All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 411 - Chapter 420

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第411話

深雲たちの一行も、こちらへと歩み寄ってきた。研時が耳障りな声で嘲笑う。「おや、穂坂さん。二人で来て二人で帰るってことは、今夜は『収穫』なしかい」「あんたね……」凛が色めき立つが、景凪は背後でそっと彼女の手を押し、落ち着くよう合図を送る。研時という男がいかに狭量で執念深いか、彼女はよく知っている。凛が自分のために彼と揉めて、損をする必要はない。だから、ここは自分で片付ける。景凪は研時の悪意に満ちた視線を真っ向から受け止めると、優雅な笑みを浮かべて、ゆっくりと彼を頭のてっぺんから爪先まで品定めした。「陸野さんも見た目は立派な人間なのに、お里が知れるような口をお利きになるのね。私たちは会社の食事会でしたけど、私が何を収穫する必要があるの?……ああ、もしかして陸野さんは、夜はホストクラブか何かで『収穫』を得るお仕事にお忙しいんですか。だから他人も自分と同じ同業者に見えてしまうのね」「穂坂景凪……っ!」図星を突かれたかのように、研時の顔色は青ざめたり赤くなったりと忙しない。その横で、潤一がふっと声を漏らして笑った。彼は思い出したのだ。彼女をどこで見かけたかを——会員制クラブ『夜響』だ。着飾った女たちが美しさを競い合う中、彼女はただ一人、椅子に座って黙々とフルーツを食べていた。あの時の景凪は地味で薄汚れていて、確かに目立たなかった。だが、まさかこれほど美しい顔立ちをしていたとは……彼にとって美の基準であった姿月でさえ、今の景凪の前に立つと、途端に色褪せて見えた。一方、深雲はといえば、彼女がいたのはただの会社の食事会だったと聞き、胸中に渦巻いていた正体不明のイラ立ちは不思議と霧散していた。何か声をかけようと口を開きかける。だが突如、隣にいた潤一が一歩進み出て、景凪に向かってスッと手を差し出した。「穂坂さん、でしたね?児玉潤一です」景凪は無言で彼を見つめる。訝しげな視線を向けるだけで、その手を取ろうとはしない。見るからに上流階級の男だが、深雲や姿月の連れである以上、関わり合いになる価値など皆無だ。「行きましょう、凛さん」景凪は凛の手を引いて歩き出し、深雲の横を通り過ぎざまに低く警告した。「これ以上つきまとうなら、警察を呼ぶから」空を切った手を引っ込めながらも、潤一は気にした様子もない。去りゆ
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第412話

深雲は会社には向かわなかった。車を発進させた彼は、レストランの外周を半周ほど回ったところで、ちょうど大通りへ合流しようとする景凪たちの車を見つけたのだ。今夜はいつもより酒量が過ぎていた。車内の冷房は最大にしているというのに、体内で燻る熱が引かない。飲酒運転などという理性を気にする余裕すらなく、深雲は乱暴にワイシャツの襟元を引きちぎるように緩めた。哀れな第二ボタンが弾け飛び、窓ガラスに当たって乾いた音を立てると、助手席へと転がり落ちた。深雲は、前を走る景凪の乗った車を獲物を追う猛獣のように睨み据えていた。その色気を孕んだ瞳は今、どす黒い感情に支配されている。脳裏にこびりついて離れないのは、あの真紅の残像だ。目障りだ。まるで拭っても落ちない鮮血のように、一日中彼の脳裏をちらついて離れない。個室で見た、彼女のあの晴れやかな笑顔。研時の写真に写っていた、彼女を抱きしめていたあの謎の男。そして——児玉潤一。あの潤一でさえ、景凪に興味を示したというのか?過去十五年間、彼女が自分の周りをうろついていた時は、あんなにも地味で退屈な女だったはずだ。連れて歩くのも恥ずかしいとさえ思っていた。それがどうだ。自分と別れた途端、急にどの男からも求められる存在になったというのか?深雲は苛立ちを抑えきれず、血管を巡るアルコールが全身を焼き尽くすような感覚に囚われていた。前方の信号が赤に変わり、景凪の乗った車が停止線で止まる。すぐ後ろに張り付けば、尾行だと感づかれかねない。深雲はわざと速度を落とし、後続の車に道を譲って車列の間に一台挟んでから、再びその後を追った。信号待ちのわずかな時間に、彼は煙草に火を点ける。深く二度ほど紫煙を吸い込むと、煙草を挟んだ手を無造作に窓の外へと突き出した。表情は険しい。胃がじくじくと痛み、焼けるような不快感がこみ上げてくる。自分は今だに、景凪がどこに住んでいるのかさえ知らないのだ。昨日まで、あの女は俺の法的な妻だったというのに……交差点を挟んだ向かい側。何の変哲もない雑居ビルに見えるが、実はとある会員制クラブの裏口だ。渡がそこから姿を現す。脱いだジャケットを無造作に腕に掛けていた。その後ろから、墨田昭野が悪態をつきながらついてくる。「渡さん、あの野郎マジでふざけてやがる!俺らを
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第413話

