鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました のすべてのチャプター: チャプター 271 - チャプター 280

291 チャプター

第271話

父の言葉に、深雲はしばし沈黙した。あの夜、景凪は個人でチームを率い、アウトソーシングの形で西都製薬と協力したいと申し出た。その時、深雲は表向きは承諾したものの、彼の心に長年澱のように溜まっていた不満と暗い感情は、とうに堰を切って溢れ出していたのだ。七年前、確かに景凪のおかげで、深雲は社長の座を固め、役員会に入り、グループ最年少の役員となった。だがそのせいで、どれだけ屈辱を味わったことか。陰では、誰もが囁き合っていた。あいつは実力がない、女の力でのし上がっただけだ、と。やっとのことで景凪が植物状態のまま五年が過ぎ、その歳月が過去を洗い流してくれた。今の雲天グループで景凪のかつての栄光を覚えている者はほとんどおらず、当然、彼が女のコネで出世した話を持ち出す者もいなくなった。だが今回、もし景凪が再び手柄を立て、西都製薬との契約更新を成し遂げでもしたら?過去の経緯が、また蒸し返されるのは目に見えている。深雲はそれを思うだけで、景凪に対し、得体の知れない怒りと、口にするのも憚られるほどの嫉妬を覚えた。彼は父である明岳に裏で連絡を取り、親子で相談した上で決めたのだ。一方で景凪をなだめつつ、裏では姿月を育て、彼女にリソースを集中させる、と。狙い通りになったはずだった。だが、離婚となると……深雲は一瞬、ためらった。「親父、景凪は……あいつは、辰希と清音の実の母親なんだ。もしあいつが、これから先、家でおとなしく夫を支え、子育てに専念するなら……」「くだらんことを言うな!」明岳は冷たく遮った。「あんな母親がいること自体、いずれ辰希の人生の汚点になる!」深雲「……」確かに、景凪の出自はあまりに低い。天才という肩書があろうと、自分たちの世界では、所詮は頭脳を切り売りする田舎の秀才にすぎない。食卓を共にする資格など、もとよりないのだ。「まあよい。穂坂の女の件は、この二、三日で急いで処理する必要はない。まずは西都製薬との契約更新を公表し、昨夜の騒動を鎮静化させろ。そして明日の夜、穂坂を連れて実家へ戻ってこい。見栄えのする服を着させておけ。こちらで記者を手配し、お前たちの夫婦円満ぶりを撮らせてやる」この一連の合わせ技で、世論は完全に覆り、深雲の「完璧な夫」というイメージも維持できるだろう。「わかった、親父」深雲は電話を切ると、立
続きを読む

第272話

深雲はとっさに目を逸らした。「どうして昨日の服を着ないんだ」「だって、景凪さんが知ったら、きっと嫌な気持ちになると思って。ただでさえ、私のこと嫌ってるのに……私の服を着たなんて知ったら、もっと怒らせちゃう」姿月はしょんぼりと俯いて弁解した。「もしかして、深雲さんも……私があなたのシャツを着てるの、嫌だった…?今すぐ着替えに行くわ。私の服、もうすぐ乾くはずだから……」「そんなめんどうなことしなくていい」深雲は眉間を揉んだ。「どうせ他に誰もいないんだ。帰るときに着替えればいい」「……うん」深雲が先にダイニングへ向かうと、まもなく、姿月が朝食の載ったトレイを運んできた。「ありがとう。……すまないな」深雲はプレートを受け取った。絶妙な焼き加減のステーキに、アスパラとマッシュルーム、ブロッコリーが美しく添えられている。「お口に合うかわからないけど、味見してみて」姿月は深雲の向かいに座ると、頬杖をつき、優しく、そして期待に満ちた眼差しで彼の感想を待っている。ああ、深雲さんが、私の作った朝食を食べてる……姿月の心に、じんわりと幸福感が広がっていく。まるで彼が自分の夫で、自分が彼の貞淑な新妻になったかのようだ。あの邪魔な女……穂坂景凪さえいなければ、とっくにこんな生活が手に入っていたのに!「美味いな」深雲が呟いた。「ステーキの焼き加減も完璧だし、付け合わせの野菜もいい」姿月は、心から満足したように微笑んだ。「景凪さんが羨ましいわ。毎日、深雲さんのために朝食を作ってあげられるなんて」毎日、朝食を……?深雲は、昨夜の景凪の冷酷な言葉を思い出す。彼の目からふっと光が消え、血の滲むステーキを力任せに切り分けると、それを口の中に押し込んだ。朝食を食べ終えると、姿月はごく自然な仕草でテーブルを片付け始めた。「姿月」深雲が口を開いた。「西都製薬の契約書だが、サイン済みのものが今朝、直接会社に届くというのは本当か」「ええ……」姿月から確かな返事を得て、深雲は心の底から安堵した。「届いたら、すぐに俺のオフィスへ持ってきてくれ。広報部にリリースを出させて、正式に公表する」「わかったわ」深雲は腕時計に目を落とす。「もうすぐ江島が来る。着替えてこい」「はい、社長」姿月は主寝室へ戻り、ドアを閉める。充電中のスマホを手に取
続きを読む

