All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

「……」姿月の口元に浮かんでいた微かな笑みが、その瞬間ぴたりと止まった。詩由はさらに目を大きく見開き、一瞬自分の耳を疑ったが、理解した途端、嬉しさのあまり声を上げそうになった。景凪は淡々と語り続ける。「七年前、私がこの会社に入った時に結んだのは十年契約だ。私から辞めると言わない限り、十年間は開発部の責任者は私だ。数日後には通常勤務に戻るつもりよ」そして声を張り上げ、部内全員にはっきり聞こえるように言った。「もちろん、小林秘書について行きたい人は止めない。社長に提案して、開発部第二課を新設してもらうつもり。行くも残るも、各自の判断に任せる」もし今までの仕事がすべて深雲のためだったのなら、今日からは自分自身のためだけに戦う!開発部長の座は、かつて命を削って手に入れたものだ。あの時は、本当に命を落としかけた。自分のキャリアだけは、誰にも触れさせない!景凪はもう姿月たちと無駄なやり取りをする気もなく、オフィスへと足を進めた。このオフィスに引っ越した時、景凪はこっそりとプライベート金庫を設置していた。中には重要な開発資料が幾つも保管されている。今日はそれを取りに来たのだ。「待ちなさいよ!」真菜が苛立ちを隠せず、景凪の腕を掴んで甲高い声を上げた。「あなたは社長夫人って肩書きに乗っかって、姿月に個人的な恨みを晴らしてるんでしょ!恥を知りなさいよ!」さすがにその言葉は度が過ぎていた。海舟は眉をひそめ、真菜を引き離そうと前へ出かけたその時、景凪が氷のように冷たい表情で腕を振りほどき、その勢いのまま手の甲で真菜の頬を強く打った。パシッ!乾いた音が響き、場が一気に静まり返った。海舟は呆然と景凪を見つめ、信じられないといった様子だ。以前の奥様は、優しくて穏やかで、誰かを殴るどころか大きな声を出したことさえなかったはずだ。どうして植物状態から目覚めた彼女が、こんなにも変わってしまったのか?海舟は我に返り、周囲で野次馬をしていた社員たちを一喝した。「みんな、仕事はどうした?ここで立ち止まって何してる?」やはり特別アシスタントだけあって、彼の言葉には重みがある。社員たちはすぐに散っていった。詩由は三歩ごとに振り返りながら景凪を見つめ、口元の笑みを必死でこらえている。目にはキラキラと憧れの輝きが浮かんでいた。格好良すぎる!
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第22話

次の瞬間、深雲の苛立ちを含んだ声が響き渡った。「景凪、一体何してるんだ?」サングラス越しに景凪は、長い足でこちらに近づいてくる深雲の姿を捉えた。整った眉は険しく寄せられ、その瞳には姿月への露骨な心配と、自分への不満が隠しきれずに浮かんでいる。彼女が「見えない」からだろうか、深雲は表情に一切の遠慮を見せない。「社長、奥様には関係ありません!」姿月は慌てて深雲の腕をそっと引き留めた。「私が不注意だったせいで、扉に指を挟んだだけです」海舟も最初から最後まで一部始終を見ていたようで、思わず景凪の肩を持つように口を挟む。「社長、誤解しないでください。本当にただの事故なんです」深雲は何よりも体裁を重んじる男だ。唇をきゅっと結ぶと、余計なことは言わず、そっと姿月へと手を差し伸べた。「見せてくれ」本当は手を背中に隠していた姿月だったが、二秒ほど逡巡した後、そっと深雲の掌に手を乗せた。「社長、大したことありません」深雲は眉をひそめた。「もう少し力が強かったら、骨までいってたかもしれないぞ」名指しこそしなかったが、景凪には分かった。深雲が自分を責めているのだと。景凪はもう何も感じないと思っていた。だが、こんなにも長い歳月、深雲を想い続けてきたせいか、もう彼の一挙手一投足が骨の髄まで染みついていて、たった一言で胸を刺される。「大丈夫です。薬を塗れば治ります。それに、奥様が怒るのも無理はありません。今日、開発部にいらしたばかりで、先週私が部長に任命されたと聞いて、気分が良くないのも当然です」姿月がやんわりと説明すると、深雲の顔色はさらに曇った。