All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

深雲は、いつも黙り込むか、あるいは適当にごまかして「そのうち大きくなったら分かるよ」とだけ答えた。そして姿月はもっと酷い。景凪は今でも忘れない。あの女は、最も優しい口調で、清音にこう囁いたのだ。「ねえ、清音の本当のママはもうここで寝たきりで、あなたをいらないよ。じゃあ、私たちもそんな人、いらないよね?」その言葉を思い出すたび、景凪の心は鋭い刃で切り裂かれる。深雲と姿月、この二人の裏切り者に、景凪は愛するはずだった二人の子どもからの愛情を、まるごと奪われたのだ。この五年、もしも深雲がたった一度でも辰希と清音に、「ママは本当にお前たちを愛していた。命をかけてもいいほどに」と説明してくれていたなら……清音は、あそこまで姿月に懐くこともなく、「姿月ママ」なんて呼ぶこともなかっただろう。景凪は、手にしたミルクグラスをぎゅっと握りしめ、こみ上げる怒りと悔しさを必死に抑え込んだ。そして、なんとか微笑みを作ってみせる。「わかった、深雲。これからは、もっと気をつけるわ」深雲は、その態度に満足そうだった。そしてもう一つ、別の話を切り出した。「そうだ、景凪。今日、お父さんとも相談したんだけど、開発部部長のポジション、やっぱりお前に任せようってことでまとまった。人事部にも手配済みだから、来週から出社できるよ」「……」その言葉は、予想外だった。その時、深雲がテーブルの上に置いたスマホが、ぶるぶると震えた。新着メッセージだ。景凪の目は見えないため、深雲は全く警戒する様子もなく、その場でメッセージを開いた。送り主は、明岳だった。彼は音声メッセージを送ってきていた。一度、景凪をちらりと見てから、深雲はその音声を文字起こしした。【深雲、西都製薬の幹部と確認が取れたぞ。黒瀬家の次男が西都製薬を引き継いだ後、次の研究開発の主軸はアルツハイマー治療薬になるそうだ。これこそ、景凪が一番得意とする分野じゃないか!大学時代、蘇我教授の下で研究していたテーマもそれだったはずだ】景凪は、心の中で冷たく笑った。なるほど、これが深雲が突然方針を変え、開発部長のポストを自分に戻すと言い出した本当の理由なのだ。「深雲、誰からのメッセージ?どうかしたの?」と、景凪は何も知らないふりで問いかけた。「お父さんからだよ」と深雲は少し面倒くさそうに答えた
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第52話

次の瞬間、姿月から位置情報が送られてきた。深雲はスマホをしまい、表情ひとつ変えずに言った。「景凪、ちょっと海外案件でトラブルがあってさ。今すぐ会社に行かないといけないんだ」「そうなの、大変ね。気をつけて行ってらっしゃい」景凪は優しくそう言った。「うん」深雲は俯いて、申し訳なさそうに彼女の眉間にキスを落とした。「今夜は、たぶん会社に泊まることになりそうだ」「……」景凪は、こぶしをギュッと握りしめて、どうにかその場で彼を突き飛ばしたい衝動を押し殺した。「大丈夫だよ。仕事が大事だし、私たち、たった一晩くらい平気だから」自分でも感心する。こんな状況で、まだ深雲に花のような笑顔を向けられるなんて。深雲は着替えを済ませると、そそくさと家を出て行った。景凪は窓辺に立ち、無表情なまま深雲の車が夜の闇へと急ぐ様子を見送った。彼の車はあっという間に視界から消えていった。本当に、待ちきれないんだな。景凪がふと我に返ると、カーテンの布が手の中でくしゃくしゃになっていた。そっと手を離すと、胸の奥に苦く寂しい感情が沈んでいく。姿月はただ一通のメッセージと写真だけで、深雲を夜中でも妻子を置いて病院まで駆けつけさせられる。景凪はふと思い出す。姿月の裏アカウントに残された、大学時代、彼女と深雲の記録の数々。ひとつひとつの言葉が、景凪の顔に強く打ちつけられる鞭のようだった。自分はもう二十七歳になった。人生のほとんどを深雲への恋に費やしてきた。