All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

「ああ、それは児玉潤一さんね。児玉家のご令息よ。悪い人じゃないわ」児玉家といえば、誰もが知る名門だ。桃子は目を丸くした。「まさか弥生ちゃんがそんな良家の方と知り合いだったなんて。あの子、『おじちゃん』って呼んで懐いていましたよ」「えっ、弥生ちゃんが潤一さんと?」景凪は驚きのあまり、思わず勉強中の弥生を見やった。以前、担任の森屋先生に弥生の身の上を尋ねたことがあったが、「あの子は可哀想な境遇で……」と言葉を濁されただけだった。名門幼稚園に通っている以上、それなりの家柄なのだろうとは思っていたが、まさかあの児玉潤一と繋がりがあるとは……弥生から詳しい事情を聞く間もなく、病室のドアがノックされた。現れたのは、制服姿の佐藤刑事だった。「穂坂さん、失礼します」弥生は佐藤に気づくと、ぺこりと頭を下げた。「こんにちは、警察のおじさん」「やあ、また会ったね」佐藤も顔を綻ばせ、手を振り返す。この賢い女の子のことは、彼もよく覚えていた。「桃子さん、申し訳ないけれど、弥生ちゃんを送り届けてから辰希と家に帰ってもらえるかしら。佐藤刑事と少し込み入った話をしたいの」景凪が頼むと、辰希が即座に小さな手を挙げた。「僕、残るよ。ママと一緒にいたい」「駄目よ、辰希。ママはここで大丈夫だから。それに、あなたがいたらママ気が散ってしまって、お巡りさんの質問にちゃんと答えられないかもしれないわ。悪い人を捕まえるお手伝いができなくなっちゃう」景凪は辰希の髪を優しく撫で、諭すように言った。「明日また来てくれるでしょう?」辰希は少し考え込み、真剣な顔で交換条件を出した。「じゃあママ、明日は学校休んで一日中一緒にいてもいい?勉強は遅れないようにするから!」景凪は胸が締め付けられる思いがした。この子はまだ気にしているのだ。あの観覧車の日、母親のそばについていられなかったことを。「もちろんよ。じゃあ明日の朝、美味しいご飯を持ってきてくれるのを待ってる」「うん、分かった!」辰希はようやく納得し、笑顔を見せた。そして佐藤刑事に向かってビシッと敬礼してみせる。「お巡りさん、ママを頼んだよ。でもあんまり長くお喋りしちゃだめだからね。ママはまだ弱ってるんだから」その大人びた物言いに、佐藤は苦笑した。「はいはい、了解。君のママを疲れさせた
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第572話

鷹野家のヴィラ。家政婦が二人増えていた。マツとタネ、いずれも典子が直々に選りすぐった者たちだ。マツは厨房で夕食の支度をしている。一方、タネは居間に残り、甲斐甲斐しく掃除をするふりをしながら、ソファに座る姿月と清音から決して目を離そうとしなかった。清音は手元の積み木をいじりまわしている。「姿月ママ、今日ね、学校の帰りにお兄ちゃんに会ったの」清音は沈んだ声で言った。「でも、お兄ちゃん、私のこと無視したの。弥生ちゃんも口きいてくれなくて……ママ、弥生ちゃんのこと知ってる?」小さな手で積み木をひとつ握りしめ、清音は姿月を見上げた。「クラスで一番痩せてる女の子だよ。前はずっといじめられてて、私が守ってあげてたのに。ここ二、三日、全然仲良くしてくれないの」だが、姿月は上の空だった。頭の中は、死んだはずの景凪が生きていたという事実で埋め尽くされている。しかも悪いことに、母親の雪華とは午後から連絡がつかないのだ。今の彼女には、知恵を貸してくれる人間など一人も残されていなかった。「だったら、他の子と遊んでくればいいじゃない」姿月は、どうでもよさそうに相槌を打つだけだ。清音は唇を尖らせた。「当たり前でしょ。私、他にも友達いっぱいいるもん。ゆいなちゃんとか、りかちゃんとか……私たちこそ本当の友達なんだから。弥生ちゃんなんて、可哀想だから入れてあげただけだもん。遊んでくれないなら、もういい!」強がってはみたものの、清音の声は尻すぼみに小さくなっていった。本当のことを言えば、一番辛いのは、大好きなお兄ちゃんが急に無視し始めたことだ。