第273話

メッセージアプリには、通知が立て続けに届いている。昨夜のバーでの乱闘動画のせいで、彼は友人たちの間で一躍時の人となっていた。深雲は未読のメッセージをスクロールしていく。だが、景凪からだけは、何の連絡も来ていない。彼の顔つきが、すっと険しくなる。これだけ騒ぎになっているんだ。このスキャンダルがどれほどの打撃になるか、景凪が知らないはずはない。昨夜、俺はあいつのために、手を出したというのに。かつての景凪なら、真っ先に俺を庇おうと飛び出してきたはずだ。だが今は……深雲は、何の動きもない景凪のアイコンを睨みつけ、奥歯をギリッと噛みしめた。……フン、俺がどうなろうと知ったことじゃない、というわけか。そこへ、研時からの電話が割り込んだ。研時の声は、開口一番、からかうような響きを帯びている。「おい、あの動画どういうことだ。バーで神一テクノロジーの小池社長と殴り合いだなんて。お前ら二人をそこまで夢中にさせる女ってのは、一体どんな絶世の美女なんだよ」研時の記憶の中の景凪といえば、いつもおどおどしている地味な女だ。研究室にこもりきりで、真夏でも長ズボンを履いて、肌を一切見せないような。そんな女と、バーという場所が結びつくはずもない。ましてや、映像に映っていたあの女は――顔はぼやけているものの、赤いドレスにウェーブのかかった髪、蠱惑的な肢体を持つ美女だ。深雲は最初の一言で電話を切ろうとした。だが、続く言葉に、スマホを切る手がぴたりと止まる。眉を顰め、問い返した。「……あの男を知ってるのか」「『知ってる』ってほどじゃないがな。二ヶ月前、うちの親父の代理で政府中枢の大物の祝いの席に出たとき、そいつがそのご本人と同じテーブルにいるのを見たんだ」研時は少し間を置いて、意味深な声で続けた。「おい、そのテーブルにいた若手は、そいつ一人だけだったんだぞ」研時ですら座れない席に、あの男は平然と座っていた……その事実が、小池郁夫という男の価値を雄弁に物語っていた。深雲の眉間の皺が、さらに深くなる。それにしても、景凪の浮気相手が、これほどの大物だったとは。政府の要人と席を共にする男だ。どんな美女でも選び放題だろうに、なぜ景凪のような――子供を二人も産んだ中古品を選ぶ?深雲の目に冷酷な光が宿る。郁夫は、ただの気まぐれに決まって
続きを読む

