鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました のすべてのチャプター: チャプター 281 - チャプター 290

291 チャプター

第281話

姿月の、どこか意地を張った眼差しを見ていると、郁夫の心は揺らいだ。さっきの僕は、少し厳しく彼女を断じすぎたのかもしれない……雨の中、貯金箱を届けに来てくれたあの少女が、こんなに利己的な大人になるはずがない。「姿月」郁夫は声を落とした。「僕の手元に、君に任せられるプロジェクトがある。生物学部と政府機関が共同で進めている国家生態系安全保障システム……コードネームは『グリーンウォール計画』。S級の国家プロジェクトだ」これよ!と姿月は心の中で叫んだ。彼女は、以前郁夫と会っていた時に、こっそりと彼のスマートフォンを盗み見たことがあった。政府中枢が主導し、国家レベルの組織が後ろ盾となっている巨大プロジェクトを、彼がいくつか抱えていることを知っていたのだ。S+は最高機密だが、S級もそれに次ぐ特別案件。西都製薬との契約に、なんら引けを取らない大仕事だ。姿月は、わざと遠慮してみせた。「先輩、私のせいで、誰かに頭を下げてほしくないです……」「いや、そんなことはない。君の実力はわかっているし、雲天グループはそれに足るだけの会社だ」そう言うと、郁夫はすぐさま電話をかけ、『グリーンウォール計画』の責任者である車田教授に、姿月と雲天グループを推薦した。手短に話を手配すると、郁夫は姿月に向き直る。「後で車田教授の連絡先を送る。それと研究拠点の住所も。明日の午前中に直接行ってみてくれ」「……先輩、私に、本当に務まるでしょうか」「ああ」郁夫は彼女を励ますように頷く。「核心技術の部分を除けば、そこまで複雑なプロジェクトじゃない。君ならやれる」彼は腕時計に目を落とすと、立ち上がった。「僕はまだ用事があるから、これで」「さようなら、先輩」郁夫の背中を見送ると、姿月は無表情に涙の跡を拭った。テーブルの上のスマートフォンを手に取ると、深雲からの不在着信が二件。彼女はすぐにはかけ直さず、ゆっくりと席を立つと、彼のオフィスへと直接向かった。一方、深雲はいくら待っても来ない姿月に痺れを切らし、自ら開発二部へと足を運んでいた。そこに姿月の姿はなかったが、彼女のPCは起動したままだ。深雲が受信トレイを開くと、そこには──西都製薬の社長室から送られてきた、一通の『お断り』メール。頭を殴られたような衝撃が走る。姿月は、西都製薬との契約を取れ
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第282話

「やめろ!」深雲は冷たい声で遮った。その表情は凄絶だった。「研時、その言葉に責任が持てるんだろうな」研時は動じることなく電話をかけ、コネを使ってその日の監視カメラの映像を取り寄せさせた。ほどなくして送られてきた映像──そこには、たしかに映っていた。西都製薬の真ん前で、景凪と悠斗が一緒にいる姿が。「……」深雲は、画面を食い入るように見つめた。向かい合って立つ二人。親密な素振りこそないが、楽しげに笑い合っていて、どう見ても旧知の仲だ。景凪が、影山クラスの男と知り合いだったとは。深雲はまったく知らなかった。彼の記憶の中の景凪は、常に自分の周りを回っているだけの女。独自の交友関係など、あるはずもなかった。いったい、いつから……はっと、深雲は思い出す。以前、妹の伊雲が「景凪が外で男と会っているのをこの目で見た」と騒いでいたことを。景凪に往来で叩かれたという、あの日だ。景凪は「親切な通りすがりの人だった」と言い張り、深雲も調べたが、特に怪しい点は見つからなかった。それに、もとより景凪を毛嫌いしている伊雲だ。話が大袈裟なのだろうと、本気で取り合わなかったのだ。今にして思えば、伊雲の言葉は嘘ではなかったのかもしれない!深雲はこみ上げる怒りを抑えつけ、監視カメラの映像をスクリーンショットで撮ると、伊雲に送りつけた。そして、間髪入れずに電話をかける。「伊雲、送った写真の男……景凪と一緒にいるこの男に見覚えは?」悠斗は長身で、雰囲気も独特だ。伊雲はすぐにわかったらしい。「お兄ちゃん!この人だよ!私が言ってた景凪の浮気相手!みんな信じてくれなかったじゃない!」伊雲の悔しそうな声が電話口で響いた。やはり、先に裏切ったのは景凪のほうだったのか。だから逆ギレして、姿月のことばかりを執拗に責め立てたのだ!深雲の瞳孔がきゅっと収縮する。彼はぎゅっと目を閉じ、胸に渦巻く荒々しい感情を無理やり押し殺すと、一方的に電話を切った。深雲のその反応を見て、研時はすべてを察した。「影山が裏で手を貸しているなら、企画書をすり替えるなんて朝飯前だろうな」深雲のこめかみが、ドクンドクンと激しく脈打つ。血管が青く浮き上がっていた。小池郁夫だけでは飽き足らず、今度は影山悠斗か……あの女に、そこまで男を誑し込む才覚があったとは。深雲の
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第283話