あの日、観覧車のある遊園地から帰ってきて以来、辰希は一度も家に帰ってきていない。あの日、あの時――清音の記憶にあるのは、赤い髪のピエロだ。ピエロを見つけて追いかけた。そのあと姿月ママが現れて、すごくいい香りがして、急に眠くなって……目が覚めたときには、姿月ママと一緒に帰りの車に乗っていた。本当のママ――景凪のことについては、清音はうつむいて口をつぐんだ。姿月ママの前では、その名の欠片さえ口に出せない。どちらか一人しか選べないのだとしたら、自分は姿月ママを選んだのだ。だったら、もう景凪には会えないし、話題にするのもいけない。お兄ちゃんは、本当のママの方を選んだのかな……考えれば考えるほど
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第573話

だが深雲は、冷ややかな視線を一瞥くれただけで、彼女の手を避けるようにして上着をマツに渡した。「深雲様、お夕食の支度は整っております。どうぞ、手をお洗いになってください」マツが恭しく頭を下げる。ちょうどその時、トイレから出てきた清音が父親の姿を見つけた。「パパ!」弾けるような笑顔で、小さな体が深雲の足元へ飛び込んでいく。「おう、俺の大切なお姫様」深雲は一瞬にして相好を崩すと、片膝をついて小さな身体を抱きとめた。「今日は学校どうだった?」その問いかけが引き金になったのか、清音は父親の肩に顔を埋め、涙を浮かべて甘えた声を出した。「パパ……お兄ちゃんが、私を無視するの……」すかさず姿月が割り込む。「そんなことないわよ、清音ちゃん。お兄ちゃんはいつだってあなたのことが大好きでしょう?」彼女は深雲の腕にすがりついた。「ねえ、深雲さん。今度の週末、清音ちゃんを連れてキャンプに行かない?桃子さんに頼んで辰希くんも来てもらって、家族みんなでリフレッシュしましょうよ。最近、全然お出かけしてないじゃない」だが深雲は、冷ややかに彼女の手を振り払った。「まずは食事だ」それだけ言い捨てると、清音を抱いたままダイニングへ歩いていく。タネとマツが目配せをした。二人とも典子直属の人間だ。姿月がどんな女かなど、とうに承知している。口には出さないが、その視線は雄弁に語っていた――ざまあみろ、泥棒猫め。姿月は屈辱に唇を噛みながら、それでも笑顔を貼り付けてテーブルへ向かった。そして椅子を引こうとしたその時だ。「そこには座るな」深雲の声が飛んだ。彼はこちらを見ようともせず、ただ有無を言わせぬ響きを孕んでいた。「席を変えろ」そこは、かつて景凪が座っていた場所だった。姿月はこみ上げる怒りを飲み込み、大人しく清音の隣へ移動した。いつものように清音の分のスープをよそい、続けて深雲の器にも手を伸ばそうとする。だが彼は、まるで汚いものでも避けるかのように、さりげなく器を遠ざけた。針のむしろのような夕食だった。味がしないどころか、砂を噛むような時間だった。食事が終わると、深雲はタネとマツに清音の着替えや身の回りのものをまとめさせ、実家である鷹野家の本邸へ送り届けるよう命じた。「清音、おじいちゃんもおばあちゃんも、伊雲おばちゃんも、ひいお
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第574話

「嫌よ……こんなもの、いらない!」姿月は金切声を上げると、目の前の書類をびりびりと引き裂いた。そのまま深雲の胸に飛び込み、彼の体にすがりつく。「深雲さん、あなた以外は何もいらないの!お願い、捨てないで!」深雲は重い溜息をつき、彼女を引き剥がそうとしたが、姿月は死に物狂いでしがみついて離れない。「深雲さん、景凪さんに何を言われたの?騙されないで。あの人は私を恨んでるのよ。私があなたを奪ったから。それに、清音ちゃんが私と仲良くしてるのも気に入らないのよ……でも私は、清音ちゃんのことを本当の娘だと思ってる。実の母親以上に、誰よりも愛してるって知ってるでしょ!?」半狂乱になりながら、なりふり構わず言葉を重ねる。「全部、景凪さんの嘘よ。私を悪者にして、あなたを取り返そうとしてるだけなの!」