All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 421 - Chapter 430

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第421話

景凪は車を走らせていた。十分ほど前、斯礼から怒涛のようなメッセージ攻撃を受けたためだ。「緊急事態だ、至急電話をくれ」とのことだった。一応、彼とはまだ共闘関係にある。景凪は内心首をかしげつつも、話を合わせて電話をかけた。呼び出し音が止まり、通話がつながる。しかし、向こうからは何の応答もない。景凪は眉をひそめ、スマホの画面表示を確認しつつ、ハンドルを握りながら少し声を張った。「もしもし、斯礼さん?」すると受話口から、ねっとりとした邪気を含んだ、笑い声混じりの男の声が返ってきた。「はいはい、ここにいるよ、ハニー」「……」ドンッ!車体が大きく揺れた。思わずハンドル操作を誤り、あわやガードレールに接触するところだった。景凪は急ブレーキを踏み込み、大きく息を吸い込んだ。「斯礼さん、あなた……」「頭の病気なら病院へ行って」――そう罵ろうとしたが、言葉にするより早く、斯礼の脂ぎった声が耳を汚しにかかる。「おっとハニー、運転には気をつけて」こちらの急ブレーキの音が聞こえたらしい。「今、兄さんと親睦を深めてるところなんだ。また後でね」「……」景凪は眉間の皺を深くした。彼、深雲と一緒にいるの?ということは……あのわざとらしい「ハニー」呼びは、単に私を不快にさせるためだけじゃなくて、深雲を煽るためのパフォーマンスってわけね。かつて深雲は、景凪の存在を利用して斯礼を牽制していた。斯礼の前ではわざと「おしどり夫婦」を演じつけ、後継者争いにおいても「安定した幸せな家庭」を持つ自分がいかに優れているかをアピールしていたのだ。斯礼の女癖の悪さを当てこすりながら。今、斯礼はその積年の恨みを晴らす絶好の機会を得たわけだ。「おや、ハニーったらまだ切らないの?名残惜しいのかな。チュッ」斯礼の大げさな投げキッスの音が聞こえた瞬間、景凪は即座に通話を切断した。全身に鳥肌が立つほどの嫌悪感が走る。あの男ときたら、死ななきゃ治らないレベルで卑しいんだから……社長室。斯礼は、漆黒の墨汁を垂らしたように暗い深雲の顔を眺めながら、これ以上ないほどの快感を味わっていた。さっき殴られた痛みなど、お釣りが来るレベルだ。「兄さん、もっと心を広く持ちなよ」ふらふらと深雲のそばに近寄り、馴れ馴れしく彼の肩をポンポンと叩く。「もう離婚したん
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第422話

たとえそのリーダーが小池郁夫本人ではなくとも、彼と懇意にしている人間に違いない──姿月はそう確信していた。きっと郁夫が、自分のことを強く推薦してくれたのだろう、と。姿月は胸の奥から湧き上がる優越感を抑えきれず、口元を微かに吊り上げた。彼女は深雲の端正な顔を見上げ、甘えるような猫なで声で囁く。「深雲さん、心配しないで。取締役の座なんてすぐに取り返せるわ!来週、児玉源造さんの古希のお祝いがあるでしょう?私たちで出席してご機嫌をとればいいのよ。それに田村常務の根回しもあるし、明航重工との提携はもう九分九厘、決まったも同然だわ」「契約期間は十年。年間数兆円のオーダーはもちろん、私たちは明航重工が提携する唯一の企業になれるのよ!このプロジェクトさえ食らいついてしまえば……」姿月は背伸びをすると、その艶めいた真紅の唇を深雲の耳元に寄せ、吐息を吹きかけるようにじらす。「斯礼が十人束になってかかってきても、私たちの敵じゃないわ」囁きながら、深雲の腕に絡めていた手をするりと落とす。柔らかく滑らかな掌が、逞しい胸板を這うように伝い落ちていく。その掌は火種を持っているかのように、触れる場所すべてに熱い波紋を広げ、やがて深雲の腰にあるベルトのバックルを滑り、下腹部へと潜り込んでいった……「くっ……」深雲は耐えるように眉間に皺を寄せた。姿月の巧みな挑発によって、燻っていた怒りの炎が別の邪な炎へと変質し、急速に下腹へと集まっていく。その瞬間。脳裏に突如として景凪の顔がフラッシュバックした。そして、あの斯礼の嘲るような声――耳障りな『ハニー』という呼び名が。深雲はギリリと奥歯を噛み締めた。俺だって、あいつをそんな甘ったるい名前で呼んだことすら無かったというのに!だがあの堅物で保守的な景凪は、電話越しにそれを拒絶もしなかった!……あの二人は、まさか俺の知らないところで、本当にデキていたのか?嫉妬が津波のように押し寄せ、欲情の炎で一気に蒸し上げられる。「きゃっ!」深雲の反応を楽しんでいた姿月だったが、不意に手首を強く掴まれ、そのまま背後のデスクへと乱暴に押し倒された。デスクの角が背中に食い込み、鋭い痛みが走る。悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、深雲が獣のように覆いかぶさり、その唇を塞いだ。これまでの愛撫とは違う。今の彼は何かを発散するかのよう
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第423話

