All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 441 - Chapter 450

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第441話

復縁?姿月の瞳に冷たい光が宿る。もちろん、そんなチャンスをあの女に与えるつもりは毛頭ない。一方、車を降りたばかりの景凪の元に、兄弟子の文哉から電話が入った。文哉「景凪ちゃん、こっちが渋滞に巻き込まれてね。到着が十分ほど遅れそうだ。君はもう着いたかい」景凪「ええ、今降りたところです。じゃあロビーで待ってますね。揃ってから上に上がりましょう」文哉「分かった」景凪は電話をしながら、雲天グループの正面玄関へと歩き出した。姿月と真菜の姿は、ビル前のモニュメントの陰になっており、景凪は全く気づいていない。真菜は軽蔑の色を露わにした。「ほんと図々しい女ね。昨日の夜はあんたの小池先輩に色目使ってたくせに、今日は今日で社長狙い?……ああ、分かった」真菜はさも自分は鋭いと言わんばかりに推測を口にする。「昨晩、小池さんにあっさり振られたのよ、きっと!だからすぐ手のひら返して、社長に復縁を頼みに来たに決まってるわ」姿月の顔色がわずかに曇った。昨晩、本当に郁夫に拒絶されたのは、自分の方なのだから。「そういえば姿月、昨日の夜、小池さんと連絡とった?」真菜は好奇心いっぱいに尋ねた。「なんであの人、穂坂なんかと親しげにしてたわけ」「……」この馬鹿、本当に口数が多いんだから!姿月はさらりと答えた。「先輩ならちゃんと説明してくれたわ。景凪さんとは青北大学時代の同窓生だったらしくて、偶然あっちで会ったんですって。あの人、昔から誰にでも優しい紳士だから、少し立ち話をしただけよ」「なーんだ、そういうことか」と、真菜は納得したように頷く。その時、姿月の鋭い視線が、こちらへ近づいてくる深雲専用の公用車を捉えた。彼女は真菜を置き去りにし、満面の笑みで駆け寄る。車内の深雲もまた、姿月の姿を認めていた。彼は運転手に地下駐車場の入り口で停めるように指示し、自分だけ先に降りる。姿月はその場に立ち、歩み寄ってくる深雲を熱っぽい眼差しで見つめた。今はちょうど出社時間。周囲には雲天グループの社員たちがひっきりなしに行き交っている。誰もが目にすることだろう。「社長が地下駐車場のエレベーターを使わず、わざわざ小林秘書のために車を降り、彼女と一緒に歩こうとしている」あの姿を。姿月の虚栄心は、これ以上ないほど満たされた。「深雲さん」
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第442話

姿月の胸は歓喜に震えた。人前で深雲の方からこんな大胆な行動に出るなんて、初めてのことだ!「ええ」彼女はとろけるような笑みを浮かべ、深雲の胸に身を寄せる。「……」景凪は眼球が汚染された気分だったが、深雲に伝えておくべき用件があるのは確かだ。「ちょっと待って、深雲」彼女は呼び止める。深雲の瞳に宿る嘲笑の色が濃くなった。その長身がぴたりと止まり、ゆっくりと振り返る。こちらへ歩み寄ってくる景凪を見下ろした。「まだ何か言いたいことでも?『元』妻さん」深雲はことさら「元」という言葉を強調してみせる。離婚を切り出したのはあっちだ!何度も譲歩してやったし、彼女のために父ともやり合った。鷹野家の嫁の座を捨てたのは、他ならぬ彼女自身だ。外の世界で通用しなくなったからって、今さら縋ってくるなんて……ふん、そう簡単に許してやるものか!景凪は深雲を値踏みするように上から下まで眺め、口を開いた。「病気も治ったみたいだし、これでまた出廷できるわね。桐谷弁護士から日程調整の連絡が行くはずよ。今度こそ、体調管理は万全にお願いするわ。虚弱体質なら、早めに治しておいたほうがいいんじゃない」「……」その言葉の棘に、深雲は気づいた。俺が姿月を抱き寄せたせいで、嫉妬してやがるな。彼は冷ややかに眉を寄せる。「養育権のことなら、諦めるんだな。お前に勝ち目はない」「社長」と、姿月が口を挟んだ。「代表団の到着も間近です。部外者は排除しておいたほうが。お客様の目に触れては体裁が悪いですから」言い終えるや否や、彼女は入り口から大股で入ってくる集団に気がついた。その中心にいるのは、まさに車田宗明教授ご本人だ!深雲はすぐさま海舟に小声で命じる。「すぐに景凪を追い出せ」「……」海舟は困り果てながらも、意を決して声をかけた。「穂坂さん、『グリーンウォール計画』の代表団がいらしたんです……とりあえず、僕の執務室でお待ちいただけますか」しかし、景凪は優雅に微笑み、ロビーの隅にあるソファに腰を下ろしただけだった。「焦らないで。ちょっとしたショーが始まるわよ」「……は?」海舟はきょとんとする。深雲は颯爽と歩み寄り、車田教授を出迎えた。「車田教授!」深雲は礼儀正しい笑みを浮かべ、恭しく一礼すると、両手で教授の手を握りしめる。「ようこそ雲天グルー
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第443話

