Tous les chapitres de : Chapitre 561 - Chapitre 570

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第561話

まさか自分のズボンを真っ先に脱がそうとする女が、景凪になろうとは。渡にとってもそれは想定外の事態だった。彼は反射的にベルトを押さえようとしたが、景凪はその手の甲を容赦なく叩いた。「じっとしてて!」彼女は猛獣でも手なずけるような鋭い目で見据える。これほどまでに感情を剥き出しにした生き生きとした景凪の姿は、彼がずっと渇望していたものだった。「……右足だ」渡は抵抗を諦め、白状した。「膝から下が、少しひどいことになっているかもしれない」覚悟はしていた。だが、景凪が渡の右足の裾を捲り上げた瞬間、目に飛び込んできた凄惨な光景に、彼女は息を呑んだ。右足の肉は無残に裂け、至るところが内出血で変色している。それだけではない。折れた骨が明らかに本来の場所からずれ、白々とした鋭い先端が皮膚を突き破っていた。見るだけで気が遠くなるような激痛のはずだ。それをこの男は、おくびにも出さず耐え抜いていたというのか。「泣かないでくれ」渡は何よりも彼女の涙に弱かった。景凪の目元がみるみる赤くなっていくのを見て、彼は静かに、言い聞かせるように言葉を紡いだ。「本当に、痛くないんだ。長く水に浸かっていたせいか、もう感覚もなくなっているから」「黙ってて!」景凪はこれほど往生際の悪い患者を他に知らなかった。彼女は彼を一喝すると、立ち上がって自分の腰のあたりを探り、隠し持っていたものを次々と取り出した。清潔なガーゼ、止血剤、そして鎮痛剤。すべて、先ほど母屋で隙を見てくすねてきたものだ。さらに彼女は手近な板切れを二枚拾い集めると、渡の足を固定するための簡易的な添え木を作り始めた。「渡……絶対に、あなたを歩けなくなんてさせないわ」景凪が低い、けれど決然とした声で呟く。渡はふっと口元を緩めた。実のところ、彼にとって足の一本や二本、どうでもよかった。彼女が生きていてくれるなら、片足を引きずるくらいの代償、安いものだ。けれど、目の前の女性はひどく真剣な面持ちで、その目尻には今にも溢れ出しそうな涙が、鮮やかな緋色となって滲んでいる。その姿に、渡の胸の奥が鋭く、疼くように痛んだ。渡は手を伸ばし、熱を持った彼女の目尻を指先でそっと拭った。「ああ……頼んだよ」その夜、景凪と渡は同じ草の寝床に身を横たえていた。渡の傷口に触れないよう、景凪は体を小さく丸め、できる
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第562話

鉄次は建物の裏手へと回り込んだ。壁には古びた木枠の窓がある。中を覗き込もうと頭を近づけた、その瞬間だった。暗闇の向こうから正体不明の「何か」が猛然と飛来し、鉄次の顔面を正面から捉えた。「ぎゃっ……!」鉄次が悲鳴を上げた刹那、物置の中では、渡がすかさず腕の中にある景凪の耳を掌で塞いでいた。長い夜が明け、地平線の彼方にうっすらと魚の腹のような白い光が差し込み始めた。児玉家の本宅。人工湖のほとりを朝のジョギングで流していた潤一のもとに、部下からの電話が入った。潤一は足を止め、イヤーカフを軽く叩いて通話に切り替える。「見つかったか?」呼吸ひとつ乱れていない。「いえ、穂坂さんはまだ……ただ、新たな情報が入りました。黒瀬家もかなりの人手を出して捜索しているようです。どうやら、黒瀬家の次男が彼女と一緒に転落したらしく……」潤一はわずかに動きを止めた。「黒瀬渡のことか?」時を同じくして、悠斗は捜索隊を率いて河原に降り立っていた。ふと、足元に落ちていた白い布の切れ端が目に留まり、それを拾い上げる。オーダーメイドの衣服にしか使われない最高級の生地——その手触りを、悠斗が忘れるはずもなかった。一晩中、不安で張り裂けそうだった胸の奥に、ようやくわずかな希望が灯る。「社長と穂坂さんは、間違いなくこの近くにいる。しらみつぶしに探せ。一人たりとも見逃すな!」景凪が目を覚ましたとき、隣に渡の姿はなかった。心臓が跳ね上がり、弾かれたように身を起こす。入り口を塞いでいた木棒はすでに取り除かれていた。嫌な予感に胸を締め付けられながら、草の寝床から飛び出し、外へ駆け出す。だが、その視線の先に飛び込んできたのは、ひょいと顔を見せる渡の姿だった。彼は拾い集めた木棒を松葉杖代わりに突き、もう片方の手には麺の入った器を捧げ持っている。その背後には、土間のかまどから煙が立ち上っていた。「起きたか。少しでも食べておけ」渡はそう言って器を差し出した。その表情からは、昨夜の不穏な気配など微塵も感じられなかった。渡の無事な姿を見て、張り詰めていた景凪の肩から力が抜けた。安堵と同時に、猛烈な空腹感が襲ってくる。「あなたは?もう食べたの?」「ああ、済ませたよ。ここじゃ大したものは作れないけど、乾麺があったんだ。少し我慢してくれ」渡は申し訳な
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第563話