ここ数日の騒動で、深雲の神経はすでに限界まで擦り減っていた。取り返す、か。景凪のあの冷え切った、侮蔑に満ちた眼差しを思い出し、深雲の喉から乾いた笑いが漏れた。彼女が自分を取り戻そうとしているなら、どんなにいいか。だが現実は違う。景凪は今回ばかりは、本気で自分を見限ったのだ。「深雲さん、お願い……大学の頃から、ずっとずっと好きだったの。何年も何年も、あなたのそばにいたじゃない。あなたのためなら命だって……」姿月の涙声が鼓膜を打つたび、深雲の苛立ちは募っていく。これほどまでに女の涙を鬱陶しいと感じたのは初めてだった。かつては、景凪のあまりの強さと完璧さに息が詰まっていた。彼女は会社の問題も、家庭のことも、そして深雲自身のことすらも、すべて一人で完璧に処理してしまった。社員からの信頼も厚く、彼が口を挟む隙などどこにもなかった。景凪はめったに泣かなかった。少なくとも、彼の前では決して涙を見せなかった。『大丈夫、私が何とかするから。心配しないで』それが彼女の口癖だった。その言葉を聞くたび、深雲の中で劣等感が膨れ上がり、心の均衡が崩れていくのを感じていた。だからこそ、景凪が植物状態になり、物言わぬ体となってベッドに横たわったとき、彼は心のどこかで卑しい喜びを感じてしまったのだ。これでようやく、彼女の影に怯えることなく、対等になれる――いや、彼女の上に立てるのだと。だが今、突きつけられた現実は残酷だった。この五年間、彼が享受してきた栄光も
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第575話

「やめてよ……返してなんて欲しくない。ただ、私を愛してくれればいいの!」深雲は目の前で泣きじゃくる姿月を見ているようで、その瞳の奥には別の誰かが映っていた。「景凪は、俺の前でこんなふうに泣いたことがない。自分から何かをしてほしいとねだったことも、一度もなかった」だからこそ、彼女には何も必要ないのだと思い込んでいた。彼女の献身も犠牲も、すべて当たり前のこととして受け取っていた。そんな時に現れた姿月は、新鮮だった。全身全霊で自分を愛し、小賢しい計算はするが自分を脅かすほどには賢くない。泣いてすがり、庇護を求めてくる女。それが、男としての深雲のちっぽけな虚栄心を満たしてくれたのだ。「ああ、確かに前はお前が気に入っていたよ。多少の小細工や、俺を巡って嫉妬する姿も、いじらしくて可愛げがあった」深雲は自嘲めいた笑みを浮かべたが、その瞳からは温度が急速に失われ、代わりに冷酷な色が広がっていった。「だがな、もう飽きたんだ」どんなに夢中になった玩具だって、遊び続ければいずれ飽きが来る。それと同じことだ。姿月は凍りついたように動けなくなった。全身の血が引いていく。「深雲……何を言ってるの?飽きたって、私のこと?」深雲が煩わしげに手を払うと、姿月は糸の切れた人形のように絨毯の上へ崩れ落ちた。彼は立ち上がり、冷ややかな視線で見下ろした。「あの書類に書いたものは手切れ金だ。お前が俺に費やした時間への対価であり、かつて病院で死にかけてまで俺に輸血してくれたことへの礼でもある。受け取るかどうかは好きにしろ」そう言い捨てると、深雲は無情にも彼女の前を通り過ぎていった。上着を手に取り、背中越しに冷淡な言葉を投げる。「猶予は五日間だ。その間だけはこの家に置いてやるが、俺はもう二度と戻らない」遠ざかる冷酷な背中を見つめながら、姿月はよろめきながら立ち上がった。ふと、視界の端に果物ナイフが映る。彼女は弾かれたようにそれを掴むと、ドアノブに手をかけた深雲の前へ駆け出し、行く手を阻んだ。「ダメよ深雲さん!行かないで!もしこのまま出て行くなら、ここで死んでやる!」切羽詰まった叫びと共に、彼女はナイフの切っ先を手首に押し当てた。刃が皮膚を食い破り、鮮血がツーっと滴り落ちる。不気味な赤が、銀色の刃を伝って流れ出した。まただ。この女は、何度同じ手を使
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第576話