文哉は深雲を見下ろした。眼鏡の奥の瞳には、隠しきれない嫌悪感が漂っている。深雲は文哉を知らないかもしれないが、文哉にとってこいつは忘れようにも忘れられない男だ。あの日々、景凪が口を開けば「深雲、深雲」と……耳にタコができるほど聞かされた相手なのだから!文哉は皮肉たっぷりに笑みを浮かべた。「鷹野社長ならよくご存知のはずですよ。長年、あなたの背中を追いかけ続けた人の名前を、まさかお忘れじゃありませんよね」「……」深雲の胸中にあった一縷の望みは、粉々に砕け散った。喉に何かが詰まったようで、声が出ない。文哉はふいに深雲の背後を見やり、手を上げて呼びかけた。「穂坂班長、どうしてそんな端っこに?みんな待ってるんだよ」「……」深雲は動揺を隠せないまま、ぎこちなく、ゆっくりと振り返る。景凪はロビーの片隅に座っていた。静かで、落ち着いていて、その佇まいは昔と何ら変わらないはずなのに……なぜか、彼女だけがスポットライトを浴びているかのように輝いて見えた。――それは、その場にいる全員の視線が彼女に注がれているからだ。もう彼女は、かつて誰にも見向きもされなかった「背景」ではない。立ち上がった景凪がこちらへ歩み寄ってくる。一歩ごとにその姿は鮮明さを増し、まばゆいほどのオーラを放つ。深雲の瞳の奥で、何かが轟音を立てて崩れ落ちた。あろうことか、あの車田教授までもが、自ら道をあけ、彼女をその中心へと招き入れたのだ!景凪は凍りついたままの深雲を見て、ふわりと微笑んだ。そして自ら手を差し伸べる。「鷹野社長。改めまして、ご挨拶申し上げます」彼女の声は穏やかだが、確かな自信に満ちていた。「『グリーンウォール計画』A班責任者、穂坂景凪です」「……」深雲は自分が今、どんな顔をしているのか分からなかった。無理にでも笑みを作ろうとしたが、顔の筋肉が強張って、どうしても口角が上がらない。景凪が……俺のクライアントになっただと!?全身が氷漬けにされたように動かない。ようやく衝撃から立ち直り、現実を受け入れかけて、震える手で彼女の手を握り返そうとしたその時――景凪は、すっと手を引っ込めた。握手を拒まれた深雲を置き去りにし、彼女は涼しい顔で姿月に視線を向ける。「小林秘書。会議室へ案内してくれるかしら」「は……はい、穂坂班長。こちらへどうぞ
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第444話

