All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 531 - Chapter 540

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第531話

ヴィラの庭は今、かつて景凪が植えた黄色の薔薇で埋め尽くされている。定期的に庭師が入っているため、手入れは行き届いていたが、ここ最近の深雲は多忙にかまけて、ろくに目を向けることさえなかった。夕暮れの光の中、無数の薔薇が風に揺れている。「ねえ深雲。あなたがチューリップを好きなら、私たちの新居の庭にはチューリップをたくさん植えましょうか?」かつて、そう無邪気に笑いかけてくれた彼女は、もういない。彼女の眼差しから愛おしさは消え失せ、底知れぬ無関心だけが残された。「深雲。私が一番好きな花、知ってる?黄色い薔薇よ」知らなかった。彼女が俺の人生に現れ、俺を愛し続けた十五年もの間、俺は彼女が何を好むのか、気にも留めていなかったのだ。そんな些細なことなどどうでもいいと思っていた。結婚という結果さえ与えてやれば、それで十分だと。「深雲様」背後から桃子の声がした。彼女は両手を揉み合わせながら、不安そうに、しかしいら立ちを隠せない様子で問いかけてきた。「あの女……小林姿月が、また何かあることないこと吹き込んだんですか?」桃子はこれまで何度も姿月に濡れ衣を着せられてきた。そのたびに煮え湯を飲まされてきた彼女は、うんざりしたように天を仰ぎ、今度はどんな汚名を着せられるのかと身構えていた。深雲は抑揚のない低い声で問う。「今日、奥様に会ったそうだな」桃子は一瞬びくりとしたが、ここでいう「奥様」が景凪のことであるのは分かっていた。それに、元奥様に会うことは犯罪ではないはずだ。彼女は意を決して認めることにした。「ええ、その通りです。奥様と昼食をご一緒しました。辰希坊ちゃんの身の回りの品や本、それから……清音お嬢様が枕元に置いている香り袋を届けました」桃子は言葉に熱を込めた。「お嬢様が最近あまりに眠たそうになさっているので、私もあのお守りが怪しいと思ったんです。奥様も詳しく調べてみるとおっしゃって……それだけです!他にやましいことなんてありません!」彼女は必死に訴えかける。「深雲様、あの人たちが何を言ったか知りませんが、奥様とは十五年のお付き合いでしょう?奥様がどんなお人柄か、深雲様が一番よくご存じのはずじゃないですか!」「……」深雲は無言のまま煙草に火を点けた。吐き出した紫煙が、夕闇に溶けていく。煙の向こうにある彼の表情は読み
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第532話

辰希は景凪を見上げ、真剣な眼差しで訴えた。「ママ、警察に通報しようよ!もしかしたら、弥生ちゃんは誘拐された子供かもしれないよ!」確かにあの老婆の態度は目に余るものがあった。だが、辰希の推測には無理がある。「誘拐した子供を、あんな高い学費の私立校に通わせるはずがないでしょう?」景凪は諭すように言った。「それに、私たちが中途半端に首を突っ込んで、根本的に解決できないまま立ち去ったら、かえって弥生ちゃんの立場を悪くするかもしれないわ」辰希も母親の正論には頷くしかなかった。彼は弥生が消えた方向へ同情の眼差しを向けた後、大人しく助手席に乗り込んだ。車を出して間もなく、桃子から着信が入った。清音に何かあったのかもしれない。景凪はすぐに通話ボタンを押した。「桃子さん、どうしたの?清音の具合が悪いの?」先ほど言一から検査結果の連絡はあった。大きな問題はなかったはずだ。それなのにこんな時間に電話が来るということは、急変でもしたのだろうか。景凪は運転に集中できなくなり、車を路肩に寄せて停車させた。一方、電話の向こう側では、深雲が椅子に腰掛け、スピーカーモードになった桃子のスマートフォンをじっと見つめていた。そこから漏れ聞こえる景凪の声は、焦燥と不安に満ちていた。深雲は桃子に目配せし、続けるように促した。桃子は内心ため息をつきつつも、深雲に指示された通りの「台本」を読み上げた。「……景凪さん。頼まれていたあの件、深雲様にバレてしまったようなんです。どうしましょう……」清音の身に危険がないと分かり、景凪の声から明らかに緊張が解けた。しかし、話題が深雲のことになった途端、声色は温度を失った。辰希に父親の悪口を聞かせるわけにはいかない。景凪は車を降り、数メートル離れた場所まで歩いていった。ここなら聞こえないだろうと判断し、彼女は冷然と言い放った。「なら、ありのまま彼に伝えればいいわ。私があなたに頼んで、清音の香り袋を持ち出してもらったってね。自分のそばにいる娘の健康管理もできないくせに、うろたえるべきなのは鷹野深雲の方よ!もし彼があなたを解雇するというなら好都合だわ。あなたはすぐに私のところへ来ればいい」通話を聞いていた深雲は、何も言い返せず押し黙った。桃子は内心で喝采しつつ、背筋を伸ばして雇い主をちらりと見やり、さらに続
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第533話