「なるほど、そのことか。本当は今夜帰宅してから話そうと思っていた。これは取締役会の決定で、小林には関係ない。景凪、お前は感情的すぎる」言外に、彼は景凪がわざと姿月をいじめたと決めつけている。景凪はふと、ひどく疲れてしまった。つまらない、くだらない。十年以上も青春を費やして、こんな安っぽい男を愛してきたのかと。それでも景凪はぐっとこらえて芝居を続けた。「分かった。じゃあ今夜、家で話そう」だが、深雲はそれで終わらせる気はなかった。「景凪、お前は小林に謝るべきだ」彼は険しい顔で、初恋の人を守るかのように、景凪に謝罪を促した。サングラス越しに、景凪は深雲をまっすぐ見つ
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第23話

「社長、どうか奥様を責めないでください。私、本当に大丈夫なんです。仮に怪我をしたとしても、それは奥様のご本意ではなかったですから」姿月はそっと場を和ませるように言った。「この後、会議がありますので、私、会議室の準備に行きますね」「俺も一緒に行こう」深雲は重たい目で景凪を一瞥し、「景凪、今日のこと、本当にがっかりした。よく考えておけ。家に帰ったら、話そう」とだけ言い残し、くるりと背を向けた。そして海舟に命じる。「後で奥様を家まで送ってくれ」「はい」景凪はその場に立ち尽くし、深雲と姿月が肩を並べて去っていく後ろ姿を見送った。二人の間には妙な調和があり、歩くたびに姿月のスカートの裾が、深雲のスーツのズボンにそっと触れる。歩きながら、姿月がふと足を捻った瞬間、深雲は反射的に彼女を支えた。その手際の良さは、まるでそれが当然であるかのようだった。景凪には見えないと分かっていながらも、海舟はそっと彼女の視界を遮るように立った。「奥様、お送りしましょうか?」「海舟、コーヒーを一杯淹れていい?私、もう少しだけ、この前に使ってたオフィスにいたい」「かしこまりました。では、外でお待ちしています」海舟は気を遣って、静かにドアを閉めてくれた。景凪のオフィスの大きな窓は片側からしか見えない特殊なガラスで、外からは中の様子が分からない。景凪はサングラスを外し、壁の隅に歩み寄った。そして、壁に掛かった絵を外すと、その裏には彼女専用の金庫があった。金庫のダイヤルの上には埃が積もっていた。どうやら、この五年間、誰も開けていなかったらしい。暗証番号は、すでに亡くなった母の誕生日。景凪は、この番号を深雲にだけ教えたことがある。でも、今思えば、彼は一度も覚えていなかったのだろう。中の資料は無事だった。景凪は素早く何枚かの写真を撮り、また金庫を閉め、絵を元通りに掛け直した。しばらくして、海舟がコーヒーを持って戻ってきた。アメリカンだった。景凪は一口飲み、舌に広がる苦味に眉をひそめた。「奥様、新しく淹れ直しましょうか?」海舟は少し困ったように頭をかいた。「いつも通り砂糖なしのアメリカンをお持ちしましたが、もしよろしければ……」「いいえ、このままで」景凪はもう二口飲み、だんだんとその苦さに慣れていった。本当はアメリカンの苦味は苦手だった。
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第24話

彼女は、かつて深雲の友人たちにまで気に入られようと、必死に愛想を振りまいていた。どれだけ努力しても、結局はすべて無駄に終わったのだ。今でも思い出す。ある年の研時の誕生日、景凪は彼がどうも体調を崩しやすいと気付き、彼のために精魂こめて気血を補う薬膳の処方を考えた。一週間もかけて、飲みやすい丸薬に仕上げ、小瓶に一つ一つ詰めて準備した。誕生日会当日、景凪は自ら手渡した。その時の研時の表情ときたら、なんとも微妙で、受け取りながらも苦笑い混じりに「気持ちはありがたいよ」とだけ言った。けれど帰り際、景凪は玄関先のゴミ箱の中にその丸薬たちが無造作に捨てられているのを見てしまった。最初の反応は、胸の奥がぎゅっと苦しくなり、こんな贈り物は迷惑だったのかと自分を責めたものだった。