西都製薬の一件があった後だ。深雲は、以前よりずっと慎重になっていた。彼はじっと姿月を見つめる。「姿月、今すぐ車田教授に連絡を取れるか?」「ええ、もちろん。ただ、教授が今お時間あるかどうか……」姿月はそう言いながら、スマートフォンを取り出した。郁夫から送られてきた教授の番号は、もちろん登録済みだ。紹介のメッセージも送ってあるが、返信は、ただ一言【了解】とだけだった。姿月は、ごく自然な手つきで電話をかける。「スピーカーにしろ」深雲が、冷たく命じた。研時は深雲を一瞥し、誰にも気づかれないほど、わずかに眉をひそめる。気のせいだろうか。最近の深雲は、どうも姿月を信用していないように見える……姿月は深雲に言われた通り、スマートフォンをテーブルに置き、スピーカーモードに切り替えた。三十秒ほど待つと、相手が出た。「車田教授でいらっしゃいますか。私、雲天グループの小林と申します。明日の件で、ご連絡いたしました」ボロが出る前に、姿月は先手を打った。しかし、電話の向こうから聞こえてきたのは、若々しい男性の声だった。「小林さんですね。あいにく車田教授は今、来客と会議中でして、電話に出ることができません。わたくし、教授の学生の者です」「申し訳ありません、突然失礼いたしました。それでは明日の午前十時、私と鷹野社長とで、時間通り研究拠点へお伺いします」「承知いたしました。お待ちしております」通話が切れると、姿月は深雲に向き直り、優しく言った。「深雲さん、明日の朝、一緒に教授に会いに行きましょう。私の企画書はもう目を通していただいているから、問題ないわ」深雲の心にあった疑念が、ようやく晴れた。「そうか。今回は骨が折れたな」「そんなことないわ。私も会社の一員ですもの。それに……」姿月は俯き、はにかむように微笑む。「あなたの力になれて、嬉しいの」姿月のその健気な姿に、深雲は先ほどの自分の疑心を、少しばかり恥じた。彼女は何も求めず、ただ純粋に、俺を助けようとしているだけだというのに……「姿月……」彼が何かを言いかけた時、姿月はすっと立ち上がった。「では社長、私はこれで仕事に戻りますので」「俺もまだ用事がある。一緒に出よう」研時も、彼女に続いて席を立つ。研時は姿月と共にオフィスを出た。エレベーターホール
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第284話

