Tous les chapitres de : Chapitre 551 - Chapitre 560

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第551話

その報告を聞いた瞬間、須藤の張り詰めた肩から力が抜けた。ズキズキと痛むこめかみを指で押し、肺に溜まっていた重たい息を吐き出す。遺体がない。現時点では、それが最良のニュースだ。「崖下は外堀の急流エリアだ。下流で二手に分岐している。黒瀬側の捜索部隊とヘリは既に動いているはずだ、川沿いを徹底的に洗え!」資金力と動員力において、警察組織など黒瀬家の足元にも及ばない。「我々も全力でサポートに回るぞ!」須藤は力強く部下たちに檄を飛ばした。深雲は亡霊のように虚ろな表情でハンドルを握り、山道を下っていた。車が麓の交差点に差し掛かった時のことだ。路肩に一台のワゴン車が停まっているのが見えた。その傍らで、一人の老婆が小さな女の子を厳しく叱りつけている。「余計な真似すんじゃないよ!いいかい、あんたは何も見なかった。何も言っちゃいけない。分かったね?!」その時、ふいに顔を上げた女の子が深雲の車に気づき、なんとそのまま車道へ飛び出してきたのだ。「鷹野おじさん!」「っ!?」深雲は慌ててハンドルを切り、突っ込んできた女の子を間一髪で避ける。ブレーキ音と共に車が急停止した。心臓が口から飛び出そうなほどの動悸を感じながら顔を上げると、女の子はすでに運転席の窓にへばりつき、必死にガラスを叩いていた。何かを訴えようとしている。深雲はそこでようやく、彼女が娘の清音と同じクラスの子供であることに気がついた。彼は窓を開けた。「おじさん、私見たの……!清音ちゃんと、あの嘘つきママが……景凪おばちゃんを騙して……!」「え?」「むぐっ!」核心を突こうとした瞬間、背後から老婆が飛びつき、女の子の口を乱暴に塞いだ。「子供の戯言だよ!気にしないでくれ、この子は何も見ちゃいないんだから!」深雲の頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。思考が追いつかない。老婆は女の子を引きずるようにして強引にワゴン車へ押し込んだ。運転席には男が乗っており、窓越しに冷酷な視線を深雲に投げつけると、そのまま猛スピードで走り去っていった。今、あの子は何と言った?清音と姿月が……景凪を騙し、あの金山九蔵の元へ誘い込んだと?「クソッ……!」深雲は荒い呼吸と共に、力任せにハンドルを殴りつけた。拳が裂け、鮮血が滲む。クラクションの不快な音が長く尾を引き、耳の奥をキーンと麻痺させ
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第552話

かつてないほど激昂し、凶暴な一面を剥き出しにした深雲の姿に、姿月は戦慄した。平手打ちの衝撃は凄まじく、顔の半分は麻痺し、耳の奥ではいまだにキーンという不快な耳鳴りが続いている。それでも、深雲が憎々しげに吐き捨てた言葉は、はっきりと聞き取れた。彼は景凪のことで、自分に怒りをぶつけているのだ……ということは――あの卑しい女は死んだに違いない!目の上のたんこぶだった景凪が、ついに消え失せた。そう思うと、頬の痛みなど些細なことに思えてくる。これからはもう誰にも邪魔されず、自分の幸せを噛みしめられるのだから。「深雲さん……あなたがそんなに怒り狂って、悲しんでいるのは……景凪さんのことが心配だからでしょう?」姿月は持てる演技力のすべてを動員し、こみ上げる笑みを押し殺した。代わりに浮かべたのは、健気で耐え忍ぶような、哀れな表情だ。「分かってるわ。彼女はあなたの元奥様だもの。心が痛むのは当然のことよ……」「私に当たることであなたの気が済むなら、好きにしていいわ。私には何も言えないもの」姿月はおずおずと手を伸ばし、深雲の引き締まった腰にすがりついた。大粒の涙を瞳から零し、か弱さを演出する。だが、今回は違った。いつもならすぐに罪悪感を抱き、優しく宥めてくれるはずの深雲が、冷淡に彼女の腕を引き剥がしたのだ。かつては甘く潤んだ眼差しで優しく見つめてくれたその涼やかな目元には、今はただ底知れぬ疲労と、隠しようのない嫌悪の色だけが浮かんでいた。「今日は景凪が清音を連れ出して、観覧車のある遊園地へ行っていたはずだ。なぜ彼女が事件に巻き込まれた時、お前が清音を連れて帰ってきたんだ?」問い詰められることは予測済みだ。姿月は淀みなく答えた。「深雲さん、本当に誤解しないで。私はただ、清音が薄着で出かけたのが心配で、上着を届けに行っただけなの。でも現地に着いたら、清音が一人ぼっちでいて、景凪さんの姿はどこにもなくて……清音が『帰りたい』って言うから、連れて帰ってきたのよ」彼女は自信満々に言い放った。「信じられないなら、清音に聞いてみて!子供は嘘なんてつかないわ」深雲はその言葉を聞くと、奇妙なほど自嘲的で、冷え切った笑みを浮かべた。「姿月……清音は、お前を守るためなら、平気で嘘をつく子だ」心当たりはあった。景凪が戻ってきたばかりの頃、清音は姿月が虐
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第553話

