All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

景凪は、これ以上見ていたら我慢できず、あのクズ男女にビンタを食らわせに突入してしまいそうで、サングラスを直し、そっとその場を離れた。個室の隅では、研時が顔を赤くした姿月をチラリと見て、なんとも言えない気持ちで手元のグラスを一気に飲み干す。空になったグラスを置いた時、研時はふとした視線の端で、ドアの外を一瞬横切る人影を捉えた。どこか見覚えのある後ろ姿に、彼は小さく息を呑む。「清音、もうやめなさい」深雲は自分の手を姿月の手の上からそっと引き離し、軽く肩をすくめて娘を抱き下ろした。「中でお兄ちゃんと遊んでおいで」清音は少し不満げだ。姿月はしゃがんで優しく宥める。「清音、姿月マ…」深雲を一瞥し、すぐに言い直した。「姿月おばさんが一緒に行ってあげようか?」清音は、いつも姿月の言うことを素直に聞く。コクンと頷いて、従順に手を取った。研時は、姿月が清音を連れて奥の部屋へと入っていくのを目で追いながら、静かに席を立ち、深雲の隣へと腰掛けた。「深雲、景凪の様子はどうだ?まだ目を覚ましてないのか?」研時は遠慮なく切り出した。深雲のスマホを弄っていた指がピタリと止まる。少しの間を置いて、ぽつりと答えた。「昨日、目を覚ましたよ」研時は意外そうに目を見開く。またドアの外を見やる。じゃあさっき見た、あの景凪によく似た女性は、もしかして……「それで、彼女は……」研時がさらに尋ねようとしたが、深雲が冷静に口を挟んだ。「彼女は目が見えなくなった。いつ治るかわからない。あいつは昔から強がりだから、完全に治るまで、目覚めたことは公表したくないんだ」目が見えない?そんな状態の女性が、自分たちの個室のドア前で覗き見なんてできるはずがない。やっぱり、さっき見たのは人違いだったか。研時は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。深雲は、スマホ画面に目を落とす。そこには二時間前、田中からの連絡が表示されていた。【ご主人様、奥様が車で連れて行かれました!】車のナンバーの写真付き。一目で、それが千代の車だと分かった。まるで驚きはしない。景凪の世界は、驚くほど狭い。自分以外に親しい友人といえば、唯一、千代だけだ。あの千代ときたら、いつも大げさで短気、家も没落してしまったから、深雲はずっと千代のことを見下していた。だが景凪
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第12話

渡のような男は、一度出会ってしまえば、それだけで人生の中に濃く刻まれる。たった一度会っただけでも、決して忘れられる相手じゃない。ましてや、かつて景凪にとって渡は、真正面からぶつかり合った天敵だった。あの蘇我(そが)教授ですらかつて冗談めかして、「まるで両雄並び立たずってやつだな。似た者同士すぎて、同じ舞台には立てないよ」と茶化したことがあるほどだった。今、その渡のすらりとした影が、景凪の目の前に近づいてくる。仕立ての良い濃紺のスーツが彼の鋭い顔立ちをさらに際立たせ、まるでギリシャ彫刻のような神々しささえ漂わせていた。七年前よりも、渡は落ち着きと危うさを増している。深く静かな渦のように、何も言わずともすべてを呑み込んでしまいそうな気配がある。景凪は、今すぐにでも逃げ出したかった。どん底の時に、かつての宿敵とばったり出くわす。しかも相手は今や順風満帆。これ以上に気まずくて情けないことがあるだろうか?今の自分を、もし渡に気づかれでもしたら、あれほど自分を嫌っていた彼だ、きっと夢の中でも笑い飛ばすに違いない……「この……目が不自由な女性に謝れ」渡の声がもう一度響く。その一言に、景凪の張りつめていた神経がふっと緩んだ。よし、バレてない!なにしろ七年も経っている。今の景凪はすっかり痩せて、サングラスをかけている。気付かれないのも無理はない。渡はちらりと景凪の手元、白杖を握る手を横目で見て、表情をわずかに和らげた。