だが今の景凪からすれば、あの頃の自分はなんと馬鹿だったのだろうと呆れるばかりだ!もし過去に戻れるのなら、研時の頭にそのゴミ箱を丸ごと被せてやりたいくらいだ!サングラスの位置を直しながら、景凪はすっかり冷え冷えとした顔をしていた。今となっては、深雲に未練など一片もないし、彼の取り巻き連中なんぞには、「近寄るな」というひと言だけで十分だ。そんな中、海舟は一応挨拶をした。「陸野社長」研時は小さく頷いて返事とし、視線を盲杖をついて歩いてくる景凪へと向けた。その目には、あからさまな侮蔑の色が浮かんでいる。この女、どこまで図々しいんだ。こんな姿になってまで、まだ深雲にまとわりつく気か。どうせまた、あの愛想笑いを浮かべて、挨拶しに来て、無理やり話題を作って絡んでくるつもりだろう。研時はそう思い、今回は無視してやろうと決めていた。だが意外にも、景凪は彼をまるで空気のように扱い、挨拶どころか、顔すら向けなかった。研時は思わず動揺した。ひょっとして、海舟の声が小さくて、自分の存在に気付かなかったのかと考えて、自ら声をかけた。「いまは何のお仕事中かな?」わざと景凪にも聞こえるように言ったのだ。海舟は不思議そうにしながらも、「鷹野社長から、奥様を社内案内するよう言われまして」と丁寧に答えた。研時は頷くと、当然のように景凪が話しかけてくるのを待った。彼女は目が見えなくなったが、耳は聞こえるはずだ。自分の声を分からないはずがない。だが景凪は、やはり無視した
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第25話

深雲はこの時、オフィスにいた。さっきまで姿月の手の甲の腫れた怪我の手当てをしていて、ちょうど終わったところだった。横に置いてあったスマホがブルッと震える。深雲は何気なく手に取り、画面を覗き込む。すると、研時からのメッセージが表示されている。それを見た瞬間、思わず無言になる。研時が景凪のことを気に入っていないのは、今に始まったことじゃない。深雲はもう慣れっこになっていて、スマホを無造作に置き直した。そんな間に、姿月はちゃっかり彼が出していた救急箱を片付けてしまっていた。「俺がやるよ」深雲が手を伸ばすと、姿月はひらりとかわす。彼女は悪戯っぽく微笑んで、「こんなちょっとした怪我で社長にここまでしてもらったら、私、明日にはクビになってるかも」と冗談を言った。その一言に、深雲もつられて、さっきまで険しかった眉間がふっと和らぐ。不意に、姿月が顔を近づけてきて、そっと指で彼の眉間をなぞった。深雲は一瞬動きを止めたが、避けなかった。「先輩」姿月は背伸びして、きれいな瞳でじっと彼を見つめる。まるで学生時代、何度もそうしたように、小さな声で囁く。「私のことで眉をひそめないで。私は、先輩が笑っている顔が好きなんだ」深雲の瞳が少しだけ深くなる。返事をしようとしたその時、姿月は空気を読んで、さっと離れた。救急箱を元に戻し、またプロの秘書の顔に戻る。「社長、会議室の準備と、各部署の責任者への連絡をしてきます。二十分後にお越しください」「小林」深雲が呼び止める。「お前の辞令は今日の午後、正式に渡される。開発部長のポスト、約束した以上、変えるつもりはないから」姿月の目が明るくなる。だが、すぐにその感情を抑えた。「ですが、奥様のほうは……」深雲はもともと今朝の景凪の態度に不満を感じていた。彼は姿月の心配を遮る。「そのことは気にしなくていい。あの人は今、仕事ができる状態じゃない」「分かりました。それでは、行ってきます」姿月が出ていくと、深雲は椅子にもたれ、無意識にネクタイを緩めた。頭の中には、さっき景凪が開発部で姿月への謝罪を拒んだ時の態度が、何度もよぎる。理由もなく、妙に苛立つ。もし、庭のチューリップを全部抜いて黄色いバラに植え替えたのが、彼の気を引くための景凪の手だとしたら、今日の彼女の振る舞いは一体何なのだ?確かに、景凪
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第26話

