Tous les chapitres de : Chapitre 471 - Chapitre 480

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第471話

深雲の記憶にある「穂坂家」は、病に伏した彼が治療のために紹介された、古びた診療所に過ぎなかった。問診を行う場所が、そのまま薬草の匂い立つ調剤室を兼ねているような、時代に取り残された古い家屋。店員を雇う余裕さえないのか、薬の調合から煎じる作業まで、すべて益雄が一人でこなしていた。そして、そこにいた少女……十二歳の頃の景凪。深雲は、彼女のそんな姿をもう長い間、思い出すことさえなかった。十数メートル先、源造の傍らに立つ今の彼女を、会場中の視線が追っている。彼女には臆する様子など微塵もない。泰然としたその佇まいは、彼の記憶にある「いつも物陰に立ち、控えめな微笑みを浮かべて彼に喝采を送っていた」景凪とは、あまりにもかけ離れていた。深雲の喉筋が、微かに動く。あの数年間、彼女は本当に自らのすべてを投げ出し、彼を押し上げるための「踏み台」に徹していたのだ。誰にも知られることのない、彼の背後の書き割りのように。しかし今、景凪は降り注ぐ詮索と侮蔑の視線を跳ね返すように口を開いた。その声は、一音一音が透き通るほど明確で、確信に満ちている。「源造様、身に余るお言葉をいただき感謝いたします。皆様、初めまして。私は穂坂景凪と申します。我が家系を遡れば、拠点は神凪(かなぎ)。四十年前、この街へと移り住んでまいりました」景凪が幼い頃に聞いた話では、一族のルーツは神凪にあるという。ただ、祖母が病に倒れ、その最期が近づいた頃、祖父・益雄はすべてを捨てて神凪を離れ、この街でひっそりと暮らすことを選んだのだ。『神凪の穂坂家』――その名が告げられた瞬間、若い世代は首を傾げたが、年配の賓客たちの表情は劇的に変わった。「神凪の穂坂家といえば……かつてこの国一の名家と謳われた、千年の歴史を持つ学者の家系であり、医薬の大家ではないか。だが、当時の当主が突然資産を整理して神凪を去り、それきり行方知れずになったという……」「まさか、この街に移り住んでいたとは!」「ということは、あの穂坂景凪こそが、その名門の正当な、唯一の跡取りということか……」その時、克書が耐えかねたように勢いよく立ち上がった。その眼差しは実の娘に向けるものとは思えないほど凶悪で、まるで不倶戴天の敵を射抜くかのような憎悪に満ちていた。「源造先生」 克書は大股で源造のもとへと歩み寄り、沸き起こる
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第472話

克書は、景凪という存在そのものを、この世から完全に抹殺しようとしているのだ。「パパの可愛いお姫様、世界で一番幸せにしてあげるからね……」「甘凪、誕生日に何をお願いしたんだい?パパにだけ教えてごらん。パパと景凪は、世界一の親友だろう?」「ええーっと、家族みんなでずっと一緒にいられますように。パパとママが、ずーっとわたしのことを大好きでいてくれますように!」陽だまりのような記憶の中で、父は笑いながら彼女を抱き上げ、高く放り投げては、折れそうなほど優しく受け止めてくれた。「ああ、もちろんだよ。パパもママも、永遠にお前を愛しているからね……」景凪は、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめた。美しかった思い出が鮮明であればあるほど、目の前の現実は、ただただ、残酷で、吐き気がするほど皮肉だった。源造は鋭い眼光を克書に向け、低く、威圧的な声で問うた。 「……では、穂坂さんが詐欺師だとでも言うのか」「その通りです、源造先生!皆様、よくお聞きください。この穂坂景凪という女は、稀代の詐欺師です!」克書は景凪を指差し、激しい言葉を浴びせる。「恥知らずな女め。亡き妻・長楽の娘だ、義父・益雄の孫だと嘘を並べ立て……源造先生、あなたの亡き人への想いに付け込み、同情を引こうだなんて。万死に値する暴挙ですぞ!」克書の決然とした態度に、会場の空気は再び揺らぎ始めた。実の父親が自分の娘を間違えるはずがない――誰もがそう思うからだ。しかし、ここに一人だけ、景凪が嘘をついていないことを確信している男がいた。深雲だ。もしこれが偽りだというのなら、彼女は十代の頃からこの日のために計画を立てていたとでも言うのか?彼女にそんな野心があったとは到底思えない。深雲の乾いた唇が微かに動き、何かを言いかけようとした。その瞬間、姿月がなみなみと注がれた茶を彼の口元へ運ぶ。「深雲さん、唇が乾いているわよ」慈愛に満ちた瞳で、姿月は囁いた。「少しお飲みなさい。あんな策士の女のことなんて、お父さんが解決してくださるわ。私たちの仕事に影響なんて出させないから、安心して」「……」姿月は彼の瞳の奥をじっと見据える。「深雲さん、私たちが今日ここへ来た目的を忘れたわけじゃないわよね?今は斯礼があなたに代わって理事になっていますけど、児玉おじい様の宴に招かれる機会さえ得られていない。今こそ
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第473話