桐谷然からの電話を受けたのは、景凪がオフィスの自席に戻った直後だった。「え?」と眉をひそめ、景凪は受話器の向こうの然に確認する。「深雲が急性の胃痛で緊急入院……?それで今日は出廷できないってこと?」「ああ」と然はため息交じりに答える。「私としても無駄足になっちまった。裁判所が再調整することになる」本音を言えば、深雲の悔しがるツラを拝んでやろうと思っていたのだが。チッ、残念だ。敏腕弁護士は心底残念そうである。景凪は知っていた。深雲の胃が以前から弱っていることを。かつての彼女は、彼の体調を気遣い、薬の調合から公私にわたる雑務の処理に至るまで、彼に負担をかけまいと奔走したものだ。ストレスや過労で胃病が悪化しないように、感情を逆なでしないよう細心の注意を払ってきた。だが今となっては、そんなこと知ったことではない。「分かったわ。次の期日が決まったら教えてちょうだい。よろしくね、桐谷先生」「了解」と然は請け負う。「安心してください、穂坂さん。雲天グループの最強弁護団をバックにつけていない鷹野深雲なんて、私にかかれば赤子の手をひねるようなもんですから」景凪はふっと微笑んだ。「ええ、あなたの実力も人柄も、誰よりも信頼しているわ」「……」その賛辞はあまりに重く、然のわずかに残された良心がチクりと痛んだ。彼は適当な言葉でお茶を濁し、通話を切った。クライアントへの報告は済んだ。次は、真の雇い主たる「オーナー」への報告だ。然は状況を簡潔にまとめ、黒瀬渡へ長いメッセージを送信した。その頃、渡は自身のオフィスにいた。天井高10メートルという規格外の空間。三方の壁には巨大な壁画が飾られているが、渡の背後にある重厚な銅張りの壁には、ただ一つ、十字架が掲げられていた。その十字架には、両手を広げ受難を受けるキリストの像。そのキリストを背負うように、渡は椅子に深く身を沈めていた。長い脚を無造作に投げ出し、気だるげにスマートフォンを操作している。刃物のような美貌と、全身から放たれる圧倒的な威圧感。モノトーンを基調とした仄暗い空間の中で、彼だけが刺すような光彩を放っていた。無視することなど許されない。けれど、直視することさえ憚られる。そんな絶対的な存在感が、そこにはあった。広大なデスクの周辺では、幹部たちが凍りついたように息を潜
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第424話