「……っ」姿月の泣き声がぴたりと止まった。彼女は引きつった笑みを浮かべ、乾いた声を絞り出す。「助かったの……?よ、よかった。本当に……」「遺体が見つからない以上、生きている可能性がある」深雲は眉間を指先で強く揉み、荒れ狂う感情を力技でねじ伏せた。再び瞼を持ち上げた時、血走っていた瞳には、先ほどまでの凶暴さが嘘のような穏やかさが戻っていた。彼は腰を落とすと、床にへなへなと座り込んだままの姿月を優しく抱き起した。その指先が、自分の振るった暴力の証――白皙の肌に鮮烈に浮かび上がる指の跡に触れる。「すまない……今日はどうかしていた」掠れた声で謝罪を口にする。姿月は力なく首を振ると、縋るように彼の胸に顔を埋めた。「いいの、分かっているわ。彼女とは長年連れ添った仲だもの。やり場のない悲しみをどこかにぶつけなきゃ、あなたが壊れてしまう。私はあなたの婚約者よ。これくらい、なんてことないわ……景凪さんが、どうか無事でありますように」口では慈愛に満ちた言葉を紡ぎながらも、その瞳の奥にはドロリとした殺意が渦巻いていた。あの役立たずのクズが……!金山九蔵への激しい怒りが込み上げる。女一人、確実に仕留めることもできないのか。深雲は腕の中の女の、滑らかな長い髪を愛おしそうに撫でた。その仕草が優しければ優しいほど、彼の眼差しは温度を失い、凍てついていく。彼はそっと姿月を離すと、その清純で無垢な顔をじっと見つめ、親密さを込めた声で囁いた。「少し疲れた。風呂に入りたいんだ。……湯を張ってきてくれないか。未来の、俺の奥さん」『奥さん』という響きに、姿月は有頂天になった。たとえ「未来の」という但し書きがついていても、彼女にとっては最高に甘美な言葉だった。「ええ、今すぐ行ってくるわ!」彼女は爪先立ちになると、深雲の頬に唇を寄せ、弾むような足取りで書斎を後にした。だが、姿月はそのまま主寝室へは向かわず、清音の部屋へと立ち寄った。枕元では安眠を促すアロマが焚かれているが、ベッドに横たわる清音の表情は険しい。頬には涙の跡が残り、何か恐ろしいものに追われているかのように、眠りの中で小さく身体を震わせていた。姿月は物音を立てずに、枕元に置かれていた清音のスマートフォンを手に取った。主寝室へ向かう廊下で、彼女は手早く母親の雪華へ電話をかける。「お母さん、私よ」周
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第554話