「なんなのよ、あいつら!割れ鍋に綴じ蓋って言うか……もう、あのバカップルが結婚しても、子供なんかできなきゃいいのに!」ふと、凛の瞳が悪戯っぽく輝く。「そうだ、もしあのクズ男に子供ができなくなったら、あんたの子が鷹野家の唯一の跡取りってことになるわよね。そしたら旦那はポイ捨てして、莫大な遺産だけ独り占めできるじゃない!最高じゃない、それ!」景凪は苦笑を漏らすしかなかった。娘の清音が姿月に懐いている現状を思うと、そう単純な話ではないのだが。ふと、何気なくルームミラーに目をやった瞬間、深雲の愛車によく似た車体がわずかに顔を覗かせ、すぐに視界から消えたような気がした。景凪は息を呑み、慌てて振り返る。だが、後続車に遮られて何も確認できない。「どうしたの?」様子がおかしいことに気づいた凛が尋ねる。「……ううん、なんでもない。見間違いだと思う」深雲がついてくるはずがない。この道は彼の別荘へ向かうルートではないし、今は姿月と一緒にいるはずだ。きっと考えすぎだろう。景凪はナビを確認する。「凛さん、この先から高速に乗って。そっちの方が早いから」「りょーかい」……深雲はさらにその後方、景凪の乗る車を執拗に追跡していた。時折、わざと前の車を追い越しては、彼女の動向を確認する。景凪たちの車が高速道路へ向かおうとしているのを察知し、彼も車線変更してその後を追おうとした——その時だ。突如、一台のスパイカーC8が轟音と共に横から飛び出してきた。見る者の度肝を抜く鋭いドリフトで車体を反転させると、なんと逆走状態で深雲の進路を完全に塞いだのだ!研ぎ澄まされた刃のようなボディが、獲物を狙う猛獣のごとく距離を詰めてくる。数億円は下らないであろうスーパーカーが放つ爆音は、さながら獣の咆哮だ。その威圧的な存在感は、深雲を押し潰さんばかりの殺気を放ち、常軌を逸した傲慢さに満ちていた。スモーク越しに運転手の顔は見えない。だが、ハンドルを握る人間に尋常ならざる狂気が宿っていることだけは、肌で感じ取れた。「なんだ、あの狂人は……っ!」深雲は眉根を寄せ、クラクションを激しく鳴らす。だが相手は引くどころか、むしろアクセルを踏み込んで正面から突っ込んできた。その挙動には、迷いのない、研ぎ澄まされた狂気が滲んでいる。眼前に迫るスーパーカーのノーズ。衝
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第414話

