All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 691 - Chapter 700

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第691話

封を切るまでもない。手触りだけで、中に写真が入っていると分かった。かなりの分厚さだった。景凪は、すがるような熱を帯びた深雲の視線を浴びながら、中身を取り出す。渡の写真だった。どれもこれも、目を疑うような凄惨な光景ばかり。彼女の知らない渡が、そこにいた。殺風景な真っ白な病室。ベッドに縛り付けられた彼は、血走った目で獣のようにカメラを睨みつけている。ベッドを囲む医師や看護師たちの視線は、まるでモルモットでも観察しているかのようだ。次の写真では、電気ショック用の椅子に拘束されていた。裸の上半身には、大小無数の傷跡が痛々しく這っている……景凪の手が微かに震えた。その震えを、深雲は「恐怖」によるものだと思い込んだらしい。得意げに口角が上がるのを必死に抑え込みながら、早口でまくしたてた。「黒瀬渡は帰国する前、海外の施設で長期的に隔離治療を受けていたんだ。あいつは頭がいかれた、危険な狂人なんだよ!医療スタッフに何度も襲いかかり、病院側も手を焼く最凶の患者だった!」「……この写真、どこで手に入れたの」「そんなことはどうでもいい。俺はお前に、黒瀬渡の裏の顔を知ってほしかったんだ!あいつは異常だ! 景凪!」深雲は声を潜め、さらに身を乗り出してくる。「あいつの頭はどうかしてる。大量の違法薬物に、電気ショック、正体不明の注射、臨死体験……おまけに地下格闘技にまで手を出してたんだ! 金目当てじゃない、ただ刺激を求めてな!」深雲が束の中から、リングに立つ渡の写真を引っ張り出した。全身血まみれだった。飛び散った血が、漆黒の冷ややかな瞳を禍々しく染め上げている。不気味な笑みを浮かべるその姿は、狂気と残酷さそのものだった。深雲は勝利を確信したように声を張った。「見たか景凪!黒瀬渡はまともな人間じゃないんだよ!」景凪はそっと目を閉じ、込み上げてくる感情を必死に押し殺した。だが、写真の血なまぐさい光景が脳裏に焼き付いて離れない。極限の苦痛は、別の極限の苦痛でしか紛らわせない……ボロボロに破壊され、無理やり繋ぎ止められた渡の体。繰り返される採血や血液の入れ替え。黒瀬家の実験台にされた日々。彼は、ただ、あまりにも痛すぎたのだ。「景凪、あともう数枚あるんだ、絶対に見ろ!」深雲は焦燥感に駆られたように、残りの写真を突きつけてきた。
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第692話

深雲は景凪の背中を見つめ、歯を食いしばり、ついに未練がましく声を荒らげた。「景凪!お前は12歳の時から俺を知ってるだろ。俺たち、15年も一緒にいたんだぞ……!ああ、たしかに俺が間違っていた。だけど景凪、俺への情が完全に消え失せたなんて、俺は絶対に信じないからな……!」だが、そんな言葉は景凪の耳にはただ滑稽に響くだけだった。彼女は一瞥もくれず、そのまま門の中へと歩みを進める。深雲はその場に立ち尽くしていた。彼女の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見届け、ゆっくりと目を閉じる。しばらくその場から動けずにいたが、やがて身を翻して車に乗り込んだ。あてもなく、市街地を車でぐるぐると走り回る。ルームミラーには、ひどく陰鬱な顔が映っていた。景凪のあの冷酷なまでに無関心な態度が脳裏をよぎる。胸の奥で黒い感情が激しく渦巻き、深雲は力任せにハンドルを殴りつけた。けたたましいホーンの音が夜の街に響き渡る。——違う!——俺が思い描いていたシナリオとは、まったく違うじゃないか!!渡のあのおぞましい裏の顔を知れば、景凪は怯えて逃げ出すはずだったのに……『一度しか言わないから、よく聞いて。私がこの先の人生で、もう一度誰かと結婚して、一生を添い遂げるとすれば。その相手は、絶対に渡だけよ』深雲は憎々しげに目を閉じた。焦燥感で頭がどうにかなりそうだった。よりによってそんな時、空気を読まない着信音が車内に鳴り響く。忌々しげに画面に目を落とすと、そこには――『唐沢玲凪』の文字。深雲は迷わず着信を切った。代わりに暮翔へ電話をかける。案の定、この時間はちょうど彼が夜の街へ繰り出すタイミングだった。いる場所を聞き出すと、深雲はアクセルを思い切り踏み込んだ。同じ頃、とある女子寮の一室。玲凪が洗面器を抱えて戻ってくると、ルームメイトの長谷川結衣(はせがわ ゆい)と星野美月(ほしの みつき)が玲凪の机に群がり、充電中のスマホを勝手に見ているところだった。二人とも入り口に背を向けており、玲凪が帰ってきたことに気づいていない。「見てよこれ」と結衣が鼻で笑う。「全然電話に出てくれないじゃん。……ウケる。鷹野社長の番号を知ってるからって何?あんな大物社長が、こんな女を相手にするわけないのに」美月も同調して嘲笑う。「ふふっ。運転代行で一回社長の車に乗ったく
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第693話