「目が見えないだと?」深雲の父の声には、隠そうともしない嫌悪が滲んでいた。少し間を置いてから、淡々と続ける。「まあいい。どうせ目を覚ましたのなら、今夜はあいつも連れて帰ってこい。一緒に夕飯でも食べるぞ。お母さんがここ数日、お前の子どもたちに会いたいとうるさくてな」深雲は手元のコーヒーカップを指でなぞりながら、少し考え込む。今夜は、できれば景凪を本邸に連れて行きたくなかった。「お父さん、今夜は……」だが、断ろうとした言葉は父にさえぎられた。「景凪にはきちんとした服を着せて来いよ」父は念を押す。「今夜は大切な客が来る。昔、青北大学にいた人でな、景凪と同じ学年だったらしい。確か景凪は学内でも有名だったろう?相手が知っていたら話も弾むだろう」深雲は少し興味を持った。「その客って、そんなに凄い人なのか?お父さんがそこまで気を遣うなんて、家に招くのも珍しいじゃないか」深雲家の本邸は、由緒ある庭園付きの屋敷で、町でも有名な文化財だ。父が手塩にかけて守ってきた場所に、他人を招くことはめったにない。父は少し含みを持たせて言った。「来れば分かるさ。その方を招くのに、どれだけ骨を折ったか……今夜は必ず早く帰れ。絶対に遅れるなよ。今夜の食事会をうまくやれば、お前の今後にも大きな助けになる」「分かった、お父さん」父がここまで言うのなら、深雲に断る理由はなかった。もし今夜、景凪が役に立つなら、それに越したことはない。「そうだ、さっき何か言いかけてなかったか?」深雲は少し迷いながらも、今日景凪が会社に来て、開発部で起きたことを簡単に話した。「小林の人事はもう正式に決まった。今日の午後には発表される。その大事な時に、あいつは騒ぎ立てて……」父は話を聞き終えると、鼻で笑った。「騒ぎ立てるのも当然だ」「お父さん、それって……景凪がわざと?」父は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。「お前もよく知ってるだろ、あの女の実家のことくらい。俺があいつを嫁に迎えたのは、能力があってお前の役に立つと思ったからだ。それに、おばあさんがやけに気に入ってたしな。そうじゃなきゃ、あんな家の娘なんか絶対に認めなかった」厳しい言葉だったが、深雲は黙って聞くだけで反論しなかった。父はさらに続ける。「今やお前の立場も安泰だし、景凪はうちに二人も子どもを産んでくれ
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第27話

景凪は海舟の車で、自宅の玄関先まで送り届けられていた。「ありがとう、海舟」「いえ、とんでもないです」海舟は誠実な口調で応じると、ふっと微笑んだ。「奥様の目が一日も早く回復されますように」景凪は穏やかに微笑んだ。「ありがとう」海舟は踵を返そうとしたが、ふと会社での出来事を思い出し、言葉を付け加えた。「奥様、今の開発部の連中は、ここ数年で入ってきた人ばかりです。みんな、奥様のことをまだよく知りません。でも、これから奥様の実力を知れば、きっと安心して奥様の元で働くようになりますよ」この言葉には、景凪にかつて助けられた恩義だけでなく、もっと強い確信があった。海舟は景凪の実力を誰よりも知っていた。世間では、深雲が社長になってから雲天グループの価値が跳ね上がったと思われているが、海舟には分かっている。すべては景凪が深雲のために築いた土台だ。七年前、彼女が開発した画期的な新薬が、雲天グループを一気に医薬業界の雄に押し上げた。さらに、西都製薬との提携を成功させ、一気に業界トップとなったのだ。だが、景凪の偉業はそれだけではない。海舟は七年前から景凪の名を知っていた。青北大学に百年に一度の天才が現れた、と。当時は噂だと思っていたが、彼女と実際に出会って初めて、それが全くの謙遜だったのだと知った。景凪も、海舟が社交辞令ではなく、本気で言っていると感じ取っていた。「ありがとう、海舟」心からの礼を述べる。海舟は軽く頭を下げ、景凪が見えないことを思い出すと、少し気まずそうに後頭部を掻いた。