時折手を挙げて説明を遮り、鋭い質問を投げかける。その声は落ち着いていて、かつ鈴を転がすように澄んでいて心地よい。発言の中身も的確で澱みなく、彼女が口を開くたび、その場にいる全員が惹きつけられずにはいられなかった。深雲は、景凪の正面に座っていた。弄ばれたことへの怒りはすでに鎮まっている。会議中、彼は必死に自制心を保とうとしたが、どうしても景凪から目を逸らすことができなかった。スクリーンの淡い光が、彼女の横顔を照らし出す。仕事中のあいつが、こんなに綺麗だったなんて……まるで彼女自身が発光しているかのようだ。考え込むように眉をひそめる仕草さえ美しく、何気なく額の髪をかき上げる動作には、どきりとするような色香が漂う。深雲は喉の渇きを覚え、つばを飲み込んだ。慌てて視線を外し、誤魔化すように手元の水を口に含んだ。「……」部屋の隅に追いやられた姿月は、その一部始終をはっきりと見ていた。ギリギリと奥歯を噛み締め、掌に食い込むほど強く握りしめたせいで、新調したばかりのネイルチップが折れそうだ。やっぱり、あいつ……わざとだわ!これほど巧妙に仕掛けてくるなんて、やっぱり深雲を取り戻すつもりなのよ!絶対に、あの女の思い通りになんてさせてたまるもんですか。姿月は音もなく裏口から会議室を抜け出すと、父の克書に電話をかけた。「お父さん、調べてほしい人間がいるの!大至急お願い!」……会議は一時間半近くに及び、短い休憩を挟んで、次は雲天グループの工場視察へと移ることになった。車田教授は別の用事があるため、ここで退席する。教授を車まで見送り、戻ろうとした希音の前に、姿月が立ちはだかった。「南野副班長」姿月は恭しく、柔らかな笑みを浮かべてファイルを差し出す。「私が今回A班に配属されたのは、穂坂班長が私を辱めるためだということは承知しています。ですが、私なりに真剣に準備してまいりました。現在A班が直面している核心的な課題に対する改善案です。ぜひご一読ください」希音は姿月を一瞥し、無表情のままファイルを受け取った。パラパラと数ページめくるうちに、冷ややかだった表情が少し和らぐ。そこには、わずかだが称賛の色が浮かんでいた。「これ、あんたが作ったの?」「はい」と、姿月は堂々と答える。「なかなかやるじゃない」滅多に
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第445話

「誤解しないでください。私はただ純粋に、あなたの能力は穂坂班長にも引けを取らないと感じただけです」姿月は半歩近づき、そっと希音の腕に手を添えた。希音は視線を落としたが、今回はその手を払いのけなかった。これは明らかに、ある種の同意を示しているサインだ。やっぱり、狙いは間違ってなかった!希音は目を細めた。その瞳は冷徹で、鋭く光っている。「あんた、私を利用して穂坂を潰そうって魂胆でしょう」希音は腕に置かれた姿月の指を一本ずつ引き剥がした。「他人の褌で相撲を取ろうなんて、随分な言い草ね。小林さん、自分が賢いとでも思ってるわけ」姿月は少しも動じることなく、余裕の笑みを浮かべた。「利用だなんて人聞きが悪いわ。私たちは、互いに利益をもたらすパートナーになれると思うんです」そう言いながら、携帯を取り出し、希音に数枚の写真を見せた。「これ、さっき下りてくる前に給湯室で見かけたんです」画面には、景凪と文哉が写っていた。二人の距離は近く、親しげに見つめ合って笑っている。希音の唇が引き結ばれた。その表情に浮かんだ嫉妬の色を、姿月は見逃さなかった。口角が微かに上がる。会議中から、希音が文哉に向ける視線がただならぬものだと気づいていたのだ。やっぱり、私の読み通り!「南野副班長。今の穂坂班長は離婚してフリーの身です。職場であの人と四六時中一緒にいたら、何が起きても不思議じゃありませんよね」姿月は希音の肩に手を置き、さらに甘い毒を囁く。「仕事でも出し抜かれ、想い人まで奪われる……そんなの、あなただって耐えられませんよね」「……」希音は押し黙った。希音の心が揺らいでいるのを察した姿月は、焦って答えを求めたりはしなかった。瀟洒な桐箱と共に自分の名刺を希音の手に押し付ける。「よくお考えになってからでも遅くはありません。ほんの心ばかりの品です。うちのコレクションの一つで、市場には出回らない物ですから」言い残して、姿月は背を向けて去っていった。その後ろ姿を見送ってから、希音は手元の桐箱を開けた。中には透明度の高い、飴色に輝く琥珀の瓢箪が収められている。一目で高価だと分かる代物だ……希音は瓢箪をつまみ上げ、しげしげと眺めると、唇の端に意味深な冷笑を浮かべた。くるりと回れ右をして建物の外へと向かう。監視カメラの死角となる、人通り
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第446話