暮翔に教えられた住所へ駆けつけると、道端でゴミ箱を抱えて吐いている深雲と、その背中をさすっている暮翔の姿があった。暮翔もまた、頭の先から爪先までブランド品で固めた御曹司だ。慣れない介抱に手つきはおぼつかなく、今にも深雲の後頭部を叩きそうな危うさがある。暮翔は鼻をつまみ、顔をしかめていた。「おい、大丈夫かよ」深雲に答える余裕はない。ふらつきながら立ち上がり、壁に寄りかかって身体を支えるのが精一杯だ。細めた視線の先には、こちらへ急ぐ見覚えのある影が映っていた。深雲の視線を追って暮翔が振り返り、目を見開く。「景凪さ……」最後まで名前を呼ぶ前に、女が目の前までやってきた。暮翔は酒に飲まれていたわけではない。近づいたその顔を見て、彼女が景凪ではないことに気づく。だが、あまりに似ていた。今の景凪ではない。大学生の頃の、あの頃の景凪に、瓜二つだったのだ。玲凪は少し緊張した面持ちで暮翔を見やり、軽く会釈した。「こんばんは、先ほどお電話いただいた者です。深雲さんを迎えに来ました」暮翔の目が、意味ありげに細められる。「名前は?」「唐沢、玲凪です……」言い終わるより早く、深雲がふらふらと彼女に倒れ込んできた。「景凪……」深雲の顎が玲凪の首筋に沈み込み、目を閉じたままその名を呼ぶ。吐き出される熱い息に、玲凪は思わず手をぎゅっと握りしめた。暮翔には分かっていた。深雲が呼んでいるのは、目の前にいる「玲凪」ではない。似た響きの名を持つ、かつての妻のことだ。……だが、そんなことはどうでもいい。本物が手に入らないなら、身代わりで妥協する。そういうことだろう。暮翔は面倒くさそうに口角を上げると、玲凪が深雲を車に押し込むのを手伝った。「じゃあ玲凪ちゃん、深雲をよろしくね」車のドアを閉め、暮翔は改めて玲凪の顔をまじまじと観察した。確かに似ている。だが、よく見れば顔立ちの美しさは景凪の足元にも及ばない。体つきはそっくりだ。特に、その着ている服が……暮翔の記憶力が特別に良いわけではない。景凪と会う機会自体が多くなかったからこそ、覚えているのだ。その服はいつだったか、深雲の同伴でパーティーに現れた景凪が、途中でわざわざ着替えてきたものと同じだった。景凪の趣味ではない。深雲の妹、鷹野伊雲の服だ。伊雲の不用品を、鷹野家はまるで「あり
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第694話