午後の間じゅう、景凪はずっと仕事に追われていた。その最中、鷹野典子から一本の電話が入った。受話器の向こうから聞こえる典子の声は、どこか居心地が悪そうで、申し訳なさげな響きを帯びていた。「景凪、あのね、深雲が胃痛をぶり返して入院しているの。点滴を打ってもまだ痛むようで……以前、あなたが調合してくださったお薬、あれを飲めばすぐに治まっていたのだけれど。それがどういうわけか、今月分が薬局から届いていないのよ」薬局に配送を止めさせたのは、景凪自身だ。代金は返さなくていい。だが、あの薬をこれ以上彼に与えるつもりはなかった。「典子様、ご心配には及びません。深雲の胃の状態は、あの数年間で私が十分に整えておきましたから。今痛みがあるとしても、根幹に関わるようなものではありません。少し辛い思いをするだけのことです」景凪はさらりと言い放った。「我慢なさるようお伝えください」典子は病室のベッドサイドに腰掛け、電話をかけていた。高齢ゆえに耳が遠く、スピーカーからの音量が大きくなっていたため、ベッドで目を閉じて横たわっていた深雲の耳にも、その声ははっきりと届いていた。意識を取り戻していた深雲には、景凪の言葉が一言一句、鮮明に聞こえていた。――彼女の態度は明確だ。もう二度と、俺の生死になど関わるつもりはないのだ。点滴の管が繋がれた大きな手が、じわじわと握りしめられる。チューブの中を血が逆流し始めた。景凪の冷淡な声は続く。「典子様、深雲の胃痛など大したことではありませんわ。子供たちには伏せておいてください。余計な心配をかけたくありませんから」「……」これ以上は耐えられない。深雲はカッと目を見開き、青筋の浮いた手を典子へと伸ばすと、強引に携帯電話をひったくった。「穂坂景凪!」その名を叫ぶだけで胃がキリキリと疼く。腹の底に溜まった業火を今すぐぶちまけてやりたかった。「お前は……」だが、相手は彼に口を開く隙さえ与えなかった。深雲の声を聞いた瞬間、景凪は一方的に電話を切ったのだ。「プー、プー、プー……」無情な電子音が鼓膜を打ち、深雲のこめかみがどくどくと脈打つ。彼は携帯電話を握りしめ、怒りのあまり全身を小刻みに震わせた。傍らで見守っていた桃子は、以前、彼に携帯を叩き壊された経験があるため、即座に大声で注意を飛ばした。「深雲様!それは典子
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第425話

深雲は小さく息を吸い込んだ。「だが、あいつらはお前の本当の子じゃない……」彼女は涙で潤んだ瞳で見上げ、訴えかけた。「あの子たちのためなら、私、一生自分の子供を産まなくたっていいわ!」深雲は激しい衝撃を受けた。まさか姿月が、ここまで自分を犠牲にする覚悟を持っていたとは。「姿月……」「分かってるわ、あの子たちがあなたにとってどれだけ大切か」姿月は深雲の頬を慈しむように撫で、溢れんばかりの愛情を込めて微笑んだ。「あなたの子供は、私の子供よ!私たちが結婚しても、あなたが望まないなら、私は絶対に子供を作らない!避妊手術を受けたって構わないわ!」深雲は感動で言葉を失い、姿月を強く抱き寄せた。彼は目を閉じ、愛おしそうに吐息を漏らす。「お前は、どうしてそこまで馬鹿になれるんだ……」それに引き換え、景凪という女はどうだ。あの冷酷さは、まさに鬼畜の所業ではないか!姿月は彼の胸に顔を埋めながら、勝利の笑みを浮かべていた。しかしその口から紡がれる声は、どこまでも優しく、一途な愛に満ちていた。「あなたのためなら、私、喜んで馬鹿になるわ……」……退勤時間が近づき、景凪は帰りの支度を済ませていた。辰希の友達と初めて会うのだ。良い印象を持ってもらいたいと思い、会社を出る前に化粧室で薄くメイクを直した。事前に配車アプリで呼んでいたタクシーは、彼女がビルを出ると同時に到着した。景凪はドライバーに行き先のレストランを告げる。道中、車窓からディーラーの看板が目に入った。そろそろ自分の車を買おうかと彼女は考えた。移動の不便さを思えば、4、500万円程度の手頃な車がちょうどいいだろう。あの【自渡】という人物から借りている車が8千万円以上すると知ってからというもの、彼女はハンドルを握るたびに冷や汗をかいていた。運転した後は必ず洗車に出し、傷一つつけないよう細心の注意を払っている。確かに金銭的な余裕はできたし、深雲との離婚が成立すれば財産分与でさらに潤うだろう。だが、長年染み付いた倹約の精神はそう簡単には抜けない。祖父の教え通り、お金はもっと価値のあることに使いたいのだ。それにしても、あの【自渡】はいったいどこへ消えたのだろう。景凪は彼とのチャット画面を開き、試しにメッセージを送ってみた。景凪:【お疲れ様です。お忙しいですか?
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第426話