結局、見殺しになどできなかった。彼は踵を返して駆け戻ると、姿月の手から血濡れたナイフを蹴り飛ばした。膝をついて傷口を確認する。予想以上に深い。血はドクドクとあふれ出し、手で押さえても止まる気配がない。深雲は複雑な思いで彼女を見つめながら、手早く止血を施すと、ぐったりした体を抱え上げて車へと急いだ。陸野家が経営する私立病院へ向かいながら、研時に電話をかける。「姿月が手首を切った。今からそっちの病院へ連れて行く。救命の準備を頼む」「なんだって!?」受話器の向こうで研時が息を呑むのが分かった。深雲はそれ以上の説明を避け、電話を切った。バックミラー越しに後部座席を見る。姿月はシートに力なくもたれかかり、失血のために意識を失っていた。だが、その唇は微かに動き、うわ言のように何かを呟き続けている。耳を澄まさなくても分かった。彼女は、深雲の名を呼んでいるのだ。車が病院に滑り込むと、正面玄関にはすでに研時が医療チームを引き連れて待機していた。到着するや否や、姿月はストレッチャーに乗せられ、手術室へと運ばれていった。研時は彼女の手術室への搬入を見届けると、ようやく僅かな安堵の息を吐いた。だが、その直後には激しい怒りがこみ上げ、すぐさま深雲の姿を探した。病院の裏手にある誰もいない庭の一角で、深雲は煙草をふかしていた。「あいつに何をしたんだ?」研時は詰め寄った。「本気で深く切ってたぞ。相当追い詰められてなきゃ、あんな真似はできないはずだ!」深雲は無表情に灰を落とし、煙を吐き出した。「あいつが勝手に死のうとしただけだ。誰に止められるってんだ?」その他人事のような態度に、研時の堪忍袋の緒が切れた。彼は深雲の胸倉を掴み上げた。「ふざけるな!姿月がお前をどれだけ愛してるか、周りの誰もが知ってるんだぞ!婚約者相手に、よくもそんな冷酷な真似ができるな!」深雲は鬱陶しそうに研時の手を払い除けると、怒りに歪む友人の顔を冷ややかに見つめた。そして、不意に奇妙な笑みを浮かべた。「お前、本当に姿月のことが好きなんだな?」「なっ……馬鹿なことを言うな!」研時は狼狽し、顔を赤くして反論した。「俺はただ、か弱い女性に対するお前の仕打ちが許せないだけだ!」深雲は鼻で笑った。「研時、俺たちを騙すのは勝手だが、自分自身まで騙すなよ」彼は煙
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第577話

拘置所。佐藤刑事の引率で、景凪は手錠をかけられた雪華と面会した。鉄格子越しとはいえ、二人がこうして静かに対峙するのは初めてのことだった。雪華は長年贅沢をしてきたせいか、肌艶が良く若々しい。その厚化粧の顔を見た瞬間、景凪の脳裏に二十年前の記憶が鮮明に蘇った。病院で自分を虐げ、母の長楽を辱めたこの女の、勝ち誇った醜い笑顔。景凪は膝の上で拳を握りしめ、爪が肉に食い込む痛みで憎悪を抑え込んだ。対する雪華は、景凪を見ても罪悪感のかけらも見せなかった。それどころか、鼻で笑って見せた。「あら、あんた。母親よりもしぶといじゃないの。あんな大爆発でも死なないなんて、ゴキブリ並みね」「そうね」景凪は冷徹な眼差しで言い返した。「あなたのような害虫が生きている限り、そう簡単に死んだりはしないわ」「あんたの後ろにいる、あの男よ。あんな狂ったように命をかけて守る奴、おっかなくて手が出せないわ」雪華は椅子の背もたれにふんぞり返り、陰湿な視線を景凪に向けた。「あんたに負けたんじゃない。あの狂犬みたいな男に負けたのよ!あそこまでやる馬鹿がいるなんてね。だから認めてやるわ。全部私がやったことよ。金山九蔵を雇ってあんたを殺そうとしたのも、清音に薬を盛ったのも……全部、全部、私の単独犯行!姿月は関係ない!」景凪は冷ややかな目で、雪華のヒステリックな告白を聞いていた。滑稽な話だ。自分の娘は宝石のように大切にするくせに、他人の娘には平気で手をかけ、薬物まで使うとは。そして雪華の言う「命をかけて守る狂犬」とは、間違いなく渡のことだろう。景凪の胸がちくりと痛んだ。崖から転落した彼の安否が気にかかる。今どうしているのか、危険な状態を脱したのかさえ分からない。