渡の手が再び伸びてきた瞬間、景凪は反射的に半歩退いていた。わずか半歩。だが、自分が何をしたかを悟り、彼女は凍りついたように立ち尽くす。その目に映ったのは、渡の瞳の奥で何かが音を立てて砕け散る瞬間だった。行き場を失った彼の手が、宙を彷徨い、止まった。『もし穂坂さんが、お前の本当の姿を知ったらどう思うだろうな?』兄・知聿の声が、渡の脳裏で冷やかに響く。もし彼女が知れば……俺がどのようにして今の地位まで這い上がってきたのか、その血塗られた過去を知れば、彼女の瞳に宿る恐怖は、今の十倍、いや百倍にも膨れ上がるだろう。渡の白く長い指がゆっくりと握りしめられ、力なく脇へと下ろされた。彼は目の前の景凪を見つめ、色の薄い唇を自嘲気味に歪めた。「……俺が怖いか?」その声は、水のように冷たく澄んでいた。景凪の喉が引きつる。何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。先ほどの一瞬、彼女が彼に対して抱いた恐怖は、紛れもない本物だったからだ。瀕死の重傷を負いながら、屈強な男を一人で制圧したこと。それも、ただ倒すだけでなく、ここまで惨たらしく痛めつける異常性。だが、今はそれに囚われている場合ではない。景凪は土間を飛び出し、母屋へと駆け込んだ。中を確認すると、重傷の圭吾が寝台で昏々と眠り続けている以外、熊代も志乃も姿を消していた。彼らの銃も見当たらない。渡は土間の入り口に佇んでいた。片足立ちに疲れ、土壁に背を預けている。景凪が慌ただしく家探しをして戻ってくるのを、彼は静かな目で見つめていた。「熊代たちはいつ出て行ったの?何をしに行ったか知ってる?」景凪の額には薄い汗が滲んでいた。「夜明けだ。少し出かけると言っていた」渡は何事もなかったかのように答える。「このハゲ頭を残してな。自分たちが戻るまでに、俺たちを始末しておけと命じていったんだ」景凪は絶句した。「だから」と、渡は淡々と続けた。「お前が寝ているのを邪魔されたくなくて、先に片付けた」その口調はあまりに平然としていた。まるで生きた人間を処理したのではなく、ありふれた雑用でも済ませたかのような、日常の一コマにすぎないと言わんばかりだった。景凪は戦慄した。渡の様子は、明らかに異常だった。彼にとって、自分を眠りから覚ますという些細な行為の方が、人間一人をなぶり殺しにすると
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第564話