彼は気配を隠して唇の端を上げ、目だけでからかうような光を浮かべる。ふん、相変わらず騙されやすいな。例の酔っ払い男は、渋々ながらも、渡のただならぬ雰囲気と、さらに腕を悠斗にねじられているプレッシャーに、すっかり意気消沈した。「す、すみません。お嬢さん、酔っ払っていて失礼なことをしました。本当にすみませんでした……」渡は軽くいなすように答えた。「酔ってるなら、自分でどこかに転がってろ」「は、はいはい……」男は小さくなりながら、逃げるようにその場を離れた。「ありがとうございます」景凪はわざと声を変え、喉を絞るようにして尋ねた。「すみません、エレベーターはどちらでしょうか?」渡はすぐには答えず、俯き加減に景凪をじっと見つめ、眉をわずかにひそめた。痩せすぎだ。サングラスが顔の三分の二を隠し、尖った
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第13話

その男が首を回すと、そこにはまるで死神のように背後に現れた渡の姿があった。その圧倒的な威圧感に、男はぶるりと身を震わせた。渡は指に挟んだ煙草から白い煙をくゆらせていて、表情は煙に隠れて曖昧だ。ただ、その黒い瞳だけが鋭く、凄まじい怒気を放っている。「俺の言ったこと、わからなかったか?」男は怯えたように唾を飲み込み、反射的に逃げようとしたが、足を上げた瞬間、背後の黒服の用心棒二人が一斉に彼の膝を蹴りつけた。ドンッ!男は両膝を地面に叩きつけ、骨が砕けるような痛みを感じた。声を上げようとしたが、先に口を塞がれてしまう。渡がゆっくりと歩み寄り、上から見下ろすその目は、まるで死体を見るかのように冷たくて無慈悲だった。「そいつの口の中の歯、全部抜け」そう言い捨てて、渡は踵を返し、テラスへと歩いていった。その場所からは、ちょうど玄関の一角が見える。渡は静かに、細く儚げな女性の背中を見つめていた。彼女は白杖で道を探りながら、ビジネス用の車に乗り込む。「景凪……」渡はその名を口にし、凍りついたような眉目がわずかに和らいだ。遠ざかる車を見つめ、しばしの沈黙の後、低く呟く。「久しぶりだな」その声はあまりに小さく、テラスの夜風にかき消されてしまった。……景凪が別荘に戻った時、深雲はまだ帰っていなかった。庭には移植された黄色いバラが咲き誇り、月明かりに揺れている。玄関先には田中が立っていた。景凪の姿を見つけるや否や、スマホを取り出してこっそり写真を撮り、何事もなかったかのように駆け寄ってくる。「奥様、お帰りなさいませ」景凪は軽く頷き、田中にお風呂の用意を頼んだ。「かしこまりました、奥様」と口元は笑顔を作りながら、景凪の前で白目をむいた。田中は景凪のことを本当の奥様とは思っていない。深雲が言っていた通り、この二年間、彼女にとっての奥様は多分、姿月なのだろう。景凪は気にも留めなかった。どうせこの鷹野家の奥様という肩書きも、そう長くは続かないのだから。お風呂の用意ができ、景凪は湯に浸かりながら脚のツボをマッサージする。あと二度ほど鍼を打てば、脚は完全に治る。そしたら会社に復帰するつもりだ!服を着てバスルームから出ると、下の階で物音がした。窓辺に近づくと、深雲の車が庭に入ってくるのが見えた。車を降り
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第14話

深雲は、景凪が言った庭の手入れなんて、せいぜい雑草をちょっと抜くくらいのことだろうと思っていた。だって、この庭いっぱいに咲いているチューリップは、結婚したときに景凪が自分のために一つ一つ植えてくれたものだったから。深雲が黙ったまま険しい顔をしているのを見て、景凪は手探りで彼の上着の裾を掴み、わざと可愛らしく尋ねた。「深雲、怒ってるの?」こんなふうに聞かれてしまったら、いくら怒っていたとしても、深雲はそれを表に出せなかった。「もちろん怒ってなんかいないさ。お前に怒ったりするわけないだろう」できるだけ優しい声を心掛けて、深雲は景凪の頬に手を添えた。「急にどうして黄色いバラを?