でも自分がどれだけ求めても届かなかった愛情を、姿月は何の苦労もなく手に入れてしまった。気づかないうちに溢れていた涙を拭い、景凪は気持ちを整えると、そっと子どもたちの部屋へ向かった。辰希も清音も、すでに眠っていた。部屋には優しい明かりのナイトライトが灯っている。景凪はそっと辰希のベッドに近づき、眠っている息子を優しく見つめた。彼は寝相もきちんとしていて、小さな手をお腹の上にきちんと載せている。まだ幼いのに、すでに端正な顔立ちがうかがえる。ベッドサイドにはたくさんの本が並んでいる。天文、地理、プログラミング……ジャンルも様々だ。辰希が天才だという事実は、景凪が植物状態でいた数年間、看護師から何度も聞かされていた。彼女たちは言った。景凪は運がいいと。植物状態でも、あんなに綺麗で賢い子
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第53話

「やだ……警察さん、私を連れて行かないで……」清音のかすかな寝言が、夜の静寂を破るように響いた。小さな顔は怯えで歪み、胸を締め付けられるように頭を振っている。景凪は、その姿を見て心が張り裂けそうだった。だが、次に清音が口にした言葉は、さらに鋭い刃のように、すでに傷ついていた景凪の心を深く抉った。「姿月ママ……姿月ママ、助けて……」「……」景凪は、まるで体中の力が抜け落ちたように動けなくなり、清音のベッドの傍らにしゃがみ込んだ。そっと清音の小さな手を握りしめると、目元がじわりと赤くなっていった。その夜、深雲は帰ってこなかった。景凪は、まったく驚かなかったし、気にも留めていなかった。朝になり、景凪が階下に降りると、台所ではすでに田中が朝食の準備をしていた。景凪は、音もなく彼女の背後に立ち、彼女が手際よく高級和牛を冷蔵庫から取り出し、自分の持参した袋に素早く入れる様子を黙って見ていた。そして、袋から安物のスーパーの牛肉を取り出し、フライパンに並べて焼き始めた。「田中」景凪が突然声をかけると、田中はびくりとし、慌てて振り返った。いつの間にか台所の入口に佇む景凪を見て、途端に気まずそうな顔になる。「奥様、こんなに早くお目覚めに……」「うん、朝ごはんを作ってるの?」田中は、景凪の力の抜けた瞳を見て、少しだけ安心した様子だった。どうせ、見えていない。この人には、何も分からないはずだ、と。「はい、ご主人様から電話があって、奥様と辰希くん、清音ちゃんの朝ごはんを作るように言われました。あと三十分で運転手さんが来るので、二人を学校に送るそうです」「今日の朝ごはんは何?」「すべて栄養士が考えた献立ですので、それに従っています。今日は二人にステーキを焼いて、空輸で届いたミルクと、有機野菜、少量のフルーツを添えます」景凪は頷いた。「ご苦労さま」「いえ、これが私の仕事ですから」景凪がその場を立ち去ろうとした時、ふと思い出して振り返った。「あなたのお歳なら、きっとお孫さんがいるんじゃない?」理由が分からないまま、田中は答える。「はい、二人の孫がいて、辰希くんや清音ちゃんと同じくらいの年です」そうか。景凪は微笑んだ。「それは幸せなことね」景凪が去ると、田中の笑顔はすぐに消え、手馴れた動きで空輸のミル
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第54話

「この女、絶対わざとだよ!変な角度から写真撮って、景凪をブスに見せたり太って見せたりしてる!本当はめちゃくちゃ美人なのに!鷹野家の連中って、本当に頭おかしいよ。今どきこんなことするなんて!深雲は何してんのよ!どうして止めに入らないの!」千代の毒舌は誰にも容赦しなかった。でも、景凪自身はまるで気にしていない。それに、あの時辰希も自分をかばって出てきてくれた。息子の辰希のことを思い出すと、景凪の胸はほっこり温かくなり、ますますどうでもよくなった。「大丈夫、あの人が載せたいなら好きにすればいいよ」上流階級のあの連中がどんな顔して彼女を笑いものにしても、景凪は気にもしない。でも千代は納得できない様子だ。