All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 491 - Chapter 500

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第491話

あの女が本当に自殺なんかするわけがない。桃子ははなから信じていなかった。「ドアを開けろと言ってるんだ」両手が塞がっている深雲が怒鳴る。桃子は仕方なく、渋々玄関のドアを開けに走った。だが、深雲の指示はそれだけでは終わらなかった。「来い、車に乗ってこいつの面倒を見ろ」「……」水なんて飲みに起きるんじゃなかった。桃子は観念し、深雲と共に車に乗り込む羽目になった。姿月は後部座席に寝かせられたが、スペースは限られている。自分の膝に頭を乗せられるのが嫌で、桃子は顔をしかめながら間にクッションを挟んでガードした。本当に意識がないのか、それとも空芝居なのか。桃子が確かめてやろうとこっそり脇の下をコチョコチョしようとしたその時。「桃子さん!」深雲に見とがめられ、鋭く叱責された。その拍子に彼の注意が逸れ、前の車に追突しそうになる。自分の命まで危うくなってはたまらないと、桃子は余計なことをするのを諦めて大人しく座り直した。病院への到着は早かった。深雲は姿月を抱えたまま救急受付になだれ込み、状況をまくし立てた。看護師たちがストレッチャーを持って駆け寄り、すぐに処置室へと運ばれていく。桃子がその背中に向かって声を張った。「先生、念入りにお願いしますよ!胃の中、空っぽになるまで洗わなきゃ!」振り返った瞬間、深雲の凍てつくような視線とぶつかり、桃子は慌てて首をすくめた。「あの、深雲様。家を空けるわけにはいきませんし……そろそろ戻って子供たちについててあげないと」道中、手が必要だったから連れてきたまでだ。深雲としても、これ以上このお節介な家政婦と一緒にいるつもりはない。「さっさと帰れ」とげのある声で追い払おうとするが、桃子は困ったような顔をした。「それが……タクシー呼んでもらえませんかね。携帯も財布も持ってこなかったもので……」「……」まったく、家政婦を雇ったつもりが、これじゃ逆に俺が世話を焼かされている。深雲は深いため息をつきながら、桃子をタクシーに乗せて帰した。一人病院に残された深雲は、しばし考えた末、結局、小林雪華に電話を入れた。姿月の状況を手短に伝え、病院の住所を教える。通話が終わり、廊下の冷たいベンチに腰を下ろすと、一気に疲れが押し寄せてきた。深雲は両手で顔を覆い、深く息を吐き出す。やりきれな
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第492話

病室の静寂が、耳に痛いほどだった。看護師たちが処置を終えて退出すると、ベッドの上の姿月は、拗ねた子供のようにぷいと顔を背けた。「……深雲さん、どうして助けたのよ」湿っぽい、責めるような声が落ちる。「私が死ねば、深雲さんもあんなに苦しまなくて済んだはずだわ。……景凪さんのことが忘れられないんでしょう?だったら私が身を引いて、二人を幸せにしてあげる」深雲は、ずきずきと疼くこめかみを指先で強く揉みほぐした。絶え間ない頭痛が、思考を鈍らせる。「姿月、誤解だ。そんなんじゃない。あいつとは……子供たちの親権について話し合っていただけだ」「弁護士じゃダメだったの!?」姿月がヒステリックに声を張り上げた。「どうしても自分で会いに行く必要があったの?それに……何よあれ。財布の奥に、あんな大事そうに隠して!もう離婚したって言ってたのに、嘘つき!」激情に駆られた姿月の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。深雲は言葉を失った。これに関しては、弁解の余地がない。完全にこちらの落ち度だ。あの写真を財布に入れたのは──ほんの出来心だった。景凪が家を出て行った時、その決別はあまりに徹底していた。自分の荷物は全て持ち出し、持ち出せないものは庭で燃やし尽くしてしまったからだ。彼女は俺に、思い出のかけら一つ残してはくれなかったのだ。「……悪かった。あの写真は、姿月の好きに処分していい。それでいいだろう?」深雲はベッドの端に腰を下ろすと、姿月の頬を濡らす涙を指で拭った。「二度とこんな馬鹿な真似はするな。……わかったか?」泣きじゃくる姿月を見つめながら、深雲の胸に去来したのは、「愛おしい」という感情よりも、深く重い「徒労感」だった。……景凪なら、こんなことはしなかった。あいつは決して、涙を武器にするような真似はしなかった。俺と結婚していた数年間、酷い仕打ちを受けて泣きたい夜もあったはずだ。だが、景凪は俺の前では決して泣かなかった。俺を不快にさせまいと、いつも隠れて想いを押し殺していたのだ。姿月は深雲の身体にすがりつくようにして、その広い胸に顔を埋めた。「深雲さん……やっぱり愛してくれているのね。私のこと、大事に思ってくれているんでしょう?ねえ、そう言って」身体に回された腕が、きつく締め付けられる。それは不安と焦燥に駆られ、確かな答えを求
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第493話