お前はずっとチューリップが好きだったじゃないか」景凪は、その言葉に心の奥底で苦笑した。大学時代、実は一度だけ深雲にバラが好きだと言ったことがある。あのとき深雲は何も言わなかったが、その後、彼が電話で友人に「バラは派手すぎて趣味が悪い」と言うのを偶然聞いてしまった。彼がそう言い放ったのだ。それ以来、景凪はもう二度と自分の好みを口にすることはなかった。深雲を愛したこの数年、景凪は自分をすり減らし、ついには自分さえ見失ってしまった……でも、もうそろそろ取り戻さなきゃ。「今はバラが好きなの」景凪は静かにそう告げた。深雲は眉をひそめ、目の前の彼女を改めて見直した。同じ顔、同じように見える。だけど、どこかが確かに変わった気がした。少なくとも、前の景凪なら、彼に逆らうことなんて絶対になかったはずなのに……「パパ!」ちょうどそのとき、清音が駆け寄ってきて、深雲の大きな手を両手で揺らした。「もう眠くなっちゃった。ミルク飲んで寝たい」景凪はすぐに言った。「じゃあ、ママが温めてあげるね」言い終えた瞬間、景凪は自分が焦っていることに気付いた。今の自分はまだ目が見えない状態なのに……盲杖をぎゅっと握りしめ、景凪は緊張した。深雲がじっと自分を見ているのを感じて、思わず背筋が強張る。けれど、深雲は何も言わず、清音の手を離して、辰希のほうを向いた。「辰希、先に妹を部屋に連れて行ってあげて。パパがあとでミルクを持っていくから」昼間、景凪は辰希と清音が一緒に住んでいる部屋を見に行った。二人の子ども部屋は百平方メートルほどのスイートルームで、中にはベ
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第15話

景凪は今でも、あの時の深雲の姿を忘れられない。彼が病室のベッドの傍らに座り、景凪の手をギュッと握りしめ、赤く充血した目で見つめてきた、あのやつれた切ない顔。「景凪、たとえ俺が社長の座を失ったとしても構わない。もうお前に、これ以上無理はさせたくないんだ」その時の景凪は、胸が熱くなり、涙があふれた。自分は世界一の男性と結婚したんだと、そう信じて疑わなかった。けれど、今になって思えば、もし深雲が本当に少しでも自分の体を大切に思っていたなら、あの時、歩くことすらままならないほど衰弱していた自分を、深雲が首を縦に振らなければ、病院から出してもらえるはずがなかったのだ。人が本当に自分を愛しているかどうかは、言葉じゃなく、行動を見れば分かる。深雲は、どうだったのか?景凪が「退院したい」と口にした、その直後、深雲はすぐに手続きを済ませ、翌日には景凪を研究所へと送り返した。深雲は、景凪のことを誰よりも分かっていた。彼女がどれほど自分を愛しているのかも。深雲がほんの少し眉をしかめるだけで、景凪は世界中の何もかもを彼に差し出してしまいそうになる。その想いを、深雲は徹底的に利用した。景凪の最後の一滴まで搾り取り、今の地位を揺るぎないものにしたのだ。ぞくりとした悪寒が、景凪の心の奥底から全身へと広がっていく。深雲……あなたって、本当に……冷たい人。景凪は顔を上げ、目の前の男に微笑みかけた。「あなたの言う通りね。私、焦りすぎてた。これからはゆっくりやっていくわ」景凪の素直な言葉に、深雲は満足そうに彼女の頭をやさしく撫でた。「部屋で休んでて。後で行くから」「うん」景凪は白杖を手に、くるりと背を向けて階段を上がる。深雲の視界から離れたその瞬間、口元の笑みは消え、景凪は足早に子どもたちの部屋へと向かった。深雲は、景凪と子どもたちの接触をあまり好まない。だからこそ、今のうちに子どもたちと話をして、どれだけ自分が愛しているか伝えなければならない!けれど、子ども部屋の前に辿り着く前に、清音の声がふんわりと部屋の中から聞こえてきた。「姿月ママ、今日すっごく楽しかった!あしたも学校終わったら一緒に遊びに行こうよ。あの女の人、もう見たくないもん。大っ嫌い!」景凪は立ち止まり、全身がびくりと震えた。部屋の中では、清音がベッドに寝転がり
