All Chapters of 鷹野社長、あなたの植物状態だった奥様は子連れで再婚しました: Chapter 581 - Chapter 590

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第581話

瑛執が慌てて手を拭き、主人の元へ駆け寄って車椅子を引き継ぐ。知聿はサングラス越しに景凪の方へ顔を向けた。「穂坂さん」彼は痛む唇を歪めて笑った。「今夜は弟の世話を頼みましたよ。ああ、それから……この梧桐苑は見て回るには面白い場所です。特に三階などは――」言葉は最後まで続かなかった。背後から鋭い風切り音が迫る。瑛執が反射的に腕を上げると、銀色の何かが彼の手の甲を掠めて床に突き刺さった。果物ナイフだった。いつの間にか降りてきていた渡が、アイランドキッチンの縁に気怠げに寄りかかっている。その手元には包丁スタンドがあり、彼は今度は骨スキ包丁を抜き放って、底冷えのする笑みで瑛執を見据えていた。「おい、葉山。腕は何本あっても足りるか?」「……」瑛執が言葉を詰まらせる。知聿は鼻で笑い、短く命じた。「行くぞ」車椅子が玄関へと消え、重厚な扉が閉ざされる。渡は手にした包丁を放り投げ、元の位置に戻した。静寂が戻る。彼が顔を上げると、そこには景凪が立っていた。……自分の家の、キッチンに。背後からは、ふつふつと肉スープの煮える温かな湯気が立ち上っている。あまりに穏やかで、現実味のない光景だった。渡は急に居心地が悪くなった。ふと、彼女の慎ましいアパートの台所を思い出す。あそこには暖色の灯りが灯り、生活の匂いがあった。それに比べてここは……青白い蛍光灯が冷たく照らすだけの、まるでモデルルームのような無機質な空間だ。彼は初めて後悔した。昭野の忠告を聞いて、もう少し人間味のある内装にしておくべきだったと。もし、いつか彼女がここに立つ日が来ると知っていたなら……「そんなふうに立っていては駄目」先に沈黙を破ったのは景凪だった。彼女は渡の体重を支えきれない右足に視線を落とし、微かに眉をひそめる。すぐに彼のもとへ歩み寄り、肩を貸すように身体を滑り込ませた。「私に掴まって。ソファまで連れて行くから」「……」あまりに華奢だ。全体重を預ければ簡単に折れてしまいそうだ。渡は慌てて自分の足で踏ん張ったが、肩に回した腕だけはどうしても離すことができなかった。歩くたび、彼女の柔らかな髪がさらさらと指先をくすぐる。渡は無意識にその一房を指で絡め取ろうとしたが、すぐに思いとどまった。痛がらせてはいけない。彼は名残惜しさを押し殺し、そっと指を離した。
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第582話

知聿との接触はわずか一度きりだが、彼女には確信があった。あの男は自分のためなら、どんな禁忌も平然と犯す。渡を弟としてではなく、ただの「部品」として扱ってきたのだ。この数年間、黒瀬家という閉鎖環境の中で、渡がどれほどの地獄を見てきたのか。想像するだけで、景凪の背筋に冷たいものが走った。「あいつは生き永らえるために俺の血を欲しがり、俺は目的を果たすために黒瀬の権力と財力を利用した」渡は淡々と、まるで彼女を諭すように言った。「これは対等な取引だ、景凪」「どこが対等なのよ!」景凪は普段なら決して口にしないような乱暴な言葉を吐き出した。「命を削ってまで果たすべき目的って何?そんなものに価値があるの?」渡は彼女をじっと見つめ返し、一語一語に妄執を込めて答えた。「俺にとっては、命より価値がある」「……」景凪の瞳が激しく揺れた。その言葉の意味を理解した瞬間、彼女は呼吸ができなくなった。あまりに巨大で、重すぎる感情の津波が押し寄せ、彼女を頭から飲み込んでいく。窒息しそうなほどの圧迫感。その時、玄関の電子錠が解除される音が響いた。次の瞬間、扉が勢いよく開き、両手に包丁を握りしめた昭野が飛び込んできた。「渡さん!加勢に来たぜ……あ?」殺気立っていた昭野は、ソファに並んで座る渡と景凪を見て、その場で凍りついた。彼は慌てて包丁を投げ捨て、気まずそうにへらりと笑った。「ちぇっ、なんだよ。二人の世界にお邪魔だったか?」「……」景凪が絶句する間もなく、渡が手近なクッションを投げつけた。「減らず口を叩くな」昭野は飛んできたクッションを両手で見事にキャッチし、ニヤニヤと笑いながら近づいてくる。「いやあ、すいません景凪さん。つい口が滑っちゃって」渡さんは本気で怒っちゃいない。もし本当に怒っていたら、飛んでくるのはこんなふわふわしたクッションなんかじゃなく、もっと殺傷能力のある何かだ。「もう遅い。昭野に送らせる」渡は景凪に向き直り、穏やかに言った。「もしここに泊まっていくなら、あいつに客室を用意させるけど」昭野はクッションを抱きしめたまま、恨めしそうにぼやいた。「渡さん……俺の役回りって運転手か清掃員だけ?」それにしても、だ。景凪さんと話す時の渡さんの猫なで声ときたら。普段のあの冷血漢と同一人物とはとても思えない。「夜
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第583話