第274話

その頃、景凪は朝の支度を終えたところだった。子供たち、辰希と清音、それぞれにメッセージを送る。【おはよう。ちゃんと朝ごはん食べるのよ】子供たちの連絡先はもう手に入れた。四六時中そばにいてやれなくても、ママがいつも見守っていることだけは、分かっていてほしかった。家を出ようとした時、息子の辰希から返信が来た。それは、ごく短い一言。【うん】数秒後、もう一言。【ママもね】さらに数秒して、朝食の写真が送られてきた。写真の隅には、スマホをいじっている清音の姿が映っている。娘からの返信はない。景凪は少しだけ寂しさを感じたが、それ以上に、少しずつ心を開いてくれる息子の変化が嬉しかった。だが、そのささやかな喜びは、すぐに打ち砕かれる。マンションのエントランスを出た途端、スマホが狂ったように鳴り響いた。画面を一瞥しただけで、景凪の目からすっと温度が消える。彼女は容赦なく通話を切った。なぜ深雲が電話をしてきたのか、景凪にはわかっている。今頃、秘書を通して、机の上の退職届を見つけたのだろう。フン……たかが辞職よ。まだ、ほんの序の口じゃない。桐谷然の出番は、これからなんだから。再び深雲から着信がある。景凪は煩わしげに、彼の番号を着信拒否に設定した。これから先、離婚に関して直接話す必要が出てきても、すべて代理人である桐谷に任せればいい。景凪は近くのカフェに立ち寄った。「すみません、モーニングセットを一つ。ブレンドコーヒーでお願いします。ここで食べます」今日はプロジェクト責任者として、西都製薬へ出社する初日だ。しっかり食べなきゃ、力が出ないわ!「……景凪?」背後から、聞き覚えのある声がした。景凪が振り返ると、数歩先に立つ郁夫の姿に目を見張った。「郁夫くん、どうしてここに?」郁夫はにこりと笑って、彼女が出てきたばかりのマンションを指差した。「僕、ここに住んでるんだよ」景凪は目を丸くして、嬉しそうに笑った。「すごい偶然!私もここなの。1号棟の……」「しーっ」郁夫は人差し指を口元に当て、彼女の言葉を遮った。「女の子が、外で軽々しく部屋の番号を言うもんじゃない」景凪ははっとして頷いた。「そうよね、ごめんなさい。昔の友達に会えたから、つい嬉しくなっちゃって」今日の郁夫はラフな服装だった。ぱりっとした白いシャツのイン
続きを読む

第275話

「じゃあ、ドレッシングはシーザーじゃなくて、さっぱりしたオニオンの方にしておくわね」郁夫は、目の前で生き生きと輝く彼女の表情に見とれ、胸の奥がじんと痺れるのを感じていた。「……うん」店の中へ消えていく景凪の後ろ姿を、郁夫は口元の笑みを崩さないまま、じっと見送った。彼はスマホを取り出すと、国内でのあらゆる手配を任せている側近・曽根崎宗介(そねざき そうすけ)に電話をかけた。「曽根崎、マンションを一つ買いたい。今日中に引っ越す。買えないなら賃貸でも構わない。場所は、西都製薬の真向かいにある物件だ……」その時、すでに注文を終えた景凪が彼を振り返った。「郁夫くん、タバスコは平気?」郁夫はにこやかにOKサインを作って見せた。景凪が再び店の方へ向き直るのを待って、彼はゆっくりと続けた。「曽根崎、できれば……1号棟がいい」今日の再会はもちろん、偶然などではない。千代から、景凪が西都製薬で働き始めた可能性が高いと聞きつけたのだ。だからこそ、一時間も車を走らせ、ここで一か八か、彼女に会えるのを待っていた。天は、僕を見捨ててはいなかったようだ……郁夫は気づいていない。すぐ後ろの路上に、一台の黒いマイバッハが停まっていることにも。後部座席の男が……漆黒の瞳で、まるで獲物を射抜くかのように、自分をじっと睨みつけていることにも。助手席に座る悠斗は、後部座席の男が放つ冷気にあてられ、凍え死にそうな心地だった。「影山」渡が、底冷えのする声で口を開いた。一言一言が、まるで氷の刃だ。「あの男、見覚えがあるだろう。……行って、始末してこい」悠斗「……」……僕は、板挟みじゃないか。悠斗は意を決すると、ドアを開けて車を降り、まっすぐ郁夫のもとへと向かった。「小池社長!」黒瀬財閥は金融、不動産、メディア、AI、新エネルギーを五本の柱として世界中に事業展開している。その次男である渡のアシスタントを務める悠斗は、当然、各分野の重要人物を把握していた。中でも小池郁夫は、ここ数年で最も勢いのあるIT業界の風雲児だ。悠斗自身も、いくつかのテクノロジーフォーラムで彼と顔を合わせたことがあり、見知った仲だった。郁夫は、トレイを受け取ろうと店の中へ入ろうとしていた。その時、聞き覚えのある声に呼び止められ、振り返る。彼の目に、明らかな戸惑いの
続きを読む