それでも、この借りは絶対に返してやる。しかし、景凪の車影はとうの昔に高速の車列へと消え去っていた。深雲はやり場のない悔しさを噛み締めながら、忌々しげにハンドルを切り返して帰路につくしかなかった。……凛の車が、景凪をマンションのゲート前まで送り届けてくれた。景凪は凛に手を振って別れを告げ、テールランプが見えなくなるまで見送ってから、敷地内へと足を踏み入れた。「……景凪」横から郁夫の声がした。振り返ると、スポーツウェアに身を包んだ彼が歩み寄ってくる。夜のランニングを終えたばかりなのだろう、額にはうっすらと汗が滲んでいた。鉢合わせてしまった以上、無視するわけにもいかない。景凪は多少の気まずさを覚えつつも、努めて朗らかに挨拶を交わす。二人は同じ棟に住んでいるため、自然と並んで歩く形になった。「適度な運動は体にいいよ」郁夫がさりげなく誘いをかける。「景凪、もしよかったら、今度一緒に走らない?ランニング仲間としてさ。この辺りは環境もいいし、夜走るには打ってつけだよ。近くのジムに行ってもいいし」景凪はやんわりと、だが明確に線を引いた。「ごめんなさい、これからは仕事が忙しくなりそうで。なかなか運動する時間は取れそうにないの。郁夫くんと時間を合わせるのも難しいと思うわ。でも、このマンションには走ってる人がたくさんいるから、きっと気の合う仲間が見つかるはずよ」郁夫は聡い男だ。彼女の言葉に含まれた真意を汲み取れないはずがない。礼儀正しい拒絶。彼に一切の期待を持たせないという意思表示……それどころか、やんわりと突き放されている。郁夫はうつむき、自嘲気味に笑みをこぼした。それでも彼は紳士的な態度を崩さず、頷いてみせる。「分かった。じゃあ、もし時間ができた時や、誰かと走りたくなった時は……その時はまた誘ってよ」エレベーターが景凪の階に到着する。降りようとして、ふと何かを思い出したように景凪が振り返った。そして、真摯な眼差しで郁夫に告げる。「そうだ、もし仕事のことで何か私に手伝えることがあったら、いつでも連絡してね」彼女は続けた。「私、友達が少ないから。だから、昔からの友達は一人ひとり大切にしたいの」郁夫は言葉を失った。……残酷だな。彼女はこうして、自分を「友達」という枠の中に完全に封じ込めようとしている。だが、僕には友
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第415話

一方、景凪は自分が実の息子にデートをセッティングされているなどとは露知らず、帰宅してシャワーを済ませると、すぐさまパソコンに向かって作業を始めていた。児玉潤一。知り合いになりたい相手ではないが、あの整った容姿と全身から漂うオーラには、どこか既視感があった。調べてみると、すぐに彼の正体が判明した。彼は政府高官である児玉彰の息子だが、その背景にある真の権力者は、彼の祖父——『政界のフィクサー』こと、児玉源造である。元は国家の中枢で辣腕を振るい、今は一線を退いたとはいえ、その影響力はいまだ衰えを知らない。政財界を裏から牛耳ると噂される、本物の「怪物」だ。景凪はモニターに映る源造の写真を見つめ、眉をひそめた。「こちらは児玉のおじい様よ。ほら、景凪、ご挨拶なさい」母が笑顔で自分の手を引いた、遠い日の記憶が蘇る。幼い景凪の記憶にあるその人物は、笑わないと恐ろしく威厳があり、謎めいた古老だった。彼が訪ねてくるときはいつもお忍びのように目立たない車だったが、その前後には必ず黒塗りの警護車両が三台連なっていた。家の出入り口のすべてを、屈強なSPたちが固めていたのを覚えている。「おじいちゃま、こんにちは」幼い景凪がたどたどしく挨拶をすると、それまで鬼のように厳めしかった源造の表情が綻び、驚くほど柔和な笑みを浮かべた。「なんとまあ、愛らしい子だ。長楽、この子はお前じゃなく、お前の母さん——百合子(ゆりこ)さんに瓜二つだな」百合子の話題が出ると、源造は部屋に入ってきたばかりの景凪の祖父・益雄を一瞥し、不満げに鼻を鳴らして顔を背ける。益雄の方も負けじと源造を空気のように無視し、仏壇に線香をあげに行った。景凪の記憶では、その後、祖父と源造の二人は連れ立って裏山へ祖母の墓参りへ向かったはずだ。だが、戻ってきた時には祖父ひとりきりで、その顔にはなぜか殴られたような青あざができていた……景凪は物思いを振り払い、画面をスクロールさせる。そこでふと、ある情報に目が留まった。源造の誕生日は来週だ。景凪の頭脳が高速で回転を始める。今夜、深雲と姿月が潤一を接待していたのは、単なる食事のためではない。彼らが児玉家の威光にすがりつこうとしているのは明白だ。ならば、源造の誕生パーティーという絶好の機会を、彼らが見逃すはずがない。景凪は顔
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第416話