渡は自嘲めいた笑みを浮かべ、水面のように静かな声で言った。「初めて会った時、君は城の中で誕生日を祝ってもらっているお姫様だった。俺は、鉄格子の外からそれを盗み見ているただの乞食だ」景凪は息を呑んだ。記憶の彼方で埃を被っていた古い情景が、おぼろげに浮かび上がってくる。「俺にケーキをくれたのは、君が初めてだった。あの日、俺もちょうど誕生日だったんだ」彼と景凪は、同じ日に生まれたのだ。だが、母親が彼の誕生日を祝ってくれたことなど一度もない。幼い渡にとって、誕生日は悪夢と同義だった。一年のうちで最も母親の憎悪が深まる日であり、折檻が最も苛烈になる日。『なんで生まれてきたの?死になさい!死んでよ!!』人間はずっと苦痛の中にいれば、痛みなど感じなくなる。ただ感覚が麻痺していくだけだ。けれどあの日、城のお姫様が、一切れのケーキを差し出してくれた。『今日、私の誕生日なの。ケーキあげるね。あなたのお誕生日も、おめでとう』記憶の中で顔も思い出せない薄汚れた少年と、目の前の渡が重なり合い、やがて一人の生身の男として像を結ぶ。景凪は言葉を失い、立ち尽くした。何か言わなければと思うのに、喉が詰まって声が出ない。渡が手を伸ばし、彼女の冷え切った頬にそっと触れた。「それからある日、お姫様は突然姿を消した。俺は、きっと別の場所でもっと幸せに暮らしているんだろうと思っていたよ。……ずっと後になって、再会するまではな」彼の指先が優しく頬を撫でる。「再会したお姫様は、ひどく無口になっていた。昔のようによく笑うこともなく、俺のことも忘れていた」渡は皮肉っぽく口元を歪めたが、その瞳は痛いほどに優しかった。「どうすれば笑ってくれるのか分からなかった。何かしてあげたいのに、やる事なす事すべて裏目に出る。君は俺を嫌い、俺も君を嫌っていると思い込んだ。……本当はただ、惨めだったんだ。君の前でだけは、みすぼらしい自分を見せたくなかった」彼はそう言って、血の滲むような本心を、あまりにも穏やかにさらけ出した。「俺が見失っていた間に、お姫様は恋に落ちていた。それも、どうしようもない男にな」渡の喉仏がわずかに震える。「俺から見れば最低の男だった。だが、彼女は盲目的に想いを寄せていた。命懸けでな」彼は苦渋に満ちた声で続けた。「止めることはできなかった。
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第584話