第276話

「景凪、急用ができた。人命に関わることなんだ。先に行くよ。朝食は……また明日にでも」その声は、確かに切羽詰まって聞こえた。人命に関わるというのなら、景凪も気にするわけにはいかない。「わかったわ。そっちを優先して」景凪は目の前の二つ並んだトレイを見つめ、少し途方に暮れた。ホットサンドと、自分のモーニングセット。一人では、とても食べきれない量だ。その時だった。一本の電話が鳴る。知らない番号だ。数秒ためらった後、景凪は通話ボタンを押した。「もしもし、どなた様です?」すると、受話器の向こうから、一度聞いたら忘れられないような、男の声が聞こえてきた。「俺だ。黒瀬渡」その声はどこか気だるげで、それでいて耳に妙に色っぽく響いた。今日から、黒瀬渡が私のクライアント様になるのだ。景凪の声色は、瞬時に丁寧で、恭しいものに変わった。「黒瀬社長、何か御用でしょうか」黒瀬社長、か……渡は舌先でそっと頬の内側を押し、気だるげに言った。「忠告だ。初日から遅刻するなよ」「ご心配なく。会社の真向かいに住んでおりますので、絶対に遅刻はいたしません」景凪は目の前で湯気を立てるコーヒーと、こんがり焼かれたホットサンドに目をやり、ふと思いついたように尋ねた。「ところで黒瀬社長は、今日、西都製薬の方へいらっしゃいますか」彼女は知っていた。西都製薬など、黒瀬家にとっては大海の一滴にすぎない。渡がわざわざ足を運ぶとは限らない。「行く」その返事を聞いて、景凪は間髪入れずに続けた。「では、朝食をお持ちしましょうか!」渡「……何をだ」「焼きたてのホットサンドはいかがです?淹れたてのコーヒーもお付けしますね」彼女の声は柔らかく、どこまでも人畜無害に聞こえる。大学時代と、同じだ。普段があまりに素直で真面目だから、彼女が時折見せるしたたかさや計算に、誰も気づかないのだ。渡は車の窓越しに、遠くで朝食の席に座る景凪の姿を、面白くなさそうにすっと細めた。……他の男のために用意した朝食で、この俺をあしらう気か。「……ベーコンを二倍にしろ」彼は不機嫌さを隠さずに吐き捨てた。「はい、喜んで!」景凪は明るい声で応じる。よし、これでホットサンドが無駄にならなくて済むわ。彼女は電話を切ると、すぐにカウンターへ向かった。「すみ
続きを読む

第277話

「……誰だと?」深雲は眉をひそめた。その声は、凍てつくように冷たい。聞き取れなかったわけではない。信じがたいだけだ。桐谷然とは、何者か。雲天グループの法務部は、業界でも名高い精鋭集団だ。その鉄壁ぶりは、冗談めかして『不敗神話』とまで呼ばれていた。一人ひとりが独立して事務所を構えられるほどの実力者揃いである。そして桐谷然は、その法務部三十人超を、たった一人で完膚なきまでに叩きのめした男。あの裁判は、単なる敗北ではない。屈辱だった。しかも然は、法外な報酬で知られている。相談料だけでも一時間100万円。景凪の懐事情では、到底雇えるはずがない。だが、すぐに思い出す。12億円を入れたカードを、景凪に渡したことを。デスクに置かれた深雲の手が、ギリッと強く握り締められ、関節が白く浮き上がった。あの女……!俺の金で、俺との離婚を進めるつもりか!「社長。桐谷然法律事務所の桐谷然先生、ご本人です」海舟は、はっきりと告げた。握り締められていた深雲の手が、ゆっくりと開かれていく。彼は感情を押し殺し、低い声で命じた。「……わかった。隣の会議室でお待ちいただくように」「はい」海舟が身を翻した、その時だった。「江島」深雲はデスクに両手をつくと、這うような視線で彼を見上げた。いつもの穏やかな口調とは裏腹に、その声には鋭い棘が潜んでいた。「妻は今、機嫌を損ねているだけだ。例の弁護士も、ただの見せかけに過ぎん。お前は昔からうちにいる。景凪がどれだけ俺に惚れ込んで、離れられないでいたか……今更、説明する必要もないだろう?」海舟は長く深雲の側近を務めている。その言葉の真意を、即座に理解した。「ご心配なく。余計なことは、一言も口にいたしません」深雲は、どうにか頷いてみせた。海舟が部屋を出ていくと、彼はすぐさまスマートフォンを手に取り、銀行へ電話をかける。景凪に渡したカードを凍結させるためだ。「……ええ、そうです。このカードを紛失しまして」深雲は一瞬言葉を切ると、ポケットに片手を突っ込み、ゆっくりと続けた。「ついでに、妻の穂坂景凪名義のプライベートカードも落としたようです。そちらもまとめて凍結をお願いします」景凪が持っているカードは、全部で二枚。一枚は、深雲が渡した家族カードだが、彼女がそれを使うことは滅多になかった。いつも、
続きを読む