そして土間からマッチを持ち出し、躊躇なく物置に火を放った。乾燥した藁の山にあっという間に火が回り、瞬く間に炎の舌が建物を舐め尽くす。もうもうと立ち上る黒煙と熱波。極悪人を憐れむつもりはないが、生きたまま焼き殺すほどの非情さは、人の命を救う医師としての矜持が許さなかった。この火の手が上がれば、悠斗たちや警察が駆けつけるだろう。逆に、熊代のような逃亡犯は、居場所が露見するのを恐れて近づかないはずだ。もっとも、仲間を見捨てるような人間かどうかまでは賭けられないが。「行くわよ」景凪は渡の体を支え、煙の中を抜け出した。「ここへ来る途中で地形を見ておいたの。この先に背の低い草むらが続いている窪地があるわ。そこなら見つかりにくい。渡、二人とも絶対に生き残るのよ!」しかし、その決意を嘲笑うような、甲高い声が背後から響いた。「あらあら、お涙頂戴の悲劇ってわけ?感動しすぎて泣けてきちゃうじゃないの」ゾッとして振り返ると、そこには志乃が立っていた。まさか、このタイミングで戻ってくるとは。志乃は腰をくねらせながら近づいてくる。その右手には黒光りする拳銃が握られ、銃口は真っ直ぎに二人へ向けられていた。彼女の顔には真新しいあざができ、頬は不自然に赤く腫れ上がっている。おそらく熊代に殴られ、腹いせに戻ってきたのだろう。その目は嫉妬と嗜虐的な喜びでギラついていた。渡は景凪を背に庇い、近づいてくる志乃を冷ややかに見据えた。漆黒の瞳の奥で、殺意が鋭い刃のように瞬く。志乃は口元に歪んだ笑みを浮かべていたが、寄り添う二人の姿を見るにつけ、胸の中でどす黒い嫉妬が渦巻くのを止められなかった。「ふん、昨日の夜はあんなに誘ってやったのに袖にするなんて、いい度胸だねえ。そんなにお熱なら、二人仲良くあの世へ逝きな!」景凪は渡の背中に隠れながら、そっと彼の掌にナイフを押し込んだ。口では必死に懇願するふりをする。「待ってください、撃たないで!殺さないでさえくれれば、何だって言うことを聞きますから!」志乃は鼻で笑い、渡の端正な顔立ちをねめつけるように眺めた。その目には、獲物を前にしたときのような嗜虐的な色が浮かんでいた。「昨日の晩、その綺麗な顔でそう言ってくれりゃあ、可愛がってやったのにねぇ……」カチリ。志乃は無情にも撃鉄を起こし、安全装置を外した。そ
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第565話

次の瞬間、景凪は強い力で抱きすくめられたかと思うと、世界が反転した。自分が何をされたのか理解するよりも早く、掌にぬめるような熱い感触が広がる。彼女の手は、渡の胸元に押し当てられていた。恐る恐る視線を落とすと、指の隙間からどす黒い赤が溢れ出し、彼の白いシャツを瞬く間に毒々しい花模様へと変えていく。血を流しているのは彼なのに、なぜか自分の方が急速に体温を奪われていくような錯覚に陥った。「社長!」悠斗が悲鳴のような声を上げた。茂みに隠れていた熊代は、即座に黒瀬家の影衛たちに取り押さえられたが、放たれた弾丸は取り消せない。「渡……嫌よ、死なないで!」景凪はかつてないほどのパニックに襲われていた。涙がボロボロとこぼれ落ち、視界を歪ませる。ぬぐう暇もなく、震える手で必死に傷口を押さえた。「泣くな……」渡がうわ言のように呟き、彼女の頬に手を伸ばそうとする。だが、その指先は頬に触れることなく、力なく虚空を切り、地面へと落ちた。バタバタバタ……頭上から轟音が降り注ぐ。手配していたヘリコプターが到着したのだ。機体から飛び出してきた医療チームが、手際よく渡をストレッチャーに乗せ、機内へと運び込んでいく。景凪も反射的にその後を追おうとした。だが、立ちはだかった悠斗に腕を掴まれ、制止される。「穂坂さん、あの場にあなたの席はありません。どうか、ここでお待ちを」景凪を制止する悠斗の言葉は、どこまでも冷静だった。「私も医者よ。何か役に立てるかもしれないわ……!」食い下がる景凪に対し、悠斗は微動だにせず、ただ淡々と諭した。「黒瀬家は、渡様のために世界最高峰の医療チームを招集しています。ご心配には及びません」彼は今回、あえて「社長」という肩書きではなく「渡様」という、黒瀬家の血縁者を示す呼称を用いた。その意味するところを悟り、景凪は急速に平静を取り戻した。目の前で轟音と共に飛び立つヘリコプターを見上げながら、彼女は理解する。黒瀬家という頂点に君臨する巨大な一族。その内情は、彼女の想像を絶する複雑さを孕んでいるのだろう。今、自分がついていくことは、瀕死の渡にさらなる波乱を招くことになりかねない。「……わかったわ」景凪は唇を噛み締め、悠斗に懇願するように言った。「影山さん、お願い。渡の容態に変化があったら、すぐに知らせて」「承知い
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第566話