渡は彼女をじっと見つめた。やがて、血の気のない唇がゆっくりと弧を描き、儚げに微笑む。「分かった。約束する」その姿はあまりに美しく、そして強靭に見える。他人の生殺与奪さえ掌の上で転がせるような男だというのに。けれど景凪の胸には、ただひたすらに切なさだけが込み上げてくる。どうして、こんなにも孤独なのだろう。一人の人間が、これほどまでに寂しく、痛ましく生きなければならなかったなんて。幼少期から今まで、彼がどうやって生き抜いてきたのか聞きたかった。けれど、その姿を見ていると、胸が詰まって言葉が出てこない。彼は決して、痛いとは言わないだろうから。屋敷を出ると、派手な赤いスポーツカーの傍らで昭野が待っていた。彼は紳士的に助手席のドアを開けてくれる。「景凪さん、どちらへ?」景凪は少し考え、明日の辰希との約束を思い出して病院を行き先に告げた。車に乗り込む前、ふと振り返る。夜の闇に沈んだ梧桐苑は果てしなく広く、漆黒の塊のようだ。母屋以外の建物は輪郭だけを鋭く切り取り、まるで獲物を待ち構える巨大な獣のように見えた。昭野はオープンルーフを閉め、滑らかに車を発進させると、ふと声を漏らした。「今夜は、ここに来て一番静かな夜だったな」景凪が怪訝そうに視線を向けると、昭野はハンドルを握りながら軽くため息をついた。「渡さん、かなり深刻な不眠症なんですよ。でも変な話で、騒がしい場所のほうが眠れるらしくてね。だから俺がよく連中を集めてパーティーを開くんです。俺たちが馬鹿騒ぎしてる横で、渡さんは部屋の隅で帽子を目深に被って、少しだけ眠るっていう」景凪は眉をひそめた。「……いつからなの?その不眠症は」「さあね。俺が四年前に海外で渡さんと出会った時には、もう薬漬けでしたよ。だんだん量が増えて、耐性がついちゃって……今じゃ薬もほとんど効かないみたいですけど」「……」そんな状態で何年も過ごし、その上、知聿の「血液バンク」として搾取され続けてきたなんて。渡が今日まで生きてこられたのは、奇跡としか言いようがない。「景凪さん。どうしてあの屋敷があんなに本邸から離れてるか、分かります?」昭野は不愉快そうにハンドルを叩いた。「あそこ、元々は黒瀬家で使わなくなった古道具を押し込んでおく『倉庫』だったんです。知聿のクソ野郎は、わざと渡さんをあそこに住
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第585話

その背後から、見覚えのある白い車が近づいてくる。眠そうに目をこすりながら、辰希がつぶやいた。「あ、桃子さん。パパの車に似てる」背の高い桃子は、辰希よりも早く、深雲の白いベントレーが近づいてくるのを認めていた。彼女は表情一つ変えず、さりげなく立ち位置を変えて辰希の視界を遮った。「見間違いですよ、坊ちゃん。深雲様は今頃、ご自宅で婚約者の姿月さんと過ごしていらっしゃるはずです。こんなところにいらっしゃるわけがありません」「……」辰希は頭をポリポリとかいた。確かに桃子の言う通りかもしれない。パパがこんな朝早くから、ママのお見舞いに来るわけないか!だって、ママのことそんなに心配してるなら、二人は絶対に離婚なんてしてないはずだもん!きっと、パパのに似てる車だっただけなんだ……「ほら、坊ちゃん。お母様がお待ちよ」桃子は辰希の手を引き、足早に病院の奥へと進んだ。一刻も早くこの場を離れたい。どうか深雲が追ってきませんようにと、心の中で必死に念じながら。だが、そんな願いも虚しく、恐れていた事態は現実となる。エレベーターホールに差し掛かったその時、背後から亡霊のように執拗な声が響いた。「桃子さん、辰希」聞き覚えのある声に、辰希は振り返った。大股で追いかけてくる深雲の姿を認めるなり、驚いて目を丸くする。桃子に握られていた小さな手が、嬉しそうに揺れた。「桃子さん、やっぱりパパだ!」桃子は言葉を失い、渋い顔をするしかなかった。数日ぶりの再会だ。いくら複雑な事情があろうとも、幼い辰希にとって父親は父親。彼は嬉々として駆け寄り、深雲の脚にしがみついた。「パパ、ママのお見舞い?でも、どうしてお髭も剃らずに、そんな恰好なの?」そう言って見上げた深雲の袖口に、乾いた赤黒い染みを見つけ、辰希の表情が曇る。「パパ、怪我してるの?」不安げな声だった。深雲は袖の汚れに目を落とした。昨夜、姿月を抱えて車に乗せた際に付着した血だ。「大丈夫、パパは怪我なんてしてないよ。ペンキがついちゃっただけだ」彼は息子に優しく言い聞かせると、視線を桃子に向けた。桃子は露骨に嫌そうな顔を浮かべ、渋々と口を開いた。「……深雲様」その冷たい態度を気にする風もなく、深雲は手にしていた洒落た保温容器と、黄色の薔薇の花束を差し出した。「車で一時間かけて
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第586話