景凪はページをめくった。確かに希音の言う通りだ。この提案書の内容は、姿月の実力を遥かに超えている。「調査対象は絞り込めるはずです。車田教授に報告して、早急に特定してもらいましょう」「分かった」二人はオフィスに戻ることにしたが、景凪が先にその場を離れた。エレベーターを降りて数歩進んだところで、不運にも深雲と鉢合わせてしまう。またか……うんざりした景凪は、冷たい顔で彼を無視して通り過ぎようとした。だが、深雲はその大きな体で彼女の行く手を塞ぐ。景凪が怒声を浴びせようと口を開きかけた瞬間、彼が先に言葉を発した。「清音からの伝言だ」娘の名を聞いた途端、景凪の険しい表情がいくらか和らぐ。深雲は携帯を取り出し、午前中に桃子から送られてきた数枚の写真を見せた。画面の中では、小さな女の子がスカートの裾をちょこんと摘んで、お姫様のようなお辞儀のポーズをとっている。彼女が身につけているのは、昨晩、景凪が選んで贈ったあの服だった。景凪の表情がふわりと崩れた。愛おしさのあまり、画面の中の娘の可愛らしい頬に、思わず指先で触れてしまう。「センスは悪くないな。あの子、すごく気に入ってたぞ」深雲が静かに言った。景凪の瞳がわずかに陰る。どんなに服を気に入ってくれても、あの子が私に写真を送ってくれることはないのね……それはつまり、実の母親である自分より、小林姿月の方がまだ、あの子の心に近い場所にいるということだ。「あの葉っぱ、受け取ったから」不意に、深雲が意味深につぶやいた。景凪はすぐには理解できず、きょとんとする。「は?」深雲の瞳がまっすぐに景凪を捉えている。熱を帯びたような、じっとりとした視線だ。かつては、彼にこんな風に見つめられるだけで、頬を染めて胸を高鳴らせていたものだ。だが今は――数秒の沈黙の後、景凪は唐突に吹き出した。「まさか、辰希が持ち帰ったあの落ち葉を、私からのプレゼントだとでも思ったわけ」深雲が無言で肯定するのを見て、景凪はさらに声を上げて笑った。その笑声に含まれた強烈な皮肉に、深雲の顔色がみるみる青ざめていく。彼は眉間に皺を寄せた。「おい、どういう意味だ」景凪は本当におかしくてたまらず、目尻に涙が滲むほどだった。指で涙を拭い、笑いを収めると、彼女はまるで宇宙人でも見るような目で深雲を見つめた。
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第447話

急いで署へ駆けつけた景凪は、警官が口にした「事情が込み入っている」という言葉の真意を目の当たりにすることになる。留置されている四人の襲撃犯たちは、それぞれ負傷してはいたものの、外傷そのものはさほど深刻には見えなかった。異様だったのは、その精神状態だ。彼らは何らかの強烈なショックを受けたようで、目を見開き、まるで天敵に怯える小動物のように過敏な反応を見せていた。留置場に誰かが近づくたび、彼らはガタガタと激しく震えだし、譫言のように繰り返し叫ぶのだ。「知らない、俺は本当に何も知らないんだ……」「自首する、自首するから!もう勘弁してくれ……」「助けて、誰か助けてくれぇ!!」その狂乱ぶりをガラス越しに見つめ、景凪は微かに眉をひそめた。この状態は、明らかに尋常ではない。極限まで痛めつけられ、精神が崩壊している――誰かの手によって、徹底的に。事件を担当するのは、須藤有志(すどう ゆうし)というベテラン刑事だった。須藤は景凪に紙コップの水を差し出しながら、呆れたように説明を始めた。「この四人はね、指名手配犯なんですよ。それが自分から通報してきて、居場所を教えて……警察に『助けに来てくれ』と懇願したんです」自ら口にしていても滑稽な話だと、須藤は苦笑する。「助けに、ですか」「ええ。誰にやられたかは口を割りませんが、連中、足元をコンクリ漬けにされてましてね。下半身が埋まった状態から掘り出すのに、我々も骨が折れましたよ」「……」裏社会の同士討ち……あるいは、誰かが私刑リンチを下したのか。景凪が思考を巡らせていると、須藤が一転して表情を引き締め、本題に入った。「穂坂さん。六年前、ご主人の鷹野深雲氏が拉致された際、あなたが身代金を持って単身乗り込んだ事件……覚えていますか」景凪は小さく頷く。「ええ、覚えています」あの後、長い間悪夢にうなされた。夢の中で、自分の両手はいつも鮮血に染まっていて……須藤は深刻な面持ちで続けた。「当時、拉致を首謀したリーダー格――あなたが片目を潰した『金山九蔵』ですが、奴は依然として逃亡中です。今回の四人は逃走中に金山と接触し、手下になったと供述しています」「……」「今回の襲撃も金山の差金です。奴は戻ってきている。あなたへの復讐のために……ただ、こいつらも金山の現在の居場所までは吐きませんで
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第448話