克書が言い捨てて廊下へ出ると、深雲もその後を追うように病室を後にした。静まり返った室内には、雪華と姿月、母と娘だけが残される。「馬鹿な子ねえ。こんな無茶なことまでして……」雪華は心底痛ましそうに呟いた。けれど姿月は、そんな母の心配などどこ吹く風といった様子で、平然と言い放つ。「ここまで来たんだもの。手段なんて選んでられないわ。深雲さんの心を独占できるなら、何だってする」その瞳には、狂気じみた決意の光が宿っていた。雪華は鼻を鳴らし、冷ややかに笑う。「心配ないわよ。あの小娘、源造様の後ろ盾があれば安泰だと思い上がっていたようだけど、自分の首を絞めるだけの愚か者ね」そう言いながら、雪華はバッグから小さな香炉を取り出した。中には見覚えのある、独特な香りの固形香が収められている。「今夜持ってったやつ、あの子たちに使ったんでしょうね?」雪華の声が勝ち誇ったように弾んだ。「私特製の『迷魂香(めいこんこう)』に心理誘導をかけ合わせれば、相手の精神なんて簡単に支配できるんだから」「うん」と姿月は頷く。「清音にはてきめんに効いたわ。私の言うことは何でも聞くし、すぐに眠っちゃった。……でも、辰希は思ったより反応が鈍いのよね」雪華は特に驚く風もなく答えた。「そりゃあ、この催眠法は意志が強い相手ほど効きにくいものだからね。辰希はああ見えて天才児だもの。でも所詮は五歳の子供よ。次はもっと薬の量を増やして、何度か繰り返せばいいだけの話さ」姿月は納得したように頷くと、今度は表情を曇らせ、深雲が景凪に会いに行ったことや、財布に写真を隠し持っていた件を訴えた。ギリ、と歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほど、彼女の顔は憎悪に歪んでいた。「お母さん……あの女、やっぱり生かしておけない。あいつが死ぬのを見届けないと、私の気が済まないわ!」雪華の目にも、ドス黒い憎悪の炎が燃え上がる。油断していたとはいえ、あの小娘に出し抜かれて、あんな大勢の前で恥をかかされたのだ。あのあばずれがのうのうと生きている限り、この胸のつかえは取れやしない。「あと二、三日の辛抱だよ。源造様が『穂坂景凪は詐欺師だ』って確信さえしてくれれば、あんな娘の生死なんて誰も気にしなくなる」雪華は凍りつくような笑みを浮かべ、声を潜めた。「金山の方も手はずは整ってる。あとはタイミングさえ合えば、いつでもあの
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第494話