景凪は目を覚ますと、簡単な身支度を整えて洗面所から出た。ちょうど辰希が病室に入ってくるところだった。「ママ!」「おはよう、辰希」飛びついてきた小さな体を、景凪は笑顔で受け止めた。「ママ、具合はどう?どこか痛くない?気持ち悪くない?」矢継ぎ早に質問を重ねる息子がいじらしく、胸が温かくなる。「大丈夫よ。あとで検査を受けて薬をもらえば、午後には退院できるはず」「本当?やったぁ!じゃあ今夜はおうちに帰れるね」辰希の無邪気な笑顔につられて微笑み返した景凪の視界に、桃子の抱える花束が入った。鮮やかな黄色の薔薇だ。蕾のほころび加減も絶妙で、見るからに高価な包装紙に包まれている。桃子の趣味でないことは明白だった。「桃子さん、どなたから?」尋ねると、桃子はバツが悪そうに顔をしかめた。その表情だけで、景凪は察しがついた。「……深雲様です。下でお会いしまして」「捨ててちょうだい」景凪の声は冷ややかだった。「はい」桃子は待ってましたとばかりに、躊躇なく花束をごみ箱へ放り込んだ。辰希は、自分が手にしてきた保温容器をどうすべきか迷い、困ったように視線を落とした。桃子が別に朝食を持っている以上、その中身が誰からの差し入れなのかは言うまでもない。景凪は息子の頭を優しく撫でた。「いいのよ。辰希が食べたいなら、食べなさい」いくら深雲が憎くても、息子から父親を奪うつもりはなかった。それに、深雲は完璧な父親とは言えなくとも、最低な父親でもない。少なくとも辰希にとっては、大切な存在なのだから。辰希はそっと蓋を開け、お粥を口に運んだ。「あのね、ママ。これ、ママが大好きなんだって。パパが並んで買ってくれたんだよ。すごく美味しい」「そう、好きならたくさん食べなさい」景凪は息子の口元についた米粒を静かに拭ってやった。滑稽な話だ。かつて朝早くからあの店に並んでいたのは、他ならぬ景凪自身だった。深雲のために、長い列に並んで温かいお粥を買っていたのに。――離婚してからやっと、彼が自分のために並び始めたというわけか。ごみ箱の中の黄色い薔薇を一瞥し、景凪はため息をついた。もう手遅れだ。冷めきった料理と、枯れた花。今さら差し出されたところで、そこにあるのは虚しさと苛立ちだけだった。「ママも食べる?」辰希が気遣わしげに
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第587話

「はーい。おばさん、潤一おじさんが代わるって」素直な返事と共に、スマートフォンの持ち主が変わった気配がした。「穂坂さん。体調はどう?もう回復したかな?」潤一の声はあくまで穏やかで、まるで何事もなかったかのように世間話を始めた。「お気遣いどうも。おかげさまで大事には至りませんでしたが……それより、どうしてあなたが弥生ちゃんを?」一方、電話の向こう側――都内の一等地にある高級マンション。広々としたリビングのソファに腰を下ろした潤一は、絨毯の上でパズルに興じる小さな背中を見下ろしていた。キッチンからは家政婦が朝食を準備する音が聞こえ、平和そのものに見える光景だ。だが、その平穏を打ち砕くものが一つだけあった。潤一の視線は、弥生の細い腕にくっきりと残る、つねられたような青あざに注がれていた。なるほど、あの一家が季節外れの長袖を着せ、口止めを強いていた理由がこれか。潤一の瞳に痛ましげな色が浮かぶ。昨夜、女医を呼んで診察させた時のことだ。「どうしたの?痛くない?」と聞かれた弥生は、即答するどころか、怯えたように潤一の顔色を窺ったのだ。彼が眉をひそめているのを見て、自分が怒られていると勘違いしたのだろう。女の子は小さく身を縮め、「痛くない」と首を横に振った。それは明らかに、日常的に虐げられ、常に大人の顔色を伺って生きる子供特有の反応だった。「児玉さん?」返事がないのを不審に思い、景凪は眉を寄せて呼びかけた。「ああ、すまない。……電話で説明するのは難しいな。いつ退院できる?弥生ちゃんも君に会いたがってるし、迎えに行くよ。それに祖父も君のことが心配でたまらないらしくてね。一度顔を見て、報告させてもらえると助かる」景凪にとって断りようのない口実を、潤一は巧みに並べ立てた。少し迷った末、彼女は折れた。「わかったわ。今日の午後には退院できると思う」潤一は腕時計に目を遣った。「じゃあ、レストランを予約しておくよ。夕方六時に迎えに行っていいかな?」「ええ、お願い」約束を取り付けると、潤一は小さく口角を上げ、スマートフォンを弥生に手渡した。「ほら、弥生ちゃん。穂坂さんに『また夜にね』って」「うん。……おばさん、また夜にね」「ええ、またあとでね」そこへ、脇で会話を聞いていた辰希が我慢できずに口を挟んだ。「
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第588話