バックミラー越しに、その場に取り残された姿月の姿を冷ややかに一瞥する。彼の瞳の奥には、氷のような冷気と陰惨な情念が渦巻いていた。……夢を見た。場所は手術室だ。手術台には渡が横たわっている。景凪は必死に腕を動かし、彼を蘇生させようとしていた。除細動器の出力を最大まで上げても、モニターの波形は無情に平坦になっていく。彼の心臓が止まるのを、ただ呆然と見届けることしかできなかった……「……っ、嫌!死なないで!」弾かれたように景凪は身を起こした。全身がびっしょりと冷や汗に濡れている。視界に飛び込んできたのは、目が痛くなるほど白い天井。鼻腔を突くのは、ツンとした消毒液の臭いだった。……夢か。荒い呼吸を整え、景凪はのろのろと頭を横に向けた。窓辺に、男が一人立っている。背が高く、すらりと伸びたその後ろ姿。逆光に浮かぶシルエットに、一瞬、渡の姿が重なって見えた気がして心臓が跳ねる。だが、男がゆっくりと振り返った瞬間、その淡い期待は無惨に打ち砕かれた。そこにいたのは、見飽きた顔。吐き気を催すほどよく知っているその男を認識した途端、景凪の瞳からすうっと感情が消え失せた。深雲だった。電話を切った直後なのだろう、その表情には陰鬱な冷たさが張り付いていた。しかし、ベッドの上で意識を取り戻した景凪と目が合うや否や、深雲の顔色は嘘のように柔和なものへと一変する。スマートフォンをポケットに滑り込ませ、彼は足早にベッドサイドへと歩み寄った。「景凪……やっと目が覚めたんだな。丸一日、眠り続けていたんだぞ」景凪は億劫そうに眉を寄せると、嫌悪感を隠そうともせず冷ややかな視線を彼に向けた。「……どうして、あなたがここにいるの」喉が焼け付くように乾いており、その声は掠れて弱々しかった。深雲はすぐには答えなかった。代わりにポットから温かい白湯を一杯注ぎ、ベッドのリクライニングを起こして彼女が飲みやすい角度に調整する。その手つきは、不気味なほど甲斐甲斐しかった。「まずは喉を潤してからだ。話はそれからでいいだろう」そう言って、深雲はコップを景凪の口元へと差し出した。景凪は露骨に顔をしかめ、ぷいと顔を背ける。「置いておいて。自分で飲むから」「……」深雲の手が止まる。瞳に影が落ち、自嘲気味に口角が歪んだ。「そこまで俺が嫌か?」景凪は否定せず、冷たい沈
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第567話

乾いた唇を舐め、喉の渇きを潤そうとするかのように、彼は必死に説明を続けた。「昨日、錦野文哉から連絡があった。姿月が清音に渡した匂い袋……あの中に、幻覚作用のある成分が検出されたそうだ。清音が最近いつも眠そうで、様子がおかしかった原因はあれだったんだ。それに……姿月の母親、小林雪華について調べたら、彼女は高度な催眠術師の資格を持っていた」薬物による朦朧状態に加え、催眠暗示。それだけ揃えば、五歳の子供を操り人形にするなど造作もないことだ。深雲は苦渋に顔を歪め、痛恨の念に目を閉じた。「俺だ……俺が清音を守ってやれなかった。それに景凪、お前のことも……」彼はついに自身の無力さを認めるように声を震わせた。「お前が行方不明になってから、俺も民間の捜索隊を雇ってずっと探させていたんだ。この二日間、一睡もできずに、ただお前が見つかるのを待っていた……」深雲の視線が縋るように景凪の顔を彷徨う。しかし、そこには何の感情も揺らめいてはいなかった。かつて彼だけを見つめ、彼のためだけに生きていた穂坂景凪は、五年前に死んだのだ。あの手術台の上で。今、彼の目の前にいる景凪は、ただ冷めきった瞳で彼を見据え、その奥底には嫌悪の色だけが淀んでいる。「それで?この二日間、あなたは警察に通報したの?」景凪の声は冷徹だった。「佐藤刑事に小林姿月の薄汚い所業を全部ぶちまけて、あいつに相応の報いを受けさせた?」深雲は言葉に詰まり、視線をふいと逸らした。「景凪、それは……」「散々謝っておきながら、結局あいつを守るのね」景凪は鼻で笑った。深雲の偽善など、とうに見抜いていたと言わんばかりに。「小林姿月が何をしたか分かっていながら、あいつが清音を傷つけていたと知りながら!それでもあなたはあいつを庇う!」深雲の口にする愛や後悔など、所詮その程度のものだ。言葉だけは立派で、行動が伴わない。景凪の眼差しが、そう断罪していた。深雲は手のひらで顔を強くこすった。「景凪、頼む。姿月の件は俺に任せてくれないか。もう少し時間が欲しい」その言葉を聞いた瞬間、景凪ははっと目を見開いた。ある可能性に思い至り、全身の痛みを無視してベッドから身を乗り出すと、深雲の襟首を乱暴に掴み上げる。「あなた、まだ何もしてないのね?」声が震えていた。激昂のあまり指先に力がこもらない。それでも
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第568話