寝起きと二日酔いの頭が、ズキズキと脈打つように痛んだ。深雲は強くこめかみを押さえ、目を閉じて深く息を吸い込む。「分かった、母さん。落ち着いてくれ。俺が人を出して探させるから」電話を切り、ソファに腰を下ろす。すぐに秘書の海舟へ連絡し、伊雲の足取りを追うよう指示した。火をつけたタバコを吸い終わらないうちに、折り返しの着信がある。「社長。伊雲お嬢様は、三時間前にヤダ島へ向かう飛行機に乗られたようです」深雲の顔がスッと険しくなる。ヤダ島は交通の要所だ。国際空港があり、あらゆる場所へと路線が繋がっている。今から人をやって捕まえようにも、到底不可能だった。彼は研時に電話をかけた。傭兵界隈の裏ルートにツテがあるのは、彼くらいしかいない。電話がつながるなり、相手が口を開くより早く深雲が切り出した。「今回、児玉潤一が任務でどこへ向かったか、探れるか?」研時は数秒ほど面食らっていたが、すぐに状況を察した。「伊雲ちゃん、まだ諦めてなかったのか。また児玉潤一を追いかけたんだな?」深雲は沈黙で肯定した。「それにしても、あの子はいったいどこで潤一のスケジュールを嗅ぎつけたんだ?」研時は呆れ果てたように声を上げる。「……手は打てるか?」深雲は話を急いだ。「確約はできないな……」研時は渋った。「探ること自体は不可能じゃないが、厄介なことになる。聞いた話じゃ、潤一のチームでトラブルがあったらしい。奴だけが任務先から撤退できなかったって噂だ。源造さんも心配のあまり寝込んでいるらしい。こんな時に首を突っ込めば、児玉家の逆鱗に触れるぞ……」深雲は眉間を深く刻んだ。今さら伊雲がどうやって潤一の足取りを掴んだのかなど、どうでもいい。とにかく、あの馬鹿な妹を連れ戻さなければ!潤一が向かったのは、紛れもなく危険地帯だ。いつ命を落としてもおかしくない凄惨な任務に就いている。ずっと実家で甘やかされて育った伊雲は、外の世界の恐ろしさを欠片も分かっていないのだ!景凪の言う通りだ。「伊雲は甘やかされた大きな子供よ」。あの言葉はまったく正しかった。だが、その大きな子供は、深雲にとってたった一人の妹なのだ……「とにかく、探りを入れてみてくれ。何か問題が起きたら、俺が全責任を負う。伊雲に万が一のことがあれば、母さんが耐えられないんだ。……頼む」ここまで言われ
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第695話

子供たちを学校に送り届け、穂坂邸へ戻ろうとした矢先。療養所にいる佐久間広重から着信があった。景凪の胸に、嫌な予感がよぎる。広重さんは今、療養所で付きっきりで祖父の世話をしている。よほどのことがない限り、彼の方から電話をかけてくることはないはずだ……通話ボタンを押す。「もしもし、広重さん。どうしたの?」「お嬢様、今すぐ療養所へいらしてください。益雄様が目を覚まされました。お嬢様に会いたいと……」広重は言葉を区切り、押し殺したように声を震わせた。そこに目覚めを喜ぶ色は微塵もない。「お嬢様……どうか、心の準備を」景凪は即座に悟った。祖父の目覚めは、快方に向かっているわけではない。命の灯火が消える直前の、最期の輝きなのだと。口を開けたものの、一瞬、声が出なかった。「……お嬢様?」返事がないのを心配して、広重が声をかける。景凪はハンドルを白くなるほど握り締め、震える息を細く吐き出した。「分かったわ。今すぐ向かう」道中、景凪は前方の道路を食い入るように見つめていた。目頭がうっすらと赤く滲む。必死に涙をこらえていた。だが、療養所に到着する頃には、不思議と心は落ち着きを取り戻していた。入り口では、広重が待っていた。その目は赤く腫れぼったく、すでにひとしきり泣きはらした後のようだ。車から降りてきた景凪を認め、彼が声を絞り出す。「お嬢様」景凪は静かに頷き、広重の肩を軽く叩いた。そして二人で、祖父の益雄の病室へと向かう。広重は中へは入らなかった。「お嬢様。益雄様は、お嬢様とだけお会いになりたいそうです。二人きりで話したいことがあると。私は外でお守りしております。誰にも邪魔はさせませんから」景凪は一人、病室のドアを押し開けた。益雄はベッドに上体を起こして座っていた。顔色はそれほど悪くない。手にはアルバムが握られている。ゆっくりと近づいてみると、彼がめくっているのは昔の古い写真だった。まだ、家族が全員揃っていた頃の……「おじいちゃん」景凪は小さく声をかけ、益雄のそばに腰を下ろした。益雄は顔を上げず、皺だらけの手で写真の中の幼い景凪をそっと撫でた。やがて、ゆっくりと視線を上げ、すっかり大人になった目の前の孫娘を見つめる。その濁った瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。「うちの小さなお姫様も、あっという間にこんなに大きく
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第696話