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第16話

景凪は部屋の外で、子どもたちの会話をはっきりと聞いてしまった。胸が痛み、立っているのもやっとだった。しばらくその場で心を落ち着けてから、景凪は無理にでも足を動かし、白杖でわざと音を立ててドアを叩いた。「辰希、清音、ママ入っていい?」ドアは半開きで、軽く押すとすぐに開いた。彼女が入った瞬間、清音はパッとベッドに駆け上がり、布団を頭までかぶってしまった。明らかに、景凪と関わりたくない様子だった。景凪の胸に寂しさが広がる。辰希は突然現れた景凪を見て、どうしたらいいのか分からず、小さな拳を握りしめて、大きくて黒い瞳が不安そうに泳いでいた。もしかして、この人……さっき自分が言ったこと、聞こえてたんじゃ……五歳の子どもの気持ちは顔に出る。隠しきれるものじゃない。景凪は、辰希の内心の罪悪感に気づき、優しくなった。わざと明るく言う。「ママはまだ耳が完全に治ってないから、みんなが大きな声で話さないと聞こえないのよ」その言葉を聞いて、辰希はほっとしたように息をついた。聞こえてなかったんだ。よかった。ベッドから飛び降りて、景凪の前まで歩いてくる。本当は今すぐにでも、この子をぎゅっと抱きしめてしまいたかった。でも、今はだめだ。辰希を怖がらせてもいけないし、深雲に怪しまれるわけにもいかない。「辰希?」景凪はゆっくりしゃがみ、優しく微笑んで尋ねる。「ママ、少しだけ、抱っこしてもいい?」目の前の、懐かしくもあり、どこかよそよそしいこの女性を、辰希は複雑な気持ちで見つめていた。彼は今までに何度もこの人を見たことがある。静かにベッドで眠っている姿を。まるで眠り姫みたいに、ずっと目を覚まさなかった。辰希が動かないのを見て、景凪はまた拒絶されたのかと、胸が締めつけられる。そんなとき、辰希がためらいがちに、小さな声で聞いた。「もう寝ちゃったりしない?」景凪は一瞬、言葉を失う。まだ返事をする前に、辰希の小さな手が、そっと景凪の顔に触れた。まるで、これが本当に現実かどうか確かめるみたいに。景凪は、涙がこぼれそうになった。「しないよ!」彼女はその小さな手に顔を押しつけ、ぬくもりを感じさせながら、真剣に約束した。「もう、絶対にみんなのそばを離れないから!」もうすぐ深雲が上がってくるはずだ。心残りだけど、景凪は自分を抑えて辰希の
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第17話

景凪は、清音の心をすでに見抜いていた。サングラスの奥で、その瞳がかすかに陰った。深雲はいつものように、清音の願いを黙って受け入れる。「いいよ、じゃあお兄ちゃんと一緒に行きなさい。パパは車から、君たちが学校に入るのを見守ってるよ」「ありがとう、パパ!」清音は満面の笑みを浮かべた。景凪は心配そうに念を押す。「辰希、清音、道中気をつけて。安全第一よ」バタンッ!清音は勢いよく車のドアを閉め、振り返ることなく歩き出した。辰希は数歩歩いてから、後ろに停まった車を振り返る。窓から手を伸ばした景凪が、まだ二人に手を振っていた。辰希は少し胸が痛んだ。景凪が自分の姿を見えないと分かっていても、辰希はそっと手を振り返した。景凪の心に、ようやく僅かな安堵が芽生える。少なくとも、辰希は自分をそこまで拒絶していないのかもしれない。深雲はハンドルに片手を添えたまま、景凪に横目を向ける。「景凪、すぐ会社に来客があるんだ。自分で対応しなきゃいけなくてさ。前の交差点で降ろして、運転手に迎えに来てもらおうか?」景凪は即座に断る。「大丈夫よ、深雲。私も一緒に会社へ行きたいの」深雲は一瞬驚いたように目を見開く。景凪がそんなに急いで会社に戻りたがるとは思っていなかったようだ。「本気か?」眉をひそめて尋ねる。「ええ。目が見えなくても、チームのみんなと今の研究状況やプロジェクトの進捗を話しておきたいし、これから正式に復帰するためにもね」深雲はしばらくハンドルを指でトントンと叩いて考え込むが、数秒後には折れて頷いた。