景凪がドアのロックを解除して招き入れたものの、この家には男物のスリッパなど常備していない。彼女は申し訳なさそうに、間に合わせの来客用スリッパを差し出した。渡がそれに履き替える隙に、景凪は彼が持参した買い物袋をキッチンへと運ぶ。リビングに取り残された辰希は、小さな腕を精一杯に組み、突然現れた侵入者をじっと値踏みするように見上げていた。「渡おじさん、今夜はここでご飯食べてくの?」「ああ」玄関の上がり框に腰を下ろしてもなお、渡の目線は辰希よりずいぶんと高い。彼は目の前の小さな生意気な生き物を見つめ、何気ない手つきでプレゼントを差し出した。「この前は手ぶらだったからな。これ、やるよ。気に入るか分からないが」それはチェスの棋譜――それも、現在は入手困難な貴重な古書だった。辰希の瞳がパッと輝く。彼はチェスに目がなく、勝負がつかずに終わった難解な局面に没頭するのが大好きなのだ。渡の贈り物は、まさに彼のツボを的確に突いていた。だが、辰希も簡単には買収されない。興奮をぐっと抑え、あくまで礼儀正しく口を開いた。「……ありがとう。でもこれ、すごく高価なものだよね。ママに貰っていいか聞かないと」辰希はパタパタとキッチンへ小走りで向かい、景凪に報告する。景凪もその本の価値に驚いたが、息子の心底嬉しそうな顔を見て微笑んだ。「そんなに気に入ったのなら、頂いておきなさい。渡おじさんにちゃんとお礼を言うのよ」言葉が終わるか終わらないかのうちに、渡がぬうっとキッチンに姿を現した。いつの間にかコートを脱ぎ捨て、白シャツに黒のスラックスというシンプルな装いで入り口の枠に寄りかかり、口の端を吊り上げる。「遠慮はいらない」許可が下りたと知るや、辰希は本を抱えてソファへ直行し、さっそくページをめくり始めた。景凪は、入り口に立つ渡を振り返る。「飲み物、どうする?冷蔵庫にジュースと野菜ジュース、あとコーラもあるけど」渡はすぐには答えなかった。無言のままシャツの袖を捲り上げ、キッチンの中へと足を踏み入れる。白くなめらかな皮膚の下、引き締まった前腕に逞しい筋肉の筋や血管が浮き上がり、それが手の甲へと男らしく這っていた。長く美しい指が、迷いなく包丁を手に取る。「エプロンは?」手元の作業を止めることなく、彼は何気なく尋ねた。その手際は驚くほど鮮やかだっ
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第534話