「奥様、では、僕は会社に戻ります」「ええ、気をつけて」景凪が振り返ると、背後の大きな門がいつの間にか開いていた。そこから、家政婦の田中が、こっそりスマホを構え、海舟の背中を撮影している。どうやら、先ほどから門の陰で盗み聞きしていたらしい。景凪は見て見ぬふりをし、盲杖を振り回しながら道を探すふりをして、田中の足元を一発叩いた。「いたたっ!」田中は情けない悲鳴を上げた。景凪はあえて驚いたふりをした。「田中?いつの間にそこに?大丈夫?」しっかりとした一撃に、田中は歯を食いしばったが、まさか自分が盗み聞きしていたとは言えない。「大丈夫です。奥様、全然痛くありません」無理やり笑顔を作る。「ちょうどお掃除してて、窓から奥様が見えたので、開
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第28話

姿月が開発したという三種類の薬、あれは、元々景凪が長年かけて研究してきたもの。ただ名前を変えただけで、まるで自分の手柄のように発表しているなんて!その三種の薬は、心臓や脳の血管の病気に特化したもので、五年前から準備してきた。出産が終わったら本格的に開発を始めるつもりだったのに、難産で寝たきりになってしまった……でも、姿月がどうして自分の研究データを持っているの?世間に公開していない研究のデータは、景凪の仕事用パソコンにしか入っていない。しかも厳重にパスワードをかけている。パソコンのパスワードを知っているのは、景凪自身と……深雲だけだ。スマホが手から滑り落ち、ソファの上に転がる。景凪は目を閉じ、胸のあたりが苦く締め付けられる。まるで口いっぱいに苦い薬草を詰め込まれたような、そんな感覚。深雲は、彼女がどれほど仕事に情熱を注いできたか、誰よりも知っているはず。どのプロジェクトも、彼女の命そのものだった。それなのに、彼の初恋の人を正々堂々と持ち上げるためだけに、景凪から血も肉も容赦なく削いで、姿月に踏み台を与えたのか……一時間前のことを思い出す。研究室で、深雲は姿月をかばい、自分に失望した目を向けて、謝罪までさせようとした。吐き気がするほど、嫌悪感でいっぱいだった。「深雲……」景凪は拳を握りしめる。「本当に、最低な男!」そのとき、田中が果物を持ってリビングに入ってきた。景凪は慌ててスマホを隠し、白杖をついて階段に向かう。「奥様、果物は召し上がりますか?」景凪は皿をちらりと見る。カットされたドラゴンフルーツは色が抜けて透けるようだし、ほかの果物も熟れすぎて今にも腐りそうだった。「急に食欲がなくなったの。あなたが食べていいわよ」と言い、階段を上がる。田中は景凪の白杖におびえて、慌てて道をあける。台所を通りかかったとき、大きな皿に盛られた新鮮な果物に気付く。どう見ても彼女自分のために用意したのだ。景凪の心は決まった――田中、この家にはもう置いておけない!果物のことだけじゃない。今日のように、目が見えないことをいいことに古くなった食べ物を与えてきた彼女は、深雲の目が届かないところで、辰希や清音にも同じことをするに違いない。部屋に戻った景凪は、また自分の脚に鍼を打った。少し動いてみると、もうほとんど元通り
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第29話

四十分後、景凪は階下へと降りてきた。艶やかな黒髪は翡翠の飾り付きの木簪で、頭の上にすっきりとまとめられている。化粧っ気はなく、肌は雪のように白い。ただ、ほんのりと口紅を引いて、血色を足しているだけだ。水色の着物が彼女の細身を引き立て、その姿はまるで人ならぬ仙女のよう。飾らない美しさが、逆に眩いほどの華やかさを放っていた。迎えに来ていた運転手は思わず見惚れてしまい、すぐに我に返ると、後部座席のドアを開けて景凪をうやうやしく迎え入れた。鷹野家の庭園は別荘から少し距離があり、車が到着した時には、既に夕暮れ時。茜色の空が広がっていた。車を降りた景凪の前に、ちょうど深雲の乗った車が向かい側からやってきた。車中の深雲は、道端に立つ景凪を見つける。