源造はしばし考え込んだが、やがて重々しく頷き、無言の許可を与えた。そして、傍らに控える潤一へと視線を投げる。祖父の意を汲んだ潤一は小さく会釈し、足早に会場の裏口の方へと向かった。十分とかからずに、潤一が戻ってきた。その後ろには、両手を後ろ手に荒縄で縛り上げられた、色黒で屈強な若い男が引き立てられてくる。「離せ!俺に触るな!」明浩は怒りを露わにして吠えた。「言っただろう、俺はうちのお嬢様を待ってただけだ!なんの権利があってこんな真似しやがる!」激しく抵抗する明浩だったが、ふと顔を上げた瞬間、その視界に克書の姿が入った。途端、ワナワナと全身が震え出す。屈強なボディガード二人がかりでも抑えきれないほどの殺気が、その体から噴出した。「小林克書……ッ!てめぇ、よくものうのうと生きてやがったな!親父の足を奪ったこと、忘れたとは言わせねぇぞ……ぶっ殺してやる」ボディガードの一人が特殊警棒に手をかけ、源造が不快そうに眉を寄せたその瞬間、景凪の鋭い声が響いた。「その人に触らないで」叫ぶより早く、景凪は矢のように飛び出し、明浩を背に庇うように立ちはだかる。黙って見ていられなくなった昭野も、ガタリと椅子を蹴って立ち上がり、景凪の加勢へと動いた。「話を聞くのはいいけど、手荒なマネはやめてくれないかな。景凪ちゃんは僕の連れなんだ。もし彼女に指一本でも触れたら、相応の覚悟をしてもらうよ」さすがに墨田家の威光は無視できない。昭野は兄の景舟ほどの器量はないと囁かれているとはいえ、腐っても墨田家の次男坊だ。ここが児玉邸であっても、無下には扱えない重みが彼にはある。自分の前に立ちはだかる景凪の姿を見て、明浩は悔しさと感動で胸を熱くした。彼は必死に弁解する。「お嬢様、俺は本当に、児玉家には近づいていません。言われた通りの場所で待っていただけなのに、いきなり十人ぐらいの男たちに囲まれて……」「わかってるわ」景凪は振り返り、明浩を安心させるように微笑みかけた。「あなたのせいじゃない」今日彼を連れてきたのは、ある推測を確かめるためだった。どうやら、その読みは当たっていたらしい。「景凪、これは一体どういうことだ。その男は何者だ」源造の声が重く響く。もはや愛称である『甘凪ちゃん』ではなく、他人のように『景凪』と呼び捨てにするその響き。それは取りも直さ
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第474話