深く、重く沈殿した視線が、彼女を射貫く。その漆黒の瞳の奥には、強引な言葉とは裏腹に、はっきりとした「哀願」の色が滲んでいた。景凪は立ち尽くし、何も言えなくなってしまった。「渡……」喉がカラカラに乾いていた。名前を呼ぶのが精一杯で、続く言葉が見つからない。渡は声を潜めるように続けた。「……お前を嫌ったことなんて、一度もない。そう感じさせたのなら詫びる」ただ、知らなかったのだ。城壁の中で暮らすお姫様に、どう近づけばいいのかを。彼女の前に立つと、まるでまた、残飯の入ったゴミ袋を引きずりながら城門の前をうろつく、あの惨めな少年に戻ってしまうような気がした。強すぎる劣等感ゆえに、過敏になり、歪んでしまっていただけなのだ。「……」景凪は息を呑んだ。彼の目に宿る感情があまりに深く、重い。周囲の空気が彼の気配で埋め尽くされたかのような圧迫感に、呼吸さえも奪われそうになる。まさかこんな日が来るなんて。記憶の中では常に孤高で冷淡だったあの少年が、今こうして目の前に立ち、頭(こうべ)を垂れている。「俺を憐れんでくれ」と――その姿はあまりにも切実で、自身のすべてを投げ打つかのようだった。「渡、どうして……どうしてここまでしてくれるの?」景凪の声が微かに震える。「教えて。大学時代に私を好きだったから、だなんて言わないで。そんな淡い初恋だけで、こんなにも長い年月、心を繋ぎ止められるはずがないわ。私が他の人と結婚して子供を産むのを横目で見ながら、その間もずっと母のお墓を守り、おじいちゃんの世話をして、それどころか……私の生家をそっくりそのまま復元までするなんて……」彼が自分のために積み重ねてきた献身の数々を口にするたび、景凪の心は恐怖にも似た動悸で波打った。対照的に、彼女はこの七年間、黒瀬渡という存在を記憶の片隅に追いやっていたのだ。このあまりに不均衡な想いの深さは、彼女にただならぬ罪悪感を抱かせ、逃げ出したいような衝動に駆り立てる。「渡……私、あなたのことを好きだと思ったことは一度もないのよ。なのに、どうして?」渡は静かに、ただ彼女を見つめ返した。「理由なんてない」彼女が自分に微塵もときめいていないことなど、最初から痛いほど分かっている。「申し訳ないなんて思うな。……甘凪」彼はふと、ごくごく親しい者しか知らない彼女の愛称を口に
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第535話

通話を終えても、彼女はすぐには部屋に戻らなかった。夜風が火照った頬を撫でていく。彼女が克書に突きつけた条件――それは、母・長楽と結婚した本当の理由を洗いざらい話すこと。そしてもう一つ。彼が知っているであろう、「実の父親」に関する情報を吐かせることだった。景凪がリビングに戻ると、すでに食欲をそそる香ばしい匂いが漂っていた。それから三十分も経たないうちに、一汁三菜がテーブルに並んだ。どれも彩り鮮やかで、湯気と共に立ち上る香りが鼻腔をくすぐる。すべて彼女の好みを完全に把握した味付けだった。「まずはスープから飲んでみてくれ」渡は慣れた手つきで景凪にスープをよそい、次に辰希の椀を満たす。まるで長年連れ添った夫のようなその所作には、一切の淀みがない。景凪は一口すすると、思わず目を見開いた。「……美味しい」悔しいけれど、料理の腕前は彼女よりも遥かに上だ。辰希も無言で親指を突き立て、「いいね!」のサインを送った。彼は心の中で、こっそりと渡に「プラス1点」を加点した。ネットで調べたことがあるのだ。「イイ男、イイ夫の条件その一:料理ができるコト」。料理上手な男は奥さんを大切にする、と書いてあったからだ。食事が済むと、辰希はリビングでチェス盤に向かい、景凪は渡と共に後片付けを始めた。並んで皿を洗いながら、景凪はずっと気になっていたことを切り出した。「ねえ……その腕の痣。動脈採血の痕よね?どうしてそんなものが?」渡は洗った皿を水ですすぎながら、事も無げに答えた。「知聿のためだ。あいつは特殊な血液の病気にかかっていてな。治療には俺の血が必要なんだ」「……えっ?」あまりにも重大な事実を、彼はまるで天気の話のようにさらりと言ってのけた。一瞬の沈黙の後、言葉の意味を理解した景凪の眉間に深い皺が刻まれる。「つまり……黒瀬家が突然あなたを呼び戻した本当の理由は、知聿さんの『輸血バッグ』にするためだったってこと!?」口に出しただけで、怒りがこみ上げてきた。「なんて……狂ってるの!」あの注射痕の規模からして、少量であるはずがない。動脈血を大量に、それも頻繁に抜けば、ショック状態や臓器不全を引き起こしかねない危険な行為だ。「知聿さんの命が大事だからって、あなたの命はどうでもいいって言うの!?」憤慨する彼女の横顔をじっと見つめ
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第536話