もしあの時、今の結末を知っていたなら……景凪がこんなふうに、骨の欠片さえ残らぬ無残な最期を遂げると分かっていたなら、あの日の自分はバスを飛び降り、無理やりにでも彼女の腕を引いて連れ去っただろうに!文哉の声は、一字一句がまるで氷の刃のように冷たく、鋭く研ぎ澄まされていた。「姿月が清音ちゃんに渡した香り袋から検出された赤と白の粉末……あれは、新型の合成麻薬だ。成分は強力な幻覚作用を持つ」文哉は事実だけを淡々と、しかし怒りを込めて突きつけた。「一度の摂取量は微量で、効果が出るまで時間もかかる。だが、継続的に吸入すれば中枢神経を蝕み、確実な幻覚を引き起こす代物だ。大人が長期間吸い続ければ精神崩壊を起こす劇薬だぞ?ましてや、清音ちゃんのような幼い子供の脳に与えるダメージがどれほどか……神経への損傷は不可逆的なんだ!」文哉の声が荒くなる。「鷹野深雲、これがお前の言う『娘を守る』ってことか?実の娘をこんな目に遭わせておきながら、よくもぬけぬけと景凪から親権を奪おうとできたものだな!」普段は理性的で感情を表に出さない文哉が、ついに怒りを爆発させていた。脳裏には、遺体すら戻らぬ景凪の姿が焼き付いている。彼の目尻は充血し、悔しさに赤く滲んでいた。深雲は静かに聞いていた。罵倒されても、何の反論もしない。ただ、立ち尽くしている。指に挟んだままの煙草が、吹き込む風に煽られ、火種を明滅させている。白く長い灰が、雪のようにハラハラと崩れ落ちた。もう秋だ。吹き込む風が、骨の髄まで凍みるほど冷たい。深雲はゆっくりと目を閉じ、しばらく沈黙した後、絞り出すような掠れた声で問いかけた。「……その薬物を長期的に吸入させた状態で、さらに催眠術をかけたらどうなる?……人の精神(こころ)を操るには、十分すぎる条件か?」「……っ」文哉は息を呑んだ。一瞬の空白の後、彼もまた、深雲の問いかけが意味する恐ろしい事実に辿り着いたのだ。彼は思わず、ヒュッと冷たい空気を吸い込んだ。「……そうだ。催眠の本質は、高度な心理的暗示だ。幻覚剤によって神経が麻痺し、判断力が低下していれば、精神的な抵抗力は著しく弱まる。相手がマインドコントロールを受けやすい状態ならば、洗脳など容易いことだ。ましてや、その対象が幼い子供であれば……言わずもがなだろう。赤子の手をひねるようなものだ!」指先ま
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第555話

夜も更け、あたりはしんと静まり返る時刻だというのに、護岸工事のされた川沿いだけは、異様な熱気に包まれていた。無数の強力なサーチライトが漆黒の闇を切り裂き、川面を真昼のように白々と照らし出している。佐藤刑事は、額に滲む冷や汗を乱暴に掌で拭った。その時だった。重苦しいローター音が、低空から鼓膜を震わせたのは。何事かと佐藤が夜空を仰ぐと、そこには威圧的な機影があった。迷彩塗装が施された数機のヘリコプターが、頭上を旋回している。「あれは……まさか、民間会社の機体か?どうしてこんな所に……」警察の装備でないことは明白だ。目を凝らして機体に描かれたエンブレムを視認した瞬間、佐藤はさらに息を呑んだ。児玉家だ。脇にいた若手の刑事が、呆気に取られたように声を上げた。「児玉グループが、自前のヘリ部隊まで出して捜索協力ですか?さすが黒瀬家の次男坊、顔が広いなんてもんじゃないですね」言われてみれば、合点がいく。このA市において、飛ぶ鳥を落とす勢いの黒瀬家と対等に渡り合える古豪といえば、もはや児玉家くらいのものだ。頂点に君臨する名家同士、こうした非常時に阿吽の呼吸で助け舟を出し合うのも、彼らの流儀なのだろう。佐藤は気を取り直すと、部下たちに向かって声を張り上げた。「ほら、お前ら!強力な援軍も来たんだ、気合入れ直して探すぞ!」檄を飛ばしながらも、佐藤の視線は不安げに眼下の濁流へと落ちた。この川の下流には、地元の人間も恐れる落差の激しい滝がある。あの断崖からここまで流され、もし景凪と渡があの滝壺へ飲み込まれてしまっていたら……深い原生林と激流が待ち受けるその場所で、生きて帰れる確率は万に一つもないだろう。月明かりが、世界の一画を淡く切り取っている。深い森に縁取られた岸辺。冷ややかな光の中に、ずぶ濡れになった二つの人影が投げ出されていた。「げほっ、ごほっ……!」景凪は、己の咳き込む音で意識を取り戻した。肺に溜まっていた水が逆流し、喉を焼く。激しく咳き込みながら何度か川の水を吐き出すと、ようやく薄ぼんやりとしていた視界が鮮明さを取り戻し始めた。――生きて、いる。だが、死の淵から生還した安堵は、瞬きするほどの時間も続かなかった。脳裏に、ある男の顔が閃いたのだ。渡は――?景凪は弾かれたように周囲を見回した。幸い、最悪の事態は免れ
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第556話