「ねえ穂坂景凪、実の父親が誰か、知りたいんじゃない?」雪華がにやりと笑った。「教えてあげてもいいわよ。ただし条件がある……」「小林姿月を見逃せ、って言うんでしょ?」景凪は彼女の言葉を遮り、氷のような声で先回りした。「そうよ!」雪華は即答した。どんな極悪人であれ、娘への愛だけは本物らしい。それが彼女にとって唯一にして最大の弱点だ。景凪は嘲るように笑った。「何を勘違いしてるの?今のあなたに取引する資格なんてないわ」彼女は椅子から立ち上がり、顔面蒼白になり始めた雪華を見下ろした。「あなたが全ての罪
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第578話

そこへ、車を回してきた佐藤刑事が異変に気づいて駆け寄ってくる。「穂坂さん!おい、あんたたち何者だ!」佐藤は車から飛び出し、制止しようとした。だが、後続の車両から黒服の男たちが音もなく降り立ち、彼の行く手を壁のように塞いだ。景凪は佐藤に声をかけようとしたが、瑛執がすっと前に立ちふさがった。「穂坂さん、どうぞお乗りを。彼とは私が話をつけておきますので」口調こそ丁寧だが、その体は彼女の退路を完全に断っていた。瑛執は知聿の意思そのものだ。それは提案ではなく、拒絶を許さぬ命令だった。景凪は車内の知聿を見つめ、覚悟を決めたように視線を落とした。一見すると儚げで無害な病人のように見えるこの男こそが、全てを掌握する絶対的な支配者なのだ。彼が渡を黒瀬家に連れ戻し、権力の一端を分け与えたのには理由がある。情などではない。ただ自らの延命のために、渡の血を必要としているだけなのだ。景凪が後部座席に乗り込むと、ドアは無情な音を立てて閉ざされた。知聿は外に残された瑛執を待つ素振りもなく、運転手に短く命じた。「出せ」窓という窓は遮光カーテンで覆われ、外の景色は一切伺えない。さらに運転席との仕切り板が上がり、後部座席は完全な密室と化した。狭い空間には、彼女と知聿の二人きりだ。景凪は無意識に体をずらし、距離を取りながら問いかけた。「渡は……無事なんですか?」知聿は手元のスマートフォンで何らかの処理を続けながら、あくびでも噛み殺すような口調で答えた。「ご安心を。そう簡単には死なせませんよ。たとえ本人が死にたいと願っても、黒瀬家が許さない」まるでモノのような言い草に、景凪は眉を顰めた。「それは、彼があなたを生かすための輸血袋だからですか?」知聿の手が止まった。視線を上げ、意味深な笑みを浮かべて景凪を見据える。「おや、穂坂さん……もしかして、同情なさっているのですか?」沈黙する景凪に対し、彼は冷ややかに続けた。「街娼が産んだ私生児が、黒瀬の姓を名乗れるようになったのです。感謝すべきは渡の方でしょう」景凪は冷笑を浮かべ、即座に言い返した。「随分とご都合のよろしい解釈ですね。渡の母親が街娼だと分かっていて関係を持ったお父様は、何だというのです?売る側と買う側、どちらが高尚なんですか?まさか、その街娼に誘惑されただけだなんて言い
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第579話

景凪はとある個室の前まで案内された。扉は固く閉ざされており、案内してきた看護師は中に入るのを酷く恐れているようだった。「穂坂様、渡様はこちらにいらっしゃいます。……私はこれにて失礼します」そう言い捨てるや否や、彼女は一度も振り返ることなく、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。どうやら中の彼は、決して聞き分けのいい患者ではなさそうだ。景凪は軽くノックをし、声を掛けようとした。その瞬間だ。ドンッ!と扉の内側から凄まじい衝撃音が響いた。何か重たい物が力任せに投げつけられた音だ。続いて、殺気立った渡の声が飛んでくる。「失せろ」景凪は口を閉ざした。これはただの「聞き分けが悪い」レベルではない。ドアノブに手を掛けると、鍵は掛かっていなかった。彼女は躊躇なくドアを押し開け、室内へと足を踏み入れる。