さらに畳み掛ける。「今日の午後の件にしても、お買い物が終わればすぐに帰国なさると仰るから、仕方なくお付き合いしただけのこと。それなのに隠し撮りをして『婚約秒読み』だなんて……今のマスコミの想像力には呆れますよ、ハハハ……ねえ、穂坂さんもそう思われませんか?」悠斗がすがるような目つきで景凪を見つめてくる。その瞳は雄弁に語っていた。『どうです?うちのボスの潔白、これでもう十分伝わりましたよね?もう誤解なんてしませんよね?』「……」ここまで露骨で不自然な話題転換、初めて見たわ……景凪は呆れを通り越し、礼儀正しい微笑みを貼り付けた。「じゃあ、私はこれで戻るわね。帰り道、運転気をつけて」渡はその場に立ち、景凪の背中がマンションのエントランスに消えていくまで見届けてから、ようやく後部座席に体を滑り込ませた。「社長、これで穂坂さんも完全に誤解を解いたはずです!」車を発進させながら、悠斗は意気揚々と声を弾ませた。「ところで、今日の食事の手応えはどうだったんですか?何か僕が分析できるような進展はありました?」渡は鼻で笑った。「お前、自分の立ち位置を見誤ってるんじゃないか?彼女いない歴=年齢の奴が、俺の何を分析するつもりだ」「……」ボスだって似たようなもんじゃないですか……悠斗は喉まで出かかった言葉を、懸命に飲み込んだ。それを口にする勇気などあるはずもない。ドンッ、とシートの背を蹴り上げられる衝撃が走った。「さっさと出せ」気怠げな声が命じる。車が走り出してしばらくすると、渡のスマートフォンが震えた。景凪からのメッセージだ。開くと、一枚の写真が表示された。彼女の手書きによる生薬の処方箋だった。キャンディ・プリンセス:【さっき脈を診た感じだと、この処方があなたの体質に合うと思う。もし毎日煎じるのが大変なら、薬局で頼んで一回分ずつパックしてもらうといいわ。一日二回、忘れずに飲んで】渡:【分かった】運転中の悠斗が何気なくバックミラーに目をやると、そこには信じられない光景が映っていた。あの冷徹なボスが、まるで春の水面のように穏やかで、艶のある笑みを浮かべているのだ。「社長、何かいいことでもありました?」渡は上機嫌に目を細め、スマートフォンの画面を愛おしげに見つめたまま言った。「明日からは、本気で命を大事にすることにし
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第537話

夜も深まり、街の半分が眠りについた頃。その一方で、もう半分の世界は真昼のようなネオンに彩られていた。バー「バー・スカーレット」のフロアには、心臓を叩くような重低音が幾重にも重なり、熱狂の渦を巻き起こしている。伊雲は友人たちと並んでダンスフロアに立ち、音楽に身を任せて激しく身体を揺らしていた。兄の深雲のところを出る時は「帰って休む」なんて殊勝な口をきいたが、そんなのは大嘘。そのまま友人たちを呼び出して、夜の街へ繰り出したのだ。「もう、海外にいた間、退屈で死ぬかと思ったわ」実家からマンションに移り住んだおかげで、門限も口うるさい小言もない。ネットを騒がせたスキャンダルも、日々更新される新しいニュースに埋もれて過去のものとなった。今の彼女は、自由を謳歌する解放感に浸っていた。「ねえ伊雲、私の従兄が最近帰国したんだけど、今度会ってみない?」話しかけてきたのは、実家が木材卸を営む一ノ瀬詩織(いちのせ しおり)だった。この界隈では格下の家柄だ。その従兄とやらの顔は伊雲も知っている。一ノ瀬家よりは多少ましな暮らしぶりだが、容姿は平凡そのもの。伊雲の眼鏡にかなうはずもなかった。彼女は聞こえないふりをして無視を決め込んだ。詩織は気まずそうに苦笑いを浮かべると、連れてきた売出し中の若手俳優に身体を密着させ、再び踊りに戻っていった。しつこく声をかけてくる男たちを二人ほどあしらい、伊雲は喉を潤そうとボックス席へ向かった。薄暗い照明の中、不意に誰かと肩がぶつかる。「失礼」男が紳士的な手つきで、倒れそうになった彼女の腕を支えた。低く、深く、耳の奥に心地よく響くチェロのような声。その響きには、ハッとするほどの独特な色気があった。伊雲の背中に電撃が走る。少し前、海外で窮地に陥った自分を救ってくれたあの声だ。勢いよく顔を上げると、そこには見紛うはずもない端正な顔立ちがあった。彼女は思わず息を呑み、呆然と立ち尽くした。そんな視線には、潤一は慣れすぎていた。彼は礼儀正しく一度だけ頷くと、すぐに手を離して歩き出そうとする。今夜は発つ前に友人たちと軽く飲むだけのつもりだったが、騒がしさに飽きて、静かな場所へ戻ろうとしていたのだ。だが、その腕を伊雲が強く掴んだ。「待って!」高揚した声を上げる彼女に、潤一はわずかな不快感を巧みに隠しながら視
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第538話