急いで駆けつけた渡が目にしたのは、ベッドの傍らに座り、冷たくなり始めた益雄の手を静かに握りしめる景凪の姿だった。言葉を呑み込み、渡はゆっくりと部屋へ足を踏み入れる。「景凪……」少しでも声が大きいと彼女を壊してしまいそうな気がして、渡はかすれた声で小さく名を呼んだ。景凪はゆっくりと顔を上げた。その目は赤く腫れ、もう流す涙すら枯れ果てている。渡は彼女のそばへ歩み寄り、静かに膝をついた。蒼白く悲痛な景凪の面差しを見つめるその瞳に、隠しきれない胸の痛みが揺れる。ためらうように、益雄を握りしめている景凪の手にそっと触れる。彼女が拒まないのを確かめると少しだけ力を込め、その氷のように冷たい手を自分の両手で包み込んだ。「渡……」景凪は消え入りそうな声でつぶやいた。「これで穂坂の家には、私一人だけになっちゃった……」渡は何も言わず、彼女を強く抱きしめた。景凪は自嘲するように、不器用に微笑もうとする。「本当は、完全な一人ぼっちじゃないはずなんだけどね。顔も知らないお父さんがどこかにいるから」渡はしばらく黙ったあと、低い声で囁いた。「必ず見つけ出す。俺が約束する……」その後二日間、景凪は葬儀の準備に追われた。知らせるべき親戚や友人もいない中、彼女が下した一番大きな決断。それは、古い屋敷の地下室から祖母・百合子の遺体を連れ出し、祖父と一緒に埋葬することだった。渡は片時も離れず彼女に付き添った。人手や墓地の手配など、景凪が口にする前にすべて完璧に整えてみせた。桃子さんと息子の辰希も、彼の手配で一時的に梧桐苑へ移され、手厚く保護されている。埋葬の日。空は重く垂れ込め、ちらちらと小雪が舞っていた。渡は黒い傘をさしかけ、景凪の隣に静かに寄り添っている。生前そのままの姿を留め、三十代そこそこにしか見えない百合子の遺体を前にしても、彼の表情は少しも揺らがなかった。景凪はポツリとこぼした。「おじいちゃん、言ってた……自分は愛する人を救えなかったけど、あなたはそれをやり遂げたって」傍らに立つ渡を見上げる。その瞳の奥にはあまりにも多くの感情が渦巻き、視線そのものが重い質量を持っているかのようだった。一人の人間を、これほどまでに長く愛し抜くことができるのだろうか。どうやったら、そんな想いを抱き続けられるのだろう。「渡……私、あなたに
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第697話

「ええ、すぐにご用意しますね!」桃子さんは足早に屋敷の中へ戻っていく。渡はしゃがみ込み、辰希と目線を合わせた。「辰希、俺と一緒に遊ぶか?囲碁が好きだったよな。少し打たないか?」まだ幼い辰希は、景凪が微かに頷くのを見ると、たちまち大好きな囲碁へと気を引かれた。「うん!」景凪は階段を上る前、リビングに視線を向けた。盤面に向かって真剣に考え込む大人と子供。その光景は、胸が締め付けられるほど温かかった。彼女は音もなくふっと微笑み、階段を上がっていく。背を向けたその瞬間。渡はスッと視線を上げ、彼女の姿を静かに見つめていた。「渡おじさん、次だよ!」辰希の声で、渡の意識は再び盤上へと引き戻される。渡は白石をつまみ、パチリと盤に置いた。辰希は盤面をじっと見つめ、考え込みながらゆっくりと石を打つ。「ねえ、渡おじさん……」「ん?」渡は気のない返事をしつつ、また白石を打つ。辰希が唐突に口を開いた。「ママと結婚するの?」盤へ伸びかけていた渡の手が、ピタリと止まる。だが、すぐに何事もなかったかのように石を手に取った。「どうしてそんなこと聞くんだ?」「だって、ママはおじさんのこと大好きだから……でも、もしパパみたいに、いつかママを悲しませるなら……」辰希は顔を上げた。景凪によく似た目元が、真剣な光を帯びて渡を射抜く。「早めにママから離れて。ママを泣かせないで」渡はフッと口角を上げ、辰希の頭をポンポンと撫でた。結局、その問いに答えることはなかった。二局打ち終える頃には、すっかり辰希の寝る時間になっていた。桃子さんが呼びに来る。渡は一人で碁盤を片付け、立ち上がった。その瞬間――視界が激しく激しく揺らぎ、真っ白に飛んだ。強く目を閉じ、頭を激しく振る。白い光は、底なしの暗闇へと呑み込まれていった。渡はふらつく体を必死に支え、部屋の構造の記憶だけを頼りに書斎へと向かった。薬は引き出しの中だ。錠剤をいくつか取り出すと、水も飲まずにそのまま飲み込む。副作用の進行は、ウィル医師の予想を遥かに上回る早さで、容赦なく体を蝕んでいた。目を閉じたまましばらくじっと耐えていると、やがて視力が戻ってくる。計画を前倒しにする必要があるな……苛立たしいスマホの振動音が鳴った。電話に出ると、ひどくしゃがれた男の声が聞こえてき
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第698話