「分かった」こうして景凪は深雲と一緒に、雲天グループへと戻った。五年ぶりだが、ここは昔と変わらない雰囲気だった。深雲が玄関をくぐると、社内の視線は一斉に彼へと集まる。すれ違う社員たちが「鷹野社長、おはようございます」と挨拶していく。深雲は軽く頷いて応える。景凪も深雲の腕にそっと手を添え、もう片方の手で白杖を持ちながら歩く。その姿は、好奇と噂の視線を自然と集めてしまう。五年の月日が経ち、古参の社員たちも彼女のことを忘れかけていた。新しい社員たちは、当然、景凪のことを知らない。だが、深雲は景凪を誰にも紹介しようとはしなかった。「社長!」そこへ、アシスタントの海舟が小走りで現れた。深雲と一緒にいる景凪の姿を見つけると、
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第18話

一方その頃、深雲は専用エレベーターを降りると、長い脚を大股に進めてオフィスへ向かった。扉を開けると、すでに研時がソファに座って待ち構えていた。「遅かったな」研時はコーヒーを一口含みながら言う。深雲は少し困ったように肩を竦めた。「景凪がどうしても会社について来たいと言い張るもので、彼女の世話に手間取ってしまった」「景凪?」研時はその名を聞くと、すぐに眉をひそめた。「まだ目が見えないはずだろ?それでもお前にべったりか?」研時の顔には皮肉が浮かぶ。「あいつ、いつまで経ってもあの執着っぷりかよ。ほんとに、こびりついて離れない厄介な女だ」景凪が過去にしでかした数々の出来事を思い出し、研時は冷たく鼻で笑った。「まあ、そうでもなきゃ、あの手の女が鷹野家みたいな名家に嫁げるはずがない。人並み外れた図太さとやり手じゃなきゃ無理だ」深雲は研時の言葉に反論せず、どこか思案深い表情で黙っていた。そうだ。周囲の誰もが知っている。景凪は昔から、変わることなく深雲に執着し、抜け出せないほど想い続けている。今さら、彼女が変わるはずがない。庭のチューリップを全て引き抜き、代わりに黄色いバラを植えたのも、きっと目覚めた景凪が、また深雲の関心を引くための新たな策なのだろう。そう思い至ると、深雲の心に積もっていた苛立ちが、すっと消えていった。この数日、胸の奥にあった微かな不快感も、かなり薄らいだ。彼は何気ないふうを装いながら研時を見やり、静かに言った。「まあ、あんまり言うなよ。景凪は俺の妻だ。子どももふたり産んでくれたんだ。彼女の前では、そういう話はやめてくれ」研時は深雲の気持ちを察し、肩をすくめて薄く笑った。「分かってるさ。人前ではちゃんとお前の顔を立てるよ」だが、今日の研時がここへ来たのは、景凪の愚痴を言うためだけではなかった。「昨夜、家に戻って親父から探りを入れておいた。西都製薬を買収したのは、ここ数年名を馳せている黒瀬家の長男じゃなくて、普段表に出ない次男……」研時は意味深に深雲を窺い、カップをテーブルに戻しながら、その名を口にした。「黒瀬渡だ」深雲の表情が僅かに陰る。この界隈で、陸野家は決して一番の資産家ではない。鷹野家と比べても、やや見劣りする。しかし、陸野家は代々政界に強いパイプがあり、かつての栄光時代には、総理官邸にすら出入り
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第19話

開発部。海舟はきっちりと景凪に付き添い、開発部を一通り案内しつつ現在の状況を説明していた。景凪は表情一つ変えず周囲を観察していたが、ひと巡りした時点で、すべてを心の中で整理していた。かつて自分が手塩にかけて作り上げた開発チームのメンバーは、ほとんどがもう去っていた。残っている数人も、すっかり端に追いやられているのが見て取れた。「海舟、今開発部の代理責任者は誰になっているの?」深雲が言っていた。自分の「開発部長」と「チーフメディカルオフィサー」の肩書は残してある、と。「小林さんです。秘書の小林姿月が代理を務めております」と海舟は正直に答えた。その瞬間、景凪は海舟の目に、言葉にはされなかった同情の色をはっきりと読み取った。