「景凪は我慢できても、私は無理!私はあなたの唯一の親友なんだから、あなたをいじめるやつは私をいじめるのと同じ!この件は任せて!」我慢というより、もうどうでもよくなっただけだ。「千代、本当に大丈夫。だからこの件は放っておいて。他にお願いしたいことがあるの」景凪が心配しているのは伊雲じゃなくて、千代が今トップ女優で注目の的、しかもつい最近女優賞を獲ったばかりで、敵だらけの時期だからだ。余計な火の粉を浴びせたくなかった。千代は口を尖らせて、景凪の頼み以外には乗らず、どうしても伊雲を許すつもりはない様子。「何を手伝えばいいの?」「深雲が雇った家政婦の田中っていう人がいるんだけど、私、あの人が辰希と清音の食事をこっそり入れ替えて、自分の孫にいいものをあげてる気がするの。誰か見張ってくれる人を手配してほしいんだ。それから、台所にも監視カメラを付けたい」「そんなに手癖が悪い人、深雲は何してるの?こんな家政婦に子どもたちの世話任せてるなんて!」千代は呆れたように吐き捨てた。でも、景凪には心当たりがあった。少し黙ってから言った。「あの家政婦はたぶん姿月の紹介だと思う。親戚なんだろうね」そう、景凪は気付いていた。あの家政婦は自分の行動をこっそり写真に撮って、深雲だけでなく姿月にも逐一報告している。千代は思わず苦笑した。「あの女、本当にやるわね。自分の身内を鷹野家に家政婦として送り込んで。所詮愛人のくせに、まるで自分が本妻気取りじゃない」景凪は皮肉っぽく口角を上げて、埃をかぶった隅のウェディングフォトに目をやった。もし
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第55話

景凪は淡々と口を開いた。「じゃあ、もう一枚焼いてきて。辰希と清音の分も補ってもらおうか。まさか、この家で私がステーキひと切れ食べるのに、あなたの許可がいるの?それとも、深雲に電話して聞いてみたほうがいい?」「いえ、そういう意味ではありません、奥様……」田中は困った顔で、愛想笑いを浮かべる。景凪は無表情のまま、手元の皿にそっと触れて、それを前に押し出した。それは、今すぐ辰希と清音の皿からお肉を分けるように、という明確な意思表示だった。清音は、景凪がわざと田中を困らせているのだと思い込んで、ぷいっと不満げにフォークを置いた。「もういいよ、私、いらない!ぜんぶあなたが食べれば?お兄ちゃん、行こう、私、祥宝楼(しょうほうろう)の小籠包が食べたい!運転手さんに連れてってもらおう!」本当は、自分が食べたいわけじゃない。姿月ママが祥宝楼の小籠包が大好きだったから、買っていってあげたかったのだ。清音は、まだ迷っている辰希の手を引っ張り、そのまま玄関へと駆け出した。景凪の呼び止めの声など、耳に入れようともしない。「清音、待って。ママが送っていくから……」景凪はやや焦り立ち上がろうとしたが、足元に注意を払っていなかったせいで、テーブルの角に躓き、そのまま床に激しく倒れてしまった。彼女の体はあまりにも華奢で、冷たい床にぶつかった衝撃にしばし動けなくなる。ちょうど振り返った辰希は、その光景を見てしまい、心が痛んだ。助けようか迷ったけれど、清音がしっかりと手を握って離さない。「お兄ちゃん、ほっといていいよ。田中さんがいるし。早く行こう、運転手さん待ってるよ!」車に乗ると、清音は運転手に丁寧に頼んだ。「運転手さん、祥宝楼までお願い。姿月ママとパパの朝ごはん、買っていきたいの」そして嬉しそうにスマホを取り出し、姿月にボイスメッセージを送る。「姿月ママ、お兄ちゃんと今から姿月ママとパパの朝ごはん買いにいくよ!姿月ママが一番好きな小籠包も買うね。それからすぐに病院に会いに行くから。今日も大好き!」すぐに姿月から返信が来た。清音はそれを再生し、耳に当てる。「清音、本当に優しい子ね。清音は私にとって、神様からの小さな天使よ」清音はスマホを抱きしめ、目を細めて笑った。隣の辰希は、そんな妹を見つめ、唇をきゅっと結んでから、真剣な