腐っても鯛、だ。陸野家はかつての勢いを失ったとはいえ、その影響力はまだ健在。特に研時の父・陸野源三が政界に送り込んだ後輩たちは、今では皆、要職に就いている。陸野家の顔を立てない者はいない。たかが穂坂景凪一人。姿月の足元に跪かせて、詫びさせてやる!「陸野様、しかしその穂坂という女は、鷹野社長の奥様では……?そのようなことをして、鷹野社長は……」「フン」研時は冷たく笑う。「心配するな。俺と深雲は何年の付き合いだと思ってる。あいつにとって、穂坂景凪なんざ、鷹野家で飼ってる犬ほどの価値もない」階上では──姿月は窓際に立ち、階下で電話をかけながら去っていく研時の背中を、静かに見下ろしていた。その口元には、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた…………一方、S級国家プロジェクト『グリーンウォール計画』の研究開発拠点――会議室から出てきたばかりの車田宗明教授は、重々しく険しい表情をしていた。研究は最も重要な核心部分で壁にぶつかり、未だブレイクスルーの糸口すら掴めていない……「車田教授」声をかけてきたのは、彼の学生で助手を務める瀬尾守 (せお まもる)だった。教授のスマートフォンを差し出しながら、手短に報告する。「例の小林姿月さんですが、明日の朝一番で、雲天グループの鷹野社長と共にこちらへいらっしゃるそうです」宗明は一瞬動きを止め、それからようやく小林姿月という名に思い至った。確か、小池郁夫が推薦してきた人物だ。「ふん……」宗明は興味のかけらもない声で応じる。「明日はお前が対応しろ。どうせ顔繋ぎだ、形だけでいい。プロジェクトの中でも、どうでもいい部分を適当に見繕って、契約を結んでおけ」雲天グループの名は、宗明も耳にしたことがあった。それなりの規模を持つ同族経営の企業。だが、こと再生可能エネルギー分野においては、これといった実績はないはずだ。今回、提携を受け入れたのも、ひとえに郁夫の顔を立てたに過ぎない。「はい、承知いたしました、教授」と、守は恭しく応えた。不意に、宗明が思い出したように呟いた。「そうだ。蘇我先生は帰国されて、青北大学で教鞭を執られているんだったか?」彼が口にした『蘇我先生』とは、学界にその名を轟かせる碩学、蘇我兼従のことである。二人は大学の同窓であり、学界の双璧と謳われた二大巨頭だった。守が恭しく答える
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第285話

M国の名門大学で博士号を取得した彼女は、医薬品分野のエキスパート。大学在学中にいくつもの権威ある学術論文を発表してきた、典型的な研究者肌の人間だった。午前中、景凪を直々に出迎えた凛は、ひととおりセンター内を案内すると、彼女の仕事場となるオフィスへといざなった。「私のオフィスは、この廊下の突き当りです。何か必要なことがあれば、私の方まで。穂坂さん」よそよそしくも丁寧な態度だった。「はい、ありがとうございます、貝塚さん」景凪も同じように丁寧に会釈を返す。すぐに彼女は仕事に取り掛かった。お金を稼ぎに来たのであって、友達を作りに来たわけではない。仕事上の連携さえとれれば、個人的にどれだけ冷淡にされようと気にならなかった。景凪は午前中いっぱいを使い、事前に作成していた研究開発プランをさらにブラッシュアップした。各工程に必要な時間や人員配置に至るまで、細かく詰めていく。彼女は資料を手に凛の元へ向かった。目を通してもらった後、計画を実行に移すためだ。ところが、凛のオフィスにたどり着く手前、給湯室を通りかかったとき、中で話されている同僚たちの噂話が耳に入ってしまった。「なあ、あの穂坂景凪って人、何者なんだよ。経歴見たけど、俺と同じ学部卒じゃないか。いくら青北大学出身だからって、うちのセンターじゃ別に珍しくもないだろ?」この研究開発センターにいるのは、有名大学の出身者ばかりで、そのほとんどが修士課程以上だ。学部卒で採用される者もいるにはいるが、任されるのは基礎的な雑務だけだった。愚痴をこぼしていたのは、矢崎拓海 (やざき たくみ)という、今年の初めに入社した唯一の学部卒の男性社員だった。他の同期が三ヶ月で試用期間を終える中、彼だけが半年近くかかった。拓海はそれでも仕方ないと思っていた。だが、突然鳴り物入りでやってきたプロジェクトリーダーが、女性であるばかりか、自分と同じ学部卒だと知ってしまったのだ。彼の心の中で、納得のいかない思いが一気に膨れ上がっていた。そんな陰口は、数年前、雲天グループの研究開発部に入った時に、さんざん聞かされてきた。景凪は、もはや気にも留めなかった。しかし、次に聞こえてきた別の男性社員の意味ありげな声に、ぴくりと眉を動かす。「なんでも、今度の新しいオーナーのお眼鏡にかなったらしいぜ。……なあ
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第286話