第278話

「穂坂さんがご確認済みの離婚協議書です。どうぞ。ご異議があればおっしゃってください。専門家のチェックが必要でしたら、あなたの信頼できる弁護士をお呼びいただいても構いません」然は腕時計に目を落とす。「あと二時間。契約書の確認、お付き合いしましょう」深雲は協議書を手に取り、ざっと目を通すと、鼻で笑った。「ヴィラ三棟、都心のマンション一部屋、商業ビルとテナント十店舗……あとは、グループの株式五パーセント、か」彼は嘲るように瞼を持ち上げ、然を睨みつける。「これが、穂坂景凪がお前に要求させたものか?」金などには興味のない、気高い女だとでも思っていた。結局は、ただの金の亡者じゃないか。然はテーブルの上で両手の指を組み、静かな眼差しで正面の深雲を見据えた。「穂坂さんが欲しがったのではありません。あなたが、与えるべきものです」深雲の顔色が変わる。「……どういう意味だ」「ご理解されているはずですが」然は淡々と続けた。「婚姻期間中、穂坂さんが雲天グループ、そしてあなた個人にもたらした価値は、この程度の資産の十倍ではきかないでしょう?」プロの弁護士として、この二日で然は景凪と深雲の歪な夫婦関係をあらかた把握していた。正直なところ、離婚弁護士として妻を泥棒のように警戒する富豪は数多く見てきた。だが、深雲ほどあくどい男は初めてだった。財産はびた一文渡さず、景凪の労働力と、子供を産むという価値だけを無償で搾取する。吸血鬼ですら、ここまで酷くはないだろう。ふ、と深雲が冷たく笑った。「桐谷先生。景凪があなたにいくら約束したかは知らないが、一円たりとも手に入らないと私が保証しよう」そう言うと、深雲は目の前の離婚協議書を掴み、然の目の前でズタズタに引き裂いた。白い紙片が雪のようにひらひらと舞い落ちる。だがその光景は、穏やかな表情の裏に冷酷さを隠した深雲の眼差しほどには、冷たくなかった。「それから、私の愛する妻に伝言を頼みたい。『家や金が欲しければ、二度と俺の前で世間知らずな聖女を気取るな』とね。離婚については……」彼は嘲笑する。「フッ、せいぜい気長に待つことだ。俺が飽きて、彼女を蹴り飛ばすその日までな!」言い放つと、深雲は立ち上がり、会議室を出ていく。しかし、ドアの前でぴたりと足を止めた。「桐谷先生。あなたが妻の代理人として私の前に現れる
続きを読む