克書の表情は険しく、その視線は深雲を逃がすまいと絡め取っていた。決断を迫る無言の圧力。煮え切らない深雲の態度に、克書は鼻で笑った。「鷹野君。悪いことは言わんから、よおく考えたまえ。姿月は小林家の大切な愛娘だ。後ろ盾もなく転がり込んできた身寄りのない娘とは違うんだぞ。利用するだけ利用して、娘の青春を搾り取った挙句にポイ捨てなんて真似をしてみろ。その代償がどれほどのものになるか、君に背負いきれるかな?」「穂坂景凪」という名は一言も出していない。だが、その言葉の刃は確実に彼女を指していた。姿月と景凪は違う。天と地ほども立場が違うのだと、克書は残酷なまでに突きつけてくる。かつて鷹野家は、景凪に帰る場所も頼る当てもないことにつけ込んで、彼女を虐げ、その尊厳を踏みにじった。あの頃、渦中にいた深雲は、自分なりにうまくやっているつもりだった。彼女に十分なものを与えていると錯覚していたのだ……「……ご安心ください。姿月に対する責任は、必ず取ります」深雲は絞り出すように答えた。その言葉を聞いて初めて、克書の顔に笑みが戻る。「結構!ならば善は急げだ。明日、ご両親を誘って食事でもどうだ?そこで君と姿月の話を正式にまとめようじゃないか。それが両家にとっても一番いい」明日!?あまりにも急すぎる。だが、今の深雲に拒絶する権利などあろうはずもない。「……分かりました。両親に伝えておきます」「うむ」克書は満足げに頷き、深雲の肩をポンポンと叩いた。「なにせうちは一人娘だからな。君が姿月を娶れば、いずれ小林家の全財産は君たち若夫婦のものになる」それはあまりにも露骨な誘惑だった。姿月と結婚すれば、小林家の莫大な財力と人脈が手に入る。深雲の事業は、今とは比べ物にならない高みへと飛躍することになるだろう。深雲は伏し目がちに、「ありがとうございます」と礼を述べた。「よし。じゃあ、ご家族とよく相談して店を決めてくれ。私は姿月のところに戻るよ」克書はそう言い残して踵を返した。だが、彼はそのまま病室へ戻ったわけではない。廊下の角で立ち止まると、電話をかけながら階段を下りていく深雲の背中を見送った。エレベーターのドアが閉まるのを確認してから、ようやく克書は娘の待つ病室へと足を向けた。ドアを開けると、姿月が待ちかねたように顔を上げた。しかし、深雲の姿
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第495話

「ううん、そのままでいいです。聞かれたらありのまま答えてあげてください。仕掛けが必要になったら伝えますから」「りょうかーい」画面越しに希音が軽く頷いた。一拍置いて、彼女はふと思い出したように話題を変える。「そういえばさ、あんたが大学時代にやってたアルツハイマーの研究、本当に完成したの?最近、業界内でまことしやかに囁かれてるんだけど」希音に対して隠し立ては無用だ。景凪は正直に打ち明けた。「まだなんです。どうしても突破できない壁があって……近いうちに、先生に頭を下げに行くつもりです」「え、じゃああの噂はデマってこと?否定しなくていいの?」「今は泳がせておいてください。もしその件について聞かれても、『よく知らない』って濁しておいてもらえますか?」「意図はよく分かんないけど、オッケー」希音はそれ以上追及せず、話を切り替えた。「そうだ、明日、先生の奥さんの誕生日なのよ。夜にレストラン予約してるから、あんたも来なさいよ。住所送るね」「えっ……私が行ってもいいんでしょうか?」景凪は躊躇した。破門された身で、のこのこ顔を出して良いものだろうか。「来なさいよ。どうせまた怒鳴られるだけだって。面の皮の厚さに関しては、あんたも少しは小林姿月を見習いなさいよ。十分の一でもあれば十分だから」希音の軽口に、景凪の口元が緩む。「あ、もし先生に「誰に住所聞いた」って詰められたら、鶴真先輩のせいにしておいて!あいつ年中怒られてるから、一つくらい濡れ衣着せてもバレないでしょ」「ふふっ、分かりました。ありがとうございます」画面の向こうの希音の明るさに救われ、景凪はようやく笑顔を見せた。希音との通話を終え、景凪は凝り固まった体をほぐすように立ち上がった。水を一杯汲んでひと息つこうとした矢先、悠斗から着信が入る。景凪はすぐに通話ボタンを押した。「もしもし、影山さん」「穂坂さん、お見事です。本当に例のプロジェクトの進捗を探ってくる輩が現れましたよ。ご指示通り、餌を撒いておきました」「ありがとうございます、助かります」景凪の声には、心からの安堵と感謝が滲んでいた。「これくらい、お安い御用です」電話越しにそう答えながら、悠斗はふと社長室の方へ視線をやった。ドアの外には数人の重役たちが、まるで廊下に立たされた生徒のように強張った顔で整列し、呼び出しを待って
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第496話