準備を終えると、潤一はソファにどっかと座り、スマートフォンを取り出してレンズを向けた。カシャッ。景凪が目を丸くする。「……?」「じいさんへの報告用だ。完食後の写真も送れって言われてるんでな」「……」丸一日何も口にしていなかったとはいえ、気がかりなことが多すぎて食欲など湧かない。景凪は義務感で少しだけ箸をつけ、すぐに置いた。「わざわざ来てくれてありがとうございます、潤一さん。源造様にも、心配には及びませんとお伝えください」本当に生死の境を彷徨っているのは私じゃない……「了解」潤一は素直に頷き、身を乗り出して残飯の片付けを始めた。あまりの手際の良さに、景凪は恐縮する。「あの、自分でやりますから……」彼女が手を伸ばそうとすると、潤一がそれを軽く制した。その拍子に彼女の指先が彼の手の甲を掠め、ひやりとした冷たさを残していく。「言っただろ、じいさんの頼みなんだ。完璧にこなさないと俺が怒られる」潤一は手を止めず、意味ありげな視線を彼女に流した。「……本当に、何か困ってることはないか?」その声音には、ただのお見舞いの客とは思えない不穏な響きが含まれていた。彼女が望めば、どんな汚い手を使ってでも力になるという暗黙の了解。たとえば、あの目障りな元夫を始末することだって、厭わないというように。「実は……本当に一つ、お願いしたいことがあるんです」景凪の真剣な眼差しに、隠しきれない焦燥が混じる。潤一は口元に笑みを浮かべたまま促した。「ああ、何でも言ってくれ」「潤一さん、黒瀬家とは親しいですか?」予期せぬ名前が出てきて、潤一の眉がぴくりと跳ねた。「まあ、付き合いはあるな」「もしご迷惑でなければ、ある方のお見舞いに行っていただきたいんです。……黒瀬家の次男、黒瀬渡さんです」渡の名を口にした途端、景凪の心臓が早鐘を打った。今も瞼の裏に焼き付いている、自分の身代わりとなって崩れ落ちた彼の姿が鮮明に蘇る。「あの妾腹の子か」潤一は一瞬、眉をひそめた。その声音には、隠そうともしない侮蔑の色が滲んでいた。どれだけ取り繕っても、名家の人間特有の『正統な血筋以外を見下す』傲慢さは消せないらしい。景凪は胸の奥がざらついたが、今は彼に頼るしかない。不快感を押し殺し、平静を装った。「はい。彼が今どうなっているのか……危険な状
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第569話