第279話

「どこのどいつが仕掛けてきたのか知らんがな」電話の向こうで、明岳の苛立った声が響く。「俺が手配した火消しの専門家たちが、大半アカウントごと消されたぞ!お前の暴力沙汰の動画が、またトレンドの上位に押し上げられているんだ!こっちで必死に抑え込んでいるが、時間は稼げん!もしグループの株価に影響でもしてみろ、監査役会に俺からどう説明しろと!」「わかってるよ、親父。なんとかする」電話を切るなり、深雲は姿月に発信する。だが、呼び出し音はすぐに途切れ、無情にも通話は切られた。代わりに、メッセージが一件、ぽんと届く。【深雲さん、少しだけ待っていて。すぐにそちらへ向かいます】その頃、姿月は雲天グループの目と鼻の先にあるカフェにいた。メッセージを送り終えると、彼女はスマートフォンをテーブルに伏せる。「先輩、こっちです!」入り口のドアを開けた郁夫の姿を見つけると、姿月はすぐさま手を振った。郁夫はその声に気づき、まっすぐこちらへ歩いてくると、姿月の向かいの椅子を引く。「先輩が昔よく飲んでいたカフェラテ、頼んでおきましたよ」姿月は優しく微笑むと、ふと彼の髪に白い糸くずがついているのに気づいた。取ってあげようと、すっと手を伸ばす。「先輩、髪に、なにか……」だが郁夫は、その手を服の上から掴むと、冷たく振り払った。「電話口で泣きついてきたと思ったら……一体、何の用だ」今日だけで、朝から三箇所も振り回されているのだ。影山悠斗を病院に担ぎ込んだと思えば、彼はケロリと回復するしで、郁夫は呆れるしかなかった。とはいえ、急性心疾患は下手をすれば命に関わる。何も言えなかったが……病院から直接、車を飛ばしてここまで来たのだ。姿月は、郁夫の自分に対する態度がどこかおかしいことに、すぐに気づいた。その視線は、彼の口元に残る痛々しい傷へと吸い寄せられる。刹那、彼女の脳裏にある映像が閃いた。昨夜、深雲がバーで誰かを殴りつけていた動画――あの殴られていた男の後ろ姿が、目の前の郁夫と不気味に重なる。まさか……姿月の背筋を、冷たいものが走り抜けた。だとしたら、深雲と郁夫が奪い合っていたという、あの赤い服の女は!――穂坂景凪!つまり郁夫はもう知っているのだ。景凪が深雲の妻で、開発一部の部長であることも。その瞬間、姿月は景凪を八つ裂き
続きを読む

第280話

「先輩……もしかして、怒ってますか?」途方に暮れたように、可哀想に彼を見上げ、みるみるうちに瞳を潤ませる。「もし私が何か悪いことしたなら、教えてくれないかな……?」ぽろり、と一筋の涙が頬を伝った。「私にとって先輩は、ずっと……昔と変わらない、優しいお兄ちゃんみたいな人だから。だから、嫌われたくないの」「……」郁夫は、たしかに姿月に苛立っていた。開発一部の部長は、深雲の妻で、コネで成り上がっただけの中身のない女だと。彼女を虐げ、追い詰めているのだと。そう信じ込ませたのは、姿月だったからだ。だが今は知っている。その相手が、景凪だったことを。景凪が、そんな真似をするはずがない。それでも、彼女を問い詰める気にはなれなかった。少年時代の思い出が、どうしてもちらつく。今日のこの呼び出しが、最後。姿月を助けるのは、これが最後だ。あの日、土砂降りの雨の中、霊安室まで駆けつけて貯金箱を差し出してくれた少女への、最後のけじめだった。目の前で、姿月はぼろぼろと涙をこぼしていた。化粧気のないその顔は、たしかに昔の面影を残して清純だった。郁夫の心は、結局和らいでしまった。彼は、そっとティッシュを差し出す。「君は、わかってたんだろ。俺が探していた穂坂景凪が、開発一部の部長で、鷹野深雲の妻だってことも」彼は目の前の姿月を見据えた。その視線には、有無を言わせぬ重みがある。「西都製薬の前で、俺が彼女に声をかけた時……わざと急ブレーキをかけたんだろう?」「そ、そんなことっ!」姿月は慌てて否定する。「私がそんなことするはずないじゃないですか!」「いや、君ならやりかねない」郁夫は淡々とその言葉を遮った。姿月は息を呑む。郁夫はふいと視線を落とし、コーヒーを一口飲むと、再び彼女を見た。すべてを見透かすような、怜悧な眼差しで。「西都製薬との契約を勝ち取りたい。だが君の野心に、実力が見合っていない。だから僕の助けが必要だった。そして景凪は……」その名を口にしただけで、郁夫の表情がふっと和らいだのがわかった。太ももの上に置かれた姿月の手が、きつく握り締められる。郁夫は、構わず言葉を続けた。「景凪がいる場所では、他の誰も勝者にはなれないんだ」その口ぶりは、まるで彼女に心酔しているかのようだった。姿月は、気が狂いそうだった。郁夫
続きを読む
前へ
1
...
252627282930
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status