雪華はスマホを受け取り、画面に映る景凪の姿を睨め回す。真紅のドレスに映える雪のような肌。その顔立ちは、ぞっとするほど艶めかしく、男を惑わす妖気に満ちている。雪華の瞳から温度が消え、爬虫類のような冷たい光が宿った。「……小娘が。あの早死にした長楽よりも、さらにたちが悪い美貌に育ったわね」「ねえ、お母さん。あいつ、今じゃ次から次へと男をとっかえひっかえしてるのよ。もし本当に強力なパトロンでも見つけたら、絶対私たちに復讐しに来るわ!」雪華は鼻で笑い飛ばした。「馬鹿お言い。どこの名家が傷モノの女を本気で相手にするの?いくら男が群がったところで、所詮は遊び相手よ。まさか、あんな女を正妻にしようなんて物好きな男がいるわけないでしょう」「でも……深雲さんまで最近おかしいの。離婚してからの方が、かえってあいつに興味を持ってるみたいで……」今夜、深雲に置き去りにされた屈辱が蘇り、姿月の胸は鉛のように重くなる。後で清音に電話をして、深雲が自宅にいることは確認したものの、不安は拭えない。もし、深雲の心が再びあの女に戻ってしまったら……「何をそんなに慌てているの」雪華は鼻で笑った。「たとえ要らなくなった犬でも、15年も飼っていれば情が残るものよ。それを他人が撫でていれば、元の飼い主としては面白くない。男の独占欲なんて、所詮はその程度のものでしょう」母親にそう断言され、姿月の胸のつかえが少しだけ降りた気がした。「穂坂景凪なんて取るに足らない存在よ。あの方の傷が癒えれば、あの小娘の命運も尽きるわ」雪華の声のトーンが変わる。「それよりも今は、児玉家とのパイプを太くすることに専念なさい。それに、鷹野深雲という後ろ盾があれば、私たち小林家の地位は盤石になるわ。誰も私たちの出自を疑ったりしない」雪華がこれほど熱心に姿月と深雲の結婚を後押しするのには、理由があった。もちろん姿月が深雲に惚れ込んでいることもあるが、鷹野家はこの街でも指折りの名家であり、その社会的信用は絶大だ。他の旧家が斜陽の一途をたどる中、鷹野家だけは近年、飛ぶ鳥を落とす勢いで業績を伸ばし、資産価値を爆発的に高めている。姿月が深雲と結ばれれば、小林家は「鷹野家の親戚筋」として確固たる地位を得る。そうすれば、あの莫大な資産——元は穂坂家から奪った数兆億円の富も、正当なものとして世間に認めさせる
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第417話

あの男のことだ、怒り狂って西都製薬まで景凪を待ち伏せに来るに決まっている。ならばいっそ、雲隠れして平穏に過ごすに限る。もしここが普通の会社であれば、職場への風評被害や、無関係な同僚を巻き込んでしまうことを危惧して気が引けたかもしれない。だが、現在の西都製薬のオーナーは黒瀬渡だ。ここの警備員たちは皆、その主に似て気性が荒く、仕事の流儀も徹底している。もし深雲が会社で暴れようものなら、警備員たちによって高電圧のスタンガンで制圧され、なす術なく放り出される……そんな光景が目に浮かぶようだった。前回はオフィスの一般エリアまでだったが、今回は研究所の中枢エリアへと足を踏み入れることになる。そのため、車田教授の教え子である瀬尾守が、わざわざ入り口まで出迎えに来てくれていた。案内される道中、守はずっと落ち着きがなかった。会議室に近づくにつれて緊張の色は濃くなり、チラチラと盗み見るように景凪の様子を窺ってくる。景凪は当初、気づかないフリを決め込もうとしたのだが、エレベーターの中は四面鏡張りだ。さすがにこの狭い空間で無視し続けるのも難しい。「守くん、私になにか言いたいことでもあるの」守は図星を突かれたのか、気まずそうに鼻の頭をこすった。彼が何か言いかけた、その時――エレベーターのドアが開いた。そこに立っていた見覚えのある長身に、景凪は息を呑んだ。「文哉先輩」ドアの向こうにいたのは、蘇我教授の一番弟子であり、景凪にとっては兄弟子にあたる錦野文哉だった。文哉がここにいるということは、つまり……景凪はハッとして目を見開き、会議室の方角を見やった。……今度は、景凪が動揺して手を震わせる番だった。文哉は同情するように、ポンと景凪の肩を叩く。「私たちも車田教授に呼ばれて来たんだ。まさか君も来るなんて知らなくてね。蘇我先生、中でカンカンになってるよ。私はちょっと車に忘れ物を取りに行ってくるから」景凪は絶句した。文哉は「健闘を祈る」と言わんばかりの目配せを残して去っていく。これほど緊張したのは初めてかもしれない。掌にじっとりと汗が滲む。景凪は覚悟を決め、硬い表情で会議室へと歩を進めた。「おいおい蘇我、いい歳して学生相手にいつまでへそを曲げてるんだ」中から、車田教授の呆れたような声が漏れ聞こえてくる。「昔はあれほど景凪くんを目
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第418話