「穂坂さん、それは……」悠斗は言葉を詰まらせた。プロジェクト終了後の離脱宣言。それはつまり、社長との個人的な繋がりを完全に断ち、赤の他人に戻るという通告に等しかった。「それから、今回のプロジェクトの残金ですが、振り込まなくて結構です」景凪の声は穏やかだが、拒絶の意志は固い。「黒瀬さんへの借りを返すためにも、もし振り込まれても受け取るつもりはありません。黒瀬さんの名前で、しかるべき慈善団体に寄付させていただきます」空白の五年間、渡が母の墓を世話し、守り続けてくれた恩義は計り知れない。景凪は墓地の管理事務所に問い合わせ、その費用を利子込みで算出して渡に支払おうとしたが、彼は頑として受け取らなかったのだ。だから、こうして仕事で返すしかない。ここまで言われてしまっては、一介のアシスタントが口を挟める領域ではない。「……わかりました。社長の意向を確認してみます」「ええ、お手数かけますがお願いします、影山さん」通話を切ろうとする気配を感じ、悠斗はどうしても堪えきれず、タブーとも言える問いを投げかけた。「あの、最後に一つだけ。穂坂さんは、うちの社長に対して、その……少しも、ほんの少しも心が動くことはないんですか?」捨て身の質問だった。だが、景凪の答えを聞くよりも早く、突如として掌からスマホが消失した。誰だ、人の携帯をひったくる命知らずは!「何しや――」怒鳴りつけようと振り返った悠斗は、その言葉を喉の奥で氷漬けにされた。背後に立っていたのは、絶対零度の冷気を纏った黒瀬渡その人だったからだ。「……ッ」悠斗は息を呑んだ。渡は悠斗に用事があり、呼びつけようと出てきたところ、ビクビクと縮こまる重役から「か、影山なら廊下で……」と聞き及んでここまで来たのだ。そして運悪く、あるいは運良く、部下の余計な質問を耳にしてしまったらしい。一方、電話の向こうの景凪は、受話器を持つ主が入れ替わったことなど露知らず、悠斗への返答を思案していた。少しも、か……感謝していないと言えば嘘になる。この目覚め以来、渡はあらゆる面で支えてくれた。ただ優しいだけの言葉などではなく――もっとも、あの人は昔から口が悪くて毒舌家だけれど――その行動は常に誠実で、実利を伴っていた。私が本当に困っている時には、まるで計ったように手を差し伸べてくれる。けれど「と
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第497話

「まさか」景凪は苦笑し、胸の内にくすぶる不安を吐露した。「ただ……会ってもらえるか心配で。この数年、折に触れて挨拶に伺っても、先生の奥さんはずっと門前払いだったから。贈り物だって、受け取ってもらえるかどうか……」「大丈夫よ。人の心は石じゃないんだから、今度こそきっと会ってくれるって」凛の励ましに、景凪は小さく頷いた。「そうだといいけど。でも、たとえ受け取ってもらえなくても、私の感謝の気持ちだけは届けたいから」綺麗にラッピングされた箱を受け取ると、景凪は店員に軽く会釈をし、凛と腕を組んで店を後にした。二人の姿が雑踏に消えるのを見計らったかのように、通りの角から姿月と真菜が姿を現した。真菜は景凪の背中を睨みつけ、大げさに白目を剥いてみせた。「本当、最悪。なんであんな疫病神がうろついてるわけ?」彼女は姿月のため、ここぞとばかりに毒を吐く。「母親があばずれなら、娘も娘よね。あの母親が外で男作って小林おじさんを裏切ったっていうのに、よくもまあ娘の分際で被害者面して児玉家に泣きつけたものだわ。所詮、トンビが鷹を生むわけないのよ。いくら取り繕ったところで、あの女の育ちの悪さは隠しようがないわ!」真菜はご機嫌取りをするように姿月の腕にすり寄り、甘ったるい声を上げた。「ねえ姿月、私もう楽しみで仕方ないの。あなたと鷹野社長の結婚式!……あ、違うわね。もう『鷹野夫人』って呼ぶ準備しとかなきゃ」「鷹野夫人」――その甘美な響きに、姿月の口元はこれでもかと緩んだ。それでも無理に表情を引き締め、あえてしおらしく振る舞ってみせる。「もう、気兼ねしてちょうだい。お日柄だってまだ決まってないのよ?明日の夜、うちの両親とあちらのご両親の顔合わせが済んでからじゃないと」「そんなの時間の問題じゃない。ねえ、鷹野夫人?」真菜のゴマすりも、今の姿月には心地よいBGMだった。二人は景凪と入れ違いに店へ入ると、真菜が商品を物色している隙に、姿月はさりげなく店員へ声をかけた。「ねえ、さっき出ていった女性客のことなんだけど。随分と綺麗な包みを持っていたようだけれど、何を買われたのかしら?」「ああ……あのお客様は、目上の方への贈り物だそうで、特別にラッピングさせていただいたんです」「目上の方?」姿月は片眉を跳ね上げた。あの女に、敬うべき相手なんてまだ残っていたかしら?ま
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第498話