「なんだと!」なおも食ってかかろうとする明浩を、景凪は静かな眼差しで制した。会場の空気は、完全に克書へと傾いていた。彼は周到だった。景凪が自らの正体を証明するために用意していた道を、ことごとく塞いでしまったのだ。二十年もの歳月をかけて、証拠となるものはすべて克書の手で闇に葬られ、些細な綻びさえも塗り固められていた。克書は冷ややかな目で景凪を見据え、その瞳の奥で嗜虐的な光をぎらつかせた。私と張り合おうなど、百年早い。彼の中で、かつての妻・長楽の面影が蘇る。美しく、無垢で、そしてどうしようもなく愚かだった女。人の心は変わらないと、男の愛は永遠だと信じて疑わなかった、哀れな女。フン、と鼻で笑う。脳裏に浮かぶ長楽の淑やかな笑顔が、克書の歪んだ優越感に油を注ぎ、さらにどす黒い炎を燃え上がらせていく。景凪にとどめを刺すべく、克書は余裕綽々といった態で、さらなる提案を口にした。「もちろん、皆様の疑念が晴れないようであれば……私は一向に構いませんよ。やましいことなど何一つありませんから。この、私の娘を騙る詐欺師とDNA鑑定を行ってもいい。さあ、このお嬢さんにその度胸があるかどうか」長楽の亡骸はとうに掘り起こされ、灰と化している。生前、穂坂家を守ることもできなかったあの女は、死してなお、自分の娘を救うことなどできはしないのだ。それを聞いた景凪の瞳がわずかに揺れ、伏せられた長い睫毛がその真意を覆い隠す。「景凪」源造が躊躇いがちに声をかける。「……鑑定を、受ける気はあるか」「はい」景凪は、間髪入れずに即答した。その隣で、克書の耳障りな嘲笑が漏れる。源造の指示で、すぐに担当者が呼ばれ、景凪と克書それぞれの血液サンプルが採取された。「この二つの検体は、わしの責任において、警察病院の鑑識課へ直接持ち込ませる」源造は、もはや二人とも信用してはいなかった。真実が明らかになるまで、彼が信じられるのは自分自身だけだった。克書は慇懃な笑みを浮かべた。「すべて源造先生のご判断にお任せします」「往復の時間を考慮して、結果はおよそ三日後にわしの手元に届くはずだ」源造は景凪を一瞥し、次いで克書を見据えた。「二人とも、この三日間はA市を離れぬよう願いたい」「もちろんですとも」克書は余裕たっぷりに頷く。「後ろめたい人間だけが真実から逃げ
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第475話

三日待てば、白黒はっきりするだろう。源造は気を取り直した。立ち話が過ぎたせいか、足がまた痛み始めている。椅子に腰を下ろすと、彼は会場全体に響く声で言った。「皆様、お見苦しいところをお見せして申し訳ない。わしの個人的な事情で、貴重な時間を取らせてしまった。さあ、わし如きの誕生祝いになど構わず、料理を楽しんでいただきたい。乾杯」解放された明浩に、景凪は小声で何かを指示した。「え、お嬢様……」明浩は驚いたように顔を上げたが、景凪は静かに、だが有無を言わせぬ調子で繰り返す。「いいから、言われた通りにして」「……承知いたしました」明浩が去った後、景凪は何気なく克書のテーブルに視線をやった。そこには、何事もなかったかのように娘の姿月に料理を取り分け、慈愛に満ちた父親を演じる克書の姿があった。白々しい……景凪は心の中で冷たく嘲笑い、自分の席に戻ろうとした。だが、源造がそれを引き止める。「景凪、君はわしの隣に座りなさい」真偽はさておき、彼女の立ち居振る舞いに、源造は確かにかつて愛した人の面影を見ていた。景凪は一瞬動きを止めたが、すぐに従順な笑みを浮かべて席に着いた。しかし食事が始まって間もなく、源造の顔色が徐々に青ざめはじめた。しきりに足をさすり、痛みに耐えているのが見て取れる。「おじいさん、部屋へお送りします」すぐさま潤一が立ち上がるが、源造は手でそれを遮った。「よい、お前は客人のもてなしを続けなさい」執事が素早く近寄り、車椅子を用意して源造を乗せようとする。その時、景凪が箸を置いて静かに声を上げた。「源造様、もし差し支えなければ、おみ足の状態を拝見させていただけませんか」源造は少し驚いたように彼女を見つめ、しばし考え込んだ後、小さく頷いた。景凪は席を立ち、車椅子を押す執事の後について会場を後にする。その一部始終を見ていた小林親子は、明らかに不快そうな表情を隠そうともしなかった。潤一は去り行く景凪の背中を目で追っていたが、不意に視線を戻すと、克書がこちらへ歩み寄ってくるのに気づいた。「潤一さん、今日はもう失礼させていただきますよ。家で用事がありましてね。申し訳ないが、お祖父様にもよろしくお伝え願いたい」潤一は表情を変えずに淡々と答える。「お気遣いなく。どうぞお気をつけて」克書と姿月の姿が会場から消
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第476話