「……」拓海は顔を歪め、憎々しげに景凪を睨みつけた。その声には、もはや隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。「だったら、どうしろって言うんですか?いっそ、警察でも呼びます?」景凪は、そんな彼らを静かに見据え、一言一句、はっきりと告げた。「今日付けで、あなたたち二人を私のプロジェクトから外します」その言葉に、拓海の顔色が変わった。もう、ひきつった笑みすら浮かべていない。「なっ……何の権利があって……!」「私がこのプロジェクトの最高責任者だからよ!」景凪の声が、鋭く響き渡る。「女性の同僚をネタに下劣な噂を流すようなゴミは、私のチームには必要ないわ」遠巻きに見ていた同僚の中にいた数人の若い女性社員たちが、声には出さず、しかし力強く拍手をした。まるで、溜飲が下がったとでも言うように。景凪はくるりと背を向けると、拓海の横を通り過ぎる瞬間、冷たい視線を投げかけた。「不服なら、上に訴えればいいわ。……ああ、それと。さっきのあなたたちの会話、録音させてもらったから」そう言い捨てると、景凪はもう彼らに一瞥もくれず、凛のオフィスへと向かった。凛は、オフィスの入口に立っていた。カップを片手に、まるで芝居でも見るかのように、景凪がこちらへ歩いてくる様をゆったりと眺めている。「貝塚さん。こちらが、修正した研究開発プランです」凛は手を伸ばし、景凪からファイルを受け取った。「穂坂さん、お昼でもご一緒にいかがですか?」彼女から、思いがけず誘いの言葉がかかる。景凪は、丁寧にそれを断った。「申し訳ありません。今日は先約がありまして」凛は静かに頷いた。「そうですか。では、また今度」「はい」景凪は凛に小さく微笑みかけると、きびすを返した。彼女は西都製薬のビルを出ると、交差点でタクシーを拾い、運転手に行き先を告げる。「すみません、十三夜 (じゅうさんや)までお願いします」十三夜は、このA市でも指折りの格式高い料亭だ。車中で、景凪は午前中に桐谷然から届いたメッセージをもう一度確認した。――鷹野深雲氏は離婚を拒否。離婚協議書も破り捨てたとのことです。やはり、一筋縄ではいかない。深雲がそう易々と離婚に応じるはずがないのだ。二人の子どもの親権だけは、彼は絶対に手放さないだろう。然のメッセージはこう続いていた。【ですが、ご心配なく、
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第287話

景凪は、内心で鼻白んだ。かつて、鷹野家の後継者争いがもっとも激しかった頃、景凪はこの男のもっとも無様で、もっとも凶暴な一面を知っている。牙をむき出しにして彼女を脅し、いつか必ず息の根を止めてやると息巻いていた姿を。景凪も、本気で食事をしに来たわけではない。彼女は席に着くと、いきなり写真の束を取り出し、斯礼の前に差し出した。斯礼はそれを受け取ると、一枚一枚に目を通していく。彼の表情が、次第に険しくなっていった。「……お義姉さん、これはどういうおつもりで?」景凪が彼に渡したのは、深雲と姿月の密会写真と、二人のメッセージのやり取りだった。彼女は、姿月が使っている裏アカウントまで探し出していた。「昨夜、バーでの鷹野深雲の暴行映像を流したのは、あなたでしょう。あの店のオーナーが顔を出してまで彼を告発したのも、あなたの差し金。……でも、それだけじゃ足りない」景凪は斯礼をまっすぐに見据え、真摯な声で告げる。「鷹野深雲にとどめを刺すには、これが必要です」斯礼の顔から、笑みが消えた。「……穂坂景凪。今度は、何をたくらんでいる?」彼は、警戒心をむき出しにして彼女を睨みつけた。一度ならず、二度までも。彼はこの女にしてやられているのだ。斯礼の記憶の中の穂坂景凪という女は、普段は水のように穏やかでありながら、こと深雲に関わるとなると、まるで我が子を守る雌鶏のように、死ぬまで戦い続ける執念深さを持っていた。自分が深雲を追い落とそうとしていることを知っていて、妨害してこないだけでも奇跡だというのに。わざわざ証拠まで持参してくるなど……斯礼は考えれば考えるほど、目の前の状況が不気味に思えてならなかった。景凪は手元にあったグラスに口をつけ、何でもないことのように言い放った。「以前の私は、どうかしていました。でも今はもう、目が覚めたんです。鷹野深雲と離婚して、清音と辰希の親権を手に入れる……ただ、それだけ」鷹野深雲との離婚は、鷹野家すべてを敵に回すことを意味する。あまりにも、巨大な相手だ。けれど、その内情は一枚岩ではない。そして鷹野斯礼こそが、その亀裂をこじ開ける楔となる。斯礼がなおも半信半疑といった顔をしているのを見て、景凪は慌てることなく、一枚の書類を取り出して彼に差し出した。「これは、雲天グループにおける私の持ち株。
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第288話