渡のメッセージアプリには、たった一人だけピン留めされた相手がいた。登録名は「お姫様」。何気なく開いたチャット画面の上部に、【入力中……】の表示が現れたのを目ざとく見つけていたのだ。しばらく待ったが、表示は消えてしまった。だが、渡がそれを見過ごすはずがない。再び【入力中……】が現れ、今度こそメッセージが届いた。お姫様:【起きてた?昨夜はよく眠れた?今日の具合はどう?】渡は並んだ疑問符を眺め、音もなく唇の端を吊り上げた。渡:【ああ。まあまあだ。昨日よりはマシかな】彼女の問いかけ一つ一つに、律儀に答えていく。景凪は画面を見つめ、唇を真一文字に結んだ。考えてみれば、渡の周りには何でも揃っている。知聿にとって彼は命綱のような存在だ。最高の医療チームがついているし、一流の栄養士だって管理しているはず……今の自分にできることなど、ほとんどないのかもしれない。唯一できることがあるとすれば、彼の身体を根本から立て直すための処方箋を、一刻も早く見つけることくらいだ。そう思案していた正にその時、またしても渡からメッセージが届いた。渡:【電話できるか?】景凪が【いいよ】と返信するなり、通話アイコンが光った。通話ボタンを押す指が、なぜか少し震える。「もしもし……」耳元に響いたのは、渡特有の、落ち着いたかすれ声だった。聞いているだけで、不思議と心が安らぐ。「この二、三日、そっちには行けそうにない。何か困ったことがあったら、遠慮なく影山に連絡してくれ」「私の方は大丈夫よ、影山さんの手を借りるほどのことはないわ。それより……」景凪の声色が、急に厳しくなった。「あなたの方こそ、自分の身を一番に考えて。しばらくの間、少なくとも今週一杯は、絶対に知聿に血を抜かせては駄目だからね!」本気で心配しているのが伝わる響きだった。彼女が治療法を見つけるまで、これ以上、渡の体をボロボロにさせるわけにはいかないのだ。渡は電話の向こうで、音もな「それじゃあ、他に用件がなければ……」く笑った。「ああ、わかった」「穂坂景凪」不意にフルネームで呼ばれ、景凪の背筋が伸びた。「何かしら?」身構える彼女に、渡は真面目腐った声で続けた。「一つだけ、用があるんだ」「言って」「……どうしても君に会いたくなったら、会
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第589話