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第56話

景凪は思い切り転んでしまい、しばらくソファに腰を下ろして休んでいた。腕には青あざができ、特に左足首をひどく捻ってしまったようだ。そっと立ち上がって歩いてみると、足首に鈍い痛みが走る。これは鍼でも打って血行をよくしなければならない、と心の中で思った。近くで田中が、いかにもそれらしい顔で尋ねてくる。「奥様、家庭医をお呼びしましょうか?」自分自身が医者なのだが、と断ろうとしたその時、突然ドアベルが鳴った。田中がドアを開けると、目を見開いて驚いた。「曽根先生?どうしてこちらへ?」玄関に立っていたのは、医療バッグを持ち黒縁メガネをかけた家庭医の曽根言一(そねげんいち)先生だった。田中も自分からは連絡していない。言一はメガネを直しながら落ち着いた様子で答えた。「辰希くんから連絡をもらいまして。家の女主人がケガをされたと伺い、診察に参りました」景凪にはその言葉がはっきり聞こえていた。思わずうつむいて笑みがこぼれる。こうして思えば、転んだ痛みも少し和らぐようだった。言一が医療バッグを背負いリビングに入ってくると、ソファに座る女性が目に入る。その時の景凪はパジャマ着で、髪を下ろしていた。うつむき加減で長い髪が顔を隠している。言一は彼女の顔がよく見えず、景凪と姿月は体格も髪色も似ていることから、無意識に姿月だと思い込んでいた。「小林さん、どこをケガされました?」と言いながら、慣れた手つきで医療バッグを下ろす。「そういえば、鷹野さんはいらっしゃらないんですか?どうして辰希くんが連絡を?」景凪の指先がソファの上でじわりと握り締められ、爪が皮膚に食い込むほどだった。冷静な声で口を開く。「曽根先生、ですよね?」ちょうど医療バッグを下ろした言一は、その背中越しに聞き慣れない声が聞こえてきて、思わず振り返る。ソファに座っていたのは、思っていた姿月ではなく、透き通るほど色白で美しい女性だ。どこか儚げで冷やかな雰囲気だが、目には焦点がなく、まるで盲目の人のようだった。景凪は声と気配で言一の位置を探り、静かに自己紹介をする。「はじめまして、私は景凪です。深雲の妻です」言一は一瞬絶句する。彼は深雲が結婚していることを知っていた。初めてこの家を訪れた時、リビングには深雲と景凪のウェディングフォトが飾られていた。その写真の
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第57話

その頃、病院の個室。姿月は電話の相手に耳を傾けていた。そこへ深雲がドアを開けて入ってくる。彼女はすっとスマホを差し出した。「曽根先生から電話よ」「曽根言一か?」深雲は少し意外そうに眉を上げた。その後ろから辰希が入ってくるが、彼は何事もなかったように小さなソファに腰掛け、タブレットを取り出して国際ニュースを読み始める。深雲はスマホを受け取った。「曽根先生、どうかした?」辰希はこっそりと父親の様子を伺う。「……」言一は深雲の反応を聞き、辰希が景凪が家で転んだことを父親に伝えていないと察した。一瞬、どうするか迷ったが、辰希のことを裏切るようなことはしなかった。言一は慎重に言った。「鷹野さん、先ほどお宅の前を通ったら、ちょっと挨拶でもと思いまして。そしたらちょうど奥様が家で転んでしまって、怪我の手当てをしてきました。一応ご連絡まで」深雲は眉をひそめた。「景凪が怪我を?ひどいのか?」「いえ、大したことありません」深雲は少し安心した。「わかった、ご苦労だった。今回も往診の分で精算しよう」深雲が電話を切ると、姿月が心配そうに聞いた。「景凪さん怪我したの?どうして?深雲、家に電話して様子聞いたら?」今は仕事中じゃないので、姿月も深雲を役職で呼ばなかった。姿月の膝の上で清音がぬいぐるみをいじりながら、少し不安そうに唇を噛む。ぬいぐるみの髪はぐしゃぐしゃだ。大きな黒い瞳がくるくると動き、どこか心配げだ。あの意地悪な女の人、まさかパパに告げ口しないよね?