景凪は内心、すべてを悟った。どうやら、姿月と深雲の関係は、社内ではすでに公然の秘密になっているらしい。「わかった」景凪は静かに微笑み、海舟に言った。「海舟、悪いけど、私のオフィスまで案内してもらえないかしら」自分のオフィスの金庫には、まだいくつか重要な資料が残っているはずだ。海舟が返事をする前に、前方から怒りの声が響いた。「真菜、何してるの?ここは穂坂部長のオフィスよ!早くその荷物どけて!」景凪は一瞬、息を呑んだ。この声は、彼女が大学時代、同じ研究室で可愛がっていた後輩――河口詩由(かわぐちしゆ)だ!学生時代から詩由は景凪の熱心なファンで、そのまま景凪を追って雲天グループに入社した。景凪が手掛けたプロジェクトのほとんどに、詩由は深く関わってきたし、その貢献は大きい。まさか五年経って、まだ詩由がここに残っているとは。彼女の能力なら、どの会社も引っ張りだこだろうに……「海舟、ちょっと様子を見に行ってもいい?」景凪は少し焦りを感じていた。詩由の声は、まさに自分がかつて使っていたオフィスから聞こえてくる。海舟に案内され、景凪はオフィスへと向かった。ちょうど入口に着いた時、詩由が雑多な荷物をバサッと廊下に投げ出した。その中の一枚の社員証が、景凪の足元に転がってきた。ふと見下ろすと、社員証にははっきりと「開発部長小林姿月」と記されていた。景凪は目を閉じ、湧き上がる怒りと失望を必死に抑えた。深雲は、まさか自分のポジションまで姿月に譲るつもりなのか!「詩由、あなた、会社でや
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第20話

つまり、この女性こそ、五年間も植物状態だった景凪本人だということか!景凪の正体を確認した真菜は、彼女を上から下まで何度も値踏みするように見つめ、その目には隠しきれないほどの嫌悪と敵意があふれていた。けれど景凪は、まるで気にする様子もない。真菜が姿月派だということは明白だったし、そんな彼女に嫌われるのも当然のことだ。真菜はゆらりと歩み寄り、声をかける。「へえ……お噂はかねがね。さすが穂坂さんってこと?」景凪は片眉を上げて微笑む。「穂坂さんって?七年前から、会社では皆私を穂坂部長か、あるいは奥様って呼んでいたはずだけど。あなたは私が部長だと認めていないの?それとも、私が社長夫人だってことが気に食わない?」その口調は終始穏やかで、口元には柔らかな微笑さえ浮かべているが、言葉の端々には鋭い刃が隠されていた。真菜は返す言葉もなく、気まずそうに視線を逸らす。その時、ふと真菜の目が輝き、後ろから歩いてくる女性に気づいて手を振った。「姿月!」景凪はゆっくりと振り返り、サングラス越しに優雅に歩み寄る姿月を見据える。ついに……直接対峙する時が来たのだ。今日の姿月は、真っ白なスーツに身を包み、化粧も柔らかく清楚な仕上がりだ。栗色の長いウェーブヘアは、まるで1本1本計算されたかのように完璧だった。「景凪さん」姿月は景凪の前で足を止め、明るく上品な笑みを浮かべる。「先ほど社長から、お戻りになったって聞いて……江島さん一人じゃ気が利かないかもと思って、何かお手伝いできるかと来てみたんだ」景凪は心の奥で冷たく笑う。この物言い、まるで彼女がこの会社の女主人で、景凪の方が招かれた客であるかのようだ。真菜は親しげに姿月の腕に絡み、ここぞとばかりに訴え始める。「姿月、今あなたの荷物をオフィスに運んだばかりなのに、詩由が来て文句を言い出したの!どうしても社長の人事に納得できないって!」周囲の開発部の社員たちも、面白がってその様子を見物し始めている。姿月は困ったように微笑む。「真菜、荷物を運んでくれてありがとう。でも、部長の席はもともと景凪さんのものだったんだよ」姿月は申し訳なさそうに景凪を見つめる。「景凪さんがこんなに急に目覚めるなんて思わなかったから、まだきちんと説明できていなくて……」景凪はサングラス越しに、冷たい眼差しで姿月
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