足元に転がっていたのは、金属製の置物だった。直撃すればただでは済まないが、扉もその置物も相当頑丈な造りらしい。景凪はしゃがみ込んでその凶器を拾い上げ、何気ない手つきで脇の棚に戻した。ベッドの上で、渡は目を閉じたまま身動きもしない。ドアが開く気配だけで苛立ちが頂点に達しているのか、彼は掠れた低い声で威嚇した。「出て行けと言っている。さもなくば……」景凪はゆっくりと彼の枕元へ歩み寄る。「『さもなくば』、どうするつもり?」穏やかで、懐かしいその声が、静まり返った部屋に優しく染み渡った。渡の呼吸が止まる。夢でも見ているのかと思った。彼は重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。充血して赤く濁った黒い瞳の奥に、目の前に立つ彼女の姿が映り込む。夢の中で焦がれ続けた人が、今、現実にそこにいた。渡の意識が空白から現実へと引き戻される。彼は弾かれたように上体を起こし、眉間に深い皺を刻んだ。「誰に連れて来られた?」酷く掠れた声だ。厚く巻かれた胸元の包帯に、じわりと朱色が滲む。急な動きで傷口が開いたのだ。「動かないで」景凪が眉をひそめ、身体を支えようと手を伸ばす。だがその手首を、渡が力任せに掴み返した。骨が軋むほどの強さだった。彼は低い声で問う。「知聿か、知聿の仕業なのだろう……」言いかけて、渡の視線が凍りついた。景凪の白く華奢な首筋に、どす黒く鬱血した指の跡がくっきりと浮かび上がっているからだ。場の空気が一変する。渡の
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第580話

「あいつにそんな度胸はない」真剣に自分を案じてくれる彼女の姿が愛おしくて、渡の瞳の奥で笑みが深まる。俺は死ぬことなど怖くない。だが、知聿は違う。あいつは何よりも自分の命が惜しいのだ。「行ってこい。野菜を洗うのも切るのも、あの葉山にやらせればいい」彼の手が優しく離れ、景凪を促す。彼女は何度も振り返りながら、ようやく部屋を後にした。寝室には、静寂とともに兄弟二人だけが残された。扉が閉まった瞬間、渡の顔から穏やかな笑みが消え失せる。代わりに張り付いたのは、凍てつくような無表情だ。彼は自身の腕に繋がれた点滴やモニターの管を、容赦なく引き抜き始めた。「どうだ、気の利く兄だろう?」知聿は薄ら笑いを浮かべて言った。「お前が死ぬほど執着している女を、こうして目の前に連れてきてやったんだ。もし手元に置いておきたいなら、一生この梧桐苑から出られないようにしてやってもいいが?」渡は俯き、長い指でパジャマのボタンを一つきずつ丁寧に留めていく。作業を終え、ようやく顔を上げると、淡々と言い放った。「もっと近くで言え。山頂の爆発で耳がやられた。よく聞こえない」知聿は疑う様子もなく、電動車椅子をベッドの傍まで滑らせた。だが口を開く間もなかった。ドンッ!!鈍い衝撃音が室内に響いた。渡が何の前触れもなく、強烈な蹴りを見舞ったのだ。右足は負傷で動かせないため、左足での一撃だったが、威力は十分すぎるほどだった。知聿は車椅子ごと無様に転倒し、床に投げ出される。相当な音量だったはずだが、階下の景凪に聞こえる心配はない。皮肉なことに、この梧桐苑の防音設備は、超一流の施工が施されているのだから。渡は血の気のない顔でベッドから降り立つと、無造作に知聿へ歩み寄った。そして胸倉を乱雑に掴み上げ、返す刀で鉄拳を叩き込んだ。「言ったはずだ。彼女には触れるなと」美しい顔立ちが、陰惨な殺気で歪んでいる。一語一句に込められた怨嗟は、骨の髄まで凍りつかせそうなほどだ。「二度と、彼女に指一本でも触れてみろ」渡は知聿の襟元をギリギリと締め上げ、狂気を滾らせた瞳で至近距離から睨みつける。包帯の下で裂けた傷口から、どす黒い鮮血が滲み出し、彼の手のひらを伝って、知聿の純白のシャツを汚していく。渡は不気味に喉を鳴らした。「その時は……道連れにして地獄へ落ちてやる」彼は
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