「わかっています。ありがとうございます、須藤さん」パトカーはマンションのゲート前まで彼女を送り届けた。警官に礼を述べ、景凪はエントランスへと歩を進める。その背中を、路肩に停まった目立たない黒塗りのセダンの中から、じっと見つめる視線があった。黒服の男がスマートフォンを取り出し、どこかへ報告を入れる。受話器を握るその袖口には、黒瀬家の家紋が鈍く光っていた……自宅に戻った景凪は、照明もつけずにソファへと倒れ込んだ。静まり返った室内には、家電が発する微かな電流音だけが響いている。その瞬間、疲れと孤独、そしてじわじわと這い寄る恐怖が、潮のように押し寄せてきた。景凪は膝を抱え、自身の身体を守るように小さく丸まった。バッグから取り出したのは、かつて母がくれた琥珀の瓢箪。それを胸に強く押し当てると、幼い頃に戻ったような錯覚を覚えた。母の腕の中こそが、世界で一番温かく、安全な場所だったからだ。あの頃は、祖父もいた。執事の佐久間さんはよく素敵なハーモニカを吹いてくれたし、料理係の秋子さんは元ダンサーで、四十を過ぎてもその身のこなしは美しく、踊る姿は軽やかな燕のようだった……けれど、あの家は差し押さえられ、家財道具はすべて外へ放り出された。あの日、穂坂家は一夜にして崩壊したのだ……閉じた瞼の隙間から、音もなく涙が零れ落ちる。景凪はクッションに顔を埋め、声を押し殺して泣いた。あと四日。児玉源造の祝賀パーティには、何があっても潜り込まなければならない。景凪は掌の中の瓢箪型の琥珀を、指が白くなるほど強く握りしめた。底に刻まれた『凪』の文字の凸凹が、皮膚に食い込む。骨の髄まで浸食する憎悪に、喉が焼けるようだった。「お母さん、言うこと聞けなくてごめんなさい。私、小林の人間が死ぬほど憎い。全員地獄に送って、あの世でお母さんに詫びさせてやる」その時、場違いな着信音が静寂を切り裂いて部屋に響いた。景凪は乱暴に涙を拭うと、画面を確認して一瞬動きを止める。通話ボタンを押した。「もしもし、渡さん」電話の主は黒瀬渡だった。渡は、彼女の声に含まれた異変を即座に聞き取ったようだ。少しの沈黙の後、問う。「泣いているのか」「ううん、ただ喉の調子が悪いだけ」景凪は咄嗟に嘘をつき、照明のスイッチを入れるために身を起こした。「どうかしたの?」
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第449話