潤一は淡々と言い放った。「子供に質の高い教育を受けさせるのは、至極まともな判断だろう。不足分はこれまで通り、俺の個人口座から補填しておいてくれ」「承知いたしました」潤一の脳裏には、あの夫妻が自分の目の前で息絶えた瞬間の光景が、今も鮮明に焼き付いている。任務の悪夢は時折、眠りを浅くし、目覚めるたびに激しい寝汗をかかせた。その罪悪感ゆえか、彼はその子に直接会う勇気を持てずにいた。ただ、毎年欠かさず贈る祝い金だけは、決して惜しんだことはない。せめて物質的な面だけでも、望むものはすべて与えてやりたい。その子が不自由なく、健やかに育ってくれるなら、それでいい。「児玉様。今回こちらを発たれる前に、一度その子に会ってみてはいかがですか?弥生という名前です」「いや、いい」いつものように拒絶したが、潤一はわずかに間を置いて付け加えた。「……今回の任務が終わって、戻ってきたら考えよう」「かしこまりました」一方。潤一から無情な言葉を投げつけられた伊雲は、煮え繰り返るような思いでいた。――鷹野家が、一体いつ潤一の機嫌を損ねるようなことをしたっていうの?確かに、以前姿月から聞いたはずだ。兄の深雲の会社が潤一と組もうとしていて、一緒に食事をしたこともある、と。伊雲が急いで帰国したのも、潤一が戻っていると聞き、接触する機会を狙っていたからだ。それなのに、何もしないうちから嫌われるなんて、納得がいかない。海外で救われた時は、彼はとても紳士的だった。彼女のバッグを拾い上げ、「気をつけて」と優しく声をかけてくれたはずなのに……どうしても腑に落ちない伊雲は、真相を突き止めようと深雲に電話をかけた。「お兄ちゃん!うちの家族が児玉潤一に何かしたの?」深雲は書斎でオンライン会議を終えたばかりだった。各部門の責任者たちが繰り出す不毛な議論の余韻で、こめかみの奥がじりじりと痛む。椅子の背もたれに体を預け、疲れた手つきで眉間を揉みほぐしていたが、妹の言葉を聞いた途端、せっかく解けかけた眉根が再び険しく寄せられた。「児玉潤一のことを聞いてどうする。まさか、あいつに色目でも使っているんじゃないだろうな?」深雲は上体を起こし、諭すように低い声を出す。「伊雲、自分の立場をわきまえろ。児玉家が、お前ごときが手を出していい相手だと思っているのか?」
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第539話