景凪が容態を確かめようと手を伸ばすと、その指先が触れるより早く、渡が彼女の手首を優しく制した。「俺は、大丈夫だ」景凪は自分の体温も相当下がっていると思っていたが、渡の手のひらが触れた瞬間、骨の髄まで凍りつくような冷たさに息を呑んだ。この冷え切った体で、大丈夫なはずがない。「渡……!」彼女が険しい顔で問い詰めようとすると、渡はそっと手を離した。「今は深夜だ。これから夜明けにかけて、谷底の気温はさらに下がる。それに、ここは手付かずの深山だ。野獣の類も珍しくないだろう」霧のように降り注ぐ月光が、血の気の失せた渡の横顔を白く浮かび上がらせている。その瞳はどこまでも深く、静かな慈愛を湛えて彼女を見つめていた。「少し長く水に浸かりすぎたせいか、足の感覚がなくて動けないんだ」渡は低く掠れた声で、淡々と状況を分析して見せた。「景凪、俺を連れて動くのは無理だ。いいか、俺の言う通りにするんだ。この近くに身を隠せる洞窟があるはずだ。まずは自分が行ける場所を見つけて、乾いた枝を集めて火を焚け。俺を迎えに来るのはそれからでいい。影山たちが必ず捜索に来る。遅くとも明日には見つけてくれるはずだ。今夜さえ、乗り切ればいい」彼の言うことが合理的であることは、景凪にも分かっていた。だが、彼の足が「単に感覚がないだけ」だとは、どうしても信じられなかった。この男は、常軌を逸した忍耐力の持ち主だ。もし少しでも動ける望みがあるのなら、彼女を一人で暗闇に行かせるような真似は絶対にしないはずなのだ。景凪は唇を噛み、渡の足元に視線を落とした。濡れた黒のスラックスが、その下に隠された傷のすべてを覆い隠している。今ここで彼と押し問答をしても意味がないことは分かっていた。手元には薬も医療器具もなく、今の自分にできることは限られている。そう自分に言い聞かせると、彼女は決然と立ち上がった。「分かったわ」景凪は真っ直ぐに彼を見据えた。「ここで待っていて。場所が見つかっても見つからなくても、すぐに迎えに戻るから」数歩歩き出し、彼女はふと足を止めて振り返った。月光に照らされたその背中はあまりに細く、折れそうに頼りない。けれど、その瞳には静かで強靭な光が宿っていた。「渡、今夜を乗り切るのは私一人じゃないわ」彼女は彼の言葉を訂正した。「私『たち』よ。二人で、絶対に
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第557話

生き残った二頭の狼は、もはや獲物に飛びかかる勇気を失っていた。景凪の背後の闇を凝視しながら、一歩、また一歩と後ずさり、やがて森の奥へと姿を消した。景凪が安堵して振り返るよりも早く、後頭部に冷たい硬質な感触が押し当てられた。銃口だ。「貴様、何者だ。こんな時間にここで何をしている」男の声は低く、ひどく荒っぽい。言葉の端々に、異常なまでの警戒心が滲んでいた。その訛りのある口調から察するに、このA市の人間ではないらしい。こんな人里離れた深山だ。今ここで撃ち殺されたとしても、誰にも気づかれることはないだろう。目の前には、頭を撃ち抜かれたばかりの狼が、まだ温かな骸となって転がっている。景凪は心臓の鼓動が早まるのを感じながらも、必死に冷静さを保ち、言葉を絞り出した。「私は医者です。主人と一緒に……船で川下りをしていたんですが、事故に遭って流されてしまって。主人は足を骨折して、あそこの川岸で待っています。嘘じゃありません、案内しますから!」彼女は努めて穏やかな声を意識した。「……さっきは助けていただいて、ありがとうございました。素晴らしい腕前ですね。あなた、このあたりに住んでいる猟師さんですか?」相手に「善良な狩人」という役割を先回りして押し付け、敵意を削ごうとした。男は答えなかったが、後頭部に食い込んでいた銃口が、ゆっくりと離れていく。景凪は慎重に、探るような動作で体を反転させた。月明かりの下、ようやく男の顔が露わになる。顔半分を覆う濃い髭のせいで年齢は判別しがたいが、肌は黒く焼け、太い眉の下にある眼光はひどく陰湿で鋭い。常に周囲を警戒し、算盤を弾いているような目だ。男もまた景凪を値踏みするように眺めていた。その品性の欠片もない、なめ回すような視線に景凪は不快感を覚えたが、銃を突きつけられている以上、耐えるしかなかった。「医者だと言ったな?」「はい」景凪は地面に散らばった草を指差した。「これは薬草です。足に怪我を負った夫のために集めていました」男はしばらく沈黙し、何かを思案するように目を細めた。やがて、その口元が歪な笑みに吊り上がる。「……ちょうどいい。俺の弟も怪我をしていてな。医者が必要だったところだ」景凪は直感した。自分に「利用価値」が生まれたのだ。それは同時に、この男と交渉するための唯一の切り札になる。「こ
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第558話