夕風が彼女の着物を揺らし、すらりとした姿はまさに咲き誇る蓮の花のよう。深雲はクラクションを一度だけ短く鳴らした。その音に景凪は反射的に顔を向ける。背後に広がる夕焼け雲さえも、彼女の美しさを引き立てる脇役にしか見えなかった。景凪はまるで光を纏っているようだった。深雲は目を細め、懐かしい記憶が蘇る。高校時代、景凪が校門の前で自分を待っていたことを思い出す。その日、彼女は夏服の制服姿で、白いシャツにスカート、ポニーテールを揺らしていた。風にスカートが揺れ、少女の面差しには年齢にそぐわない透明感があった。彼に気づいた瞬間、景凪の瞳がぱっと輝き、夕日に照らされながら元気よく彼の名を呼び、力一杯に手を振る。生き生きとしたその姿に、通り過ぎる人々の視線が皆、彼女に引き寄せられていたが、彼女の目には深雲しか映っていなかった。深雲はその瞬間、景凪という存在が自分の虚栄心を大いに満たしてくれることを認めざるを得なかった。もしこのまま、十年一日のように素直でいてくれるなら、景凪を妻の座に据えるのも悪くない、とさえ思った。深雲は車のドアを押し開け、外に出る。後部座席からは、辰希が先にシートベルトを外し、清音の手を取って車から降ろしていた。景凪は目が不自由なふりを続けながら、二人の子供がこちらに駆け寄ってくるのを感じていた。思わず抱きしめたくなる衝動を必死に抑える。「辰希、清音、来てくれたの?」と微笑みながら手を差し出す。だが、清音はわざとむすっとした顔で、景凪の前を通り過ぎる時に睨みつけ、その
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第30話

「悪い女……姿月ママをいじめるなんて、許せない!」清音の言葉に、伊雲は細い眉をひそめて問いかけた。「どうしたの、清音?なんであの人を悪い女って呼ぶの?」別に景凪のことを気にしているわけじゃない。ただ、いつも明るくて礼儀正しい清音が、今日に限って景凪を嫌う理由が気になっただけだ。清音は口をつぐみ、伊雲の腕の中で体をもじもじさせると、むくれた声で言った。「おばちゃん、早く行こうよ!」「はいはい、分かったよ」伊雲は優しく笑い、清音を抱きかかえたまま屋敷の奥へと進んだ。ふと振り返ると、辰希はポケットに手を突っ込み、すでにクールな顔で先を歩いていた。深雲は景凪の手を自分の腕にそっと絡め、一緒に屋敷の門をくぐる。誰も気付かなかったが、少し離れた並木道の影に、黒塗りの高級車が静かに停まっていた。後部座席の窓が少し下がり、渡は煙草を指に挟み、窓辺に手を置く。白く長い指先が動き、吸い終わった煙草の灰を落とした。風に舞った灰は、夜風に消えていった。渡は影の中に沈み、漆黒の瞳で景凪の細い背中をじっと見つめていた。彼女は深雲の隣に寄り添い、まるで深雲に絡みついて生きている蔓草のように儚く見える。長い睫毛が伏せられ、その奥の瞳に静かな波紋が広がる。景凪、お前は本当に……少しも成長していないな。運転席の悠斗は、車内の空気が異常に冷えている気がして、息を潜めていた。しばらくして、恐る恐る口を開いた。「社長……いつ中に入りますか?」渡は隣の座席に投げ出された茶封筒に目をやった。封筒から写真が一枚はみ出している。抱き合う男女の写真。男の顔は写っていないが、背中だけで深雲だと分かる。そして、甘い笑顔を浮かべている女は、彼の秘書の姿月だ!渡が今日、深雲の父親――鷹野明岳(たかのあきたけ)に招待されてここへ来たのは、この贈り物を景凪に直接渡すためだった。だが、今の景凪は、いまだに深雲にこれほど執着している。もし彼の裏切りを知ったら、きっと酷く泣くだろう。渡の脳裏に、何年も前、景凪が彼の目の前で泣いた光景が浮かぶ。彼女は静かに小さく丸まって、涙が大粒の真珠のようにぼろぼろと零れ落ちていた。あんなに泣いても、声一つ上げなかった……渡は小さく舌打ちし、イライラしながら煙草をもみ消した。「会社に戻るぞ」冷たい声で言い放つと、悠斗は何も
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