深雲は掴んでいた手を離し、何事もなかったかのように問いかけた。「どうしてまだ起きている?清音は?」「あの子ならもう夢の中よ。私があなたと一緒にいたくて」姿月は痛ましげな視線を向けると、深雲の背後へと回り込み、凝り固まった頭皮を指先で優しく揉みほぐし始めた。その手技は巧みだ。秘書として仕えていた数年間、彼女はこうして幾度も深雲の疲れを癒やしてきたのだ。張り詰めていた神経が、少しずつ緩んでいくのを感じる。不意に、姿月が耳元で甘く囁いた。「ねえ、深雲さん。さっき清音と話したのだけれど……明日の夜は、あの子を景凪さんのところに泊まらせてあげましょうよ」「実の母親として、娘と過ごす権利は彼女にもあるわ。私たち大人の間にどんな確執があっても、子供を巻き込んではいけないもの。やっぱり、血の繋がりには代えられないわよ。それに……あなたが板挟みになって苦しむ姿、私もう見たくないの」今の姿月は、まるで疲れ果てた騎士を癒やす一輪の献身的な花だった。深雲はゆっくりと目を開け、彼女の清純で無害な横顔を見つめるうちに、頑なだった心がわずかに綻んでいくのを感じた。これまでの数年間、彼女がどれほど清音を慈しんできたか、その献身を彼はそばで見てきたはずだ。それなのに、景凪の言葉ひとつで姿月に疑いの目を向け、屈辱的な思いまでさせてしまった。当の姿月は、実の母親である景凪に清音を会わせてやろうと、寛大な提案までしてくれているというのに。深雲の胸に、拭い去れない罪悪感が込み上げた。彼は姿月の手をそっと引き寄せ、その甲にいたわるような口づけを落とした。「……ありがとう」姿月は彼の肩に手を添え、愛おしそうに深雲の額に唇を寄せた。「お礼なんていらないわ。あなたの心が少しでも晴れるなら、私、なんだってするから」彼女は深雲の瞳をじっと見つめ、誘うように下唇をわずかに噛んだ。「ねえ、深雲さん。清音はもうぐっすり眠っているわ。あの子が目を覚ます前に戻れば、大丈夫……」深雲の瞳に、暗い火が灯った。成熟した一人の男として、その言葉が何を意味しているのかを悟らぬはずがない。拒絶されなかったことを確信した姿月は、深雲の膝に腰を下ろし、その首に腕を回して顔を近づけた。最初は静かだった。だが、姿月が煽るように求めてくるにつれ、深雲の内に眠っていた欲望が疼き出す。欲
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第540話

扉を押し開けると、清音がちょうど目を覚ましたところだった。「姿月ママ……」目をこする清音に歩み寄りながら、姿月はバッグからそっと懐中時計を取り出した。ベッドの脇に腰を下ろし、時計の蓋を開けながら、穏やかな声で清音に言い聞かせる。「いい子ね。今日の『お仕事』、覚えているかしら?」語りかける姿月の手元で、懐中時計がゆらゆらと、清音の瞳の前で規則的に揺れる。これは深い催眠を定着させるための儀式だった。昨夜の香炉から漂っていた「幻香」は、あくまで神経を弛緩させ、術にかかりやすくするための下地に過ぎない。そこへ雪華から伝授された催眠術を重ね、清音の抱く信頼と、長期間にわたる暗示を組み合わせる。これこそが、清音を完璧に支配するための、最も確実な手法だった。案の定、清音は逆らうことなく、うつろな様子で頷いた。「……覚えてる」姿月は満足げに、清音の額に口づけをした。「本当にお利口さん。姿月ママは清音が一番大好きよ」……景凪は辰希と朝食を囲みながら、昨夜、清音から電話があったことを話した。今夜からこちらに泊まりに来るのだと伝えると、辰希はパッと顔を輝かせた。「ママ、じゃあ僕、学校が終わったらすぐに清音と合流するよ!夜はどこに遊びに行こうか?」景凪は目を細めて微笑んだ。「二人の好きなように決めていいわよ。ママはどこでも付き合うから」「じゃあ、夜市に行こう!清音、屋台とかお祭りみたいな雰囲気が大好きなんだ。美味しいものもいっぱいあるし!」「ええ、決まりね」景凪は上機嫌な息子に頷き、時間が迫っているのに気づいて、早く着替えるよう促した。辰希が準備を終えた頃、タイミングよくチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには明浩が立っていた。「お嬢様、おはようございます。辰希くんも、おはよう」「明浩おじさん、おはよう!」辰希が礼儀正しく挨拶を返す。桃子さんが来るまでの数日間、景凪は明浩に臨時の送迎を頼んでいた。その間に自分は、西都製薬での最後の大詰めとなる仕事を片付けてしまおうと考えていたのだ。明浩の運転する車で辰希が登校していくのを見送り、景凪はそのまま道路の向かい側にある西都製薬へと向かった。会社の玄関を入るなり、研究センター責任者の凛と鉢合わせた。「おはよう、凛さん」景凪が満面の笑みで声をかけると、凛
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