店に着いてから、景凪は呆然とした。エントランスは薔薇のアーチで飾られ、壁一面が深紅の薔薇で埋め尽くされている。むせ返るような甘い香りと演出だ。彼女はスマホを取り出してもう一度住所を確認し、思わず額を押さえた。息子の辰希から位置情報が送られてきた時、店名の頭にある『ジュリエット』という文字しか目に入っていなかったのだ。その後ろにある『ラバーズ・レストラン』というサブネームを完全に見落としていた……ここはA市でもデートスポットとしてトップ3に入る、有名なカップル専用レストランだ。おそらく辰希も店を選ぶ時に見間違えたのだろう。だがここまで来てしまった以上、今さら店を変える時間はない。景凪は覚悟を決めて中に入り、受付で予約番号を伝えた。すぐにスタッフが案内してくれる。「穂坂様ですね。ご予約の個室『熱愛(アムール)』へご案内いたします。仲睦まじい二組のカップルがディナーを楽しむのに最適なお部屋でございます」景凪は「誤解です」と釈明しようとした。だが、スタッフはすでに個室の扉を開け放っていた。深紅の薔薇が描かれた絨毯。フレンチスタイルの窓際に設置された長方形のテーブル。窓の外にはハート型の噴水。部屋全体がロマンチックで耽美な装飾に包まれ、壁にはなんとキューピッドのレリーフまで彫られている。景凪は絶句した。「……」辰希とその友達の二人、つまり子供たちと食べるだけなら何とか我慢できたかもしれない。けれど今日は、素性も知らない【自渡】という人物も呼んでしまったのだ。初対面の食事でこのシチュエーションは、さすがに気まずすぎて無理がある。景凪は即座にキャンセルを決断した。「すみません、やっぱり個室はやめておきます。ホールの席に変えていただけますか」彼女は恐縮しながら付け加える。「五名です」五名?デートスポットに奇数?スタッフも百戦錬磨の接客業だ。顔色一つ変えず微笑んで応対する。「承知いたしました。ちょうどホールに一卓空きがございます。ただし、ホールのお席ですと、今夜のイベントに自動的にエントリーされることになりますが、よろしいでしょうか」「構いません」あのキューピッドに見下ろされながら食事をするよりは、何だってマシだ。ホールの席を確保すると、景凪は辰希にメッセージを送った。席が変わったこと、店に入ったらホール
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第427話

辰希は首をすくめ、無邪気で愛らしい笑みを貼り付けた。妹の清音の真似をして甘えてみせる。「ママー、お腹すいちゃったよ。先にご飯にしよう!」景凪「……」「景凪」テーブルのそばまで来た郁夫が声をかけた。景凪の表情を伺い、その瞳にわずかな陰りを落とす。「僕が来て、迷惑だったかな」「そんなことないわ」と景凪は慌てて手を振った。「ただ、今夜はずっと辰希のお友達――子供が二人来るものだと思っていたから。まさかあなただとは思わなくて。さあ、座って」ホールにはロマンチックな音楽がゆったりと流れ、周りはカップルだらけだ。景凪と郁夫が向かい合って座る状況は、確かに少し気まずいものがある。郁夫はそんな空気を読んだのか、アレルギーや苦手なものがないかを丁寧に尋ね、スタッフを呼んでオーダーを済ませた。辰希は丸くて大きな目をきょろきょろさせながら、密かに観察を続けていた。気配りは……うん、まあまあかな。ママへの態度も悪くないし、オシャレすればそれなりにカッコいいか。隣でカイが目配せをしてくる。頭を寄せ、得意げに押し殺した声で囁いた。「どうよ?ウチの叔父さん、イケてんだろ?」「及第点かな」と辰希は辛口だ。注文を終えた郁夫は、向かいの景凪を見つめた。その瞳にハッとするようなときめきが過り、心からの賛辞を口にする。「今日の君はとても綺麗だ」「あら、ありがとう」と景凪は微笑む。「そうだ、ささやかだけどプレゼントがあるんだ」郁夫は洗練された小さなギフトボックスを取り出し、景凪の目の前へ滑らせた。「離婚成立おめでとう」一目見て高価だと分かる包装だ。景凪はお気持ちだけで十分ですと突き返そうとしたが、郁夫は彼女の考えを見透かしていた。箱の上に片手を乗せ、景凪が口を開くより先に言葉を重ねる。「僕がデザインしたブレスレットだよ。大したものじゃない。これさえ受け取ってもらえなかったら、さすがに僕も傷つくな」その眼差しは、子犬のように寂しげだ。そこまで言われてしまっては、断るのも野暮というものだろう。「分かったわ。じゃあ、遠慮なくいただくわね」景凪は箱を開けた。中には雪柳(ゆきやなぎ)をモチーフにしたブレスレットが入っていた。チェーンそのものがしなやかな枝垂れ柳のデザインになっており、蕾から満開に至るまで様々な表情の小花が、流れるようなラインに沿っ
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第428話