しかし、正直なところ――棘のある言葉を操る今の彼女は、かつて深雲の影のように付き従い、ひたすら尽くすだけだった穂坂景凪より、よっぽど魅力的に見えた。食事を終え、景凪と斯礼は前後して離れを出た。斯礼は腕を後ろに組み、景凪の少し後ろを歩きながら声をかける。「穂坂さん、どちらまで?お送りしますよ」景凪はすっと数歩横にずれて、斯礼との間にあからさまな距離を取った。「お構いなく。あなたはあなたの道をお進みになればいいわ」自分の二人の子供を別にすれば、鷹野家の人間とは、誰であれ余計な関わりを持ちたくない。斯礼との関係も、あくまで利害が一致しただけの同盟に過ぎなかった。斯礼もそれ以上は踏み込まず、長身痩躯を持て余すように大股で歩き出した。あっという間に景凪を数歩リードした彼が、ある離れの入口にさしかかった、その時。ちょうど階上から降りてくる二つの人影と鉢合わせになった。真正面からの遭遇に、避ける術はない。斯礼は、面白そうに眉を上げて笑った。「おや、兄さん。秘書さんとお忍びで逢い引きかい?」「……」深雲は、自分のスキャンダルを裏で操っていたのが斯礼だと突き止めていた。当然、良い顔などするはずがない。返事もせず、そのまま通り過ぎようとした彼の視界の端に、後方に見覚えのある姿が映った。ぴたり、と深雲の体が硬直する。そして次の瞬間、彼は大股で、真っ直ぐに景凪へと詰め寄った。「……なぜお前がここにいる?しかも、斯礼と一緒とはな!」まるで、不貞の現場でも押さえたかのような詰問口調だ。景凪は、深雲の後ろからついてくる姿月を見やり、目の前の光景のあまりの皮肉さに、吐き気を覚えた。どの口が、それを言うのか。少し離れた場所で、斯礼が騒ぎを面白がるように、景凪に向かって投げキッスを送ってくる。「お義姉さん、あとはお二人でごゆっくり。俺はこれで失礼しますよ」「……っ」鷹野家の人間は、どいつもこいつも性根が腐りきっている!「穂坂景凪!」深雲が、氷のように冷たい声で彼女の名を呼んだ。説明を待っているのだ。景凪は、もはや苛立ちを隠そうともしなかった。「離婚協議書は、桐谷先生に渡してもらったはずよ。あなたが同意しようとしまいと、この結婚は終わりにするわ!私が誰と食事をしようと、あなたには関係ない。……邪魔よ。そこをど
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第289話