「ありがとう、弥生ちゃん」景凪は微笑んで花束を受け取ると、腰を屈めて弥生の頭を撫でた。その手触りに違和感があった。今日の弥生は、どこか様子が違う。いつもは適当に結わえただけの髪が、愛らしい二つ結びに整えられ、花のピンまで飾られている。見違えるほど上質なワンピースをまとい、何より、その瞳に宿る光が普段よりも鮮やかだった。ふと、景凪の視線が、弥生の腕に残る青あざに釘付けになった。胸が締め付けられる思いで、そっとその傷跡に触れる。その慈愛に満ちた表情を、潤一は見逃さなかった。彼の瞳の奥で、静かな感情の波紋が広がるが、すぐにその輝きを隠し、平静を装った。辰希にとっては二度目の対面だ。彼は目の前に現れた長身の男性を、まじまじと観察した。「初めまして、辰希くん。児玉潤一だ。君のお母さんの友人で、弥生のおじさんだよ」差し出された大きな手を、辰希は小さな手で握り返した。「こんにちは、児玉おじさん。鷹野辰希です。辰希って呼んでください」四人は車に乗り込んだ。運転手は連れておらず、潤一自らがハンドルを握る。後部座席には子供たち、景凪は助手席へと座った。当初、弥生は一人でタブレットのアニメに夢中だったが、隣でちらちらと画面を盗み見る辰希の視線に気づいたのだろう。やがて二つの小さな頭が寄り添い、画面の中のドタバタ劇にけらけらと笑い声を上げるようになった。景凪はバックミラー越しに潤一の横顔を盗み見た。聞きたいことは山ほどあるが、子供たちの手前、今は口をつぐむしかない。潤一が予約していたのは、洗練された雰囲気の隠れ家的なレストランだった。特筆すべきは、ガラス張りの窓の外だ。まるでサファリパークのように、本物の動物たちが悠々と歩き回る姿を間近に見ることができる。子供たちが歓声を上げて窓に張り付くのを見計らい、景凪は声を潜めて切り出した。「児玉さん、単刀直入にお聞きします。あなたと弥生ちゃんの本当の関係は?それに、あの子の傷は……」潤一は、窓の向こうのシマウマを指差してはしゃぐ弥生の姿に、冷ややかな声で応じた。だが、その眼差しには確かな慈愛が宿っていた。「弥生ちゃんの両親は、国境なき医師団に参加していた。とある紛争地帯で、負傷した兵士や民間人の治療にあたっていた最中、夫婦共に爆発に巻き込まれて命を落としたんだ」あま
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第590話

「どうしたの?そんなとこで立ち止まって」一足遅れて伊雲が店に入ってきた。昨夜は鷹野家の本邸に泊まっていた清音を、伊雲が幼稚園へ迎えに行き、そのまま深雲と合流して食事をすることになったのだ。清音が動物好きということもあり、ネットで評判の良いこの店を選んだ。駐車場の空きを探していた伊雲は、先に店に入った兄と姪が、なぜか入口で棒立ちになっているのを見て首を傾げた。「お兄ちゃん、私が予約したのは窓際の席……」言いかけて、言葉が止まった。視線の先に、憧れの人の横顔を見つけたからだ。潤一だ。胸が早鐘を打つ。だが、次の瞬間、高鳴る胸は冷水を浴びせられたように凍りついた。彼と同じテーブルに座っている女――それは、紛れもなく景凪だった。「なんで……?」伊雲の顔色が変わる。どうして穂坂景凪が、あの人と一緒にいるの?よく見れば、辰希の隣には見知らぬ女の子も座っている。潤一がその子のためにナイフでハンバーグを切り分けてやる仕草は、ひどく親密に見えた。伊雲の眉間に深い皺が刻まれる。潤一に、あんな大きな隠し子がいるなんて噂、一度も聞いたことがない。「ねえ、お兄ちゃん。これどういうこと?なんであの女が潤一さんと一緒にいるわけ?それにあの子……」「行くぞ」深雲は冷たく遮り、清音の手を引いて予約席へと歩き出した。伊雲は唇を噛み締め、景凪を睨みつけながら、しぶしぶ後を追った。ふと顔を上げた辰希の視界を、見慣れた背中が横切ったような気がした。あれ、パパと伊雲おばちゃん……それに清音ちゃん?辰希は思わず隣の母親を見上げた。景凪は何食わぬ顔で料理を取り分けている。彼は口を開きかけて、やめた。どうせママは会いたくないだろうし、自分だって清音ちゃんにはまだ腹を立てている最中なのだ。余計なことは言わないでおこう。辰希は黙ってブロッコリーを口に運んだ。伊雲が確保した席は、店内で最も眺望の良い窓際だった。片側は配膳用の通路で、もう一方には目隠しのカーテンが下がっている。お忍びで食事を楽しむには、うってつけのプライバシー空間だ。普段なら動物番組に釘付けになる清音だが、今はガラス越しの愛らしい小動物たちに見向きもしない。すっかり意気消沈した様子で、フォークで皿の上の料理をあてもなく突っついている。深雲はステーキをひと口大に切り分けると
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