景凪はレストランの喧騒を背に、屋外の駐車場へと足を運んだ。周囲をぐるりと見渡してみるが、それらしき人影は見当たらない。仕方なく【自渡】に位置情報の共有リクエストを送ると、相手は間髪入れずに同期してきた。スマートフォンの小さな画面を頼りに歩き出す。地図上の自分を示す点の向こうから、相手の小さな丸いアイコンもまた、示し合わせたかのようにこちらへ向かって移動している。二つの点が重なろうとしている。あの角を曲がったところだ。景凪は少しばかりの好奇心を胸に歩調を早め、建物の角を曲がった。――だが、そこには誰の姿もなく、ただ夕暮れの風が吹き抜けているだけだった。訝しげに手元の画面に視線を落とすと、いつの間にか相手の位置情報共有が切られている。「なによこれ……どこにいるの」景凪は不機嫌そうに眉をひそめた。からかわれているのだろうか。胸の奥で微かな苛立ちがくすぶり始める。業を煮やして、そのまま通話ボタンをタップする。呼び出し音が鳴るはずだった。だが、そのメロディはスマートフォンのスピーカーからではなく――彼女のすぐ背後から聞こえてきた。息を呑み、振り返る。十メートルほど先だろうか。逆光の中に、背の高い男のシルエットが浮かび上がっていた。燃え盛るような茜色の雲が空を埋め尽くし、その錦を織りなすような圧倒的な夕焼けを背負い、彼は優雅な足取りでこちらへと近づいてくる。景凪はその場で凍りついた。……渡?視線の先で、渡が鳴り続けるスマートフォンを耳に当てるのが見えた。その瞬間、景凪の耳元で呼び出し音が途切れ、代わりに低く艶めいた男の声が響いた。ゆっくりと、噛み締めるように。「景凪、よだれが出てるぞ」「……ッ」我に返り、慌てて指先で口元を拭う。濡れてなどいない。乾いた感触があるだけだ。「渡、あんたね!」彼女は頬を紅潮させて彼を睨みつけた。その憤る瞳の奥で、千々に砕けた夕陽の金粉が鮮やかに踊っている。なんと生き生きとした表情だろうか。渡は瞬きひとつせず、そんな彼女を見つめていた。瞳の奥に滲む切ないほどの懐かしさと愛おしさを、巧みに隠しながら。「どうしてあんたなの?まさか『自渡』って……『自分が渡』ってこと?」景凪はあまりの事態に、思考が追いつかなかった。「俺じゃ不満か」彼は面白そうに眉を跳ね上げる。景凪は息を呑ん
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第429話