「はあ!?あのクソ野郎!」千代の反応は劇的だった。一瞬にして郁夫のアンチへと変貌を遂げる。「あの泥棒猫の肩持ってるくせに、どの面下げて景凪ちゃんに色目使ってんの!?最低じゃない!ああもう、思い出しただけで反吐が出る!」景凪は苦笑するしかなかった。「根っからの悪人ってわけじゃないんだけど、ただ……」「小林の猫かぶりに騙されるなんて、バカか悪党の二択よ!どっちにしてもロクな男じゃないわ!」千代の怒りは収まらない。「よくも私を利用して、景凪ちゃんの情報を抜こうとしたわね!」マシンガンのように罵詈雑言を連射していた千代だったが、不意に入ったキャッチホンで中断を余儀なくされた。「ごめん景凪ちゃん、マネージャーからだわ。ちょっと出るね」「うん、お仕事頑張って」通話を切り替え、千代は一瞬で借りてきた猫のように声を甘くした。「お疲れ様です、斎藤さん」電話の主は、所属事務所の敏腕マネージャー・斎藤だ。「千代、今夜ちょっと顔出しなさい。これから大物との会食があるの。挨拶して顔を売っておくだけでいいから、今すぐ支度して」「挨拶するだけでいいんですか?」千代は念を押した。斎藤は鼻で笑った。「何よ、まさか墨田景舟様に指名されるとでも思ってるわけ?あの方の資産と容姿なら、超一流のスターたちが男女問わずベッドに潜り込もうと必死なのよ。あんたごときが自惚れないでちょうだい」男女問わず、とは大きく出たものだ。……ん?千代は弾かれたように立ち上がった。「え、斎藤さん、その大物って……墨田景舟のことですか?」脳裏に蘇るのは、先日の悪夢のような記憶。酒瓶で頭をカチ割るつもりが、あろうことか彼の高級スーツにゲロをぶちまけてしまったという、人生最大の汚点。「そうよ。あんただって名前くらい知ってるでしょう?いいから早く来なさい」「あいたたた!お腹が、急にお腹がぁ!」千代は迫真の演技で呻き声を上げた。「すみません、斎藤さん……今夜はどうしても無理そうです。行っても恥をかかせるだけになっちゃいますから……」「……使えない子ね」吐き捨てるように言われ、通話は切れた。椅子にへたり込み、冷や汗を拭う。千代は秘密の「借金返済ノート」を取り出し、最大の債権者のページを開いた。そこには、雑誌から切り抜いた墨田景舟の写真が貼られている。オーダーメイド
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第499話