本来なら穏やかで控えめに見えるはずの装いだが、彼が着るとそうはいかない。その圧倒的な顔立ちと存在感が、どんなに控えめな服を着ていても、見る者の視線を強引に奪ってしまうのだ。景凪の前を歩く執事は、かつて源造の片腕として現場を仕切っていたというだけあって、筋肉質で背が高い。華奢な景凪の姿は、その広い背中にすっぽりと隠れてしまっていた。だから渡は、最初は彼女の存在に気づかなかった。執事が小走りで駆け寄ってくる。「黒瀬様、もうお着きになられたのですか!夜になると伺っておりましたが」執事は目を丸くした。連絡では、渡の乗る飛行機が到着するのは夕方のはずだった。まさか昼に現れるとは。その少し乱れた装いから察するに、空港に着くや否や、休む間もなく駆けつけたに違いない。「源造様は書斎においでです、ご案内いたしましょう」渡は短く頷いたが、ふと何気ない表情を引き締めた。その視線が、執事の背後数歩の位置に佇む景凪を捉えたのだ。二人の視線が交差する。景凪は珍しく動揺し、居心地の悪さを感じた。彼に聞きたいことは山ほどあったはずなのに、その漆黒の瞳に見据えられた途端、言葉が喉の奥で詰まってしまったようだ。深呼吸をして気持ちを整え、彼の方へ一歩踏み出そうとした、その時。「もう渡兄さん、歩くのが速すぎるよぉ。待って!」背後から、甘えたような高音の声が響いた。景凪が驚いて顔を上げると、フランス人形のように整った顔立ちの女性が小走りで追いかけてきて、馴れ馴れしく渡の腕に絡みついた。景凪は思わず視線を伏せた。渡はさりげなく、しかし拒絶の意思を明確にして腕を引き抜く。「ちゃんと歩け」「小松原様、いらしていたのですね」執事がその女性を見るなり、最敬礼に近い丁寧さで声をかけた。一枚の笹の葉が、ゆらりと舞い落ちて景凪の靴に乗る。彼女はそれを爪先で軽く蹴飛ばした。この一本道に四人は少し手狭だ。視界の端に、外へ通じる脇道が見えた。「執事さん、お見送りは結構です。黒瀬さんと小松原さんをご案内して差し上げてください。私はこれで失礼します」景凪は執事に一礼すると、二人とは目を合わせずに背を向け、脇道へと早足で歩き出した。なぜだろう、脳裏にあの時の渡の言葉がリフレインする。「好きじゃない」と言った、あの一言が。渡は遠ざかっていく景凪の
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第477話

木漏れ日が降り注ぐ中、渡は陽光を背に立ち、静かに景凪を見下ろしていた。秀でた眉骨が落とす陰影の底で、その漆黒の瞳はただ彼女だけを映していた。まるで彼の視界には、彼女以外の何ものも存在しないかのように。その瞬間、景凪の脳裏に反射的に深雲の姿がよぎった。彼もまた、美しい瞳を持っていた。真っ直ぐに見つめられると、自分だけが愛されているのだと錯覚してしまうほど、残酷なまでに美しい瞳を……冷水を浴びせられたように理性が戻る。景凪はハッと我に返り、彼から一歩距離を取った。渡は彼女が身を引いたことに気づいたようだが、焦る様子はない。ポケットに手を突っ込み、それ以上迫ろうとはしなかった。「俺に会いたかったんだろう?」渡の声は穏やかだ。「ようやく会えたわけだが……何か言いたいことは?」確かに、彼に聞きたいことは山ほどある。だが、ここは立ち話をするのに適した場所ではない。「……後でお時間ありますか。食事でもご馳走させてください」景凪は真剣な眼差しで言った。もしこの五年間、母の墓を守り続けてくれたのが彼だとしたら……その恩義は、たった一度の食事程度で報いることなど到底できないけれど。その時、渡のポケットで携帯が鳴り出した。彼は画面を一瞥する。景凪は盗み見るつもりはなかったが、近い距離にいたため、視界の端に『小松原茜』という着信表示が入ってしまった。渡は電話に出ることなく、無造作に切断ボタンを押した。「涼しい場所で少し待っててくれないか。すぐに戻る」そう言い残すと、彼は源造への挨拶を済ませるためにその場を離れた。すぐ近くに東屋が見えた。景凪はそこで彼を待つつもりだったが、辿り着く前に自身の携帯が鳴った。親友・千代のアシスタント、咲苗からだ。千代の身に何かあったのかと、胸騒ぎを覚えてすぐに出る。「もしもし、咲苗ちゃん?どうしたの」「景凪さん、助けてください!千代さんが松下監督の映画の主役を降ろされちゃって……あっ、もう!千代さん、飲むのやめてくださいよぉ!」受話器の向こうから、咲苗の悲鳴に近い声と、ろれつの回らない千代の怒号が聞こえてきた。「うるせぇ!アタシはザルなんだよ、これぐらいの水で酔うかっての!」明らかに泥酔している。景凪は表情を引き締めた。「咲苗ちゃん、今どこにいるの?位置情報を送って。すぐ行くから!」
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第478話