「もしもし、郁夫くん?」景凪が電話に出た瞬間、渡は足元の小石を爪先で乱暴に蹴り飛ばした。郁夫、くん?ずいぶんと親しげなこった。「……うん、会えたわ。今戻るから」通話を続けながら、彼女はレストランへと踵を返す。スマートフォンを耳から離した彼女の視界に、半歩後ろをついてくる渡の姿が入った。まるで迷子にならないように母親の後ろをついて歩く子供のように。景凪は思わず足を止めて振り返る。「?」不審そうな視線を受け止め、渡は何食わぬ顔で堂々と言い放った。「なんだ?俺との飯の約束、反故にする気か」「……」なぜだろう。今の渡が妙に……甘えているように感じてしまうのは気のせいか。だが、食事を約束したのは確かに自分だ。景凪は観念し、覚悟を決めて彼を連れてレストランへと戻ることにした。入り口にいた二人のスタッフは、目を丸くしていた。先ほど出て行ったばかりの美女が、十分もしないうちに別の超絶美形な男を連れて戻ってきたのだ。その表情といったら、筆舌に尽くしがたい。もし視線が音を発するなら、二人のアイコンタクトはモールス信号のごとく激しい交信を行っていただろう。景凪はいたたまれなくなり、片手で顔を隠しながら早足で通り過ぎた。郁夫のルックスも十分に目を引くものだったが、渡という規格外の魔性の男が現れると、もはや反則レベルだ。レストラン中の視線という視線が、まるで磁石に吸い寄せられるように彼に注がれている。辰希は物々しい顔つきで渡をじっと観察すると、愛用の手帳を取り出した。これはダメ出しできない。顔だけなら満点の10点だ。だけど、イケメンすぎるのも考えものだ。顔がいい男なんて、信用できないに決まってる。辰希は少し考えてから、渡の点数欄の横に「マイナス3点」と書き加えた。郁夫は渡が姿を現した瞬間、すでに席を立っていた。景凪の紹介を待つまでもない。彼は複雑な色を瞳に宿し、硬い声で問いかけた。「黒瀬社長……景凪の招待客というのは、あなただったんですか」渡は悠然と微笑む。「奇遇ですね、小池社長。実に早い再会だ」どうやら二人は顔見知りのようだ。それも、ただならぬ雰囲気で。「二人とも、仕事で付き合いがあるの?」景凪が尋ねると、郁夫は渡を直視したまま淡々と答えた。「ああ。今日の午後、黒瀬社長とは実りある会議を終え
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第430話

郁夫はテーブルの下で拳を握りしめ、骨が軋むほどの音を立てた。……この、ふざけた声。渡の挑発的な態度は、彼の記憶の底にある出来事を呼び起こした。あの晩、景凪の電話に出た男の声。あれは、まさか……郁夫の瞳孔が微かに収縮する。彼は渡の笑みに隠された冷徹な敵意を受け止め、静かに切り返した。「その祝福、受け取るわけにはいかないな。この先の関係がどうなるか……それは誰にも分からないことだから」いくら鈍感な景凪でも、二人の間に流れる不穏な空気には気づく。どう見ても険悪だ……景凪は頭痛を覚え、一刻も早くこの食事を終わらせて帰りたくなった。やがて料理が運ばれてくると、幸いにも食事自体は穏やかに進行した。郁夫は甲斐甲斐しく景凪のスープをよそい、取り皿に料理を取り分けるなど、完璧な紳士としての振る舞いを見せた。さらに、骨をきれいに取り除いた魚の皿を、そっと彼女の前に差し出してくれた。さすがにこれは、親切すぎるんじゃ……景凪が遠慮しようとしたその時、彼はもう一皿、同じように骨を取った魚を辰希の前にも置いていた。どうやら単なる気遣いらしい。同席した女性と子供に対する、紳士的な振る舞いの一環なのだろう。ならば、と景凪が箸を伸ばしかけた瞬間――横から伸びてきた渡の手が、その皿をまるごと横取りした。「?」景凪が目を丸くする。渡は彼女には目もくれず、平然とした顔で郁夫に礼を言った。「小池社長、俺が魚の骨を取るのが大嫌いだって、よくご存知で。気が利くなあ」「??」景凪は唖然とした。この男、本当に……!ようやく食事が終わり、これで解放されると景凪が安堵したその時――突然、ホール全体の照明が落とされた。ステージ上に、司会を務めるフロアマネージャーが姿を現す。「さあ、親愛なるゲストの皆様。これよりイベントタイムの始まりです!スタッフからご案内があったかと思いますが、ホール席のお客様は全員参加となります。イベント終了まで、お席を立たないようお願い申し上げます」「……」景凪は絶句した。すっかり忘れていた。カップル限定レストランのイベントに参加させられるなんて。今さら逃げ出すわけにもいかず、覚悟を決めてその場に留まるしかなかった。幸い、最初のゲームはそれほどハードな内容ではなかった。スタッフが各テーブルにアンケート用紙
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