熱いお湯に浸かった後、景凪はベッドに横たわっていた。目を閉じると体の疲れは感じるのに、頭の中には様々な考えが渦巻き、全く眠りに落ちない。どれくらい時間が経っただろうか。ようやく強烈な眠気が襲ってきた。まどろみの中、背後のマットレスがゆっくりと沈み込むのを感じる。目を開けるより先に、背後から渡の腕が伸びてきて、すっぽりとその体躯に包み込まれた。彼の体温はいつもより低い。景凪はわずかに眉をひそめ、無意識に彼の手首に指を当て、脈を診ようとした。渡は彼女の首筋に顔を埋め、くぐもった声で苦笑する。「穂坂先生……また職業病が出たのか?」景凪は冗談に応じる余裕もなく、真剣に脈を読んだ。病状が悪化していないことを確認し、ようやく少しだけホッと胸をなでおろす。寝返りを打って渡と向かい合い、その頬を両手でそっと包み込んだ。「ねえ、ちゃんと自分の体を大切にして。私が絶対に、あなたを治す薬を見つけるから。絶対に!」力強く言い切ったその言葉は、彼に向けているというより、自分自身に言い聞かせているようだった。渡にはそれが痛いほど分かっていた。渡の眼差しは、どこまでも優しい。「ああ。お姫様なら何だってできるさ」景凪はふっと笑った。「渡ってば。私が『太陽は西から昇る』って言っても、あなたは『そうだね』って言いそう」彼は目を細めて微笑み、気怠げに彼女を自身の深くへ抱き寄せた。「お姫様の言うことは、いつだって正しいからな」それは決して甘いだけの言葉ではない。彼にとって、それは絶対の事実であり、心の底からの本心だった。景凪は目を閉じ、口元の笑みをさらに深めた。「辰希との勝負、どっちが勝ったの?」渡は気怠げに彼女のうなじを撫でながら、ぽつりとこぼした。「引き分けってところかな」「それなら大したものね。辰希はすごく強いんだから。互角に戦えたなら、褒めてあげる」渡はフッと笑う。「俺が手加減してやったとは考えないのか?」景凪は薄く目を開けて彼を見た。「私以外の誰かに、あなたが譲るわけないじゃない」渡は一瞬言葉を失い、やがて胸を震わせて低く笑い始めた。景凪自身、珍しく図々しいことを言った自覚はあった。ここまで笑われるとさすがに恥ずかしくなり、ぽかっと彼の胸を叩く。「もう、渡!」少し拗ねたような甘い響きは、聞く者の心を溶かしてしまいそうだっ
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第699話