教え子の姿を認めた瞬間、蘇我の瞳が揺れた。だがそれも一瞬のこと。すぐに冷徹な仮面を被り直し、視線を外すと、彼女を無視して通り過ぎようとする。彼の後には、一緒に来ていた南野希音と中村鶴真も続く。希音もまた、冷めた目で景凪を無視して通り過ぎた。鶴真だけは心苦しそうな視線を投げかけ、慰めの言葉をかけようか迷ったようだが、結局は諦めて小さくため息をつき、蘇我の後を追った。車田教授も、まさか蘇我がここまで意固地だとは思っていなかったらしい。眉間に皺を寄せて会議室から出てきて、すぐに景凪を慰めようとした。しかし景凪は、乱暴に涙を拭うと、決意を固めたように顔を上げた。彼女は踵を返すと駆け出し、立ち去ろうとする蘇我の前に立ちはだかった。今日、車田教授がわざわざセッティングしてくれたからこそ、こうして先生に会うことができたのだ。もしこのチャンスを逃したら、次はいつ会ってもらえるかわからない。あれから7年が経った……人生において、7年という月日がどれほど重いか。これ以上、無為に過ごすわけにはいかない。蘇我は眉をひそめて彼女を見下ろした。何も言わない。その氷のように冷ややかな眼差しの奥には、ありありと恨めしさが滲んでいる。「先生……」景凪は唇を噛み締め、汗ばんだ掌を強く握りしめた。彼女は師の前にその身を小さくして、絞り出すように言った。「先生は、かつて私にこう教えてくださいました。科学研究は何よりも重い、個人の感情ごときを仕事に持ち込んではならない、と。私たちの研究は、社会のため、人々の未来のためにあるのだから、と」蘇我は厳しい表情を崩さず、老いの影が差した瞳でじっと景凪を睨みつけた。凍てつくような声が響く。「今さら綺麗事を言うな!私の教えを本当に金科玉条のごとく守っていたなら、なぜ七年前にあんな愚かな決断をした!?お前というやつは、まったく……」言葉の途中で、景凪はその場に崩れ落ちるように膝をついた。コンクリートの床に両手をつき、その手の甲に額を押し当てる。それを見た車田が、ぎょっとして声を上げた。「おい、これ……」土下座――それは彼女ができる最大限の謝罪であり、敬愛する師に対する礼儀でもあった。大学時代の数年間、蘇我は彼女にあらゆる知識を授け、導いてくれた。その期待と恩義を裏切ったのは、他ならぬ自分自身だ。「
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第419話