深雲は、景凪のあまりにも迷いのない一撃に、完全に虚を突かれていた。右の頬を焼くような、じりじりとした痛み。それが、今の平手打ちが事故などではなく、彼女が明確な意図をもって放ったものであることを、残酷なまでに彼に突きつけている。驚愕と、怒り。そして、人前で女に顔を打たれたという屈辱。それらが、彼の心臓を埋め尽くした。「景凪!きさま、気でも狂ったか!」深雲が、怒りに震える声で吠えた。人前で感情をあらわにすることなど滅多にない彼が、首筋に青筋を浮かび上がらせている。今にも、拳が飛んできそうだ。だが、景凪は微塵も怯まなかった。彼女はただ、冷ややかにそこに立ち、冷え切った目で彼を見ている。その瞳には、かつてのような優しさや従順さのかけらもない。あるのは、剥き出しの嫌悪と警戒心だけだ。深雲は、ふと錯覚を覚えた。もし自分が手を出せば、この女は命懸けで喰らいついてくるだろう、と。その認識は、深雲の心の底から、ぞっとするような冷たいものを這い上がらせた。そして、それとは別の何かが胸をよぎる。それが何なのかを確かめる間もなく、叩かれて腫れ上がった頬を押さえた姿月が、泣きながら彼に飛びついてきた。「深雲さん……!助けて……!」「……っ」深雲は、反射的に姿月の体をかばうように自分の背後へと引き寄せた。そして、氷のような声で景凪に警告する。「あまり、調子に乗るなよ!」調子に、乗る?景凪は、ふっと笑みを漏らした。まだ、始まったばかりだというのに?かつて、姿月とその母親が穂坂家に対して行ってきた数々の非道な行いに比べれば、今の数発の平手打ちなど、あまりにも――あまりにも、軽すぎるというのに!「景凪さん……私、警察には言いませんから」 姿月は、か細くしゃくりあげながら、か弱く、そして哀れに見えるように続けた。「このくらいであなたの気が済むなら……それで、深雲さんのことを、もう恨まないのであれば……」「私の気を済ませたい?それなら、これくらいで足りるわけがないでしょう?」景凪は、力を込めすぎたせいでじんじんと痛む手首を揉みながら、ゆっくりと姿月へと歩み寄った。彼女の澄んだ瞳は、まるで冬の霜のように冷たく凍てついている。よく見れば、そこには人をぞっとさせるほどの凄みが宿っていた。姿月のこの顔に、あの女――小林雪華の面影が重なる!骨
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第290話

困惑しながらその視線の先を辿ると、今にも自分を食い殺さんばかりの形相で睨みつける深雲と、目が合う。悠斗は、きょとんとした。「……え?」右を見ても、左を見ても、他に誰もいない。まさか、僕に……?悠斗は、ますます訳がわからなくなった。鷹野深雲に、正面から何かした覚えなど、まったくないのに。自分はただの背景、通行人Aのはずだ。その頃には、姿月もふらふらとした足取りで、こちらへ歩み寄ってきていた。渡は、すでに深雲の手を離していた。彼は、姿月の両頬にくっきりと浮かび上がった、真っ赤な五本の指の跡に淡々と視線を走らせる。それから、同じく難を逃れることのできなかった深雲の片頬をちらりと見やった。ふっ、と渡は目を伏せた。長い睫毛が、その下に一瞬よぎったかすかな笑みを隠す。ああ、いかにも。実に、景凪がやりそうなことだ。「黒瀬さん、妻と二人で話がある。そこをどいていただこうか」深雲は冷え冷えとした顔で、有無を言わせぬ口調で言い放った。相手が黒瀬家の人間である以上、無用な衝突は避けたい。それが深雲の本音だった。だが、渡はそんな深雲をまるで意にも介さず、懐から取り出したハンカチで、先ほど深雲の腕に触れた自身の手をゆっくりと拭い始めた。まるで汚いものにでも触れたかのようなその仕草は、どんな罵詈雑言よりも雄弁に侮辱の色を伝えていた。深雲の顔がみるみる険しくなっていく。「……痛むか」不意に、渡がぽつりと呟いた。その声に、姿月はびくりと肩を揺らす。先ほど、渡の視線が自分の頬に注がれていたのを彼女は感じていた。もしかして、私に……?思いがけない気遣いに、胸が高鳴る。彼女はそっと下唇を噛み、甘えを含んだ声で囁いた。「ええ、少しだけ……でも、大丈夫ですわ、黒瀬さ……」しかし、渡は姿月の言葉を最後まで聞こうともしなかった。彼女など初めから存在しないかのように、その視線はまっすぐに景凪へと向けられる。「手は、痛むか」「……」姿月は爪が食い込むほど強く手のひらを握りしめた。彼女の顔には、先ほどの自惚れたような恥じらいが生々しくこびりついたまま、ただ滑稽に凍りついている。まさか自分の手を気遣われるとは思わず、景凪は一瞬、目を丸くした。痛くはない、と口にするより先に、すっと伸びてきた渡の腕が、彼女の手を掴んでいた。彼の大きな手。ひやり
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