以前、佐藤刑事から金山九蔵の指名手配書を見せられた際、同じ画面に並んでいた他のA級指名手配犯たちの顔写真。景凪は一度目にした画像を忘れない特異な記憶力の持ち主だった。この男は、間違いなくその中の一人だ。ということは、この熊代も、死にかけているという「圭吾兄貴」も、全員が血も涙もない逃亡犯ということになる。大爆発から奇跡的に生還したと思えば、今度はこの深山幽谷で三人の凶悪な亡命者に鉢合わせる。自分たちの運命の過酷さに、眩暈がしそうだった。景凪は無意識のうちに、隣に立つ渡の腕を強く掴んでいた。渡は視線を落として彼女の手に目をやり、大丈夫だと言い聞かせるように、その手の甲を優しく叩いた。景凪が顔を上げると、深く静かな彼の瞳と視線がぶつかる。それだけで、不思議と凍りついていた心臓が温かさを取り戻した。「この奥様は医者だ。二人とも俺たちの『家』へ連れて帰って、手伝ってもらうぞ」3442901熊代が有無を言わせぬ口調で告げた。景凪は何より渡の足が気がかりだった。「主人は足を酷く怪我しています。険しい山道なんて、とても歩けません……」「遠くねえよ。山を一つ越えれば、すぐそこだ」熊代が苛立たしげに言葉を遮る。渡がここまで辿り着いたのが、すでに限界を超えた気力によるものだということは景凪が一番よく分かっていた。これ以上無理をさせれば、一生歩けなくなるかもしれない。「一里くらいなら私は歩けますが、主人は無理です」景凪は断固とした口調で言い切った。譲歩するつもりなど微塵もない。「どうしてもと言うなら、荷車のようなものを貸してください。私が主人を乗せて運びます。あなたたちの手は煩わせません。……それが嫌なら、病人をここまで連れてきてください」渡は、景凪の横顔から目を離せなかった。自分より半歩ほど前に立ち、小柄な体で彼を庇いながら、猟銃と鉈を携えた大男たちを相手に一歩も引かず交渉している。――俺の姫が、今はまるで騎士(ナイト)だな。視線を落とすと、自分の腕を固く握りしめる彼女の指先が見えた。胸の奥が、鋭く刺し貫かれたような感覚に陥る。それは痛みではなく、痛みよりもずっと抗いがたい、幸福に近い熱だった。この女のためなら、すべてを捧げても惜しくない。そう思わせるに十分な熱。結局、折れたのは熊代たちの方だった。スキ
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第559話