この男、本当に面の皮が厚い。景凪は黙々と匙を動かし始めた。こちらの様子が見えているのかいないのか、渡の方からは時折衣擦れの音が聞こえるだけで、会話らしい会話はない。カメラのアングルが固定されているせいで、何をしているのかまでは分からなかった。「渡さんは、食べないの?」景凪がたまらず尋ねると、「さっき済ませた」とだけ返ってきた。「そっか」しばらくの間を置いて、渡が口を開く。「美味いか」「うん、すごく美味しい」どれもこれも、景凪の好物ばかりだ。渡は本当に自分のことをよく理解しているのかもしれない。でなければ、どうして毎回こうもピンポイントで、自分の好きなものばかりを用意できるのだろう。「渡さん」「ん?」短く鼻にかかった単音節が返る。微かに眠気を含んだその声は、無性に艶っぽく響いた。「どうして私がこれ好きだって、わかったの?」一瞬の沈黙の後、彼は鼻で笑った。「俺がわざわざ自分で買いに行くとでも?部下に見繕わせただけだ」景凪「……」それもそうだ。今回は、自分のうぬぼれだったらしい。食事を終え、景凪は手早くテーブルを片付け、ゴミを分別して捨てた。戻ってくると、ビデオ通話はまだ繋がったままだったが、今度は渡の輪郭すら画面から消えている。「渡さん?」様子を伺うように名を呼んだ。フレームの外から、渡の声が返る。「ん」何か作業でもしているのだろうか。「他に用事がないなら、切るね」「景凪」男の低く魅力的な声が、彼女の名を呼んだ。「俺が教えたことを忘れるな。誰かに罵られたらその口を裂き、殴られたら腕をへし折れ。それでも勝てなければ……」「あなたに言いつける」景凪は言葉を引き取り、音もなく微笑んだ。渡がくぐもった笑い声を漏らす。続いて、押し殺したような咳込みが聞こえた。「上出来だ。食い気味に答えられるようになったじゃないか」「風邪ひいたの?」「少しな」彼は否定せず、潔く二度ほど咳をして見せた。「風邪薬のせいで眠い。切るぞ」「わかった。おやすみなさい、渡さん」彼女の柔らかな声色は、静まり返った寝室にゆっくりと波紋のように広がっていく。「おやすみ、景凪」通話が切れた。部屋は再び、死のような静寂に包まれる。渡の大柄な身体は、ソファに埋もれていた。照明の下、その暗赤色のソ
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第450話

警察からの連絡で、血塗られた六年前の記憶が呼び起こされたせいだろうか。その夜、景凪は悪夢を見た。夢の中の自分は六年前と同じ、身代金の詰まったバッグを提げて、金山九蔵との取引現場へと足を踏み入れていた。深雲を解放してくれと、彼女は懇願する。次の瞬間、場面が切り替わる。悪臭を放つ獰猛な男が、彼女に襲いかかり衣服を引き裂こうとする。現実の記憶では必死の抵抗ができたはずなのに、夢の中の彼女の手首はねじ上げられ、無残に折られてしまう。絶望に支配され、助けを求めて泣き叫ぶ彼女の視界に、ふと人影が現れた。血に飢えた獣のような気配を纏い、近づいてくる男――黒瀬渡だ。彼は片手で金山の頭を力任せに押さえつけると、もう片方の手に握った鋭利なナイフで、ためらいなくその喉笛を搔き切った。鮮血が噴き出す。返り血を浴びながら、渡はただ景凪を見つめ、静かに言った。「教えたはずだ。勝てない時は、俺に言いつけろと」ハッとして、景凪は目を見開いた。同時に、目覚ましの電子音が鳴り響く。身を起こしてこめかみを軽く押さえながら、彼女は思わず失笑した。なんてデタラメな夢だろう。まさか渡が出てくるなんて……最近、彼がやけに優しくしてくれるから、こんな間の抜けた夢など見てしまったに違いない。まさか、彼が本当に助けに来てくれるなどと期待しているわけでもあるまいし。そんな自意識過剰にはなりたくない。黒瀬財閥の御曹司――たとえそれが非嫡出子であっても、その肩書きは天へと続く梯子のようなものだ。今の渡は、ピラミッドの頂点に君臨する存在。自分とは住む世界が違いすぎる。彼の気まぐれな戯れを、真に受けるほど愚かではない。鷹野深雲との結婚生活で、彼女は血の代償を払い、命の半分を失うほどの教訓を得たのだ。「真心」などという不確かなものを、二度と信じる気にはなれなかった。冷水で顔を洗い、景凪は完全に意識を覚醒させた。今日は日曜日。待ちに待った、祖父の益雄に会える日だ。彼女は念入りに支度を整え、あの琥珀の瓢箪を首にかけた。エレベーターを降りた直後、スマホが震える。郁夫からのメッセージだった。「起きた?朝ごはん何食べたい?」という文面と共に、カフェのショーケースに並んだ色とりどりのパンやサンドイッチの写真が送られてきている。景凪は【結構です】と
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