「サンドイッチで十分よ。ありがとう、桃子さん」「かしこまりました。それじゃあ、渡さんは……」桃子さんが言い終わる前に、長身の渡がダイニングへ歩いてきた。「少し用事ができた。朝食は外で済ませるよ」渡は辰希に視線を移す。「辰希、囲碁はまた今度な」「いってらっしゃい、渡おじさん」渡は流れるような動作で景凪の額に軽くキスを落とした。「行ってくる」景凪は小さく唇を噛んだ。喉まで出かかった言葉があった。「渡……」「ん?」渡は足を止め、振り返って言葉の続きを待つ。息を呑むほど整っていて、それでいてあまりにも蒼白な彼の顔を見つめ、景凪は結局何も言い出せなかった。ただ「ちょっと待ってて」とだけ告げ、二階へ駆け上がる。戻ってきた彼女の手には、マフラーが握られていた。柔らかく手触りの良い、グレーのカシミヤ。景凪はそれを渡の首元に丁寧に巻いた。「今日は雪になるみたいだから。外は冷えるわ、風邪をひかないようにね」渡は大人しく少し首を下げ、彼女がマフラーを巻くのに任せた。「行ってくる」彼女の頬に手で触れようと腕を上げかけたが、自分の指先がひどく冷え切っていることに気づき、感情を押し殺すように手を下ろす。そのまま背を向け、外へと歩き出した。門の前に停まった車の傍らでは、悠斗が待機していた。後部座席に乗り込み、窓越しに視線をやると、玄関口まで見送りに来た景凪の姿が見えた。マジックミラーの窓からは、彼女にこちらの姿は見えない。渡はしばらくその姿を見つめた後、静かに言った。「車を出してくれ」首に巻かれたマフラーにそっと触れる。とても温かかった……目の前を滑り出していく渡の車を見送りながら、景凪はどういうわけか、胸の奥がぎゅっと息苦しくなるような不安を感じていた。「景凪さん」桃子さんが心配そうに歩み寄ってくる。「こんなところで冷たい風に当たらないでくださいな。渡さんも、用事が済めばすぐに帰っていらっしゃいますよ」振り返ると、桃子さんが少しからかうような目をしていた。純粋に彼氏と離れるのが寂しいのだと勘違いしているらしい。景凪は軽く笑うだけで、あえて訂正はしなかった。仮に説明しようとしても、何から話せばいいか自分でも分からない。何か明確な確証があるわけではない。ただ、理由の分からない焦燥感が胸をざわつかせて
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第700話

景凪は無視して車に乗り込もうとしたが、焦った深雲が歩み寄り、ドアの前に立ち塞がった。校門の前にいた数人の警備員が、すぐさまこちらの不穏な空気に気づく。近づいてきこそしなかったものの、鋭い視線を向けて警戒している。景凪は冷ややかな目で深雲を睨みつけた。「私がここで声を上げれば、天下の鷹野社長様がその場で取り押さえられることになるわよ。どいてちょうだい」「景凪、頼む。どうしても君の力を借りたいことがあるんだ」深雲は声を低くして懇願した。「興味ないわ」「辰希と清音のためだと思って、話を聞いてくれないか?」その言葉に、景凪の冷たい表情がわずかに揺らいだ。深雲は密かに安堵の息を吐く。彼には分かっていた。子供が景凪の弱点であり、彼女がどれほど自分を冷酷に拒絶し、鷹野家を見限ろうとも、子供たちがいる限り完全に縁を切ることはできないのだと。「ここは話をするような場所じゃない。近くのカフェに行こう。時間は取らせない、三十分だけでいい。頼む」「……」景凪は眉を寄せてしばらく考えていたが、ついに渋々といった様子で頷いた。「三十分だけよ」カフェの店内。窓から差し込む冬の太陽はそもそも温度を持たない上に、ガラス越しとなれば、ただ冷ややかな明るさを落とすだけだった。店員が注文を取りに来ると、深雲が無意識に口を開いた。「アメリカンを二杯」しかし、景凪がそれを遮る。「私のはカフェラテで」深雲は一瞬ハッとして、複雑な眼差しを景凪に向けた。だが彼女は淡々としたまま、彼の視線を真っ向から受け流した。彼はまだ過去に囚われている。かつて、深雲の好みを何でも自分の好みに合わせてくれていた景凪は、五年間の昏睡から目を覚ましたあの日に、もう死んでしまったというのに。深雲はうつむき、自嘲するような苦しい笑みを漏らした。「すまない、君の好みも聞かずに勝手に頼んでしまって」彼は顔を上げ、真剣な眼差しで景凪を見つめた。「カフェラテだな。覚えておくよ」景凪はただ滑稽に思えた。人生の十五年を共にし、同じベッドで眠った日々。だが、離婚して彼女の愛が完全に冷め切ってから、ようやくこの男は彼女を対等な一人の人間として尊重し、その好みを覚えようとしている。時計に視線を落とし、景凪は感情を感じさせない声で促した。「何が聞きたいの?」深雲は重いため息をつ
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