景凪はわずかに眉を寄せた。女の直感だろうか。この志乃という女が渡に向ける視線には、明らかな下心が透けて見えていた。だが、一刻も早く渡に薬を届けられるのであれば、今はそれに賭けるしかない。「……ええ、お願いします」景凪は努めて穏やかに微笑んだ。志乃が腰を振って部屋を出ていくのを見送ると、景凪は傍らで煙草を燻らせている熊代に視線を向けた。「奥様は本当に情の深い方ですね。行きずりの見ず知らずの男にまで、あんなに親身になってくださるなんて」あえて含みを持たせた言い方をした。熊代の表情に大きな変化はなかったが、彼は吸いかけの煙草を途中で揉み消すと、黙って部屋を後にした。その足取りが、渡のいる物置小屋の方へ向かったのを景凪は見逃さなかった。窓の外に一度だけ視線を走らせ、景凪は意識を切り替えた。今は目の前の患者に集中する。設備も衛生環境も最悪に近いが、火とアルコールで器具を消毒し、迷いのない手つきでメスを走らせる。スキンヘッドの鉄次が助手として残り、血の混じった湯を何度も運び出した。「ああああっ!」不意に、外から志乃の悲鳴が聞こえてきた。続いて、地方特有の荒い口調で罵声が飛ぶ。「大山!あんた、よくも私をぶったわね!十七の時からあんたに尽くしてきた私に、よくも手を上げたわね!殺せ、いっそ殺しなさいよ!」「外で色目使ってんじゃねえぞ、このアマ!ぶち殺されたいのか!」熊代の怒号が静まり返った山奥に響き渡る。景凪は表情一つ変えず、手元の作業を続けた。彼女が放った「毒」は、期待通りに効いたようだ。鉄次は外へ飛び出し、揉み合いを始めた熊代と志乃を必死になだめていた。ようやく二人を説き伏せて母屋へ戻ると、そこには余計な雑音など一切耳に入っていないかのように、一心不乱に圭吾の傷を縫い合わせる景凪の姿があった。彼女はベッドの端に静かに腰掛け、迷いのない手つきで処置を進めている。この小屋には電気すら通っておらず、明かりといえば古びたランプと数本の蝋燭だけだ。揺らめく火に照らし出されたその横顔は、泥と汗に汚れながらも、息を呑むほど凛として美しかった。鉄次は手近な椅子を引きずってくると、そこにどっかと腰を下ろし、目の前の「獲物」を品定めするように眺め始めた。「……なかなか知恵が回るじゃねえか。大山兄貴を焚きつけて、志乃姐さんがお前の男をたぶらかすの
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第560話

彼女は太い木の棒を二本探し出すと、それを扉に突っ張らせて簡易的な閂(かんぬき)にした。渡は背後からその様子をじっと見守っていた。彼女が一度たりとも、その手のナイフを離さないことを。扉を固く閉ざし終えると、景凪はようやく渡のそばへ歩み寄った。壁に耳ありという言葉が脳裏をよぎり、彼女は声を極限まで押し殺した。「……あの人たち、指名手配犯よ。油断しないで。仲間のひとりが銃傷を負っていて、かなり容態が悪いの。私の治療が必要なうちは、手を出してこないはず。今夜さえしのげば、明日は佐藤刑事たちがきっと見つけてくれる……」独り言のように一気にまくしたてる景凪。だが、彼女自身は気づいていなかった。自分の体が、小刻みに震えていることに。渡の瞳に、深い陰りとともにやり場のない切なさが宿った。彼は景凪の手をそっと包み込むと、震える指先から静かにナイフを取り上げた。刃先には、血がついていた。彼女が、たった今、何に直面してきたのかをその血が物語っていた。渡は無言のまま、彼女の体を強く抱き寄せた。彼は景凪の髪に唇を落とし、痛ましげに囁く。「……もう、大丈夫だ」その声を聞いた瞬間、景凪の脳裏で張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。彼女は渡の胸に顔をうずめた。深く、深く。吸い込んだ彼の匂いが、得も言われぬ安堵となって彼女を包み込んでいく。「渡……」「ああ」景凪が顔を上げる。目元も鼻先も赤くなっていたが、その瞳は澄んだ光を宿し、彼の顔をはっきりと映し出していた。こんな極限状態だというのに、彼は少しも惨めに見えない。むしろ、「没落した貴公子」のような退廃的な色気を漂わせている。……あの志乃が目の色を変えるのも無理はない。「……さっきの女の人、薬を持ってきたの?」「ああ。もう飲んだ」渡は平然と答えた。景凪は単刀直入に聞くのをためらい、言葉を選んだ。「……外で揉めてる声が聞こえたわ。その……あの女に、何か変なこと、されなかった?」渡が彼女の意図を読み取れないはずがない。彼は口の端を吊り上げ、眉をひそめてわざと思わせぶりに言った。「『変なこと』というのは、薬を口移しされたことか?それとも、あちこち触られたことか?」「えっ!?」景凪は目を丸くした。「触られたの?どこを?まさか傷口を押されたりしてないでしょうね?
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