるのが怖いのだ。渡はほとんど呆れて、笑いが込み上げてくるのを必死に堪えていた。車はマンション前の路上に停まった。渡が、横顔のまま彼女に視線を向けた。「景凪。お前のなかで、俺はどういう人間なんだ」景凪は真剣に考え、誠心誠意、言
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