そうして千代は、血のにじむような努力の末に、映画祭で最優秀主演女優賞を手にするほどの大女優へと上り詰めたのだ。彼女は本気で芝居を愛している。今回、松下監督が撮る新作映画のタイトルは『THE ACTRESS』。単なるギャラ目当てではない。千代はこの役を心から欲していた。ヒロインの壮絶な生き様に、自分自身の過去を重ねていたからだ。そのために長い時間をかけて役作りもし、オファーが決まった時は景凪も自分のことのように喜んだというのに。まさか契約書を交わす直前になって、太いパトロンがついているという理由だけで、ぽっと出の新人に役を奪われるなんて。事情を聞きながら、景凪の胸にもふつふつと怒りが込み上げてくる。理不尽すぎる。あまりにも悔しい。景凪は、しゃくりあげる千代の背中を優しくさすり続けた。ひっく、ひっくと震える体を抱きしめ、子供をあやすように柔らかな声で慰める。しばらくすると泣き疲れたのか、千代は景凪に寄りかかったまま、静かな寝息を立て始めた。景凪は千代をソファに横たえると、手近にあったブランケットをそっと掛けてやった。一息ついたところで、咲苗に向き直り、ことの経緯を尋ねる。咲苗の口から語られた事実は、あまりに酷いものだった。今回の映画の最大出資者は、女癖の悪さで悪名高い成金の男らしい。名前は権田という。クランクイン前の決起会で、権田は以前から目をつけていた千代に対し、執拗に体を触るなどのセクハラを繰り返していたそうだ。見かねた松下監督が割って入ったものの、やはり出資者の機嫌を損ねるわけにはいかず、強くは止められない。千代はトイレに立つふりをして会場から逃げ出そうとしたが、先回りしていた権田に退路を塞がれた。酒臭い息を吐きかけてさらに過激な行為に及ぼうとする男に、千代の直情的な性格が災いした――彼女は咄嗟に、男の股間へ痛烈な蹴りをお見舞いしてしまったのだ。だが、そこは力関係の非情さだ。千代は悔しさを押し殺して謝罪に向かったが、権田は許すどころか、執拗に酒を強要した。千代は誠意を示すために、吐くまで飲んだというのに……結局、男は最初から彼女を許す気などなく、単に甚振って楽しんでいただけだった。権田は『出資を引き上げる』『警察に突き出す』と監督を脅し、千代の役を自分の愛人にすげ替えてしまったのだという。全てを聞き終えた景凪の腹
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第479話