もし、パパに「清音が朝ごはんも食べないで外に出てしまって、追いかけて怪我した」なんて言われたら……パパに叱られるかもしれない。清音は肩をすくめて、助けを求めるように向かいの兄を見た。けれど、今回の辰希は彼女にまったく気づかない。視線は半分ニュースに、半分パパの様子に注がれている。深雲は家の番号を押しながら、子供たちを一瞥し、電話をするために部屋を出た。廊下の突き当たり、窓辺。深雲は辛抱強く電話がつながるのを待つ。1分近く経って、やっと景凪の声が聞こえた。「もしもし」深雲は心配そうに声をかける。「景凪、曽根先生から聞いたけど、家で怪我したって?どうしてそんなに不注意なんだ。痛いか?」「……」景凪はじっと自分の足首に巻かれた包帯を見つめ
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第58話

彼は再びスマホを耳に当てた。「どうした?」「千代が今日、帰国するんだ。ちょっと後で会いに行こうと思ってるの」「……」深雲はすぐには返事をしなかった。正直なところ、景凪の友人たちの中で、彼が一番好きじゃないのが千代だった。できれば、景凪にはあまり彼女と親しくしてほしくなかったのだ。景凪はさらに説明した。「千代の知り合いに、すごく有名な眼科の先生がいるの。最近、海外から帰ってきたばかりで。千代のつてで、その先生に診てもらおうと思って……もし目が早く治れば、仕事にももっと集中できるし」彼女の目も、そろそろ回復していい頃合いだった。あらかじめ布石を打っておく。深雲もまた、景凪に早く開発に戻ってほしいと思っていた。西都製薬との連携を一歩進めるためにも。彼は迷いなく答えた。「分かった。気をつけて行ってきて。運転手の手配がいるか?」「大丈夫。千代が運転手を手配してくれてるから、もうすぐ来るよ。深雲もお仕事頑張って、ちゃんとご飯も食べてね。じゃあ、切るね」「うん」深雲はスマホを置き、ふと振り返った。その瞬間、ほんの僅かに足を止めた。すぐ後ろに、いつの間にか息子の辰希が立っていた。小さな顔を上に向け、じっと見つめてくる真剣な表情。「どうした、出てきたのか?」深雲は歩み寄り、辰希の頭を撫でた。辰希は生まれて間もなく非凡な知性を見せ、科学的な検査でも天才の資質が証明されている。だからこの年齢にしては、場違いなほど大人びた雰囲気を漂わせていた。「パパ」辰希は首をかしげて尋ねた。「パパは、僕と清音の本当のママ、好きじゃないの?」深雲は息子の質問に思わず苦笑した。「何言ってるんだ」辰希がさらに何か言おうとした時、会社からの電話がスマホに割り込んできた。深雲はそれに応じて、簡単に答えた。「分かった、一時間後に向かう」深雲は辰希を連れて病室へ戻った。ドアを開けると、清音と姿月が楽しそうに笑い合っている。「清音、もう降りよう。姿月おばさんに休んでもらわないと」深雲は清音のリュックを取り、手を差し出した。「パパは会社に行くから、ついでに学校まで送っていく。今日は一限だけお休みしただけだからね」清音は名残惜しそうに姿月の手をぎゅっと握って、なかなか離そうとしない。姿月は優しく微笑んだ。「じゃあ清音、姿月おばさんも一緒
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第59話

車は街の中心部を離れ、郊外の静かな墓地へと向かっていた。今日、景凪は亡き実母の墓参りに来たのだった。車を降りた瞬間、千代からの電話が鳴った。「景凪、着いた?」「今、着いたところ」「そっか、私の分もお参りしてきて」千代は今朝、なかなか会えない有名な映画監督と打ち合わせがあるらしく、直接は来られない。その代わり、前もって二束の白い菊を車に置いておいてくれたのだった。景凪はその花束を胸に抱えていると、電話の向こうから「松下監督!」という声が聞こえた。「千代、忙しいんでしょ。じゃあ、切るね」とそっと電話を切った。もう五年も経ったが、この墓地は景凪にとって少しも他人行儀な場所ではなかった。昔から、悩みごとや辛いこと、全部ここで母に打ち明けてきた。