文慧が取り出したのは、彼女が秘蔵していた鳩の卵ほどもある巨大なレッドダイヤモンドだった。「まあ……!おば様、こんなに高価なものを……」「いいのよ。姿月さん、あなたという存在に比べたら安いものだわ。深雲との結婚式には、ぜひこれを身につけてちょうだい。我が家の家宝だけれど、これからはあなたのものよ」「ありがとうございます、おば様」テーブルに料理が並ぶ前から、和気藹々とした空気の中で挙式の日取りまで決まりそうな勢いだ。その喧騒の傍らで、深雲は静かに座っていた。心底嬉しそうに姿月を可愛がる母の姿を見ていると、ふと、景凪の面影が脳裏をよぎる。比較するまでもない。母が景凪に向けた表情に、愛おしさの欠片でもあっただろうか。笑顔どころか、冷淡な眼差しすら贅沢だと言わんばかりの扱いだった。鷹野家は景凪を冷遇などしていないと自分に言い聞かせてきたが、こうして目の当たりにすると、あれは冷遇どころか虐待に近い仕打ちだったと認めざるを得ない。正体不明の苛立ちが胸の奥から湧き上がってくる。その時、救いの鐘のようにポケットの中でスマホが震えた。海舟からだ。深雲は縋るように端末を握りしめ、立ち上がった。「父さん、母さん、それに小林さんたちも。申しわけない、仕事の電話が入ったので少し席を外します」……『松風の間』。景凪が控えめに扉をノックすると、待ち構えていた希音がすぐに開錠した。足を踏み入れた瞬間、それまで賑やかだった室内の空気がぴたりと止まる。上座には蘇我教授夫妻、そして車田教授の姿があった。景凪は深く頭を下げた。「先生、佳子さん、車田教授。ご無沙汰しております」「……何しに来た」兼従の声には棘があった。「誰だ、場所を漏らしたのは」返答を待たずして、教授の矛先は鶴真に向けられる。「鶴真くん!貴様か、また裏切りおって!」鶴真は濡れ衣に目を丸くした。口の中の前菜すら飲み下せないまま弁明しようとしたが、すかさず希音が飛びかかり、その口を掌で封じた。「もう、鶴真先輩ったら!どうしていつも先生を怒らせるようなことばっかりするんですか!」「……!?」俺じゃねえよ!声にならない叫びを上げる鶴真に、文哉が「ドンマイ」と言わんばかりの憐れみの視線を送っていた。景凪は贈り物が入った手提げ袋を、そっと佳子の前に差し出し
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第500話

景凪は個室を出ると、最寄りのエレベーターホールへと向かった。ちょうどその通路の角は、外へ突き出したテラスになっている。そこで海舟からの電話を受けていた深雲は、手すりに寄りかかりながら煙草に火を点けたところだった。ふと視界の端を、見覚えのある背中が横切る。エレベーターに吸い込まれていくその姿は、景凪そのものだった。「……ッ」驚きに指先が震え、長い灰が手の甲に落ちる。ジリッとした微かな熱さを感じるも、構わず彼は駆け出した。だが一歩遅く、無情にもエレベーターの扉は完全に閉ざされていた。深雲は紫煙を燻らせる手を顔に当て、きつく目元を揉んだ。……幻覚か。景凪がこんな高級料亭にいるはずがない。見間違いに決まっている。「深雲さん」背後から、彼を探しに来た姿月の声がかかる。「お電話、まだかかりそう?父があなたに話があるみたいなんだけど」「いや、もう終わったよ。行こうか」姿月は当然のように彼の腕に絡みついた。深雲もそれを拒みはしない。二人の今の関係なら、こうした親密な振る舞いはもはや自然なことだ。誰に遠慮する必要もない。歩き出しながら、姿月は密かにエレベーターの方角へ冷たい視線を投げた。彼女も当然、景凪の姿を目撃していた。手荷物を抱えて帰るところを見ると、きっと蘇我教授にこっぴどく追い返されたに違いない。姿月の口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。身の程知らずが。郁夫を抱き込んでA班のリーダーに納まったからって、私の頭上に立てるとでも思った?教授に取り入りさえすれば、私がプロジェクトの核心メンバーになることなど造作もない。そして景凪が何らかの『トラブル』で失脚すれば……そのリーダーの座、私が頂くことも不可能じゃないのよ。……エレベーターを降りると、エントランスで待機していた二人の女性スタッフが、ある一点を食い入るように見つめているのが目に入った。その瞳は完全にハート印になっている。「嘘、やばくない?モデル?それともアイドル?」「こっち来る!待って、無理、かっこよすぎて気絶しそう……あんな人になら、貢いで破産してもいい!」必死に声を抑えているつもりだろうが、興奮がダダ漏れだ。そこまでの美形?景凪は少し興味をそそられ、彼女たちの視線の先を追ってみた。だが、次の瞬間、踵を返して逃げ出したくなった。貢いで破産してもいいとま
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