景凪はこの男が何者かを知らなかったが、見るからに只者ではないオーラと、今まさに沸騰しかけている殺気を感じ取った。彼女は脱兎のごとく駆け寄ると、千代を引き剥がし、咲苗の元へ押しやる。「申し訳ありません!友人がひどく悪酔いしてしまって……クリーニング代、いえ、弁償させていただきますので」景凪は千代をかばうように前に立ち、深々と頭を下げた。景舟の視線が、目の前の女の顔に止まる。金縁眼鏡の奥、琥珀色の瞳がわずかに細められた。――この顔、どこかで見たことがあるな。「墨田さん!」郁夫が大股で駆け寄ってきた。海外にいた頃、郁夫は景舟の会社とビジネス上の付き合いがあり、公式の場で何度か顔を合わせている。片や歴史ある名門一族のトップ、片やテック業界の若き寵児(ちょうじ)。互いに一目置く間柄だ。景舟は郁夫に軽く会釈を返しながら、手際よくジャケットを脱ぎ捨てる。後ろに控えていた秘書の秦野信太(はたの しんた)がそれをさっと受け取り、ためらいもなく近くのゴミ箱へと放り込んだ。「申し訳ありません、墨田さん。彼女たちは僕の友人なんです。実は仕事でタチの悪い男に絡まれて、相当参っていたようで」郁夫はさりげなく横にいるハゲ頭の権田に視線を流し、暗に事情を匂わせる。そして穏やかな笑みを浮かべた。「お詫びします。そのスーツ、一点物のオーダーですよね。よろしければ僕が弁償を……」「些細なことだ。気にするな」景舟は淡々と答え、焦点の定まらない目でふらついている千代をちらりと見やった。彼女なりに失態を犯した自覚はあるらしい。両手を胸の前で合わせ、まるで招き猫のように何度も拝んでいる。景舟は無言で視線を外し、到着したエレベーターへと長い脚を踏み入れた。秦野が後に続く。権田も千代を恨めしそうに睨みつけながら乗り込もうとしたが、秦野に遮られた。「申し訳ありません権田さん。景舟様は次の予定が押しておりまして。悪いですが、次をお待ちいただけますか」「は、はいっ!承知しました!」権田はぺこぺこと卑屈に頭を下げて見送るしかない。エレベーターの扉が静かに閉まり、鏡面仕上げの内壁に景舟の端正な横顔が映り込む。彼はしばし考え込むように沈黙していたが、やがて口を開いた。「秦野。あの女だが……」「先ほど貴方に吐瀉物をかけたのは、鐘山千代です。彼女の父親、鐘山生豪(かね
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第480話

郁夫がその場を離れると、咲苗がこらえきれない様子で声を潜めてきた。「ねえ景凪さん、あの小池さんって人、絶対景凪さんのこと好きですよねぇ?」「変なこと言わないで。昔からのただの知り合いよ」「えーっ。でもすっごくイイ人じゃないですか。ここまでしてくれるなんて」景凪はふと、姿月に対する郁夫の献身的な態度を思い出し、淡々と答える。「そうね。あの人は優しいのよ。……誰に対してもね」景凪と咲苗は千代を支えてエントランスへ向かった。車寄せにはすでに郁夫の車が待機している。三人掛かりで千代をホテルの部屋へ運び込むと、彼女はまだ夢現の状態だ。景凪と咲苗は手際よく千代の服を着替えさせ、化粧を落とし、体を拭いてやった。作業が一段落した頃、郁夫がルームサービスのトレイを持って入ってくる。「酔い覚ましのスープを作ってもらったんだ。これを飲めば少しは楽になるはずだよ」「ありがとう」景凪が受け取ると、郁夫は気遣わしげな視線を残しつつ、礼儀正しく部屋を出て行った。景凪は千代の上半身を抱き起こし、スープを少しずつ飲ませた。飲み終えるとそっと枕に戻し、布団をかけ直す。まだ吐き気がぶり返すかもしれない。景凪はひとまず咲苗をベッド脇に残し、ひとり部屋を出た。改めて郁夫に礼を言おうと思ったのだが、リビングに彼の姿はない。見回すと、テラスに出て電話をしている背中が見えた。邪魔をしてはいけないと思い、景凪はソファに腰を下ろして携帯を取り出す。渡に送ったメッセージにまだ返信はない。源造に引き止められているのだろうか。これ以上重ねて送るのも催促がましい気がして、彼女は指を止めた。「景凪」電話を終えた郁夫がリビングに戻ってきた。景凪は立ち上がり、彼に向き合う。「郁夫くん、今日は本当にありがとう。汚してしまった服だけど、弁償させて」郁夫は困ったように微笑んだ。「いつになったら、僕への他人行儀をやめてくれるんだい」「親しき仲にも礼儀あり、って言うでしょ?友達だからこそ、甘えっぱなしにはできないわ」景凪も冗談めかして笑う。その「友達」という言葉が、郁夫の胸に棘のように刺さる。彼女の眼差しはあまりに真っ直ぐで、そこには一点の曇りも、色恋の情も含まれていない。郁夫は小さく息を吸い込んだ。「景凪……君が離婚したばかりで、鷹野深雲とのことで
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