「ええ……弥生、と言いますが」初対面の男に詰問され、桃子は戸惑った。だが、その切迫した響きに気圧され、正直に答えた。桃子は、辰希を幼稚園へ迎えに行く途中で、深雲からの電話を受けた。景凪が無事に救助された、今は病院にいる、と。知らせを聞いた桃子は、辰希を乗せてすぐに病院へ向かおうとした。だがその時、清音の友達だという小さな女の子――弥生が車の後部座席に乗り込んできたのだ。「一緒に行きたい」と懇願されて。辰希も「友達だから連れて行って」と言うし、弥生も景凪とは面識があるらしい。桃子はその場で弥生の保護者に連絡を取ろうとしたが、何度かけても繋がらなかった。仕方なく担任の森屋先生に事情を話し、許可を得て連れてきたのだ。道中、弥生はずっと大人しく座っていて、手のかからない良い子だった。それなのに、病院に着いてエレベーターを降りた途端、見知らぬ男の足にしがみついて離れなくなるとは。目の前でエレベーターのドアが閉まっていくのを、潤一は見送った。彼はそのまま片膝をつき、弥生と目線を合わせる。近くで見ると、その頬は痛々しいほど痩せこけていた。「……お前、小泉弥生(こいずみ やよい)だよな?」弥生はこくりと頷いた。そして恐る恐る小さな手を伸ばし、潤一の頬に触れた。「おじちゃんのこと、知ってるよ。写真で見たの」彼女は何か嬉しいことを思い出したように、目を三日月型に細めてえへへと笑った。「私の本当のパパとママと一緒に写ってたもん。ねえおじちゃん、おじちゃんが帰ってきたってことは、パパとママももうすぐ帰ってくる?」「……」潤一は絶句した。戦場に身を置き、人の死など日常茶飯事として見てきた。どんな悲惨な光景にも動じない自信があった。だが、この純粋な期待に満ちた瞳を前にして、彼の防壁はあまりにも脆く崩れ去った。「あいつらは……」喉が詰まる。子供をあしらう嘘など造作もないはずなのに、なぜか言葉が出てこない。潤一は救いを求めるように桃子を見上げた。「……俺はこの子を知っています。少しだけでいい、二人で話をさせてくれませんか」「駄目です」桃子は即座に拒否した。連れてきた以上、責任を持って送り届けなければならない。目の前の男は質の良い身なりをしていて、誘拐犯には見えない。だが、悪人が「私は悪人です」という顔をしていないことくらい
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第570話

電話を切った景凪は、佐藤刑事が現れるのを静かに待っていた。顔色はまだ紙のように白く、衰弱しきっている。それを見た桃子は、辰希の重みが負担になることを案じ、彼をベッドから降ろした。「辰希くん、弥生ちゃん。二人ともあっちのテーブルでお勉強しましょうね」病室の隅にある丸テーブルで、即席の勉強会が始まった。正確には、辰希先生による弥生の補習授業だ。辰希の通う幼稚園は英才教育で知られる名門校で、しかも彼はその中でも飛び級クラスに在籍している。当然ながら、弥生のクラスとは教材のレベルがまるで違う。辰希は小さな腕を組み、いっぱしの教師気取りで弥生の手元を覗き込んでいた。今日の課題は、全編英語のプリントだ。弥生は辰希の顔色を恐る恐る窺いながら、一問目の選択肢と睨めっこしていた。うーん……これかな?Aを書こうとして、ペン先が紙に触れた瞬間――「んっ」辰希がわざとらしい咳払いをした。「もう一回、よく考えて」「……」弥生は黙って消しゴムでAを消し、Bに書き直した。そして上目遣いで辰希を見る。「……こ、これでいい?」「……」辰希は心の中で溜め息をついた。なんでこんな簡単な問題が分からないんだろう?だが、その言葉をぐっと飲み込んだ。学校で隣の席に座る太っちょの啓明なら、一日に三回「バカ」と言ってもへらへら笑っているが、弥生は違う。彼女はガラス細工のように繊細そうだ。きっと「バカ」なんて言った日には、泣き出してしまうに違いない。辰希は観念したように自分のリュックから計算用紙を取り出し、サラサラと式を書き始めた。「いい?これはBじゃないよ。ここを見て……」二つの小さな頭が寄り添い合う。片方が熱心に教え、もう片方がそれを懸命に聞く姿は、微笑ましくも愛らしい。その光景になごみ、桃子は思わずスマートフォンで写真を撮った。「ふふ、弥生ちゃんは本当に素直でいい子ですねえ。それに比べて清音ちゃんときたら……ハッ」口が滑ったことに気づき、慌てて口をつぐんで景凪の方を見た。景凪の瞳が一瞬、暗く翳る。桃子は心の中で深く詫びた。いくら清音が恩知らずで、仇を母と慕っているとはいえ、彼女が景凪さんの実の娘である事実に変わりはない。実の我が子に裏切られる痛みがどれほどのものか、想像するだけで胸が痛む。「……景凪さん。清
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