墓地が怖いなんて感じたことはない。ここに眠るのは、誰かにとって大切な家族や恋人なのだ。母の墓前まで歩み寄ると、ふいに違和感を覚える。母の墓は、誰かが丁寧に手入れしているようで、隣の新しい墓よりもきれいに見えた。墓石の前には、最近供えられたばかりの花とお供え物がある。どれも新鮮で、花もまだ瑞々しい。明らかに、ここ数日中に誰かが置いていったものだ。誰が来たのだろう?母が亡くなってから随分経つ。昔の友人たちも今は散り散りで、ほとんど連絡もない。親戚なんて、なおさら考えられない。しばらく考えても答えは出ない。景凪は花を静かに置き、母の遺影を見つめると、鼻の奥がツンと痛み、涙がこぼれた。「お母さん、不孝な娘でごめんね。こんなに時間が経ってからしか、来られなかった……」母の穂坂長楽(ほさかながえ)が亡くなったのは、まだ三十にも満たない若さだった。名前は「長楽」とはいうものの、その短い人生は楽しいことよりも苦しみの方が多かったように思う。遺影の中の長楽は、若く美しく、優しい眼差しを浮かべている。景凪は母の姓を名乗っている。父の小林克書(こばやしかつふみ)は婿養子で、もともと祖父の穂坂益雄(ほさかえきお)が援助していた貧しい学生の一人だった。合格通知書を手に意気揚々と挨拶に来た日、出迎えたのが母の長楽で、ベタだけど運命的な出会いだった。だけど……その後、全てが変わった。景凪は母の遺影をそっと撫で、胸が締めつけられる。母が最期の時、手を握ってこう言ったのを思い出す。
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第60話

……景凪が墓地を後にすると、咲苗は高級な懐石料理のお店へと車を走らせた。エントランスから案内されたのは、二階の個室だ。「景凪さん、こちらで少し待ってください。千代が監督との打ち合わせが終わったら、すぐに来ますから」「ありがとう」咲苗は何か思い出したように、大きなバッグから小さな箱を取り出した。「これ、ご希望だったミニ監視カメラです」景凪が箱を開けてみると、親指ほどの大きさのカメラが入っていた。これなら台所のどこかにさっと隠せそうだ。これで、田中の盗みの証拠もバッチリだ。「咲苗、ちょっとパソコン借りてもいい?」「もちろんです!でも……私のパソコン、最近すごく重くて、広告もやたら出てくるんですよ……」「ちょっと見せて」景凪は咲苗のノートパソコンを受け取り、手早く設定を確認しながら、カメラを自分のスマホと接続した。ついでにパソコンのウイルスや不要なファイルもさっと処理する。咲苗は隣で、景凪の白くて細い指がキーボードを滑るのをじっと見つめていた。画面には見慣れないコードが高速で流れていく。次の瞬間、パソコンの画面はすっきりと綺麗になっていた。「これで、もうパソコンが重くなることはないと思うよ」景凪がパソコンを返すと、咲苗の瞳はまるで星でも宿ったかのようにキラキラと輝いていた。「すごいです!医学の専攻だったんじゃないんですか?どうしてそんなにパソコンに詳しいんですか?」景凪は微笑んだ。「医療研究にはコンピュータが必要なことも多いから、大学の合間にプログラミングも勉強して、ついでにいくつか資格も取ったんだ」咲苗は頭を抱えながら崩れ落ちそうになった。「合間にプログラミングを勉強して、ついでに資格も取る……これが天才と私の違いか……私なんて、大学の合間は寝るのに必死でしたよ……」景凪はその言葉に思わず吹き出した。ちょうどその時、咲苗のスマホが鳴り、仕事の電話が入った。咲苗は慌てて部屋を出ていった。個室に一人残った景凪は、ゆっくりとお茶を口に含み、窓際の大きなガラス越しに街並みをぼんやり眺める。頭の中では、これからの動きについて静かに考えていた。職場復帰さえできれば、経済的にも深雲ときっぱり縁を切れる自信がある。そして彼が浮気したという事実があれば、離婚の手続きも難しくない。問題は、辰希と清音の親権だ
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