景凪が全神経を集中させて議事録をまとめていると、不意に一本の万年筆が伸びてきて、彼女が算出したデータの一箇所をトン、と指し示した。「ここだ、計算し直せ」すぐ傍らで、蘇我の声がした。景凪は弾かれたように顔を上げる。その瞳がキラキラと輝いた。「先生、やっと口をきいてくれましたね」会議の間じゅう、蘇我はほとんど聞き役に徹していたし、景凪が発言する際も、まるで彼女など存在しないかのように視線を合わせようとしなかった。景凪はてっきり、プロジェクト期間中は完全に無視されるものだと覚悟を決めていたのだ。蘇我は相変わらず仏頂面のまま、持っていた万年筆でコツンと景凪の頭を叩いた。「注意散漫だ。幾ら初期段階の推算とはいえ、このレベルのデータ誤差は最小限に抑えんか」「はい、おっしゃる通りです」景凪は素直に頭を下げた。その光景を見ていた文哉たち三人の弟子は、思わずといった様子で目を見交わし、感慨深げな笑みを漏らす。やはり、先生にとってこの末の妹弟子は、いつだって特別に甘く、愛おしい存在なのだ。ふと、景凪は蘇我が握っている万年筆に目が留まった。見れば見るほど、見覚えがある。ハッとして、彼女は目を輝かせた。「先生、その万年筆……私が大学二年の時に、初めて貰った研究奨励金でプレゼントしたものじゃありませんか」景凪の胸に熱いものがこみ上げる。「まだ使ってくださっていたんですね」蘇我はふいと顔を背けた。「自惚れるな。たまたま手元に筆記用具がなくて、出がけに適当に掴んできただけだ。あとで外に出たら捨ててやる」「いいですよ。捨てたらまた、新しいのをプレゼントしますから」景凪は口元を綻ばせた。蘇我は憎々しげに彼女を睨めつける。「誰に似たんだか、図太くなりおって」彼は背を向けて出口へと歩き出したが、ドアのところで一度立ち止まった。振り返り、さも何でもないことのように尋ねる。「本当に、別れたんだな」「はい」景凪は力強く頷いた。蘇我の眉間の皺がわずかに緩んだ気がした。だが、すぐにまた厳しい表情に戻り、低い声で釘を刺す。「もしまたあんな男と縒りを戻しでもしたら、その時は……」「絶対にあり得ません」景凪は真剣な眼差しで答えた。「先生、七年前に諦めた道を、もう一度歩き出したいんです」「……」蘇我は景凪を見つめた。かつての幼さは消え、苦難を経て
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第420話

雲天グループ。社長室。重厚な扉が乱暴に押し開けられ、次の瞬間、凄まじい勢いで叩きつけられた。ドォォン!!天井が震えるほどの爆音が響き渡る。海舟は深雲の後ろをついて部屋に入ったが、道中ずっと息を潜めていた。今日の株主総会は、本来ならば深雲にとって晴れ舞台になるはずだったのだ。彼は壇上で雄弁に語り、国家プロジェクトである「グリーンウォール計画」との提携を発表し、さらには来月にも大手重工メーカーの航空プロジェクトとの契約をまとめ上げると豪語した。その手腕と将来性に、株主たちは皆、納得しかけていた。ところが――従兄弟の斯礼が邪魔に入ったのだ。斯礼はまず、「グリーンウォール計画」との提携といっても、雲天グループが担当するのは末端のどうでもいい部分に過ぎず、プロジェクトの核心には一切触れていないことを暴露した。言い換えれば、我々は代替可能な下請けに過ぎず、向こうの都合でいつでも切られる立場なのだと。さらに大手重工メーカーの航空プロジェクトに至っては、まだ何も決まっていない絵空事、完全なはったりだと断罪したのだ。深雲と斯礼の対立は今に始まったことではないが、今日の斯礼は周到に準備を重ねていた。彼は深雲の最近のスキャンダル――不倫疑惑、離婚騒動、ナイトクラブでの暴力沙汰、そして長年のパートナーであった西都製薬との契約打ち切り――これら全てを列挙し、深雲を能無しの経営者として糾弾したのである。そして最後に、斯礼は本性を現した。「鷹野深雲を役員会から追放する」という動議を提出したのだ。その時点では、深雲はまだ余裕だった。斯礼に賛同する株主たちの持ち株比率を合わせても、彼を追い出すには到底足りないからだ。しかし、まさかまさかの事態が起きた。斯礼の手札に、あの景凪が持っていたはずの「8パーセントの技術株」が加わっていたのだ……!この決定的な8パーセントが加わったことで、斯礼の発言権は逆転した。こうして深雲は、ようやく手に入れたはずの取締役の座を、無惨にも奪われたのだった。「あり得ない、ふざけやがって!」怒りに任せて、深雲は手近にあったグラスを壁面のミラーウォールへ思い切り投げつけた。ガシャンッ!!金縁の豪奢な鏡に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。無数の破片に映り込んだ深雲の顔は、怒りで歪み、どの角度から見ても鬼気迫る形相
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